SCP-790-JPは、とある農村に伝わっていた儀式に関連する情報を、媒体を問わず記録に残した際に発生する異常現象です。
この儀式は、飢饉や災害に襲われた際に沈静化を図る目的で行われていたものであり、その実態は5歳未満の子供を用いた人身御供であったことが判明しています。
以後、この儀式を《SCP-790-JP-1》と呼称します。
SCP-790-JPの異常性は、この儀式に関する情報を何らかの媒体を用いて記録しようとした際に発現します。
記録を作成してから24時間以内に、記録を作成した担当者はその場から消滅し、かつて儀式が行われていた土地で手足をもぎ取られ、裸に剥かれた惨殺死体となって発見される事になるのです。
しかも、全ての遺体は同地に存在する中央広場の付近にある電柱に吊り下げられた状態で発見されています。
現在まで、この時点で記録者が生存していたことはありません。
また、欠損した四肢は発見されていません。
この消失現象と同時刻に、犠牲者が作成していた記録が修復不可能なレベルに破壊されることが確認されています。
残念ながら、担当者の殺害と記録の破壊を止める手立ては現在まで発見されておりません。
財団がこのSCiPに着目するきっかけとなったのは、1960年代に問題の土地で起きた大量殺人でした。
この事件は、SCP-790-JPそのものが引き起こした騒動と、それに対する地元住民の恐怖が齎したパニックが原因であったと考えられています。
同事件により、同村に在住していた住人の6割が死亡しました。
この様な事態に陥ってしまった原因が判明したのは、財団が事件の生き残りである村長を保護し、インタビューを行なった事で明らかとなりました。
事の発端は、1640年から1643年にかけて発生した寛永の大飢饉にまで遡ります。
言葉を繰り返すことになりますが、SCP-790-JPの元となった人身御供の儀式は、当初はその当時発生していた寛永の大飢饉を鎮める為に行われました。
その後も、何らかの災害が発生する度に人身御供の儀式は散発的に行われ、最終的には江戸時代を通して何らかの災害が起きる度に散発に続けられることになったのです。
最終的に、江戸時代の終わり頃に人身御供の儀式は取りやめとなりましたが、ここで新たな問題が発生しました。
同地に住む若者たちが、この『人身御供』に関する情報を公開し、「恥の歴史」として後世に語り継ごうではないかと言い出したのです。
この若者たちは、忌まわしい儀式の記憶を封印しようとしていた村の重鎮たちと対立。
最終的に、人身御供の儀式を公表することに肯定的だった住民は、公開に否定的であった住民たちの手によって殺害され、見せしめとされる事になったのです。
以後、1950年代に至るまで、この粛清活動は実施されたと考えられています。
最終的に、交通網の発達により粛清活動の隠滅が不可能になってきた事と、村の指導者たちの方針が変わってきた事により一連の事件は終焉を迎えました。
しかし、粛清活動が終息した後も、人身御供の儀式を記録しようとした人物が変死する事件は続きました。
それは財団とて例外ではなく、セクター8106にてSCP-790-JP-1についての記録を文章・音声・動画・図画の各媒体ごとに作成しようとした事で異常性を誘発させる事に繋がってしまいました。
結果、
Dクラス職員を含む記録作成に立ち会った財団職員25名が作成後15時間から23時間の間に消失、当該地域にて死体で発見されました。
また、SCP-790-JP-1について音声通信装置を用いて連絡を取っていた職員2名も16時間後に消失、当該地域にて死体で発見されました。