天覧試合(プロ野球)

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天覧試合(プロ野球) - (2017/01/21 (土) 08:59:58) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2011/06/25 (土) 14:57:30
更新日:2023/01/15 Sun 07:03:42
所要時間:約 4 分で読めます




天覧試合とは、天皇陛下が観戦する試合競技のことである。
この項目では、プロ野球史上唯一挙行された1959年の天覧試合について記述する。


○経緯
かつてプロ野球は"職業野球"と呼ばれ、下賎な職業とされていた。
学生スポーツとして発展し、六大学野球が日本野球の頂点とされた時代、「金を取って野球を見せるとは何事か」という蔑んだ目で見られていたのである。
この辛さから何としても解放されたい、プロ野球を認めてもらいたい。これがプロ野球関係者の悲願であった。

巨人の創設者・正力松太郎はこういう球界の表には出せない"見えざる総意"を叶えるべく天覧試合を画策、無事に天皇・皇后両陛下をお迎えすることに成功した。
プロ野球界にとって、天覧試合はプロ野球が市民権を得るための千載一遇の好機だったのである。


プロ野球の命運は1959年6月25日、巨人対阪神の伝統の一戦に託された。



○試合
巨人・藤田元司、阪神・小山正明両エースの先発でプレイボール。
両軍とも緊張からか打線が機能せず、阪神は2回まで三者凡退、巨人も初回、2回と無死一塁を併殺で潰す。

3回表、一死二塁から投手の小山が中前タイムリー。阪神が1点を先制する。
対する巨人は5回裏、四番・長嶋茂雄のホームランで同点とすると、続く五番打者にも一発が飛び出し2対1と勝ち越しに成功する。
昭和天皇は試合前、侍従に「ホームランは出るかね」とお聞きになったそうで、この2本でプロ野球はまず責任を果たした形だった。


この2発で両軍の硬さがとれ、試合が動き出した。6回表に阪神はタイムリーで同点。ここで四番の藤本勝巳が左へ2ランをたたき込み一気に4対2と逆転した。
しかし、巨人も粘る。7回裏、一死一塁から六番のルーキー・王貞治がライトスタンドに2ラン。一本足になる前、わずか19歳1ヶ月の一発で同点に追いついた。

ここで阪神は小山を諦め、5月の同カードで巨人打線を無安打に封じ完投勝利した新人・村山実をリリーフに指名。村山は後続をぴしゃりと抑えた。
しかし、前日も登板していた村山にとっては突如指示を受けた形であり、投球練習すらしないままの登板であった。
村山が冷えた肩のままマウンドに登ったことが結局、この試合を決定することになる。


その後は巨人の好守などもあり両軍譲らず、試合は9回表まで終えた。
延長か? それより両陛下のお帰りの時間が迫っている。それは9時15分だった。もう時計は9時を回っている。
お帰りまでに決着がつかなければ、球界苦心の天覧試合も「日本人に認知させたい、市民権を得たい」という願いを叶えてくれるものにはならない――。


しかし9回裏、先頭打者の長嶋が村山の内角高めの直球をものの見事にレフトポール際へ運んだ。


サヨナラホームラン!


5対4で巨人の勝利。時計は9時12分を指していた。



こうしてプロ野球史上唯一の天覧試合は、野球のあらゆるものを表したかのような理想的な試合展開で幕を閉じた。



○余談
  • この一戦は全国に生放送された。その効果は絶大で、プロ野球は真に市民権を得ることに成功し、後の隆盛へと進んでいくこととなった。

  • 大学時代・ルーキーイヤーとスター街道を突き進んでいた長嶋は、この試合の大活躍によってスーパースターの座を不動のものとした。
    「皇室御用達」とも言われた。

  • 新人の王はこの年打率.161とさっぱり打てなかった。その王が天覧試合にスタメン起用され、しかも同点2ランと活躍したことに誰もが驚いた。

  • 村山は亡くなるまで「あれはファウルだった」と言い続けた。
    しかし当日出場していた阪神の左翼手や観客の証言、残された映像などからホームランだったのはほぼ確実である。

  • 当時の阪神監督・"カイザー"田中義雄は日系二世、日本語が不得手であり、リリーフに村山を指名した時も「あんた、ピッチいける?」としか言えなかったという。
    これが村山が肩を作れなかった原因となった。

  • 選手はじめ関係者には皇室の御紋入りの煙草が送られた。実際に吸った人曰く「とても不味かった」とのこと。


追記・修正は野球愛溢れる方にお願いします。

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