一式戦闘機(隼)

登録日:2014/06/02 (月) 19:14:00
更新日:2024/06/17 Mon 10:41:30
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一式戦闘機Ⅲ型甲 知覧特攻平和会館野外展示*1

一式戦闘機は、第二次大戦期に大日本帝国陸軍で運用された戦闘機である。愛称は隼、連合軍のコードネームは「Oscar(オスカー)」。
帝国陸軍が運用した戦闘機としては最大の総生産機数を誇ると同時に、帝国全軍の戦闘機総生産機数第二位でもある帝国陸軍の『顔』。


性能諸元(二型)

試作名称:キ43-Ⅱ
全長:8.92m
全幅:10.84m
全高:3.085m
翼面積:22m2
翼面荷重:117.7kg/m2
自重:1,975kg
正規全備重量:2,590kg
発動機:ハ115(離昇1,150馬力)
プロペラ:住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m
最高速度:初期型515km/h/6,000m、前期型536km/h/6,000m、後期型548km/h/6,000m
上昇力:高度5,000mまで4分48秒
降下制限速度:600km/h
航続距離:3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)
武装:機首12.7mm機関砲2門(携行弾数各270発) ※帝国陸軍では11mm以上の機銃を機関砲と呼んでいた。なんか切ない。
爆装:翼下30kg~250kg爆弾2発


開発経緯

1937年に制式採用された九七式戦闘機だったが、ノモンハン事件で軽量格闘戦特化機の限界や、帝国陸軍の防弾装備等への見積もりの甘さが露呈する。
九七戦に限界を感じた陸軍は12月、中島飛行機にキ43の試作を内示。39年末の実用化を目指し開発が始まった。
軍の性能要求によると、

1.最大速度は500km/h以上であること
2.上昇性能は5,000mまで5分以内であること
3.固定兵装として機関銃2門を装備すること
4.運動性はキ27(九七戦)以上であること
5.行動半径は300kmを基準とし飛行猶予時間を30分以上取ること

要は九七戦の完璧なアッパーバージョン作ってちょ、ということだった。

中島では九七戦の開発指揮を執った小山悌を設計主務に据えて設計課を編成。研究科空力班からのサポート要員として、後に国産ロケット開発のパイオニアとなる糸川英夫が参加した。
設計陣の一人によると、軍の要求を「運動性で勝ることであって近接格闘性じゃないんだな?よし、じゃあ重量増やしてでも性能向上させようか」と解釈していたという。
引込脚以外は九七戦の踏襲で時間短縮したために開発は順調に進み、翌38年12月には試作壱号機の試験飛行にこぎつける。
原型が既に完成していたとはいえ、わずか1年で試験飛行にまでこぎ着けられる開発課の力量は正直パない。
さすが大日本帝国、工業力は列強最弱級でも技術力は伊達じゃなかった。……まあ列強最強の鬼畜チートと半身限定とはいえ殴り合えるくらいだし。

……が、試験飛行の結果、航続距離の延伸こそ目覚ましかったものの、最高速度の向上値が僅かな上に旋回性で九七戦に劣ることが判明。
そもそも機動力と防御力、火力は並立できても、運動性はどうしても他3つを犠牲にしなければ不可能なわけで。
つまり強力なエンジンさえあれば防弾装備も大口径機銃も積み放題だし最大速度も稼げる(例:サンダーボルト)が、そんな機体に旋回性求められるか?ということ。
で、九七戦は格闘性能と引き換えに防御力と火力をほぼ完全に捨ててたわけで。
そしてキ43に求められていたのはつまる所「防御力と機動性を上げつつ運動性も強化な?」というガチの無茶ぶりだったわけで。
だいたい全領域で九七戦に勝る戦闘機作れって、帝国の立地(資源的な意味で)と工業力じゃまず不可能なんだがなぁ……主にエンジンとかターボチャージャーとか

そんなわけで軽戦闘機推進派、ノモンハン戦訓対応推進派の双方から「半端はポイーで」され、リベンジとして強化型のキ43-Ⅱへの改良が決定される。
改良が進む間にも欧米諸国との関係悪化は進行し、ついに開戦やむなし……となったところで米軍の新型機に対抗可能なキ44(鐘馗)の配備が間に合わないと判明。
また、南方作戦に必須の航続距離長大な戦闘機の素体として有用と再評価され、急遽ではあるがほぼ試作機そのままでの制式採用と量産体制への移行が決定。
41年(皇紀2601年)に一式戦闘機として制式採用されることとなった。
帝国陸軍航空部隊の顔とも言える隼だが、その歩みは必ずしも順風満帆じゃなかったのだ。

戦前の日本では軍内部やマスg……失礼、マスメディア上で鷲や鷹などといった勇ましい鳥の名を呼び名として用いており、一式戦も国民への宣伝の一環として「隼」と命名され、
太平洋戦争開戦間もない42年3月8日には「新鋭陸鷲、隼現わる」の見出しが各新聞に踊った。


戦歴

1941年6月から8月にかけての漢口-重慶間長距離侵攻(飛行第59戦隊所属機9機参加)が初陣となる。この時は迎撃機が上がってこなかったので初実戦とはいかなかった。
また、8月末から機種転換を開始した第64戦隊は12月3日に広東-仏印フーコック島ズォンドン間を長駆、1機の落伍もなしに進出する。
4日後に山下泰文中将麾下の第25軍輸送船団の上空援護(夜間かつ荒天という超悪条件)を完遂する。
この第64戦隊を率いていたのが、後に軍神に列せられる加藤建夫中佐。加藤隼戦闘隊の名で知られる、エース揃いの精鋭集団である。
以後、各方面で終戦まで運用され、大いに戦果を挙げた。

海軍機と異なり初期からある程度の防弾能力を有していたこと*2もあり生存性が比較的まともだったこと、九七戦譲りの射撃安定性や良好な運動性能も相まって格闘戦にはめっぽう強かった。
緒戦では物知らずな連合軍機を誘い込んでは散々に喰い散らかしているが、さすがに手の内が読まれてくると一撃離脱に徹され、また物資供給の停滞や彼我の物量差などから苦戦を強いられた。
また主翼の構造上、翼内機関砲の搭載が事実上不可能であり、絶望的な火力の低さは最後までどうにもならなかった。
まあ、ベテランに言わせると「装甲化された胴体ではなく翼を狙えば楽よ?」らしいが……さらっと無茶仰らんでください

カタログスペック的に戦争後期には完全に旧式化していたが、終戦までそんな機体を生産・運用し続けたことに対しては後世からの批判が割とよくある。
しかし、後続の鍾馗は重戦闘機志向で、運動性重視の機体に慣れたベテランや適性の低いパイロットには不向きだった。
三式戦闘機(飛燕)、四式戦闘機(疾風)は格闘戦も一撃離脱もこなせるがエンジン信頼性が死亡宣告で、信頼性を維持していた本機は貴重だったのだ。
また、九七戦が母体だけあって操縦性が良好で、新人にとっても扱いやすかった(練習機と操縦特性があまり変わらない)のも一因だった。

陸軍機という性質上、ドロップタンクと爆装の選択が容易で、また最大爆装も250kg爆弾2発とそこそこのものだった。
大戦中期以降は戦闘爆撃機としても積極運用されており、45年2月11日には爆装機2機がイギリスの2,200t級駆逐艦「パスファインダー」に急降下爆撃を敢行、大破させている。
そして例によって例のごとく、特攻機としても爆装能力は存分に利用された。

敵からの評価

鹵獲機をテストしてみた英国紳士曰く、「技術的には全然目新しくないよ。火力は本当に最低限だし。ただ、この操縦性と運動性の高さは素晴らしいね。こっちが叩き落とされるわけだ」
とのことで、テストパイロット全員一致での高評価を受けている。なんでも、上等なズボンの履き心地のようだったとか。さすが紳士、評価も洒脱だった。
高速時にも安定した機動が行えることもあって、零戦にも勝る部分を多々見出していたという。

一方の米軍では、「こんなんと低高度格闘戦で勝てるわきゃないだろ、いい加減にしろ!」と、これまた対峙した側ならではの高評価だった。
もともと米軍機が対独戦の影響で重戦闘機志向だったこともあって、格闘戦は大半の機体にとって死亡フラグだったからだ。
しかも隼の方は改修で12.7mm機銃対応の防弾性能を有し、機体強化である程度は一撃離脱に対応可能。零戦と違って完全なカモではなかったのだ。
小型軽量でプロペラも小さな本機は加速性能も高く、隼を攻撃しようとして急降下したP-38やP-47を引き離して逃げて行った…なんて話も。
そのせいか、質と量が素敵に無敵な米軍の新鋭機でもしばしば返り討ちに合った。

上記のように防弾設備がそれなりのものでパイロットの損耗率が海軍に比べて低く、高速度域での安定性の高さは高速格闘戦での強さの源となり、
火力の低さはともかくとしても、隼そのものは連合軍からしても終戦まで油断ならぬ脅威だったようだ。
実際、九七戦に劣ると文句をつけられた運動性にしたって、連合軍からしてみれば「おいばかやめろ、なんだってこんなに食らいつけるんだうわヤバい振りきれないアッー!」
な鬼畜性能として映っていたわけで、単に帝国陸軍が突き抜けすぎてただけとも思える。

自国の評価

試験当初こそ半端者扱いされていたが、運用開始後は評価が一変。上昇性能や運動性の高さ、高い稼働率と整備性、故障しにくさが高く評価されることとなる。
その結果、鍾馗配備満了までの代替機から陸軍の主力戦闘機にのし上がった。
当初は7.7mm対応だった防弾装備も12.7mm対応に強化され、それでもなお軽快に振り回せるとあってパイロットに愛されていたようだ。
上記の通り、連合軍機からしても当てやすい12.7mmだと大量に撃ち込まないと落とせない隼はかなり厄介であった。

反面、火力の低さには最後まで泣かされ続けた。一型の7.7mm機銃は言わずもがな、「いくらなんでも火力低すぎんだろいい加減にしろ!」とツッコミ多数。
12.7mm2門に強化されたがそれでも最低限程度でしかなく、対戦闘機に特化しすぎたツケは最後までのしかかった。
(これは隼設計当時の戦闘機は世界中を見てもそこまで防弾性が高くなかったこともある)
胴体部機銃を20mmに強化した試験機も作られたが、ただでさえ弾薬搭載量に限りがあるところに大口径機銃をブチ込んだせいで経戦能力が死亡宣告。
試験機の域を出ることはなかった。

敵国からは高く評価されている操縦性だが、こっちは九七式という偉大すぎる先達のせいであまり評価されていない。
戦闘もできる曲芸飛行機と比較するのはどうかと思うんだが……
また、零戦が有名すぎること、比較すると火力面で劣ってることなども相まって「所詮零戦の下位互換だろワロス」扱いされることまである始末。
あっちはワンショットライターだし海軍の無線がお察し性能だったり、火力面以外はむしろ隼のほうが優れてるんだがなぁ……
まあ、あっちは隼と違って重装甲の爆撃機迎撃も重要な任務だったか一概に比較は出来ない。隼と零戦は似ているようでだいぶ異なる性格の機体なのだし。
ともかく、第二次大戦期の帝国軍機を代表する機体であり、名機だったことについては疑いの余地はない。


バリエーション

○一型(キ43-Ⅰ)
試作機に最低限の改修を施した最初期生産型。増加試作機や極初期生産機では火砲が7.7mm機銃2門というザ・豆鉄砲オンリーだったのでツッコミ続出。
12.7mmとの混載に切り替えられた後、順次12.7mm2門に換装されていった。この時点での防弾装備は7.7mm弾対応で、防御に手を入れただけ有情というレベル。
生産開始は41年4月、部隊配備は同年6月から。1943年以内に二型に置き換えられて第一線を退き、以降は標的曳航機や訓練機として運用された。
格闘戦至上主義のアホどもがせっついたせいで軽量化しすぎたため、機体強度に難があった。

○二型(キ43-Ⅱ)
一型の欠陥を改善し、防弾設備やエンジンの強化を行った正規生産仕様。43年6月以降の生産機からは操縦席背面に12.7mm対応の防弾鋼板が追加装備された。
量産開始は42年11月、実戦配備は43年1月から。一式戦の各仕様の中でも最多生産数を誇る。
後期生産型からは推力式集合排気管が装備されて機動性が向上したほか、三型への現地改修キットを転用して推力式単排気管を採用した末期生産型もある。
隼といえばだいたいこいつ。

○三型(キ43-Ⅲ)
エンジンを水メタノール噴射装置付きの改修モデルに換装した最終生産仕様。武装や防御性能は二型に準ずる。
機動性・運動性ともに後発機にも劣らぬ良好なものに仕上がっている。仕上がりが遅い?言うな。
中島は疾風の生産にかかりきりになっていたので試作のみで、量産は全て立川が担当した。量産開始は44年7月から。
水メタノール噴射装置の不具合や整備兵の不慣れが重なり、配備当初は稼働率が一時下がった。
ここまで来ると(二型後期も含む)当初の「遠距離型軽戦」のイメージはだいぶ薄れており、かなり無理が利く機体になっていた。
火力強化試作機のベースとなったのも本機。

元陸軍エースパイロットの上坊良太郎氏*3に取材をしたところ、もし乗るならばどの機体がいいかという問いに対しこの三型がいいと回答している。
これは従来の隼より無理が効くことを理由に挙げているが、それ以外にも終戦まで隼が活躍できた稼働率の高さも理由の一つとされている。
尤も、当人の愛機は二式戦闘機乙型*4だったが。

戦後の一式戦

戦後は外地で終戦を迎えた機体はインドネシアでは独立派に接収され、志願残留した元日本兵ともども各地で独立戦争に大きな役割を果たす。
フランス軍も接収しておりこれはインドシナ紛争で対ゲリラ用に投入されている。
ちなみに日本でもあの占守島の戦いで第54戦隊の隼が活躍している。
現存機としては限りなくオリジナルに近い機体が1機、フライング・ヘリテッジ・コレクションに収蔵されている。
他にも合計で10機弱が現存するが、そのうち飛行可能なものはほとんどない。
国内には三型甲がモデルのレプリカが1機、知覧特攻平和会館に展示されている。

創作における一式戦

第二次大戦期の帝国陸軍が登場するウォーシミュレーションやフライトシムにはおおむね参戦していると見ていい。
とりあえず操縦したかったらIl-2 1946をプレイして、どうぞ(モロマ

松本零士の戦場まんがシリーズにも登場しているほか、映画だと『加藤隼戦闘隊』あたりが有名か。
最近だと『俺は、君のためにこそ死ににいく』もあるが。
なお冒頭の隼はこの映画のために制作された原寸大のレプリカで撮影後知覧特攻平和会館に寄贈された。

ちなみに架空戦記では割と不遇だったりする。
海軍機の零戦と違って登場する機会が少ない上に、航空機の陸海軍共通化という名目でキ-43が不採用に終わる作品すらあるからである。
まあ大東亜決戦機と称された疾風ですら烈風より出番が少ない有様なので、陸軍機自体が割りを食ってるわけだが……



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最終更新:2024年06月17日 10:41
添付ファイル

*1 2020年12月12日編集者撮影

*2 これはノモンハン以降の陸軍機大半に言えることだが

*3 ノモンハンから東南アジアに転属し終戦まで生き残った古株でこの手には珍しく本人豪語ではなく関係者公認で76機の撃墜記録を持つ陸軍トップエースパイロット、だが本人はそれよりも少ないと懐柔している

*4 主翼に40mmロケット砲を装備した対重爆接近戦仕様