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烏
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烏
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)文《ぶん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)供|騙《だま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「おい、お文《ぶん》、起きねえか」
「……うるさいわよ」
「起きねえか、もう夜が明けたぞ」
「お黙り、勘太」
お文は粗朶《そだ》を折って切炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、振返って叱りつけた。
「おまえお馬鹿さんよ、まだ日が暮れたばかりじゃないの。町へ行ったお父《と》っさんだって帰って来ないし、……おまえ鳥のくせに昼間と夜の区別もつかないのね」
「くうくうくう、かっ」
柱の止木にいた烏の勘太は、お文に叱られたのが恥ずかしいとでもいうように、ひょいと身をすくめながら畳の上へ飛びおりた。
外は雪である。
時おり、樹の枝から雪塊《ゆきくれ》の落ちる音が、ぱさっ、ぱさっと聞える他には、ひっそりとして物音もない静けさだ。
お文は十七になる。……父親の太兵衛は猟人《かりゅうど》で、「野猪《のじし》の太兵衛」と云えばこの附近で知らぬ者はない、猪狩りの名人であると共に、乱暴で強情で、いちど暴れだしたら手がつけられない男だった。けれど娘のお文にだけは、荒い声もかけられぬ優しい父で、どんなに乱暴をしているときでも、お文の顔を見ると仔猫《こねこ》のように温和《おとな》しくなるのが例であった。
此処は美作《みまさか》ノ国津山の城下から、三里ほど北へ入った鷲尾山《わしおやま》の中腹で、昼でも人の通ることなどは稀《まれ》にしかない、まして冬のあいだは雪に埋れて、十日も二十日も人の声を聞かずに過すことが珍しくなかった。……お文は此処で生まれ、此処で育って来たのだけれど、感じ易い乙女心に変りはなく、独りで留守をする晩などはしみいるような淋しさに襲われる、……そんなとき、少しでも慰め相手になるようにと、去年の夏太兵衛は一羽の子烏を拾って来て与えた。
まだ巣立ったばかりの雛《ひな》であったが、お文は直ぐに「勘太《かんた》」という名をつけ、片時も肌《はだ》から離さぬように可愛がって育てた。……勘太もよくお文に懐《なつ》いた、まるで赤子が母親のふところを慕うように、どんなときでもお文の側から離れない、殊に此頃は人の言葉をよく真似るようになって、ふと太兵衛の口真似などをしては、お文を笑わせるのであった。
「……お父《と》っさんのおそいこと……」
お文は炉に懸けた芋粥《いにがゆ》鍋の蓋を直しながらふと呟《つぶや》いた。……獲物《えもの》を町へ売りに行ったまま、もう七時を過ぎたのにまだ太兵衛は帰って来ない、
「なにか間違いでもあったのじゃないかしら」
そう呟いたとき不意に、
がらがらッ、どしん。という烈しい物音が台所で起った。……お文は勘太が悪戯《いたずら》をしたものと思って、
「まあ、嫌よ勘太、またなにかお悪戯《いた》ね」
と云いながら立って障子を明けた。見ると木口の戸が開いて、雪まみれになった少年が一人、のめり込んだ姿のまま倒れている、お文は恟《ぎょっ》として立竦《たちすく》んだが、是はきっと道に迷って来たのだと思い、急いで側へ寄りながら、
「あなたどうなさいました」
と肩へ手をかけて云った。
少年は顔をあげた、色の白い頬が緋牡丹の花を散らしたように血に塗《まみ》れていた。……お文が思わず震えながら身を退くと、少年はその裾《すそ》へ縋《すが》りつくようにして、
「お願いです、暫く匿《かくま》って下さい」
と嗄《しゃが》れた声で云った、「私は悪者ではありません、けれども訳があって追われているんです、どうか暫くのあいだ隠れさせて下さい」
お文は少年の眼を見た。
いい眼である、勘太が餌《え》をねだって身をすり寄せるときのような、濁りのない、青みのさした美しい眸《ひとみ》だった。
「……さあお立ちなさい」
「隠して呉れますか」
「大丈夫きっと匿ってあげます」
「有難う、恩に着ます」
少年は感謝の籠《こも》った眼でお文を見上げた。
手を貸して援《たす》け起してみると、少年は右の高腿《たかもも》にも刀傷を受けていた。……抱えるようにして炉端へ連れて行ったお文は、父親が猟に出るとき持って行く薬箱を取出し、馴《な》れた手つきで直ぐに傷の手当をした。
「こんなひどい怪我《けが》をしていて、よく此処まで来られましたのね」
「なにをこんな傷ぐらい」少年は薬がしみるので眉をしかめながら、けれど元気な声で云った。
「天子さまのために、少しでもお役に立つと思えば、足の一本や片腕ぐらい取られたって平気ですよ」
「まあ、……ではあなたは」
「ええ私は天朝さまのために働いているんです」
少年は昂然《こうぜん》と額をあげて云った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「津山藩がどう動くか、禁裏さまへお味方をするか幕府へ付くか、その様子をさぐるために来たんです。……お姉さんは勤王《きんのう》方でしょう」
「ええ。ええ。そうよ」
「そうだと思った。さっき姉さんの顔を見たとき直ぐに、きっと天子さまのお味方だと思いましたよ」
「あなたは幾つになるの」お文は少年に瞶《みつ》められるのが苦しそうに、睫《まつげ》のながい眼を伏せながら訊《き》いた。
「私は十五です、名は梶金之助」
「……金之助さん」
「京都の土佐屋敷にいる足軽の子です」
「十五くらいの年でよくそんなお役に立つことができるわね、やっぱりお侍さまの子だわ」
「侍の子でなくったって」
金之助は肩をあげながら「……誰だって今はお国のために働くべき時ですよ、私たちの友達もみんな働いてます。女だって年寄だって、みんな起ちあがってお国のためにお役に立つべき時なんです。……もう直ぐだ、幕府を倒して、もう直ぐ天子さまの日本になるんだ、もう直ぐ新しい日本の陽がさしてくるんですよ」
そう云って少年は固く唇をひき結んだ。
津山藩の松平慶倫は徳川親藩の一人であったから、領民たちの多くは幕府の恩顧を重んじ、勤王の正しいことを解しない者が多数を占めていた。……殊にお文は、父親の太兵衛が日頃から歌を唄うように、将軍さま将軍さまと云うのを知っているので、父が帰って来て若し金之助の正体が分ったらと思うと、考えただけでも胸の震える感じだった。
「……ねえ金之助さま」
お文はようやく傷の手当を終りながら、
「あたしには、あなたが立派なお役に立っている人だということが分るけれど、此処は徳川の御親藩でしょう、だから世の中のことをよく知らない人たちは、あなたの立派なお役目が分らないと思うの、殊にこんな山の中に暮している者は、御領主さまの他に偉い人はないと思っているんですから。……若し父が帰って来ても今のお話は内緒《ないしょ》にしていて下さいましね、でないとどんな間違いが起るかも知れませんから」
「知ってます、私だってこんなことを人の見境《みさかい》もなく云いはしません、お姉さまなら……よく分って下さると思ったから」
「お文、帰ったぞ、帰ったぞ、お文」
いきなり勘太が叫びだしたので、思わず二人は恟《ぎょっ》として振返った。
……その驚いた様子が面白いとでもいうように、勘太は隅の方でばたばたと羽搏《はばた》きをしながら、
「くうくう、くう、かっ、かっ」
と喉《のど》を鳴らした。
「馬鹿ねえ、吃驚するじゃないの勘太」
「いまのは……あの鳥ですか」
「ええそう、よく人声を真似るでしょう、あたしが馴らしましたの。……助太、納戸へ入っておいで、おまえお客さまに失礼よ!」
そう云っているとき、此家の表へ人の近づく気配がして、
「お文、帰ったぞ」
と呼ぶ声がした。……いま勘太が真似たのとそっくりの声である。
「大丈夫、お父さんですわ」
お文が金之助に云って立ちあがると、雨戸を明けて、雪まみれになった太兵衛が入って来た。お文は急いで簑笠《みのかさ》を脱ぐ手伝いをしながら、「お父っさん、お客さまがあるのよ」
「誰だ、……見馴《みな》れねえ人だが」
「院ノ庄の武家屋敷へ御奉公していた人よ、国許からお母さんが急病だという知らせが来たのに、お屋敷ではお暇を呉れないのですって、それで逃げだして来たのだけれど、……途中で転んで足に怪我《けが》をなすったのよ」
「それはお気の毒な、……傷は重いのか」
「いまお手当をしてあげたわ、今夜ひと晩泊めてあげたいのですけど、いいわね」
「そんなこたあ訊くまでもねえ」
「それに、……そのお屋敷から追手が掛っているのよ。いいえ、なにも悪いことをした訳じゃないの、約束の年期が切れないのに逃げだしたっていうので、それで追手を寄越したんですって」
「そんな無道理なお屋敷が今でもあるのかなあ、お侍の家風もだんだん悪くなる許《ばか》りだ。……湯をとって呉んな」
「はい唯今。……お父っさん、その追手が来たら匿ってあげて下さいましね」
「いいとも、おら[#「おら」に傍点]に任せて置け」お文が洗足盥《せんそくだらい》へ湯を汲んで来たとき、……坂を登って来る四五人の人声が聞えた。
「あ! 追手だわ」お文は盥を其処へ置くと、
「金之助さま、早く」「お文、納戸へ入れてあげろ、空き葛籠《つづら》の中へ入って、壁にある熊の皮を上から……」
「ええ分ったわ」
上へ駈《か》けあがったお文は、金之助を援け起して納戸へ入って行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「明けろ、明けろ」
雨戸を叩きながら呼び立てる、そのひと声ずつがお文には、まるで胸へ錐《きり》を揉込《もみこ》まれるように思えた。
「明けないか!」
「どうぞお明け下さいまし」太兵衛はお文に手伝わせて、態《わざ》とゆっくり足を洗いながら云った。
「山家のことで別に鍵もございませんから」
半分まで聞かず、荒々しく戸をひき明けざま、五人の侍たちが土間に入って来た。「なにか御用でござりますか」
「……此処へ少年が一人来た筈だ」先頭にいた一人が、簑《みの》の下で大剣の鍔元《つばもと》をぐっと握りながら云った、
「我々は足跡を跟《つ》けて来たのだ、この雪で他へ行く筈はない、来たであろうな」
「隠しでもすると其方共のためにもならんぞ」
「何処にいる、出せ!」
侍たちの喚《わめ》きたてるのを、太平衛は静かに聞いていたが、
「この通り狭い山家で、隅から隅までお見通しでございます、わし[#「わし」に傍点]もいま町から帰って来た許りですが、……その足跡というのはわし[#「わし」に傍点]のではございませんか」
「黙れ、そんな子供|騙《だま》しに乗る我々ではない」
「ええ面倒だ、家捜《やさが》しをしろ」
止める隙もない、そう叫ぶと共に、五人の侍は土足のまま上へとび上った。……見るなりお文はあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげようとしたが、太兵衛はそれを眼で叱って、
「どうぞ御存分に」と平気な声で云った、「……障子の向うが台所、右の襖《ふすま》は納戸でございます。剥《む》いたばかりの熊の皮がございますから、お手を汚さぬようになさいまして」
――神さま、どうぞお護り下さい。
お文は固く眼を閉じて祈った。――どうぞ金之助さまが御無事でありますように、あの子はお国のために命を捨てて働いているのです、どうぞお護り下さいまし。
一秒が一日ほどの長さにも思えた。
侍たちは有《あら》ゆる物を引繰《ひっく》り返し、どんな隅をも残さず突き廻した。納戸の中とて同様である。然し「剥《む》いたばかり」という熊の毛皮には、さすがに無気味で手がつけられなかったのか、やがて失望した様子で出て来た。
「いないらしい」「とすると石谷《いしがや》の方へ行ったのか知れぬ」
「足跡はたしかに此方だったが」
そんなことを呟《つぶや》きながら、五人と土間へ下りる。とたんに……納戸の中から、金之助の声で、
「もう行きましたか」
と云うのがはっきりと聞えて来た。
みんな一時に振返った。太兵衛も、お文も、もう駄目だと思った。……五人の侍はそれより疾《はや》く、脱兎《だっと》のように納戸へ殺到した。
――神さま!
お文はぎゅっと胸を抱き緊めた。
然しがらっと襖を引明けたとき、納戸の中から烏の勘太が、ばたばたと烈しく羽風をたてながら飛びだして来たので不意を食った五人の侍たちはあっと身を退《ひ》いた。
「もう行ったか」
勘太はそのままひょいと止木《とまりぎ》へおりながら叫んだ。……いまの金之助の声によく似ている、
「くうくう、もう行ったか、行ったか」「…………」
「お文、起きねえか、夜が明けたぞ。くうくう、かっかっ、お文、もう行ったか」侍たちは茫然《ぼうぜん》と、眼を瞠《みは》ったまま勘太の叫ぶのを見|戍《まも》っていた。……救われたのである、お文はほっと太息をつきながら、
「わたくしの烏でございますの」
と侍たちに説明した、「……よく人声を真似ますので、皆さんがたびたびお間違えになりますわ、……勘太、此方へおいで」
「なあんだ、人真似鳥か」
侍たちは苦笑しながら、
「まるで鸚鵡《おうむ》のようなやつだな」
「吃驚《びっくり》させ居った」
そう云って土間へ下りた。……そして、そのまま立去ろうとしたが、中の一人が戸口で振返ると、
「騒がせて気の毒だったな、許して呉れ、その少年というのは勤王浪士の手先なのだ、若しみつけたら捕えて呉れ」
「勤王浪士の手先ですと」
「斬り倒しても御褒《おほめ》が出る、銀十枚だぞ」
そう云って侍たちは立去った。
太兵衛はそれを見送ってから、炉端へ坐ってお文を側へ呼んだ。……そして町から買って来た包を解きながら、
「それ、お土産だぞ」
「まあ……あたしに?」
「明けてみろ」
お文は外でまだ侍たちが聴いているかも知れないと思ったので、態《わざ》と大きな声をあげながら包を解きにかかった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
包の中から出たのは貧しい土の雛人形だった。
「あらお雛さまね。……まあ可愛いこと」
「安物だがな、もう直ぐお節句だから買って来たのよ、安物で気に入るまいが」
「いいえ、いいえ!」」
お文は小さな雛を犇《ひし》と胸へ抱き緊めながら、
「嬉しいわお父っさん、あたし欲しかったの、丁度こんなくらいなのが欲しかったのよ。嬉しい……あたし泣きそうになってしまうわ」
「そんな物が、そんなに嬉しいか」
太兵衛はふっと眼をうるませた。
「……尤《もっと》もおまえには貧乏ばかりさせて、今日まで紙人形ひとつ買って遣れなかったからな。金さへあれば大きな雛段へ、いっぱいお雛様も買ってやれるし、綺麗《きれい》な着物だって、紅白粉《べにおしろい》だって、髪油も簪《かんざし》も、なんでも好きな物を買って遣れるんだが、おらは此の通りしがねえ猟人だから」
「いや、いやよお父っさん、そんなこと云うとあたし怒るわ。あたしお父っさんが丈夫でいつまでも父娘《おやこ》仲良く暮せたらそれがいちばん仕合せなんですもの」
「仕合せというものをおまえは知らないからそう云うんだ、本当の仕合せというのはな……」
云いかけたまま、ふと太兵衛は言葉を変えた。
「お文……もういいだろう」
「お客さま?」
「お侍たちはもう谷へ下りた時分だ、おまえは早く支度をさせて、今のうちにお逃し申しな、この裏から鷲尾の峰を越えて行けば神庭へ出られる、あの猫岩の道をよく教えてあげろ」
「お父っさんはどうするの」
「おらは谷の方を見張ってる。……また戻って来ると面倒だから早くしろよ」
そう云って太兵衛は出て行った。
お文は直ぐに納戸から金之助を連れ出して来た。……金之助はさっきの失敗を恥じている様子で、顔を赤くしながら詫びた、
「済《す》みません、息が苦しかったものだから」
「いいのよ、勘太が大変なお手柄をしたから却って疑いを晴したくらいですわ。それより……直ぐお立ちなさいまし」
「そうします、御迷惑をかけました」
「お泊《と》めしたいのだけれど、また戻って来ないとも限りませんから、今のうち逆の方へ逃げる方がいいわ」
云いながら手早く身支度をしてやる。……少年は傷ついた右足を曳《ひ》くようにして、然し元気な様子で裏口へ出た。
「その雑木林の中に道があるでしょ、林が明いているから分ります、それを真直に登ると左に猫のような形をした岩が見えますわ、その岩の向うを右へ登ると此の山の峰ですから、それを越して谷沿いにいらっしゃい、そうすれば神庭へ行けます」
「分りました、ではお別れします」
「どうか御無事で……」
「今夜の御恩は忘れません、若し生きていられたら、いつかまたお眼にかかりに来ます」
「待っていますわ、金之助さま」
「では左様なら、お姉さん」
金之助は、泪《なみだ》にうるんだ眼で眤《じっ》とお文の顔を見|戍《まも》った。……お文字少年の眼を、まるで自分の頭に焼付けたいとでもいうように瞶《みつ》めた。
金之助は去って行った。
雪のなかを、片足を曳きずりながら、それでもかなり敏捷《びんしょう》な足どりで去って行った。……お文は長いあいだ見送っていたが、やがて力の抜けたような気持で家へ入った。
――到頭、行ってしまったわ。
そう思ってふと気付くと、父親がまだ帰っていない。……まだ表で見張っているかと、急いでみたが、表にも姿が見えなかった。
「お父っさ――ん」
お文はなんども呼んでみた。
然し自分の声が木魂を返すばかりで、何処からも父の返辞は聞えて来なかった。……お文は急に不安になった、「金さえあったら」と呟いていた父の顔つきと、
――褒美には銀十枚やる。
と云った時の言葉とが頭の中で渦を巻いた。
お文は家の中へとび込んだ。……鉄砲が無かった、さっきまで壁に架《か》けてあった鉄砲が見えない。お文は身を震わせて立竦《たちすく》んだ。
「お父っさんは、……お父っさんは」
鉄砲を持って少年を狙《ねら》っている姿が見える。
勤王浪士の手先、銀十枚の褒美。……太兵衛が是を見逃す筈はない、彼はいま鉄砲を持って金之助を狙っている。お文は狂気のように裏口からとびだした。
「いけない、あの人を射っては、……あの人はお国のために働いているんです、お父っさん」
お文は雪のなかを、毬《まり》のように転げながら走って行った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
明治五年の秋のなかばであった。
麻《あさ》買い商人《あきんど》と見える旅人が二人、曽《かつ》て野猪の太兵衛とその娘の住んでいた家の横手で、小さな石を見ながら、土地の農夫の話を聞いていた。
「……それで娘は、その子供の身代りになって、鉄砲に射《う》たれて死んでしまったのです。親父の太兵衛は野猪という綽名《あだな》のある暴れ者でしたが、自分の射ったのが娘だということを知ると、その場から行方知れずになってしまいました。……なんでも高野山へあがって坊主になったとか、雲水姿でお遍路をしているとか申しますが、本当のところはいまだに分らないのでございますよ」
「さても気の毒な話だ」
旅人たちは溜息をつきながら、
「御維新になるまでは、色々な人が色々苦労や悲しいめに遭ったのだな。……まあお花でも供えて行くとしよう」「いい土産話ができました、お礼を申します」
二人は道傍から野菊を折って来て供えると、小さな墓の前へぬかずいて唱名《しょうみょう》したのち、農夫と一緒に坂を下って立去った。
すると程なく、いま旅人たちの去った方から、陸軍中尉の軍服を着た青年が一人、足早に登って来て太兵衛の家の前に立った。色白で、眼の美しい美青年である、
「……ああいない」
立ち腐《くさ》れになった家をひと眼見て、如何にも落胆《がっかり》したように青年は呟いた。
「出世した姿を見て貰い、あの晩のお礼も云いたかったのに。……やっぱり、会えない気がしていたのが本当になった、残念だな」
梶金之助である。
今では陸軍中尉で、大阪鎮台に勤務しているが、賜暇《しか》を貰って土佐へ帰る途中、この津山へ廻って来たのであった。……彼はなにも知らない、お文が自分の身代りになって父に射たれたことも、太兵衛が行方知れずになったことも、なにも知らないのである。
曽て危い命を救われた家は荒れに荒れ、あたりは芒《すすき》が生い茂っている。……金之助は去り難い様子で、やや暫くのあいだ廃屋の周りを歩いていたが、やがて思い切ったように、然し渋りがちな足どりで元来た方へと去って行った。
静かである……。
山のよく澄んだ空気に、秋の光が匂うほど輝いている。時おり微風が来ると、樹々の枝から枯葉《かれは》がはらはらと散り落ちる。
「……くうくうくう」
低い鳥の喉声が聞えた。
誰も気付かない墓の横手に、一羽の烏が寒そうに身を竦めている。……散り落ちる枯葉が乾いた音を立てると、彼はつむっていた眼を明け、身震いをして叫ぶ、
「お文、起きねえか、……お文」
ひどく嗄《しゃが》れた声であった。「もう夜が明けたぞ、起きねえか、お文」
さあっと枯葉が渦を巻いた。……烏は再び眼をつむった。まるで墓守りでもあるかのように、いつまでも其処に立つくしていた。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「少女の友」
1940(昭和15)年2月号
初出:「少女の友」
1940(昭和15)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)文《ぶん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)供|騙《だま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「おい、お文《ぶん》、起きねえか」
「……うるさいわよ」
「起きねえか、もう夜が明けたぞ」
「お黙り、勘太」
お文は粗朶《そだ》を折って切炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、振返って叱りつけた。
「おまえお馬鹿さんよ、まだ日が暮れたばかりじゃないの。町へ行ったお父《と》っさんだって帰って来ないし、……おまえ鳥のくせに昼間と夜の区別もつかないのね」
「くうくうくう、かっ」
柱の止木にいた烏の勘太は、お文に叱られたのが恥ずかしいとでもいうように、ひょいと身をすくめながら畳の上へ飛びおりた。
外は雪である。
時おり、樹の枝から雪塊《ゆきくれ》の落ちる音が、ぱさっ、ぱさっと聞える他には、ひっそりとして物音もない静けさだ。
お文は十七になる。……父親の太兵衛は猟人《かりゅうど》で、「野猪《のじし》の太兵衛」と云えばこの附近で知らぬ者はない、猪狩りの名人であると共に、乱暴で強情で、いちど暴れだしたら手がつけられない男だった。けれど娘のお文にだけは、荒い声もかけられぬ優しい父で、どんなに乱暴をしているときでも、お文の顔を見ると仔猫《こねこ》のように温和《おとな》しくなるのが例であった。
此処は美作《みまさか》ノ国津山の城下から、三里ほど北へ入った鷲尾山《わしおやま》の中腹で、昼でも人の通ることなどは稀《まれ》にしかない、まして冬のあいだは雪に埋れて、十日も二十日も人の声を聞かずに過すことが珍しくなかった。……お文は此処で生まれ、此処で育って来たのだけれど、感じ易い乙女心に変りはなく、独りで留守をする晩などはしみいるような淋しさに襲われる、……そんなとき、少しでも慰め相手になるようにと、去年の夏太兵衛は一羽の子烏を拾って来て与えた。
まだ巣立ったばかりの雛《ひな》であったが、お文は直ぐに「勘太《かんた》」という名をつけ、片時も肌《はだ》から離さぬように可愛がって育てた。……勘太もよくお文に懐《なつ》いた、まるで赤子が母親のふところを慕うように、どんなときでもお文の側から離れない、殊に此頃は人の言葉をよく真似るようになって、ふと太兵衛の口真似などをしては、お文を笑わせるのであった。
「……お父《と》っさんのおそいこと……」
お文は炉に懸けた芋粥《いにがゆ》鍋の蓋を直しながらふと呟《つぶや》いた。……獲物《えもの》を町へ売りに行ったまま、もう七時を過ぎたのにまだ太兵衛は帰って来ない、
「なにか間違いでもあったのじゃないかしら」
そう呟いたとき不意に、
がらがらッ、どしん。という烈しい物音が台所で起った。……お文は勘太が悪戯《いたずら》をしたものと思って、
「まあ、嫌よ勘太、またなにかお悪戯《いた》ね」
と云いながら立って障子を明けた。見ると木口の戸が開いて、雪まみれになった少年が一人、のめり込んだ姿のまま倒れている、お文は恟《ぎょっ》として立竦《たちすく》んだが、是はきっと道に迷って来たのだと思い、急いで側へ寄りながら、
「あなたどうなさいました」
と肩へ手をかけて云った。
少年は顔をあげた、色の白い頬が緋牡丹の花を散らしたように血に塗《まみ》れていた。……お文が思わず震えながら身を退くと、少年はその裾《すそ》へ縋《すが》りつくようにして、
「お願いです、暫く匿《かくま》って下さい」
と嗄《しゃが》れた声で云った、「私は悪者ではありません、けれども訳があって追われているんです、どうか暫くのあいだ隠れさせて下さい」
お文は少年の眼を見た。
いい眼である、勘太が餌《え》をねだって身をすり寄せるときのような、濁りのない、青みのさした美しい眸《ひとみ》だった。
「……さあお立ちなさい」
「隠して呉れますか」
「大丈夫きっと匿ってあげます」
「有難う、恩に着ます」
少年は感謝の籠《こも》った眼でお文を見上げた。
手を貸して援《たす》け起してみると、少年は右の高腿《たかもも》にも刀傷を受けていた。……抱えるようにして炉端へ連れて行ったお文は、父親が猟に出るとき持って行く薬箱を取出し、馴《な》れた手つきで直ぐに傷の手当をした。
「こんなひどい怪我《けが》をしていて、よく此処まで来られましたのね」
「なにをこんな傷ぐらい」少年は薬がしみるので眉をしかめながら、けれど元気な声で云った。
「天子さまのために、少しでもお役に立つと思えば、足の一本や片腕ぐらい取られたって平気ですよ」
「まあ、……ではあなたは」
「ええ私は天朝さまのために働いているんです」
少年は昂然《こうぜん》と額をあげて云った。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「津山藩がどう動くか、禁裏さまへお味方をするか幕府へ付くか、その様子をさぐるために来たんです。……お姉さんは勤王《きんのう》方でしょう」
「ええ。ええ。そうよ」
「そうだと思った。さっき姉さんの顔を見たとき直ぐに、きっと天子さまのお味方だと思いましたよ」
「あなたは幾つになるの」お文は少年に瞶《みつ》められるのが苦しそうに、睫《まつげ》のながい眼を伏せながら訊《き》いた。
「私は十五です、名は梶金之助」
「……金之助さん」
「京都の土佐屋敷にいる足軽の子です」
「十五くらいの年でよくそんなお役に立つことができるわね、やっぱりお侍さまの子だわ」
「侍の子でなくったって」
金之助は肩をあげながら「……誰だって今はお国のために働くべき時ですよ、私たちの友達もみんな働いてます。女だって年寄だって、みんな起ちあがってお国のためにお役に立つべき時なんです。……もう直ぐだ、幕府を倒して、もう直ぐ天子さまの日本になるんだ、もう直ぐ新しい日本の陽がさしてくるんですよ」
そう云って少年は固く唇をひき結んだ。
津山藩の松平慶倫は徳川親藩の一人であったから、領民たちの多くは幕府の恩顧を重んじ、勤王の正しいことを解しない者が多数を占めていた。……殊にお文は、父親の太兵衛が日頃から歌を唄うように、将軍さま将軍さまと云うのを知っているので、父が帰って来て若し金之助の正体が分ったらと思うと、考えただけでも胸の震える感じだった。
「……ねえ金之助さま」
お文はようやく傷の手当を終りながら、
「あたしには、あなたが立派なお役に立っている人だということが分るけれど、此処は徳川の御親藩でしょう、だから世の中のことをよく知らない人たちは、あなたの立派なお役目が分らないと思うの、殊にこんな山の中に暮している者は、御領主さまの他に偉い人はないと思っているんですから。……若し父が帰って来ても今のお話は内緒《ないしょ》にしていて下さいましね、でないとどんな間違いが起るかも知れませんから」
「知ってます、私だってこんなことを人の見境《みさかい》もなく云いはしません、お姉さまなら……よく分って下さると思ったから」
「お文、帰ったぞ、帰ったぞ、お文」
いきなり勘太が叫びだしたので、思わず二人は恟《ぎょっ》として振返った。
……その驚いた様子が面白いとでもいうように、勘太は隅の方でばたばたと羽搏《はばた》きをしながら、
「くうくう、くう、かっ、かっ」
と喉《のど》を鳴らした。
「馬鹿ねえ、吃驚するじゃないの勘太」
「いまのは……あの鳥ですか」
「ええそう、よく人声を真似るでしょう、あたしが馴らしましたの。……助太、納戸へ入っておいで、おまえお客さまに失礼よ!」
そう云っているとき、此家の表へ人の近づく気配がして、
「お文、帰ったぞ」
と呼ぶ声がした。……いま勘太が真似たのとそっくりの声である。
「大丈夫、お父さんですわ」
お文が金之助に云って立ちあがると、雨戸を明けて、雪まみれになった太兵衛が入って来た。お文は急いで簑笠《みのかさ》を脱ぐ手伝いをしながら、「お父っさん、お客さまがあるのよ」
「誰だ、……見馴《みな》れねえ人だが」
「院ノ庄の武家屋敷へ御奉公していた人よ、国許からお母さんが急病だという知らせが来たのに、お屋敷ではお暇を呉れないのですって、それで逃げだして来たのだけれど、……途中で転んで足に怪我《けが》をなすったのよ」
「それはお気の毒な、……傷は重いのか」
「いまお手当をしてあげたわ、今夜ひと晩泊めてあげたいのですけど、いいわね」
「そんなこたあ訊くまでもねえ」
「それに、……そのお屋敷から追手が掛っているのよ。いいえ、なにも悪いことをした訳じゃないの、約束の年期が切れないのに逃げだしたっていうので、それで追手を寄越したんですって」
「そんな無道理なお屋敷が今でもあるのかなあ、お侍の家風もだんだん悪くなる許《ばか》りだ。……湯をとって呉んな」
「はい唯今。……お父っさん、その追手が来たら匿ってあげて下さいましね」
「いいとも、おら[#「おら」に傍点]に任せて置け」お文が洗足盥《せんそくだらい》へ湯を汲んで来たとき、……坂を登って来る四五人の人声が聞えた。
「あ! 追手だわ」お文は盥を其処へ置くと、
「金之助さま、早く」「お文、納戸へ入れてあげろ、空き葛籠《つづら》の中へ入って、壁にある熊の皮を上から……」
「ええ分ったわ」
上へ駈《か》けあがったお文は、金之助を援け起して納戸へ入って行った。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「明けろ、明けろ」
雨戸を叩きながら呼び立てる、そのひと声ずつがお文には、まるで胸へ錐《きり》を揉込《もみこ》まれるように思えた。
「明けないか!」
「どうぞお明け下さいまし」太兵衛はお文に手伝わせて、態《わざ》とゆっくり足を洗いながら云った。
「山家のことで別に鍵もございませんから」
半分まで聞かず、荒々しく戸をひき明けざま、五人の侍たちが土間に入って来た。「なにか御用でござりますか」
「……此処へ少年が一人来た筈だ」先頭にいた一人が、簑《みの》の下で大剣の鍔元《つばもと》をぐっと握りながら云った、
「我々は足跡を跟《つ》けて来たのだ、この雪で他へ行く筈はない、来たであろうな」
「隠しでもすると其方共のためにもならんぞ」
「何処にいる、出せ!」
侍たちの喚《わめ》きたてるのを、太平衛は静かに聞いていたが、
「この通り狭い山家で、隅から隅までお見通しでございます、わし[#「わし」に傍点]もいま町から帰って来た許りですが、……その足跡というのはわし[#「わし」に傍点]のではございませんか」
「黙れ、そんな子供|騙《だま》しに乗る我々ではない」
「ええ面倒だ、家捜《やさが》しをしろ」
止める隙もない、そう叫ぶと共に、五人の侍は土足のまま上へとび上った。……見るなりお文はあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげようとしたが、太兵衛はそれを眼で叱って、
「どうぞ御存分に」と平気な声で云った、「……障子の向うが台所、右の襖《ふすま》は納戸でございます。剥《む》いたばかりの熊の皮がございますから、お手を汚さぬようになさいまして」
――神さま、どうぞお護り下さい。
お文は固く眼を閉じて祈った。――どうぞ金之助さまが御無事でありますように、あの子はお国のために命を捨てて働いているのです、どうぞお護り下さいまし。
一秒が一日ほどの長さにも思えた。
侍たちは有《あら》ゆる物を引繰《ひっく》り返し、どんな隅をも残さず突き廻した。納戸の中とて同様である。然し「剥《む》いたばかり」という熊の毛皮には、さすがに無気味で手がつけられなかったのか、やがて失望した様子で出て来た。
「いないらしい」「とすると石谷《いしがや》の方へ行ったのか知れぬ」
「足跡はたしかに此方だったが」
そんなことを呟《つぶや》きながら、五人と土間へ下りる。とたんに……納戸の中から、金之助の声で、
「もう行きましたか」
と云うのがはっきりと聞えて来た。
みんな一時に振返った。太兵衛も、お文も、もう駄目だと思った。……五人の侍はそれより疾《はや》く、脱兎《だっと》のように納戸へ殺到した。
――神さま!
お文はぎゅっと胸を抱き緊めた。
然しがらっと襖を引明けたとき、納戸の中から烏の勘太が、ばたばたと烈しく羽風をたてながら飛びだして来たので不意を食った五人の侍たちはあっと身を退《ひ》いた。
「もう行ったか」
勘太はそのままひょいと止木《とまりぎ》へおりながら叫んだ。……いまの金之助の声によく似ている、
「くうくう、もう行ったか、行ったか」「…………」
「お文、起きねえか、夜が明けたぞ。くうくう、かっかっ、お文、もう行ったか」侍たちは茫然《ぼうぜん》と、眼を瞠《みは》ったまま勘太の叫ぶのを見|戍《まも》っていた。……救われたのである、お文はほっと太息をつきながら、
「わたくしの烏でございますの」
と侍たちに説明した、「……よく人声を真似ますので、皆さんがたびたびお間違えになりますわ、……勘太、此方へおいで」
「なあんだ、人真似鳥か」
侍たちは苦笑しながら、
「まるで鸚鵡《おうむ》のようなやつだな」
「吃驚《びっくり》させ居った」
そう云って土間へ下りた。……そして、そのまま立去ろうとしたが、中の一人が戸口で振返ると、
「騒がせて気の毒だったな、許して呉れ、その少年というのは勤王浪士の手先なのだ、若しみつけたら捕えて呉れ」
「勤王浪士の手先ですと」
「斬り倒しても御褒《おほめ》が出る、銀十枚だぞ」
そう云って侍たちは立去った。
太兵衛はそれを見送ってから、炉端へ坐ってお文を側へ呼んだ。……そして町から買って来た包を解きながら、
「それ、お土産だぞ」
「まあ……あたしに?」
「明けてみろ」
お文は外でまだ侍たちが聴いているかも知れないと思ったので、態《わざ》と大きな声をあげながら包を解きにかかった。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
包の中から出たのは貧しい土の雛人形だった。
「あらお雛さまね。……まあ可愛いこと」
「安物だがな、もう直ぐお節句だから買って来たのよ、安物で気に入るまいが」
「いいえ、いいえ!」」
お文は小さな雛を犇《ひし》と胸へ抱き緊めながら、
「嬉しいわお父っさん、あたし欲しかったの、丁度こんなくらいなのが欲しかったのよ。嬉しい……あたし泣きそうになってしまうわ」
「そんな物が、そんなに嬉しいか」
太兵衛はふっと眼をうるませた。
「……尤《もっと》もおまえには貧乏ばかりさせて、今日まで紙人形ひとつ買って遣れなかったからな。金さへあれば大きな雛段へ、いっぱいお雛様も買ってやれるし、綺麗《きれい》な着物だって、紅白粉《べにおしろい》だって、髪油も簪《かんざし》も、なんでも好きな物を買って遣れるんだが、おらは此の通りしがねえ猟人だから」
「いや、いやよお父っさん、そんなこと云うとあたし怒るわ。あたしお父っさんが丈夫でいつまでも父娘《おやこ》仲良く暮せたらそれがいちばん仕合せなんですもの」
「仕合せというものをおまえは知らないからそう云うんだ、本当の仕合せというのはな……」
云いかけたまま、ふと太兵衛は言葉を変えた。
「お文……もういいだろう」
「お客さま?」
「お侍たちはもう谷へ下りた時分だ、おまえは早く支度をさせて、今のうちにお逃し申しな、この裏から鷲尾の峰を越えて行けば神庭へ出られる、あの猫岩の道をよく教えてあげろ」
「お父っさんはどうするの」
「おらは谷の方を見張ってる。……また戻って来ると面倒だから早くしろよ」
そう云って太兵衛は出て行った。
お文は直ぐに納戸から金之助を連れ出して来た。……金之助はさっきの失敗を恥じている様子で、顔を赤くしながら詫びた、
「済《す》みません、息が苦しかったものだから」
「いいのよ、勘太が大変なお手柄をしたから却って疑いを晴したくらいですわ。それより……直ぐお立ちなさいまし」
「そうします、御迷惑をかけました」
「お泊《と》めしたいのだけれど、また戻って来ないとも限りませんから、今のうち逆の方へ逃げる方がいいわ」
云いながら手早く身支度をしてやる。……少年は傷ついた右足を曳《ひ》くようにして、然し元気な様子で裏口へ出た。
「その雑木林の中に道があるでしょ、林が明いているから分ります、それを真直に登ると左に猫のような形をした岩が見えますわ、その岩の向うを右へ登ると此の山の峰ですから、それを越して谷沿いにいらっしゃい、そうすれば神庭へ行けます」
「分りました、ではお別れします」
「どうか御無事で……」
「今夜の御恩は忘れません、若し生きていられたら、いつかまたお眼にかかりに来ます」
「待っていますわ、金之助さま」
「では左様なら、お姉さん」
金之助は、泪《なみだ》にうるんだ眼で眤《じっ》とお文の顔を見|戍《まも》った。……お文字少年の眼を、まるで自分の頭に焼付けたいとでもいうように瞶《みつ》めた。
金之助は去って行った。
雪のなかを、片足を曳きずりながら、それでもかなり敏捷《びんしょう》な足どりで去って行った。……お文は長いあいだ見送っていたが、やがて力の抜けたような気持で家へ入った。
――到頭、行ってしまったわ。
そう思ってふと気付くと、父親がまだ帰っていない。……まだ表で見張っているかと、急いでみたが、表にも姿が見えなかった。
「お父っさ――ん」
お文はなんども呼んでみた。
然し自分の声が木魂を返すばかりで、何処からも父の返辞は聞えて来なかった。……お文は急に不安になった、「金さえあったら」と呟いていた父の顔つきと、
――褒美には銀十枚やる。
と云った時の言葉とが頭の中で渦を巻いた。
お文は家の中へとび込んだ。……鉄砲が無かった、さっきまで壁に架《か》けてあった鉄砲が見えない。お文は身を震わせて立竦《たちすく》んだ。
「お父っさんは、……お父っさんは」
鉄砲を持って少年を狙《ねら》っている姿が見える。
勤王浪士の手先、銀十枚の褒美。……太兵衛が是を見逃す筈はない、彼はいま鉄砲を持って金之助を狙っている。お文は狂気のように裏口からとびだした。
「いけない、あの人を射っては、……あの人はお国のために働いているんです、お父っさん」
お文は雪のなかを、毬《まり》のように転げながら走って行った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
明治五年の秋のなかばであった。
麻《あさ》買い商人《あきんど》と見える旅人が二人、曽《かつ》て野猪の太兵衛とその娘の住んでいた家の横手で、小さな石を見ながら、土地の農夫の話を聞いていた。
「……それで娘は、その子供の身代りになって、鉄砲に射《う》たれて死んでしまったのです。親父の太兵衛は野猪という綽名《あだな》のある暴れ者でしたが、自分の射ったのが娘だということを知ると、その場から行方知れずになってしまいました。……なんでも高野山へあがって坊主になったとか、雲水姿でお遍路をしているとか申しますが、本当のところはいまだに分らないのでございますよ」
「さても気の毒な話だ」
旅人たちは溜息をつきながら、
「御維新になるまでは、色々な人が色々苦労や悲しいめに遭ったのだな。……まあお花でも供えて行くとしよう」「いい土産話ができました、お礼を申します」
二人は道傍から野菊を折って来て供えると、小さな墓の前へぬかずいて唱名《しょうみょう》したのち、農夫と一緒に坂を下って立去った。
すると程なく、いま旅人たちの去った方から、陸軍中尉の軍服を着た青年が一人、足早に登って来て太兵衛の家の前に立った。色白で、眼の美しい美青年である、
「……ああいない」
立ち腐《くさ》れになった家をひと眼見て、如何にも落胆《がっかり》したように青年は呟いた。
「出世した姿を見て貰い、あの晩のお礼も云いたかったのに。……やっぱり、会えない気がしていたのが本当になった、残念だな」
梶金之助である。
今では陸軍中尉で、大阪鎮台に勤務しているが、賜暇《しか》を貰って土佐へ帰る途中、この津山へ廻って来たのであった。……彼はなにも知らない、お文が自分の身代りになって父に射たれたことも、太兵衛が行方知れずになったことも、なにも知らないのである。
曽て危い命を救われた家は荒れに荒れ、あたりは芒《すすき》が生い茂っている。……金之助は去り難い様子で、やや暫くのあいだ廃屋の周りを歩いていたが、やがて思い切ったように、然し渋りがちな足どりで元来た方へと去って行った。
静かである……。
山のよく澄んだ空気に、秋の光が匂うほど輝いている。時おり微風が来ると、樹々の枝から枯葉《かれは》がはらはらと散り落ちる。
「……くうくうくう」
低い鳥の喉声が聞えた。
誰も気付かない墓の横手に、一羽の烏が寒そうに身を竦めている。……散り落ちる枯葉が乾いた音を立てると、彼はつむっていた眼を明け、身震いをして叫ぶ、
「お文、起きねえか、……お文」
ひどく嗄《しゃが》れた声であった。「もう夜が明けたぞ、起きねえか、お文」
さあっと枯葉が渦を巻いた。……烏は再び眼をつむった。まるで墓守りでもあるかのように、いつまでも其処に立つくしていた。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「少女の友」
1940(昭和15)年2月号
初出:「少女の友」
1940(昭和15)年2月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ