人車軌道

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&font(#6495ED){登録日}:2012/11/04(日) 16:04:42
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人車軌道とは、文字通り人が客車や貨車を押す鉄道である。
明治から昭和初期にかけて数多く存在していた。

◎特徴

当時既に蒸気機関車が各地で運転されている中、それと逆行するような原始的な動力を用いたこの鉄道。
その理由としては、建設費用や人件費、維持費の節約、また運行の楽さなどが挙げられる。低コストで運転できるというメリットに多くの経営者が惹かれたのだ。
最初の人車軌道として、静岡県に最初の路線が開業したのは1891年の事である。
線路の幅は762mmや610mmなどの狭いものが多かったが、中には国鉄の貨車をそのまま人が押すもの、線路幅1067mmの路線もあったとか。
ただ、やはり人力というのには限界があり、中には馬が併用して使用されていたものも存在した。
また、非効率さもあってトラックやバスは勿論、馬車にすら勝てなかったと言う。
戦前戦中にかけて大半の路線が廃止され、最後まで残った路線も1959年をもって姿を消した。


なお、これらの鉄道は鉄道や軌道として開業したものであり、鉱山鉄道や森林鉄道といったそのような免許を有しない路線では人力による車両輸送が今も続いている。
鉄道の原点の一つとして16世紀以降ドイツなどで投入された手押しの鉱山トロッコがある事も考えれば、ある意味原点回帰な運転方法かもしれない。


◎主な人車軌道

・藤枝焼津間軌道

前述通り日本初の人車軌道として開通したが、運営などの資料はあまり残っていない。

・豆相人車鉄道

明治時代に交通の便が非常に悪かった熱海へ向けて建設された路線。
敢えて高額の運賃を設定する事で成功したのだが、車両を押す人たちの賃金はやはり高く、後に蒸気機関車運転に改められた。
ちなみに、芥川龍之介の「トロッコ」は、この路線が蒸気機関車運転に改められるまでの工事の情景を題材にしている。

・野田人車軌道

醤油の町である千葉県野田市に存在していた路線。
貨車に醤油の入った樽を乗せ、醤油工場や倉庫から駅や川岸の港を結んでいた。

・帝釈人車鉄道

柴又の帝釈天への参拝客の輸送を目的に開業した路線。
その後路線の譲渡や近代化を経て、現在の京成電鉄金町線となる。

・藤相鉄道

開業時から蒸気機関車を利用していたが、当時まだ暴れ川だった大井川を渡るにあたり、鉄道橋の建設には時間がかかった。
その間、大井川を横断する橋の上は人車軌道として一時的に仮開業していた事が知られている。
後に、日本最大の軽便鉄道路線となる静岡鉄道駿遠線となる。

・銀鏡(しろみ)軌道

宮崎県にあった貨物専用の路線。
人力と馬力を併用しており、特に馬力に関しては民営鉄道として最後の馬車鉄道となった。

・松山人車軌道

松山と言っても、こちらは宮城県の松山町にあった路線である。
人車軌道の中でも後の方に建設された事もあり、国も「何で今更?」と突っ込んだ。
その後、すぐに他の動力へ切り替えるという事で認可され、6年営業した後にバスへと切り替わっている。

人力客車を計4両保持していたが、そのうち1両が鉄道博物館に、もう1両が地元の歴史館に保存されている。
また1992年にはそれらを基にレプリカが作成され、年に数日だけだが実際に人車軌道に乗る事が出来る。


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