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更新日:2025/03/09 Sun 00:45:30
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董卓とは、いわゆる「
三国志」の人物。
字は仲穎。
後漢末期の朝廷を牛耳り、その暴政によって後漢朝廷の権威を破壊し尽くし、群雄割拠の幕を開けたことで知られる。
【生涯】
◆前歴・西方の名将
出生は涼州は隴西郡の臨洮県。
西方も西方なため、漢族と異民族(おそらく羌族)の混血と思われる。
生年は不明だが、
- 192年時点で母親が九十代だった(100年頃の生まれ?)
- 董卓本人は次男
- 息子の一人が171年生まれだった
- 孫娘が190年時点で14歳ぐらい(176年頃の生まれ?)
と言うことから、ざっと西暦120~130年頃と想像できる。
生まれついての怪力の持ち主で、さらに武芸にも励んだため、非常に強かった。
特に馬上の弓術に長けており、右手でも左手でも同様に引けた、つまり両利きになるよう鍛えた。
若いころにはよく羌族の居留地へと遊びに行き、羌族の豪傑たちとも親交を結んだ。馬術や弓術に長けていたことも、彼らから一目置かれる要因となっただろう。
董家自身は土地持ちの豪族であり、農耕にも励んでいたのだが、羌族の代表が訪れると、農耕に必要な牛を必ず屠殺してもてなしたため、彼らからは非常に慕われた。
おかげで董卓は、羌族にも顔が利き、頻発していたトラブルを解決できるということで、漢族における顔役になっていった。
そうなると周囲も放っておかず、隴西郡太守や涼州刺史、并州刺史といった地方官にも目を掛けてもらい、騎兵隊を預けられて、このころ頻発していた紛争の鎮圧に活躍した。
ある任務では略奪激しい胡人の一団を討伐し、数千もの胡人を討ち取った。
その活躍は後漢朝廷にも聞こえ、桓帝末年から朝廷にも抜擢される。
167年には護匈奴中郎将・張奐の配下で軍司馬となり、漢陽の羌族を討伐。
董卓は武術のみならず作戦立案能力でも優れたところを見せ、彼の補佐を得た張奐軍は一万以上の羌族を捕殺し、さらにその族長をも討ち取って、以後羌族は董卓の存在を恐れ、反乱を起こさなくなった。
大戦果を挙げた董卓は張奐からも讃えられ、郎中に昇進して上質の絹を九千匹も下賜されたが、董卓はそれら褒賞を全て部下に分け与えたため、部下からも強く慕われた。
以後は各地の地方官を歴任。
県令・郡都尉・西域校尉などを務め、一時免官となったがやがて復帰し、并州刺史や河東郡太守などにもなった。
いずれも異民族との最前線で、董卓は常に戦功をあげたという。
◆黄巾の乱
184年には「黄巾の乱」が勃発。
董卓は後漢朝廷から中郎将に任命されて黄巾賊討伐を命じられるが、山岳地帯での異民族との経験は、平地での漢族への戦いには活かせなかったようで、失敗して免官されてしまう。
しかし翌185年には、今度は涼州で、
韓遂・辺章が羌族も引き込んだ大規模な反乱を起こす。
後漢朝廷はこれに対処すべく、黄巾の乱を鎮圧した名将・
皇甫嵩を司令官とする討伐軍を組織。
さらに「羌族相手ならこの男」ということで、董卓も
中郎将に復職し、韓遂討伐軍に参加した。
だが皇甫嵩は苦戦し、また後漢朝廷を牛耳る
宦官・十常侍に嫌われていたため、彼らの讒言・裏工作によって罷免されてしまう。
代わって朝廷は司空・
張温を車騎将軍に任じ、援軍を兼ねた第二次討伐軍を組織。186年になっている。
董卓は皇甫嵩免官後も前線に残っており、
破虜将軍に昇進しながら戦闘続行。
敵地に孤立するなど苦戦しながらも、川などの地形を生かして見事な用兵術を見せつつ羌族を翻弄し、時には反乱軍に痛撃を与えた。
なおこの討伐隊、第一次から董卓に加えて
陶謙も参加しており、さらに第二次には
孫堅も武将として加わっている。
さらに第二次隊には後詰で
公孫瓚も合流予定であり(部隊編成中に幽州で反乱がおきたため、涼州への合流は断念)、三国志初期を彩る豪傑が揃い踏みした極めて豪華な布陣だった。
最終的に韓遂・辺章は撤収したが、張温軍も作戦目標を果たせず敗退。
張温麾下の六個大隊のうち五個大隊が大損害を出したが、ただ董卓の大隊だけはほぼ無傷だった。
そのため、戦後も董卓隊は防衛のため扶風郡に駐屯、斄郷侯となり一千戸の領邑を受けた。
二年後の188年には、韓遂・辺章が再び逆襲。
董卓は今度は前将軍として、左将軍・皇甫嵩の麾下でこの反乱軍を迎撃し、ついにこれを打ち破った。
しかしこの戦いでは、上司の皇甫嵩は董卓の立案した作戦をすべて却下し、董卓が反対するところの作戦を用いて、韓遂軍を撃滅したため、戦功はほぼすべて皇甫嵩に帰し、董卓が不快になったという。
188年には少府に任命されるが、そのためには兵権を手放さねばならず、董卓は「いま任地を去れません」と拒絶。
朝廷の人事に逆らうというのはかなりの大事ではあったが、もはや黄巾の乱以来腐敗しきってしまった後漢朝廷に、彼を粛清するだけの力はなかった。
朝廷は翌189年に再び「并州の州牧に任ずるから兵権を皇甫嵩に譲れ」との辞令を出すが、董卓はこれも拒否してしまった。
◆中央への進出
ところでこの189年、元号では中平六年、後漢朝廷では内宮まで巻き込んだ大乱が起きていた。
後漢はかねてより
宦官の専横が問題となっており、特にこのころには大将軍
何進を筆頭とした官僚たちと、いわゆる十常侍を中核とした宦官たち、およびそれに与する一部官僚で一触即発の状態だった。
そして何進がよからぬ策謀を立てる。各地の軍閥将軍たちを招き寄せ、その戦力で宦官たちを威圧して一気に勝負をつけようとしたのだ。
董卓も何進の招集命令を受けた。
しかし董卓は「いったい何のつもりだ?」と疑いを挟んだようで、とりあえず軍を率いて洛陽には向かったものの、その兵はわずか3000に絞り、さらに到着しても洛陽郊外にて軍を止めて様子をうかがっていた。
その様子見のあいだに、
何進が宦官勢力によって暗殺されてしまう。さらにその事件を「大将軍暗殺は国家への反逆」と言い返した
袁紹らのクーデターによって、
宦官も滅ぼされてしまう。
それでも十常侍首領・張譲は皇帝である劉弁(少帝)と弟の劉協を連れて洛陽を脱出したが、その張譲らが、たまたまそこにいた董卓の軍に出くわしてしまう。
張譲たちは観念して自殺したが、
遺された皇帝兄弟は董卓の手中に飛び込んだ形となった。
思わぬ宝が手のひらに転がってきた。
幼いといっても現役の皇帝である。それを期せずして救出し、擁立する形となった董卓は、しかも後漢朝廷の実権を握っていた何進と宦官が滅んだのに付け込んで、朝廷の権力を一手に握ることになった。
しかし、都に連れてきた軍は3000ばかり。
これでは、董卓と同時期に入ってきた将軍たちに位負けしてしまう。いやせっかくの皇帝兄弟を武力で奪われる危険がある。
そこで董卓は、とりあえず3000の兵を洛陽に入れると、夜になるとこっそり城から出し、翌日に「并州から来た援軍」として再入城させ、それを何度も繰り返すことでいかにも「大軍を揃えている」と偽装したという。
もちろん、偽装だけで済ませるわけにはいかない。ばれてしまえば元の木阿弥だ。そしてばれるのは時間の問題である。
しかし偽装でも、時間稼ぎにはなる。その時間稼ぎをしているあいだに、董卓は素早く立ち回った。
まず、何進や何苗(何進の弟だが宦官側についていたため、袁紹のクーデターで殺された)の軍が、指揮官不在で遊んでいたのに目をつけ、弟の
董旻を後任の指揮官として何氏兄弟の兵力を吸収。まずは数の不足を補った。
ついで、董卓と同時期に洛陽に招集されていた
丁原の家臣
呂布にも狙いをつける。
彼は丁原の配下だった
呂布を説得、
丁原を暗殺させてその軍勢、そして呂布を吸収し、量のみならず質の面でも不足分を補った。
さらに時間を稼ぐうちに、并州から呼び寄せた本物の董卓直属の援軍も到着。
董卓の軍事力=権力はひとまず盤石となり、好機到来と見た董卓は博打に出る。
◆帝都専横
権力を揃えた董卓は、さらに権威をも得るべく、皇帝をすげ替えるという挙に出た。
先のクーデターで、董卓の手元には劉弁(少帝)と劉協の兄弟がいる。皇帝なのは劉弁だが、彼は何進ら朝廷の大臣たちに擁立されたのであり、董卓の手駒ではない。
つまり政治情勢によっては、朝廷の大臣たちに奪い返される公算が高いということだ。
逆に、董卓が皇帝を擁立すれば、董卓の権威は「皇帝の後ろ盾」ということになり、大臣たちがどう画策してもまず奪い返されることはない。
そして個人レベルでは、子供二人のどっちが皇帝でも変わりはしない。
(劉弁よりも劉協のほうが聡明だったから……と言うのもよく言われるが、二十歳にもならない子供を並べて「どっちが聡明」などとまともに論じる方がおかしい。ただの口実だろう)
諸々考えた董卓は、「
伊尹の故事」を口実にあっさりと少帝劉弁を廃して
劉協(献帝)を皇帝に擁立。さらに劉弁とその母・何太后を暗殺して、ついに朝廷の実権を掌握した。
まず董卓は
太尉・前将軍の官位と
郿侯の
封号を獲得。しばらくしてから官位を「
相国」に進め、一族全員にも官位や封号を与えた。老いた母や、まだ少女と呼べる年齢であった孫娘の
董白といった、本来ならとても官位や爵位につけない人物にも何かしらの称号を与えている。
宮廷においては「皇帝に拝謁しても名乗らずともよく、剣を帯びたまま殿中に登れる」という建国の元勲並みの特権を獲得。
さらに精鋭部隊を駆使して、国家の宝物を略奪したり、刑罰を勝手に発してわずかな恨みにも報復したりと、暴虐の限りを尽くした。
あるとき、軍を率いて陽城に来たところ、現地住民がたまたま祭りを行っていたのを見るといきなり攻め込み、男は殺して女は拉致し、牛や車や財産も略奪して、しかも「賊徒に天誅を与えた」と放言して「凱旋」した。
後宮に忍び込んでは宮女や公主(皇族女性)と姦通したともいう。
これら首都圏における暴虐に対して、一方では董卓はそれなりに覇者らしいこともやっている。
まず天下の人脈を得るために、かつて「党錮の禁」で宦官に弾圧された、陳蕃・竇武・李膺らと、彼らの系譜を継ぐ「清流人士」の
冤罪を解除し、名誉を回復させた。
荀爽・蔡邕といった面々に相談のうえで、各地の太守・州刺史などに人員も派遣している。荊州刺史の
劉表などもこの時の推薦された者たちだ。
少帝廃位・献帝擁立の一件で、袁紹たちが董卓と決裂して渤海へと立ち去ると、当初董卓は彼らを追討・処刑しようとしたが、
配下の
伍瓊・周毖らの諌止と進言があって、袁紹を渤海太守に、張邈を陳留太守に、韓馥を冀州刺史に、孔伷を豫州刺史にするなどして、袁紹と彼の一派(あるいは故何進一派)を懐柔しようとした。
◆反董卓連合
ところが190年、董卓に反発する勢力が「君側の奸・董卓を討つ」を大義名分として、独立するとともに連合して反旗を翻した。
しかもその主力となった面々が、先に董卓が「懐柔のため」地方官に抜擢した、袁紹・張邈・韓馥・孔伷たちだったため、董卓の受けた衝撃は大きかった。
董卓はまず、彼らを推挙した伍瓊・周毖らや、洛陽に残る袁一族などを全員処刑(内応の予防や、反乱幇助の罪を問うたもの)したうえで、
いきなり洛陽から長安への「遷都」を強行する。この少し前に娘婿の牛輔が河東郡で白波軍に大敗したことも「不利」と思わせる遠因となったらしい。
ただしいきなり逃げを打ったのでなく、長安遷都を強行する軍とは別に、主力軍には洛陽から東に進撃させ、反董卓連合を
各個撃破するべく打って出る。
まずは河内太守の
王匡の軍を河陽津にて迎撃、陽動を駆使した見事な攻撃でこれを壊滅させる。
また配下の猛将
徐栄に兵を与えて、まずは滎陽県にて
曹操・鮑信の軍を、次いで梁県にて
孫堅の軍を破り、反董卓連合の主戦力を打ち負かす。
この董卓の強固な反撃に反董卓連合の諸侯は恐れ、かつまた彼ら自身そんなにやる気がなかったこともあって、ほとんどの諸侯は後方に下がり動かなくなった。
そんな中、南方に展開する
袁術が、敗走したあ孫堅軍に補給を与え、再建させる。
董卓軍は孫堅討伐のため、
胡軫と
呂布に一軍を与えて派遣したが、指揮官同士の内紛に加えて孫堅が猛攻を掛けたため、軍は破れて
華雄が戦死。
孫堅・袁術の勢いを恐れた董卓は、「遷都強行」で荒れていた洛陽に
火を放ちつつ、すでに先行していた遷都部隊を追うようにして長安へと去っていった。
この董卓の長安遷都は、一石二鳥を狙った戦略である。
まず、董卓の本拠は涼州にあり、洛陽は遠いが長安ならほど近い。
また長安は反董卓連合の参加諸侯にとっては距離がありすぎ、追撃しようにも補給が厳しい。
つまり董卓の軍を増強しつつ地の利も得られ、逆に反董卓連合の矛先を逸らして戦意をなまらせることができるわけだ。
それに董卓は、涼州での山岳戦には強いが、どうも平地の戦いは得意ではなかったようである。黄巾党にも敗れているのだ。
結局、董卓に逃げられた反董卓連合は、戦略目標と大義名分を見失ったことで、すでに衰えていた団結力をますます失い、諸侯同士の内紛が多数勃発。
自然連合は空中分解し、求心力を発揮していた袁術と袁紹がそれぞれの派閥を構築するようになる。
◆長安での暴虐
長安に合流した董卓は、連れてきた大臣たちを束ねてとりあえず「朝廷」を作り上げると、献帝を擁立して実質的に君臨する。
自分の階級は「
太師」とし、
太公望よろしく「
尚父」と呼ばせ、服飾や馬車、邸宅などの様式は
皇帝と同じ形式で揃え、閣僚の任免も政庁ではなく
自分の屋敷に呼びつけて辞令を発するようになる。
皇帝と名乗っていないだけで、もはや実質の皇帝であった。
暴虐も相変わらずで、捕虜を斬殺したうえに死体を料理にして会食に振る舞わせたり、かつて恨みのあった張温を殺害したり、新任した司隷校尉に長安内部で恣意的な摘発と賄賂の収奪をやらせたりと、それはもうやりたい放題。
銅貨の五銖銭を廃止して粗悪な銅貨を発行したために、貨幣価値が乱れて食料の値を暴騰させたりもしている。
また、長安を離れること260里(約100km)の郿県に、自分の塢(砦)を作っている。
いわゆる『
郿塢』だが、その規模たるや「高さは長安の城壁に迫り、食料は三十年分を抱え込む」「黄金は三万斤、白銀は九万斤、碧玉・錦絹・財宝は山のごとく、総数計り知れず」というほどの規模で、仮に天下に敗れてもここに籠城するだけで、死ぬまで安泰、と豪語したという。
公孫瓚「なるほど」
……しかし「天下の皇帝」を気取るはずの董卓が、首都から遠く離れた場所にこんな城を作るというのは、意外と気が小さかったのかもしれない。
また、董卓は長安内部でこそこのように「絶対権力者」として思うがまま振る舞っていたが、長安・関中から離れて関東に目を向ければ、もはや地方官への統制は完全に失われていた。
いや、何もしていなかったわけではなく、配下の李傕、郭汜、張済、牛輔、といった面々を各地に派遣し、陳留郡や潁川郡を攻撃したり、中牟にて河南尹の朱儁を撃破したりはしている。
しかし、「董卓に擁立される献帝など、後漢皇帝としては認めない」とする袁紹や袁術たちが、州牧・州刺史・郡太守・県令などの各地の長官たちを束ね、果ては勝手に「任命」している状況では、董卓政権が発する辞令も、効果はほとんどなかった。
◆最期
さて、長安でかくのごとく「暴君」として振る舞う董卓だったが、こんな政権が長続きするわけもなく。
暴君の死を狙うものは、天下にいくらでもいた。
長安において董卓は司徒の王允と、侍中の蔡邕、そして側近の呂布を信頼していたのだが、その王允と呂布が結託して董卓の暗殺を謀るのである。
呂布の場合、かねてより董卓付きの美貌の侍女と密通しており、これが発覚すれば董卓から憎まれて消されることを恐れていた。
さらに董卓は少し前に、呂布のちょっとした口論にいきなり激怒して戟を投げつけ、呂布が間一髪避ける、という一幕があった。
呂布と董卓は、いつしか「殺さなければ殺される」関係となっていたのだ。
その亀裂を、王允は見逃さなかった。
(ちなみに王允は并州は太原郡の祁県の出身で、呂布は并州・五原郡・九原県の出身。距離はかなり遠いが、州レベルで言えば呂布とは「同郷」となる)
192年、献帝の病気が快復したため、董卓も快気祝いに拝謁することとなる。
呂布は同郷の李粛と協力して、出迎えの衛兵を自身の私兵にすり替え、董卓が到着したところを李粛隊が襲撃。
董卓が護衛の呂布を呼んだところで、出てきた呂布が満を持して「これが勅命だ」と宣告し、驚愕した董卓を一撃で殺害した。
晒し者にされた遺体に蠟燭を突き立てたところ、元々肥満体だったため数日間燃え続けたと言われる。
また、死者への扱いとしてあまりにも忍びないため、彼を慕っていた臣下達が密かに葬儀を執り行ったが、天の怒りか暴風雨で墓はたちまち破壊されてしまったという逸話がある。
直後、王允を中心とする一団が軍を率いてクーデターを起こす。董卓に滅ぼされた袁家の縁故者など、多くの人員が彼らに呼応した。
まず彼らは軍を率いて郿塢に殺到し、董旻をはじめとする董卓の一族を老若男女の区別もなく皆殺しにした。董卓の九十歳になる母親も殺害されている。
郿塢に蓄えられた金銀財宝も、殺到した兵士たちに略奪される。
次いで董卓に引き立てられていた官僚・武将・人士などもことごとくが捕えられ、リンチ同然に投獄・殺害された。
……そしてこのとき殺害された中には、高名な学者の蔡邕もいた。
蔡邕は董卓に抜擢され、かつ篤く信任されていたため、董卓誅殺を聞くと嘆き悲しんだ。
(董卓に心服していた、というわけでは必ずしもなく、彼の独善と、自分の諌言が通じないことから、逃げようとはしていたが、結局果たせなかった。ただ、それはそれとして、厚恩を受けたことは事実としていたのである。ちなみに、晋の名将・羊祜は、蔡邕の孫にあたる)
しかし「董卓誅殺を嘆き悲しんだ」ことを知った王允は激怒し、蔡邕の謝罪や周囲の弁護も聞き入れず殺害。これで王允を見限る者も多く出た。
また王允は、呂布を初めとする武将たちにも露骨に見下げる態度を取り、呂布からの「接収した財物を将兵に分配して、彼らの心をこちらに傾けさせなければなりません」という珍しく真っ当な進言も拒絶している。
さらに、李傕や郭汜といった長安にも郿塢にもいなかった董卓の残党に対しても、「許してやって味方に加えましょう」という呂布の本当に真っ当な進言を無視して必ず皆殺しにしてやる、と決意していた。
いや、単に決意するだけならいいが、彼の場合、そうした意向を強く表明してしまったことが、問題となる。
◆天下定まらず
董卓は死んだが、李傕・郭汜を筆頭とする董卓残党はいまだ存在している。
そして李傕たちは、王允が董卓残党を決して許さず皆殺しにする覚悟でいることを知ると、参謀の賈詡の諌言もあって、開き直っての徹底抗戦を決意。
対する王允は呂布・李粛・徐栄・胡軫・楊定といった、味方に付いた元董卓配下を動員して戦わせたが、肝心の王允が狭量で人望がなかったために胡軫や楊定たちが離反、李粛と徐栄は戦死して呂布も敗退するという惨敗を喫する。
そのまま長安に入城した李傕たちによって、王允を初めとする朝臣は多くが殺され、あるいは逼塞した。
この李傕政権によって、
ついに後漢朝廷は自立した組織としては消滅する。
その後も献帝は
曹操のもとに逃げ込み、大義名分としてはそれなりの効力を発揮するが、もはやそれは「後漢朝廷」としてではなく「中原曹操政権」の一要素に過ぎなかった。
董卓残党も、内紛や同士討ちで四分五裂。
董卓の娘婿・牛輔は部下に殺され、実力者・樊稠は李傕に殺され、相棒だった李傕と郭汜が仲違いを起こして勢力を二つに割り、同じく実力者・張済は飢えて荊州に落ち延びて戦死……と、ゴダゴダを起こしまくって自然崩壊した。
董卓・李傕・郭汜らの暴走や暴虐により、長安一帯の人口は大きく減ったという。
【人物】
「三国志」を代表する暴君として知られている。
皇帝を殺して国を私物化したことから、後世では秦の趙高、前漢(新)の王莽に匹敵する悪臣として挙げられることが多い。
董卓が権力を握った期間はたった三年であるが、庶民にも士大夫層にも閣僚クラスにも等しく暴虐を振るい、また皇帝廃立によって後漢王朝の権威も衰えさせた。
「
三国志」魏書では曹一族と各王妃の紀伝の次が董卓伝(董二袁劉伝)となっており、「後漢末期の乱世はこの男に始まる」と言わんばかりの体裁をしている。
董卓の暴虐については「過去の暴君のテンプレ像を応用しただけで、実はそこまで暴君ではなかったのでは?」と言う異論もよく提起される。
+
|
特にモデルと思しき人物 |
特にモデルと思しき人物としては、孫呉末期の孫峻と孫綝が挙げられる。
孫峻は「廃位された元皇帝の殺害」「多くの大臣・官僚への殺戮」「幼帝(孫亮)を傀儡とする」など、孫綝とは「皇帝廃立を行う」「自身がクーデターで殺される」など、それぞれ董卓と似た逸話がある。
陳寿は三国志編纂に当たって孫呉の資料(特に孫呉政権が作った「呉書」。滅亡寸前まで編纂が続けられていたという)を参考にしているし、元孫呉政権の人物で存命中の人々にももちろん取材しただろう。
また、董卓は陳寿が三国志の編纂を始めた時期から百年も前に死んだこと、董卓死後に長安が崩壊したこと、献帝や官僚たちが長安から許昌へと逃げたこと(=資料を持ち出す余裕もなかったこと)などから、董卓に関する正確な歴史資料が陳寿のところにどれほど残っているかも疑問。
そうなると「董卓の具体的な暴虐像」に、陳寿たちが知りうるもっとも身近で生々しく知りうる「暴君」として孫峻と孫綝の逸話が引用された可能性は大いにありうる。
|
実際、ある程度の誇張はあったのだろう。後の魏の始祖である
曹操は、本来漢王朝の臣下である。そんな彼が漢王朝の命令を無視して独立行動を開始したのは、「反董卓連合」に参加してからであった。
つまり「始祖・曹操が漢王朝に謀反を起こした」と言う歴史的事実を「始祖・曹操は董卓打倒のために義兵を起こした」と粉飾する必要があり、そのスケープゴートとして、董卓は「暴君」として利用された、とすることはありうる。
また彼は明らかに異民族文化圏の出身であり、中原の
儒教文化圏で生まれ育った士大夫層が、董卓という人物の存在そのもの(あるいは彼が自然に放つ異民族らしさ)に激しい嫌悪感を抱いたことも充分考えられる。
実際、董卓には
「敵は武力で片付ける」という行動パターンが多い。その「敵」になるなら
士大夫や同僚、名門貴族でも「武力殲滅」一辺倒なので、異民族との戦場における思想パターンをそのまま政界に持ち込んでしまった感もある。
一方、同じく憎んでいた皇甫嵩に対しては、彼が頭を下げると許してやったという話もある。元々皇甫氏自体涼州出身の名族であったため、許す気しかなかった可能性もある。
(董卓は殺そうとしたが、皇甫嵩の息子が董卓と親しく、彼が弁明したため助かった、という話もある)
「敵と見なせば武力殲滅一辺倒」だが、逆に
「手下と見なせば優しい」という描写も結構ある。
若いころの異民族社会にいたころの逸話や、涼州時代の受け取った部下たちへの褒賞品の分配などは彼の支持・人望を大いに高めた。
長安時代にも、
司馬懿の兄・
司馬朗が董卓の元から逃げようとして捕まった際には
「お前は、去年死んだわしの息子と同い年ではないか。なぜわしを見放すのだ」とまるで子供のように見ていたらしい発言も記録されている。
死後も、少なくとも李傕は董卓の神像を作って祀るという
奇行敬意の表明をしている。
まあ呂布に対しては董卓から刃物を投げつけて離反されたので、必ずしも部下に丁寧だった
というわけでもなさそうだが……
ただ、董卓の「暴政」について「長安への遷都強行」と「悪質貨幣の流通による経済の破壊」は、独特かつ具体的。
つまり少なくともこの二件は事実で、そして強制疎開された(農地や生活基盤を奪われた)あげくに貨幣も使えなくなった庶民への被害は相当だっただろう。
「皇帝廃立」も、「少帝と何太后が董卓の執政と同時に偶然に病死した」とは考えにくいため、やはり董卓が主導権を握るために実行したと考えるのが自然。実際、現役皇帝を廃位するかはともかく、新君主を擁立して臣下が権力を握るというのは歴史上よくある手である。
董卓死後の、幹部たちの内紛と李傕・郭汜の暴走や暴虐も相当事実を反映しているとみられ、幹部たちの質も大概であったと思われる。
配下の兵たちも首都圏・遠方を問わず好き勝手していたようだ。その意味でも董卓の責任は免れそうもない。
外交面では官位を送っていろいろと画策するのだが、ほとんど成功していない。
袁紹たちには早々に離反されるし、
公孫瓚や陶謙なども結局は董卓のために何かをすると言うことはなかった。
「董卓は呂布に殺されるまで誰も止められなかった」と言う評もあるが、むしろ権力を握ってからたった三年で仕留められたとも言える。
しかし「後漢滅亡の大戦犯」かというと、それは違うだろう。
董卓が政権を獲得する前から、後漢帝国はすでに手遅れだった。
184年の黄巾の乱をはじめ、185年の韓遂・辺章の反乱、187年の張純・張挙・丘力居の反乱は、董卓とは無関係である。彼は189年まで、後漢朝廷の政治には関わっていない。
いやそれ以前に、霊帝の売官政治や宦官の跳梁跋扈などは、皇帝・官僚・宦官を中核とした、後漢朝廷の腐敗と堕落の結果である。
なんでも「三公のうち太尉段熲・司徒崔烈・太尉樊陵・司空張温は、いずれも1000万銭から500万銭でその地位を買った」とのことで、しかもこの官職を売ったのはほかならぬ霊帝だった。
つまり「皇帝がカネで官位を売り、官僚もカネで地位を買っていた」わけで、そりゃあ後漢も乱れるというものである。
袁紹たちの反董卓連合は、「董卓の擁立した献帝を認めない」ということを標榜して、後漢朝廷そのものの権威にも反発したわけで、むしろこれを以って後漢の滅亡と言えなくもない。
とはいえその袁紹たちにしても、もはや後漢王朝は政府として機能していない、という認識だったのだろう。つまり仮に董卓が台頭しなくても、いつかどこかのタイミングで、袁紹・袁術・曹操たちは自立していったと思われる。
それこそ、董卓の台頭以前から、
劉焉が遠い巴蜀で皇帝然として振る舞っていたように、である。
「董卓が後漢滅亡の元凶である」というからには「董卓が現れなければ後漢は滅びなかった」と言わねばならない。
しかし、仮に董卓が歴史に現れなくても、数年は伸びたかもしれないが、いずれ後漢帝国は崩壊したであろう。
とすれば、董卓はあくまで「後漢崩壊の数ある要因の一つ」に過ぎず、決して無関係ではないものの、直接原因とまで過大評価するほどのものでもないだろう。
まあ、彼が執政をしても漢王朝は衰える一方だったので、彼が後漢王朝を再建する名臣になり得る男だった、あるいは暗殺さえなければ新しい王朝を築ける男だった、ということも、絶対にないと言えるが。
ただ董卓の死後に乱世が巻き起こったことについて、陳寿は「王允がクソなせい」と吐き捨てた一方、裴松之が「ゴミは涼州閥を開き直らせた賈詡だよ」と史家でも対立が起きている。
また、陳寿がこうした悪行を史書に大々的に書いたことについては、曹操・
劉備・孫堅・袁紹の共通の敵であったのみならず、
陳寿と同時代に皇帝弑逆という大罪を行った人間……すなわち
賈充に対する口撃だった可能性もある。
大本となる皇帝の司馬昭は三国統一前に亡くなったが、賈充は健在だ。董卓のように武勇に秀でてはいないが、晋建国の功臣かつ司馬昭の子で皇帝の司馬炎に気に入られ、政治を専断している時の権力者でもあった。
しかして賈充自身の代では何も起きなかったものの、その死後に起きた
八王の乱で賈氏は董卓と同様三族皆殺しで与していた者も処刑と相なり、その後も内紛がダラダラウダウダ続く。その結果として晋という国を三国統一後僅か30年余りで終わらせ、
群雄割拠の新たな乱世にしてしまっている。
『太平御覧』巻828に引く『董卓別伝』には
『(董卓が死んだとき)、(長安の)百姓(人民)は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の装身具・衣服・家具などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため長安の酒と肉の値段は急騰した』とある。
つまり「やったバンザーイ!董卓が死んだ!どんちゃん騒ぎでお祭りだ!」というのを実行した家がいっぱいいた、ということである。
一説には人々は高騰していても酒を買い求め、とうとう長安中の酒が売り切れる事態となってしまったらしい。
完全に真実かどうかはわからないが、民衆に相当嫌われていたのは間違いないだろう。
【三国演義】
案の定徹頭徹尾
暴君。
「かつては族長たちと親しく、部下には優しかった」と言うシーンはカットされ、暴虐シーンだけが残る。
また、黄巾の乱では黄巾賊に敗れて逃げるところを
劉備・関羽・張飛らに助けてもらうが、三人が無位無冠の義勇兵と知ると
さっきまでの感謝を忘れて追い払うと言う、酷薄な面も描かれる。
(でも主人公が悪の大ボスと直接対面するという、展開としてはかなりおいしいイベント)
袁紹のクーデターと宦官の悪あがきで宮廷から出てしまった少帝・献帝を救出すると、少帝を廃して献帝を擁立し、以後洛陽で暴虐の限りを尽くして反董卓連合を起こされるのは史実通り。
曹操からは七星剣で命を狙われるが、タイミングの良さもあって七星剣をせしめて生き延びる。
最後は王允の「美人計」により、貂蝉の色香に迷って呂布に殺される。
貂蝉を差し向けたのが王允というのは演義オリジナルだが、呂布が董卓の侍女と密通していたことや、董卓が呂布に短剣を投げつけたこと、その件を相談された王允が暗殺計画に呂布を引き込んだことなど、史実由来のエピソードも多い。
部下には悪辣な軍師として
李儒(娘婿でもある)が登場。李儒は史実でも「廃位された少帝を暗殺した」ことで知られる。「皇帝弑逆の片棒を担いだ」と言うことで大幹部に抜擢されたのだろう。
李儒は「丁原が連れている呂布を見て董卓の怒りを鎮める」「呂布の勧誘に、董卓の秘宝・赤兎馬を差し出すという李粛の策に同意する」「洛陽を捨てて長安に
逃げるよう進言する」などさまざまに献策。
特に赤兎馬を差し出す際には、李粛の進言には決断できない董卓も李儒の
「天下と馬、どちらを取りますか」というさりげない名言を聞いてついにうなずくという、信頼の厚さも見せていた。
しかし、王允・貂蝉の「美人計」も見抜いたのだが、女の色香と若い男への嫉妬に狂った董卓は初めて李儒の進言を拒絶。
李儒は絶望するものの逃げずにとどまり、最後は連座で殺されるという、悪人ながらも忠誠心を見せた。
董卓自身、呂布への出動を命令したら自薦してきた華雄の出撃を認めたり、劉備三兄弟に敗れた呂布をとがめなかったりと、李儒への信頼も含めて、部下への扱いは良かったりする(貂蝉に会うまでは、だが)。
【各作品】
どの作品でも「序盤の大ボス」「倒すべき巨悪」として大抵最初の目標とされている。
容姿は史実から肥満体だった事もあり恰幅良くされがちだが、単なるデブではなく「魔王」としての威厳と威圧感を持った巨体という風に描かれることが多い。
他、妙に欲望に忠実なキャラクターにされがちであり、特に女性に目がない。
しかし「戦い」を主体とする三国志ゲームにおいては文武両道の董卓と武力最強の呂布、そうでなくても武に優れる華雄や徐栄、知略に長ける李儒や賈詡などが序盤に来てしまうということで構成を悩ませたりする。
洛陽から長安に遷都し、しかも都から離れたところに郿塢を作ったことについて「天子を擁立して天下を取るだけの野心や器量がなく、逃げ込むところを欲した」「本人の力量は地方軍閥が限界で、僥倖で朝廷を牛耳ったが、実力で得たのではないため本能的に不安がっていた」と分析されている。
そして彼が暗殺されたのは、暴虐そのものではなく(董卓並みの暴君はいくらでもいるので士大夫たちは対策を知っている)、辞令を出して金儲けの機会を作るという、士大夫たちへの余禄を潤すことを、しなかったことに原因があるという。
いくら衰退・形骸化していても「朝廷からの辞令」は群雄や中小豪族は欲しがるし、それを売りつければ役人や士大夫は懐が潤う。しかし董卓は長安に引きこもり、天下に辞令を出すことに消極的だった。それで、士大夫たちが「金儲けの機会を与えない董卓は殺そう」と決意した。
美人計自体は簡単な策略で、こういう陰謀に掛けて董卓は、四百年宮廷で画策ばかりしていた士大夫の敵ではなかった、とまとめられている。
シリーズ皆勤武将。勢力のイメージがカラーは黒系統、特に灰色が多い。
武力と統率力が80台と安定して高く、知力も60~70台と決して低くはない。
ただし政治力と魅力値は低い。とはいえさすがに韓玄など一桁台のような扱いはされていないが。
戦闘向けの特殊能力や個性を持つことも多いのでいっそ前線に出した方がいいぐらいの能力値だが、悲しいかな、ほとんどの場合君主なので、立場と絶妙に噛み合っていない。
金収入を増やす「徴税」系の特技を持つ事も多いので、戦場に出ずとも役に立つし配下に加える価値もある。
ただし配下として見た場合、当然のように義理最低・野望最高、しかも曹操や呂布と違い、引き留め役の「嫁」も存在しないので引き抜きや独立が怖い。
最初から洛陽・長安を押さえているシナリオでは、武将は呂布・華雄・張遼といった大物から李傕・郭汜・張済・樊稠といった有象無象中堅まで豊富、文官は李儒・賈詡を筆頭に後漢朝廷の官僚たちが合流して、なかなかの人材大国。
なんと言っても皇甫嵩や朱儁、王允や士孫瑞といった、後漢朝廷の官僚たちが部下にいるというのは非常に大きい。
しかも、大抵大兵力を有しているため、めちゃくちゃ強い。
逆に、距離の近い袁術や曹操でプレイする場合には、「いかに董卓軍の猛攻をしのげるか」と「いかに董卓陣営から人材を引き抜けるか」が鍵になる。
「黄巾の乱」シナリオでは何進(官軍)と張角(黄巾)の脇に控える小勢力として登場。
二大勢力の激突を高みの見物しつつ、空き地の益州で国力をじっくり蓄えるも良し、機を見て中央に躍り出るも良しの第三勢力プレイが楽しめる。
しかし弱点も多い。
「反董卓連合」系シナリオでは、基本的に連合結成イベントがシナリオ開始と同時に発生し、最初から多数の勢力が連合して敵対&改善不可能となるので、外交面がまずシビア。
「連環の計」が再現されるタイトルの場合、発生させると董卓自身が死ぬ上に勢力も大きくガタつくので、未然にその芽を摘んでおかないと辛い。
また、その前段階の「長安遷都」に至っては実施する意味が全く無いのでやらないようにしよう。COMが担当すると長安遷都しておきながら空き地の洛陽にイソイソと舞い戻ってくるという朝令暮改の極みを見せつけてくることが多い
勢力相性では袁術や曹操、孫堅とはそんなに悪くないのだが、上述した後漢朝廷の官僚たち(≒主力文官層)は董卓の勢力と相性が悪いのでなかなか居ついてくれない。
また部下たちの初期忠誠が低い上に自分の魅力も乏しいために忠誠心の維持も困難で、部下の引き抜かれや離反が起きやすい。
近隣にも董卓と相性と離れている武将=初期忠誠が低い・季節毎に忠誠が低下する武将の方が圧倒的に多く、たとえ勢力拡大しても俸禄払いに追われがち。
さらに勢力相性の悪さと魅力の低さは外交の信用上昇度にも悪い影響を及ぼすので、他の君主より親善費が嵩んでしまう。
最初から資金に恵まれる反董卓連合シナリオ以外では無視できない、痛いハンデだ。
コーエー董卓最大の特徴が嫌悪されている武将の多さである。『14PK』ではその数驚異の
24名!
それも曹操や孫堅に袁紹、関羽や張飛、盧植といった英雄ばかり。彼らを配下に加えられないのは痛すぎる。
一応初期で配下にいることもあれば、嫁や義兄弟経由で登用することもできるのだが、配下にいる被嫌悪武将は物凄い勢いで忠誠が下がり、引き抜きどころか下野する可能性すら出てくる。
また、嫌悪されている武将に有力な君主が多いのも問題。こちらを嫌悪している君主との外交は著しく不利になる上に
自身を捕縛すると高確率で処断してくるので、彼らが相手だと自らが前線に出にくくなってしまう。
国力や人材のアドバンテージを失った上で曹操や袁紹たちと対峙することになる
英雄集結系シナリオではこの弱点が特に響く。
最大の弱点。
張角と違って董卓は不自然死扱いなので192年を迎えて即死するようなことはないが、それでもせいぜい200年台までしか生きられない。
そのくせろくな後継者も存在しない。いっそ養子の呂布か、親族でもっとも魅力の高い董白という手もありかも。
以上の点から勢力としては強大だが、
CPUに任せると思ったよりも伸びてくれない。プレイヤー操作の場合は豊富な権限や人材層を武器にして攻めの姿勢で挑んでみたい。
三國志13には「死を偽装していた董卓が官渡の戦い直前に中華に舞い戻った」というトンデモ設定のシナリオ『魔王帰還』が存在している。
とうに死亡しているはずの董卓一派や後漢の名将たちをなぜか加え、かつ馬騰軍や劉璋軍をも吸収している最大勢力で、シナリオ開始直後から第二次反董卓連合の猛攻を受けることになるが、しばらく持ち堪えればまたもや勝手に連合が瓦解するので後はやりたい放題。
ちなみに「13」の董卓は固有のセリフが多くそれなりに優遇されているのだが、女性武将が戦功を挙げると寝室に呼ぼうとする。既婚者だろうと孫娘の董白だろうと。おいジジィ……。
人物像や出番は概ね演義準拠だが、肥満体に描かれることが多い昨今に対し、痩躯に描かれている。
アニメ版のCVは
大友龍三郎だが、原作者の横山は「
大塚周夫も似合うと思いますよ」と発言していた。
アニメ版のCVは
大塚芳忠。
暴虐の限りを尽くすが、周辺の影響に流されてではなく「董卓自身の人間性」を一切包み隠さず表現し、それこそが尊貴なる王者の姿だと豪語する人物。
「王者としてのあり方」を問い、表現した、本編中における初の人物。詳細は項目参照。
閻魔大王のような風貌のデブ。
極めて残虐なドSで処刑した罪人の生首を持ち歩くような狂人だが、好色な上に少女趣味かつ自意識過剰な変態。
常にパンツ一丁の超肥満体。あまりに肥満すぎて
腹の脂肪に李儒が収まっている。
屁の威力が甚大で、焚火に放屁して長安を大炎上させている。
CV.
浪川大輔
洛陽高校の頭。大変な
美男子で物憂げな雰囲気を漂わせている。
闘士大会を計画・立案した張本人であり極めて有能な人物であるが、冷酷かつ残忍でなおかつメンヘラ。
触れた物体を内部から破壊・寸断する特殊な頸を有する序盤の強敵。
CV:
木村あやか(PC版)、
猪口有佳(PSP版)
真名は「月」とかいてゆえと読む。
はかなげな姿をした、線が細く心優しい少女という、逆の意味でぶっ飛んだキャラ。
悪人ではなかったのだが、周囲から「暗逆非道な暴君」と言う
誤情報を押しつけられ、それが天下に広まってしまったのだという。
リメイク作の真の更にリブートにあたる革命では朝廷関係が補完され、腐敗が進み統治能力が低下した漢朝廷を立て直すため劉協と共謀して霊帝を退位させ相国となり、腐敗貴族や役人の大粛清を行ったことが明かされた。
この粛清から逃れた袁紹と袁術が「悪逆非道な暴君」と吹聴して各地の豪族などに呼びかけ結成されたのが反董卓連合ということになっている。
外伝の白月の灯火では地方豪族時代が描かれた他、一刀が多方面でいい感じに活躍したことで革命では失敗した漢朝廷の立て直しに成功する。
CV.中村浩太郎
序盤の敵キャラ。
一般的なイメージ通りの悪政を敷いており、主人公ら猫族を蔑視するなど史実とは逆に民族主義者である。
CV:小村哲生
「『暴虐の太師』董卓ザク」の名前で、第一部「風雲豪傑編」におけるメインの敵として登場。
演者は一応
旧ザクという事になっているが、一応第一部のラスボスという事もあってか実際には全身真っ黒、キャタピラやキャノン砲など他の
ジオン公国軍MSの特徴をちゃんぽんした全くの別物になっている。
呂布トールギスを差し向けて時の皇帝である霊帝ガンダムを暗殺、玉璽を簒奪し「太師」として暴虐の限りを尽くす。
少年漫画風の世界観という事もあって史実や演技よりも更にストレートな鬼畜外道であり、経緯の違いこそあれ殆どの媒体では味方を巻き添えにする事も厭わぬ戦術に耐えかねた呂布の裏切りに遭い殺害されている。
ただし初代のコミックワールドでは末路が異なり、そちらでは半ば暴走状態にあった孫権ガンダムの駆る天玉鎧「弩虎」の攻撃に巻き込まれる形で命を落としている。
プラモデルは
アニメ化に際して「真」名義で大型キットが発売。当時のSDガンダム系キットでは珍しく肘・膝にも可動域が設けられた特別仕様となっている。
また2018年にはパッケージを初代仕様に変更の上、ヅダ顔の部隊兵とセットになった成型色変えキットも発売された。
CV.石井康嗣
演者は
プロヴィデンスガンダム。
董卓ザクに勝るとも劣らない厚顔無恥・残虐非道な独裁者で、ラクヨウ・シティを牛耳り市民から搾取の限りを尽くし町の資源を私物化している。
劇中のほぼすべてのキャラクターから憎悪を一身に浴びており、部下である呂布
シナンジュや貂蝉クシャトリヤからすら金づるとしか思われていないし、本人もそのことは知った上で重用している。
攻め込んできた関羽νガンダム、張飛ゴッドガンダムの二人を相手に「凶龍形態」(どう見ても
ティラノサウルスであり、「暴君竜」の名に恥じないと言える)に変身して圧倒するが、増援に駆け付けてきた孫堅ガンダムアストレイと対峙した
次のカットではボコボコにやられて倒され、その後何の説明も無く死亡した。
なんとも竜頭蛇尾な人生であった。
ちなみに黒幕は部下として潜入していた司馬懿
デスティニーガンダムである。もう何が何やら。
基本的には武力、知力共に高い上に勇猛、
魅力などを持つ文武両道のステータス。
西涼軍、もしくは群雄勢力の顔として呂布と共に並び立つ。
計略も非常に強力ながら破滅的なデメリットがつきまとうものや敵の撃破をトリガーにするものであり、やるかやられるかの刹那的な判断が要求される玄人向けのカードと言えよう。
ストーリーを追う群雄伝でもその高いステータスの他、武力の高い華雄や呂布、強制的に舞いこちらの城ダメージを狙う貂蝉と言った愉快な仲間たちとともに特に初心者プレイヤーを苦しめる。
無論その言動も暴君のそれであるが、董卓伝など彼が主人公の章では部下思いの一面もしっかりと書かれている。
リブート後は漢勢力でも登場。圧倒的破壊力を秘めた計略を使うが、カードをせわしなく動かさないと真価を発揮しないためかかなりマイナー。
他にも
悪の教典の先生になったりもし、味方を全員食らいつくす。弓呂布とは「引き継ぎ」という形で食い合う関係に。
ちなみに董卓軍に女性キャラクターを増やしたかった為か不明だが、
董卓の孫娘というえらくマイナーな人物がカード化されていることでも有名である。
英傑大戦ではその董白が先に実装されてネタになったが本人も遅れて登場。(当の董白に「遅い、待ちくたびれちゃった」と若干メタな台詞を言われたが)
若い頃の姿であるが計略自体は相変わらず多大な効果とデメリットを持つものである。
劉備に対しては一瞬小物と断じるもすぐに撤回し「あれも一種の怪物」と称する台詞が印象的と言えよう。
本宮ひろしの漫画『天地を喰らう』のアーケード版初代作は、前半面で黄巾賊討伐編、後半面で董卓軍討伐編を描いている関係上、何と
今作における最終ボス
としての登場。
星6の降臨モンスターとして登場する。種族は魔王族。
進化は赤い肌に巨大なハサミを持った
閻魔のような外見をし、神化は緑色の肌に巨大な銃を持った亡霊の姿をしている。
肝心の性能はというと、どちらの形態も攻撃力は高く希少なキラーを持っているが、アンチアビがなく友情が弱く足も遅い為、あまり使えるクエストは少ない。
覇者の塔や呂布のクエストではサソリ状態で登場し、弱点以外の部分に攻撃するとダメージが1になる。ぶっ飛ばしSSのような固定ダメージを与えるSSが有効である。
【余談】
董卓が緊急避難シェルターとして用意していた郿塢は、
21世紀に発掘されて実在が確認された。
2008年ごろから陝西省に
高速道路を拡張するにあたり、郿県一帯の発掘調査が行われ、その過程で陶器、かんざしなどの装飾品、青銅器、そしてそれらを作成する工房跡などが大量に発見された。
それらは漢代の特徴を多く備えていたという。
さらに調査を続けていくと、2010年にはこの一帯を包む城壁の痕跡も発見。これらが、『水経注』『元和郡県図志』などの漢代から唐代の文献資料とも一致していたため、とうとうこれが董卓の郿塢の痕跡と分かった。
この城壁の痕跡を調べたところ、漢代の県の城壁としてははるかに小さいことが分かっている。
もともと「
塢」というのは、董卓のものに限らず当時の豪族が拠点として広く作っていたもので、いわば
要塞化した豪邸・村落、というものである。
この董卓の塢も、壁の長さは推定640m。一般的な県城なら2500~6000mなので、むしろ城内にすっぽり収まるサイズである。
しかしそれにしても、
個人レベルの邸宅が小さいとはいえ城壁を持っていた、というのはさすがに董卓というところだろう。
この城は北魏のころまでは使用されていたらしい。
また、董卓は郿塢と長安をよく行き来していたが、そのために専用の
高速道路を造らせていた。
これも実は発見されていて、「
郿塢嶺」と呼ばれているという。
その道路には董卓の弟・董旻が鄠県侯に封ぜられた土地も通っており、兄弟で仲良く参内していたのかもしれない。
天平宝字4年(760年)に成立したと言われる藤原氏の歴史をまとめた『藤氏家伝』は、蘇我入鹿を董卓になぞらえている。
光栄が1992年に出版した『爆笑三國志3』の帯には「董卓没後1800周年記念出版」と書かれ、その後出版された『爆笑三國志』シリーズの復刻版には「董卓没後1814周年記念!」と書かれていた。
追記・修正は中央入りの野心を、そして引っ越しの苦労を知る人にお願いします。
- 暴君の側面と覇者の側面を併せ持つ人物…なんだろうか -- 名無しさん (2024-01-26 14:41:26)
- 日本の話だが、木曾義仲は、都に上ったが部下の統制に失敗して朝廷に怒られ、東からは頼朝、西からは平家に攻められてにっちもさっちもいかなくなって後白河法皇を攻撃する暴挙に出た。董卓の立場もものすごく善解すれば異民族の部下をちゃんと統御できていなかったのが発端なのかも知れない。 -- 名無しさん (2024-01-26 15:40:37)
- 董卓だけ項目が存在していないのが気にかかっていた、ありがたい。遂に三国志の主だった群雄に遂に出揃ったって感じだな -- 名無しさん (2024-01-26 16:27:39)
- なぜか死体ローソクのエピソードが有名だったりしない?三国志マニアならけっこうな確率で知ってる気がする -- 名無しさん (2024-01-26 18:26:19)
- ↑3 董卓について「異民族と接することが多い辺境の生まれ育ちで、よくも悪くも漢民族の伝統にそぐわない振る舞いが歴史家を務めるような上流階級には特に否定的に映り後世の酷評に繋がったのではないか?」とは聞いていたけれど、思えば「ただでさえ移民問題は揉めるのに、中華の中心たる帝都にろくに移住先の風土や風習を学ぶ機会を得られるはずもないまま異民族かつボスのためなら戦も厭わぬようなよくも悪くも猛々しい者達がゾロゾロと押し掛ければトラブルが起きないはずもない(中華圏ほど広大なら、ヘタすりゃ遠方はマジで言葉が通じないまであってもおかしくなかったろうし)」わな……。ありがとう -- 名無しさん (2024-01-26 19:27:52)
- 郿塢の存在に驚き、悪名高く描かれたのは当時の賈充に対する口撃説に目から鱗が落ちた -- 名無しさん (2024-01-26 20:31:44)
- 三国志項目の質の高さは目を瞠るものがある。記事作成ありがとうございました。 -- 名無しさん (2024-01-26 21:14:44)
- ↑6日本史の人物だと平清盛か三好長慶イメージだったけど確かにこの項目を読むと木曽義仲の方がイメージに合う -- 名無しさん (2024-01-27 00:16:46)
- ↑5 アレほどインパクトのある話はそうそうありませんから。しかも夏侯惇が目玉食った話と違って史書に書かれてるし -- 名無しさん (2024-01-27 00:47:14)
- 五誅銭に関してはこの後の連中のやらかしを押し付けられただけじゃないか? -- 名無しさん (2024-01-27 06:10:27)
- 遅かれ早かれ後漢は滅んでただろうし、責任を全部押し付けられた印象はある。やらかしがなかったとはもちろん言わんけど -- 名無しさん (2024-01-27 10:56:39)
- 思ってたほど徹頭徹尾の暴君ではないが、やっぱ暴君ではあるな… -- 名無しさん (2024-01-27 15:33:50)
- 結局のところ正史董卓は蒼天の曹操の董卓評が合ってるのかもな、「途中までやったことだけなら名君だけどそれ意向は暴君」 -- 名無しさん (2024-01-28 00:51:01)
- 運良く(もしくは運悪く)頂点に立っただけで劉焉や劉表辺りと同じく地方軍閥のトップ位の器だったんだろうな -- 名無しさん (2024-01-29 08:58:55)
最終更新:2025年03月09日 00:45