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彰義隊

登録日:2026/06/03 Wed 21:40:00
更新日:2026/07/28 Tue 12:49:53
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彰義隊(しょうぎたい)は戊辰戦争時に結成された反太政官側の義勇軍である。



背景

慶応4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。

大坂城にいた徳川宗家当主・徳川(とくかわ)慶喜(よしのぶ)*1が陸奥会津松平家当主・松平(まつだいら)容保(かたもり)*2、伊勢桑名松平家当主・松平(まつだいら)定敬(さだあき)*3、備中松山板倉家当主・板倉(いたくら)勝静(かつきよ)*4ら僅かの供を連れて軍艦・開陽*5に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした

江戸に逃げ帰ると、慶喜*6を代表とする「恭順派」と江戸で蚊帳の外にいた小栗忠順*7を代表とする「徹底抗戦派」に分かれたが、最終的に慶喜は太政官にウケの良い大久保一翁を最高責任者に任命し、川勝広運、服部常純を若年寄、軍事取扱に就任した勝海舟に交渉の全権を委ねる敗戦処理内閣を組閣する。

慶喜は2月12日、武力抵抗を諦めるとの態度を鮮明にし、上野寛永寺の大慈院に移って謹慎する。この時、慶喜の身辺を警護していたのが新選組と遊撃隊である。後に新選組から精鋭隊が警護を引き継ぐ。

結成

1日前の2月11日、徳川陸軍調役並・本多(ほんだ)敏三郎(としさぶろう)、同・(ばん)門五郎(もんごろう)、調役並勤方・須永(すなが)於菟之輔(おとのすけ)ら若手家臣は、朝敵となった慶喜の潔白を示すために「尊皇の志の高い慶喜公が薩長の陰謀により窮地にあるのは、徳川家の御恩をこうむった者として静視することはできない(意訳)」という檄文を作成して徳川陸軍に回覧させた。

翌日、雑司ヶ谷(ぞうしがや)茗荷屋(みょうがや)に本多、伴、須永をはじめ17人の有志が出席したが、伴を除き(伴は農民出身の幕臣。)すべて一橋家と関わりのある者だった。彼らは慶喜が一橋家当主時代の床几周りの武士(要は親衛隊)たちである。ここで更に勧誘を行う事を決めて17日、19日、21日と会合を行った。

67人の有志が集まり、会議の結果、幕臣・渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)を指導者に「尊王恭順有志会」を結成した。この会合で作成した血誓書では目的が慶喜の名誉回復から「徳川家の雪辱を果たす」ことへ変化した。血誓書は大目付の梅沢孫太郎(うめさわまごたろう)に提出したが、梅沢は「慶喜の恭順姿勢に沿わない不穏なもの」として受け取りを拒否した。

2月23日、「尊王恭順有志会」から「床几=彰義」という意味を表す「彰義隊」と名前を改めた。「大義を彰(あきら)かにする」と後付けの理由が付けられた。彼らは浅草本願寺を拠点にし、頭取に渋沢、副頭取に元幕臣・天野八郎(あまのはちろう)、幹事に本多、伴、須永が就任。同日、5人連名で記した建白書では、「慶喜公の功績と雪冤を朝廷に訴える」趣旨を記し徳川宗家に提出したが「時機を逸したものであり、事態を好転させる効果はない」と徳川宗家は難色を示した。

彰義隊は2つの動きを表す。1つは盟主を担いで動きを大きくしようというモノ。これは小栗忠順を盟主に打診しようと渋沢が直接面会したが、小栗から「オレを盟主にするより、徳川宗家の公認をもらい、巻き込んだほうがイイよ(意訳)」と断られた。この問題は更に波紋を広げた。徳川宗家から渋沢に登城の沙汰が下され、徳川宗家の後見人である松平斉民から「粗暴の挙動」に出ることのないように促された。

3月10日、徳川宗家から御使番格目付支配書役・小田井蔵太(おだいくらた)が派遣され、彰義隊頭に任命されると、渋沢は彰義隊頭取の立場が認められ、有志の集団に過ぎなかった彰義隊が徳川宗家公認の集団となり、江戸市中の取り締まりを担当することになった。

もう1つは仲間割れである。3月13日に太政官側・西郷隆盛と徳川宗家・勝海舟との間で会談があり、3月15日の江戸城総攻撃が回避され、4月4日には慶喜の罪一等を減じて当初の備前岡山池田家(31万5千石)預けから常陸水戸徳川家(35万石)での謹慎を命じ、4月11日に慶喜は寛永寺を出て水戸へと向かった。ただし、彰義隊には水戸までの慶喜警護の許可は下りず、一行が千住に到着した時点で江戸に引き返すように命ぜられた。渋沢らは慶喜に従い水戸に向かう予定だった。

渋沢的には慶喜が水戸に行ったら大義名分が無くなるので彰義隊は解散、って感じになるが、他の、特に天野らはこれが納得出来なかった。渋沢的に市街戦は論外、郊外に移転を提案したが、天野らには受け入れられず、「関八州を固く守って踏みこたえていれば、いずれ二百石、三百石の旗本に取り立てられるに違いない(意訳)」と息巻いた。渋沢は金のない徳川宗家にそんな事は出来ないよ、と天野らに説明し、軍資金を集めるべく奔走したが、天野らは「武士らしくない」と渋沢らを弾劾し、彰義隊から追い出した。

天野らは組織を再編成し、徳川宗家、特に松平斉民にお願いして、渋沢の代わりに旗本の本多邦之助(ほんだくにのすけ)を彰義隊頭に据えた。慶喜が上野から居なくなると大義名分が無くなる彰義隊だが、寛永寺の方から招かれ、居座る事に成功した。ざっくり言えば寛永寺は金はあるが武力がない、彰義隊は武力はあるが金がない、互いの利害が一致した結果である。


対立

渋沢らが彰義隊を離脱した後、彰義隊頭・本多邦之助が「こんなの彰義隊じゃない。坊主の傭兵だ(意訳)」と断言して彰義隊を離脱。
後釜に天野らは池田大隅(いけだおおすみ)という備前岡山池田家の分家筋で7千石の旗本を徳川宗家に願い出て、これが認められた。
彰義隊は組織を再編成。
頭 :小田井蔵太、池田大隅
頭並:菅沼三五郎、天野八郎、春日左衛門、川村敬三
頭取:吉田定太郎、伴門五郎、織田主膳、本多敏三郎
と始まり、会計掛、記録掛、器械掛、本営詰、実戦部隊18隊の隊長が名前を連ね、「徳川恩顧の武士なり」と称して参加した義勇軍の隊長などが名前を連ねる。

4月11日に江戸城が太政官に引き渡され、21日には有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城、東征軍の本営とし、太政官側の軍隊が進駐したが、彰義隊の市中取締は継続され、太政官との摩擦が絶えなかった。

寛永寺からの手当もあり、大金を手にした彰義隊士は巡回と称して吉原へ繰り出し、毎晩、飲めや歌えの大騒ぎ。吉原側も「彰義隊を情夫(いろ)に持たぬは女郎にあらず(意訳)」と大歓迎。
反対に進駐してきた太政官側の軍隊は「芋侍」と蔑まれた。太政官側も財政難で前線の軍隊にロクな手当金を支給出来ない事もあり、吉原に出かけても扱いが悪く、退店した後に清めの塩を撒かれた。

太政官側は不慣れな江戸で路頭に迷うのに対し、市中巡回の彰義隊士は地元の利を活かして吉原で飲んだ帰りの太政官側の将兵を襲い、斬殺したり、錦の御紋が着いた袖印を専門に剥ぎ取る「錦切れ狩り」というのも行われた。

従軍している大名家は西郷隆盛に身の危険を訴え、西郷隆盛は4月28日、長州の山縣有朋(やまがたありとも)らと一緒に薩摩の蒸気船・豊瑞丸で品川沖から大坂に向けて出発。閏4月4日に大坂入り、京都で大久保利通木戸孝允小松帯刀(こまつたてわき)吉井友実(よしいともざね)らと個別に会談。9日には御所に参内、明治天皇(めいじてんのう)に拝謁した後、小御所にて大久保、小松、広沢真臣(ひろさわさねおみ)後藤象二郎(ごとうしょうじろう)林通顕(はやしみちあき)による徳川処分会議が2日間行われ、三条実美を江戸に派遣して、様子を見るという事になった。
太政官側は徳川宗家の家督相続人を徳川家達にするのは合意したが、問題は石高と居城。
江戸100万石の西郷案と江戸以外で70〜80万石の大久保・木戸案。
余談だが、大久保一翁や勝海舟にも案があり、江戸100万石で家督相続人は慶喜の弟でパリの万国博覧会日本代表を務める徳川昭武(とくがわあきたけ)、これがダメなら尾張徳川家の徳川義宜(とくがわよしのぶ)(徳川慶勝の子)、それもダメなら松平慶永(まつだいらよしなが)という人選だった。

江戸の大総督府は大久保一翁や勝海舟ら徳川宗家に引き続き江戸市中の鎮撫を委任する、と沙汰を下した。彰義隊は我が物顔で巡回をしては、太政官側を挑発、あるいは襲うなどして圧力をかけた。

京都の太政官で一連の流れを聞いて、動いた人物がいる。肥前佐賀鍋島家(35万7千石)家臣の江藤新平(えとうしんぺい)である。彼は太政官に招かれて下っ端の役職で我が身の不運を嘆いていたが、自身が食い込むにはこの機を逃さない手はないと、似たような立場の土佐山内家(24万石)家臣・小笠原唯八(おがさわらゆいはち)と一緒に岩倉具視、三条実美に売り込みをかけて、軍監の地位を獲得し、三条の下見と称して先に江戸へ向かった。

そこで江藤は
「官軍は彰義隊に包囲されて江戸城に籠城している。勝海舟や山岡鉄舟が官軍参謀を上から目線で見下している。これでは維新の大業は失敗する。彰義隊を退治して、勝海舟らを追い落として、官軍の威光を建てるべきである(意訳)」と京都に書簡で報告した。

太政官はテコ入れ策として最初に京都で御親兵の訓練をしていた大村益次郎を4月27日、軍防事務局判事に任命。閏4月1日に蒸気船で大坂を出帆、4日、江戸に到着した。

第二弾として閏4月23日、全権代表ともいうべき太政官代副総裁兼関東大観察使・三条実美と西郷隆盛が江戸に到着、翌日江戸城に入り、29日、徳川家達に徳川家相続を認めることだけを伝えた。

第三弾として5月1日、今まで徳川宗家=彰義隊が行なっていた市中取締の権限を剥奪、太政官が直接行う事を明らかにした。

勝海舟はこうした太政官の出方を見て、自身の手の内を見抜かれたと感じたのが、彰義隊に対する締めつけを行う。支給していた手当を止め、山岡鉄舟を寛永寺に派遣し、彰義隊への支援を止めさせ、上野から退去させるように指示した。

山岡は覚王院義観と対談したが、義観は「私にいい考えがある」と言い放ち、山岡に「立ち退き料と新しい住まいをくれたら去ってやるぞ!!それが常識だろう?(意訳)」と煽る始末。
義観のいい考えというのは、勝の手の内とほぼ被っており、違いとして会津松平家との連携を頭に入れていること。会津松平家家老・梶原平馬(かじわらへいま)の弟・武川兵部(むかわひょうぶ)が80名の会津武士を率いて参加していた。彼らを使い、会津軍を江戸に来るようにする。時間的に1週間はかかる。その間、上野で籠城すれば良い。
太政官には江戸が戦場になれば被災者100万人を救済する金はないし、そもそも江戸を戦場にしなくても皇族である輪王寺宮に銃を向けること自体、逆賊の所業てある、とか、江戸を火の海にすることなく、上野だけを潰すなど出来る奴はいない、という判断だった。相手の足下を見た狡猾な戦略である。
西郷隆盛が彰義隊に対して強気に出れなかったのは、このためである。

山岡の交渉は挫折した。勝も彰義隊内部で話が通じる池田や伴などに話を持ちかけた。池田や伴が上野に集まった彰義隊士たちに説得を試みたが群衆心理から好戦的になり、話を聞き入れなかった。


上野戦争

彰義隊は5月4日、幹部会議を開催。トップの池田、小田井、幹部の伴などが太政官との交戦を回避し、日光に退く事を提案。
これに対して天野や幹部の春日左衛門(かすがざえもん)が上野で雌雄を決すべし、と提案。隊長職をはじめ、外で会議を聞いていた彰義隊士たちが大声を挙げてこれを支持し、徹底抗戦に決した。

徹底抗戦に決して、彰義隊は3つの作戦を実施する。1つ目は上野の山門を固めて、夜中まで持ちこたえる。2つ目は江戸市内で様子を見ている徳川家臣団と連携して、夜襲を仕掛けてかく乱する。3つ目は前日に成立した奥羽越列藩同盟に使者を派遣し、江戸まで遠征してもらうこと。1つ目の担当に池田、天野、春日。
2つ目の担当に吉田定太郎。
3つ目の担当に小田井。

しかし、彰義隊には欠陥があった。指揮系統は一本化されたが、18の実戦部隊や義勇軍は装備がバラバラで太政官側の軍隊と比べると烏合の衆は否めないのである。

徳川陸軍から参加した部隊はミニエー銃やエンフィールド銃で武装された洋式軍隊で、実戦経験はあったし、砲兵隊も徳川陸軍から来たので、ある程度の質はある。
問題は陸軍じゃないトコロから来た徳川家臣や義勇軍は黒船来航の時代に鎧兜・弓・槍・刀・火縄銃からの法螺貝、陣太鼓、旗指し物とか武者人形さながらの格好だった。美意識と見るか時代錯誤と見るかは人による。
黒船来航から今まで幕府が沙汰してきた軍制改革*9に背を向け、江戸市内取締りを出羽庄内酒井家新徴組に丸投げ、京都での政治折衝や先代・孝明天皇(こうめいてんのう)の身辺警護は陸奥会津松平家や新選組にぶん投げ、第二次長州征伐で出陣を沙汰されると自ら隠居して子供を当主に仕立て上げ、出陣を逃げる。薩摩系浪士のテロ活動は傍観、鳥羽・伏見の戦いにも参加しない…

そんな人たちが、純忠隊だの貫義隊だの結成して、徳川への忠義と口にしても、「忠義のバーゲンセールだ(意訳)」と勝海舟は酷評した。

更に言えば、上野は山であり寺ではあるが城ではない。陣地を構築する必要があったが、彰義隊に野戦築城の専門家はいないためか、現実は畳や土嚢、丸太を積み上げた陣地にミニエー銃、ゲベール銃、火縄銃など規格がバラバラな装備という有り様。加えて、スポンサーの寛永寺、特に義観がやたらと作戦や戦略に口を挟むため、彰義隊も辟易していた。

太政官側は紆余曲折あったが、大村益次郎が総司令官として指揮を執る事は決まった。しかし、こちらは「おい、金がないぞ」と金集めから始めなければならないほど、グダグダだった。

最終的に外国事務局判事・肥前佐賀鍋島家(35万7千石)家臣の大隈重信(おおくましげのぶ)が横浜に停泊中のストーンウォール・ジャクソン号(日本名:甲鉄。後に(あずま))を購入するために持参した金などを流用したり、江戸城内にある徳川家の財宝を外国商人に売り払い、会計事務掛・御用金穀取締の越前福井松平家家臣・由利公正(ゆりきみまさ)に働きかけて金を工面した。

他にも皇族に銃を向けると面倒臭いからと、伏見宮邦家親王を介して輪王寺宮を京都に帰還させようと試みたが、輪王寺宮は閏4月12日にこれを拒否し、閏4月26日に覚王院義観が、薩摩・長州・土佐・広島の行動に対する弾劾文を太政官に送っている。

5月13日、太政官側は彰義隊討伐準備を布告し、翌日、彰義隊討伐を5月15日に決定。
徳川宗家に対して翌日の戦火に備えて徳川家の位牌や宝物など*10を寛永寺から避難させるように命じ、輪王寺宮には寛永寺からの速やかな退去を勧めた。徳川宗家側も勝海舟が輪王寺宮に退去勧告の手紙を送り、田安慶頼、服部常純らが寛永寺に赴き、彰義隊の解散を提案したが、義観は逆に反発し、「太政官は我々を恐れて弱腰になっている。今、強気に出たのは交渉の為の前振りで、我々が強気の姿勢を見せれば再び弱腰になる(意訳)」と強気の姿勢を崩さず、対話は平行線に終わった。

しかし、大村は江戸市中に17日早朝にに総攻撃を行うと色街を中心にワザとデマを流した。
行きつけの遊女に別れを告げるため、13〜14日を中心に彰義隊士の中には吉原に入店する人がある程度存在していた、と遊郭側の証言が存在する。このため、彰義隊の人数は最盛期で3600人くらいだったのが1000〜1500人くらいに減った。

太政官側は14日の夜には配置を完了し、千住方面は彰義隊が逃げるための退却路として空け、残りの三方向を包囲した。
5月15日午前3時、21の大名家からなる総勢12000名が各地に分かれて進軍した。
正面玄関に相当する黒門口、裏口に相当する根津、湯島口に主力を配置した。本郷の加賀屋敷には肥前佐賀鍋島家が所有するアームストロング砲など長距離射撃が出来る砲兵隊を配置した。
実はこちらも烏合の衆で、大村の見立てでは頼りになるのは薩摩、長州、肥前くらいで後の大名家は戦火を拡大させない為、遠巻きに包囲するに留まった。
朝7時頃から薩摩軍と彰義隊が黒門口で激突。
互いに主力を派遣しているため、勝敗は決しない。更に雨で視界が悪く、白兵戦が中心となる。
昼頃になると、肥前佐賀鍋島家が所有するアームストロング砲の砲撃会津松平家の兵隊に変装した長州毛利家の兵隊が背後から攻撃を加えて*11物心両面からの打撃で壊滅させた*12
彰義隊士らは千住方面へ敗走していき、戦いは終わった。
なおこの時、元新選組十番隊組長原田左之助も彰義隊に参加し戦死したとされる。

戦後

上野戦争の戦死者は太政官側が30余名、彰義隊側は270名前後となっている。

戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。

江戸や関東一円は太政官側の勢力下に収まり、彰義隊やそれを支持するゲリラ戦力を一掃した後、越後や奥羽における敵対勢力との戦いに戦力を集中することが可能になった。

輪王寺宮や覚王院義観らは、上野を脱出して江戸市中に潜伏した後、榎本武揚の艦隊に乗船し、平潟港に着船。会津へと落ち延び、奥羽越列藩同盟の盟主に担がれた。

江戸に住んでいた徳川家臣の中には「彰義隊が夜中まで持ちこたえたら、大工に化けて炸裂弾を太政官の陣地に投げ込み、爆弾テロをおこす計画をしていた」(意訳)と後年記している田辺太一(たなべやすかず)*13みたいな人が複数人存在しており、その時は江戸各所でボンバーマンが誕生していたかも知れない過激な日和見派である。
なお上記の田辺は彰義隊が敗れると計画を中止、炸裂弾は各地に穴を掘って埋めて破棄し、素知らぬ顔で日常生活を過ごしていた。

太政官側は翌日から残党狩りを行い、江戸の各所で太政官側の軍隊と彰義隊敗残兵が衝突。数に勝る太政官側が彰義隊側を追い詰めて斬殺、捕縛した。大勢が決したと太政官は大総督府を5月19日に鎮台と改め、24日には徳川宗家を駿河70万石へ移封と定める沙汰を下した。

彰義隊側は市中に潜伏して再起を目指すが、懸賞金をかけられたりや密告者により逮捕されたりするなど、包囲の輪が縮まり、再起を諦めて榎本の艦隊に乗船し蝦夷地を目指す事になる。

戦死者に関しては、南千住・円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎が終戦の3日後から大村の指示で遺体の受け入れを行い、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、許可を得て遺骨を円通寺に埋葬した。

この戦いで太政官側は民衆や太政官に敵対的な勢力に対して新しい江戸の支配者としての地位を確立した。また、(寛永寺側から喧嘩を売っているが)宗教勢力に対して敵対すれば容赦なく焼き討ちする姿勢を示した事は、織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちに相当する行為であった。ここから更に太政官は神祗官を通して祭政一致の国家神道、廃仏毀釈などの宗教政策を行い、民衆に宗教的な面から時代が変わったと訴えることになった。

一部の歴史家からは彰義隊が暴れなければ、もしくは徳川宗家が彰義隊を公認しなければ、徳川宗家は江戸の領有は別として100万石の領地を保有出来たのでは?と言われている。
彰義隊の暴発と徳川宗家が公認した事が30万石削減の根拠になったとしている。


関係者列伝

  • 渋沢(しぶさわ)成一郎(せいいちろう)(1838〜1912年)
彰義隊初代頭
渋沢(しぶさわ)栄一(えいいち)は父親・文左衛門(ぶんざえもん)の弟・市郎右衛門(いちろうえもん)の子で従弟にあたる。
武蔵国榛沢郡血洗島村の農民・渋沢文左衛門の長男に生まれる。
栄一とともに尊王攘夷運動に参加、高崎城乗っ取りや横浜港焼き討ちを計画。計画が失敗すると京都に逃亡生活の後、栄一とともに一橋家に仕官する。自前の家臣が少ない一橋家では重宝された。
当主の一橋慶喜が15代将軍・徳川慶喜になると、栄一はパリ万国博覧会日本代表使節団の随員として欧州に渡り、成一郎は奥右筆に起用される。幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職である。
その後は上記の通り、彰義隊の頭となるも、派閥争いに敗れ離脱。振武軍(しんぶぐん)という義勇軍を設立して5月23日に飯能(現・埼玉県飯能市)で戦い敗退。軍を解散して、逃亡生活の後、榎本武揚の艦隊に乗船し、蝦夷地に渡り、箱館戦争に参加。箱館戦争敗退後、降伏して、東京の軍務官糾問所に投獄されている。
栄一が身元引受人となり赦免された後、栄一の推薦で大蔵省に入省。ここから名前を喜作(きさく)に改める。
明治6年(1873)に栄一と一緒に大蔵省を退官。民間企業の創設、育成に励む。
喜作の事業には決まったパターンがあり、事業の中盤までは黒字経営で調子が良いが、ツメが甘かったり、読みが外れて終盤は赤字に転落して栄一が尻ぬぐいをするのがお約束だった。
栄一も喜作に対して晩年「事業の才能ないから引退して息子に譲れ(意訳)」と勧告し、大人しく従った。
大正元年(1912)8月30日、75歳で死去。ヤラかし癖はあるが、憎めない人柄なのか、葬儀には沢山の参列者が訪れた。

  • 天野(あまの)八郎(はちろう)(1831〜1868年)
彰義隊頭並
この人も先祖伝来の幕臣ではない。
上野国甘楽郡磐戸村の名主・大井田吉五郎(おおいだきちごろう)の次男。当時の通称は林太郎(りんたろう)
父親は江戸神田小柳町で公事師*14を営んでおり、家に不在のためか母親が幼少時から学問を教えて育てる。成長すると父親の手伝いをしに江戸に出て、仕事の合間に剣術を学ぶ。流派は直心影流とある。
天野が20歳の頃に父親が亡くなり、一度故郷に戻る。
故郷に戻ると山田屋という金貸しが横暴に振る舞って農民から悪質な取り立てをしていたので懲らしめたという逸話を持つ。
親孝行な一面があり、母親を江の島参詣に連れていき、絵日記調の旅日記「江の島道中出たらめ記」を記したり、狂歌俳句、囲碁将棋、禅学を修めるなど多芸多才ぶりをみせる。
安政年間になると、尊王攘夷が流行し、天野は水戸学を学び、幕府の開国政策に批判的となる。江戸に出て海防政策を研究し、黒船は船底の造りが弱いので、水雷艇みたいなモノを造り、水中から潜航して爆雷で黒船を仕留められると発案。実際に厚紙を張り合わせて水雷艇を作って隅田川に浮かべて実験し、集めた情報をまとめて報告書にして、公事宿の手伝いをした頃に得た人脈を駆使して、当時の老中・井上正直(いのうえまさなお)(遠江浜松6万石当主)に上申したとある。
この一件で幕臣の攘夷派から舎密(セミー)気違い、今ならマッドサイエンティストと呼ばれ一目置かれる存在となり、慶応元年(1865)、斡旋してくれる人がいて、定火消御役与力*15広浜利喜三助(ひろはまりきさんすけ)の養子となり、幕臣になった。しかし、1年で離縁となり、翌年、天野八郎と名乗り身分も元旗本と話を盛り始めた。名前の由来は故郷の磐戸村と日本書紀の「天の岩戸」をかけて引用したと言われている。
見た目も以前は痩せていたが、この頃から筋肉質の小太りな体型に肉体改造を果たし、敏捷性、跳躍力に長けていた。剣術も免許皆伝こそないが、実戦に強かったとある。慶応4年(1868)2月頃、江戸市中を歩く天野に二人組の武士が襲いかかった。二人組の攻撃を捌くと、狙われる由来が分からないと話しかける。二人組は新選組の永倉新八と原田左之助と名乗り、太政官のスパイだと思い襲ったら人違いだったと話した。二人が詫びを入れると天野は水に流し、3人で酒を酌み交わし、意気投合していた。原田左之助が彰義隊に参加したのはこの時の天野に惚れたから、と言われる。
彰義隊が結成されると、人選をキチンとしたい渋沢と「戦いは数だよ」と手当たり次第勧誘する天野とで路線対立。最終的に寛永寺が天野のバックに付き、渋沢は失脚。
寛永寺を背景に天野は彰義隊を掌握。
当時、治安維持権は徳川宗家にあり、徳川宗家公認で彰義隊が委託されて行なっていた。
上記の上野戦争敗退後、仲間と潜伏して再起を目指したが、密告者により隠れ家を襲撃され、仲間を逃すために殿を務めた後、捕縛された。
日比谷の仮設監獄に入牢し、雑居生活を過ごしたが、拷問はなく、獄中にて自伝・弊休録(へいきゅうろく)を記したり、家族に手紙を記して差し入れの品を送ってもらったとある。
弊休録には上野戦争最中の出来事として、黒門口を守ろうと40余名をつれて「いざ一戦」と後ろを見たら誰もいなかったという。この時の心境を「徳川氏の軟弱、極まるを知る(意訳)」と書いたり、元大目付の大久保忠宣(おおくぼただのぶ)が100余名を連れて黒門口を死守しようすると、大久保が狙撃で頭を吹き飛ばされ即死。100余名が雲散霧消したのを見て、「ダメだこりゃ」と敗北を悟ったとある。
そして獄中で風邪をこじらせて肺炎が発症、明治元年(1868)11月8日夜10時、そのまま亡くなった。
辞世の句が弊休録にあり、
「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」
とある。

  • 覚王院(かくおういん)義観(ぎかん)(1823〜1869年)
寛永寺別当。
旧名・金子劇蔵(かねこげきぞう)あるいは劇三。
元は武蔵国新座郡根岸村(現在の埼玉県新座市)の農家・金子栄蔵(かねこえいぞう)の子。10歳で寛永寺に預けられた。自尊心が強く、激情家であった。
反面、記憶力が抜群で頭と学問の出来が素晴らしく26歳で寛永寺の中にある真如院を継承するという異例の出世を果たし、寛永寺の中で僧侶として最高位の別当にまでのし上がり、僧侶たちの勉強を教える学頭を兼ね、寛永寺座主である輪王寺宮に学問を教える先生になった。
彼が寛永寺のキーパーソンで、徳川体制護持に回ったのは、彼の働きを徳川体制が認めたからで、出自の低さを努力で補い出世した人物であり、見廻組の佐々木只三郎、新選組の近藤勇ではないが、
「現体制下で様々な不条理に耐えてようやく出世した人物にとっては、徳川幕府よりむしろ現体制の破壊者である太政官を憎悪することになるのではないか」
という考え方になったのだろう。
輪王寺宮と一緒に徳川慶喜の処分軽減を求めて駿府に向かった際、有栖川宮熾仁親王、西郷隆盛らに相手にされず追い返されたのが、義観には納得出来ず、寛永寺と彰義隊を合体させて反太政官に導いた。学識はあるので、反論させると徳川宗家の幹部では相手にならず、追い返されるのが常で、勝海舟のようなクセ者ですら日記に悪口や陰口を記すのが精一杯だった。
徳川宗家からの義観評は「武士なら英雄になり得た。坊主としては生臭すぎる(意訳)」とある。上野戦争に敗れた後、輪王寺宮と一緒に奥羽越列藩同盟に参加するも、同盟が崩壊すると宮と一緒に降伏。
監獄に入牢したが、拷問はなく、抗議の断食を行い、明治2年(1869)2月26日、獄中で餓死した。

  • (ばん)門五郎(もんごろう)(1838〜1868年)
彰義隊幹事、頭取。
この人も先祖伝来の幕臣ではない。
武蔵国足立郡(わらび)郷の名主・岡田平左衛門(おかだへいざえもん)の3男に生まれ、嘉永5年(1852)叔父で幕臣・伴経三郎(ばんつねさぶろう)の婿養子になり、養父が翌年死去したため家督を相続し、御徒士となる。文久3年(1863)の将軍・徳川家茂の上洛に従う。江戸に戻ると新設された幕府陸軍に兵卒から入り、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では陸軍調役並(陸軍大尉相当)に任官している。
上記の彰義隊創設時は本多敏三郎、須永於菟之輔らと一緒に活動。しかし、隊の主導権を天野や義観らに握られ、彰義隊は過激な団体に変貌していく。伴は戦争を回避しようと説得を重ねるが全て不調に終わる。
上野戦争では黒門口の責任者として彰義隊を率いて戦い、彼の地で戦死した。

  • 本多(ほんだ)敏三郎(としさぶろう)(1845〜1921年)
彰義隊幹事、頭取。
水戸徳川家家臣・多賀家の生まれという説がある。御三卿・一橋家家臣本多家の婿養子となり、妻・梅子を娶る。姉に婦人伝道者である出口せいがいる。一橋慶喜の家臣として禁門の変では警護の功により、朝廷より恩賞を受ける。
その後、一橋慶喜が徳川慶喜となり15代将軍となると幕臣になり、幕府陸軍調役並に任官。
上記の彰義隊創設時は伴門五郎、須永於菟之輔らと一緒に活動。しかし、2月27日に落馬事故で左脚を複雑骨折。歩行困難となり、以後はリハビリ生活。活動出来るようになったのは5月中旬。本多は穏健派だったが、変質した彰義隊には受け入れられず、上野戦争は屋敷で観戦。後に徳川宗家の駿河転封に従い、駿河に移住。旧幕臣の救済を世話したとも。この頃、名前を(すすむ)と改めている。
明治3年(1870)7月、渋沢成一郎の従兄弟で大蔵省に出仕している渋沢栄一の推挙で民部省に出仕、後に大蔵省に移る。
明治5年(1872)〜明治6年(1873)にかけて制度視察で外遊し、帰国後、国債局などで働く。
明治13年(1880)に大蔵省を退官。横浜正金銀行役員となり、明治21年(1888)まで務めた後、余生は上野東照宮職員として過ごした。
大正10年(1921)12月26日、胃癌にて死去。
父親として教育熱心で娘の銓子(せんこ)が明治になって制定された医師の国家試験に合格。日本で4人目の認定女医(初代は荻野吟子(おぎのぎんこ)、2人目は生沢(いくさわ)クノ、3人目は高橋瑞子(たかはしみずこ))である。
本多家は男子が生まれなかったので、銓子の夫となる婿養子を取ることになり、明治22年(1889)埼玉県出身の折原静六を迎え入れ、本多静六と改める。静六は後に「公園の父」、「投資の神様」と同時代人に呼ばれる。
社会的に成功をおさめた本多だが、彰義隊を救えなかったのは、終生の負い目となっていた。

  • 須永(すなが)於菟之輔(おとのすけ)(1843〜1904年)
彰義隊幹事。
徳川直轄地の上野国新田郡成塚村の豪農・須永宗次郎の子として生まれる。渋沢栄一の母親が須永の母親の姉という血縁関係で血洗島の渋沢一族とは付き合いがあり、攘夷挙兵や一橋家仕官、幕臣転向まで同じ道を歩む。
須永は幕府陸軍の士官として任官し、本多や伴と知り合いになる。
上記の彰義隊創設時は本多敏三郎、伴門五郎らと一緒に活動。渋沢成一郎と天野八郎の派閥争いでは渋沢派に属し、渋沢が敗れて彰義隊を離脱すると一緒に行動する。
渋沢の依頼で水戸や奥羽越列藩同盟の間を奔走した後、仙台で再び渋沢に会うが、価値観の相違から離れ、駿河に転封した徳川宗家に合流。
維新後は伝蔵と名前を改め、渋沢栄一の薦めで民間企業を立ち上げ、箱根仙石原村で牧場を経営する。
箱根仙石原村で村議会議員を2期(1881〜85年、1901〜02年)務め、村長にも就任(1902〜04年)する。
その間、深良用水の水を巡る逆川事件(さかさがわじけん)で当事者の1人として大審院から禁固1か月・罰金2円の有罪判決を受けた。
明治37年(1904)8月13日、死去。
彼の葬儀では上記の本多晋(旧名・敏三郎)が読んだ弔辞が現存している。

  • 土肥(どい)庄次郎(しょうじろう)(1834〜1901年)
彰義隊士。
御三卿・一橋家家臣土肥半蔵(どいはんぞう)の長男に生まれる。父の役職は近習番頭取で性格は堅苦しい謹厳な人物であった。父に対する当てつけか、13歳から吉原に入り浸り、酒と女にうつつを抜かし、跡取りを弟・八十三郎(やそさぶろう)に譲って悪友とともに放蕩三昧。吉原遊廓で幇間(ほうかん)(要するに男芸者。太鼓持ちともいう。)となった後、父と祖父に連れ戻され、廃嫡の上で江戸を追放される。
一方で放蕩の合間に武芸に精を出し、剣術、馬術、槍術、大砲、水泳など多岐にわたって熱心に習い、いずれも免許皆伝前に止めている。周囲は飽き性の故だと惜しがっていたが、本人は後に、「将軍に対する忠義の心を忘れないために、武芸の奥義からは意図的に距離を置いていた(意訳)」と明かしている。
その後は長崎や堺などで幇間を続けていたが、元治元年(1864)に慶喜が禁裏御守衛総督になった際に帰参し、第一次長州征伐に従軍した。
慶喜が15代将軍に就任すると土肥家も幕臣になるが、庄次郎は放蕩息子のまま、戊辰戦争を迎える。
弟の八十三郎が彰義隊の隊長を務めていたので、江戸開城の前後に彰義隊に入隊する。隊内にあっては応接掛としてスパイ活動に専念した。上野戦争で彰義隊が壊滅してからは旅芸人に変装して榎本艦隊に合流し、咸臨丸に乗船するが、暴風雨のため寄港した清水港で太政官側の襲撃を受けて間一髪逃げ切るも蝦夷行きを断念し、武士をヤメて古巣の吉原で幇間・荻生露八として活動。妻・お徳を娶り、明治9年(1876)には静岡に移住して商売を始めるも中々上手く行かず、明治23年(1890)頃、再び東京・吉原に戻り、幇間・松廼屋露八(まつのやろはち)として活動を始めた。
明治36年(1903)に廃業を宣言するまで、幇間として若手を抑えて人気No.1の座にあり続けた。上記の本多晋(旧名・敏三郎)は晩年、吉原に遊びに行っては露八の芸を観ていたが、昔に比べると肩の力が抜けて、物事にこだわらないさっぱりとした性格になったと評している。
明治36年(1903)11月23日、彰義隊士が眠る円通寺(東京都荒川区南千住)に埋葬されることを遺言に残し、死去。

  • 輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやこうげんほっしんのう)(1847〜1895年)
彰義隊盟主。
伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)堀内信子(ほりうちのぶこ)の間に第9王子として生まれる。
山階宮(やましなのみや)中川宮(なかがわのみや)の弟にあたり、明治天皇の義理の叔父にあたる。
慶応3年(1867)5月、先代の隠退に伴い江戸に下って上野の寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承。
戊辰戦争では彰義隊、奥羽越列藩同盟の盟主に担がれたが、明治元年(1868)9月18日に仙台にて太政官に降伏、11月19日に京都に着き、蟄居の処分と親王の身分を失い、伏見宮家に預けられる。
明治2年(1869)9月4日に蟄居の処分を解除、宮の身分も復活、11月4日には宮号を称することが認められ、12月にプロイセン*16留学を許されて、出発。
留学先でドイツ語を習得、プロイセン陸軍大学校で訓練を受けたり軍事を学習し、明治7年(1874)9月25日、陸軍少佐に任官。併せて跡継ぎ不在の北白川宮家を相続を命ぜられた。
帰国後、明治17年(1884)に陸軍少将、さらに明治25年(1892)に中将に昇進し、第6師団長に就任。明治23年(1890)2月、貴族院皇族議員に就任、明治26年(1893)11月10日、第4師団長に就任。
明治28年(1895)、日清戦争にて台湾征討近衛師団長として出征中、現地でマラリアに罹り、10月28日薨去。

  • 松平斉民(まつだいらなりたみ)(1814〜1891年)
徳川宗家後見人。
11代将軍・徳川家斉の子で田安徳川家に養子に入る。ここから美作津山松平家(禄高10万石)に養子として入り、天保2年(1831)〜安政2年(1855)まで当主として財政再建や教育の普及などに力を注いだ。
家督を養子の慶倫(よしとも)に譲り、隠居の身となり、確堂(かくどう)と名乗り、絵や学問などを友とする風流な生活を送る。慶応元年(1865)3月には朝廷より公武合体に尽力するようにと勅旨を受けて、江戸で大奥や幕閣の間を調停し、朝廷との摩擦を解消しようと尽力した。
戊辰戦争では徳川宗家の中で主戦派から失脚した小栗忠順、勝海舟ら太政官とコミュニケーションが取れる人達らを除いた、その他大多数の人達の受け皿として彼が注目された。
徳川慶喜も一目置き、次期家督相続人の徳川家達の後見人という形で彼を恭順派の敗戦処理内閣に送り、勝海舟や大久保一翁の動きを見届けさせた。
そして慶応4年(1868)5月3日には太政官より徳川家達の後見人を命じられ、その養育に尽力。敵味方双方から「徳川家新当主の後見人」を命じられる奇特な人物であった。
勝や大久保一翁は彰義隊を非公認団体にして公認をエサにやりがい搾取なヤり方で操ろうとした。イザとなったら切り捨てるからである。それに比べたら、彼は彰義隊を徳川家公認団体にして、手当を支給して、彰義隊の面倒を見た。ヤり方としては彼の方がはるかにマシである。しかし、その結果は駿河70万石という形で裏目に出てしまった。
しかし、太政官から見れば徳川処分に大鉈を振るう理由をくれたのだから、彼は裏のMVPといえる。
明治15年(1882)6月、麝香間祗候(じゃこうのましこう)に任ぜられる。*17
明治24年(1891)3月23日、78歳で死去。家斉の53人の子(そのうち男子は26人)や孫の多くが夭折したり、子孫が残せぬものが多い中、例外的に長命であったといえる。

  • 小田井蔵太(おだいくらた)(1830〜1892年)
彰義隊頭。
この人も先祖伝来の幕臣ではない。
江戸の町人夫婦の間に生まれる。父が亡くなると母の生家がある陸奥国二本松に移るが15歳で家出、江戸に帰って来た。
当時の名前は寅之助(とらのすけ)。旗本・川窪家(禄高千石)に使用人として仕える。気が利いて利発な事から主人に気に入られて槍や儒学を教えると頭角を表し、主人が更に神道無念流・練兵館に入門させると他流試合で白星を重ね、有名になる。
旗本・小田井家(禄高3千石)へ養子縁組し、通称・蔵太、諱・一成(かずなり)と名称を改め、官位は信濃守を授かる。
安政2年(1855)には日露国境視察として樺太へ視察、安政5年(1858)には蝦夷江差奉行として外交折衝を担当。
文久3年(1863)には御使番として新徴組との折衝を行う。
戊辰戦争では彰義隊頭を徳川宗家から命じられ、松平斉民、勝海舟、大久保一翁から彰義隊が暴発しない様に託されていたが、上手く行かなった。3人とも小田井が主戦派であることを見抜けなかったようである。
上野戦争後は会津、庄内と転戦し、庄内で降伏。
その後は太政官に出仕し、水戸県大参事に就任したとある。

  • 武川兵部(むかわひょうぶ)(1843〜1868年)
信意隊(しんいたい)隊長。
彰義隊に参加した義勇軍・信意隊の隊長を務めた。
武川兵部は彰義隊に参加する際の変名で、本名は内藤信臣(ないとうのぶおみ)。通称は三彦(みつひこ)。会津松平家家老・内藤家の三男。文武両道と評判だった。
鳥羽・伏見の戦い当時は国許におり、敗戦の一報を聞いて大坂から帰ってくる兄2人*18を補佐しようと会津を出奔、江戸で再会して一部始終を知る。一橋家家臣に知人がおり、その紹介で彰義隊に参加。
兄達は太政官との交戦には準備が足りない事から、時間稼ぎの為には各地で太政官の軍隊を分散させる必要があり、彼に義勇軍の隊長を任せて彰義隊への参加を認めた。
上記の上野戦争に敗れて敗走後、旗本・佐々木源四郎(ささきげんしろう)の家に匿ってもらった。源四郎は旧姓を手代木といって会津松平家出身で長兄の直右衛門は会津松平家の公用局員、次兄は見廻組の幹部・佐々木只三郎(ささきたださぶろう)である。只三郎が戦死したため、源四郎が相続している。
しかし、密告者により太政官側に佐々木邸を襲われ、止めようとした源四郎は即死、武川たちは捕縛された。
武川は牢に入れられ、自白を促し、仲間のアジトを吐くように拷問*19にかけられたのだが、武川は「バカめ(意訳)」と返したら、最終的に石は頭の上を越すほどの高さになったとある。岡田以蔵「お前、強いな、オレは即オチだよ…」
明治元年(1868)9月22日、会津松平家降伏。同年10月9日処刑。
同年10月12日には大赦令により、獄中の囚人は釈放されたので、ある意味、拷問の証拠隠滅である。
同じ会津武士で獄中にいた公用局員の広沢富次郎(ひろさわとみじろう)はイギリス公使館と顔馴染みで殺すと国際問題になると判断した木戸孝允の忖度で無傷のまま釈放された。大切なのはコネだということである。

  • 大久保忠宣(おおくぼただのぶ)(1819〜1868年)
彰義隊士。
諱は忠宣、官位は紀伊守、通称は四郎左衛門(しろうざえもん)
この人は先祖伝来の幕臣である。
父・忠学は南本所三橋に1600坪の居屋敷があり、浜町に100坪の拝領屋敷、大久保新屋敷として500坪の拝領下屋敷があり、知行所として駿河国庵原郡・益津郡の中で5000石、残り1000石は上野国山田郡・下野国梁田郡・足利郡、武蔵国比企郡内を拝領している、6000石の旗本である。
父が万延元年(1860)3月10日に病没し、家督を相続、6月4日寄合*20入り。
文久元年(1861)に駿河国の全村が江戸にいる役人に訴えた「大久保知行所の御門嘆願書」というのがある。大久保家は旗本であり江戸に居住しているため、駿府浅間神社の前に設置した宮中役所(陣屋)に代官をおき、領地は庄屋などの村役人が管理をしていたが、村との間にたびたびトラブルが起こっていた。
文久2年(1862)12月6日、寄合肝煎*21に就任する。
文久3年(1863)3月5日、江戸を離れ、甲府勤番支配として甲府に赴任する。攘夷で騒がしい江戸を離れる訳だから、ある意味、戦力外通告である。甲府勤番が戦力外通告の代名詞みたいなトコロなので、二重の意味で戦力外と言える。
同年10月11日、従五位下・紀伊守に叙任し、神奈川奉行に就任する。戦力外通告の身から奇跡のV字昇進である。
元治元年(1864)8月3日、大目付に就任。
慶応元年(1865)10月6日、大目付を罷免され、寄合入り。慶応3年(1867)12月6日、寄合肝煎に就任。 
慶応4年(1868)2月11日、駿府町奉行に就任も、同月20日に罷免され、江戸に戻る。2月10日に太政官へ駿府城明渡しと前後して駿河国内の諸城明渡しの移管手続き補佐という役職だった。
大久保個人は武士として潔く戦場で散りたいという願望と、領主として最低限の役割を果たす責任感で板ばさみになっていた。
大久保が出した結論は、領地は庄屋たちに任せ、自身は上記の小田井蔵太に勧誘され、彰義隊に参加することにした。妻を娶り、男子も成人して4人いたが、妻は戦火を避けると称して実家に戻り、息子達も独り立ちと称して次男以外は家に寄り付かなかった。江戸の熟年離婚である。
性格が良く言えば強い意志とこだわりを持つ性格。悪く言えば頑固一徹、人の意見に耳を傾けない人だった。
上野戦争では黒門口危うしと聞き、手勢100人を引き連れて駆けつけ、「東照大権現」と書かれた旗を持ち、仁王立ちで名乗りを挙げたが、頭を銃弾で撃ち抜かれて即死。
次男も一緒に戦ったが黒門口の戦いで先に戦死していた。

  • 服部常純(はっとりつねづみ)(1815〜1879年)
徳川宗家若年寄。
諱は常純。
通称は平太(へいた)、後に帰一(きいち)左衛門佐(さえもんのすけ)
官位は従五位下、長門守、後に筑前守。
600石の旗本・服部家に生まれ、安政5年(1858)10月8日に家督を相続。二の丸留守居、目付と要職に抜擢され、小笠原諸島の測量に携わる。小納戸頭取*22を経て元治元年(1864)2月28日、長崎奉行に赴任。
疫病予防など公衆衛生や軍艦購入で手腕を見せ、慶応2年(1866)8月12日、勝手方勘定奉行として江戸に戻る。
慶応3年(1867)4月29日、海軍奉行並に就任。そこから側衆*23を経て慶応4年(1868)2月12日、若年寄に就任し、徳川宗家の敗戦処理を担当する。
徳川宗家の駿河転封に同行し、静岡藩大参事に就任。
廃藩置県後は明治4年(1871)に修史局2等協修として地誌編纂に携わり、明治6年(1873)から明治10年(1877)1月まで地理局地誌課に務める。
明治12年(1879)、死去。
人となりについては、「心が広くてこだわりがなく、非常に優れた見識を持っているが、世間の決まりや行儀作法にはこだわらない(意訳)」と後輩の木村喜毅(きむらよしたけ)は記している。

  • 川勝広運(かわかつひろかず)(1828〜1875年)
徳川宗家若年寄。
諱は広運。
通称は縫殿助(ぬいのすけ)
号は蓬仙(ほうせん)
官位は従五位下、丹波守、美作守、備後守。
元は越前勝山小笠原家(禄高2万2千石)・小笠原長貴(おがさわらながたか)の5男として江戸で生まれ、嘉永4年(1851)に旗本・川勝左京(かわかつさきょう)(禄高2573石、所領は丹波国内。)の養子となる。
文久2年(1862)4月8日、小栗忠順の推挙により、小姓組兼講武所砲術教授方出役から目付となり、同年7月5日に勘定奉行勝手方となった。同年閏8月3日、政事改革御用掛を兼任し、文久3年(1863)8月14日、陸軍奉行並に就任したが、元治元年(1864)8月19日に寄合と、小栗忠順と同じく実務派官僚として攘夷派や改革に抵抗する勢力と争う日々を送る。
慶応元年(1865)7月10日に長崎奉行並の辞令が出たが、月末に辞職、11月26日に大目付に就任、京都・大坂にて第二次長州征伐の参謀として勤務。
慶応3年(1867)4月7日、養父左京の家督を継ぎ、同年6月17日に若年寄並に就任。
慶応4年(1867)1月23日、若年寄兼国内御用取扱に就任し、徳川宗家の敗戦処理を担当。
しばらく隠棲していたという説もあったが、廃藩置県後、大久保一翁が東京府知事に就任すると、東京府の役人に就任。明治5年(1872)9月12日の新橋・横浜間鉄道開通式当日、明治天皇の乗られた四頭立ての馬車を、東京府知事代理権参事に就任している広運が騎馬で先導する栄誉を授かる。翌年には東京府参事に就任。
明治8年(1875)、東京で亡くなる。
趣味として若い頃から煎茶を嗜み、慶応3年に茶器の解説書として知られる『蓬仙茶話・茶器篇』を執筆している。
人となりについては、「この人は、体がたくましく非常に度胸があり、物事を見抜く力に優れていた。しかし、事務手続きなどの実務処理は得意な分野ではなかった。軍事関係の役職のほうが適任であったと言われている(意訳)」と後輩の木村喜毅は記している。

  • 竹中(たけなか)重固(しげかた)(1828〜1891年)
純忠隊(じゅんちゅうたい)隊長。
彰義隊に参加した義勇軍・純忠隊の隊長を務めた。
通称は彦八郎(ひこはちろう)、民部。
号は春山(しゅんざん)
官位は従五位下、遠江守、丹後守。
旗本・竹中元幸(たけなかもとゆき)の嫡男に生まれ、家督を相続後、文久元年(1861)、本家筋の竹中重明(たけなかしげあき)の養子となり、竹中本家を相続する。旗本・竹中家は戦国時代の天才軍師・竹中半兵衛の末裔である。もちろん、重固に血のつながりはない。
それでも、天才軍師の末裔という肩書は期待値を高めるのに充分だった。大番頭、陸軍奉行と出世し、天狗党の騒乱や第一次、第二次長州征伐に従軍し、第二次長州征伐では芸州口に派遣される。幕府内ではゴリゴリの強硬派で、慶応3年(1867)10月26日には若年寄並に昇進し、翌年正月に行われた鳥羽・伏見の戦いでは伏見方面の責任者として軍を任された。
預けられた新選組、会津武士、徳川陸軍のフランス式歩兵を上手く活かす事が出来ず、大惨敗。
江戸に敗走すると、徳川宗家から鳥羽・伏見の戦いの戦犯として免職・登城禁止処分を受ける。名前を石黒五郎太(いしぐろごろうた)と変名し、純忠隊を組織して彰義隊に参加する。
上野戦争に敗れた後、会津に逃れ、土方歳三と江戸から会津に50挺の元込め銃と弾丸4万発が送られてくるので、これをどう活用しようか?と相談している。
更に仙台から箱館に逃れて榎本武揚の艦隊に合流。箱館では海陸裁判所頭取に就任。しかし、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい、明治2年(1869)5月28日、養父・重明の薦めにより投降。
同年8月15日に死一等を減じられ、福岡藩への永預の判決が下される。竹中家は一旦改易になったが、重明の立ち回りと地元住民が太政官側に従軍したことから、重明に改めて300石の所領が与えられた。
明治5年(1872)1月に正式に罪を許され、重明とともに北海道に移住。士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出。
明治6年(1873)東京府に出仕、教育行政に携わるが、明治8年(1875)に退職。以降は実弟・竹中元賀(たけなかもとよし)が社長を務める蓬英社(ほうえいしゃ)に入社。同社において殖産事業の発展に尽力した。
明治24年(1891)死去。


追記、修正は上野の山にある彰義隊士の墓をキレイにした人がお願いします。

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最終更新:2026年07月28日 12:49

*1 日本国大君として国家元首を外国公使に宣言している

*2 前京都守護職

*3 前京都所司代

*4 首席老中

*5 慶應元年(1865)2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*6 上野・大慈院に隠棲。後に宗家当主の座を田安家出身の家達に譲る。ただし、家達は6歳なので田安徳川家出身で美作津山松平家(禄高10万石)元当主・松平斉民を後見人とした。

*7 フランスは本国の外相が英仏協調派に代わり、徳川家に入れ込んでいるのは出先のロッシュ公使やフランス軍事顧問団のみである。軍事顧問団も失敗して帰国したら無能の烙印を押され、キャリアに傷が付く。彼らも必死ではある。

*8 後に麻布中学を創設する。衆議院議員、貴族院議員。自由民権運動家でキリスト教徒。

*9 前線で銃を持ち、戦っていた徳川陸軍の洋式歩兵は軍制改革で幕府が導入し、口入屋を通して雇われた農民や町人、参勤交代の緩和で失業した中間などの労働者である。

*10 徳川家霊廟、上野東照宮、上野大仏殿、清水観音堂、五重塔、弁天堂、書院、黒門(旧本坊表門)、時の鐘などは、上野戦争での焼亡を免れた。

*11 これをきっかけに彰義隊内部が疑心暗鬼になり、戦意が急速に萎えて抵抗が弱くなった。当時のかわら版に記されている。

*12 長州軍はこの時、初めてスナイドル銃を手渡され、使い方が分からないからと大村が教えている。

*13 幕臣で計2回欧州行きを経験した外交官。長崎海軍伝習所出身で火薬の調合を学んでいる。維新後、静岡に移住を経て太政官に出仕。太政官でも外務官僚として活躍した。暇な時間に私塾を開き、島崎藤村に文学を教えている。

*14 当時の訴訟の手続きや書類作成の代行を行う職業。すごく乱暴に言うと江戸時代の司法書士。

*15 役料80俵、御譜代席、要は御家人である。

*16 後のドイツ帝国

*17 明治2年(1869)5月15日に徳島藩主の蜂須賀茂韶らが任ぜられたのが始まり。天皇のご意見番みたいなポジション。明治維新以前は親王や大臣のポジションであったことから、当初の麝香間祗候は大臣に準ずる特別の優待であった。明治15年くらいになると、主に功労がある華族が任ぜられた。

*18 長兄は家老・内藤介右衛門、次兄は首席家老・梶原平馬。

*19 いわゆる「石抱きの刑」

*20 役職がない大身旗本の溜まり場。

*21 寄合のボス。寄合入りしている旗本を役職に就ける様に調整するのが仕事。旗本の職安である。

*22 日中、将軍の身の回りを世話する係の責任者。

*23 小納戸頭取の上に立つ総責任者。