ベルリンの壁崩壊

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ベルリンの壁崩壊」を以下のとおり復元します。
&font(#6495ED){登録日}:2012/10/02(火) 21:13:25
&font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red)
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*◆概要
1989年11月9日に当時のドイツ民主共和国(以下東ドイツor東独)政府が、東独国民に対して突如旅行の規制を大幅に緩和すると発表したことにより、
東ドイツの中にあった西ベルリンを囲うように設置されていた「ベルリンの壁」が事実上意味をなさなくなって崩壊した革命のこと。

この時既に、ソビエト連邦(以下ソ連)のアザハg…もとい、ミハイル・ゴルバチョフ書記長による「ペレストロイカ」政策や、
ソ連の事実上の衛星国家となっていた東ヨーロッパ諸国への関与を極力控えることを宣言した「ベオグラード宣言」により、東西両陣営は完全に雪解け状態であった。

だが、ベルリンの壁だけは東西[[冷戦]]という枠を飛び越えて、欧州全体の安定がまかり間違った場合、&font(#ff0000){「第三次世界大戦」}に繋がる可能性が否定できなかった為、
様々な意味で崩壊はほぼ不可能として東西両陣営ともある意味棚上げにしていた。
崩壊した時は世界中から驚きの声が上がったという。


*◆改革までの流れ
東独は社会主義陣営の中で比較的経済状態が良く「社会主義の優等生」という触れ込みであった。

だが、実際には1970年代後半に起きた「オイルショック」による物価の高騰により計画経済の限界が露呈。
更に官僚の汚職やドイツ社会主義統一党による一党独裁体制による弊害が次第に目立ち始め、
当時党の書記長であったエーリッヒ・ホーネッカーに対する不満が募りつつあった。

ゴルバチョフによるペレストロイカにより東欧共産国家が次々と民主化に突き進み、東独国民の間でも民主化への機運が高まっていくが、
ホーネッカーは秘密警察を使って徹底的に反体制派を封じ込めた。
よりにもよってソ連のペレストロイカの進捗具合を掲載していたソビエトの雑誌すら発禁処分にしたために、足元の統一党からも改革派を中心に反感を買う。

そんな中、一党独裁体制を放棄した隣国のハンガリー政府が、中立国であるオーストリアとの国境沿いに設置された鉄条網を撤去。
これを聞いた東独の人々は、[[夏休み]]中の休暇という触れ込みでビザを取得し、合法的にハンガリーへ入国、オーストリア経由で西ドイツのボンへ逃げ出す(ピクニック事件)。

東独政府はハンガリーへの渡航制限を実行するも、
&bold(){ビロード革命}によって複数政党制による民主主義国家へ移行することになったチェコスロバキアや、
一足早く自由選挙による政府となっていたポーランドとの自由な越境協定が生きていた為、東独の人々は今度はこちらへ殺到。

にっちもさっちもいかなくなった東独はついに国境を&font(#ff0000){全て封鎖}。

この時点でホーネッカーへの風当たりは強まる一方であったが、彼自身は事態の深刻さに気付いていなかったようである。
そして、ホーネッカーは東ドイツ建国40周年の記念式典に出席するゴルバチョフから「現在の東独政府を支持する」という発言を貰う事に期待し、
書記長の座に留まり続けたのだ。


*◆改革へ
だが、ホーネッカーの期待は脆くも崩れ去る。

東独建国40周年式典でのゴルバチョフの式辞はこんなものだった。
&bold(){ゴルビー:「遅れてくる者は人生に罰せられる」}

ゴルバチョフは公式の場である記念式典において暗にホーネッカーを批判したのだ。
さらにゴルバチョフの答弁中に参加者から「ゴルビー!ゴルビー!」というシュプレヒコールまで起きる始末となり、こうしてホーネッカーの権威は地に堕ちた。

この直後からライプツィヒ等で&bold(){月曜デモ}と呼ばれる反体制派によるデモが発生。

徐々に大規模化し、ホーネッカーは武力鎮圧を検討するもライプチヒの管弦楽団の団長に反対され頓挫。

東独に駐留するソ連軍も、ゴルビーの指示で静観する事を伝達された為、逆にデモは激しさを増していく。

ホーネッカーは部下から反旗を翻されて書記長を解任され、失意の中で歴史の表舞台から去った。

こうした大混乱の中、政権についたエゴン・クレンツであったが、
当人自身がホーネッカーの忠実な部下である為に党や国民から最初から見放される不人気ぶりで、国内の混乱は増す一方となった。

この為、クレンツは世論に押される形で党と政府の分離や民主化等を約束したがもはや混乱の収拾は不能となり、東独は事実上政府機能が崩壊。
そして……



*◆ベルリンの壁、崩壊



#center(){&bold(){1989年11月9日}}



クレンツは国民に対する渡航制限の緩和策を統一党中央委員会に提出し、委員会はこれを承認。

施行は翌日11月10日、「&font(#ff0000){然るべき国境通過点}(つまり国境ゲートや空港、港等である)からの出国を認める」というのがその内容であった。
要するにあくまでも&b(){旅行時の制限緩和}で、ホーネッカー時代にガチガチにし過ぎた国境封鎖を、ひとまずは元に戻そうというのが本来の趣旨である。
その決定は混乱を収めるため、&b(){早急に、遅滞なく発効される}ものと決められた。まあ元に戻すだけだしね。

だが、これを発表すればベルリンの壁付近に多数の民衆が殺到することは容易に予想できた。
そこで東ドイツ政府は、警備体制を整える時間を稼ぐため、この緩和政策が制定された翌日、&u(){11月10日}の午前4時に記者会見を行うことにしていた。

&bold(){しかしここで[[マスコミ]]史上、最も酷いミスが発生する。}
&u(){11月9日}の夕方、ほぼ定例となっていた東ドイツ国内及び国際的会見でスポークスマンを勤めたのは、報道官の&b(){ギュンター・シャボウスキー}という男だったが、
緩和政策はゴタゴタの中で急ぎ取り決めた上、シャボウスキーはこの政令が取り決められた評議会に参加していたものの、事務方との打ち合わせのため中座しては戻る、の繰り返しであったため、発表する内容を&b(){中途半端にしか聞いておらず、どういう決議かも理解していなかった}のである。
一応、クレンツからプレスリリース用の書類はもらっていたが、移動中の車の中で読んだため暗くて中途半端にしか理解していなかった上、&bold(){発効日時の「今から」が11月10日、つまり翌日であることもわかっていなかったのだ。}

&bold(){「&font(#0000ff){東ドイツ国民は&font(#ff0000){ベルリンの壁を含む}全ての国境通過点から、出国が認められる}」}

会見に臨んだ各国記者及び会見中継をテレビで見ていた諸外国並びに東西ドイツ国民、そして恐らくは当の東ドイツ首脳部も絶句したに違いない。
何しろこの発表のとおりになれば、東ドイツは即座に崩壊し、多くのドイツ国民が夢に見ながらも涙ながらに諦めた、東西ドイツの統一が目に見えているからである。
続けて質問はこの画期的な決議の施行日時に移った。


イタリアの民間放送のエールマン記者:「いつから発効ですか??」

(本来の旅行緩和は)明日10日からなのだが、シャボウスキーはこのことも聞いていなかった。
返答に困るシャボウスキー。

シャボウスキー:&font(#0000ff){(あれ?でも資料に書いてあるぞ?なになに)}

#center(){この決議は&b(){早急に、遅滞なく発効する}ものとする。}

シャボウスキー:&bold(){&font(#0000ff){「私の情報が正しければ『遅滞なく』(つまりは直ちに)ということです(キリッ」}}

こう言ってしまったのだ。
要するに、『今すぐにでもベルリンの壁を乗り越えていいよ』と、東ドイツ政府のスポークスマンたる男が、堂々と明言してしまったのだ。
この為、東西ベルリン市民がベルリンの壁周辺に集まり始めたのである。 

一方、東独の国境警備隊は報道を聞いていなかった他、上官からの指示もなかった為にベルリンの壁に殺到した市民には何の対処もできない。

西ベルリン側でも西ベルリン市長が&font(#0000ff){「壁に近寄りすぎるな」}と市民に呼びかける等カオスな状況となった。

ポーランドに外遊中だった西ドイツのコール首相が事態把握の為西ベルリンに向かった他、
英のサッチャー首相や米の父ブッシュ大統領、仏のミッテラン大統領も側近に叩き起こされたり、予定していた公務を取りやめる事態となっていった。

一方の東ベルリンでは、市民の&font(#0000ff){「開けろ! 開けろ!」}というコールが地響きのように鳴り響き、
仮に武力衝突を起こしても多勢に無勢状態であった為、諦めた現場職員はついに国境ゲートを開放。
&bold(){ここにベルリンの壁は崩れ去ることとなった。}

夜が明け、その辺の工事現場からもってきた重機等で市民が壁をぶっ壊す光景。
これが1989年を象徴する動画となった。
壁の崩壊と同時に、東西ドイツ国境線も解放。
えらく時代遅れなトラバントに乗った東独国民を西独国民が歓喜の中出迎えた。
(因みに、東独国民が西ドイツで最初に買ったもので一番多かったのは&font(#ffdc00){&bold(){バナナ}}だったとか)




*◆そして冷戦の終わりへ…
この『ベルリン問題』がひとまず解決した為、アメリカとソ連はマルタ島で会談を開き、&font(#ff0000){「冷戦終結宣言」}を父ブッシュとゴルバチョフの間で取り交わされた。

そもそもベルリンの壁というのは、市民にとって物理的な「壁」以上に、極めて強固な政治家にとっての「見えない壁」も存在していた。


&font(#ff0000){西ベルリン>>>>越えられない何か>>>>ベルリンの壁>>>>東ベルリン}


壁を睨んで日々神経をすり減らしていた西独や西側諸国の外交官や政治家達は、
壁が一瞬にして呆気なく崩壊したことに対し&font(#ff0000){「建設以来の外交努力とは何だったのか…」}とまさしく[[シリアスな笑い]]状態になったという。


*◆東西ドイツ、統一
東西両陣営が思っているよりも早く、東西ドイツの統一という作業が実行・実施。
東独に参加していた11県を4州に再編して西独こと『ドイツ&font(#ff0000){連邦}&font(#ffdc00){共和国}』に吸収合併することで合意。


#center(){翌1990年10月1日、東西ド&font(#ff0000){イ}&font(#ffdc00){ツ}は統一された。}


なお、ノリと勢いで統一したため、東西格差でドイツの経済がしばらく混乱することになったが、現在では徐々に改善されつつある。

ちなみに、ベルリンの壁の破片はお土産屋で580円で売られていた。
……が、この手のお土産ではありがちだが、偽物も多かったりするし、何より壁の建設時に大量のアスベストが使われたため、色々と注意が必要である。


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- ベルリンの壁の破片は(ほぼ)100円ショップにもあったよ  -- 名無しさん  (2013-11-29 22:51:49)
- なんでバナナ大人気?  -- 名無しさん  (2013-11-29 22:55:56)
- 当時は東側の人にとっては超高級品だった  -- 名無しさん  (2013-11-29 23:09:43)
- 高級な果物がその辺の果物屋さんで安価で売られている光景、さぞ驚いたに違いない。  -- 名無しさん  (2013-11-29 23:17:04)
- 人にとって大きな大きな有事はなくてはならないものなのかな  -- 名無しさん  (2014-02-14 16:06:42)
- 壁のすき間に犬が→報道→あれはうちの子助けて→救助しました→よく見たらうちの子じゃない… という珍事件があったそうな  -- 名無しさん  (2014-02-14 18:29:36)
- 崩壊の数年前には日本の花火が打ち上げられたとか。  -- 名無しさん  (2014-08-12 16:55:38)
- 今日で25周年  -- 名無しさん  (2014-11-09 07:02:35)
- 一人の男のとんでもない勘違い発言がなかったら、まず起こるはずがなかった大革命とも言える。  -- 名無しさん  (2014-11-09 07:22:35)
- 割と勘違いしてる人が多いけど、ベルリンの壁は万里の長城みたく国家を真っ二つに分割してるんじゃなくて、ベルリンの街内部にあるドーナツ型の壁の区切りなんだよね。  -- 名無しさん  (2014-11-09 08:39:21)
- 世界中のベルリンの壁が無くなりゃぁなぁ  -- 名無しさん  (2015-02-05 18:48:57)
- 本物のベルリンの壁はアスベストを含んでいる。その為、偽物が良い。  -- 名無しさん  (2015-02-05 20:39:51)
- フランス革命とは対を成す蹴り技  -- 名無しさん  (2015-04-18 17:48:46)
- ワンナイか、懐かしいな。  -- 名無しさん  (2015-06-06 00:17:33)
- EUの原点とも言われている。人、モノを自由に行き来できるようにして市場を一つにという考え方。対立して封鎖するより互いの利益になり平和が保たれるという考え方  -- 名無しさん  (2015-08-19 22:41:25)
- レイズナーの作中では冷戦終わって無いんだよね。それだけ当時は冷戦の終わりが予想出来なかったんだろうな。  -- 名無しさん  (2015-08-19 23:02:34)
- そんな理由で崩壊してたのは知らなかった!w  -- 名無しさん  (2016-10-04 14:38:05)
- ↑4ルパンだぞーとかフランス革命とかのコント?  -- 名無しさん  (2016-10-06 17:23:44)
- でも、本当にあの発表は勘違いor間違いだったのかな?報道官が実は改革派とか現体制への反対派とかで、わざと間違えた可能性は……?  -- 名無しさん  (2016-12-02 12:19:02)
- シュヴァルツェスマーケン(原作版)の1983年壁崩壊のシーンは泣いた。  -- 名無しさん  (2017-01-22 11:34:20)
- ↑2 当時の統一党メンバーへのインタビューを主軸にした再現ドキュメンタリーを以前見たけど、完全に伝達ミスらしい。なのでTVを見てた統一党員は例の発言を聞いた瞬間「ファ!?」と揃って絶句したと述懐していた  -- 名無しさん  (2017-01-24 18:58:40)
- ↑3 シャボウスキーさんの会見でのメモチラ見とか表情とか、後のインタビューでの対応を見る限りではガチ伝達ミスで間違いないかと。あれが演技だったらそれはそれですごい  -- 名無しさん  (2017-05-10 16:46:30)
- ↑2自分もその番組見た事ある。会見後にスポークスマンが資料を手渡してきた人に詰め寄られ、それ以来、その人と疎遠になってたな。  -- 名無しさん  (2018-03-22 14:34:09)
- 今思うと政情混乱に伴う伝達ミスが決定打になっただけで、遅かれ早かれ壁は崩壊していたかもね。当のソ連が民主化に舵を切ってたわけだし  -- 名無しさん  (2018-07-05 10:19:04)
- 壁によじのぼった市民がツルハシで壁を壊してる映像は今でも覚えてる(その後も繰り返し流されたからだけど)  -- 名無しさん  (2018-07-05 11:39:47)
- 誤報からの暴走も含めて「人間の自由は止められない」ものだね。  -- 名無しさん  (2018-07-05 12:39:39)
- こんな事が、歴史の分水嶺とは……素晴らしい。やっぱり人間て素晴らしい。  -- 名無しさん  (2018-07-05 13:03:12)
- 平成の一年目から凄かったなwwwww  -- 名無しさん  (2018-12-25 23:14:20)
- トリビアの泉で「ベルリンの壁は勘違いで崩壊した」で見た事ある。ちなみにシャボウスキー氏本人も、インタビューで登場してた。その後、シャボウスキー報道官は病気のため、2015年にベルリンで死去した模様  -- 名無しさん  (2018-12-26 17:04:32)
- 旧東ドイツのホーネッカーや妻のマーゴット、シャボウスキー、西ドイツのコールら壁崩壊当時の当事者らが次々死去している中で、2019年現在唯一生存しているのがホーネッカーから小判鮫的に政権を引き継いだエゴン・クレンツだけというのが何ともね・・・。  -- 名無しさん  (2019-03-06 19:15:07)
- もうすぐ30周年じゃん!!  -- 名無しさん  (2019-05-31 03:15:03)
- この誤解がなければ今でも壁は残ってたの?  -- 名無しさん  (2019-05-31 05:18:47)
- ↑誤解が無くても壁は無くなったと思います、ただし、それが血が流れない形での崩壊では無い様な気がします。  -- 名無しさん  (2019-06-07 07:26:52)
- 仰天ニュースで事の真相を初めて知ったけど、つい笑ってしまったな  -- 名無しさん  (2019-08-01 06:21:55)
- 昨日でもう30年か  -- 名無しさん  (2019-11-10 10:08:54)
- 打ち合わせすらまともに出来ないこんな末期状態なら、遅かれ早かれ東独は終わってたんだろう。血生臭さのない終わりを引けた幸運  -- 名無しさん  (2020-11-06 18:21:15)
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