伊尹

登録日:2024/01/08 Mon 20:00:00
更新日:2025/02/15 Sat 21:46:58
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()(いん)とは、中国史の人物。
湯王(とうおう)に仕え、殷王朝の建国に携わった名臣として知られる。
なお殷は商という名でも知られる。実のところ中国では今も昔も「商」表記が一般的なのだが、本稿では殷で統一する。

姓は()、氏は()、名は()
「尹」というのは官職名で、個人の名前ではない。
また「()(こう)」という官職につけられたため、これを別名とされる。
湯王に「伊尹」に任命されるまでは伊摯(いし)というべきだが、本稿では断りない限り、一般に知られる「伊尹」の名で記述する。


【来歴】

◇出生

夏王朝末期から殷王朝初期に掛けての人物。
中国ではとりあえず紀元前1649年の出生だとしているが、もちろん「大体それぐらい」という意味である。

列子』によると、伊尹は空桑に生まれたという。現在の河南省・洛陽市の伊水県あたりと言われる。
墨子』の尚賢篇では、伊尹の素性は有莘(ゆうしん)という諸侯の娘に仕えていた下僕であったという。

水経注疏』の伊水篇にはこんな伝説がある。
「伊尹の母親は伊水のほとりに住んでいた。息子を妊娠していたとき、夢に伊水の神が現れて『臼に水があふれていれば洪水の兆候であるから東に逃げろ』と告げた。
 果たして彼女は臼に水があふれているのを見た。彼女は隣人たちに洪水が来ると告げながら逃げたが、洪水はあっという間に村を飲み込んだ。
 母親は空桑(地名ではなく、中に空洞のある桑の大木)に変化して、命と引き換えにその子を守った。
 洪水が終わったあとに、有莘氏の女がこの桑の木のなかから赤子を見つけて拾った。その子はやがて料理人に養われ、成長するに及んで賢能と人徳を磨いていった。
 殷は彼を尹に任命し、そこから伊尹といわれた」

別の説では、父親は屠殺と料理を専門職とする奴隷、母親は桑の葉を摘んで養蚕業を行う奴隷だったという。
父親のことに言及されるのは珍しいようだ。

この『水経注疏』の話はいかにも神話じみているが、とにかく出生が伊水流域であること、そして有莘国の料理人に養われる身となったことだけは確からしい。
やがて農耕に励みながらも、尭舜の道を楽しんで実践していたという。
また農業をする傍らで料理人の養父から料理の技術を教わった。もともとの勤勉さから、こちらの道も急速に飲み込んでいった。
長じては有莘国の君主・有莘氏からも見込まれ、料理人として仕えた。


◇殷の湯王

ところで、当時は禹を始祖とする夏王朝の末期である。君主は桀王(けつおう)。名は履癸(りき)
なお桀王の名前に関してだが、周代初期まで中国の君主は「十干王号」を用いた。そのため「桀王」という名は後世の諡号で、当時の彼は「履癸」が王号であったとみられる。また癸は十干の一つであるため、本名は「履」一字であろう。

当時はいわゆる封建制で、夏王朝を盟主として多数の諸侯国が同盟を組んでいた。有莘氏もそうした諸侯の一つである。
しかし、夏王朝はいつの頃からか勢力を減衰させており、諸侯の反乱が相次いでいた。
(この時代、遠くエーゲ海のサントリーニ島で大規模な火山噴火が起き、地球全土で大規模な気候変動が起きた。史書にも記述されている桀王在位時の天候不順や不作はこれが原因とも言われる)


これに代わって勢力を伸張させ、新たな盟主として期待を寄せられつつあったのが、大邑(しょう)大乙(たいいつ)、後世に言う殷の湯王(とうおう)である。
伊尹はやがて湯王に仕える。
甲骨文のなかには「大乙と伊尹を併せ祀る」との記載もあり、王と併称されるほどの存在だった模様。
(余談ながら、殷代の甲骨文字や金文字では大乙は湯ではなく「唐」となっているらしい)

この湯王に仕える過程は、『史記・殷本紀』には二つの説話が記録されている。

ひとつは、有莘氏の姫の下僕として仕えたという話。
もともと湯王に仕えたいという思いは伊尹にあったが、当時の身分制はほぼ絶対のものであり、春秋戦国時代のように「剣一本をひっさげて門戸を叩く」というわけにはいかなかった。
おりしも、有莘氏は姫を湯王に嫁がせるという政略結婚を進めていた。伊尹はこれを知ると、その姫に料理役の下僕として仕えた。
そしてその姫が湯王に嫁ぐと、伊尹は料理道具一式を携えて同行。滋味にすぐれた料理を出し、湯王が感心したところで徐々に王に接近した
やがて湯王は、この料理人がただの料理人ではなく賢人であると知ると、彼を抜擢した。
こちらは、伊尹のほうから湯王に接近しようとしている。
墨子』や『韓非子』はこの説に基づく記述をしている。

もうひとつは、湯王が伊尹を有莘氏から身請けしたという話。
湯王はかねてより伊尹が賢人であることを知り、なんとか味方に加えたいと願っていた。
そこで、有莘氏の領内にいた伊尹に何度も使者を送って宝物を差し出し、こちらに来てくれるよう懇願。
伊尹は五回も断った末にとうとう湯王に仕え、素王(王者の徳を持ちながら、王とならない賢人)や九主(三皇五帝のような過去の賢帝)の話を伝えて、湯王に王者のあり方を伝授した。
しかし、こちらの話では伊尹は湯王のもとを去り、いったん夏王朝に仕えた
やがて桀王統治下の夏王朝はもう長くないと悟り、再び湯王の元に戻って、改めて殷に仕えた。
こちらでは、湯王の側から伊尹を招聘している。
孟子』万章篇ではこの説が詳しく説明されている*1
また『孫子』用間篇ではいちど伊尹が夏に仕えたことについて「湯王の密命でスパイとして赴任した」としている。


いずれにせよ、伊尹は湯王に仕えると、その参謀・軍師的立ち位置として活動を開始した。
儒家(孟子)は「尭舜の道を湯王に教えた」というものの、実際は夏王朝攻略の方略を湯王と練ったと言うことだろう。
また湯王には以前から仲虺(ちゅうき)という賢臣もおり、伊尹と仲虺が両翼となって湯王を補佐したという。
(仲虺は薛を領邦にしたという。また『尚書』には「仲虺作誥」なる文があった)


◇夏殷易姓革命

時に夏王朝は、三代前の甲孔の時代から諸侯への統制が乱れて兵乱が多発していた。
また当代の桀王(履癸)も、有施氏を討伐してその娘末喜(ばっき)を王妃とすると彼女のため宮殿を建てる、諫言を試みた臣下の関龍逢を斬り殺す、討伐した諸侯・岷山(びんざん)氏の娘を強引に奪って愛妾にする、それで寵愛の薄れた末喜を追放する、参勤した湯王を捕らえて監禁するなど、各諸侯の反感を買っていた。

なお、『竹書紀年』によると末喜は桀王から追放されて憤慨し、伊尹と同盟したという。
『史記』や『列女伝』を筆頭に、一般に末喜は桀王の寵愛を一身に受け、ともに快楽と堕落の限りを尽くしていたと言われるのだが、『竹書紀年』では少し違った趣で描かれている。
韓非子』難四篇にも「桀王は岷山氏の娘を求めて攻め込んだ」という話が書かれており(末喜追放のことは書かれていないが)、春秋戦国時代後期にはそういう話も知られていた模様。
また末喜が追放されたのは洛水地域だったと言うが、伊尹の故郷・伊水は洛水のすぐ近く。
『孟子』や『孫子』用間篇などに記載された「伊尹は桀王のところにスパイに赴いた」というのはこのあたりの消息かも知れない。
やはり春秋戦国時代に編纂された『国語』には「伊水と洛水が涸れて夏が滅んだ」という記述もあり、伊尹と末喜(およびこの二人を中心とする勢力)の同盟は夏王朝にとってかなりの脅威となったようだ。


湯王は夏王朝転覆のため、まず夏王朝の首都・斟鄩(しんじん)(現在の二里頭遺跡)と街道でつながっている(はく)(現在の二里岡遺跡)という場所に本拠を移す。
続いて、各地の諸侯から信頼を受けるべく、近隣諸侯で神々・祖先霊への祭礼を欠いていた葛氏を討伐した
この葛氏は、宗廟の祖先や神々の祭祀を怠ったばかりか、話を聞いた湯が「祭礼のための供物にされたし」と葛に送った家畜を自分が食らってしまった。さらに、湯が再び家畜を送ると、その使者に立った子供まで殺害した。これで、とうとう湯は葛を討伐した、という。
もっともこのあたりはプロパガンダだと思われるが、「祭礼を怠る者や兵乱を起こす者を討伐して、各地の諸侯に『秩序をもたらす新たな盟主』としての存在感を示す」というのは実際に湯王もやっただろうと思われる。

やがて湯王は、桀王・夏王朝への貢納や入朝を停止。これは湯王への本格的な反抗であった。
桀王は王者としての威厳を示すべく、各地の諸侯を糾合してこれを討伐
この時は九つの諸侯が夏サイドに合流したため、不利を悟った湯王が降伏してわびを入れた。

が、一年後には再び湯王が反乱。
しかもこの時には、先の戦いで桀王側についた諸侯のうち顧氏・韋氏・昆吾(こんご)の三つを、拡充した戦力で打破していた
昆吾氏については、桀王の失政に乗じて夏王朝への反乱を起こしたが、湯王は「夏王朝傘下の筆頭諸侯として、夏王に代わって」これを討伐したという。

桀王は湯王を討伐するべく、再び諸侯に派兵を発令するが、今度は諸侯が集まらなかった。
夏王軍と殷王軍は鳴条で激突。今度は、兵力が不足した夏軍を、湯王を中心とする連合軍が打ち破った
敗走した桀王は都からも落ち、南巣(安徽省の巣湖市・居巣区)に逃げ込んで余生を送ったと言われる。「鳴条で戦死した」とも言われるが、少数のようだ。
いずれにせよ、中国の諸侯の盟主としての夏王朝はここに滅亡し、以後は殷王朝が中国の支配者として、長期政権を築く。
ただ、湯王は戦後処理の一環として夏の子孫(というか亡命した桀王本人?)をどこかの諸侯に封じた。その子孫は殷末まで続き、周公旦の封建で杞国に封じられた。「杞憂」という言葉はこの杞国の話である。


◇伊尹と太甲

さて、桀王にとって代わった湯王(大乙)は、伊尹を尹に封じた。伊摯が正確に「伊尹」と呼ばれるのはこの時からである。
この「尹」については各文献や学者でいろいろと言われているが、要するに伊水一帯を治める諸侯にして殷王朝の傘下諸侯の筆頭、といったところだろう。
春秋戦国時代の楚の宰相を「令尹(れいいん)」というので、諸侯にして宰相的な存在、江戸幕府で言うところの老中*2のようなものであったと推定される。

湯王もやがて死没するが、当時の王権は兄弟相続だったので、その王位は湯の弟である外丙へ、また外丙の死後は末弟の仲壬へと受け継がれていった。
仲壬の死後、湯王の嫡孫・太甲が即位する。息子ではなく孫なのは、湯王の長男だった太丁は父より先に死去していたからだ。

しかし太甲は、湯王が定めて叔父たちが受け継いできた礼法を破る振舞いに多く及んでいた。
これに怒った伊尹は、湯王の霊廟があったという地に太甲を幽閉して、「伊訓」「肆命」「徂后」などの書物を書き送って、教育をし直したという。
またその間の政治は、伊尹が摂政として天下の政務を差配した。

幸い、太甲は自分のかつての行いを改悛し、伊尹の訓戒を修めて仁義に復したというので、伊尹も彼の監禁を解き、太甲を改めて殷王に復位させた
伊尹が太甲に代わって統治していたのは三年だったという。

太甲の没後は、王位は息子の沃丁に受け継がれる。
伊尹は沃丁の八年に死没した。湯(太乙)、外丙、仲壬、太甲、沃丁の五代の王に五十余年に渡って仕え、没したときの年齢は百歳だったという。


ただ、このあたりは『孟子』にて、弟子たちの「過去の偉人にはこれこれと言った儒教的徳目に合わない伝説もありますが」という質問に対して、孟子が「いやそうではない、本当はこれこれこういう話の方が正しい、そういった非儒教的な伝説は俗説だ」と反論する場面である。
要するに儒教の理想にあわせた偉人伝」を語っている場面での「伊尹の摂政」であるため、実際にそこまで浮世離れした美談であったとは少し信じがたい。没年がちょうど百歳というのも出来すぎである。

実際、『竹書紀年』では孟子のいうような美談ではなく「伊尹は太甲を放逐したあと自らが王位に就き、七年間にわたって君臨した。しかし太甲は七年をかけて勢力を回復し、ついに伊尹を殺害して王位を奪還した」「ただし伊尹の遺児である伊陟・伊奮には、伊家を復興・継承させた」とする。
こちらも、決して無条件に信用できるものではない。この直後には「周公旦も同様に甥の成王を放逐して、自ら王位に就いたが、やがて成王によって巻き返されたのだ」としており、伊尹と周公旦を被らせている。
しかし、もしそれが事実なら、周公旦が殺されもせず、本人も息子たちも諸侯として取り潰しもされていないのは不自然である*3。伊尹は『竹書紀年』では殺害されたことになっているのでなおさらだ。

要するに『孟子』も『竹書紀年』も、自説にあわせて伊尹(や周公旦)の伝説を書き起こしているわけで、そっくりそのまま真実だとは肯んじがたいところである。
殷代の資料はよく分かっていない部分も多く、なおさらである。
(例えば周公旦なら、周公旦の子孫である周公や魯侯の存在は文献のみならず出土資料からも明らかなのだが、伊尹の資料となるとそうはいかない)

ただ、どの言及でも「伊尹が太甲に対して監禁する行いがあった」という点では一致している。
そういった伝説の根拠となる事象はあったのだろう。


◇没後

伊尹が百歳で死ぬと、あとは息子の伊陟・伊奮が継いだ。
殷の王位は、沃丁の死後は弟の太庚が継承。
太庚死後は、太庚の長男の小甲、次男の雍己、三男の太戊へと兄弟相続した。
伊陟は、太戊の代に政策の諮問を受けたことが『史記』に記されている。

沃丁と太庚は湯王の曾孫で、その太庚の子が太戊なので、湯王からすると玄孫に当たる。
伊尹が仕えてから五代目の子孫に仕えたのが伊尹の息子、とは少し考えづらいので、伊陟は伊尹の孫ぐらいかも知れない。


◇出土資料

甲骨文字の資料では、殷代末期の甲骨文に伊尹の存在が見られるという。
それによると、殷では末期でも伊尹を祀っており、生贄として捧げる家畜は殷の歴代王と同じ数が用意されていたとのことで、これは最大級の敬意が払われていたとみて良いだろう。
とすると『竹書紀年』の記述はやはり信用しがたいところか。『孟子』もそのまま鵜呑みにできるわけではないが……

発掘資料によると、夏王朝の都・斟鄩(しんじん)の跡地とみられる望京楼遺跡にて、大規模な戦闘の痕跡が見つかっている。
見つかる遺骨の多くは切断や打撲のあとが見られ、建物もほとんどが破壊された状態で見つかるという。やはり当時も「戦争」と言うにふさわしい規模の戦いがあったようである。


【評価】

伊尹は後世、王業を支える名臣として知られるようになった。
例えば『孫子』や『韓非子』では太公望らとともに君主をよく補佐する名臣として伊尹の名を挙げている。

しかし一方で主君である太甲を監禁・放逐したエピソードから、『竹書紀年』に記されたように「大逆の臣下」「臣下が君主に危害を加える例」としても記憶されていた。こちらは周公旦とは大違いである。
前漢の権臣・霍光(かくこう)が、一度は昌邑王劉賀を帝位につけながら、わずか27日で「素行不良」といいながら廃し、代わりに宣帝を即位させたこととあわせて、こうした「君主の素行不良を口実に臣下が君主の首をすげ替える、大逆の行い」を「伊霍之事」といった。
『三国志』で少帝廃立と献帝即位を画策する董卓に対して、盧植(ろしょく)がこの故事を引き合いにして反発したという記述がある。
(ニュアンス的には「伊尹と霍光だから君主の廃立というものができたのだが、董卓ではムリ」というもので、伊尹を直接に大逆の臣下とそしっているわけではないが……)
『竹書紀年』が発掘されたのは呉が滅亡する直前の279年だったので、 盧植はともかく 陳寿は恐らくこの『竹書紀年』を読んでいただろう。発掘前にこのことが人口に膾炙していたかは不明だが*4、当時はかなりセンセーショナルな話題となったであろう。


【伝説】

◇散逸した文献

古代に登場した伝説的な人物であるため、彼にまつわる、または彼の名にあやかった文書・書籍は非常に多い。
さらに殷王朝初期の人物ということで、様々な分野で「始祖」として扱われているのも特徴的。

『漢書・芸文誌』では、伊尹の情報をまとめた「伊尹五十一篇」や「伊尹説二十七篇」などがあったという。残念ながら現在は伝わらない。
この「伊尹五十一篇」は道家の項目に筆頭として記されていたことから、後世伊尹は道家思想の系譜に分類された。
「伊尹説二十七篇」は小説家*5の項目だが、ここでもやはり筆頭に置かれている。

『漢書・芸文誌』に三十二巻あったという医書『湯液経法』は伊尹の著書という伝説であり、医学の祖としても扱われている模様。
『湯液経法』自体は唐代には散逸したものの、一部医書に引用された文章でそうしたことが記録されている。

多くの古典で、伊尹は料理人として人生をスタートさせたと言われている。
おかげで後世の料理人から、厨房の祖として祀られるようになった。

夏王朝を殷王朝が滅ぼした際の詳しい記録は、もちろん残っていない。だから伊尹がどの程度軍事知識を持っていたかは不明である。
しかしいずれにせよ、夏王朝に勝利した側の重要人物であることは確かなので、兵法家の始祖としても扱われている。
上述した「伊尹五十一篇」や「伊尹説二十七篇」についても、班固の注釈によると、兵法について多く記してあったといい、春秋戦国時代にはそういう認識であったようだ。
まあ「兵法家の始祖」の位置は一般には武成王こと太公望が置かれがちだけど。


【余談】

日本史にも伊尹にまつわる人物は登場している。
藤原家で初めて「関白」という称号を冠した藤原基経は伊尹の官職「阿衡」に由来する「阿衡事件」を起こして藤原氏の権勢を天下に示したことで知られる。
また藤原伊尹という、その名もずばり伊尹に由来する人物もいる。




追記・修正は三年間にわたって引きこもった人物にお願いします。

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最終更新:2025年02月15日 21:46

*1 正確には、ある弟子が「伊尹は料理人として湯王に接近したということですが」と質問したのに対して、孟子が「そうではない」として説明した内容なので、前者のほうがよく知られていたようである。

*2 幕府行政をつかさどり、各地の大名にも指導をするが、一方では彼ら自身も土地を治める大名でもある。

*3 長男は魯の諸侯だが、周公旦自身も周という国(もちろん武王の子孫の周王朝とは別)の諸侯で、その座は長男の家系が継いだ。そして「周公」の名を冠する子孫はその後も西周の歴史によく登場する。「共和政治」の語源の一人である周定公、春秋戦国時代初期の周公黒肩など。

*4 同じく『竹書紀年』記載で有名な「舜は尭を駆逐し、禹は舜の後任だった伯益を殺した」という話は『竹書紀年』発見前の『韓非子』『史記』にも記してあり、当時から広く知られていた。

*5 もちろん現在的な意味での「小説家」ではなく、要するに「くだらない文言を書く連中」という差別的な意味合い。ちなみに「小説」の対義語は「大説」と言って、「儒教経典に基づく高尚な文章」という意味がある。