だんのこまち@wiki
目覚めた地
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dannocomachi
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白い残響
最初にあったのは、光だった。
どこまでも白く、輪郭のない光。
その奥で、何かが一定の間隔を刻んでいる。
低く。
遠く。
何度も繰り返しながら、少しずつ近づいてくる。
誰かの声も聞こえた気がした。
けれど、言葉として受け取るより早く、光も音も途切れた。
次に目を開いた時。
少女の頭上には、青空が広がっていた。
「……ここは」
少女は、低い石垣へ背中を預けるように座っていた。
目の前には、手入れされた植え込み。
その向こうには並木道と、ゆるやかに曲がる車道がある。
高い木々の間から差し込んだ夕日が、道路も建物も柔らかな橙色へ変えていた。
風が葉を揺らす。
遠くで人の声がする。
何かが道を走り抜ける音も聞こえた。
どれもはっきりしている。
夢の中とは思えない。
少女は石垣へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
一歩目。
足の裏が、舗装された地面へ触れる。
二歩目。
膝は問題なく曲がった。
立つことも。
歩くこともできる。
身体のどこにも痛みはない。
それなのに、手足が自分のものではないような感覚が残っていた。
動かし方を知らないわけではない。
ただ、身体が思ったよりも軽い。
腕を上げれば、予想していた位置より少し高くまで上がる。
歩けば、一歩の距離が妙に長く感じられた。
少女は自分の手を見た。
細い指。
白い肌。
手首には、何もついていない。
爪の形まで確かめてみたが、それを見たところで何かを思い出すことはなかった。
「私は……」
誰なのだろう。
名前を考えようとしても、何も浮かばない。
住んでいた場所。
家族。
学校。
仕事。
友人。
最後に何をしていたのか。
何一つ思い出せなかった。
記憶が曖昧なのではない。
思い出そうとする場所そのものが、白く塗り潰されている。
少女は、もう一度周囲を見渡した。
まずは、自分がどこにいるのかを知らなければならない。
どこまでも白く、輪郭のない光。
その奥で、何かが一定の間隔を刻んでいる。
低く。
遠く。
何度も繰り返しながら、少しずつ近づいてくる。
誰かの声も聞こえた気がした。
けれど、言葉として受け取るより早く、光も音も途切れた。
次に目を開いた時。
少女の頭上には、青空が広がっていた。
「……ここは」
少女は、低い石垣へ背中を預けるように座っていた。
目の前には、手入れされた植え込み。
その向こうには並木道と、ゆるやかに曲がる車道がある。
高い木々の間から差し込んだ夕日が、道路も建物も柔らかな橙色へ変えていた。
風が葉を揺らす。
遠くで人の声がする。
何かが道を走り抜ける音も聞こえた。
どれもはっきりしている。
夢の中とは思えない。
少女は石垣へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
一歩目。
足の裏が、舗装された地面へ触れる。
二歩目。
膝は問題なく曲がった。
立つことも。
歩くこともできる。
身体のどこにも痛みはない。
それなのに、手足が自分のものではないような感覚が残っていた。
動かし方を知らないわけではない。
ただ、身体が思ったよりも軽い。
腕を上げれば、予想していた位置より少し高くまで上がる。
歩けば、一歩の距離が妙に長く感じられた。
少女は自分の手を見た。
細い指。
白い肌。
手首には、何もついていない。
爪の形まで確かめてみたが、それを見たところで何かを思い出すことはなかった。
「私は……」
誰なのだろう。
名前を考えようとしても、何も浮かばない。
住んでいた場所。
家族。
学校。
仕事。
友人。
最後に何をしていたのか。
何一つ思い出せなかった。
記憶が曖昧なのではない。
思い出そうとする場所そのものが、白く塗り潰されている。
少女は、もう一度周囲を見渡した。
まずは、自分がどこにいるのかを知らなければならない。
知らない姿
近くに、建物の大きな窓があった。
夕日を反射する暗いガラスへ近づくと、そこに一人の少女が映った。
最初は、背後に誰か立っているのだと思った。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、窓を見る。
映っている少女も、同じようにこちらを見ていた。
「これが……私?」
銀色の髪。
夕日の光を受けているため、毛先は淡い桃色にも見える。
長すぎない髪は、頬の横から首元へ向かって柔らかく内側へ曲がっていた。
瞳は青。
薄暗くなり始めた景色の中でも、その色だけは澄んで見える。
そして。
頭の上には、人間にはないはずの耳が二つあった。
猫のような、銀色の耳。
少女が驚いて頭へ手を伸ばすと、触れた耳がぴくりと動いた。
「……動く」
指先へ、柔らかな毛の感触が返ってくる。
飾りとしてついているだけではないらしい。
耳の付け根まで触覚がある。
白を基調とした上着には、大きなフードがついていた。
胸元には黒い飾り。
袖口にも黒い留め具があり、下は黒い短めのボトムにまとめられている。
足元まで、自分で選んだ記憶のない服装だった。
似合っているかどうかすら判断できない。
この姿を、以前から使っていたのだろうか。
それとも、今初めて与えられたものなのか。
少女は自分の頬へ触れた。
窓の中の少女も、同じ動きをする。
表情を変えてみる。
目を細める。
口元を少し上げる。
どれも自分で動かしているはずなのに、見知らぬ誰かの顔を試しているようだった。
夕日の色が髪へ重なり、銀色が柔らかな橙色へ染まる。
だが、光の当たっていない内側は、確かに銀色だった。
「この姿で、ここにいた……?」
自分へ問いかけても、返事はなかった。
その時。
背後から、軽い駆動音が聞こえた。
細長い板に乗った男性が、地面から少し浮いたまま道路を通過していく。
続いて歩いてきたのは、背中に羽を持つ女性。
その後ろを、二足で歩く大きな犬の姿をした人物がついていく。
さらに向こうには、全身を機械で覆った人。
現実の街で見かけても不思議ではない服装の人。
巨大な剣を背負った人。
それらが同じ道を、何事もないように行き交っている。
誰も、互いの姿を気にしていない。
少女は窓に映る猫耳へ、もう一度触れた。
一つの可能性が浮かぶ。
知識としては知っている。
けれど、自分が利用していた記憶はほとんどないもの。
「バーチャル世界……?」
現実とは異なる、広大なネットワーク空間。
人はアバターと呼ばれる姿を使って入り、街を歩き、遊び、仕事をする。
世の中では当たり前に使われている。
その程度の知識は残っていた。
だが、少女は細かな操作方法も。
接続の仕組みも。
自分がどこから入ったのかも覚えていない。
本当にここがバーチャル世界なら。
窓に映っているのは現実の身体ではなく、用意されたアバターということになる。
「だったら、元の私は……」
どんな顔をしているのだろう。
銀色の髪なのか。
青い目なのか。
猫の耳は、もちろんないはずだ。
考えても、何も浮かばなかった。
夕日を反射する暗いガラスへ近づくと、そこに一人の少女が映った。
最初は、背後に誰か立っているのだと思った。
振り返る。
誰もいない。
もう一度、窓を見る。
映っている少女も、同じようにこちらを見ていた。
「これが……私?」
銀色の髪。
夕日の光を受けているため、毛先は淡い桃色にも見える。
長すぎない髪は、頬の横から首元へ向かって柔らかく内側へ曲がっていた。
瞳は青。
薄暗くなり始めた景色の中でも、その色だけは澄んで見える。
そして。
頭の上には、人間にはないはずの耳が二つあった。
猫のような、銀色の耳。
少女が驚いて頭へ手を伸ばすと、触れた耳がぴくりと動いた。
「……動く」
指先へ、柔らかな毛の感触が返ってくる。
飾りとしてついているだけではないらしい。
耳の付け根まで触覚がある。
白を基調とした上着には、大きなフードがついていた。
胸元には黒い飾り。
袖口にも黒い留め具があり、下は黒い短めのボトムにまとめられている。
足元まで、自分で選んだ記憶のない服装だった。
似合っているかどうかすら判断できない。
この姿を、以前から使っていたのだろうか。
それとも、今初めて与えられたものなのか。
少女は自分の頬へ触れた。
窓の中の少女も、同じ動きをする。
表情を変えてみる。
目を細める。
口元を少し上げる。
どれも自分で動かしているはずなのに、見知らぬ誰かの顔を試しているようだった。
夕日の色が髪へ重なり、銀色が柔らかな橙色へ染まる。
だが、光の当たっていない内側は、確かに銀色だった。
「この姿で、ここにいた……?」
自分へ問いかけても、返事はなかった。
その時。
背後から、軽い駆動音が聞こえた。
細長い板に乗った男性が、地面から少し浮いたまま道路を通過していく。
続いて歩いてきたのは、背中に羽を持つ女性。
その後ろを、二足で歩く大きな犬の姿をした人物がついていく。
さらに向こうには、全身を機械で覆った人。
現実の街で見かけても不思議ではない服装の人。
巨大な剣を背負った人。
それらが同じ道を、何事もないように行き交っている。
誰も、互いの姿を気にしていない。
少女は窓に映る猫耳へ、もう一度触れた。
一つの可能性が浮かぶ。
知識としては知っている。
けれど、自分が利用していた記憶はほとんどないもの。
「バーチャル世界……?」
現実とは異なる、広大なネットワーク空間。
人はアバターと呼ばれる姿を使って入り、街を歩き、遊び、仕事をする。
世の中では当たり前に使われている。
その程度の知識は残っていた。
だが、少女は細かな操作方法も。
接続の仕組みも。
自分がどこから入ったのかも覚えていない。
本当にここがバーチャル世界なら。
窓に映っているのは現実の身体ではなく、用意されたアバターということになる。
「だったら、元の私は……」
どんな顔をしているのだろう。
銀色の髪なのか。
青い目なのか。
猫の耳は、もちろんないはずだ。
考えても、何も浮かばなかった。
だんのこまち
少女は並木道を歩き始めた。
夕方の公園を抜けると、急に視界が開ける。
その先にあったのは、一つの時代だけでは説明できない巨大な街だった。
ガラス張りの高層建築。
古い石造りの商店。
木々に覆われた塔。
空中を横切る通路。
水路の上に建つ、色鮮やかな家々。
さらに遠くには、城のような建物と、巨大な立体広告が同時に見えている。
街の上空には、半透明の案内表示がいくつも浮かんでいた。
店舗の広告。
開催中のイベント。
交通案内。
別の空間へ移動するための入口。
少女は表示を目で追ったが、情報が多すぎて何から見ればよいのかわからない。
近くを通った人物は、空中へ手を上げると、自分の前に小さな画面を開いた。
指先を滑らせ。
何かを選び。
そのまま歩き去っていく。
少女も真似をして、何もない空間へ手を伸ばした。
反応はない。
手のひらを振る。
指を曲げる。
それでも何も起きなかった。
「どうやって……」
何度か試していると、近くにいた女性が足を止めた。
現実の街でも見かけそうな、ごく普通の服装をしている。
ただし、頭上には小さな角があった。
「メニューを開きたいんですか?」
「メニュー……たぶん」
「手のひらを自分へ向けて、指を二回曲げるんです」
言われたとおりにする。
一度。
二度。
目の前へ、小さな半透明の画面が現れた。
少女は思わず手を引いた。
画面も一緒に少し遠ざかる。
「あ……」
「初めてですか?」
女性が尋ねた。
「わかりません」
「わからない?」
「ここへ来たことを、覚えていなくて」
女性は少し不思議そうな表情をしたが、深くは追及しなかった。
「久しぶりに接続した人は、操作を忘れていることもありますからね。困ったら中央広場のガイドを使うといいですよ」
「中央広場は、どちらですか?」
「この道をまっすぐです。大きな噴水があるから、すぐわかります」
「ありがとうございます」
「いえ」
女性は軽く手を振り、人混みの中へ戻っていった。
少女は、開いたメニューへ視線を移した。
地図。
メッセージ。
プロフィール。
所持品。
設定。
見慣れない記号も多い。
まず地図を選んでみる。
街全体の立体図が現れた。
現在地を示す小さな点。
その上に、場所の名前が表示されている。
<だんのこまち>
<ブロックNo.1・中央区画>
「だんのこまち……」
聞いたことがある気もする。
けれど、どこで知ったのかは思い出せない。
地図を拡大しようとして、画面そのものを押してしまう。
別の案内が開いた。
閉じ方がわからず、しばらく指を動かした末に、ようやく小さな印を見つける。
先ほどの女性は簡単そうに操作していた。
少女にとっては、何をするにも一度ずつ考える必要がある。
自分がこの世界を頻繁に利用していたとは思えなかった。
だが。
接続した記憶がない以上、本当に初めてなのかも判断できない。
少女は地図を閉じ、教えられた中央広場へ向かった。
夕方の公園を抜けると、急に視界が開ける。
その先にあったのは、一つの時代だけでは説明できない巨大な街だった。
ガラス張りの高層建築。
古い石造りの商店。
木々に覆われた塔。
空中を横切る通路。
水路の上に建つ、色鮮やかな家々。
さらに遠くには、城のような建物と、巨大な立体広告が同時に見えている。
街の上空には、半透明の案内表示がいくつも浮かんでいた。
店舗の広告。
開催中のイベント。
交通案内。
別の空間へ移動するための入口。
少女は表示を目で追ったが、情報が多すぎて何から見ればよいのかわからない。
近くを通った人物は、空中へ手を上げると、自分の前に小さな画面を開いた。
指先を滑らせ。
何かを選び。
そのまま歩き去っていく。
少女も真似をして、何もない空間へ手を伸ばした。
反応はない。
手のひらを振る。
指を曲げる。
それでも何も起きなかった。
「どうやって……」
何度か試していると、近くにいた女性が足を止めた。
現実の街でも見かけそうな、ごく普通の服装をしている。
ただし、頭上には小さな角があった。
「メニューを開きたいんですか?」
「メニュー……たぶん」
「手のひらを自分へ向けて、指を二回曲げるんです」
言われたとおりにする。
一度。
二度。
目の前へ、小さな半透明の画面が現れた。
少女は思わず手を引いた。
画面も一緒に少し遠ざかる。
「あ……」
「初めてですか?」
女性が尋ねた。
「わかりません」
「わからない?」
「ここへ来たことを、覚えていなくて」
女性は少し不思議そうな表情をしたが、深くは追及しなかった。
「久しぶりに接続した人は、操作を忘れていることもありますからね。困ったら中央広場のガイドを使うといいですよ」
「中央広場は、どちらですか?」
「この道をまっすぐです。大きな噴水があるから、すぐわかります」
「ありがとうございます」
「いえ」
女性は軽く手を振り、人混みの中へ戻っていった。
少女は、開いたメニューへ視線を移した。
地図。
メッセージ。
プロフィール。
所持品。
設定。
見慣れない記号も多い。
まず地図を選んでみる。
街全体の立体図が現れた。
現在地を示す小さな点。
その上に、場所の名前が表示されている。
<だんのこまち>
<ブロックNo.1・中央区画>
「だんのこまち……」
聞いたことがある気もする。
けれど、どこで知ったのかは思い出せない。
地図を拡大しようとして、画面そのものを押してしまう。
別の案内が開いた。
閉じ方がわからず、しばらく指を動かした末に、ようやく小さな印を見つける。
先ほどの女性は簡単そうに操作していた。
少女にとっては、何をするにも一度ずつ考える必要がある。
自分がこの世界を頻繁に利用していたとは思えなかった。
だが。
接続した記憶がない以上、本当に初めてなのかも判断できない。
少女は地図を閉じ、教えられた中央広場へ向かった。
一文字
中央広場には、大きな噴水があった。
その周囲を囲むように、飲食店や案内所が並んでいる。
待ち合わせをしている人。
記念写真を撮る人。
別の空間へ移動する人。
数え切れないほどの姿が、噴水の周りを行き交っていた。
少女は広場の端にあるガイド端末へ近づく。
縦長の装置へ手を触れると、柔らかな光が身体を上から下へ通過した。
<利用者情報を確認します>
<しばらくお待ちください>
数秒。
簡素な画面が表示された。
<DISPLAY NAME>
<T>
それ以外の情報は見当たらない。
少女は画面へ顔を近づけた。
「……T?」
英字が、一つ。
前後に何かが省略されている様子もない。
ただ、Tとだけ表示されている。
名前なのか。
何かの頭文字なのか。
利用者を区別するための記号なのか。
何もわからない。
「ティー……?」
文字をそのまま読めば、そうなる。
本当の名前だとは思えなかった。
だが、否定できる記憶もない。
詳細情報を開いてみる。
登録地域。
年齢。
接続元。
連絡先。
利用履歴。
どの項目にも、同じ表示が出た。
<情報を参照できません>
「どうして……」
個人メニューからプロフィールを開いても、結果は変わらない。
<T>
それだけ。
少女はメッセージの一覧も確認した。
受信履歴は空。
送信履歴も空。
連絡先には、誰の名前も登録されていなかった。
自分を知っている人へ連絡しようにも、その相手が誰なのかわからない。
少女は再び、ガイド端末の暗い画面へ映る自分の姿を見た。
銀色の髪。
猫の耳。
青い瞳。
夕暮れの光は薄くなり、本来の色が先ほどよりもよく見える。
「T……」
もう一度、口にする。
音にしても、何かを思い出すことはなかった。
胸が懐かしくなることも。
嫌な気持ちになることもない。
完全に知らない名前だった。
けれど。
誰かに呼ばれた時、何も答えられないままでは困る。
自分自身へ呼びかける言葉すらない状態は、思っていた以上に心細かった。
「今は、ティーでいい」
本名だと思ったわけではない。
受け入れたわけでもない。
ただ。
ほかに呼べるものがなかった。
少女は、自分をティーと呼ぶことにした。
その周囲を囲むように、飲食店や案内所が並んでいる。
待ち合わせをしている人。
記念写真を撮る人。
別の空間へ移動する人。
数え切れないほどの姿が、噴水の周りを行き交っていた。
少女は広場の端にあるガイド端末へ近づく。
縦長の装置へ手を触れると、柔らかな光が身体を上から下へ通過した。
<利用者情報を確認します>
<しばらくお待ちください>
数秒。
簡素な画面が表示された。
<DISPLAY NAME>
<T>
それ以外の情報は見当たらない。
少女は画面へ顔を近づけた。
「……T?」
英字が、一つ。
前後に何かが省略されている様子もない。
ただ、Tとだけ表示されている。
名前なのか。
何かの頭文字なのか。
利用者を区別するための記号なのか。
何もわからない。
「ティー……?」
文字をそのまま読めば、そうなる。
本当の名前だとは思えなかった。
だが、否定できる記憶もない。
詳細情報を開いてみる。
登録地域。
年齢。
接続元。
連絡先。
利用履歴。
どの項目にも、同じ表示が出た。
<情報を参照できません>
「どうして……」
個人メニューからプロフィールを開いても、結果は変わらない。
<T>
それだけ。
少女はメッセージの一覧も確認した。
受信履歴は空。
送信履歴も空。
連絡先には、誰の名前も登録されていなかった。
自分を知っている人へ連絡しようにも、その相手が誰なのかわからない。
少女は再び、ガイド端末の暗い画面へ映る自分の姿を見た。
銀色の髪。
猫の耳。
青い瞳。
夕暮れの光は薄くなり、本来の色が先ほどよりもよく見える。
「T……」
もう一度、口にする。
音にしても、何かを思い出すことはなかった。
胸が懐かしくなることも。
嫌な気持ちになることもない。
完全に知らない名前だった。
けれど。
誰かに呼ばれた時、何も答えられないままでは困る。
自分自身へ呼びかける言葉すらない状態は、思っていた以上に心細かった。
「今は、ティーでいい」
本名だと思ったわけではない。
受け入れたわけでもない。
ただ。
ほかに呼べるものがなかった。
少女は、自分をティーと呼ぶことにした。
帰る場所
自分の表示名はわかった。
次にするべきことは、現実へ戻ることだった。
ここがバーチャル世界なら。
接続を終えれば、少なくとも自分がいた場所へ戻れる。
現実の身体。
使用している機器。
近くにいるかもしれない人。
そこから、自分が誰なのかを調べられるはずだ。
ティーは個人メニューを開いた。
操作に慣れていないため、項目を一つずつ確かめる。
地図。
プロフィール。
メッセージ。
設定。
ヘルプ。
そして、一番下にあった。
<ログアウト>
ティーは、わずかに息を吐いた。
文字へ触れる。
何も起こらない。
押せていなかったのかと思い、もう一度触れた。
今度は項目の色が変わり、短い表示が現れた。
<現在、この操作は利用できません>
「利用できない?」
もう一度試す。
結果は同じだった。
<現在、この操作は利用できません>
詳細を開く。
<接続状態を確認してください>
設定画面へ戻り、接続状態を探す。
<接続中>
それしか表示されていない。
どの機器を使っているのか。
どこから接続しているのか。
どのくらいの時間が経過しているのか。
何も書かれていなかった。
「接続中なのは、見ればわかる」
小さく呟く。
ヘルプを開く。
ログアウトできない場合。
接続障害。
緊急退出。
強制切断。
似た項目を一つずつ選んでいく。
しかし、どの案内も最後には、
<個人メニューまたは接続機器から操作してください>
という説明へ戻った。
個人メニューでは操作できない。
接続機器は、どこにあるのかわからない。
ティーはガイド端末へ戻り、問い合わせ画面を開いた。
利用者の確認を求められる。
表示名はT。
それ以外の情報は参照できない。
確認に失敗し、一般向けの説明へ戻される。
何度試しても。
同じ場所を回り続けるだけだった。
「誰かに聞けば……」
周囲を見渡す。
広場を歩いている人たちは、それぞれの時間を過ごしている。
笑いながら店へ入る人。
友人と別れの挨拶をする人。
「じゃあ、今日は落ちるね」
そんな声が聞こえた。
話していた人物の身体が淡い光に包まれ、数秒後にはその場から消える。
ほかの人は帰れる。
自分だけが帰れない。
その事実が、ようやく重さを持って迫ってきた。
ティーは噴水の縁へ座った。
水音は変わらず続いている。
街も。
人々も。
何も異常は起きていない。
彼女一人がログアウトできないことなど、この世界にとっては小さすぎる出来事だった。
「落ち着いて」
自分へ言い聞かせる。
声が少し震えた。
何もわからない。
それでも、わからないことを一度にすべて考えれば、さらに動けなくなる。
今わかっていることだけを整理する。
ここは、バーチャル世界。
場所は、だんのこまち。
自分の表示名はT。
だから、今はティーと名乗る。
個人的な記憶がない。
連絡先もない。
そして。
ログアウトできない。
それだけだった。
考えても、情報が増えるわけではない。
ティーは自分の膝へ両手を置き、ゆっくり息を吐いた。
呼吸に合わせ、猫の耳がわずかに伏せる。
自分でも動かしたつもりはなかった。
「こういう時まで、動くんだ」
少しだけ可笑しかった。
笑うほどではない。
それでも。
完全に何も感じられなくなるよりはよかった。
次にするべきことは、現実へ戻ることだった。
ここがバーチャル世界なら。
接続を終えれば、少なくとも自分がいた場所へ戻れる。
現実の身体。
使用している機器。
近くにいるかもしれない人。
そこから、自分が誰なのかを調べられるはずだ。
ティーは個人メニューを開いた。
操作に慣れていないため、項目を一つずつ確かめる。
地図。
プロフィール。
メッセージ。
設定。
ヘルプ。
そして、一番下にあった。
<ログアウト>
ティーは、わずかに息を吐いた。
文字へ触れる。
何も起こらない。
押せていなかったのかと思い、もう一度触れた。
今度は項目の色が変わり、短い表示が現れた。
<現在、この操作は利用できません>
「利用できない?」
もう一度試す。
結果は同じだった。
<現在、この操作は利用できません>
詳細を開く。
<接続状態を確認してください>
設定画面へ戻り、接続状態を探す。
<接続中>
それしか表示されていない。
どの機器を使っているのか。
どこから接続しているのか。
どのくらいの時間が経過しているのか。
何も書かれていなかった。
「接続中なのは、見ればわかる」
小さく呟く。
ヘルプを開く。
ログアウトできない場合。
接続障害。
緊急退出。
強制切断。
似た項目を一つずつ選んでいく。
しかし、どの案内も最後には、
<個人メニューまたは接続機器から操作してください>
という説明へ戻った。
個人メニューでは操作できない。
接続機器は、どこにあるのかわからない。
ティーはガイド端末へ戻り、問い合わせ画面を開いた。
利用者の確認を求められる。
表示名はT。
それ以外の情報は参照できない。
確認に失敗し、一般向けの説明へ戻される。
何度試しても。
同じ場所を回り続けるだけだった。
「誰かに聞けば……」
周囲を見渡す。
広場を歩いている人たちは、それぞれの時間を過ごしている。
笑いながら店へ入る人。
友人と別れの挨拶をする人。
「じゃあ、今日は落ちるね」
そんな声が聞こえた。
話していた人物の身体が淡い光に包まれ、数秒後にはその場から消える。
ほかの人は帰れる。
自分だけが帰れない。
その事実が、ようやく重さを持って迫ってきた。
ティーは噴水の縁へ座った。
水音は変わらず続いている。
街も。
人々も。
何も異常は起きていない。
彼女一人がログアウトできないことなど、この世界にとっては小さすぎる出来事だった。
「落ち着いて」
自分へ言い聞かせる。
声が少し震えた。
何もわからない。
それでも、わからないことを一度にすべて考えれば、さらに動けなくなる。
今わかっていることだけを整理する。
ここは、バーチャル世界。
場所は、だんのこまち。
自分の表示名はT。
だから、今はティーと名乗る。
個人的な記憶がない。
連絡先もない。
そして。
ログアウトできない。
それだけだった。
考えても、情報が増えるわけではない。
ティーは自分の膝へ両手を置き、ゆっくり息を吐いた。
呼吸に合わせ、猫の耳がわずかに伏せる。
自分でも動かしたつもりはなかった。
「こういう時まで、動くんだ」
少しだけ可笑しかった。
笑うほどではない。
それでも。
完全に何も感じられなくなるよりはよかった。
夜の街
夕日は、すでに建物の向こうへ沈み始めていた。
空の橙色が薄れ。
代わりに、紺色が広がっていく。
バーチャル世界の空だ。
時間に合わせて作られた光景。
本物ではないと理解している。
それでも、夕方から夜へ変わる街は、あまりにも自然だった。
建物の照明が一つずつ点灯する。
昼間は透明だった案内表示が、夜用の鮮やかな色へ変わる。
空中を走る車両の光が、建物の間を長い線になって通り過ぎた。
ティーは噴水の近くに座ったまま、しばらく街を見ていた。
この世界では、夜になっても人が減る様子はない。
むしろ。
昼間とは異なる姿の人々が、少しずつ増えている。
暗い衣装を着た人。
仮面をつけた人。
武器を腰へ下げた人。
飲食店や娯楽施設から、大きな音と光が漏れ始める。
同じ街なのに。
昼とは空気が違って見えた。
ティーは立ち上がった。
ずっと噴水の前にいても、何も解決しない。
せめて、安全に時間を過ごせる場所を探す必要がある。
だが、宿泊施設の使い方も。
所持している通貨の確認方法も。
この世界で眠る必要があるのかさえ、よくわからない。
個人メニューの所持品を開く。
何も入っていなかった。
簡易ウォレットという表示には、少額の数字がある。
どうして持っているのかは不明だった。
近くの自動販売機で飲み物を一つ購入してみる。
操作を何度か間違えたが、最後には透明な容器が現れた。
口へ運ぶ。
甘い。
少し酸味がある。
冷たい感覚も。
喉を通る感覚もあった。
「味はするんだ」
以前、この味を知っていたのかは思い出せない。
自分が好きなのか。
苦手なのかもわからない。
半分ほど飲み、ティーは再び歩き始めた。
街の地図を開く。
中央区画。
商業区。
学校区。
住宅区。
競技施設。
ゲーム空間への接続門。
表示されている範囲だけでも、途方もなく広い。
どこへ行けばよいのか。
誰を頼ればよいのか。
自分で決めなければならない。
それなのに、決めるための基準となる記憶がない。
ティーは立ち止まった。
「私は、何がしたかったんだろう」
どうしてここへ来たのか。
ここで誰かに会う予定だったのか。
何かを遊びに来たのか。
仕事だったのか。
その問いにも、答えはない。
遠くで、乾いた破裂音が聞こえた。
ティーは反射的にそちらを向く。
数秒遅れて、笑い声が聞こえた。
どうやら近くの遊戯施設から響いた演出音らしい。
周囲の人々は誰も気にしていない。
それでも。
音を聞いた瞬間、ティーの右手は無意識に腰の近くへ動いていた。
そこには何もない。
「……今、何をしようとしたの?」
自分でもわからなかった。
何かを掴もうとした。
そうとしか思えない動きだった。
武器なのか。
道具なのか。
以前の自分が何を持っていたのかさえわからない。
手を下ろす。
青い瞳が、夜の街の光を映している。
そこに変化はない。
今のティーは。
銀色の髪と。
青い目を持つ。
何も知らない一人の利用者にすぎなかった。
空の橙色が薄れ。
代わりに、紺色が広がっていく。
バーチャル世界の空だ。
時間に合わせて作られた光景。
本物ではないと理解している。
それでも、夕方から夜へ変わる街は、あまりにも自然だった。
建物の照明が一つずつ点灯する。
昼間は透明だった案内表示が、夜用の鮮やかな色へ変わる。
空中を走る車両の光が、建物の間を長い線になって通り過ぎた。
ティーは噴水の近くに座ったまま、しばらく街を見ていた。
この世界では、夜になっても人が減る様子はない。
むしろ。
昼間とは異なる姿の人々が、少しずつ増えている。
暗い衣装を着た人。
仮面をつけた人。
武器を腰へ下げた人。
飲食店や娯楽施設から、大きな音と光が漏れ始める。
同じ街なのに。
昼とは空気が違って見えた。
ティーは立ち上がった。
ずっと噴水の前にいても、何も解決しない。
せめて、安全に時間を過ごせる場所を探す必要がある。
だが、宿泊施設の使い方も。
所持している通貨の確認方法も。
この世界で眠る必要があるのかさえ、よくわからない。
個人メニューの所持品を開く。
何も入っていなかった。
簡易ウォレットという表示には、少額の数字がある。
どうして持っているのかは不明だった。
近くの自動販売機で飲み物を一つ購入してみる。
操作を何度か間違えたが、最後には透明な容器が現れた。
口へ運ぶ。
甘い。
少し酸味がある。
冷たい感覚も。
喉を通る感覚もあった。
「味はするんだ」
以前、この味を知っていたのかは思い出せない。
自分が好きなのか。
苦手なのかもわからない。
半分ほど飲み、ティーは再び歩き始めた。
街の地図を開く。
中央区画。
商業区。
学校区。
住宅区。
競技施設。
ゲーム空間への接続門。
表示されている範囲だけでも、途方もなく広い。
どこへ行けばよいのか。
誰を頼ればよいのか。
自分で決めなければならない。
それなのに、決めるための基準となる記憶がない。
ティーは立ち止まった。
「私は、何がしたかったんだろう」
どうしてここへ来たのか。
ここで誰かに会う予定だったのか。
何かを遊びに来たのか。
仕事だったのか。
その問いにも、答えはない。
遠くで、乾いた破裂音が聞こえた。
ティーは反射的にそちらを向く。
数秒遅れて、笑い声が聞こえた。
どうやら近くの遊戯施設から響いた演出音らしい。
周囲の人々は誰も気にしていない。
それでも。
音を聞いた瞬間、ティーの右手は無意識に腰の近くへ動いていた。
そこには何もない。
「……今、何をしようとしたの?」
自分でもわからなかった。
何かを掴もうとした。
そうとしか思えない動きだった。
武器なのか。
道具なのか。
以前の自分が何を持っていたのかさえわからない。
手を下ろす。
青い瞳が、夜の街の光を映している。
そこに変化はない。
今のティーは。
銀色の髪と。
青い目を持つ。
何も知らない一人の利用者にすぎなかった。
非表示の着信
その時。
目の前へ、新しい表示が現れた。
メニューを開いたわけではない。
ティーの操作とは関係なく、地図の上へ重なるように出現した。
<DIRECT CALL>
<送信元:非表示>
連絡先は空だった。
メッセージ履歴にも、誰の名前もない。
それなのに。
着信だけが届いている。
画面の端には、通常ならあるはずの拒否や保留の項目が表示されていなかった。
あるのは一つだけ。
<応答>
ティーは周囲を見た。
誰かがこちらを見ている様子はない。
人々は彼女の前に着信表示が浮かんでいることすら気にせず、横を通り過ぎていく。
接続音が一度鳴った。
短い電子音。
その音を聞いた瞬間。
頭の奥で、最初に聞いた規則正しい音が重なった。
白い光。
遠くの声。
暗い場所。
何かを思い出しかけた。
けれど、形になる前に消えていく。
<応答>
表示は変わらない。
ティーは指を伸ばした。
誰からの連絡なのか。
なぜ自分へ届いたのか。
応答した先に何があるのか。
何一つわからない。
それでも。
今の彼女へ届いた、初めての呼びかけだった。
ティーは数秒迷い。
<応答>
その文字へ触れた。
小さな接続音。
街の喧騒が遠ざかる。
数秒の無音のあと。
落ち着いた声が聞こえた。
『聞こえていますか』
低い男の声だった。
ティーは答えなかった。
声は続ける。
『識別名、T』
その一文字を。
ほかの誰かが、初めて彼女へ向けて呼んだ。
『これより、あなたへの案内を開始します』
ティーは、青い目をわずかに細めた。
「あなたは、誰ですか」
短い沈黙。
夜のだんのこまちを、人々の笑い声と無数の光が満たしている。
その表側では何も変わらないまま。
耳元の声だけが答えた。
『あなたへ指示を伝える者です』
ティーは、返す言葉を失った。
名前も。
過去も。
帰る場所も知らない彼女に。
初めて与えられたのは、答えではなかった。
まだ意味のわからない、一つの指示だった。
目の前へ、新しい表示が現れた。
メニューを開いたわけではない。
ティーの操作とは関係なく、地図の上へ重なるように出現した。
<DIRECT CALL>
<送信元:非表示>
連絡先は空だった。
メッセージ履歴にも、誰の名前もない。
それなのに。
着信だけが届いている。
画面の端には、通常ならあるはずの拒否や保留の項目が表示されていなかった。
あるのは一つだけ。
<応答>
ティーは周囲を見た。
誰かがこちらを見ている様子はない。
人々は彼女の前に着信表示が浮かんでいることすら気にせず、横を通り過ぎていく。
接続音が一度鳴った。
短い電子音。
その音を聞いた瞬間。
頭の奥で、最初に聞いた規則正しい音が重なった。
白い光。
遠くの声。
暗い場所。
何かを思い出しかけた。
けれど、形になる前に消えていく。
<応答>
表示は変わらない。
ティーは指を伸ばした。
誰からの連絡なのか。
なぜ自分へ届いたのか。
応答した先に何があるのか。
何一つわからない。
それでも。
今の彼女へ届いた、初めての呼びかけだった。
ティーは数秒迷い。
<応答>
その文字へ触れた。
小さな接続音。
街の喧騒が遠ざかる。
数秒の無音のあと。
落ち着いた声が聞こえた。
『聞こえていますか』
低い男の声だった。
ティーは答えなかった。
声は続ける。
『識別名、T』
その一文字を。
ほかの誰かが、初めて彼女へ向けて呼んだ。
『これより、あなたへの案内を開始します』
ティーは、青い目をわずかに細めた。
「あなたは、誰ですか」
短い沈黙。
夜のだんのこまちを、人々の笑い声と無数の光が満たしている。
その表側では何も変わらないまま。
耳元の声だけが答えた。
『あなたへ指示を伝える者です』
ティーは、返す言葉を失った。
名前も。
過去も。
帰る場所も知らない彼女に。
初めて与えられたのは、答えではなかった。
まだ意味のわからない、一つの指示だった。