だんのこまち@wiki
与えられた枷
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dannocomachi
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指示を伝える者
『あなたへ指示を伝える者です』
耳元から聞こえた低い男の声は、そう答えた。
名乗ったとは言えない。
所属も。
名前も。
なぜティーへ連絡してきたのかも、何一つ明かしていなかった。
夜の中央区画を、大勢の利用者が行き交っている。
立体広告から流れる音楽。
宙を走る車両の駆動音。
飲食店から漏れる笑い声。
街はこれほどにぎやかなのに。
通話の中だけは、周囲から切り離されたように静かだった。
「それでは、答えになっていません」
ティーは目の前に浮かぶ着信表示を見たまま言った。
青い瞳に、夜の街の明かりが映っている。
「あなたは、私を知っているんですか」
『把握しています』
「どこまで?」
『現在のあなたに必要な範囲です』
「私の名前は?」
わずかな沈黙。
ティーは返事を待った。
だが、男の声が告げたのは、先ほどガイド端末で見つけた一文字だけだった。
『あなたの識別名は、T』
「それは名前ですか?」
『この世界で、あなたを識別するために与えられた名称です』
「誰が与えたんですか」
『こちらです』
初めて。
一つだけ、明確な答えが返ってきた。
プロフィールに表示されていたTという文字は、以前の自分が選んだ名前ではない。
通話の向こう側にいる者たちが、今の彼女へ与えたものだった。
「私の本当の名前ではないんですね」
『本来の個人情報について、現時点で回答することはできません』
「どうして?」
『順序が必要だからです』
「何の順序ですか」
『あなたが、この環境へ適応するための順序です』
ティーは眉を寄せた。
言葉は返ってくる。
けれど、どの答えも核心の直前で止められている。
「私が何も覚えていないことも、知っているんですか」
『把握しています』
「なぜ、覚えていないんですか」
『現時点での説明はできません』
「現時点でなければ、教えるんですか」
通話の向こうで、ほんの少し間が空いた。
『必要な段階になれば』
拒絶ではない。
しかし、約束とも言えない返答だった。
ティーは人通りから外れ、建物と建物の間にある小さな広場へ移動した。
中央区画の明かりは届いているものの、通行人は少ない。
低い植え込みの横に立ち、再び問いかける。
「ログアウトできないことも、あなたたちが関係しているんですか」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
『はい』
街の音が、一瞬だけ消えたように感じた。
実際には何も変わっていない。
それでも。
自分だけが帰れない理由を、誰かが知っている。
それどころか。
その状態に、通話の向こう側が関与している。
「故障ではないんですね」
『故障ではありません』
「私の操作が間違っているわけでもない」
『違います』
「あなたたちが、ログアウトできない状態にしているんですか」
『あなたの接続は、外部から維持されています』
穏やかな口調だった。
感情を感じさせない、説明のためだけの声。
だからこそ。
その内容は、はっきりとティーへ届いた。
彼女が何度試してもログアウトできなかったのは。
この世界の不具合でも。
操作を知らないためでもない。
最初から。
戻れないようになっていた。
「今すぐ解除してください」
『できません』
即答だった。
「どうしてですか」
『現在の接続を維持する必要があります』
「私には、その理由を知る権利があるはずです」
『あります』
男は否定しなかった。
『ですが、今すべてを伝えることは、あなたにとって適切ではありません』
「それを決めるのは、あなたなんですか」
『現時点では』
ティーは無意識に両手を握っていた。
猫の耳が、わずかに後ろへ伏せる。
「私は、閉じ込められているんですか」
今度は、返事がすぐには来なかった。
通話の向こう側で、何かを確認しているような短い無音。
やがて。
男の声が、慎重に答えた。
『そう感じることは理解できます』
「質問に答えてください」
『あなたの行動範囲は制限されていません』
「バーチャル世界の中では、でしょう?」
『はい』
「それを閉じ込められていると言うんです」
声を荒らげたつもりはなかった。
だが、最後の言葉は思っていたより強く響いた。
近くを通った二人組が、一度だけティーの方を見る。
彼女は視線を落とし、さらに声を抑えた。
通話相手は、怒ることも。
謝ることもしなかった。
『あなたを拘束することが目的ではありません』
「結果として、私は戻れません」
『そのとおりです』
あまりに淡々と認められたため。
ティーは、次に何を言えばよいのかわからなくなった。
耳元から聞こえた低い男の声は、そう答えた。
名乗ったとは言えない。
所属も。
名前も。
なぜティーへ連絡してきたのかも、何一つ明かしていなかった。
夜の中央区画を、大勢の利用者が行き交っている。
立体広告から流れる音楽。
宙を走る車両の駆動音。
飲食店から漏れる笑い声。
街はこれほどにぎやかなのに。
通話の中だけは、周囲から切り離されたように静かだった。
「それでは、答えになっていません」
ティーは目の前に浮かぶ着信表示を見たまま言った。
青い瞳に、夜の街の明かりが映っている。
「あなたは、私を知っているんですか」
『把握しています』
「どこまで?」
『現在のあなたに必要な範囲です』
「私の名前は?」
わずかな沈黙。
ティーは返事を待った。
だが、男の声が告げたのは、先ほどガイド端末で見つけた一文字だけだった。
『あなたの識別名は、T』
「それは名前ですか?」
『この世界で、あなたを識別するために与えられた名称です』
「誰が与えたんですか」
『こちらです』
初めて。
一つだけ、明確な答えが返ってきた。
プロフィールに表示されていたTという文字は、以前の自分が選んだ名前ではない。
通話の向こう側にいる者たちが、今の彼女へ与えたものだった。
「私の本当の名前ではないんですね」
『本来の個人情報について、現時点で回答することはできません』
「どうして?」
『順序が必要だからです』
「何の順序ですか」
『あなたが、この環境へ適応するための順序です』
ティーは眉を寄せた。
言葉は返ってくる。
けれど、どの答えも核心の直前で止められている。
「私が何も覚えていないことも、知っているんですか」
『把握しています』
「なぜ、覚えていないんですか」
『現時点での説明はできません』
「現時点でなければ、教えるんですか」
通話の向こうで、ほんの少し間が空いた。
『必要な段階になれば』
拒絶ではない。
しかし、約束とも言えない返答だった。
ティーは人通りから外れ、建物と建物の間にある小さな広場へ移動した。
中央区画の明かりは届いているものの、通行人は少ない。
低い植え込みの横に立ち、再び問いかける。
「ログアウトできないことも、あなたたちが関係しているんですか」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
『はい』
街の音が、一瞬だけ消えたように感じた。
実際には何も変わっていない。
それでも。
自分だけが帰れない理由を、誰かが知っている。
それどころか。
その状態に、通話の向こう側が関与している。
「故障ではないんですね」
『故障ではありません』
「私の操作が間違っているわけでもない」
『違います』
「あなたたちが、ログアウトできない状態にしているんですか」
『あなたの接続は、外部から維持されています』
穏やかな口調だった。
感情を感じさせない、説明のためだけの声。
だからこそ。
その内容は、はっきりとティーへ届いた。
彼女が何度試してもログアウトできなかったのは。
この世界の不具合でも。
操作を知らないためでもない。
最初から。
戻れないようになっていた。
「今すぐ解除してください」
『できません』
即答だった。
「どうしてですか」
『現在の接続を維持する必要があります』
「私には、その理由を知る権利があるはずです」
『あります』
男は否定しなかった。
『ですが、今すべてを伝えることは、あなたにとって適切ではありません』
「それを決めるのは、あなたなんですか」
『現時点では』
ティーは無意識に両手を握っていた。
猫の耳が、わずかに後ろへ伏せる。
「私は、閉じ込められているんですか」
今度は、返事がすぐには来なかった。
通話の向こう側で、何かを確認しているような短い無音。
やがて。
男の声が、慎重に答えた。
『そう感じることは理解できます』
「質問に答えてください」
『あなたの行動範囲は制限されていません』
「バーチャル世界の中では、でしょう?」
『はい』
「それを閉じ込められていると言うんです」
声を荒らげたつもりはなかった。
だが、最後の言葉は思っていたより強く響いた。
近くを通った二人組が、一度だけティーの方を見る。
彼女は視線を落とし、さらに声を抑えた。
通話相手は、怒ることも。
謝ることもしなかった。
『あなたを拘束することが目的ではありません』
「結果として、私は戻れません」
『そのとおりです』
あまりに淡々と認められたため。
ティーは、次に何を言えばよいのかわからなくなった。
夜に与えられるもの
数秒の沈黙のあと。
男の声が、話題を変えた。
『今後の行動について説明します』
「まだ、あなたの言うことに従うとは言っていません」
『説明を聞いたあとで判断してください』
ティーは返事をしなかった。
了承ではない。
それでも、通話を切ることもできない。
そもそも表示には、切断するための項目すらなかった。
『あなたには、夜間に発行されるミッションを処理してもらいます』
「ミッション?」
『だんのこまち内で発生する、特定の問題への対処です』
「どのような問題ですか」
『対象や方法は、その都度クライアントユニットを通じて通知します』
「私は、この世界のこともほとんど知りません」
『必要な情報は、任務ごとに提供されます』
「そんな状態の人間へ、仕事をさせるんですか」
『この環境において必要となる基礎能力は、あなたに備わっています』
「何を根拠に?」
『こちらで確認しています』
ティーは右手を見た。
先ほど、遊戯施設から聞こえた破裂音へ反応し。
何もない腰元へ手を伸ばした。
自分では理由のわからない動きだった。
男は、そのことまで見ていたのだろうか。
「監視しているんですか」
『状態は確認しています』
「どこから?」
『回答できません』
「私の視界も見えている?」
『常時ではありません』
完全な否定ではなかった。
ティーは周囲を見回した。
建物の窓。
街灯。
上空を漂う小型端末。
どれが自分を見ているのか。
そもそも、街の設備を通して監視されているのかすらわからない。
『通常、日中の行動について指示はありません』
男は続けた。
『夜間に発行されたミッションを完了している限り、それ以外の時間は自由に過ごすことができます』
「自由?」
『だんのこまち内で、好きな場所へ移動できます。施設やサービスも、一般利用者と同じ範囲で使用できます』
「ログアウト以外は」
『はい』
やはり。
自由という言葉の外側には、最初から越えられない壁が置かれている。
「ミッションを断ったら?」
初めて。
男の声が、わずかに低くなったように感じた。
『推奨しません』
「何が起きるんですか」
『夜間の問題が処理されずに残ります』
「私ではない誰かが行えばいいでしょう」
『あなたに割り当てられたものは、あなたが処理する必要があります』
「それでも、断ったら」
沈黙。
『接続制限が解除されることはありません』
「仕事をしなければ、ずっとここから出られないという意味ですか」
『仕事を完了した場合にも、直ちに解除されるわけではありません』
ティーは目を細めた。
「それでは、選択肢になっていません」
『そう受け取られることも理解しています』
「理解しているなら――」
『ですが、あなたの状況において、夜間任務は必要です』
また、必要。
理由を隠したまま繰り返される言葉。
ティーには、判断する材料がない。
通話相手を信用できる理由もない。
それでも。
この男だけが、自分の接続状態を知っている。
Tという名を与えた者も。
個人情報を隠している者も。
おそらく同じ側にいる。
完全に拒絶すれば。
自分のことを知るための、唯一のつながりまで失うかもしれない。
「ミッションを続ければ」
ティーは慎重に尋ねた。
「いつか、私が誰なのか教えるんですか」
男は、すぐには答えなかった。
『あなたが知るべき段階になれば、必要な情報を伝えます』
「また、その言い方ですか」
『今は、それ以上を約束できません』
誠実なのか。
単に、逃げ道を残しているだけなのか。
ティーには判断できなかった。
ただ。
できない約束を、簡単に口にする相手ではないらしい。
それだけはわかった。
「最初のミッションは、いつですか」
『本日深夜』
「内容は?」
『開始時刻に通知します』
「今は教えられない?」
『対象の行動が確定していません』
対象。
その言葉が、妙に引っかかった。
物を運ぶ仕事や。
場所を調査する仕事なら。
普通は対象とは呼ばない気がした。
「危険な仕事ですか」
『可能性はあります』
「私は傷つくんですか」
『バーチャル世界内での損傷には、保護処理が適用されます』
「質問を変えます」
ティーは声を低くした。
「誰かを傷つける仕事ですか」
数秒。
通話から、何の音も返らない。
『内容は、任務開始時に説明します』
否定しなかった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
男の声が、話題を変えた。
『今後の行動について説明します』
「まだ、あなたの言うことに従うとは言っていません」
『説明を聞いたあとで判断してください』
ティーは返事をしなかった。
了承ではない。
それでも、通話を切ることもできない。
そもそも表示には、切断するための項目すらなかった。
『あなたには、夜間に発行されるミッションを処理してもらいます』
「ミッション?」
『だんのこまち内で発生する、特定の問題への対処です』
「どのような問題ですか」
『対象や方法は、その都度クライアントユニットを通じて通知します』
「私は、この世界のこともほとんど知りません」
『必要な情報は、任務ごとに提供されます』
「そんな状態の人間へ、仕事をさせるんですか」
『この環境において必要となる基礎能力は、あなたに備わっています』
「何を根拠に?」
『こちらで確認しています』
ティーは右手を見た。
先ほど、遊戯施設から聞こえた破裂音へ反応し。
何もない腰元へ手を伸ばした。
自分では理由のわからない動きだった。
男は、そのことまで見ていたのだろうか。
「監視しているんですか」
『状態は確認しています』
「どこから?」
『回答できません』
「私の視界も見えている?」
『常時ではありません』
完全な否定ではなかった。
ティーは周囲を見回した。
建物の窓。
街灯。
上空を漂う小型端末。
どれが自分を見ているのか。
そもそも、街の設備を通して監視されているのかすらわからない。
『通常、日中の行動について指示はありません』
男は続けた。
『夜間に発行されたミッションを完了している限り、それ以外の時間は自由に過ごすことができます』
「自由?」
『だんのこまち内で、好きな場所へ移動できます。施設やサービスも、一般利用者と同じ範囲で使用できます』
「ログアウト以外は」
『はい』
やはり。
自由という言葉の外側には、最初から越えられない壁が置かれている。
「ミッションを断ったら?」
初めて。
男の声が、わずかに低くなったように感じた。
『推奨しません』
「何が起きるんですか」
『夜間の問題が処理されずに残ります』
「私ではない誰かが行えばいいでしょう」
『あなたに割り当てられたものは、あなたが処理する必要があります』
「それでも、断ったら」
沈黙。
『接続制限が解除されることはありません』
「仕事をしなければ、ずっとここから出られないという意味ですか」
『仕事を完了した場合にも、直ちに解除されるわけではありません』
ティーは目を細めた。
「それでは、選択肢になっていません」
『そう受け取られることも理解しています』
「理解しているなら――」
『ですが、あなたの状況において、夜間任務は必要です』
また、必要。
理由を隠したまま繰り返される言葉。
ティーには、判断する材料がない。
通話相手を信用できる理由もない。
それでも。
この男だけが、自分の接続状態を知っている。
Tという名を与えた者も。
個人情報を隠している者も。
おそらく同じ側にいる。
完全に拒絶すれば。
自分のことを知るための、唯一のつながりまで失うかもしれない。
「ミッションを続ければ」
ティーは慎重に尋ねた。
「いつか、私が誰なのか教えるんですか」
男は、すぐには答えなかった。
『あなたが知るべき段階になれば、必要な情報を伝えます』
「また、その言い方ですか」
『今は、それ以上を約束できません』
誠実なのか。
単に、逃げ道を残しているだけなのか。
ティーには判断できなかった。
ただ。
できない約束を、簡単に口にする相手ではないらしい。
それだけはわかった。
「最初のミッションは、いつですか」
『本日深夜』
「内容は?」
『開始時刻に通知します』
「今は教えられない?」
『対象の行動が確定していません』
対象。
その言葉が、妙に引っかかった。
物を運ぶ仕事や。
場所を調査する仕事なら。
普通は対象とは呼ばない気がした。
「危険な仕事ですか」
『可能性はあります』
「私は傷つくんですか」
『バーチャル世界内での損傷には、保護処理が適用されます』
「質問を変えます」
ティーは声を低くした。
「誰かを傷つける仕事ですか」
数秒。
通話から、何の音も返らない。
『内容は、任務開始時に説明します』
否定しなかった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
クライアントユニット
『両手を前へ出してください』
男の声が言った。
「何をするんですか」
『専用端末を付与します』
ティーは警戒しながら、腰の高さへ両手を出した。
空の手のひら。
何も持っていない。
その少し上へ、小さな青白い光が一つ現れた。
光は点のまま静止し。
次の瞬間、左右へ細い線を走らせた。
透明な輪郭が空中に描かれる。
長方形の基部。
内部を巡る細い回路。
手前から奥へ、段差をつけて並ぶ無数のキー。
星のような光の粒が上から降り注ぎ、空だった輪郭を少しずつ満たしていった。
最初に形成されたのは、透き通った青色の土台だった。
厚みがあり。
角には柔らかな光が走り。
内部では、細い電流のような模様が絶えず流れている。
その上へ。
一つずつ、白いキーが現れた。
薄い板ではない。
一つ一つに高さと傾斜があり、指を乗せるためのくぼみまで作られている。
小さなキー。
横長のキー。
中央には、ひときわ長い空白キー。
見慣れた電子機器のキーボードに近い形だった。
すべてのキーが揃うと。
最後に、青白い光が基部の外周を一周した。
<CLIENT UNIT>
短い文字が、キーボードの上空へ投影される。
端末は、ティーの手の少し先で静かに浮いていた。
「これが……」
『クライアントユニットです』
画像や説明として見せられたものではない。
目の前に存在する、立体的な電子キーボードだった。
本体は青く透き通り。
内部から光を放っている。
白いキーの表面は、光を受けて銀色にも見えた。
端末の周囲には、形成時に残った小さな光の粒が漂っている。
ティーは右手を伸ばした。
人差し指を、一つのキーへ乗せる。
触れた。
見た目は光で作られているのに、表面には確かな硬さがあった。
ゆっくり押し込む。
キーがわずかに沈み。
指先へ、機械式の入力装置に似た小さな反発が返ってきた。
乾いた入力音。
キーボード上空へ、半透明の画面が展開される。
そこへ一文字だけが入力された。
「画面は、キーボードとは別なんですね」
『情報表示は、必要に応じてユニット上空へ展開されます』
ティーは入力した文字を消そうとした。
並んでいるキーへ視線を走らせる。
探したのは、ほんの一瞬だった。
考えるより早く、右手の小指が奥のキーへ伸びる。
一度押す。
上空の文字が消えた。
ティーは、自分の指を見つめた。
「使い方を知っている……」
キーの位置を、目で確認する必要がなかった。
指が勝手に正しい場所へ動いた。
『基本的な入力技能は保持されています』
「以前から、こういうものを使っていたんですか」
『一般的な操作能力については、そう考えて構いません』
また。
ティー自身についての部分だけが曖昧にされた。
「この形の端末も?」
『回答できません』
ティーは両手をキーボードへ置いた。
白いキーは、指の形に合わせてわずかに沈む。
冷たさはない。
熱もない。
ただ、触れている感覚だけが正確に返ってくる。
キーボード上空へ、四つの文字列が展開された。
<MISSION>
<EQUIPMENT>
<COMMUNICATION>
<STATUS>
ティーがキーを押すと、選択位置を示す青い光が動いた。
マウスや画面へ直接触れる必要はないらしい。
入力だけで、すべての機能を操作する。
MISSIONを開く。
<WAITING>
EQUIPMENT。
<LOCKED>
COMMUNICATIONには、現在の通話だけが一件表示された。
送信元の名前はない。
<DIRECT CLIENT>
「この端末で、あなたと連絡できるんですか」
『必要な場合はこちらから接続します』
「私からは?」
ティーは新規通信の命令を探した。
完全な通話機能は見当たらない。
代わりに、
<EMERGENCY REQUEST>
という項目がある。
『緊急時には、通信要求を送信できます。ただし、常時応答を保証するものではありません』
「随分、一方的ですね」
『通信の乱用を防ぐためです』
「私には、連絡できる相手があなたしかいないんです」
口にしてから。
その事実が、改めて重く感じられた。
男は少しの間、黙っていた。
『必要な連絡には応答します』
これまでより、ほんのわずかに柔らかく聞こえた。
気のせいかもしれない。
ティーはSTATUSを開いた。
<CLIENT:ACTIVE>
<CONNECTION:MAINTAINED>
<NIGHT SHIFT:STANDBY>
<AUTHORITY:RESTRICTED>
夜間待機。
接続維持。
制限権限。
意味のわからない言葉が並んでいる。
「権限とは何ですか」
『任務に必要な機能です』
「現在は制限されている」
『ミッション開始時に、必要な範囲が開放されます』
「どのような機能を?」
『最初のミッションで説明します』
何を尋ねても。
最後は、最初のミッションへ戻される。
ティーは端末を横から見た。
青く透明な基部には、はっきりとした厚みがある。
それでも、机や支えは必要としていない。
空中の同じ高さへ、静かに固定されていた。
ティーが一歩横へ移動すると。
クライアントユニットも、わずかに遅れて移動した。
彼女の正面へ、常に同じ距離を保つ。
後ろへ下がる。
端末もついてくる。
「私へ追従しているんですね」
『クライアントユニットは、所有者が操作しやすい位置へ自動的に配置されます』
ティーは近くのベンチへ向かった。
腰を下ろす。
キーボードは姿勢に合わせ、少し低い位置へ移動した。
膝の上へ乗るのではなく。
その少し先の空中に浮かぶ。
両手を伸ばせば、自然にキーへ届く高さだった。
「消すには?」
『終了命令を入力してください』
「意識するだけでは消えないんですか」
『誤操作を防ぐため、クライアントユニットの展開と収納には入力が必要です』
ティーは、画面へ表示された短い命令を見た。
キーを順番に押す。
最後に、長い入力キー。
乾いた音。
最初に白いキーが光の粒へ変わった。
端から順に輪郭を失い。
続いて、青く透明な基部が細かな光へ分解されていく。
最後に外周の光が細い線となって消えた。
目の前には、何も残っていない。
「呼び出す時は?」
『左手を前へ出し、展開命令を実行してください』
「端末がない状態で、どうやって入力するんですか」
『左手の動作認証です』
ティーは左手を前へ出した。
手のひらを下へ向け。
教えられた形に指を動かす。
小さな青白い光が現れた。
透明な基部が形を取り。
白いキーが一つずつ降り積もるように並んでいく。
数秒後。
クライアントユニットが、再び彼女の前へ現れた。
何もない場所から。
どこにいても呼び出せる。
完全なキーボード型の端末。
「この世界のどこでも使えるんですか」
『あなたの接続が維持されている限り、展開できます』
ティーは個人メニューから、所有端末の項目を確認した。
<CLIENT UNIT/USER:T>
破棄。
譲渡。
保管。
通常のアイテムであれば存在するはずの操作を探す。
破棄を選ぶ。
<所有者固定ユニットです>
<この操作は実行できません>
譲渡も同じ。
個人ストレージへ移すこともできない。
「外すことは?」
『できません』
「任務を終えたあとも?」
『継続して使用します』
「接続が解除されるまで?」
短い沈黙。
『はい』
クライアントユニットは、武器には見えなかった。
鎖でもない。
身体へ装着されてもいない。
白いキーと。
透き通った青い基部。
夜の街では、むしろ美しいとさえ思える端末だった。
けれど。
捨てられず。
誰かへ渡せず。
この世界にいる限り、どこへでもついてくる。
ティーは両手を白いキーへ置いた。
名前さえ思い出せない彼女に。
初めて明確に与えられた所有物。
それは、夜の仕事を知らせるための端末だった。
男の声が言った。
「何をするんですか」
『専用端末を付与します』
ティーは警戒しながら、腰の高さへ両手を出した。
空の手のひら。
何も持っていない。
その少し上へ、小さな青白い光が一つ現れた。
光は点のまま静止し。
次の瞬間、左右へ細い線を走らせた。
透明な輪郭が空中に描かれる。
長方形の基部。
内部を巡る細い回路。
手前から奥へ、段差をつけて並ぶ無数のキー。
星のような光の粒が上から降り注ぎ、空だった輪郭を少しずつ満たしていった。
最初に形成されたのは、透き通った青色の土台だった。
厚みがあり。
角には柔らかな光が走り。
内部では、細い電流のような模様が絶えず流れている。
その上へ。
一つずつ、白いキーが現れた。
薄い板ではない。
一つ一つに高さと傾斜があり、指を乗せるためのくぼみまで作られている。
小さなキー。
横長のキー。
中央には、ひときわ長い空白キー。
見慣れた電子機器のキーボードに近い形だった。
すべてのキーが揃うと。
最後に、青白い光が基部の外周を一周した。
<CLIENT UNIT>
短い文字が、キーボードの上空へ投影される。
端末は、ティーの手の少し先で静かに浮いていた。
「これが……」
『クライアントユニットです』
画像や説明として見せられたものではない。
目の前に存在する、立体的な電子キーボードだった。
本体は青く透き通り。
内部から光を放っている。
白いキーの表面は、光を受けて銀色にも見えた。
端末の周囲には、形成時に残った小さな光の粒が漂っている。
ティーは右手を伸ばした。
人差し指を、一つのキーへ乗せる。
触れた。
見た目は光で作られているのに、表面には確かな硬さがあった。
ゆっくり押し込む。
キーがわずかに沈み。
指先へ、機械式の入力装置に似た小さな反発が返ってきた。
乾いた入力音。
キーボード上空へ、半透明の画面が展開される。
そこへ一文字だけが入力された。
「画面は、キーボードとは別なんですね」
『情報表示は、必要に応じてユニット上空へ展開されます』
ティーは入力した文字を消そうとした。
並んでいるキーへ視線を走らせる。
探したのは、ほんの一瞬だった。
考えるより早く、右手の小指が奥のキーへ伸びる。
一度押す。
上空の文字が消えた。
ティーは、自分の指を見つめた。
「使い方を知っている……」
キーの位置を、目で確認する必要がなかった。
指が勝手に正しい場所へ動いた。
『基本的な入力技能は保持されています』
「以前から、こういうものを使っていたんですか」
『一般的な操作能力については、そう考えて構いません』
また。
ティー自身についての部分だけが曖昧にされた。
「この形の端末も?」
『回答できません』
ティーは両手をキーボードへ置いた。
白いキーは、指の形に合わせてわずかに沈む。
冷たさはない。
熱もない。
ただ、触れている感覚だけが正確に返ってくる。
キーボード上空へ、四つの文字列が展開された。
<MISSION>
<EQUIPMENT>
<COMMUNICATION>
<STATUS>
ティーがキーを押すと、選択位置を示す青い光が動いた。
マウスや画面へ直接触れる必要はないらしい。
入力だけで、すべての機能を操作する。
MISSIONを開く。
<WAITING>
EQUIPMENT。
<LOCKED>
COMMUNICATIONには、現在の通話だけが一件表示された。
送信元の名前はない。
<DIRECT CLIENT>
「この端末で、あなたと連絡できるんですか」
『必要な場合はこちらから接続します』
「私からは?」
ティーは新規通信の命令を探した。
完全な通話機能は見当たらない。
代わりに、
<EMERGENCY REQUEST>
という項目がある。
『緊急時には、通信要求を送信できます。ただし、常時応答を保証するものではありません』
「随分、一方的ですね」
『通信の乱用を防ぐためです』
「私には、連絡できる相手があなたしかいないんです」
口にしてから。
その事実が、改めて重く感じられた。
男は少しの間、黙っていた。
『必要な連絡には応答します』
これまでより、ほんのわずかに柔らかく聞こえた。
気のせいかもしれない。
ティーはSTATUSを開いた。
<CLIENT:ACTIVE>
<CONNECTION:MAINTAINED>
<NIGHT SHIFT:STANDBY>
<AUTHORITY:RESTRICTED>
夜間待機。
接続維持。
制限権限。
意味のわからない言葉が並んでいる。
「権限とは何ですか」
『任務に必要な機能です』
「現在は制限されている」
『ミッション開始時に、必要な範囲が開放されます』
「どのような機能を?」
『最初のミッションで説明します』
何を尋ねても。
最後は、最初のミッションへ戻される。
ティーは端末を横から見た。
青く透明な基部には、はっきりとした厚みがある。
それでも、机や支えは必要としていない。
空中の同じ高さへ、静かに固定されていた。
ティーが一歩横へ移動すると。
クライアントユニットも、わずかに遅れて移動した。
彼女の正面へ、常に同じ距離を保つ。
後ろへ下がる。
端末もついてくる。
「私へ追従しているんですね」
『クライアントユニットは、所有者が操作しやすい位置へ自動的に配置されます』
ティーは近くのベンチへ向かった。
腰を下ろす。
キーボードは姿勢に合わせ、少し低い位置へ移動した。
膝の上へ乗るのではなく。
その少し先の空中に浮かぶ。
両手を伸ばせば、自然にキーへ届く高さだった。
「消すには?」
『終了命令を入力してください』
「意識するだけでは消えないんですか」
『誤操作を防ぐため、クライアントユニットの展開と収納には入力が必要です』
ティーは、画面へ表示された短い命令を見た。
キーを順番に押す。
最後に、長い入力キー。
乾いた音。
最初に白いキーが光の粒へ変わった。
端から順に輪郭を失い。
続いて、青く透明な基部が細かな光へ分解されていく。
最後に外周の光が細い線となって消えた。
目の前には、何も残っていない。
「呼び出す時は?」
『左手を前へ出し、展開命令を実行してください』
「端末がない状態で、どうやって入力するんですか」
『左手の動作認証です』
ティーは左手を前へ出した。
手のひらを下へ向け。
教えられた形に指を動かす。
小さな青白い光が現れた。
透明な基部が形を取り。
白いキーが一つずつ降り積もるように並んでいく。
数秒後。
クライアントユニットが、再び彼女の前へ現れた。
何もない場所から。
どこにいても呼び出せる。
完全なキーボード型の端末。
「この世界のどこでも使えるんですか」
『あなたの接続が維持されている限り、展開できます』
ティーは個人メニューから、所有端末の項目を確認した。
<CLIENT UNIT/USER:T>
破棄。
譲渡。
保管。
通常のアイテムであれば存在するはずの操作を探す。
破棄を選ぶ。
<所有者固定ユニットです>
<この操作は実行できません>
譲渡も同じ。
個人ストレージへ移すこともできない。
「外すことは?」
『できません』
「任務を終えたあとも?」
『継続して使用します』
「接続が解除されるまで?」
短い沈黙。
『はい』
クライアントユニットは、武器には見えなかった。
鎖でもない。
身体へ装着されてもいない。
白いキーと。
透き通った青い基部。
夜の街では、むしろ美しいとさえ思える端末だった。
けれど。
捨てられず。
誰かへ渡せず。
この世界にいる限り、どこへでもついてくる。
ティーは両手を白いキーへ置いた。
名前さえ思い出せない彼女に。
初めて明確に与えられた所有物。
それは、夜の仕事を知らせるための端末だった。
最低限の部屋
通話は、まだ終わっていなかった。
『滞在場所を付与します』
クライアントユニットの上空へ、新しい通知が展開される。
<TEMPORARY PRIVATE SPACE>
<BLOCK No.1/RESIDENTIAL AREA N-07>
<ACCESS GRANTED>
地図を開くと、中央区画から少し離れた住宅区へ印がついた。
「これは?」
『休息と待機に使用できる個人空間です』
「私の家ですか」
『一時的な滞在場所です』
「現実の私には、別の家があるんですか」
『回答できません』
また、届かない。
ティーは一度目を閉じた。
問いかけるたび。
一つの答えから、さらに多くの疑問が生まれる。
「食事や、必要なものは?」
『基本的なサービスは利用できます。簡易ウォレットには、定期的に必要額が付与されます』
「仕事の報酬ですか」
『活動費です』
「夜のミッションへ従わせるための?」
『この環境での生活を維持するためです』
「この世界での生活を」
『はい』
男の声には、悪意が感じられなかった。
楽しんでいる様子も。
ティーを脅して満足している様子もない。
まるで、すでに決められた手順を必要な順番で読み上げているだけだった。
その態度が。
かえって、状況の異常さを強くしていた。
「あなたは、私を助けようとしているんですか」
不意に、そんな問いが口から出た。
男はすぐには答えなかった。
『そのために必要な措置を行っています』
助けている。
とは言わなかった。
傷つけるためとも言わなかった。
「信用してほしいですか」
『現時点で、無条件に信用する必要はありません』
予想外の答えだった。
『指示内容を確認してください。その上で、自分で行動してください』
「従え、ではなく?」
『あなた自身が理解して動く必要があります』
ティーは、光るキーボードへ視線を落とした。
T。
接続維持。
夜間待機。
制限された権限。
どれも、自分で選んだものではない。
それでも。
完全な人形として扱うつもりなら、理解を求める必要はないはずだった。
「夜のミッションを達成すれば、昼間は本当に自由なんですね」
『規約へ違反しない限り、干渉しません』
「この世界について調べても?」
『構いません』
「自分について調べても?」
今度の沈黙は、ごく短かった。
『止めません』
初めて。
明確に許可されたような気がした。
ただし。
それが、過去へたどり着けるという意味ではない。
「わかりました」
ティーは答えた。
承諾ではない。
信頼でもない。
今の状況を受け止めるための返事だった。
「まずは、今夜のミッションを確認します」
『了解しました』
「ただし、従うかどうかは内容を見てから決めます」
『それで構いません』
本当に。
それでよいのだろうか。
男の余裕が、ティーには少し不気味に感じられた。
内容を見れば。
結局、彼女が従うしかないことを知っているようにも聞こえたからだ。
『開始時刻は、午前零時を予定しています』
ティーがキーを押すと、上空へ現在時刻が表示された。
午後十時四十七分。
残り、一時間十三分。
『居住区画へ移動し、待機してください』
「最後に一つ」
『どうぞ』
「あなたの名前を教えてください」
男は答えなかった。
代わりに。
通話終了を知らせる短い音が鳴る。
<DIRECT CALL/END>
街の音が、一気に戻ってきた。
人の声。
音楽。
車両。
風に揺れる街路樹。
ティーは、消えた通信表示をしばらく見つめていた。
「自分だけ、全部知っているくせに」
返事はない。
クライアントユニットだけが、青白い光を放ちながら彼女の前へ浮かんでいた。
『滞在場所を付与します』
クライアントユニットの上空へ、新しい通知が展開される。
<TEMPORARY PRIVATE SPACE>
<BLOCK No.1/RESIDENTIAL AREA N-07>
<ACCESS GRANTED>
地図を開くと、中央区画から少し離れた住宅区へ印がついた。
「これは?」
『休息と待機に使用できる個人空間です』
「私の家ですか」
『一時的な滞在場所です』
「現実の私には、別の家があるんですか」
『回答できません』
また、届かない。
ティーは一度目を閉じた。
問いかけるたび。
一つの答えから、さらに多くの疑問が生まれる。
「食事や、必要なものは?」
『基本的なサービスは利用できます。簡易ウォレットには、定期的に必要額が付与されます』
「仕事の報酬ですか」
『活動費です』
「夜のミッションへ従わせるための?」
『この環境での生活を維持するためです』
「この世界での生活を」
『はい』
男の声には、悪意が感じられなかった。
楽しんでいる様子も。
ティーを脅して満足している様子もない。
まるで、すでに決められた手順を必要な順番で読み上げているだけだった。
その態度が。
かえって、状況の異常さを強くしていた。
「あなたは、私を助けようとしているんですか」
不意に、そんな問いが口から出た。
男はすぐには答えなかった。
『そのために必要な措置を行っています』
助けている。
とは言わなかった。
傷つけるためとも言わなかった。
「信用してほしいですか」
『現時点で、無条件に信用する必要はありません』
予想外の答えだった。
『指示内容を確認してください。その上で、自分で行動してください』
「従え、ではなく?」
『あなた自身が理解して動く必要があります』
ティーは、光るキーボードへ視線を落とした。
T。
接続維持。
夜間待機。
制限された権限。
どれも、自分で選んだものではない。
それでも。
完全な人形として扱うつもりなら、理解を求める必要はないはずだった。
「夜のミッションを達成すれば、昼間は本当に自由なんですね」
『規約へ違反しない限り、干渉しません』
「この世界について調べても?」
『構いません』
「自分について調べても?」
今度の沈黙は、ごく短かった。
『止めません』
初めて。
明確に許可されたような気がした。
ただし。
それが、過去へたどり着けるという意味ではない。
「わかりました」
ティーは答えた。
承諾ではない。
信頼でもない。
今の状況を受け止めるための返事だった。
「まずは、今夜のミッションを確認します」
『了解しました』
「ただし、従うかどうかは内容を見てから決めます」
『それで構いません』
本当に。
それでよいのだろうか。
男の余裕が、ティーには少し不気味に感じられた。
内容を見れば。
結局、彼女が従うしかないことを知っているようにも聞こえたからだ。
『開始時刻は、午前零時を予定しています』
ティーがキーを押すと、上空へ現在時刻が表示された。
午後十時四十七分。
残り、一時間十三分。
『居住区画へ移動し、待機してください』
「最後に一つ」
『どうぞ』
「あなたの名前を教えてください」
男は答えなかった。
代わりに。
通話終了を知らせる短い音が鳴る。
<DIRECT CALL/END>
街の音が、一気に戻ってきた。
人の声。
音楽。
車両。
風に揺れる街路樹。
ティーは、消えた通信表示をしばらく見つめていた。
「自分だけ、全部知っているくせに」
返事はない。
クライアントユニットだけが、青白い光を放ちながら彼女の前へ浮かんでいた。
Tの部屋
地図を頼りに、住宅区へ向かった。
中央区画から離れるにつれ、立体広告は少なくなり。
建物の照明も落ち着いた色へ変わっていく。
住宅区N-07。
指定された建物は、同じ形の小さな住居が並ぶ区画にあった。
入口へ近づくと、自動的に認証が行われる。
<USER:T>
<ACCESS GRANTED>
扉が開いた。
中は、必要最低限の部屋だった。
ベッド。
机。
椅子。
小さな収納。
洗面設備。
外の街を見られる窓。
生活に必要なものは揃っている。
けれど、誰かが暮らしていた痕跡は一つもなかった。
写真も。
好みを感じさせる装飾も。
読みかけの本もない。
Tという一文字のために。
つい先ほど用意された空間のようだった。
ティーは机の前へ座った。
左手を前へ出し、展開動作を行う。
青白い光が走った。
まず、透き通った基部。
その上へ、白いキーが次々と現れる。
クライアントユニットは机の上へ置かれるのではなく。
天板からわずかに浮いた位置で静止した。
両手を乗せる。
キーの反発。
乾いた入力音。
触れるたび、青い光が基部の内部を細く走った。
上空へ、待機状態が表示される。
<MISSION:WAITING>
<START:00:00>
時刻は午後十一時十二分。
まだ時間がある。
ティーはキーボードを操作し、自分に関する情報を検索した。
T。
利用者T。
だんのこまち、T。
検索結果には、一般的すぎる情報や、無関係な文字ばかりが並んだ。
自分のプロフィールへつながるものはない。
次に。
クライアントユニット。
検索。
<該当する公開情報はありません>
夜間任務。
検索。
警備会社。
ゲームイベント。
店舗の夜勤。
無数の結果が出るが、今のティーと結びつく情報はなかった。
指示を伝える者。
検索結果なし。
何一つ。
外部から調べられる情報がない。
ティーは個人メニューを開き、ログアウトをもう一度押した。
<現在、この操作は利用できません>
通話の前と何も変わっていない。
違うのは。
原因を知っている誰かが存在するとわかったこと。
その相手が、解除するつもりはないこと。
そして。
彼女の前に、青く光るキーボードがあることだった。
ティーは椅子の背へ身体を預けた。
窓へ映る瞳は、青い。
銀色の髪。
猫の耳。
白と黒の服。
夕方に初めて見た時から、姿は変わっていない。
クライアントユニットの透明な基部から、淡い光が机へ落ちていた。
白いキーの輪郭が。
彼女の指を待つように静かに並んでいる。
午後十一時五十八分。
<MISSION:WAITING>
ティーは両手をキーへ乗せた。
何を入力するのかは、まだ知らされていない。
誰を相手にするのかも。
何をさせられるのかも。
わからない。
午後十一時五十九分。
突然。
クライアントユニットの内部を走っていた青い光が、一斉に強くなった。
キーとキーの隙間から、細かな光の粒が上昇する。
上空の待機表示が消えた。
代わりに。
新しい文字列が、一行ずつ展開されていく。
<NIGHT SHIFT>
<ACTIVATION SEQUENCE>
端末の外周を、白い光が走る。
EQUIPMENTの項目が表示される。
<LOCKED>
一秒。
二秒。
文字が赤く変化した。
<UNLOCKING>
部屋の照明が、クライアントユニットの光に押されるように薄く見える。
白いキーの一つ一つが。
これまでとは異なる順番で、低く発光し始めた。
午前零時。
静かな電子音が、何もない部屋へ響いた。
<NEW MISSION>
<詳細情報を受信しました>
ティーは青い瞳で、その表示を見つめた。
与えられた名前。
閉ざされた出口。
捨てることのできない端末。
そして。
初めての夜が、始まろうとしていた。
中央区画から離れるにつれ、立体広告は少なくなり。
建物の照明も落ち着いた色へ変わっていく。
住宅区N-07。
指定された建物は、同じ形の小さな住居が並ぶ区画にあった。
入口へ近づくと、自動的に認証が行われる。
<USER:T>
<ACCESS GRANTED>
扉が開いた。
中は、必要最低限の部屋だった。
ベッド。
机。
椅子。
小さな収納。
洗面設備。
外の街を見られる窓。
生活に必要なものは揃っている。
けれど、誰かが暮らしていた痕跡は一つもなかった。
写真も。
好みを感じさせる装飾も。
読みかけの本もない。
Tという一文字のために。
つい先ほど用意された空間のようだった。
ティーは机の前へ座った。
左手を前へ出し、展開動作を行う。
青白い光が走った。
まず、透き通った基部。
その上へ、白いキーが次々と現れる。
クライアントユニットは机の上へ置かれるのではなく。
天板からわずかに浮いた位置で静止した。
両手を乗せる。
キーの反発。
乾いた入力音。
触れるたび、青い光が基部の内部を細く走った。
上空へ、待機状態が表示される。
<MISSION:WAITING>
<START:00:00>
時刻は午後十一時十二分。
まだ時間がある。
ティーはキーボードを操作し、自分に関する情報を検索した。
T。
利用者T。
だんのこまち、T。
検索結果には、一般的すぎる情報や、無関係な文字ばかりが並んだ。
自分のプロフィールへつながるものはない。
次に。
クライアントユニット。
検索。
<該当する公開情報はありません>
夜間任務。
検索。
警備会社。
ゲームイベント。
店舗の夜勤。
無数の結果が出るが、今のティーと結びつく情報はなかった。
指示を伝える者。
検索結果なし。
何一つ。
外部から調べられる情報がない。
ティーは個人メニューを開き、ログアウトをもう一度押した。
<現在、この操作は利用できません>
通話の前と何も変わっていない。
違うのは。
原因を知っている誰かが存在するとわかったこと。
その相手が、解除するつもりはないこと。
そして。
彼女の前に、青く光るキーボードがあることだった。
ティーは椅子の背へ身体を預けた。
窓へ映る瞳は、青い。
銀色の髪。
猫の耳。
白と黒の服。
夕方に初めて見た時から、姿は変わっていない。
クライアントユニットの透明な基部から、淡い光が机へ落ちていた。
白いキーの輪郭が。
彼女の指を待つように静かに並んでいる。
午後十一時五十八分。
<MISSION:WAITING>
ティーは両手をキーへ乗せた。
何を入力するのかは、まだ知らされていない。
誰を相手にするのかも。
何をさせられるのかも。
わからない。
午後十一時五十九分。
突然。
クライアントユニットの内部を走っていた青い光が、一斉に強くなった。
キーとキーの隙間から、細かな光の粒が上昇する。
上空の待機表示が消えた。
代わりに。
新しい文字列が、一行ずつ展開されていく。
<NIGHT SHIFT>
<ACTIVATION SEQUENCE>
端末の外周を、白い光が走る。
EQUIPMENTの項目が表示される。
<LOCKED>
一秒。
二秒。
文字が赤く変化した。
<UNLOCKING>
部屋の照明が、クライアントユニットの光に押されるように薄く見える。
白いキーの一つ一つが。
これまでとは異なる順番で、低く発光し始めた。
午前零時。
静かな電子音が、何もない部屋へ響いた。
<NEW MISSION>
<詳細情報を受信しました>
ティーは青い瞳で、その表示を見つめた。
与えられた名前。
閉ざされた出口。
捨てることのできない端末。
そして。
初めての夜が、始まろうとしていた。