藤原伊尹

登録日:2024/01/08 Mon 20:30:00
更新日:2025/03/16 Sun 09:53:50
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藤原 伊尹(ふじわら の これただ)は、平安時代中期の公卿・政治家・歌人。
伊尹」とは、古代中国・殷の湯王に仕えた名臣が由来である。

西暦924年(延長二年)から972年(天禄三年)の人物。
藤原北家・九条流の出身で、父親は右大臣・藤原師輔(もろすけ)

妹が生んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達した。
最終階位は摂政・太政大臣(924年~972年)。


【来歴】

◇村上帝時代

西暦924年(延長二年)、生誕。

941年(天慶四年)、従五位下に叙爵されて初昇殿、時に村上天皇の御代。
天暦・天徳年間に右兵衛(すけ)→左近衛少将→左近衛権中将(ごんのちゅうじょう)武官として昇進、また五位蔵人(くらんど)も兼任した。
また二人の弟も若手ながら宮中に入っているが、やはりこの時点ではさほどの影響力はなかった。
一方、妹の安子は村上天皇のお気に入りとなり、中宮(皇后)となった。
彼女は男児を三人も産み、師輔の家が外戚としての地位を固めた。

960年(天徳四年)、父・師輔が急逝する。
この時点で、長男伊尹は従四位上・蔵人頭兼左近衛権中将、次弟兼通は従四位下・中宮権大夫、三弟兼家は正五位下・少納言。いずれも宮中では高い地位ではなかった。
しかし村上天皇は中宮安子の産んだ長男・憲平親王を皇太子として定めており、息子の叔父に当たる伊尹も帝の意向で、960年に参議に就任。
七年後の967年(康保四年)には従三位・権中納言に昇進する。
弟の兼通・兼家も相次いで蔵人頭に推挙・任命されており、伊尹の一族を挙げて村上天皇との関係を強化した。

◇冷泉帝時代

この967年は村上天皇が崩御されるが、幸いにも伊尹の甥である憲平親王が即位、冷泉天皇である。
この時点で伊尹は大臣を経験したことはなく、伯父の実頼(さねより)が関白太政大臣に就任したが、じっさいに政治を主導していたのは伊尹を中心とした兄弟だったという。
年末の十二月には権大納言に任じられ、翌968年(安和元年)正三位に昇格。
さらに伊尹の娘・懐子を冷泉天皇の女御として入内させており、この968年には師貞親王が生まれている。

ところで冷泉天皇には「狂気の病」があり、長い在位は望めなかった。
伊尹の孫の師貞親王はまだ東宮(皇太子)に立てるには幼すぎたため、東宮には同母弟の守平親王が立てられた。
冷泉天皇の同母弟には為平親王と守平親王がいて、守平親王のほうが年少だったので、長幼の順に従うなら為平親王もありえたのだが、為平親王の妃が左大臣・(みなもとの)高明(たかあきら)の娘であったことから「源氏が外戚になると我々が困る」という藤原氏の意向が働いていた。
この源高明という人物は醍醐天皇の第十皇子が臣籍に降下したもので、いわゆる「一代源氏」といわれる人。
もともとは伊尹の妹を妻として迎えて、支援を受けていたが、この頃には関係が悪化していた。
はたして翌969年(安和二年)、高明は「謀反」との讒言を受けて失脚、大宰府へと左遷された*1
安和の変であるが、この事件の黒幕は伊尹ではないかという陰謀論が当時からあったようだ。

同年、冷泉天皇は譲位して守平親王が即位。円融天皇である。
円融天皇の東宮には、伊尹の外孫である師貞親王が立てられた。

◇円融帝時代

970年(天禄元年)に右大臣就任。
同年には伯父・実頼が死去、その後を継いだ伊尹が藤氏長者となり、摂政に任じられた。翌年には太政大臣に任じられ、正二位に進む。
こうして絶頂期に到った伊尹であるが、その翌年の972年(天禄三年)、突如病に倒れる。
円融天皇は病気回復のため医者を大勢送るなどしたが、死期を悟った伊尹は十月末に上奏して摂政を辞任、それからほどない十一月一日に世を去った。
享年49歳、死後に正一位を追贈され、諡は謙徳公とされた。

◇死後の動向

伊尹には数人の男児がいたが、そのほとんどが若年にして死亡してしまう。
唯一長命だと言えたのが五男の藤原義懐(よしちか)だったが、彼も兄たちの相次ぐ急死や、父の死による勢力減退などが響いて、不遇寄りの生活であった。
とはいえ、円融天皇の東宮・師貞親王にとっては数少ない外戚ということもあり、まだ可能性はあった。

伊尹の急逝から十二年が経過した984年(永観二年)、円融天皇が譲位して、伊尹の外孫である師貞親王が即位する。
花山天皇である。
義懐はこの年の正月に従四位上に叙任されており、さらに花山天皇即位に伴ってその年のうちに正三位に、翌年には従二位・権中納言にと、急速に昇進していく。
権中納言というのはそこまで高官ではないものの、かつて叔父(伊尹の弟)兼通が天皇の伯父ということで権中納言から一気に内覧内大臣に昇進し、そのまま関白に就任した前例もあったため、義懐もまた次の大臣・摂関の有力候補だった。
藤原北家の魚名流、藤原惟成とは、花山天皇を支える同僚だった。

ところが、花山天皇や藤原義懐・藤原惟成を中心とした勢力の政策に、関白の藤原頼忠らが反発し始めた。
彼はかつて伊尹の伯父で支援者だった、藤原実頼の次男であった。

さらに、右大臣・藤原兼家の徒党も反発、伊尹の弟で、藤原義懐からすると叔父である。
兼家は皇太子・懐仁親王の外祖父で、花山天皇には早いこと譲位してもらいたかったのだ。
そういうわけで宮中は義懐・頼忠・兼家の三つ巴となった。
骨肉相食むとはまさにこのこと。

しかもこの時期、花山天皇には女性問題が起きた。
彼は、藤原為光の娘・忯子(よしこ)に心を引かれ、彼女の入内を求めた。
折良く、忯子の姉は義懐の正室であり、天皇の命令を受けた義懐は為光を説得、娘の入内を納得させる。
入内した忯子は懐妊したのだが、体調を崩し、しかも天皇が心配するあまり頻繁に使者を送ったりしたため、ストレスにさらされた彼女は病状が悪化、なんとか出産まで行くものの、結局母子ともに死去してしまった。

ショックを受けた天皇は、出家して忯子の供養をしたいと言い始めた
義懐は天皇とは長い付き合いであることもあって「一時の気の迷い」と見抜き、惟成とともに思い直すよう諫言を続けた。
この動きには、政敵であった関白・藤原頼忠も翻意するよう懇願している。

ところで藤原忯子が亡くなったのは寛和元年七月のことだが、一年後の寛和二年六月、花山天皇は深夜に突如、宮中から消えた
密かに接触した藤原道兼に促されて、夜陰密かに元慶寺へと移動し、そこで出家したのである。
また道兼の兄・道隆たちは別働隊として、三種の神器を持ち出して皇太子のもとに送っていた。
「寛和の変」であるが、この事件は道兼兄弟の父親、藤原兼家――藤原伊尹の三弟で、義懐の叔父が、黒幕として指揮したものだった。

もともと、長兄伊尹の死後の関白の座に誰がつくかで、次弟兼通と三弟兼家は争っていた
結局「年長者から」ということで兼通が先に昇格していったが、兄弟の恨みが消えるはずはなく、兼通は弟・兼家の昇格を妨害し、また兼家は兄・兼通が危篤に陥ると「兄貴は死ぬ、次の天下はおれだ」とばかりにわざわざ兼通邸の門前を素通りして宮廷に参内。
さらにそれで激怒した兼通は病身でありながら牛車に飛び乗ると急発進させ、そのまま宮中に参内すると、死の間際に関白の後任に先述の藤原頼忠を指名し、弟・兼家を降格させるという措置も執っていた。
さすがの兼通も死力を振り絞ったため、直後に死亡する。

そんなこんなで、兼家は権力奪取のために野心をたぎらせていたのだ。
そして花山天皇の傷心につけ込んで、見事に長兄の息子である義懐を追い落とし、一条天皇の擁立に成功したのだった。
兼家の権勢はその後も増していき、彼の五男・藤原道長に至って全盛期を迎える。

結局、気付くのが遅れた義懐が花山天皇を発見した時には、天皇はすでに出家していた。
敗北を悟った義懐は惟成と共にその場で出家
息子たちも時期は前後するが、多くが父の後を追うように出家していった。
以後、世俗とはほとんど関わらず(旧知の人々との最低限の交流は残したが)、仏道修行に残りの人生を捧げたという。
彼が死没した際には「きっと極楽往生を遂げたに違いない」といわれたという。

◇孫・藤原行成

伊尹の三男・藤原義孝は、22歳で亡くなったが、後世に「中古三十六歌仙」の一人にあげられるほどの歌人であったという。
その遺児に藤原行成という人物がおり、彼は書家として非常に高名となった。
三跡」「四納言」とか呼ばれた。
また彼は政界においても躍進し、藤原道長をその優れた理論で補佐した。
道長の娘・彰子が入内する際には、彼が理論を提供したことは有名。
その家系は代々書道に励み、やがて世尊寺家として名を馳せた。
世尊寺家は公卿としては振るわず、その書道も埋没しないための一芸のようなものではあったが、とにかく室町末期まで名を残すことにはなったという。


【余談】

伊尹は大胆不敵な人物で、また派手好みだったという。
寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたらしい。
父・師輔は子孫に「倹約」を遺訓したが、伊尹は守らなかった。

一方で政治手腕に加えて和歌にも優れており、『後撰和歌集』の編纂にも関与、その中に四十近い作品が収録されている。
また一首が「謙徳公」名義で「小倉百人一首」にも採用されている。
この能力は孫に継承されたと言っていいだろう。




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最終更新:2025年03月16日 09:53

*1 なお源高明は2年後の971年(天禄二年)に赦免され、翌年には帰京しているが、政界復帰はせず982年(天元五年)に69歳で世を去った