後鳥羽天皇

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後鳥羽天皇 - (2014/07/13 (日) 21:29:21) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/06/08(火) 22:34:04
更新日:2024/02/12 Mon 07:56:41
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今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。
DQNカップルに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら

DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」
とか言って聞き入れなかった

その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。


後鳥羽天皇
1180年8月6日~1239年3月28日

平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。
第82代目の天皇。


時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。

翌年後白河法王は、当時五歳の尊成を即位させ「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。


しかし、1192年に後白河が死去すると当時の関白であった「九条兼実」が政権を握る。
しかし、次第に「源頼朝」ら鎌倉幕府との関係が悪化。
1196年には郎党追放される。



そして1198年、実権を握った後鳥羽天皇は当時三歳であった息子の為仁に位を譲り「土御門天皇」とし、
自身は院へと移り院政を敷くと、その後三代に渡り政務を取り仕切った。


幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、
1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める。


同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。
数で勝る幕府方に対し快進撃するも、
北条政子の
「海より深き(ry
の演説を受けた武士達は
「いざ鎌倉!」
を合い言葉に結集。


最終的には十七万の大軍で攻め入り京の都を陥落させた。
捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。

また、関わりある者等も連座して方々へ流された。



隠岐へと流されてから後は、趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが1239年崩御する。



諡号は隠岐院とされたが、後に後鳥羽院へと改諡された。

一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、百人一首にもその名を残す。


配流された後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との文を残しており、
怨霊になったとも噂される。



朕は歌人の追記・修正を命じる

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