アイルトン・セナ

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アイルトン・セナ - (2020/07/11 (土) 00:08:15) のソース

&font(#6495ED){登録日}:2009/09/14(月) 01:11:42
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本名アイルトン・セナ・ダ・シルバ
Ayrton Senna da Silva 

1960年3月21日生
1994年5月1日没

ブラジル・サンパウロ生まれ。裕福な家庭で育ち、4歳からカートを始め、8歳でジープを運転できたという逸話もある。
後にフォーミュラ・フォード1600、2000、英国F3を経て、F1のレーシングドライバーになった。
F1では3度のワールドチャンピオンに輝いた(1988年、1990年、1991年)

イギリス「F1 Racing」誌において、史上最速のF1ドライバー、史上最高のF1ドライバーに共に1位で選出された。
日本では通称&font(#ff0000){「音速の貴公子」}として知られている。

若い頃には「ハリー」の愛称で呼ばれていた。 

所属レーシングチーム(F1)
①トールマン(1984)
②ロータス(1985?1987)
③マクラーレン(1988?1993)
④ウィリアムズ(1994)



・経歴

弱小チーム、トールマンからF1デビュー。豪雨の第6戦モナコGPで快進撃を見せ、2位まで上がるがレース中断。鮮烈なデビューイヤーを見せた。

翌年は名門ロータスに移籍、豪第2戦ポルトガルGPで初めてポールポジションを獲得。豪雨となった決勝では圧倒的な速さを見せ、終始トップを快走。最後は2位に1分以上の大差をつけて初優勝を決めた。

86年はルノーのパワー不足を嘆き、当時最強のホンダを搭載するよう働きかけ翌年念願のホンダエンジンを獲得したが、それでも2勝しか挙げることができず、ロータスのチーム力がもはや往年の力が無い事を悟る。

1988年、セナはトップチームの一角であるマクラーレンにホンダと共に移籍。チームメートは既にマクラーレンで2度チャンピオンを獲得していた[[アラン・プロスト]]。この二人は生涯ライバルとなっていく。

マクラーレンは[[MP4/4>McLaren-MP4/4]]という他を圧倒する速さを持ったマシンの開発に成功し、チームチャンピオンは早々に決めた。一方で、ドライバーズタイトルはセナとプロストがシーズン終盤まで一騎打ちを演じていた。

そんな中迎えた第15戦の日本GP。ここで勝てはチャンピオンが決まるセナはポールポジションからスタートするも、痛恨のエンジンストール。ホームストレートが下り坂だったおかげでエンジンが息を吹き返し最悪の事態は免れたが、14位まで順位を落としてしまった。しかし、そこから1台、また1台と前のマシンを交わし、51周レースの27周目にプロストに追い付き、次の週の1コーナーでプロスト抜きトップに出た。そのまま最後まで走り切り、初めてのワールドチャンピオンを獲得した。

1989年は波乱含みのシーズンを過ごす。
プロストと共にマクラーレン残留するも、第2戦サンマリノGPの再スタートで、セナがスタートで前に出ていたプロストをオーバーテイクをしてしまい、そのまま優勝。
二人は「スタートで直後に前にいた方がレースの主導権を握る」という紳士協定を結んでいたが、これをセナが破る形で優勝してしまったため、プロストの怒りを買う格好となる。
この事件により二人の間に大きな溝が出来てしまい、シーズン中のマクラーレンのガレージはまるで別チームの様な雰囲気が流れる程だった。

そして第15戦日本GP([[鈴鹿サーキット]])で事件は起こった。
予選はセナがポールを獲得したものの、スタートでプロストに抜かれる。
47周プロストに追いつき、セナはシケインで追い抜きを試みた。しかし、プロストはセナが並んだ瞬間にそのスペース塞ぎ、結果2台は接触。両者のマシンはそのままストップ。
プロストはマシンを降りてリタイア。しかし、ここで勝たなければチャンピオンの目がなくなってしまうセナはレースに復帰。マシンに傷を生い、修理のためにピットに入ったことから順位をいったん落とすが、最後は首位に返り咲きゴール。
しかし「接触後の復帰の際にシケインをショートカットし、正しいコースを通らなかった」という理由で優勝は取り消され失格に。チャンピオンもプロストの手に渡った。

1990年のシーズン前はFISA(FIA)から日本GPの接触事故を引き合いに出され「危険なドライバーである」という理由からスーパーライセンスを剥奪されかけるが、セナはホンダの説得されてFISAに謝罪をし、この話は取り消しに。プロストはフェラーリに移籍し、ナンバー2ドライバーとして代わりにベルガーが加入したことで、マクラーレンの完全なエースドライバーとなる。

しかし、それでもセナにとって最も厄介なドライバーがプロストであることは変わらなかった。
この年の前半8戦でセナが3勝、プロストが4勝を分け合い、ポイントは僅かにプロストがリード。フェラーリはマシンバランスに優れていた一方、マクラーレンはホンダのエンジンパワー以外に頼れるものがない状況。しかし神懸かり的な走りで後半に入ってからの5レースで3勝と2位2回を記録し、ポイントでプロストを逆転。その後の第14戦スペインGPではプロストが優勝しセナがリタイアとなってポイント差が縮まったが、セナがポイント首位のまま再び第15戦の日本GPをむかえた。今回は、プロストが優勝しなければセナのチャンピオンが決定的になる状況だった。

予選の結果は、セナがポールポジション、プロストは2位。

決勝レースのスタート直後、プロストはセナの前に出た。しかし、1コーナーでセナがプロストのインに飛び込み、両者は再び交錯。セナのマクラーレンとプロストのフェラーリはコースアウトして砂煙の中へ消えていき、たった9秒で二人のレースがチャンピオン争いごと終わってしまった(この件についてセナは後に故意でぶつけたと発言した)。

結局セナは&font(#ff0000){前年の復讐}という後味の悪い形で、2度目のチャンピオンを獲得することとなった。

1991年もセナはマクラーレンに残留。ホンダはV12のエンジンを開発し、マクラーレンのマシンに搭載した。

序盤、セナは好調そのもので、開幕から4連勝を上げる。

特に、第2戦ブラジルGPは本当に神懸かり的レースだった。マンセル、パトレーゼの猛追、シートベルトの不具合、雨、更にはギアの故障。
全てを超えて念願の母国初優勝を果たしたセナは無線から絶叫の嗚咽を漏らした。

しかし、中盤からウィリアムズのナイジェル・マンセルがセナのチャンピオンに待ったをかけた。

マクラーレンは相変わらずエンジンパワーこそ最強だったが、それ以外にライバルに比べ優位に立てる部分がなく、一方でウィリアムズはマシン全体バランスに優れいた。ウィリアムズに搭載されているルノーのエンジンは、単純な出力でホンダには及ばないが、それでもトップクラスにパワフルであり、一方で明らかにホンダのエンジンより軽くコンパクトだった。そして、シャーシ性能は明らかにマクラーレンを凌駕していたのだ。
序盤、ウィリアムズは信頼性不足からリタイア続きだったが、マシンの改良を重ねてその欠点を克服し、中盤にはウィリアムズが4連勝。セナとマクラーレンは、ライバルの優位を許してしまった。

その後、ホンダとマクラーレンのマシンも改良が進み、両者互角の戦いを繰り広げた。しかし、マンセルがマシントラブルに加えて自身やチームのミスによって勝てなかったレースでリタイアを重ねてしまった一方で、リタイアを1回に抑えて、勝てなかったレースでもポイントを確実に稼いでいたセナが徐々に優位に立っていく。

タイトル決定の地は、第15戦日本GP。またしても鈴鹿だった。ここでポールポジションを取ったのは、セナのチームメートであるベルガー。セナは予選2位。マンセルはその後ろ3位。決勝では、優勝しないとチャンピオンの権利が消えてしまうマンセルに対して、「2位のセナがマンセルを抑え込み、その間にチームメートのベルガーを逃がす」というチームプレーをマクラーレンが仕掛ける。セナの後ろで焦ったマンセルは、自らのミスでコースアウトしリタイア。これでセナの3度目のタイトル獲得が決定した。

1992年、セナはマクラーレンに残留し、チームメートもベルガーのまま。3年連続のチャンピオンを狙っていた。

ところが、シーズン序盤、前年のマシンをアクティブサスペンションという強力なデバイスで改良したウィリアムズとマンセルの独走を止められないでいた。
マンセルは、前年のセナを超える開幕5連勝。一方でセナは、信頼性のある昨年マシンの改良型で開幕の3レースを挑むも、まるでウイリアムズに歯が立たない。4レース目のブラジルGPで、急遽マクラーレンは完全な新型マシンを導入するが、セナもベルガーもマシントラブルでリタイア。熟成の進んでいないマシンは信頼性に欠けており、新車導入は完全に裏目に出てしまった。

そんな中迎えた第6戦モナコGPは語り草になるレースとなった。
セナは予選3位。その前にはウィリアムズの2台。ここでも大勢は以前の5レースと変わっていない。
しかし、決勝のスタートで、セナは予選2位のパトレーゼを抜き去ることに成功した。しかし、マンセルのスピードにはついていけず、そのままの順位を走行。しかし64周にマンセルがピットに入り、セナは首位に立つ。
終始、筆するに足りないぐらいの凄まじいデッドヒートを見せつけセナが優勝。関係者、ファンが度肝を抜かれた。

しかし、この年は最後までウィリアムズの圧倒的優位は揺るがず、年間タイトルはマンセルの手に。更にホンダがこの年いっぱいでF1活動一時休止を表明。

1993年。前年休養をとっていたプロストが、マンセルの引退によって空席ができていたウィリアムズから復帰することが決まった。

一方で、セナもウィリアムズのシートを得ようとしたが失敗し、マクラーレンに残留することに。マクラーレンは撤退したホンダに代わり非力な中古のフォード・コスワース(V8)を搭載することになった。これにより、マクラーレンの唯一の武器とも言えたエンジンパワーを失うこととなった。

誰もがプロストの絶対的優位をとセナの大きな不利を疑わなかったが、セナはバランスが高じたマシンで予想外の好調ぶりを見せた。フォードのエンジンはホンダは無論、ルノーに比べてコンパクトで軽く、これまで大柄で重いエンジンを積んできたことで問題になっていたシャシー性能の低さを改善することに成功していたのだ。
セナは開幕3レースで2勝を挙げる活躍。特に第3戦ヨーロッパGPでは、雨の中スタートで出遅れながらも、最初の1周目だけで5位からトップ立つという鬼神の如き追い抜きを見せ、そのまま3位以下を周回遅れにして優勝するという圧倒的なパフォーマンスを見せた。

一方、プロストはウィリアムズのマシンに不慣れで、スタートのミスやピットストップ時のエンジンストール、更にチーム側のミスに振り回され、思うようにレースができないことも珍しくなかった。

特に、第6戦のモナコGPではプロストはポールポジションからスタートするものの、その際フライングというミスを犯してしまい、それによるペナルティストップを受ける際にエンストで大きく遅れてしまうなど、失態を重ねてしまった。

そんな中セナは、プロストの苦戦とシューマッハのトラブルなどもあり同レースを優勝。モナコでは、通算最多の6勝目を達成した。

しかし、プロストがウィリアムズのマシンに適応しはじめてから優勝を重ね、更にはセナが中盤から暫く表彰台から遠退いたこともあって、最後はプロストがチャンピオンを獲得。

チャンピオン決定後の第15戦日本GPでは、予選2位からスタートしたセナが決勝では雨を味方に付けて優勝。久しぶりの表彰台に乗った。
最終戦のオーストラリアGPでは、セナは久々にポールポジションからスタート。そのまま逃げ切り2連勝を決めた。

レース後に、この年限りで引退を決めていたプロストと和解の握手。冷戦が終わった。セナにとって、生涯最期の優勝がこのGPであった。

運命の1994年、セナはマクラーレンからウィリアムズに移籍。引退したプロストの後任に収まった格好だ。マンセルもプロストも引退したことで、現役のチャンピオン経験者はセナだけ。そして、マシンはここ2年圧倒的なパフォーマンスを見せたウィリアムズ。セナの優位は誰の目から見ても明らかだった。

ところが、いざシーズンが始まってみると、セナの歯車は全くかみ合わなかった。開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業で[[ミハエル・シューマッハ]]に逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。
第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後に[[ミカ・ハッキネン]]に追突されてリタイヤ。
開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

そんな中むかえた[[第3戦サンマリノGP>1994年 F1世界選手権 第3戦 サンマリノGP]]は予選から重大事故が多発することになる。
まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こす。
結果的には鼻骨骨折というものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であり、セナは涙を浮かべならバリチェロを見舞っていたという。
翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーで[[ローランド・ラッツェンバーガー]]がクラッシュ。マシンの損傷はコクピットに穴が空くほど激しく、セナは心配のあまり、マーシャルカーで現場に駆けつけた。そこでセナはラッツェンバーガーの状態があまりに深刻であることを知ってしまった。
ラッツェンバーガーは、その後病院に搬送されたが、懸命の治療も虚しくこの世を去った。グランプリ中の死亡事故の発生は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、
電話で当時の恋人、アドリアーナに&font(#ff0000){「走りたくない」}と話していたことが後に語られている。それでも夜には落ち着きを取り戻し、レースに出場する決意を固めていたという。

そして迎えた5月1日決勝。
セナは開幕から3戦連続のポールポジションからスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。
そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312kmで走行中に突如マシンコントロールを失い、
そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、
セナが駆るマシン・FW16は大破した。

蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のセント・マジョーレ病院に緊急搬送されたセナであったが、
現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。享年34だった。 

イタリアの検察当局や司法当局がセナの事故における原因を調査し、ステアリングシャフトの故障が濃厚であるとしたが、明確な結論は最後まで出ることはなかった。
 


雨のセナと呼ばれるくらい雨のレースに強かった。
ただもともと得意だった訳ではなく、カートを始めた頃濡れたコースを走った時にボロ負けしたのが悔しかったため、
そのレース後路面に水をまいて走り滑り具合を研究したと言う。

天才と言われてるがかなりの努力家で負けず嫌いである。



・余談

趣味がラジコンの飛行機。日本の友人(ホンダ関係者)が毎年セナの為に作ってくれていた。

血液型はB型。左利き。

後述のように、「とんねるずの生でダラダラいかせて」や「笑っていいとも」など、日本のバラエティ番組に出演したことがある。

1992年の日本GPウィークのある日にフジテレビ系列の番組をジャック。宣伝や子供にカートの素晴らしさを伝えた。

また生ダラでアイルトン・タカこと石橋貴明とカート対決をし、(恐らくわざと)負けたために石橋にヘルメットをくれるよう要求され、セナも了承する。
が、それから程なくしてセナは事故で他界。ヘルメットはセナの死後に設立されたセナ財団を通し、石橋の手に渡った。

この番組に出演した際、セナはチョンマゲのカツラを被ったり、(石橋から半ば強引なフリによるものだが)ギャグをやったりと、
なかなか茶目っ気のある姿を披露してくれた。

食事がおいしいといわれたミナルディのモーターホームの常連客であり、その恩返しに現役最後の年は無給でミナルディから出走する計画をしていた。

なお、事故を起こした当該のウィリアムズ・ルノー・FW16は、イタリアの司法当局から2002年(事故から8年後)に返還された。すぐに車体は部品が第三者の手に渡ることを恐れ、ウィリアムズ家の敷地内で焼却され、土の中に埋められた。このため、再び事故の検証をしようにも車体の検証は不可能になってしまった。

なお、エンジンだけはルノーに返還され、ルノーのエンジニアがエンジンを徹底的に調査したが、特段エンジンには異常が認められなかった。また、ルノーの資本提携先である日産自動車もこのエンジンを調べ上げたが、やはり異常は認められなかったという。
 
甥であるブルーノ・セナが2010年にF1からデビューを果たし、2012年までの3年間を戦った。F1では叔父ほどの活躍はできなかったが、その後WECやフォーミュラEなど、様々なレースに参戦している。





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- ボーボボのルールが全くわからんゲームでボーボボが叫んでた「アイルトン・セーナー!!」  -- 名無しさん  (2014-07-31 12:06:04)
- ↑Zブロック基地のキバハゲ戦か……懐かしい話題を聞いた。  -- 名無しさん  (2015-11-02 07:51:52)
- 今宮さんと再会していてくれたら嬉しいな      -- 名無しさん  (2020-03-17 22:26:43)
- 「生ダラ」でセナが亡くなった後にヘルメットが届いた時、貴さん収録後大号泣したんだってね…。無理もない。共演してくれた時は貴さんの方が興奮してたし…  -- 名無しさん  (2020-07-11 00:08:15)
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