石原裕次郎

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石原裕次郎 - (2019/07/19 (金) 11:07:38) の1つ前との変更点

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&font(#6495ED){登録日}:2019/07/18 (木) 00:00:08 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 8 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &font(b,150%){美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。} *◆石原裕次郎 &bold(){“タフガイ”『石原裕次郎』}は1934年12月28日生まれの日本の俳優、歌手 、声優、司会者、モデル、実業家、ヨットマン。 1987年7月17日没。享年52歳。戒名陽光院天真寛裕大居士。 冒頭の文は横浜市鶴見区の總持寺にある墓所の墓石に刻まれているもの。 昭和を代表する大スターであり、石原プロモーションの創設者としても知られ、大都会シリーズや[[西部警察>西部警察(刑事ドラマ)]]を生み出した タフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージローの愛称で親しまれ、歌手としても多数のヒットを残している。 伴侶のまき子夫人(北原三枝)とは、映画『狂った果実』での共演をきっかけに知り合った。当時裕次郎とまき子夫人は同じ映画会社に所属していたが、この頃は同じ会社のスター同士の恋愛がタブーだった時代であり、マスコミに騒がれることを嫌ってアメリカに高飛びしていた。 後に日活の元社長の説得で日本に帰国し、羽田空港で日本の芸能人として初の記者会見を開いた。なお芸能人の記者会見第2号も裕次郎・まき子夫妻である。 まき子夫人は2019年現在も健在であり、33回忌に参列した石原軍団、ファンを前にコメントを発表している。 デビューから1960年代までは映画を中心に活躍し、1963年に石原プロモーションを設立。70年代からはテレビにも積極出演するようになった。 兄は小説家・政治家の石原慎太郎。甥に%%お笑い芸人%%気象予報士の石原良純、政治家の石原伸晃、石原宏高がいる。 裕次郎・まき子夫妻の間に子供はいなかったが、甥の石原宏高を養子に貰いたがっていたという。 *◆来歴 **【生い立ち~映画デビューに至るまで】 生まれは兵庫県神戸市須磨区。父親は海運会社の社員であり、仕事の都合で幼稚園と小学校時代を小樽で、中学校入学以降を逗子で過ごす。 慶應義塾農業高等学校に入学後の1951年、慶應義塾高校に編入学。 卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に進学。在学中は主要な映画会社のオーディションを何社も受けたが尽く落選。 更に叩き上げで役員にまで昇進した父親が亡くなり、ショックから自暴自棄になった裕次郎は家にあった金目の物を盗んでは売り払い、得た金は歓楽街での遊びに使い果たすという荒れた生活を送る。 その様子を心配した兄の慎太郎は自身の著作『太陽の季節』の映画化を持ちかけられた際、プロデューサーに &bold(){「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…」} と語った。プロデューサーが裕次郎出演を快諾したことで脇役ながら出演することとなり、主演に匹敵する存在感を示し注目を集めることとなった。 その後大学を中退し、日活に俳優として入社した。 **【日活時代】 日活入社後、映画『狂った果実』の滝島夏久役で初主演を果たす。本作も兄慎太郎の著作を映画化した作品で、裕次郎はシナリオを書き上げるために有楽町のホテルにカンヅメになっていた兄に付き添い、兄が早く書ける左手で書いた原稿をきれいに清書していた。 セリフ覚えがあまりよくなかった裕次郎は清書に付き合いながら、自分のセリフが少なくなるよう兄に催促していたという。 狂った果実公開と同年に歌手デビュー。デビューシングルのタイトルは映画と同じ『狂った果実』 翌年にはNHK紅白歌合戦に雪村いづみの応援として出場。以後死去するまで一度も紅白に出ることはなかった。 赤いハンカチ、銀座の恋の物語、二人の世界などトリプルミリオン・ダブルミリオンを達成した曲は多く、NHK側も出場オファーを出していたのだが、毎年断っていたという。 またカヴァー曲の多さも同時期の歌手としては豊富で、分かっている範囲でも200曲のカヴァーを発表している。その中には「ジングルベル」や「赤とんぼ」のような童謡もあれば、「スーダラ節」、「上を向いて歩こう」など他の歌手のヒット曲もある。 主演作はどれもヒットを連発し、スター街道を躍進していた。 1960年、まき子夫人と結婚。前述の通り、スター同士の結婚に理解のなかった時勢から、日活の元社長が説得するまで2人で日本を離れ、アメリカへ高飛びしていた。 **【石原プロモーション設立から晩年】 裕次郎を芸能界へと引き込んだプロデューサーと共に経営していた「石原商事」を母体に、1963年「石原プロモーション」を設立。 設立から10年ほどは裕次郎の&bold(){大会社に作れない映画を作る}という理想の元、自身が主演する -ヨットマンの青年がヨットでの太平洋横断にチャレンジする様子を「回想」という形で描いた『&bold(){太平洋一人ぼっち}』 -黒部ダム建設に関わるトンネル工事に挑む男達の奮闘を描く『&bold(){黒部の太陽}』 -風来坊のレーサーが過酷なラリーに挑む『&bold(){栄光への5000キロ}』 などを制作。経営が潤った時期もあったが、収益の殆どが次回作の制作に回されたのと映画の斜陽化が重なったのもあり、経営面では苦しい時期が続いた。 元々は映画製作も手がける裕次郎の個人事務所に過ぎなかったが、裕次郎を慕った渡哲也が日活から移籍してきたのを皮切りに裕次郎以外の俳優のマネジメントも行うようになった。 1972年、裕次郎はそれまで拒否していたテレビへの出演を解禁。 テレビに出たがらなかった理由は影響力が映画より小さすぎると評価していたからだが、(嫌々ながら)出演した『太陽にほえろ!』のボス役が大反響を呼び、テレビ出演に対して積極的になったという。 当時石原プロには10億円近い多額の借金を抱えており、自分の理想を実現しながらも借金を返済して会社を立て直すべく自社でのテレビドラマ制作に着手。 第1作目として『大都会 闘いの日々』が1976年1月から放送をスタート。以前にもテレビドラマ制作の実績はあったが、それらは他社との共同制作かテレビ局の下請けであり、本格的な制作への関与はこれが初めてとなる。 大都会シリーズは大ヒットし、スポンサーも大勢付いて全3作が制作されたが、借金の完済には程遠かった。 これは制作に際してスポンサーと制作会社の間に広告代理店が挟まるため、手数料としてスポンサー料を一部天引きされるからだった。 そんな時にテレビ朝日から &bold(){「ウチと直接契約してドラマ作ってよ!」} というお誘いが来た。直接契約ということは間に挟まる広告代理店が無い分、自社の取り分が増えることとなる。こんな美味しい話を逃す訳にはいかないと言わんばかりにテレビ朝日と契約。 大都会シリーズをよりスケールアップさせたアクション刑事ドラマ『[[西部警察>西部警察(刑事ドラマ)]]』が誕生するに至った。 西部警察も大ヒットしたことで10億円近い多額の借金を綺麗さっぱり返してしまった上、数十億円に及ぶ企業資産の形成にも成功した。本作で裕次郎は石原軍団演じる大門軍団を束ねる「ボス」として出演し、制作統括としてもクレジットされた。 1980年、自宅敷地内から古墳時代の遺跡、土器が発見された。 西部警察撮影中の1981年4月、慶應義塾大学病院へ緊急入院。後に解離性大動脈瘤という当時の医療技術での生還率が数%という非常に低い病気であることが判明。話数に換算して約10ヶ月ボスは休職した。 手術を受け、奇跡的に回復を果たした裕次郎は入院中も応援してくれた視聴者・ファンへの感謝の表明と回復した姿を見てもらうため、西部警察PART-II以降のロケを地方で行うようになった。 大動脈瘤の治癒後も大病に悩まされた。 1984年、肝臓がんが発覚。前の定期検診で肝細胞癌であることが判明していたが、裕次郎本人に癌が出来た事は告知されなかった。 1986年5月、肝内胆管炎による高熱が続き、慶應義塾大学病院へ入院。2ヶ月ほどで退院し、以後ハワイで療養生活を送った。 翌年4月20日に日本へ帰国したが、すぐに慶應義塾大学病院へ2週間ほど入院。一旦退院したものの、わずか3日で再入院。肝性脳症を発症し、ついに意識不明に陥る。 医師による懸命の治療も虚しく、7月17日夕方、タフガイ裕次郎は天国へと旅立っていった。52歳という若さであった。 死去後、命日前後には石原軍団やファンが参列する年忌が毎年のように執り行われたが、2019年の33回忌を最後に弔い上げとすることがまき子夫人の口から発表された。 ちなみに命日の7月17日は別名紫陽花忌とも呼ばれる。 *◆【人柄・その他】 -食べることが好きで様々な料理を好んだが、鶏肉は苦手だったとか。 -酒豪でも有名で、「&bold(){ビールは酒ではない。水だ}」と言う理屈から、撮影所にはビールを冷やすための冷蔵庫が置かれていた。 -晩年は玄米パンと野菜サラダを食事のメインとし、塩分1日6グラムの食事制限も律儀に守っていた。大好きだった酒も控えるようになり、パーティではビールをコップ1杯飲む程度に控えていた。 -石原プロ名物の炊き出しは裕次郎の考案によるもの。これはとあるロケで豪華な弁当を役者が食べていたのに、スタッフは質素な弁当を食べていたのを見た裕次郎が&bold(){「作品は一緒に作っているんだ!裏方も役者も一緒だ!食べるものが同じでなければ同じ気持ちになれない!」}と激怒したのがきっかけ。&br()余談だが、石原プロが所有する炊き出しセットは、陸上自衛隊の野外炊具1号と同等の性能を持つ民生品だとか。 -石和温泉で毎年のように開かれていた業界人相手の接待会で行われていた抽選会では前もって裏方の番号を把握し、外車や海外旅行券といった豪華賞品は必ず裏方のスタッフに行き渡るようにしていた。 -メルセデス・ベンツ・300SLガルウィングクーペ、ロールス・ロイス・シルヴァースピリット、キャデラックなど複数の高級外国車を所有していた。特に300SLガルウィングクーペは、日本での所有者は裕次郎以外に2人しかいなかったという。 -とにかく礼儀正しい人で、撮影所のスタッフや共演する役者は勿論の事、守衛や食堂のおばちゃんにも挨拶して回り、挨拶の時は自分が座っていても必ず立ち上がって握手をした。 -石原プロの経営が苦しかった時期に家のない社員全員のために家を建ててプレゼントしたことがある。 -勝新太郎とは互いを「兄弟」と呼び合うほど親交が深く、勝と中村玉緒の夫婦喧嘩の仲裁が出来たのは裕次郎だけだったという。また勝の葬儀で裕次郎が読み上げた弔辞は有名。 -石原プロ制作映画の中に近年までテレビ放送されたり、ソフト化される機会に恵まれなかったものがあるのは裕次郎の「映画はスクリーンで見てもらいたい」という意向によるもの。 *◆【石原裕次郎記念館】 裕次郎が幼少時代を過ごした北海道小樽市に1991年に開館。愛車のロールスロイスや西部警察の撮影で使用されたガゼールオープン、スーパーZ、マシンRSの他、映画『黒部の太陽』の撮影で使用されたセット、裕次郎ゆかりの品が多数展示されていた。 2017年8月、建物の老朽化を理由に閉館。所蔵品は小樽市などに寄贈された。 追記・修正、ありがとう #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - コイツが何であんなに神格化されてるのか理解できん -- 名無しさん (2019-07-18 19:35:42) - その時代の人じゃないと分かんない所もあるよね -- 名無しさん (2019-07-19 00:27:12) - 病気で倒れた際にいた場所はアレな場所だったことは有名な話。 -- 名無しさん (2019-07-19 07:12:35) - ↑どこ?風俗? -- 名無しさん (2019-07-19 09:03:00) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2019/07/18 Thu 00:00:08 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 8 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- &font(b,150%){美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。} *◆石原裕次郎 &bold(){“タフガイ”『石原裕次郎』}は1934年12月28日生まれの日本の俳優、歌手 、声優、司会者、モデル、実業家、ヨットマン。 1987年7月17日没。享年52歳。戒名は陽光院天真寛裕大居士。 冒頭の文は横浜市鶴見区の總持寺にある墓所の墓石に刻まれているもの。 昭和を代表する大スターであり、石原プロモーションの創設者としても知られ、大都会シリーズや[[西部警察>西部警察(刑事ドラマ)]]を生み出した。 タフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージローの愛称で親しまれ、歌手としても多数のヒットを残している。 伴侶のまき子夫人(北原三枝)とは、映画『狂った果実』での共演をきっかけに知り合った。当時裕次郎とまき子夫人は同じ映画会社に所属していたが、このころは同じ会社のスター同士の恋愛がタブーだった時代であり、マスコミに騒がれることを嫌ってアメリカに高飛びしていた。 のちに日活の元社長の説得で日本に帰国し、羽田空港で日本の芸能人として初の記者会見を開いた。なお芸能人の記者会見第2号も裕次郎・まき子夫妻である。 まき子夫人は2019年現在も健在であり、33回忌に参列した石原軍団、ファンを前にコメントを発表している。 デビューから1960年代までは映画を中心に活躍し、1963年に石原プロモーションを設立。70年代からはテレビにも積極出演するようになった。 兄は小説家・政治家の石原慎太郎。甥に%%お笑い芸人%%気象予報士の石原良純、政治家の石原伸晃、石原宏高がいる。 裕次郎・まき子夫妻の間に子供はいなかったが、甥の石原宏高を養子に貰いたがっていたという。 *◆来歴 **【生い立ち~映画デビューに至るまで】 生まれは兵庫県神戸市須磨区。父親は海運会社の社員であり、仕事の都合で幼稚園と小学校時代を小樽で、中学校入学以降を逗子で過ごす。 慶應義塾農業高等学校に入学後の1951年、慶應義塾高校に編入学。 卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に進学。在学中は主要な映画会社のオーディションを何社も受けたがことごとく落選。 さらに叩き上げで役員にまで昇進した父親が亡くなり、ショックから自暴自棄になった裕次郎は家にあった金目の物を盗んでは売り払い、得た金は歓楽街での遊びに使い果たすという荒れた生活を送る。 その様子を心配した兄の慎太郎は自身の著作『太陽の季節』の映画化を持ちかけられた際、プロデューサーに &bold(){「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…」} と語った。プロデューサーが裕次郎出演を快諾したことで脇役ながら出演することとなり、主演に匹敵する存在感を示し注目を集めることとなった。 その後大学を中退し、日活に俳優として入社した。 **【日活時代】 日活入社後、映画『狂った果実』の滝島夏久役で初主演を果たす。 本作も兄慎太郎の著作を映画化した作品で、裕次郎はシナリオを書き上げるために有楽町のホテルにカンヅメになっていた兄に付き添い、兄が早く書ける左手で書いた原稿をきれいに清書していた。 セリフ覚えがあまりよくなかった裕次郎は清書に付き合いながら、自分のセリフが少なくなるよう兄に催促していたという。 狂った果実公開と同年に歌手デビュー。デビューシングルのタイトルは映画と同じ『狂った果実』。 翌年にはNHK紅白歌合戦に雪村いづみの応援として出場。以後、死去するまで一度も紅白に出ることはなかった。 赤いハンカチ、銀座の恋の物語、二人の世界などトリプルミリオン・ダブルミリオンを達成した曲は多く、NHK側も出場オファーを出していたのだが、毎年断っていたという。 またカヴァー曲の多さも同時期の歌手としては豊富で、分かっている範囲でも200曲のカヴァーを発表している。その中には「ジングルベル」や「赤とんぼ」のような童謡もあれば、「スーダラ節」、「上を向いて歩こう」など他の歌手のヒット曲もある。 主演作はどれもヒットを連発し、スター街道を躍進していた。 1960年、まき子夫人と結婚。前述の通り、スター同士の結婚に理解のなかった時勢から、日活の元社長が説得するまで2人で日本を離れ、アメリカへ高飛びしていた。 **【石原プロモーション設立から晩年】 裕次郎を芸能界へと引き込んだプロデューサーと共に経営していた「石原商事」を母体に、1963年「石原プロモーション」を設立。 設立から10年ほどは裕次郎の&bold(){大会社に作れない映画を作る}という理想のもと、自身が主演する -ヨットマンの青年がヨットでの太平洋横断にチャレンジする様子を「回想」という形で描いた『&bold(){太平洋一人ぼっち}』 -黒部ダム建設に関わるトンネル工事に挑む男達の奮闘を描く『&bold(){黒部の太陽}』 -風来坊のレーサーが過酷なラリーに挑む『&bold(){栄光への5000キロ}』 などを制作。経営が潤った時期もあったが、収益のほとんどが次回作の制作に回されたのと、映画の斜陽化が重なったのもあり、経営面では苦しい時期が続いた。 もともとは映画製作も手がける裕次郎の個人事務所に過ぎなかったが、裕次郎を慕った渡哲也が日活から移籍してきたのを皮切りに裕次郎以外の俳優のマネジメントも行うようになった。 1972年、裕次郎はそれまで拒否していたテレビへの出演を解禁。 テレビに出たがらなかった理由は影響力が映画より小さすぎると評価していたからだが、(嫌々ながら)出演した『&bold(){太陽にほえろ!}』のボス役が大反響を呼び、テレビ出演に対して積極的になったという。 当時石原プロには10億円近い多額の借金を抱えており、自分の理想を実現しながらも借金を返済して会社を立て直すべく自社でのテレビドラマ制作に着手。 第1作目として『&bold(){大都会 闘いの日々}』が1976年1月から放送をスタート。以前にもテレビドラマ制作の実績はあったが、それらは他社との共同制作かテレビ局の下請けであり、本格的な制作への関与はこれが初めてとなる。 大都会シリーズは大ヒットし、スポンサーも大勢付いて全3作が制作されたが、借金の完済にはほど遠かった。 これは制作に際してスポンサーと制作会社の間に広告代理店が挟まるため、手数料としてスポンサー料を一部天引きされるからだった。 そんな時にテレビ朝日から &bold(){「ウチと直接契約してドラマ作ってよ!」} というお誘いが来た。直接契約ということは間に挟まる広告代理店が無いぶん、自社の取り分が増えることとなる。こんな美味しい話を逃すわけにはいかないと言わんばかりにテレビ朝日と契約。 大都会シリーズをよりスケールアップさせたアクション刑事ドラマ『&bold(){[[西部警察>西部警察(刑事ドラマ)]]}』が誕生するに至った。 西部警察も大ヒットしたことで10億円近い多額の借金を綺麗さっぱり返してしまった上、数十億円に及ぶ企業資産の形成にも成功した。本作で裕次郎は石原軍団演じる大門軍団を束ねる「ボス」として出演し、制作統括としてもクレジットされた。 1980年、自宅敷地内から古墳時代の遺跡、土器が発見された。 西部警察撮影中の1981年4月、慶應義塾大学病院へ緊急入院。のちに「解離性大動脈瘤」という当時の医療技術での生還率が数%という非常に低い病気であることが判明。話数に換算して約10ヶ月ボスは休職した。 手術を受け、奇跡的に回復を果たした裕次郎は入院中も応援してくれた視聴者・ファンへの感謝の表明と回復した姿を見てもらうため、西部警察PART-II以降のロケを地方で行うようになった。 大動脈瘤の治癒後も大病に悩まされた。 1984年、肝臓がんが発覚。前の定期検診で肝細胞癌であることが判明していたが、裕次郎本人に癌が出来た事は告知されなかった。 1986年5月、肝内胆管炎による高熱が続き、慶應義塾大学病院へ入院。2ヶ月ほどで退院し、以後ハワイで療養生活を送った。 翌年4月20日に日本へ帰国したが、すぐに慶應義塾大学病院へ2週間ほど入院。いったん退院したものの、わずか3日で再入院。肝性脳症を発症し、ついに意識不明に陥る。 医師による懸命の治療も虚しく、7月17日夕方、タフガイ裕次郎は天国へと旅立っていった。52歳という若さであった。 死去後、命日前後には石原軍団やファンが参列する年忌が毎年のように執り行われたが、2019年の33回忌を最後に弔い上げとすることがまき子夫人の口から発表された。 ちなみに命日の7月17日は別名紫陽花忌とも呼ばれる。 *◆【人柄・その他】 -食べることが好きで様々な料理を好んだが、鶏肉は苦手だったとか。 -酒豪でも有名で、「&bold(){ビールは酒ではない。水だ}」と言う理屈から、撮影所にはビールを冷やすための冷蔵庫が置かれていた。 -晩年は玄米パンと野菜サラダを食事のメインとし、塩分1日6グラムの食事制限も律儀に守っていた。大好きだった酒も控えるようになり、パーティではビールをコップ1杯飲む程度に控えていた。 -石原プロ名物の炊き出しは裕次郎の考案によるもの。これはとあるロケで豪華な弁当を役者が食べていたのに、スタッフは質素な弁当を食べていたのを見た裕次郎が&bold(){「作品は一緒に作っているんだ!裏方も役者も一緒だ!食べるものが同じでなければ同じ気持ちになれない!」}と激怒したのがきっかけ。&br()余談だが、石原プロが所有する炊き出しセットは、陸上自衛隊の野外炊具1号と同等の性能を持つ民生品だとか。 -石和温泉で毎年のように開かれていた業界人相手の接待会で行われていた抽選会では前もって裏方の番号を把握し、外車や海外旅行券といった豪華賞品は必ず裏方のスタッフに行き渡るようにしていた。 -メルセデス・ベンツ・300SLガルウィングクーペ、ロールス・ロイス・シルヴァースピリット、キャデラックなど複数の高級外国車を所有していた。特に300SLガルウィングクーペは、日本での所有者は裕次郎以外に2人しかいなかったという。 -とにかく礼儀正しい人で、撮影所のスタッフや共演する役者はもちろんのこと、守衛や食堂のおばちゃんにも挨拶して回り、挨拶のときは自分が座っていても必ず立ち上がって握手をした。 -石原プロの経営が苦しかった時期に家のない社員全員のために家を建ててプレゼントしたことがある。 -勝新太郎とは互いを「兄弟」と呼び合うほど親交が深く、勝と中村玉緒の夫婦喧嘩の仲裁が出来たのは裕次郎だけだったという。また勝の葬儀で裕次郎が読み上げた弔辞は有名。 -石原プロ制作映画の中に近年までテレビ放送されたり、ソフト化される機会に恵まれなかったものがあるのは裕次郎の「映画はスクリーンで見てもらいたい」という意向によるもの。 *◆【石原裕次郎記念館】 裕次郎が幼少時代を過ごした北海道小樽市に1991年に開館。愛車のロールスロイスや西部警察の撮影で使用されたガゼールオープン、スーパーZ、マシンRSの他、映画『黒部の太陽』の撮影で使用されたセット、裕次郎ゆかりの品が多数展示されていた。 2017年8月、建物の老朽化を理由に閉館。所蔵品は小樽市などに寄贈された。 追記・修正、ありがとう #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,3) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - コイツが何であんなに神格化されてるのか理解できん -- 名無しさん (2019-07-18 19:35:42) - その時代の人じゃないと分かんない所もあるよね -- 名無しさん (2019-07-19 00:27:12) - 病気で倒れた際にいた場所はアレな場所だったことは有名な話。 -- 名無しさん (2019-07-19 07:12:35) - ↑どこ?風俗? -- 名無しさん (2019-07-19 09:03:00) #comment #areaedit(end) }

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