九七式戦闘機

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九七式戦闘機 - (2018/03/30 (金) 13:55:44) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2014/06/02 (月) 18:53:00
更新日:2022/08/23 Tue 08:51:03
所要時間:約 7 分で読めます




九七式戦闘機は、大日本帝国陸軍で運用された戦闘機である。軽戦の極致と称された当時最強(と言うかレシプロ最強クラス)の格闘戦能力が最大の武器。
キ番号(試作名称)はキ27、通称は九七戦、九七式戦など。連合軍内でのコードネームは「Nate(ネイト)」。貧乳回避の第五特務とは断じて関係ない。


性能諸元

エンジン:空冷9気筒 中島ハ1乙(地上正規出力610馬力、地上最大出力710馬力)
最大速度:470km/h(水平3,500m)
航続距離:627km
全高:3.28m
全幅:11.31m
全長:7.53m
主翼面積:18.56㎡
自重:1,110kg
全備重量:1,547kg(燃料満載)
上昇時間:5,000m/5'22"
実用上昇限度:12,250m
武装:胴体内7.7mm機関銃2門(携行弾数各500発)
爆弾:25kg×4
増槽:左右各133L


開発経緯

時に1935年。海軍の九試単座戦闘機*1の成功に嫉妬した刺激を受けた陸軍は、海軍の了解を得た上で、同機の陸上仕様を九五式戦闘機の試作審査に途中参加させた。
が、「エンジンがちょっと、ねぇ……」という理由でボツ。とりあえずで川崎のキ10が採用される。が、こいつは複葉機だった。
「(この先いくらなんでも複葉機じゃ)いかんでしょ」ということで翌年4月、陸軍用の低翼単葉戦闘機の競争試作が中島・川崎・三菱の3社に指示される。

この際の要求性能は

1.最大速度は450km/hを維持すること
2.上昇力は高度5000mまで6分以内であること
3.従来の複葉機と同等以上の運動性を有すること

という、当時としてはかなり高性能な機体であった。

で、次期主力戦闘機の開発というビッグウェーブにヒャッハー(1社除く)した各社の試作機の特徴を挙げてみるとこうなる。

○中島 キ27
陸軍の好みである格闘戦に特化した、軽量かつ水平旋回性の高い機体

○川崎 キ28
水冷式高出力エンジンを唯一搭載した、高々度での高速性能重視型

○三菱 キ33
九六艦戦が陸軍に受けなかったのを逆恨みしてやる気なし、同機の簡単なアップデート

ここでキ33を選んでおけば楽だった*2のだが、「全領域で九六艦戦以上の機体じゃなきゃヤダヤダ!」という陸軍のメンツ、そしてそもそもやる気のなかったせいで三菱が早々に離脱。
水冷エンジンに不安の残るキ28を抑え、キ27が選定されることとなる。ちなみに、海軍は三菱、陸軍は中島が主体となるきっかけにもなっていたりする。
盧溝橋事件の発生もあって審査は急かされ、1937年(皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された。

技術的特徴

本機の母体となった試作機であり、九五式戦闘機の採用審査に敗れたキ11は、当時としては革新的な低翼単葉の高速機だった。
とはいえ完全なものではなく、主翼の強度保持のために固定脚のスパッツと主翼下面の間に鋼線を張っていたりと、完全な単葉機とは呼べなかった。
まあ、高速性能はともかく、陸軍が格闘戦重視だったせいで複葉機に負けたのだが

本機の特徴でもある前縁直線翼は、続く以降の小山悌を設計主務とする中島製単座戦闘機に採用され続けることとなった。ちなみに発案は糸川英夫。
その他にも

1.主翼を左右一体構造にし、胴体を乗せる方式(生産性向上と軽量化に寄与)
2.胴体を操縦席以降で前後分割し、ボルト留めにした(メンテナンス性と輸送性の向上)
3.不整地離着陸を考慮した固定脚の採用(既に引き込み脚は実用化されている)
4.操縦席後部の胴体内燃料タンクをオミット、陸軍単座機初の増槽装備

というのが大きな特徴といえるだろう。特に1と2は後の帝国軍機(川崎製除く)の標準技法となっている。
機体外面に開口部がないが、これはエンジンのシリンダーの隙間に銃身を配置し、カウリング中央の開口部から発射するため。

性能面での特徴は、複葉機さえ上回るほどに高められた運動性能(特に水平旋回性)と安定性、そして操縦性だろう。
帝国陸軍の単葉単座戦闘機の基礎となったがゆえに、後に一線を退いてからも、高等練習機として長く運用されたほどだ。
漢口でしばしば行われた陸海共同の模擬戦では、普段陸軍をナメきっている海軍のパイロットが「陸軍の分際であんないい機体を、グギギ……」と悔しがるほどだったという。

ちなみに、本機と同時期に欧州ではスピットファイアやハリケーン、Bf109が完成していたりする。
……あれ?


実戦での活躍

1938年より九五式の後続・代替機として日中戦争に投入される。
本機が名を挙げたのは39年のノモンハン事件で、ソ連軍機をフルボッコにしソ連進軍と帝国軍の戦線崩壊を抑止。
複葉機すら一方的にボコれるほどの運動性と「空の狙撃兵」とまで称されるほどの射撃安定性が生んだ成果だった。
この時後の帝国陸軍最強格のエースを多数輩出している。

が、ノモンハン後期ともなると、ソ連軍機が一撃離脱戦法に切り替え、さらにスペイン内戦を経験してきたベテランを投入したこともあり被害が拡大。
ついでに本機にまともな防弾装甲がないのも相まって、最終損耗率60%というヤバいレベルにまで到達してしまっていた。当然、ベテランもものすごい勢いで死にまくった。
この戦訓から、陸軍は技術的*3・戦術的*4な収穫以上に、航空機(&パイロット)の有効性と消耗度の高さを痛感する。

しかし、緒戦の大勝利に酔うパイロットはお約束のようにこれを見過ごしたまま、格闘戦至上主義*5につま先までドップリと浸かってしまう。
上層部の方はまだその点では見る目があり、戦訓から「もうちょい重装甲&大火力じゃないと死ねるな……」とは思っていたのだが、肝心のパイロットがご覧の有様だったため、
キ43(後の隼)以降の主力戦闘機の選定・量産計画にまで悪影響を与えてしまうこととなった。
というか、一式戦の選定が遅れたために後発機の開発が遅れ、最終的にご覧の有様になってしまったことを鑑みるに、ある意味本機こそが諸悪の根源である。

無論、本機が絶対悪だったわけではない。比類なき格闘性能は歴代レシプロ機の中でも最上位、というか最強候補筆頭だし。
本機が諸悪の根源化した最大の要因は、やはり当時から脳筋思考停止と根性論至上主義に定評のあったパイロット達だったとしか言い様がない。
結局、彼らの格闘戦至上主義は、連合軍の重装甲・重武装機に一撃離脱戦法で一方的にフルボッコされるまで根強く残ることとなった。

太平洋戦争開戦時には既に旧式機と化しており、42年以降は後続の一式戦にその座を譲った。
その後は練習機や連絡機として用いられていたが、ドゥーリットル空襲の際にはB-25迎撃に一部の機体が参加している。
末期には当然のように特攻機としても運用されたが、250kg爆弾を運用するには非力すぎたため、離陸から飛行まで常にエンジンを全開にしておく必要があった。
で、そんなことをすると潤滑油が焼けつくわエンスト起こすわで出撃不能・中途帰投機が頻発。
唯一の現存機である大刀洗平和記念館の展示機からして、過積載→エンジン不調→博多湾に不時着水して96年に引き揚げられたというしまらない経歴の持ち主だったりする。


創作における九七式戦闘機

とりあえずIl-2 1946では操縦可能。ウォーシミュレーションでも初期に開発可能な旧式機扱いがほとんど。
仮想戦記だと……どうなんだろうね?



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