藤原基経

登録日:2024/01/08 Mon 21:00:00
更新日:2024/02/22 Thu 16:47:50
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藤原 基経(ふじわらのもとつね)は、平安時代の公卿。
藤原北家*1の一員。
清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り、藤原家の歴史でも特に重要な「関白」に任じられた最初の人物。
「阿衡事件」でその名をとどろかせた。
(836年~891年)

【生涯】

◇前歴

もともと中納言・藤原長良(ながよし)の三男だったが、時に摂政として権勢を誇っていた叔父(長良の同母弟)・藤原良房に子供がいなかったこともあり、見込まれて彼の養子となった。

仁寿元年(852)に元服したが、この式場が東宮(皇太子の住居)で、しかも時の帝・文徳天皇が自ら加冠する程の厚遇を受け、そのまま正六位上に叙任された。
斉衡年間から天安年間(854~859)に左兵衛尉→少納言→左近衛少将→蔵人頭と昇進し、貞観年間(859~ 877)に左近衛中将、参議に任ぜられて公卿に列する。

貞観五年(863年)、宮中で御霊会(ごりょうえ)が挙行された。
このころの平安京では地震が頻発して疫病も流行し、御霊会の翌年には富士山が大噴火するなど、天変地異が起きていた。それが、早良親王*2など政争によって消された人々が怨霊となって祟りをしている、と恐れられていた。宮中でも、大納言二名*3を含めて大勢が病死しており、人ごとではなかった。
そうしたいわゆる「祟り神」となった怨霊を慰め、祟りを鎮めるべく、名誉回復を兼ねて行われたのが「御霊会」であり、後の「祇園祭」はこれをルーツとしたという。

藤原基経は、この863年の御霊会で行事の総指揮を執ったという。
養父で太政大臣である藤原良房の引き立てではあるが、当時27歳の若手政治家としては順調な滑り出しである。

◇応天門の変

事の起こりは、大納言・伴善男(とものよしお)が左大臣・源信(みなもとのまこと)の追い落としを図っていたことである。かつては「源信に謀反の噂があり」と誣告したこともあった。
そして貞観八年(866年)、応天門で突如火災が発生。内裏の火事とあって朝廷は大騒ぎとなり、しかも伴善男が「放火の犯人は源信だ!!」と告発した。
そもそも応天門は旧名を「大伴門」といい、伴氏*4が造営したもので、源信が伴氏を呪って火をつけたといった。
右大臣・藤原良相*5は伴善男の言を容れて、源信捕縛を発令して兵に屋敷を包囲させた。

その時の指揮官が左近衛中将、藤原基経だった。
ところが彼は状況が怪しいとみて、まず養父の太政大臣・藤原良房に連絡を取った。良房は慌てて清和天皇に奏上して源信を弁護し、包囲網は解除となる。
一方で伴善男には、彼こそ応天門放火の真犯人という告発がもたらされていた。

この事件調査は朝廷に大混乱をもたらした。
かたや大納言・伴善男が取り調べを受け、かたや左大臣・源信は自宅謹慎し、また右大臣の藤原良相もこの時期は病気がちで政務が執れなくなっていた。政府の重役がこぞって動けなくなったのである。
おかげで、名誉職になっていた太政大臣・藤原良房が摂政として政務復帰することになった。

さて火災調査においては、陰陽寮から「天皇家の陵墓が何者かに穢された。本件はその祟りである」という報告が来ていた。実際、陵には何者かが侵入し、樹木を伐採していた。
それで「陵守の怠慢」ということで決着がつきかけたが、ここでさらに別の動きが出た。

先に「伴善男こそ放火の真犯人」と告発した人物は、備中権史生・大宅 鷹取(おおやけのたかとり)という人物だったが、彼は伴善男とその従者たちに襲われて娘を殺され自身も負傷した。
放火事件とこの殺傷事件は別口で調査が進んでいたが、殺傷事件の方で伴善男の従者が逮捕され、厳しい取り調べの結果ついに自白した。
しかもその自白が、鷹取父娘の殺傷だけではなく、応天門の放火についても及んでいたのである。
これで伴善男の再審問が始まり、ついに彼も応天門の放火を実行したと自白した。

この「応天門の放火」に関与したとして、大伴氏=伴氏・紀氏を中心とした古代日本から続く名門貴族の有力者が大勢流罪となった
さらに、左大臣・源信と右大臣の藤原良相も事件処罰からほどなくして世を去り、残った摂政・藤原良房が朝廷の全権を掌握した。
その良房の養子・藤原基経も台頭し始めた。彼はこの年、従三位・中納言に叙任された。

◇昇進

応天門の変で名を挙げた基経は、左近衛中将→左近衛大将兼陸奥出羽按察使→大納言→右大臣と累進。
この右大臣となった貞観14年(872年)に、養父良房が逝去。
しかしこの時点で基経も貫禄をつけており、また基経の実妹・高子清和天皇の第一皇子・貞明親王を生んでいて、外戚としての立場も確保していた。
おかげで養父の死にも動ずることなく政界の実権を握り続け、翌年には従二位に叙任された。

貞観十八年(876年)、清和天皇が譲位して貞明親王が陽成天皇として即位する。陽成天皇はまだ九歳だったので、その伯父・基経が摂政となった。

元慶元年(877年)、祇園祭のために牛頭天王を祀る社壇を基経が寄進。
祇園祭が始まったのは数年前の貞観十一年(869年)だが、これは「全国の疫病は牛頭天王の祟りである」という声に応じて始まったもので、かつて基経が監修した御霊会に起源を置くものだった。
基経自身も敵が多かったこともあって、こうした祟りを治める儀式には関心が深かっただろう。


元慶二年(878年)、出羽国で「元慶の乱」が起きる。
もともと元慶初年は全国で飢饉が起きていたが、東北地域ではその被害は特にひどく、さらに秋田城司は長年、現地で暴政を敷いていた。
それで我慢の限界に達した蝦夷が大反乱を起こしたのである。
秋田城司・介良(けら)岑近(みねちか)と出羽守・藤原興世(ふじわらのおきよ)は恐れをなして逃亡し、最上郡の郡司代行・(ともの)貞道(さだみち)が戦死。
朝廷は陸奥国の藤原梶長(かじなが)を指揮官として出羽国の軍も合流させた大軍を送り込んだが、蝦夷の猛反撃によってこの援軍も壊滅。藤原梶長はほうほうの体で逃げ、大量の物資が鹵獲され、秋田一帯と出羽北部のほとんどが蝦夷の支配下に収まった。

この事態に対して、基経を中心とする朝廷は、左中弁・藤原保則を出羽権守(出羽守代行)に任じて討伐にあたらせた
この藤原保則は、かつて備中・備前国の国司をしていたころに善政を敷いており、苛政を敷くようなタイプではなかった。
また保則は武人として知られる小野春風(はるかぜ)の起用を願い、朝廷はこれも許可。彼は鎮守府将軍に任命される。
さらに坂上田村麻呂の曾孫・坂上(さかのうえの)好蔭(よしかげ)を陸奥介とし、この三名を中心とした討伐隊が赴任した。

現地に着いた保則は、まずは兵を集めて防衛線を固めたが、その後は攻勢に出るのではなく各国で管理されている穀物を開放して蝦夷に配給し、生活環境の保護に努めた
果たして蝦夷は、今度の国司が敵対するような相手でないと知って、徐々に降伏していった。
朝廷は「蝦夷を殲滅しろ!」と激しい命令を発していたが、保則は出羽国の現状を報告したうえで「寛政を行い、逃亡した蝦夷を呼び戻すことこそ賢明であり、武力殲滅はよろしくない」という立場を貫徹。
朝廷はついにこの意見を容れ、翌年春には軍を解散したのだった。

基経は現地に赴任したわけではないが、彼が抜擢した藤原保則が善政を敷くことによって兵を損なわず反乱を治めたのは、やはり基経の影響が大きかったと言える。
一方でこの顛末は、かつての坂上田村麻呂の時代のように朝廷の武力によって蝦夷を征服し続けることが出来なくなっていたことも意味していたが、それが朝廷権力そのものの無力化につながるのはまだ先のことである。


元慶三年(879年)にはかれこれ約50年ぶりの「班田収授」の開始、歴史書「日本文徳天皇実録」の完成などを行う。
元慶四年(880年)には太政大臣に、翌年には従一位に叙任され、その権威は群を抜いていた。

元慶四年(880年)十二月、清和上皇が崩御。
元慶六年(882年)、陽成天皇が元服する。


◇周囲との軋轢

しかしこの頃から基経の周囲で軋轢が激しくなり始めた。
もともと陽成天皇の母・高子は兄の基経と非常に仲が悪かったそうで、また基経も妹がすでに宮中にいるのに、自分の娘たちを入内させていた。
高子としては、兄の娘たちが皇子を産んでしまえば自分の息子が廃嫡されかねないという危険がある。それで兄妹関係はますます悪化した。

また陽成天皇も基経を疎み始めた。陽成天皇の元服二年前の元慶四年、死の床にあった清和上皇が「基経を太政大臣に」と推薦したところ、基経はこの摂政任命に対して激しく固辞した。
確かに「三回断って、四回目に受ける」というのは定番の儀礼であるが、基経は五回も断り続け、しかもその間の数ヶ月にわたり屋敷に引きこもった。
彼は現役の摂政で、天皇が元服前では親政も出来ないため、政務は完全に停滞した。清和上皇の葬儀も混乱したであろう。

陽成天皇と妹・高子からの隔意を察した基経は、摂政だったのが天皇元服に伴い役目が終わるというのもあって辞職を申し出るが、陽成天皇はこれを却下。
すると基経は当てつけのように屋敷に戻り閉門してしまう。おかげで政務はまた停滞した

また翌年には宮中で天皇の近侍が何者かに撲殺された。
犯人も真相も一切不明だったが、「陽成天皇が自ら撲殺した」という噂が流れ、しかも陽成天皇にはそのほかの醜聞がいろいろと流れるようになっていた。
天皇は好きで、厩舎を内裏に作り飼育していた、しかもその飼育番は内裏には容れないはずの低い身分だった、ということもあった。
これを知った基経は、宮中に踏み込むと馬や飼育番などの側近を放逐させた

しかしこうした事件が起きた、あるいは天皇の禁中に臣下が踏み込んで実力行使に及んだ、ということをしてしまった以上、もうどちらも後には引けない。
元慶八年(884年)、基経は天皇廃立を決意
仁明天皇の第三皇子、時康親王を擁立することにした。
これは、性格が穏やかということに加えて、時康親王の母と基経の母が姉妹で、時康親王と基経は従兄弟にあたるという理由もあった。妹と対立したのに従兄弟と仲良くできる道理もないだろうが。
朝議では腹心の参議・藤原諸葛が「天皇を交代する。基経卿に従わぬ者は斬る!」と 董卓ばりの 恫喝をし、公卿は沈黙。
陽成天皇は廃位され、代わって時康親王が即位。光孝天皇となる。

しかし光孝天皇は、陽成天皇の祖父文徳天皇の兄弟、つまり大叔父である。即位時点で五十五歳という、当時の感覚でいうと老人であった。
また光孝天皇は擁立してくれた基経に配慮をしてか、彼に国政の全権を委任し、しかも皇嗣まで基経に選ばせるべく、自分の子供たちを全員臣籍に降下させる、という措置まで執った。
ただ、基経が妹・高子と不仲で、その甥とも疎遠だったということは知らなかったようである。

結局、仁和三年(887年)光孝天皇が在位三年にして危篤に陥ると、基経は光孝天皇の第七子・(みなもとの)定省(さだみ )を次期天皇に定めた。
この第七子は先の天皇の暴走によって源姓を与えられて臣籍に下ろされていたため、まずは親王に復させ、そのあとに東宮(皇太子)に定めた。光孝天皇が崩御したのはこの東宮復位がなったその日のうちだったという。
ちなみに、三年前に光孝天皇が陽成天皇に代わって擁立された際、嵯峨天皇の子・(みなもとの)(とおる)が「私も皇族に連なるのだから資格はある」と自薦したが、基経は「すでに臣籍に降下したものが即位した例はない」といって拒絶した経緯がある。
権力欲の前には道理を引っ込ませるという彼の気性はこの時にはもう現れていたと言っていい。


◇阿衡事件

ともあれ仁和三年(887年)、光孝天皇の崩御に伴い定省親王が即位、宇多天皇となる。
宇多天皇は先帝の例に倣い、大政を基経に委任するとして、左大弁・(たちばなの)広相(ひろみ)に起草させ「万機はすべて太政大臣に関白し、しかる後に奏下すべし」と詔を下した。
「関白」の号がここで初めて登場する。

さて、こういうときは一般に「三回断ってから受ける」のが通例である。基経もそうした。
天皇は続けて橘広相に就任の詔勅を書かせたのだが、ここで「阿衡事件」の切っ掛けが起きた。
この文章の中に「よろしく()(こう)の任を以て、卿の任となすべし」という一文が会った。
阿衡とは、中国は殷王朝の始祖・湯王に仕えた軍師・伊尹のこと。五代の王に仕えて国政を舵取りした名臣であり、彼は「阿衡」という官に任じられた。つまり伊尹のように全権を任せる、ということだった。

ところが、これを基経に「阿衡というのは実務・実験のない名誉職だ」と讒言するものがあった。
基経はこれで激昂し、私邸に閉じこもって政務の一切を放棄
最高執政官が裁決もなにもしないため、政務はとどこおり、国政は大混乱に陥った。基経は「暴動が起きたところで、おれの知ったことか」とまで公言したという。
宇多天皇は驚き、丁寧に弁解の書状を送るが、基経は怒りを見せ続けて折れようとせず、半年が経過。
また宇多天皇は「阿衡というのは本当に職務のない名誉職なのか」を学者たちに研究させたが、学者たちは基経の権勢に恐れをなして「その通り、名誉職です」と繰り返すばかりだった。
起草者の橘広相は反論するが、ついに宇多天皇は詔勅の取り消しと、橘広相の罷免を決定した。しかし天皇にとってこれは断腸の思いであり、悔しさを日記に記した。

しかし基経はさらに執拗に「広相を島流しにしろ!!」と強く迫る。
(橘広相への執拗な攻撃は、彼の娘が宇多天皇に嫁ぎ子供も産まれていたため、基経が障害と認識していたという説もある)
広相が無実であることを知る宇多天皇は呻吟した。
ところが、そのあまりの強硬姿勢を見かねた讃岐守・菅原 道真(すがわらのみちざね)がついに基経を諫めた。
もともと道真は当時、随一の学識者として知られ、また基経はしばしば文章に代筆を彼に頼むなど、非常に重んじていた。その彼から諫言を受けては妥協せざるを得なかった。
また、道真が送った書簡が届いた時期には橘広相は赦免されていたという資料もあって、すでに基経は事態の収拾を始めていたという説もあるが、彼に迎合する連中を鎮めるにも道真の書簡は効果を発揮したであろう。


この事件は、単に基経の気性を示しただけではなかった。
臣下にあるまじき強硬態度を取った基経に対して、天皇が解任も叱責もできず懐柔する態度しかとれず、しかもそれさえも受け入れられず、罪もない臣下を断罪せざるを得なくなったこと、しかもそれを天下に知らしめてしまったことは、
もはや天皇とは傀儡に過ぎず、日本の実権を握るのは藤原氏であるということを広く証明したのである。


◇晩年

ともかく、阿衡事件は収束して基経は政務に復帰
宇多天皇との関係もいちおうは「修復」され、基経の娘・温子が入内した。
阿衡事件から四年後の寛平三年(891年)、病床につき薨去。享年56。正一位の爵位と昭宣の諡が追贈された。

だが宇多天皇としては阿衡事件は相当な屈辱であり、基経が死ぬと阿衡事件で基経を諫めた菅原道真を厚く信任した。

しかし、藤原基経ひとりが死んでも、変化した時代は後戻りはしなかった。
基経が就任した「関白」という官職はその後も残り続け、それを藤原家が独占した。成人した天皇を「補佐する」という名目で、藤原家は平安時代の日本を完全に支配したのである。
また菅原道真も、基経の息子・藤原 時平(ふじわらのときひら)の暗躍によって追放・横死する。


【人物】

実は、藤原基経は「阿衡」という言葉の本当の意味、それが無任の名誉職ではないことを知っていた
元慶八年(884年)に光孝天皇から国政委任を要請された際、藤原基経が(建前で)辞退したときに「いかに尽力してもわたくしが阿衡の(●●●)責任(●●)を果たせるか、自信がありません」と答えており、彼自身が「阿衡」の文言を執政者という意味で使っている。
つまり阿衡事件は、基経が「官位ばかりの冗官」と讒言されたから起きたのではなかったということだ。

結論はやはり、天皇を屈服させることで天下に対して藤原氏の権威を示す、権力闘争だったということだろう。

もともと、基経は性格に強硬なところがあった。
880年に清和上皇から後事を託された際には通例を超えた五回の辞退を行い、国政を混乱させて「基経無しでは立ちゆかない政府」を演出した。阿衡事件とよく似ている
また、妹の高子とは政略上で仲間となるはずなのに終生対立し続けたり、陽成天皇の不祥事に対して諫言を述べるのではなく宮中に踏み込んで実力行使したり、挙げ句の果てに陽成天皇を引きずり下ろしたりと、行動はかなり直接的で、荒っぽい手段をよく執る

また陽成天皇に代わって光孝天皇を擁立した際には「すでに臣籍に降下したものが天皇となった事例はない」といって自薦する源融を拒絶しておきながら、そのわずか三年後には「すでに臣籍に降下したものだが親王に戻せば天皇に即位できる」と宇多天皇を擁立しており、ブーメランも恐れぬ強引さがある。
即位して早々に振り回された宇多天皇はその日記に「裏切られた」と恨みの念を残していた。


しかしこの強引さや気性の荒さ、そしてそれを効果的に世に示したことによって、藤原氏の全盛期が開幕したというのは間違いのないところである。
そんな彼が日本史上最初の「関白」になったというのも、象徴的であろう。

そして、君主に対して強硬な態度を取り、ついには廃立までしたというところは、「阿衡」の名の由来である伊尹とも共通する――ということでも、彼の存在は異彩を放っていると言えるだろう。


【余談】

藤原氏は複数の支流を作り、それらが擬似的な政権交代や新陳代謝を行うことで、長く続いてきた歴史がある。
基経はそうした藤原氏の諸流のうち「北家」に属し、この北家は(ともに「藤原四家」と併称された)諸流を押しのけて宮中の上位を独占するようになる。
このあと北家は藤原道長の子孫の御堂流が主流となり、さらにそこから平安末期から鎌倉初期にかけ五摂家に分流し、また五摂家のほかにも数多くの支流が生まれた。
つまり後世の藤原家はほとんどが藤原北家の末裔である。

その最初の全盛期を作ったということで基経は非常に尊重され、陽成天皇の廃立も「暴君を廃した功績」として、前漢の霍光(かくこう)になぞらえるかたちで称揚されていた。
また霍光に擁立された宣帝は、即位すると「霍光に大政を委任する」という旨の詔勅を発したが、その文章に「(あずか)(もう)す」という一文があって、これが関白の由来だという。

……しかし霍光といえば、三国志で董卓が少帝を廃立しようとした際に反対する盧植(ろしょく)から伊尹=阿衡とともに「主君を放逐した臣下」として名を挙げられていた男である。

また伊尹=阿衡は湯王(太乙)・外丙・仲壬・太甲・沃丁の五代の王に仕えたが、藤原基経も文徳・清和・陽成・光孝・宇多の五代の天皇に仕えており、あれほどその官名を問題にしていながら、行動といい経歴といい、不気味なほど符号点が多い。


日本史で「伊尹」にまつわる人物といえば曾孫の藤原伊尹もいる。
もっともこちらは名前が由来するだけで、先祖の基経ほど強権を振るったわけではない。




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最終更新:2024年02月22日 16:47

*1 藤原不比等の次男、藤原房前を祖とする一族

*2 もと桓武天皇の皇太弟であったが藤原種継暗殺の黒幕と疑われて抗議の絶食の末に死去。ちなみに延暦四年、西暦では785年の事件である。

*3 源定と源弘、どちらも時の天皇である清和天皇の大叔父に当たる

*4 伴氏はもともと大伴氏といった。しかし823年に即位した淳和天皇が諱を「大伴」といったので、大伴氏が遠慮して「伴氏」と改称した。

*5 長良・良房の同母弟