だんのこまち@wiki
運命の初夜
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零時の受信
午前零時。
クライアントユニットの白いキーが、一斉に光を帯びた。
青く透き通った基部の内部を、幾筋もの光が走る。
ティーが両手を置いたまま見つめていると、キーボードの上空へ新しい画面が展開された。
<NEW MISSION>
<MISSION ID:T-0001>
<CATEGORY:SEVERE VIOLATION>
<AREA:ブロックNo.1・東部商業区>
<TARGET:USER ID K-91F>
<OBJECTIVE:対象人物の排除>
最後の一文を見た瞬間。
ティーの指が止まった。
「排除……」
荷物を移動させるような言葉ではない。
対象の欄には、利用者を示すIDが記されている。
つまり。
相手は人だ。
正確には、バーチャル世界へ接続している誰かのアバター。
だとしても。
その人物を排除しろと、明確に書かれていた。
クライアントユニットの上空へ、通話表示が開く。
<DIRECT CLIENT>
昼間にも聞いた、低い男の声が届いた。
『ミッション情報を確認してください』
「確認しています」
ティーは画面から目を離さなかった。
「排除とは、何をするんですか」
『対象の活動を停止させ、だんのこまちから離脱させます』
「現実の身体は?」
『生命へ致命的な影響を及ぼす処理ではありません』
明確に死亡させる行為ではない。
その答えに、ほんの少しだけ呼吸が戻った。
だが。
安心できるほど、何が起きるのか理解できたわけではない。
「本人の意思に関係なく、ログアウトさせるんですか」
『はい』
「私はログアウトできないのに?」
通話の向こうが、しばらく静かになった。
『今回の対象と、あなたの接続状態は異なります』
「私には選べないことを、ほかの人には強制するんですね」
『対象は通常の退出処理を拒否し、重大な規約違反を継続しています』
クライアントユニットへ、追加情報が送られてきた。
<CASE FILE>
<不正アクセスキーの取得>
<他利用者の行動権限制限>
<個人空間への強制侵入>
<標準警告への応答なし>
<通常タイムアウト処理への抵抗を確認>
その下には、被害報告の件数が並んでいる。
一件ではない。
同じ利用者によるものが、何度も記録されていた。
直近の項目だけ、赤く点滅している。
<現在、別の利用者一名を閉鎖区画内へ拘束中>
「今も?」
『はい』
「その人は、自分でログアウトできないんですか」
『対象が不正に取得したアクセス情報によって、操作を制限されています』
昼間の自分と似た言葉だった。
ログアウトできない。
帰りたくても、帰れない。
ティーは無意識に奥歯を噛んだ。
「通常の管理者は何をしているんですか」
『対象は一般的な制限命令を回避しています』
「警備を呼べば?」
『通常権限では、対象の状態へ介入できません』
「だから、何も知らない私を行かせるんですか」
『あなたには、介入可能な権限が付与されます』
男の声は、相変わらず落ち着いている。
ティーが何を感じているのかより。
必要な手順を正しく伝えることだけを優先しているようだった。
「拒否した場合は」
『拘束されている利用者の状態が継続します』
その答えは、ずるいと思った。
拒否すれば、自分が処罰される。
そう言われた方が、まだ反発できた。
だが。
自分が動かなければ、知らない誰かが閉じ込められたままになる。
ログアウトできない不安を。
目覚めてから、ずっと味わってきた。
それを知ったあとでは。
何もしないという選択は、簡単ではなかった。
「対象を見つけても」
ティーは慎重に言った。
「いきなり撃つことはしません」
『状況に応じて判断してください』
「投降するなら?」
『抵抗と違反行為を停止したことが確認できれば、別の処理へ切り替えます』
「私が判断してもいいんですね」
『最終処理の前に確認工程があります』
完全に自由な判断ではない。
それでも。
目の前の相手へ、最初から攻撃することだけを求められているわけではなかった。
ティーはクライアントユニットへ手を置き直した。
「行きます」
信頼したからではない。
従うことを受け入れたからでもない。
閉じ込められている誰かを、放っておけなかっただけだ。
『ミッション受諾を入力してください』
白いキーの一つが、青く発光した。
ティーはそのキーを押す。
続けて、中央の長い入力キー。
乾いた音が二度響いた。
<MISSION ACCEPTED>
<EQUIPMENT AUTHORITY:UNLOCKED>
初めての夜間任務が、正式に開始された。
クライアントユニットの白いキーが、一斉に光を帯びた。
青く透き通った基部の内部を、幾筋もの光が走る。
ティーが両手を置いたまま見つめていると、キーボードの上空へ新しい画面が展開された。
<NEW MISSION>
<MISSION ID:T-0001>
<CATEGORY:SEVERE VIOLATION>
<AREA:ブロックNo.1・東部商業区>
<TARGET:USER ID K-91F>
<OBJECTIVE:対象人物の排除>
最後の一文を見た瞬間。
ティーの指が止まった。
「排除……」
荷物を移動させるような言葉ではない。
対象の欄には、利用者を示すIDが記されている。
つまり。
相手は人だ。
正確には、バーチャル世界へ接続している誰かのアバター。
だとしても。
その人物を排除しろと、明確に書かれていた。
クライアントユニットの上空へ、通話表示が開く。
<DIRECT CLIENT>
昼間にも聞いた、低い男の声が届いた。
『ミッション情報を確認してください』
「確認しています」
ティーは画面から目を離さなかった。
「排除とは、何をするんですか」
『対象の活動を停止させ、だんのこまちから離脱させます』
「現実の身体は?」
『生命へ致命的な影響を及ぼす処理ではありません』
明確に死亡させる行為ではない。
その答えに、ほんの少しだけ呼吸が戻った。
だが。
安心できるほど、何が起きるのか理解できたわけではない。
「本人の意思に関係なく、ログアウトさせるんですか」
『はい』
「私はログアウトできないのに?」
通話の向こうが、しばらく静かになった。
『今回の対象と、あなたの接続状態は異なります』
「私には選べないことを、ほかの人には強制するんですね」
『対象は通常の退出処理を拒否し、重大な規約違反を継続しています』
クライアントユニットへ、追加情報が送られてきた。
<CASE FILE>
<不正アクセスキーの取得>
<他利用者の行動権限制限>
<個人空間への強制侵入>
<標準警告への応答なし>
<通常タイムアウト処理への抵抗を確認>
その下には、被害報告の件数が並んでいる。
一件ではない。
同じ利用者によるものが、何度も記録されていた。
直近の項目だけ、赤く点滅している。
<現在、別の利用者一名を閉鎖区画内へ拘束中>
「今も?」
『はい』
「その人は、自分でログアウトできないんですか」
『対象が不正に取得したアクセス情報によって、操作を制限されています』
昼間の自分と似た言葉だった。
ログアウトできない。
帰りたくても、帰れない。
ティーは無意識に奥歯を噛んだ。
「通常の管理者は何をしているんですか」
『対象は一般的な制限命令を回避しています』
「警備を呼べば?」
『通常権限では、対象の状態へ介入できません』
「だから、何も知らない私を行かせるんですか」
『あなたには、介入可能な権限が付与されます』
男の声は、相変わらず落ち着いている。
ティーが何を感じているのかより。
必要な手順を正しく伝えることだけを優先しているようだった。
「拒否した場合は」
『拘束されている利用者の状態が継続します』
その答えは、ずるいと思った。
拒否すれば、自分が処罰される。
そう言われた方が、まだ反発できた。
だが。
自分が動かなければ、知らない誰かが閉じ込められたままになる。
ログアウトできない不安を。
目覚めてから、ずっと味わってきた。
それを知ったあとでは。
何もしないという選択は、簡単ではなかった。
「対象を見つけても」
ティーは慎重に言った。
「いきなり撃つことはしません」
『状況に応じて判断してください』
「投降するなら?」
『抵抗と違反行為を停止したことが確認できれば、別の処理へ切り替えます』
「私が判断してもいいんですね」
『最終処理の前に確認工程があります』
完全に自由な判断ではない。
それでも。
目の前の相手へ、最初から攻撃することだけを求められているわけではなかった。
ティーはクライアントユニットへ手を置き直した。
「行きます」
信頼したからではない。
従うことを受け入れたからでもない。
閉じ込められている誰かを、放っておけなかっただけだ。
『ミッション受諾を入力してください』
白いキーの一つが、青く発光した。
ティーはそのキーを押す。
続けて、中央の長い入力キー。
乾いた音が二度響いた。
<MISSION ACCEPTED>
<EQUIPMENT AUTHORITY:UNLOCKED>
初めての夜間任務が、正式に開始された。
夜のための姿
クライアントユニットの上空へ、装備一覧が展開される。
<NIGHT RESPONSE SET>
<HANDGUN>
<COMBAT KNIFE>
<CLIENT LINK EQUIPMENT>
画面の横には、まだ見覚えのない黒と暗赤色の衣装が表示されていた。
「これは?」
『夜間任務用の装備です』
「今の服では行けないんですか」
『一般用アバター装備には、任務中の保護機能がありません』
夕方から着ている白い上着と、黒いボトム。
動きにくい服装ではない。
だが。
武器を携帯できる場所も。
攻撃を受けた際の補助機能も備わっていないらしい。
<DEPLOY>
キーの一つが点滅する。
ティーは一度、自分の白い袖を見た。
これも、自分で選んだ覚えのない服だ。
着替えることに惜しさはない。
それでも。
次に表示されている衣装を身につければ。
もう、何も知らず街を歩いていた少女のままではいられない気がした。
「着替えるだけです」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
発光しているキーを押した。
足元へ、青白い光の輪が広がった。
白い上着の輪郭が、細かな粒子へほどけていく。
肌が露出することはない。
消えた場所を追うように、黒い生地が形成されていった。
身体へ沿う暗色の上着。
胸元から腰へ走る、暗い赤の線。
腕を覆う黒い袖と、動きを妨げない手袋。
腰から下には、脚の動きを隠すような幅のある黒いボトム。
足元には、紐を交差させた暗赤色の靴。
最後に。
肩から背中へ流れる短い布が現れた。
外套と呼ぶには短く。
装飾と呼ぶには、少し重い。
身体を動かすたび、暗い赤色の裏地がわずかに見えた。
銀色の髪と猫の耳だけは、そのままだ。
ティーは部屋の窓へ、自分の姿を映した。
夕方に目覚めた少女と、同じ顔。
青い瞳も変わらない。
けれど。
白い服を着ていた時の柔らかな印象は、ほとんど残っていなかった。
夜の街へ紛れ込むための色。
戦うことを前提にした姿。
自分ではない誰かへ、また一歩近づいたように見える。
クライアントユニットのEQUIPMENT欄を開く。
最初に選択されたのは、ハンドガンだった。
ティーがキーを押すと、右腰の近くへ黒い光が集まる。
短い銃身。
引き金。
握り。
数秒で、一丁のハンドガンが形成された。
装飾の少ない、黒い銃だった。
「持ってください」
男ではなく。
クライアントユニットから、合成された案内音声が流れた。
ティーは右手を伸ばした。
触れる。
指が握りへ沿った。
重さがある。
ずっしりと腕を下へ引くほどではない。
だが。
玩具ではないことは、手にしただけで伝わった。
「……初めて持つはずなのに」
右手の位置。
人差し指を置く場所。
銃口を向けてはいけない方向。
何も説明されていないのに、身体は知っていた。
ティーは反射的に銃口を床へ向け、引き金から指を外している。
「私は、これを使っていたんですか」
『回答できません』
「またですか」
『現在のあなたに、装備を扱う能力があることは確認しています』
「能力があることと、使っていいことは違います」
『その判断をするため、現場情報を確認してください』
ティーは銃を右腰へ近づけた。
装備が触れた瞬間。
衣服の上に、黒いホルスターが形成される。
ハンドガンはそこへ収まった。
次はナイフ。
左腰の後方へ、短い鞘が現れる。
そこから引き抜くと。
片刃の黒いナイフが姿を見せた。
大きすぎない。
狭い場所でも扱える長さ。
刃には金属の光沢ではなく、青い回路のような線が一本だけ走っている。
ナイフも元へ戻す。
「銃とナイフだけですか」
『初回任務では十分です』
「十分かどうかを、私が判断できないのですが」
『現場で必要となる補助情報は、視覚権限によって取得できます』
「視覚権限?」
クライアントユニットの上空へ、新しい項目が開く。
<CLIENT VISUAL LINK>
<STATUS:STANDBY>
<ACTIVATE:TRACE>
『現地へ到着後、起動してください』
ティーは窓に映る自分の青い目を見た。
「何が見えるようになるんですか」
『対象の特定に必要な情報です』
それ以上は説明されなかった。
相変わらず。
先のことは、必要になる直前まで教えるつもりがないらしい。
<NIGHT RESPONSE SET>
<HANDGUN>
<COMBAT KNIFE>
<CLIENT LINK EQUIPMENT>
画面の横には、まだ見覚えのない黒と暗赤色の衣装が表示されていた。
「これは?」
『夜間任務用の装備です』
「今の服では行けないんですか」
『一般用アバター装備には、任務中の保護機能がありません』
夕方から着ている白い上着と、黒いボトム。
動きにくい服装ではない。
だが。
武器を携帯できる場所も。
攻撃を受けた際の補助機能も備わっていないらしい。
<DEPLOY>
キーの一つが点滅する。
ティーは一度、自分の白い袖を見た。
これも、自分で選んだ覚えのない服だ。
着替えることに惜しさはない。
それでも。
次に表示されている衣装を身につければ。
もう、何も知らず街を歩いていた少女のままではいられない気がした。
「着替えるだけです」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
発光しているキーを押した。
足元へ、青白い光の輪が広がった。
白い上着の輪郭が、細かな粒子へほどけていく。
肌が露出することはない。
消えた場所を追うように、黒い生地が形成されていった。
身体へ沿う暗色の上着。
胸元から腰へ走る、暗い赤の線。
腕を覆う黒い袖と、動きを妨げない手袋。
腰から下には、脚の動きを隠すような幅のある黒いボトム。
足元には、紐を交差させた暗赤色の靴。
最後に。
肩から背中へ流れる短い布が現れた。
外套と呼ぶには短く。
装飾と呼ぶには、少し重い。
身体を動かすたび、暗い赤色の裏地がわずかに見えた。
銀色の髪と猫の耳だけは、そのままだ。
ティーは部屋の窓へ、自分の姿を映した。
夕方に目覚めた少女と、同じ顔。
青い瞳も変わらない。
けれど。
白い服を着ていた時の柔らかな印象は、ほとんど残っていなかった。
夜の街へ紛れ込むための色。
戦うことを前提にした姿。
自分ではない誰かへ、また一歩近づいたように見える。
クライアントユニットのEQUIPMENT欄を開く。
最初に選択されたのは、ハンドガンだった。
ティーがキーを押すと、右腰の近くへ黒い光が集まる。
短い銃身。
引き金。
握り。
数秒で、一丁のハンドガンが形成された。
装飾の少ない、黒い銃だった。
「持ってください」
男ではなく。
クライアントユニットから、合成された案内音声が流れた。
ティーは右手を伸ばした。
触れる。
指が握りへ沿った。
重さがある。
ずっしりと腕を下へ引くほどではない。
だが。
玩具ではないことは、手にしただけで伝わった。
「……初めて持つはずなのに」
右手の位置。
人差し指を置く場所。
銃口を向けてはいけない方向。
何も説明されていないのに、身体は知っていた。
ティーは反射的に銃口を床へ向け、引き金から指を外している。
「私は、これを使っていたんですか」
『回答できません』
「またですか」
『現在のあなたに、装備を扱う能力があることは確認しています』
「能力があることと、使っていいことは違います」
『その判断をするため、現場情報を確認してください』
ティーは銃を右腰へ近づけた。
装備が触れた瞬間。
衣服の上に、黒いホルスターが形成される。
ハンドガンはそこへ収まった。
次はナイフ。
左腰の後方へ、短い鞘が現れる。
そこから引き抜くと。
片刃の黒いナイフが姿を見せた。
大きすぎない。
狭い場所でも扱える長さ。
刃には金属の光沢ではなく、青い回路のような線が一本だけ走っている。
ナイフも元へ戻す。
「銃とナイフだけですか」
『初回任務では十分です』
「十分かどうかを、私が判断できないのですが」
『現場で必要となる補助情報は、視覚権限によって取得できます』
「視覚権限?」
クライアントユニットの上空へ、新しい項目が開く。
<CLIENT VISUAL LINK>
<STATUS:STANDBY>
<ACTIVATE:TRACE>
『現地へ到着後、起動してください』
ティーは窓に映る自分の青い目を見た。
「何が見えるようになるんですか」
『対象の特定に必要な情報です』
それ以上は説明されなかった。
相変わらず。
先のことは、必要になる直前まで教えるつもりがないらしい。
東部商業区
部屋を出ると。
住宅区の静かな通りにも、夜の色が広がっていた。
白い服で歩いた時とは。
すれ違う人々の反応が少し違う。
武器は装備領域へ収められており、外からは見えない。
それでも、暗色の任務装備は一般的な普段着には見えなかった。
目を向ける人。
すぐに視線を外す人。
何かのゲーム衣装だと思ったのか、特に気にしない人。
誰も、ティーがこれから何をしに行くのかは知らない。
クライアントユニットは収納している。
必要になれば。
左手の動作だけで、どこにいても呼び出せる。
個人メニューの地図には、目的地までの経路が青い線で表示されていた。
住宅区から交通ターミナルへ。
そこから東部商業区まで、夜間運行の車両を使う。
ティーは案内へ従い、乗車口へ向かった。
使い方がわからず立ち止まる場面もあった。
料金の確認。
行き先の選択。
乗車位置。
そのたびに、周囲の利用者の動きを見て真似をする。
夜の仕事を任せた者は。
戦う能力があると言った。
だが。
交通機関を一人で使うことすら、ティーには初めてだった。
車両へ乗り込む。
窓際の席へ座ると、静かな住宅区が後方へ流れていった。
次第に建物が高くなる。
立体広告。
空中歩道。
光を放つ看板。
大きな音楽。
東部商業区へ近づくほど、街は明るくなった。
明るいのに。
暗い。
その意味を、ティーは少しずつ理解した。
大通りには、楽しそうな利用者がいる。
店舗の入口では、派手な衣装の店員が客を呼び込んでいる。
音楽施設からは、低い音が地面へ響いていた。
だが。
大通りから一本外れると。
照明が急に少なくなる。
閉鎖された店舗。
認証の切れた扉。
更新されず、同じ映像を繰り返している広告。
人の姿も減っていった。
地図の青い線は。
さらに狭い路地の奥へ続いている。
<目的地まで:280m>
ティーは足を止めた。
左手を前へ出す。
指を所定の形へ動かす。
青白い光が走った。
透き通った基部。
その上へ、白い立体キーが一つずつ現れる。
クライアントユニットは、ティーの歩行を邪魔しないよう、腰より少し高い位置へ浮かんだ。
<CLIENT VISUAL LINK>
<ACTIVATE:TRACE>
「これを押せばいいんですね」
『はい』
男の声が、クライアントユニットから返る。
通話が再開していた。
「痛くはありませんか」
『一時的に感覚が変化する可能性があります』
「先に言ってください」
『現在伝えました』
「もう少し前にです」
返事はなかった。
ティーは発光しているキーへ指を置いた。
一度、息を整える。
キーを押した。
<TRACE:ACTIVE>
青白い光が、クライアントユニットの基部から細い線となって伸びる。
空中を走り。
ティーの両目へ触れた。
強い光。
反射的に目を閉じる。
熱くはない。
痛みもない。
ただ。
瞼の裏側を、何かが一瞬で通り抜けたような感覚があった。
ゆっくり目を開く。
夜の街が。
先ほどまでとは違って見えた。
暗い路地の奥まで、輪郭がはっきりしている。
建物の壁を巡るデータの流れ。
扉を閉じている認証。
遠くを歩く利用者のアクセス状態。
普段なら見えないはずのものが、薄い線や色として景色へ重なっていた。
その中に。
赤黒く濁った線が一本だけある。
道路を横切り。
閉鎖された建物の中へ続いている。
「これが、対象の痕跡……?」
『不正なアクセス経路です』
ティーは近くの窓へ目を向けた。
暗いガラスへ、自分の顔が映っている。
銀色の髪。
猫の耳。
夜間装備。
そして。
青かったはずの瞳が。
黄色く光っていた。
照明の色を反射しているのではない。
瞳そのものが、淡い金色の光を放っている。
「目が……」
思わず顔へ手を伸ばした。
『視覚権限の稼働に伴う変化です』
「最初から知っていたんですね」
『正常な状態です』
「正常かどうかを聞いているのではありません」
ティーは窓に映る黄色い瞳を見た。
夕方。
自分の姿を初めて確認した時。
青い目だけは、静かで柔らかく見えた。
今は違う。
暗闇の中で。
何かを探すためだけに光っている。
自分が、人を追う側へ変わったことを示しているようだった。
『任務終了後、視覚権限は解除できます』
「戻るんですね」
『はい』
それを聞き。
ティーは、わずかに安心した。
今の姿が。
本来の自分だとは、まだ思いたくなかった。
クライアントユニットを収納する。
目に見える端末は消えた。
だが。
黄色い瞳と。
景色へ重なった赤い痕跡は残っている。
ティーは右腰のハンドガンを確かめ。
閉鎖された建物へ歩き始めた。
住宅区の静かな通りにも、夜の色が広がっていた。
白い服で歩いた時とは。
すれ違う人々の反応が少し違う。
武器は装備領域へ収められており、外からは見えない。
それでも、暗色の任務装備は一般的な普段着には見えなかった。
目を向ける人。
すぐに視線を外す人。
何かのゲーム衣装だと思ったのか、特に気にしない人。
誰も、ティーがこれから何をしに行くのかは知らない。
クライアントユニットは収納している。
必要になれば。
左手の動作だけで、どこにいても呼び出せる。
個人メニューの地図には、目的地までの経路が青い線で表示されていた。
住宅区から交通ターミナルへ。
そこから東部商業区まで、夜間運行の車両を使う。
ティーは案内へ従い、乗車口へ向かった。
使い方がわからず立ち止まる場面もあった。
料金の確認。
行き先の選択。
乗車位置。
そのたびに、周囲の利用者の動きを見て真似をする。
夜の仕事を任せた者は。
戦う能力があると言った。
だが。
交通機関を一人で使うことすら、ティーには初めてだった。
車両へ乗り込む。
窓際の席へ座ると、静かな住宅区が後方へ流れていった。
次第に建物が高くなる。
立体広告。
空中歩道。
光を放つ看板。
大きな音楽。
東部商業区へ近づくほど、街は明るくなった。
明るいのに。
暗い。
その意味を、ティーは少しずつ理解した。
大通りには、楽しそうな利用者がいる。
店舗の入口では、派手な衣装の店員が客を呼び込んでいる。
音楽施設からは、低い音が地面へ響いていた。
だが。
大通りから一本外れると。
照明が急に少なくなる。
閉鎖された店舗。
認証の切れた扉。
更新されず、同じ映像を繰り返している広告。
人の姿も減っていった。
地図の青い線は。
さらに狭い路地の奥へ続いている。
<目的地まで:280m>
ティーは足を止めた。
左手を前へ出す。
指を所定の形へ動かす。
青白い光が走った。
透き通った基部。
その上へ、白い立体キーが一つずつ現れる。
クライアントユニットは、ティーの歩行を邪魔しないよう、腰より少し高い位置へ浮かんだ。
<CLIENT VISUAL LINK>
<ACTIVATE:TRACE>
「これを押せばいいんですね」
『はい』
男の声が、クライアントユニットから返る。
通話が再開していた。
「痛くはありませんか」
『一時的に感覚が変化する可能性があります』
「先に言ってください」
『現在伝えました』
「もう少し前にです」
返事はなかった。
ティーは発光しているキーへ指を置いた。
一度、息を整える。
キーを押した。
<TRACE:ACTIVE>
青白い光が、クライアントユニットの基部から細い線となって伸びる。
空中を走り。
ティーの両目へ触れた。
強い光。
反射的に目を閉じる。
熱くはない。
痛みもない。
ただ。
瞼の裏側を、何かが一瞬で通り抜けたような感覚があった。
ゆっくり目を開く。
夜の街が。
先ほどまでとは違って見えた。
暗い路地の奥まで、輪郭がはっきりしている。
建物の壁を巡るデータの流れ。
扉を閉じている認証。
遠くを歩く利用者のアクセス状態。
普段なら見えないはずのものが、薄い線や色として景色へ重なっていた。
その中に。
赤黒く濁った線が一本だけある。
道路を横切り。
閉鎖された建物の中へ続いている。
「これが、対象の痕跡……?」
『不正なアクセス経路です』
ティーは近くの窓へ目を向けた。
暗いガラスへ、自分の顔が映っている。
銀色の髪。
猫の耳。
夜間装備。
そして。
青かったはずの瞳が。
黄色く光っていた。
照明の色を反射しているのではない。
瞳そのものが、淡い金色の光を放っている。
「目が……」
思わず顔へ手を伸ばした。
『視覚権限の稼働に伴う変化です』
「最初から知っていたんですね」
『正常な状態です』
「正常かどうかを聞いているのではありません」
ティーは窓に映る黄色い瞳を見た。
夕方。
自分の姿を初めて確認した時。
青い目だけは、静かで柔らかく見えた。
今は違う。
暗闇の中で。
何かを探すためだけに光っている。
自分が、人を追う側へ変わったことを示しているようだった。
『任務終了後、視覚権限は解除できます』
「戻るんですね」
『はい』
それを聞き。
ティーは、わずかに安心した。
今の姿が。
本来の自分だとは、まだ思いたくなかった。
クライアントユニットを収納する。
目に見える端末は消えた。
だが。
黄色い瞳と。
景色へ重なった赤い痕跡は残っている。
ティーは右腰のハンドガンを確かめ。
閉鎖された建物へ歩き始めた。
閉鎖区画
目的地は、数年前に営業を終了した複合商業施設だった。
入口の自動扉は割れ。
内部には照明がほとんど残っていない。
通常なら、利用者が入れないよう認証で閉じられているはずの場所。
だが。
扉の中央を。
赤黒いデータの線が貫いていた。
不正な経路が、正規の閉鎖処理へ穴を開けている。
ティーは扉へ近づいた。
<ACCESS:DENIED>
表示が浮かぶ。
「入れません」
『クライアントユニットを展開してください』
左手を前へ。
青い基部と白いキーが形成される。
上空へ、短い命令が表示された。
<BYPASS LOCAL LOCK>
「これは、不正アクセスではないんですか」
『今回の任務に限り、介入権限が承認されています』
「相手と同じことをしているように見えます」
『対象は他者の権限を盗用しています。あなたは付与された権限を使用しています』
言葉としては違う。
だが。
閉じている扉を、外側から開くことに変わりはない。
ティーはキーへ手を置いた。
表示された命令を入力する。
指は、やはり迷わなかった。
最後の入力キーを押す。
クライアントユニットから青い光が伸び、扉の赤黒い線へ触れた。
互いの色が数秒間ぶつかる。
赤い線が千切れ。
閉鎖されていた扉が、低い音とともに開いた。
<ACCESS GRANTED>
「私の端末は、こういうこともできるんですね」
『権限の範囲内です』
「どこまでできるんですか」
『現在必要な範囲までです』
また、同じ答えだった。
ティーは端末を収納した。
施設内へ入る。
一階は、広い吹き抜けになっていた。
動かないエスカレーター。
空になった店舗。
割れた案内板。
ガラス片。
かつては大勢の利用者が行き交っていたのだろう。
今は。
ティーの靴音だけが、何度も壁へ反響する。
赤い痕跡は。
上の階へ続いていた。
一歩ずつ進む。
猫の耳が、わずかな音を拾った。
上階。
金属が擦れる音。
何かを引きずるような音。
そして。
小さな声。
「……誰か、いるの?」
女性の声だった。
かすれている。
大きな声を出せないようだ。
ティーは足を止めた。
『拘束されている利用者と思われます』
「生きているんですね」
『アバター反応は維持されています』
ティーは階段へ向かった。
「対象へ、私が来たことは」
『現時点では検知されていません』
「そのままにしてください」
『了解しました』
右手を腰へ。
ホルスターから、ハンドガンを引き抜く。
冷たい感触はない。
それでも。
握ると、身体が一段階だけ静かになった。
呼吸。
歩幅。
視線。
何も考えていないのに。
戦うための形へ整っていく。
それが。
ティーには恐ろしかった。
誰かを助けるために進んでいる。
そう自分へ言い聞かせながら。
階段を上った。
入口の自動扉は割れ。
内部には照明がほとんど残っていない。
通常なら、利用者が入れないよう認証で閉じられているはずの場所。
だが。
扉の中央を。
赤黒いデータの線が貫いていた。
不正な経路が、正規の閉鎖処理へ穴を開けている。
ティーは扉へ近づいた。
<ACCESS:DENIED>
表示が浮かぶ。
「入れません」
『クライアントユニットを展開してください』
左手を前へ。
青い基部と白いキーが形成される。
上空へ、短い命令が表示された。
<BYPASS LOCAL LOCK>
「これは、不正アクセスではないんですか」
『今回の任務に限り、介入権限が承認されています』
「相手と同じことをしているように見えます」
『対象は他者の権限を盗用しています。あなたは付与された権限を使用しています』
言葉としては違う。
だが。
閉じている扉を、外側から開くことに変わりはない。
ティーはキーへ手を置いた。
表示された命令を入力する。
指は、やはり迷わなかった。
最後の入力キーを押す。
クライアントユニットから青い光が伸び、扉の赤黒い線へ触れた。
互いの色が数秒間ぶつかる。
赤い線が千切れ。
閉鎖されていた扉が、低い音とともに開いた。
<ACCESS GRANTED>
「私の端末は、こういうこともできるんですね」
『権限の範囲内です』
「どこまでできるんですか」
『現在必要な範囲までです』
また、同じ答えだった。
ティーは端末を収納した。
施設内へ入る。
一階は、広い吹き抜けになっていた。
動かないエスカレーター。
空になった店舗。
割れた案内板。
ガラス片。
かつては大勢の利用者が行き交っていたのだろう。
今は。
ティーの靴音だけが、何度も壁へ反響する。
赤い痕跡は。
上の階へ続いていた。
一歩ずつ進む。
猫の耳が、わずかな音を拾った。
上階。
金属が擦れる音。
何かを引きずるような音。
そして。
小さな声。
「……誰か、いるの?」
女性の声だった。
かすれている。
大きな声を出せないようだ。
ティーは足を止めた。
『拘束されている利用者と思われます』
「生きているんですね」
『アバター反応は維持されています』
ティーは階段へ向かった。
「対象へ、私が来たことは」
『現時点では検知されていません』
「そのままにしてください」
『了解しました』
右手を腰へ。
ホルスターから、ハンドガンを引き抜く。
冷たい感触はない。
それでも。
握ると、身体が一段階だけ静かになった。
呼吸。
歩幅。
視線。
何も考えていないのに。
戦うための形へ整っていく。
それが。
ティーには恐ろしかった。
誰かを助けるために進んでいる。
そう自分へ言い聞かせながら。
階段を上った。
対象
赤い痕跡は、三階の奥へ続いていた。
壁の一部が破壊され。
二つの店舗をつなぐように、無理やり通路が作られている。
その先。
閉鎖された広いイベントスペースへ、一人の男が立っていた。
黒い仮面。
長い上着。
右手には、大型の銃。
背中からは、赤黒い線が何本も伸びている。
壁。
床。
天井。
施設の認証へ食い込み。
空間全体を、自分の個人領域のように上書きしていた。
男の近くには、もう一人いる。
床へ座り込んだ女性のアバター。
半透明の赤い枠が身体を囲み、両腕と足の動きを制限している。
頭上の表示も。
メニューを開くための動作も、封じられていた。
「……助けて」
ティーを見つけた女性が、小さく声を出した。
仮面の男が振り返る。
「誰だ、お前」
黄色い視界に。
男の頭上へ赤い表示が浮かんだ。
<TARGET:K-91F>
<MATCH:100%>
間違いない。
任務の対象だ。
ティーはハンドガンを下へ向けたまま、男と距離を取って立った。
「その人を解放してください」
「管理の奴か?」
男は、ティーの顔を見た。
仮面の奥で、目が細くなる。
「いや……違うな」
視線が、黄色く光る瞳へ移る。
次に。
ティーの左手へ。
今は収納されているクライアントユニットの存在を、何かの方法で感じ取ったらしい。
男の声から、わずかに余裕が消えた。
「お前、その目……」
「もう一度言います」
ティーは相手の言葉を遮った。
「拘束を解除してください。抵抗しなければ、攻撃はしません」
「何も知らされてないのか?」
男が笑った。
乾いた。
人を見下すような笑いだった。
「その格好で。その目で。その端末を持たされて。自分が何かも知らない顔をしてる」
ティーの指が、わずかに動いた。
「あなたは、私を知っているんですか」
『対象との会話を継続しないでください』
耳元へ男の声が割り込む。
だが。
ティーは動かなかった。
目の前の対象は。
通話相手が隠している何かを知っている。
少なくとも。
そう思わせる言葉を使っている。
「その端末について、何を知っているんですか」
「聞きたいか?」
仮面の男が、大型の銃を少し持ち上げた。
「なら、そいつを捨てろ。こっちへ来い。お前につけられた首輪の外し方を――」
男の銃口が。
拘束されている女性へ向いた。
言葉と動きが、まるで合っていなかった。
ティーの黄色い瞳には。
引き金へかかる指の動きまで、はっきり見えた。
「伏せて!」
拘束された女性は動けない。
ティーが先に引き金を引いた。
初めての銃声。
狭い空間へ、乾いた音が響く。
青白い光をまとった弾丸が、仮面の男の右腕へ命中した。
血は出ない。
代わりに。
腕を覆っていた赤黒いデータが、砕けたガラスのように飛び散った。
男の銃口が逸れる。
直後。
轟音。
男が撃った弾は、女性ではなく隣の壁を破壊した。
「この……!」
仮面の男がティーへ銃口を向ける。
ティーは考えるより先に、横へ走っていた。
銃声。
床が弾ける。
二発目。
展示用の柱が砕けた。
ティーは柱の陰へ滑り込む。
息が速い。
右手にはハンドガン。
銃を撃った感触が、まだ指へ残っている。
「私が……撃った」
『対象の攻撃能力を低下させました。継続してください』
「わかっています!」
返事をしながら。
ティーは自分の声が震えていることに気づいた。
怖い。
撃たれることも。
撃つことも。
それなのに。
身体だけは、次の動きを知っている。
男の足音。
右。
瓦礫を踏む音。
銃身が柱の外へ出る。
ティーは反対側から身を出した。
一発。
男の肩へ命中。
赤いデータが散る。
男も撃ち返す。
ティーの外套を弾丸がかすめた。
暗い布が破れ。
すぐに青い粒子が傷口を塞いでいく。
痛みはない。
だが。
衝撃はあった。
身体が横へ流れる。
仮面の男が、距離を詰めてきた。
大型の銃を振り上げる。
近すぎる。
ティーはハンドガンを引き。
左腰からナイフを抜いた。
銃身とナイフがぶつかる。
青い線と赤黒い線が、一瞬だけ火花のように弾けた。
力では勝てない。
ティーは正面から押し返さなかった。
刃を滑らせ。
銃身の向きを外へ流す。
空いた脇へ、一歩入る。
ナイフを振る。
男の上着が裂けた。
身体ではない。
上着の下を覆っていた、赤黒い補強データだけが切断される。
「普通の武器じゃないのか!」
男が後ろへ下がった。
ティーにも、それは初めてわかった。
ハンドガンも。
ナイフも。
アバターの身体を直接壊すためだけの装備ではない。
対象がまとっている、不正なデータへ干渉している。
「私も、今知りました」
「ふざけるな!」
男は左手を壁へ向けた。
赤い線が強く光る。
天井の一部が破壊され。
大量のガラス片が降ってきた。
ティーは拘束されている女性の前へ移動する。
外套と左腕で顔を守った。
ガラス片は身体へ触れる直前。
任務装備の表面で青い粒子となって消えていく。
その間に。
仮面の男は背後の通路へ逃げていた。
「待って!」
追いかけようとする。
だが。
床の一部が、突然崩れた。
ティーの足元が消える。
身体が下へ落ちた。
割れたガラス。
折れた金属。
暗い吹き抜け。
猫の耳へ、風の音が強く響く。
下には二階の通路。
落下しながら。
上階の縁から、仮面の男が銃を向けているのが見えた。
黄色い瞳が、銃口の線を捉える。
ティーは空中で身体をひねった。
一発。
男の銃が光る。
弾丸が頬の横を通過した。
ティーも。
下からハンドガンを向ける。
引き金。
青白い弾丸が、男の胸元へ命中した。
赤黒い線が大きく砕ける。
仮面の男が後方へ倒れた。
次の瞬間。
ティーの身体が二階の通路へ落ちる。
肩から床へ入り。
勢いのまま転がった。
強い衝撃。
視界が揺れる。
それでも。
身体は止まらずに起き上がった。
痛みは遅れて来ない。
代わりに、アバターの耐久値を示す黄色い警告が一瞬だけ浮かんだ。
<DAMAGE:MINOR>
「今ので軽微なんですか……」
自分でも信じられなかった。
上階から。
男が走る音が聞こえる。
逃げている。
ティーは左手を前へ出した。
クライアントユニットを展開する。
落下で散ったガラスの中へ。
青く透明なキーボードが形成された。
白いキーが一つずつ並び。
上空へ警告が開く。
<TARGET ESCAPE ROUTE DETECTED>
<TRANSFER ATTEMPT>
男は転送で逃げようとしている。
「止めるには?」
『対象へマーキングが成立しています。転送制限命令を実行してください』
上空へ、短い入力列が表示された。
ティーは片膝をついたまま。
左手でクライアントユニットを支える必要もなく。
両手を白いキーへ置いた。
指が動く。
一文字。
次。
さらに次。
撃ち合いの直後とは思えないほど。
入力だけは正確だった。
最後の入力キー。
<TRANSFER LOCK>
クライアントユニットの基部から青い光が床へ走る。
壁を上り。
建物全体へ広がっていく。
上階で。
何かが砕ける音がした。
「どうして開かない!」
仮面の男の声。
転送に失敗したらしい。
ティーは端末を収納し。
ハンドガンを握り直した。
「私にも、わかりません」
本当だった。
自分が何をしているのか。
正確には、何も理解できていない。
表示された命令を入力しただけ。
それでも。
結果だけは、確実に起きている。
壁の一部が破壊され。
二つの店舗をつなぐように、無理やり通路が作られている。
その先。
閉鎖された広いイベントスペースへ、一人の男が立っていた。
黒い仮面。
長い上着。
右手には、大型の銃。
背中からは、赤黒い線が何本も伸びている。
壁。
床。
天井。
施設の認証へ食い込み。
空間全体を、自分の個人領域のように上書きしていた。
男の近くには、もう一人いる。
床へ座り込んだ女性のアバター。
半透明の赤い枠が身体を囲み、両腕と足の動きを制限している。
頭上の表示も。
メニューを開くための動作も、封じられていた。
「……助けて」
ティーを見つけた女性が、小さく声を出した。
仮面の男が振り返る。
「誰だ、お前」
黄色い視界に。
男の頭上へ赤い表示が浮かんだ。
<TARGET:K-91F>
<MATCH:100%>
間違いない。
任務の対象だ。
ティーはハンドガンを下へ向けたまま、男と距離を取って立った。
「その人を解放してください」
「管理の奴か?」
男は、ティーの顔を見た。
仮面の奥で、目が細くなる。
「いや……違うな」
視線が、黄色く光る瞳へ移る。
次に。
ティーの左手へ。
今は収納されているクライアントユニットの存在を、何かの方法で感じ取ったらしい。
男の声から、わずかに余裕が消えた。
「お前、その目……」
「もう一度言います」
ティーは相手の言葉を遮った。
「拘束を解除してください。抵抗しなければ、攻撃はしません」
「何も知らされてないのか?」
男が笑った。
乾いた。
人を見下すような笑いだった。
「その格好で。その目で。その端末を持たされて。自分が何かも知らない顔をしてる」
ティーの指が、わずかに動いた。
「あなたは、私を知っているんですか」
『対象との会話を継続しないでください』
耳元へ男の声が割り込む。
だが。
ティーは動かなかった。
目の前の対象は。
通話相手が隠している何かを知っている。
少なくとも。
そう思わせる言葉を使っている。
「その端末について、何を知っているんですか」
「聞きたいか?」
仮面の男が、大型の銃を少し持ち上げた。
「なら、そいつを捨てろ。こっちへ来い。お前につけられた首輪の外し方を――」
男の銃口が。
拘束されている女性へ向いた。
言葉と動きが、まるで合っていなかった。
ティーの黄色い瞳には。
引き金へかかる指の動きまで、はっきり見えた。
「伏せて!」
拘束された女性は動けない。
ティーが先に引き金を引いた。
初めての銃声。
狭い空間へ、乾いた音が響く。
青白い光をまとった弾丸が、仮面の男の右腕へ命中した。
血は出ない。
代わりに。
腕を覆っていた赤黒いデータが、砕けたガラスのように飛び散った。
男の銃口が逸れる。
直後。
轟音。
男が撃った弾は、女性ではなく隣の壁を破壊した。
「この……!」
仮面の男がティーへ銃口を向ける。
ティーは考えるより先に、横へ走っていた。
銃声。
床が弾ける。
二発目。
展示用の柱が砕けた。
ティーは柱の陰へ滑り込む。
息が速い。
右手にはハンドガン。
銃を撃った感触が、まだ指へ残っている。
「私が……撃った」
『対象の攻撃能力を低下させました。継続してください』
「わかっています!」
返事をしながら。
ティーは自分の声が震えていることに気づいた。
怖い。
撃たれることも。
撃つことも。
それなのに。
身体だけは、次の動きを知っている。
男の足音。
右。
瓦礫を踏む音。
銃身が柱の外へ出る。
ティーは反対側から身を出した。
一発。
男の肩へ命中。
赤いデータが散る。
男も撃ち返す。
ティーの外套を弾丸がかすめた。
暗い布が破れ。
すぐに青い粒子が傷口を塞いでいく。
痛みはない。
だが。
衝撃はあった。
身体が横へ流れる。
仮面の男が、距離を詰めてきた。
大型の銃を振り上げる。
近すぎる。
ティーはハンドガンを引き。
左腰からナイフを抜いた。
銃身とナイフがぶつかる。
青い線と赤黒い線が、一瞬だけ火花のように弾けた。
力では勝てない。
ティーは正面から押し返さなかった。
刃を滑らせ。
銃身の向きを外へ流す。
空いた脇へ、一歩入る。
ナイフを振る。
男の上着が裂けた。
身体ではない。
上着の下を覆っていた、赤黒い補強データだけが切断される。
「普通の武器じゃないのか!」
男が後ろへ下がった。
ティーにも、それは初めてわかった。
ハンドガンも。
ナイフも。
アバターの身体を直接壊すためだけの装備ではない。
対象がまとっている、不正なデータへ干渉している。
「私も、今知りました」
「ふざけるな!」
男は左手を壁へ向けた。
赤い線が強く光る。
天井の一部が破壊され。
大量のガラス片が降ってきた。
ティーは拘束されている女性の前へ移動する。
外套と左腕で顔を守った。
ガラス片は身体へ触れる直前。
任務装備の表面で青い粒子となって消えていく。
その間に。
仮面の男は背後の通路へ逃げていた。
「待って!」
追いかけようとする。
だが。
床の一部が、突然崩れた。
ティーの足元が消える。
身体が下へ落ちた。
割れたガラス。
折れた金属。
暗い吹き抜け。
猫の耳へ、風の音が強く響く。
下には二階の通路。
落下しながら。
上階の縁から、仮面の男が銃を向けているのが見えた。
黄色い瞳が、銃口の線を捉える。
ティーは空中で身体をひねった。
一発。
男の銃が光る。
弾丸が頬の横を通過した。
ティーも。
下からハンドガンを向ける。
引き金。
青白い弾丸が、男の胸元へ命中した。
赤黒い線が大きく砕ける。
仮面の男が後方へ倒れた。
次の瞬間。
ティーの身体が二階の通路へ落ちる。
肩から床へ入り。
勢いのまま転がった。
強い衝撃。
視界が揺れる。
それでも。
身体は止まらずに起き上がった。
痛みは遅れて来ない。
代わりに、アバターの耐久値を示す黄色い警告が一瞬だけ浮かんだ。
<DAMAGE:MINOR>
「今ので軽微なんですか……」
自分でも信じられなかった。
上階から。
男が走る音が聞こえる。
逃げている。
ティーは左手を前へ出した。
クライアントユニットを展開する。
落下で散ったガラスの中へ。
青く透明なキーボードが形成された。
白いキーが一つずつ並び。
上空へ警告が開く。
<TARGET ESCAPE ROUTE DETECTED>
<TRANSFER ATTEMPT>
男は転送で逃げようとしている。
「止めるには?」
『対象へマーキングが成立しています。転送制限命令を実行してください』
上空へ、短い入力列が表示された。
ティーは片膝をついたまま。
左手でクライアントユニットを支える必要もなく。
両手を白いキーへ置いた。
指が動く。
一文字。
次。
さらに次。
撃ち合いの直後とは思えないほど。
入力だけは正確だった。
最後の入力キー。
<TRANSFER LOCK>
クライアントユニットの基部から青い光が床へ走る。
壁を上り。
建物全体へ広がっていく。
上階で。
何かが砕ける音がした。
「どうして開かない!」
仮面の男の声。
転送に失敗したらしい。
ティーは端末を収納し。
ハンドガンを握り直した。
「私にも、わかりません」
本当だった。
自分が何をしているのか。
正確には、何も理解できていない。
表示された命令を入力しただけ。
それでも。
結果だけは、確実に起きている。
排除
三階へ戻ると。
仮面の男は、転送門の残骸の前に立っていた。
赤黒い線は大半が失われている。
大型の銃も。
先ほどまでより輪郭が薄くなっていた。
それでも。
拘束されている女性へつながる線は残っている。
「その人を解放してください」
ティーはハンドガンを向けた。
今度は。
銃口が震えていなかった。
男が、仮面の奥からティーを睨む。
「お前、自分が何をしてるのかわかってるのか」
「わかっていません」
ティーは正直に答えた。
「でも、あなたがその人を閉じ込めていることはわかります」
「そいつが勝手に入ってきたんだ」
「ログアウトを封じる理由にはなりません」
「お前だって封じられてるんだろ?」
心臓が。
一度だけ、強く動いたような気がした。
「その目を見ればわかる」
男は続ける。
「その端末を持たされてる奴が、自由なわけない。仕事が終わったら解放されるとでも言われたか?」
ティーは答えなかった。
男の言葉は。
通話相手から聞かされたものと、不気味なほど重なっている。
「俺を消したところで、次が来るだけだ」
「次?」
「お前に、次の仕事が来る」
男は笑った。
「その次も。その次もだ。お前は――」
拘束されていた女性が、苦しそうに息を吐いた。
赤い枠が強く光っている。
男が。
拘束へ力を加えた。
ティーの黄色い視界に、警告が広がる。
<VICTIM ACCESS:CRITICAL>
「やめてください」
「銃を捨てろ」
「先に、その人を解放してください」
「立場がわかってないな」
男が左手を握る。
赤い拘束が、さらに狭くなった。
女性のアバターが歪み。
声にならない息が漏れる。
ティーは引き金を引いた。
一発。
仮面の男の左腕。
二発目。
肩。
赤い線が砕ける。
拘束が一瞬だけ弱まった。
男が銃を上げる。
ティーは正面へ走った。
銃声。
肩をかすめる。
もう一発。
足元。
止まらない。
ハンドガンを右へ外し。
左手でナイフを抜いた。
男の大型銃が振り下ろされる。
身体を沈め。
その下へ入る。
ナイフを横へ。
最後まで残っていた赤黒い線を切断した。
拘束されていた女性を囲む枠が。
青い粒子となって消えた。
男がティーを蹴り離そうとする。
ティーは後ろへ転がり。
片膝をつく。
ハンドガンを構えた。
男の胸元へ。
赤い表示が重なる。
<TARGET CONDITION:EXPOSED>
引き金。
青白い光。
弾丸が胸元へ命中した。
男の身体を覆っていた不正なデータが、すべて砕け散った。
仮面も。
大型銃も。
赤い線も消える。
残ったのは。
普通の利用者と変わらない一人の男のアバターだった。
両膝をつき。
自分の手を見ている。
「……やめろ」
クライアントユニットが、自動的にティーの前へ展開された。
青い透明な基部。
白い立体キー。
上空へ、最終確認が表示される。
<TARGET AUTHORITY DISABLED>
<FINAL PROCESS AVAILABLE>
<REMOVE TARGET SESSION?>
<YES/NO>
ティーの手は、キーの上で止まった。
男は動けない。
武器もない。
不正な拘束も解除されている。
ここで処理を実行する必要があるのか。
「抵抗は終わりました」
ティーは通話相手へ言った。
『対象の不正権限は停止しています。セッション排除を実行してください』
「今は、何もできない状態です」
『標準処理が再び回避される可能性があります』
「本人が、もうしないと言えば?」
仮面を失った男が顔を上げる。
「しない」
すぐに答えた。
あまりにも早い。
「もう何もしない。ここから出る。だから、それを押すな」
拘束されていた女性が、自由になった腕を抱えながら立ち上がった。
「嘘……」
かすれた声。
「前にも、そう言っていました」
ティーが振り返る。
女性は怯えながらも、男を見ていた。
「警告が来るたびに、もうやめるって。でも、解除されるとまた来て……私だけじゃない。ほかの人も」
男の表情が変わる。
「黙れ!」
動けないはずの身体を、女性へ向けようとした。
クライアントユニットの表示が赤く点滅する。
<RESISTANCE DETECTED>
<RECOVERY ATTEMPT>
砕けたはずの赤黒い線が。
男の足元に、再び細く現れ始めた。
ティーは男を見た。
最後まで。
止めるつもりはなかった。
解除されたから。
できなくなったから。
言葉を変えただけだ。
「実行したら、どうなるんですか」
ティーは低い声で尋ねた。
『対象の接続を強制終了し、再接続制限を適用します』
「期間は?」
『違反記録の審査完了まで』
「現実へ戻るだけなんですね」
『はい』
男が声を荒らげる。
「そいつらの言葉を信じるのか!」
ティーはクライアントユニットへ両手を置いた。
「あなたのことも、信じていません」
「なら――」
「でも」
ティーは黄色い瞳で、男を見た。
「少なくとも、あなたがこの人を閉じ込めていたところは、自分の目で見ました」
YESのキーが、白く光っている。
ティーは指を伸ばした。
「私は、何もわかっていません」
一度押す。
「だから」
中央の入力キーへ、手を移す。
「自分で見たことを信じます」
入力。
乾いた音。
<REMOVE EXECUTED>
クライアントユニットから、青い光が放たれた。
男の足元へ、円形の線が広がる。
身体が、下から細かな四角形へ分解されていった。
「待て!」
男が手を伸ばす。
「お前も、いつか――」
最後の言葉は途切れた。
男のアバターは青い粒子となり。
閉鎖区画から完全に消えた。
<TARGET SESSION:TERMINATED>
<SERVER ACCESS:SUSPENDED>
<MISSION COMPLETE>
イベントスペースが。
急に静かになった。
残っているのは。
ティー。
解放された女性。
そして。
青く光るクライアントユニットだけだった。
仮面の男は、転送門の残骸の前に立っていた。
赤黒い線は大半が失われている。
大型の銃も。
先ほどまでより輪郭が薄くなっていた。
それでも。
拘束されている女性へつながる線は残っている。
「その人を解放してください」
ティーはハンドガンを向けた。
今度は。
銃口が震えていなかった。
男が、仮面の奥からティーを睨む。
「お前、自分が何をしてるのかわかってるのか」
「わかっていません」
ティーは正直に答えた。
「でも、あなたがその人を閉じ込めていることはわかります」
「そいつが勝手に入ってきたんだ」
「ログアウトを封じる理由にはなりません」
「お前だって封じられてるんだろ?」
心臓が。
一度だけ、強く動いたような気がした。
「その目を見ればわかる」
男は続ける。
「その端末を持たされてる奴が、自由なわけない。仕事が終わったら解放されるとでも言われたか?」
ティーは答えなかった。
男の言葉は。
通話相手から聞かされたものと、不気味なほど重なっている。
「俺を消したところで、次が来るだけだ」
「次?」
「お前に、次の仕事が来る」
男は笑った。
「その次も。その次もだ。お前は――」
拘束されていた女性が、苦しそうに息を吐いた。
赤い枠が強く光っている。
男が。
拘束へ力を加えた。
ティーの黄色い視界に、警告が広がる。
<VICTIM ACCESS:CRITICAL>
「やめてください」
「銃を捨てろ」
「先に、その人を解放してください」
「立場がわかってないな」
男が左手を握る。
赤い拘束が、さらに狭くなった。
女性のアバターが歪み。
声にならない息が漏れる。
ティーは引き金を引いた。
一発。
仮面の男の左腕。
二発目。
肩。
赤い線が砕ける。
拘束が一瞬だけ弱まった。
男が銃を上げる。
ティーは正面へ走った。
銃声。
肩をかすめる。
もう一発。
足元。
止まらない。
ハンドガンを右へ外し。
左手でナイフを抜いた。
男の大型銃が振り下ろされる。
身体を沈め。
その下へ入る。
ナイフを横へ。
最後まで残っていた赤黒い線を切断した。
拘束されていた女性を囲む枠が。
青い粒子となって消えた。
男がティーを蹴り離そうとする。
ティーは後ろへ転がり。
片膝をつく。
ハンドガンを構えた。
男の胸元へ。
赤い表示が重なる。
<TARGET CONDITION:EXPOSED>
引き金。
青白い光。
弾丸が胸元へ命中した。
男の身体を覆っていた不正なデータが、すべて砕け散った。
仮面も。
大型銃も。
赤い線も消える。
残ったのは。
普通の利用者と変わらない一人の男のアバターだった。
両膝をつき。
自分の手を見ている。
「……やめろ」
クライアントユニットが、自動的にティーの前へ展開された。
青い透明な基部。
白い立体キー。
上空へ、最終確認が表示される。
<TARGET AUTHORITY DISABLED>
<FINAL PROCESS AVAILABLE>
<REMOVE TARGET SESSION?>
<YES/NO>
ティーの手は、キーの上で止まった。
男は動けない。
武器もない。
不正な拘束も解除されている。
ここで処理を実行する必要があるのか。
「抵抗は終わりました」
ティーは通話相手へ言った。
『対象の不正権限は停止しています。セッション排除を実行してください』
「今は、何もできない状態です」
『標準処理が再び回避される可能性があります』
「本人が、もうしないと言えば?」
仮面を失った男が顔を上げる。
「しない」
すぐに答えた。
あまりにも早い。
「もう何もしない。ここから出る。だから、それを押すな」
拘束されていた女性が、自由になった腕を抱えながら立ち上がった。
「嘘……」
かすれた声。
「前にも、そう言っていました」
ティーが振り返る。
女性は怯えながらも、男を見ていた。
「警告が来るたびに、もうやめるって。でも、解除されるとまた来て……私だけじゃない。ほかの人も」
男の表情が変わる。
「黙れ!」
動けないはずの身体を、女性へ向けようとした。
クライアントユニットの表示が赤く点滅する。
<RESISTANCE DETECTED>
<RECOVERY ATTEMPT>
砕けたはずの赤黒い線が。
男の足元に、再び細く現れ始めた。
ティーは男を見た。
最後まで。
止めるつもりはなかった。
解除されたから。
できなくなったから。
言葉を変えただけだ。
「実行したら、どうなるんですか」
ティーは低い声で尋ねた。
『対象の接続を強制終了し、再接続制限を適用します』
「期間は?」
『違反記録の審査完了まで』
「現実へ戻るだけなんですね」
『はい』
男が声を荒らげる。
「そいつらの言葉を信じるのか!」
ティーはクライアントユニットへ両手を置いた。
「あなたのことも、信じていません」
「なら――」
「でも」
ティーは黄色い瞳で、男を見た。
「少なくとも、あなたがこの人を閉じ込めていたところは、自分の目で見ました」
YESのキーが、白く光っている。
ティーは指を伸ばした。
「私は、何もわかっていません」
一度押す。
「だから」
中央の入力キーへ、手を移す。
「自分で見たことを信じます」
入力。
乾いた音。
<REMOVE EXECUTED>
クライアントユニットから、青い光が放たれた。
男の足元へ、円形の線が広がる。
身体が、下から細かな四角形へ分解されていった。
「待て!」
男が手を伸ばす。
「お前も、いつか――」
最後の言葉は途切れた。
男のアバターは青い粒子となり。
閉鎖区画から完全に消えた。
<TARGET SESSION:TERMINATED>
<SERVER ACCESS:SUSPENDED>
<MISSION COMPLETE>
イベントスペースが。
急に静かになった。
残っているのは。
ティー。
解放された女性。
そして。
青く光るクライアントユニットだけだった。
初めての感謝
ティーは、しばらく動けなかった。
撃った。
切った。
強制的に、誰かの接続を終わらせた。
現実の生命は失われていない。
そう説明された。
画面にも、セッション終了と表示されている。
それでも。
自分の操作で一人の姿が消えた事実は。
簡単には受け流せなかった。
「……大丈夫ですか?」
声をかけられる。
解放された女性だった。
ティーは慌ててハンドガンを下ろし、装備領域へ戻した。
ナイフも鞘へ収める。
「私は大丈夫です」
本当かどうかは、自分でもわからない。
「あなたは?」
女性は自分のメニューを開いた。
先ほどまでは、指を動かしても何も起きなかった。
今は正常に表示されている。
「戻った……」
ログアウト。
連絡先。
緊急通報。
すべての項目が使える。
女性の肩から、力が抜けた。
「帰れます」
その一言が。
ティーの胸へ強く残った。
帰れる。
自分にはできないことを。
目の前の人は、取り戻した。
「よかった」
無意識に、言葉が出た。
女性はティーを見た。
黄色い目と。
暗い任務装備。
足元へ散らばる破壊されたデータ。
助けに来た人物としては。
あまり安心できる姿には見えないかもしれない。
それでも。
女性は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
ティーは返事ができなかった。
誰かから感謝された記憶もない。
今の自分にとっては。
それが初めて向けられた感謝だった。
「早く、ログアウトしてください」
ようやく。
それだけ答える。
「もう一度、何か起きる前に」
「はい」
女性は一度だけ迷い。
ティーへ尋ねた。
「あなたは、管理の人ですか?」
「……わかりません」
「わからない?」
「私も、今日ここへ来たばかりなので」
女性は不思議そうにした。
だが。
今は、詳しく聞く余裕もなかったのだろう。
「名前は?」
ティーは少しだけ間を置いた。
本名ではない。
誰かに与えられた、一文字。
それでも。
今の自分が答えられる名前は一つだけだった。
「ティーです」
「ティーさん」
女性は、もう一度頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
ログアウト操作。
身体が淡い光へ包まれる。
数秒後。
女性も閉鎖区画から消えた。
対象の男とは違う。
穏やかで。
自分の意思による退出だった。
ティーは、女性が立っていた場所を見つめた。
「帰れた」
小さく呟く。
彼女が動いたことで。
少なくとも一人は、出口を取り戻した。
その事実だけが。
初めての夜にしたことを、完全に間違いだと思わずにいられる理由だった。
撃った。
切った。
強制的に、誰かの接続を終わらせた。
現実の生命は失われていない。
そう説明された。
画面にも、セッション終了と表示されている。
それでも。
自分の操作で一人の姿が消えた事実は。
簡単には受け流せなかった。
「……大丈夫ですか?」
声をかけられる。
解放された女性だった。
ティーは慌ててハンドガンを下ろし、装備領域へ戻した。
ナイフも鞘へ収める。
「私は大丈夫です」
本当かどうかは、自分でもわからない。
「あなたは?」
女性は自分のメニューを開いた。
先ほどまでは、指を動かしても何も起きなかった。
今は正常に表示されている。
「戻った……」
ログアウト。
連絡先。
緊急通報。
すべての項目が使える。
女性の肩から、力が抜けた。
「帰れます」
その一言が。
ティーの胸へ強く残った。
帰れる。
自分にはできないことを。
目の前の人は、取り戻した。
「よかった」
無意識に、言葉が出た。
女性はティーを見た。
黄色い目と。
暗い任務装備。
足元へ散らばる破壊されたデータ。
助けに来た人物としては。
あまり安心できる姿には見えないかもしれない。
それでも。
女性は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
ティーは返事ができなかった。
誰かから感謝された記憶もない。
今の自分にとっては。
それが初めて向けられた感謝だった。
「早く、ログアウトしてください」
ようやく。
それだけ答える。
「もう一度、何か起きる前に」
「はい」
女性は一度だけ迷い。
ティーへ尋ねた。
「あなたは、管理の人ですか?」
「……わかりません」
「わからない?」
「私も、今日ここへ来たばかりなので」
女性は不思議そうにした。
だが。
今は、詳しく聞く余裕もなかったのだろう。
「名前は?」
ティーは少しだけ間を置いた。
本名ではない。
誰かに与えられた、一文字。
それでも。
今の自分が答えられる名前は一つだけだった。
「ティーです」
「ティーさん」
女性は、もう一度頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
ログアウト操作。
身体が淡い光へ包まれる。
数秒後。
女性も閉鎖区画から消えた。
対象の男とは違う。
穏やかで。
自分の意思による退出だった。
ティーは、女性が立っていた場所を見つめた。
「帰れた」
小さく呟く。
彼女が動いたことで。
少なくとも一人は、出口を取り戻した。
その事実だけが。
初めての夜にしたことを、完全に間違いだと思わずにいられる理由だった。
任務終了
『ミッションの完了を確認しました』
男の声が戻ってきた。
ティーはクライアントユニットの前へ立ったまま、答えなかった。
『初回任務として、問題のない結果です』
「問題がない?」
声が、少し低くなった。
「私は、自分が何をしているのかも知らないまま、人を撃ちました」
『対象の現実側生命に異常はありません』
「それだけで、問題がないことになるんですか」
『いいえ』
予想していなかった返事だった。
『強制処理は、理由なく使用してよい権限ではありません』
「では、なぜ私へ渡したんですか」
『必要な場面で使用するためです』
「私が、必要かどうかを間違えたら?」
『その可能性はあります』
男は否定しなかった。
『そのために、任務情報、現場状況、最終確認が存在します』
「最後に決めるのは、私なんですね」
『はい』
責任だけは。
誰かへ預けられない。
指示されたから。
ログアウトできないから。
ほかにすることがなかったから。
どれも。
最後の入力キーを押したのが自分であることを、消してはくれない。
ティーは自分の手を見た。
戦っていた間。
一度も迷わず動いていた手。
今は。
指先が小さく震えている。
「対象は、私のことを知っているようでした」
通話の向こうが、わずかに静かになる。
「この目も。クライアントユニットも」
『違反者が、断片的な情報を得ている可能性はあります』
「首輪と言っていました」
『対象は、あなたを動揺させようとしていました』
「それだけですか」
『現時点では、そのように判断してください』
「現時点では」
ティーは苦く繰り返した。
また。
その言葉だ。
「いつか、別の判断になるんですね」
男は答えなかった。
代わりに。
クライアントユニットへ新しい表示が現れる。
<NIGHT SHIFT:COMPLETE>
<AUTHORITY:STANDBY>
<VISUAL LINK:DEACTIVATING>
黄色い視界を覆っていた情報が、一つずつ消えていく。
壁を巡っていた線。
認証の色。
対象を示す表示。
すべてが薄れ。
閉鎖された施設は、ただ暗く壊れた建物へ戻った。
瞳の奥にあった感覚も。
少しずつ離れていく。
近くの割れたガラスへ、自分の顔が映った。
黄色く光っていた瞳が。
ゆっくりと、本来の青色へ戻っていく。
完全に青くなった瞬間。
ティーは、ようやく息を吐いた。
「戻った……」
『正常に解除されました』
「この力は、夜間任務中だけですか」
『必要時に権限が付与されます』
「私が勝手に使うことは?」
『現在はできません』
少しだけ安心し。
同時に。
誰かの許可がなければ、自分の瞳の色さえ選べないことへ気づいた。
クライアントユニットのEQUIPMENT欄も切り替わる。
<RECALL EQUIPMENT?>
ティーはYESを押した。
ハンドガン。
ナイフ。
暗い装備。
一つずつ青い粒子へ変わり、消えていく。
下から現れたのは。
夕方に目覚めた時の白い上着と、黒いボトムだった。
銀色の髪。
青い瞳。
猫の耳。
窓に映る姿だけを見れば。
先ほどまで銃撃戦をしていた少女には見えない。
『次回のミッションまでは自由行動となります』
「次回は、いつですか」
『現時点では未定です』
「毎晩ではない?」
『問題が発生した場合に通知します』
「私は、いつ呼ばれるかわからないまま待つんですね」
『はい』
ティーは、白い袖を握った。
「この世界について調べます」
『許可されています』
「あなたたちについても」
短い沈黙。
『止めません』
「なら、いつか見つけます」
何を。
とは言わなかった。
自分が誰なのか。
通話相手が誰なのか。
この仕事が何なのか。
クライアントユニットを持つ者が、自分以外にもいるのか。
すべてだ。
『帰還指示はありません。任意に行動してください』
「帰還という言葉を、簡単に使わないでください」
ティーは静かに言った。
「私には、帰れる場所がまだないので」
通話の向こうから。
返事はなかった。
数秒後。
終了音。
<DIRECT CALL/END>
ティーは閉鎖区画に一人残された。
けれど。
目覚めた直後とは、少し違う。
自分の名前はわからない。
過去もない。
出口もない。
それでも。
今夜。
自分で選んで助けた人がいる。
完全に何も持っていないわけではなくなった。
男の声が戻ってきた。
ティーはクライアントユニットの前へ立ったまま、答えなかった。
『初回任務として、問題のない結果です』
「問題がない?」
声が、少し低くなった。
「私は、自分が何をしているのかも知らないまま、人を撃ちました」
『対象の現実側生命に異常はありません』
「それだけで、問題がないことになるんですか」
『いいえ』
予想していなかった返事だった。
『強制処理は、理由なく使用してよい権限ではありません』
「では、なぜ私へ渡したんですか」
『必要な場面で使用するためです』
「私が、必要かどうかを間違えたら?」
『その可能性はあります』
男は否定しなかった。
『そのために、任務情報、現場状況、最終確認が存在します』
「最後に決めるのは、私なんですね」
『はい』
責任だけは。
誰かへ預けられない。
指示されたから。
ログアウトできないから。
ほかにすることがなかったから。
どれも。
最後の入力キーを押したのが自分であることを、消してはくれない。
ティーは自分の手を見た。
戦っていた間。
一度も迷わず動いていた手。
今は。
指先が小さく震えている。
「対象は、私のことを知っているようでした」
通話の向こうが、わずかに静かになる。
「この目も。クライアントユニットも」
『違反者が、断片的な情報を得ている可能性はあります』
「首輪と言っていました」
『対象は、あなたを動揺させようとしていました』
「それだけですか」
『現時点では、そのように判断してください』
「現時点では」
ティーは苦く繰り返した。
また。
その言葉だ。
「いつか、別の判断になるんですね」
男は答えなかった。
代わりに。
クライアントユニットへ新しい表示が現れる。
<NIGHT SHIFT:COMPLETE>
<AUTHORITY:STANDBY>
<VISUAL LINK:DEACTIVATING>
黄色い視界を覆っていた情報が、一つずつ消えていく。
壁を巡っていた線。
認証の色。
対象を示す表示。
すべてが薄れ。
閉鎖された施設は、ただ暗く壊れた建物へ戻った。
瞳の奥にあった感覚も。
少しずつ離れていく。
近くの割れたガラスへ、自分の顔が映った。
黄色く光っていた瞳が。
ゆっくりと、本来の青色へ戻っていく。
完全に青くなった瞬間。
ティーは、ようやく息を吐いた。
「戻った……」
『正常に解除されました』
「この力は、夜間任務中だけですか」
『必要時に権限が付与されます』
「私が勝手に使うことは?」
『現在はできません』
少しだけ安心し。
同時に。
誰かの許可がなければ、自分の瞳の色さえ選べないことへ気づいた。
クライアントユニットのEQUIPMENT欄も切り替わる。
<RECALL EQUIPMENT?>
ティーはYESを押した。
ハンドガン。
ナイフ。
暗い装備。
一つずつ青い粒子へ変わり、消えていく。
下から現れたのは。
夕方に目覚めた時の白い上着と、黒いボトムだった。
銀色の髪。
青い瞳。
猫の耳。
窓に映る姿だけを見れば。
先ほどまで銃撃戦をしていた少女には見えない。
『次回のミッションまでは自由行動となります』
「次回は、いつですか」
『現時点では未定です』
「毎晩ではない?」
『問題が発生した場合に通知します』
「私は、いつ呼ばれるかわからないまま待つんですね」
『はい』
ティーは、白い袖を握った。
「この世界について調べます」
『許可されています』
「あなたたちについても」
短い沈黙。
『止めません』
「なら、いつか見つけます」
何を。
とは言わなかった。
自分が誰なのか。
通話相手が誰なのか。
この仕事が何なのか。
クライアントユニットを持つ者が、自分以外にもいるのか。
すべてだ。
『帰還指示はありません。任意に行動してください』
「帰還という言葉を、簡単に使わないでください」
ティーは静かに言った。
「私には、帰れる場所がまだないので」
通話の向こうから。
返事はなかった。
数秒後。
終了音。
<DIRECT CALL/END>
ティーは閉鎖区画に一人残された。
けれど。
目覚めた直後とは、少し違う。
自分の名前はわからない。
過去もない。
出口もない。
それでも。
今夜。
自分で選んで助けた人がいる。
完全に何も持っていないわけではなくなった。
夜明け前
住宅区の部屋へ戻った時。
時刻は午前四時を過ぎていた。
ティーは扉を閉じ。
何もない部屋の中央で、しばらく立ち尽くした。
誰もいない。
危険もない。
通話も終わっている。
その瞬間。
全身から力が抜けた。
ベッドの端へ座り込む。
右手を見る。
撃った時の反動は、もう残っていない。
左手を見る。
ナイフの感触も消えている。
だが。
指先の震えだけは止まらなかった。
「怖かった」
声に出す。
戦っている間は、言えなかった。
走り。
避け。
撃ち。
入力した。
身体が知っていることへ従って動いていた。
今になってようやく。
感情だけが追いついてきた。
「何なの、私は……」
答える者はいない。
ティーは左手を前へ出した。
クライアントユニットを展開する。
青く透き通った基部。
白い立体キー。
星のような光の粒。
美しい端末だった。
その中に。
今夜の記録が保存されている。
<MISSION T-0001>
<RESULT:COMPLETE>
<TARGET:REMOVED>
<VICTIM:RELEASED>
最後の一行を見つめる。
<VICTIM:RELEASED>
対象を排除したことよりも。
誰かが帰れたこと。
ティーは、その文字を何度も読み返した。
やがて。
窓の外が、少しずつ明るくなり始める。
夜の青が薄れ。
建物の向こうから、朝の光が差し込んだ。
クライアントユニットの青い光も。
朝の中では、少し弱く見える。
ティーは端末を収納した。
白いキーが光の粒へ変わる。
透明な基部も輪郭を失い。
部屋から消えた。
窓の前へ立つ。
ガラスに映っているのは。
白い服。
銀色の髪。
青い瞳。
猫の耳を持つ少女。
夜の街で。
黄色い目を光らせていた人物と。
同じ利用者には見えない。
「夜のミッションさえ終えれば、自由」
男の言葉を思い出した。
次の夜まで。
誰からも指示されない。
何をしてもいい。
何を調べてもいい。
なら。
この時間を使う。
だんのこまちを知る。
クライアントユニットを知る。
夜の仕事を知る。
そして。
Tという一文字になる前の自分を探す。
ティーは部屋の扉へ向かった。
徹夜をしているはずなのに。
眠気はほとんど感じない。
これもバーチャル世界の身体だからなのか。
それとも、自分に何か理由があるのか。
今はわからない。
部屋を出ると。
住宅区には、朝の静かな光が広がっていた。
通勤する人。
散歩する人。
早朝から店を開く人。
誰も。
ティーが夜に何をしていたのか知らない。
白い服を着た。
青い目の猫耳の少女。
街を歩く人々にとっては。
ただ、それだけの存在だった。
ティーは初めて。
自分から目的地を選ぶために、街の地図を開いた。
昨夜とは違う一日が。
始まろうとしていた。
時刻は午前四時を過ぎていた。
ティーは扉を閉じ。
何もない部屋の中央で、しばらく立ち尽くした。
誰もいない。
危険もない。
通話も終わっている。
その瞬間。
全身から力が抜けた。
ベッドの端へ座り込む。
右手を見る。
撃った時の反動は、もう残っていない。
左手を見る。
ナイフの感触も消えている。
だが。
指先の震えだけは止まらなかった。
「怖かった」
声に出す。
戦っている間は、言えなかった。
走り。
避け。
撃ち。
入力した。
身体が知っていることへ従って動いていた。
今になってようやく。
感情だけが追いついてきた。
「何なの、私は……」
答える者はいない。
ティーは左手を前へ出した。
クライアントユニットを展開する。
青く透き通った基部。
白い立体キー。
星のような光の粒。
美しい端末だった。
その中に。
今夜の記録が保存されている。
<MISSION T-0001>
<RESULT:COMPLETE>
<TARGET:REMOVED>
<VICTIM:RELEASED>
最後の一行を見つめる。
<VICTIM:RELEASED>
対象を排除したことよりも。
誰かが帰れたこと。
ティーは、その文字を何度も読み返した。
やがて。
窓の外が、少しずつ明るくなり始める。
夜の青が薄れ。
建物の向こうから、朝の光が差し込んだ。
クライアントユニットの青い光も。
朝の中では、少し弱く見える。
ティーは端末を収納した。
白いキーが光の粒へ変わる。
透明な基部も輪郭を失い。
部屋から消えた。
窓の前へ立つ。
ガラスに映っているのは。
白い服。
銀色の髪。
青い瞳。
猫の耳を持つ少女。
夜の街で。
黄色い目を光らせていた人物と。
同じ利用者には見えない。
「夜のミッションさえ終えれば、自由」
男の言葉を思い出した。
次の夜まで。
誰からも指示されない。
何をしてもいい。
何を調べてもいい。
なら。
この時間を使う。
だんのこまちを知る。
クライアントユニットを知る。
夜の仕事を知る。
そして。
Tという一文字になる前の自分を探す。
ティーは部屋の扉へ向かった。
徹夜をしているはずなのに。
眠気はほとんど感じない。
これもバーチャル世界の身体だからなのか。
それとも、自分に何か理由があるのか。
今はわからない。
部屋を出ると。
住宅区には、朝の静かな光が広がっていた。
通勤する人。
散歩する人。
早朝から店を開く人。
誰も。
ティーが夜に何をしていたのか知らない。
白い服を着た。
青い目の猫耳の少女。
街を歩く人々にとっては。
ただ、それだけの存在だった。
ティーは初めて。
自分から目的地を選ぶために、街の地図を開いた。
昨夜とは違う一日が。
始まろうとしていた。