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人情武士道
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人情武士道
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吃驚《びっくり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)御|緻縹《きりょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「まあ吃驚《びっくり》させること」
「そんなに驚いていて?」
「驚きますとも、こんなに突然いらっしゃるのですもの、でもよく来て下すったわ」
信子は友の手を取りながら、いそいそと自分の居間へ導いた。
「こんな狭いところで御免あそばせ、お客間でいま碁が始ってますから、此方の方が気楽で宜しいわ、……どうぞお楽にね」
「御来客でございますの?」
「主人の碁敵ですの、構いませんからどうぞ御ゆっくりあそばして、……なつかしいこと」
横庭に面した窓を明けて、信子は友の眼を熱く見戍《みまも》りながら云った。
「何年ぶりでしょう、五年かしら」
「五年、……そう、丁度五年ですわ」
「お変りにならないのね、憎らしいほどお美しいわ」
「あら、それは貴女のことよ」
和枝は明暗の濃い表情で睨みながら頭を振った。
「貴女こそ見違えるほどお美しくなったわ、少しお肥えになったようだし、肌など艶々として、まるでお嬢さまのように初々しいわ、お仕合せなのね」
「お仕合せなのは何方《どちら》かしら、あんなに華かな噂で、さんざんわたくしたちを羨ませて、お望み通りの方と御祝言をあそばして、本当に貴女は仕合せを絵に描いたような方ですわ」
「それを云わないで、信子さま」
和枝は急に眼を伏せながら遮った。
「わたくし仕合せじゃないの、この着物を見て頂戴、それからこの顔、痩せたでしょう、手だってこんなに汚くなってしまったわ」
「和枝さま、そんなことおっしゃっては」
「いいえ本当、妾《わたくし》、間違ってしまったんですわ」
信子は黙ってしまった。そして、あの頃の事を思い出した。
二人は五年まえまで、琴の師匠の許で相弟子の仲だった。和枝は米沢藩上杉家の江戸留守役を勤める波木井靱負《はぎいゆきえ》の二女であった。琴も上手だったし、派手好みで勝気で、おまけに群を抜いた美貌の持主で、常に弟子たち仲間の女王のような位置を占めていた。……衣裳も髪飾りも、絶えず新しい流行を追い、しかも武家の娘には不似合な豪奢な品ばかり揃えていたし、時には歌舞伎役者の紋を附けた道具などを、平気で持ち歩いたりした。
こういう派手ずくめな和枝は、毎《いつ》もなにかしら弟子たちのあいだに新しい話題を投じていたが、或る時、おそろしく思い切ったことを云いだして皆の眼を瞠《みは》らせた。
――わたくしにいま縁談があるの。
和枝は、常に話題の中心になる者の自信たっぷりな調子で云った。
――半年もまえからわたくしを見染めたのですって。向うの家は御老職なのよ、御二男で分家をなさるっていうんだけど、わたくし断っていますの。……だってその方は御|緻縹《きりょう》もぱっとしないし、お話も下手だし、なんだか辛気臭くって迚《とて》も嫁ぐ気になれないんですもの。……だけど本当を云うとね。
と、彼女は悪戯そうに声をひそめた。
――わたくし実は、いま恋人があるのよ。
――まあ、和枝さまったら。
――驚くことないわ、自分の一生の良人ですもの、自分が好きな人を選ぶのあたりまえじゃありませんか。その方とても殿御ぶりがいいし、気が利いているし。……皆さんにもいちど見て頂くわ。
厳格な武家に育った娘たちは、和枝の話を聞いてみんな胆を消した。縁談のことを口にするさえ恥かしい年頃なのに、男の品評や、恋人があることまでずばずば云う、その思い切った態度には、唖然として返すべき言葉もなかった。……そして事実、それから四五日経つと、和枝の恋人だというその若侍が、稽古帰りの彼女を待っているところを、皆は見せられた。
男は美男だった、和枝がみんなに引合せると、彼は平気で皆に話しかけて来た。……それは如何にも、機智に富み、そつ[#「そつ」に傍点]の無い気の利いた態度で、身装《みなり》もひどく凝った好みをみせていた。
和枝はそれから間もなく、親たちの反対を押し切って、その男と結婚し、同時に琴の師から去ったのである。……想ひ合った同志の二人が、幸福な生活を送っているだろうということは誰も疑わなかった、噂が出ればきまって、
――お似合いの御夫婦で、さぞ円満でしょう。
――きっとお揃いで派手に暮していらっしゃるわ。
半分は羨望を交えて話し合ったものだ。それなのに、いま五年振りで会う和枝はまるで人柄が違っている、……着物も貧しく、髪飾も申訳ばかり、美しさを誇った面ざしも痩が目立つし、手指も荒れてかさかさに乾いている。
むかしの花の、なんと無慙に萎れたことであろう、信子は思わず眼を外らした。
「良人《おっと》はわたくしが考えたような人ではなかったの。娘の目なんて……本当に馬鹿なものですわね、縹緻がいいだの、気が利くの、話し巧者だの、……そんなところしか分らない、本当のものなんか何も見えないのよ。わたくし……親たちの意見を馬鹿にした自分の愚さがよく分りましたわ」
和枝はそっと涙を拭いた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
彼女の良人|寺門市之進《てらかどいちのしん》は二百石の留守役であったが、派手な生活を続けるために出入りの商人たちと金の間違いを起し、三年まえに浪人してしまった。……親たちからは面目に関すると云って義絶されるし、些《いささ》かの貯えもない夫婦は、全く貧窮の底に陥ったのである。
「でもわたくし」
和枝は涙を押し拭って云った。
「このままで終りたくないの、今までのことはすっかり忘れて、生れ変った気持で、なにもかも新しくやり直してみるつもりよ、良人もその覚悟でせっせと道場通いを始めています」
「道場へいらしって?」
「若い頃から剣法だけは才があると云われていたのですって、この道で必ず世に出るのだって、いま夢中で稽古に通っていますの。……それで、実は貴女にお願いがあって来たのですけど」
「伺いますわ、御相談になれることなら」
「此方《こちら》ではたしか、御用人をお勤めあそばしてらっしゃるでしょう。若《も》しもいい折がありましたら、……仕官の口をお世話して頂きたいと思いますの」
どんな小藩でもいいし、食禄にも望みはない、士分でさえあれば、兎に角それを土台として、将来の立身は自分の腕で努める。……和枝は懇願するように繰返した。
「他にはお頼りする方もありませんし」
そう云ったときの淋しい眸を、信子は忘れることが出来なかった。
和枝が帰るのを送ってから、信子は茶の支度をして客間へ行った。……そこでは主人の欽之助と、客の松平越中守の老職である大沼将監とが、まだ熱心に碁を囲んでいた。
「誰か客のようだったが……」
「はい、わたくしの古いお友達でございました」
「此方《こっち》は構わなくていいぞ」
「いいえ、もう帰りましたから」
欽之助はそうかと頷いて茶を取った。
客の大沼老人は、いま窮地にある様子で、盤面の上へのしかかるようにしながら、殆ど夢中で手を読んでいた。……将監は白川藩松平家の江戸年寄役で、ながいこと信子の父と碁敵であったのを、父が去年亡くなるとそのまま、欽之助に相手を持ち越したかたちで、暇さえあると押し掛けて来るのだった。……数日まえに来たとき、
――藩邸の道場で手直し番を一人欲しいが、適当な人物はないだろうか。
と云っていたのを信子は思い出し、和枝のことを良人に頼もうと考えたのであった。
「どうぞお茶を一服……」
「いや、それどころの騒ぎではない、どうか構わないで、此処が生死の境じゃ」
信子のすすめる茶には見向きもせず、老人は盤面にのしかかって呻いた。……信子はそっと良人を見た。欽之助は微笑しながら茶を啜っていた。
――偶《たま》には負けて差上げればいいのに。
そう思いながら、信子はそっと座を退いた。
信子は自分を仕合せだと思っている。和枝の身上を聞いてからは一層その感を深くした。父の佐藤小典は大久保家の用人で、彼女はその一人娘だったが、和枝とは反対に縹緻《きりょう》も性質も平凡だし、父の厳しい躾け通りにつつましく育った。……そして、三年まえに欽之助を婿に迎えたのであるが、彼もまた同じような人柄で、口数も寡《すくな》く、起居も静かな、これといって人眼につく特徴のない人物だった。
欽之助は松平丹後守の老職の二男だから、家柄もおつかつだし、そのうえ気質もよく似た極めて平凡な縁組であった。そして其の後の生活も、またなんの奇もなく、落着いた静かな日が続いている。去年父が死ぬと、直ぐその跡を継いで用人になったが、これとても至極無事に運んだことで、家中の評判も悪からず、と云って特に好評というのでもなく、つまり、すべてが平穏無事に過ぎているのである。そして如何にもそれは二人に似つかわしい生活であった。
「……信子、お帰りだぞ」
良人の声が聞えたのは、それから更に一刻ほど後のことだった。……客を送り出すと、さすがに労《つか》れた様子で、信子のたてる薄茶を美味そうに代えながら、珍しく気軽に雑談を始めた。
――和枝の話をするなら今がいい。
信子はそう気付いたので、
「わたくしお願いがあるのですけれど」
と口を切った。欽之助は直ぐ察したという眼で、
「さっき来た客のことか」
「はい、わたくしの古いお琴の友達なのですけれど、いまお気の毒な身の上になっていらして……」
信子は、和枝の身の上を詳しく語った。
欽之助は黙って聞いていたが、和枝が親の反対を押し切って、寺門市之進と結婚したというあたりへ来ると、いつか妻から顔を外向《そむ》けて、不快そうに眉をひそめていた。
「そういう訳で、いまお二人は生れ変ったつもりで初めからやり直そうとしているんですけれど、それについて何処か仕官の口がありましたら」
「世話をしろと云うのか」
欽之助の口調は驚くほど厳しかった。
「そして、おまえそれを請合ったのか」
「はい、……わたくし若《も》しや、……大沼さまの御家中にでも」
「差し出がましいことをする」
信子は吃驚《びっくり》して良人を見た。……欽之助はひどく不快そうに立ちながら去った。
「武士が主取りをするのに、妻の縁などを頼るとは不作法なことだ、仕官の口が頼みたいなら其の者が自分でまいるべきではないか、……左様なこと、猥りに取次いではならん」
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「わたくしの話し方が悪かったのですわ」
信子は済まなそうに云った。
「ですから、主人は怒ったのだと思いますの。家へ来てから三年、いちども叱られたことがないので、わたくしすっかりどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してしまって……」
「申し訳ないこと」
――和枝は淋しそうに眼を伏せた。
「わたくしがあんなお願いにあがったのは悪かったのね」
「いいえ、それは違ってよ、話す時と話し方がいけなかったの、主人の気持をよく知っていたつもりなのに、やはり女は考え方が足らないんですのね。……ですから、いちど御主人に宅へおいでを願ったらと思うのですけれど」
「でも、それではなおお怒りになるでしょう」
和枝がそう云いかけた時、表の格子が手荒く明いて、誰か入って来る気配がした。
「良人ですわ」
和枝がそう云いながら立とうとした。然しそれより先に、襖を明けて寺門市之進が入って来た。……裏長屋のひと間きりない侘《わび》住居、身を避ける余地もない狭い部屋だった。
「お帰りなさいまし、こちらは……」
「いや分ってる」
市之進は妻の言葉を遮って、
「いま格子の外であらまし聞いた。おまえ此方に仕官の口でもお願いしたとみえるな」
「はい、申し上げないで悪うございましたが」
「悪い、馬鹿なことをする!」
立ったままである。
初対面の挨拶もなく、客の前で立ったまま妻を叱りつける不作法な態度に、信子は呆れて眼をやった。……いつかの日、琴の稽古帰りに見た時とは様子もずいぶん違っている。美男だった面影は貧苦のためかとげとげ[#「とげとげ」に傍点]しく痩せ、洗い晒しの着物には継ぎが当っていた。
「失礼だが、貴女の御主人は」
と、彼は信子を見下ろして云った。
「大久保家で佐藤欽之助とおっしゃるのですね、いま表で供の者に訊いたのだが、……元は丹後守の家中で清水という姓ではありませんか」
「はい、……左様でございます」
「そうでしょう、多分そうだと思った」
市之進は嘲るように鼻で笑った。
「だからこそ、拙者自身で頼みに来いなどと云ったのですよ、御主人はさぞ得意になっておいでだろう、ははははは」
「貴方は主人を御存じでいらっしゃいますか」
「拙者だけではない、ここにいる妻も知っています、分りよく云えば、貴女の御主人と拙者とは恋敵だったのです。そして貴女の御主人側は負けたのです。和枝は貴女の御主人を嫌って拙者の妻になった訳です。……大層な御執心だったのですがね」
「貴方、そんなことをおっしゃって」
「黙ってろ」
驚いて止めようとする和枝を叱りつけて、
「おまえもおまえだ、清水欽之助が大久保家中に婿入りしたことは聞いた筈ではないか。選《よ》りに選って彼奴《あいつ》の所へ、落魄《おちぶ》れた恰好で仕官の口を頼みに行くなんて、求めて嘲笑を買うようなものではないか、ばかな」
「でもわたくし、まさか……」
「お帰り下さい」
市之進は乱暴に喚いた。
「そして帰ったら御主人にそう伝えて下さい、恋の遺恨が晴れてさぞ本望でござろうと、……然し、然し寺門市之進も武士だ、昔の恋敵に憐憫を乞うほど落魄れはせぬと」
信子は夢中で外へ出た。
市之進の辛辣な言葉が、針のように心を刺した。夢にも知らなかったことだ。良人が曽て自分の他に人を恋したという、然もその相手が和枝であったという、……考えてみればあの頃、某藩の老職の二男が和枝を見染め、半年あまりも熱心に求婚していたという話を聞いていたが、それが良人であったに違いない。
――そうだ、それだからこそ良人は、あんなに怒ったのだ、あんなに不快そうな怒り方をしたのだ。
――そして、あんなに怒る以上、良人はまだ、まだその恋を忘れることが出来ずにいるのではあるまいか。
信子の頭は昏《くら》くなった。……今日までの平凡ながら静かな、落着いた仕合せな生活の底に、そんな秘密が隠れていたのだと思うと、信子はあらゆるものが砂のように崩壊するのを感じて、思わず両手で面を蔽った。
――良人があの人を、あの人を……。
若し供の者が注意してなかったら信子は家へ帰ることをさえ忘れたに違いない。平穏無事に育って来た信子の心はこの大きな衝撃に遭って全く打ちのめされてしまった。世間の家庭に起る悲しい話を聞くたびに、自分たちだけはと思っていた仕合せが、矢張り同じような不運を胎《はら》んでいたのだ、……今までの静かな、仕合せな生活は二度と帰っては来ないだろう。
――ああ!
信子はなんども低く呻き声をあげた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
五月雨《さみだれ》のからっと晴れた日だった。
槙町にある道場から出た市之進が、八丁堀の家へ帰ろうとして歩いて行くと、河岸のところで向うから来た二人連れの武士の一人が、市之進の方を指しながら、
「……あの男です」と、連れに云うのが聞えた。
無礼な奴と思って市之進が見ると、それは佐藤欽之助であった。……連れは六十に近い老武士で、欽之助と共になにやら笑いながら此方《こっち》を見て通過ぎようとする。
――おのれ! と市之進は向直って、
「待て、欽之助待て!」
声をかけながら二人の前へ立ち塞がった。……老人の方は二三間とび退いたが、欽之助は冷笑したまま傲然と立ち止った。
「貴、貴公いま、なにを笑った」
「……笑いはしない」
「己は聾《つんぼ》でも盲でもないぞ、貴公いま己を指さし、あの男だと云って連れと一緒に笑ったではないか、己の落魄《おちぶ》れたのが可笑しいか、それで昔の恨《うらみ》を晴らすつもりか」
「貴公がそんな姿をしているのを見ると」
欽之助は冷やかに去った。
「……それは慥《たしか》に可笑しいよ、然し、その姿が可笑しいのじゃないぞ、昔の姿を思い出すからだ」
「申したな、……武士が武士を笑うからは、覚悟があるだろうな」
「なんだ、果合いでも望むのか」
「あの頃とは少々違うぞ、来い!」
欽之助は唇で笑いながら、
「狼狽《うろた》えるな、こんな街中でなにが出来る。果合いをするなら少し歩こう、邪魔の入らぬところで悠《ゆっ》くりやろうではないか。……お互いに片をつけるいい時だ」
「よし、逃げるなよ」
二人は歩きだした。……欽之助の連れの老人も少し後から跟《つ》いて行った。
橋を渡ると、松平越中守の屋敷で、塀に沿って行くと舟入り堀になる。四辺《あたり》はひっそりした組屋敷が並び、堀に面して空地がひらけていた。……市之進は大股にその空地へ入ると、手早く身支度をして大剣を抜いた。
「さあ来い。……お連れの仁、助太刀をなさるか」
「馬鹿な」
欽之助は冷笑して、
「この御仁には関わりのないことだ。安心して力いっぱい斬って来い。娘を騙すのと真剣勝負は勝手が違うぞ」
「よく云った、貴様こそその言葉を忘れるな」
欽之助は覆物を脱いで、大剣の柄へ手をかけたまま、よし[#「よし」に傍点]と云った。
市之進は籠手下りの上段につけた。
連れの老人は二三間はなれた所から、無言のまま凝《じっ》と様子を見ていた。……欽之助は相手の眼を見詰めたまま微動もしない。市之進の面上に、やがてさっ[#「さっ」に傍点]と血が充ちて来た。
傾きかかった光の空を、蜻蛉がついついと飛んで行く。堀の向うに繋いである舟の上で舟子たちが二三人なにやら高声に話している。四辺がひっそりとしているので、その話声がのどかに聞えて来た。
突然、稲妻が空を截《き》ったかと見えた。
喉を劈《さ》く絶叫と、二刀《ふたふり》の剣光が同時に殺到し、両個の体が風を発して躍動した。……然し、次の刹那には、欽之助は二三間とび退きざまだっ[#「だっ」に傍点]と尻餅をつき、市之進は大剣を頭上にのしかかっていた。
「勝負みえた、みえたぞ!」
危い一瞬、黙って見ていた老人が、そう叫びながら二人の間へ割って入った。
「これ以上は無用、……先ず、先ず其許《そのもと》から刀をお引き下さい」
「拙者は、引いても、宜しいが」
そう云って市之進は欽之助を見やった。
「高言にも似合わぬ、恋も剣も、しょせんは勝つ者が勝つようだな。……立ち上ってもう一度やるか、拙者の方に遠慮はいらんぞ」
「…………」
欽之助は刀を持ったまま頭を垂れ、肩を波打たせていた。老人は市之進を抑えた。
「もうやめられい。果合いは勝負が決すればそれでよい、この老人が確《しか》と検分を仕った、どうぞもうお引き下さい」
「折角のお執成し、仰せに任せます」
「それで老人の面目も立つ。佐藤氏、さあこれへまいって仲直りをするがよい。武士は武士らしく、果合いは果合い、終ったらあっさり手を握るものだ」
「お言葉ですがそれは拙者が御免蒙る」
市之進は大剣を鞘に納め、身支度を直しながら冷やかに拒絶した。
「その男とは素より友人でもなし、これから、再び口を利く要はないでしょう。……欽之助、口惜しかったらいつでも来い、家は貴様の女房が知っている、逃げも隠れもせんぞ」
云い捨てて彼は空地から去った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
家へ帰ると、出迎えた和枝が、
「……どうかなさいましたか」
と不審そうに訊いた。
「大層お顔の色が悪うございますが」
「……欽之助と会ったんだ」
市之進はあがると直ぐ袴の紐を解きながら、
「汗になったから着換えさして呉れ」
「はい。……それで、なにか?」
「己を見て笑い居った。……連れがあってな、それに己の落魄れた姿を指さしながら、あの男だと云って笑ったんだ、それで果合いをした」
「まあ! 果合いを?」
「馬鹿な話さ」
裸になった市之進は水口へ下り、盥《たらい》へ水を汲んで体の汗を拭きながら話しつづけた。
「よほど恋の遺恨が忘れられぬとみえてな、娘を口説くのと、真剣勝負とは勝手が違うぞ、などと高言を吐いたが、いざ抜合せてみるとたあい[#「たあい」に傍点]のない奴さ」
「……まさかあの方を……」
「斬れば斬れたが、その連れの老人が割って入り、勝負みえたと止めるので、命だけは助けてやったよ」
「それで、貴方には別にお怪我は……」
「馬鹿を云え、あんな奴になんで手が出るものか、さんざん辱めてやったがぐうの音も出せず、尻餅をついて片息という態《ざま》さ」
話を聞きながら、良人の脱いだ物を片付けていた和枝は、なにをみつけたかはっ[#「はっ」に傍点]と色を変え、手早く袴、帯、着物と、そこへひろげて見直した。……袴と帯と着物と、その三つを通して一文字に五寸ばかり、刀で薙《な》いだ裂目がある。丁度臍の真下というところだ、肌襦袢一重だけが危く免れているだけ。……いま一寸伸びていたら、そう思うと和枝は全身の血が逆流するような恐怖を感じた。
「なんだ、なにを見ている」
「あ! いえ、い、いま乾そうと存じまして」
和枝は慌ててひと纒《まと》めに押しやりながら、立ち上って良人の背へ着物を着せかけた。
「どうした、手が震えているではないか」
「怖い話を伺ったものですから」
「欽之助のあの態《ざま》を見ていたら、怖いより可笑しくって笑ったろう、あれで大久保家の用人だというんだから馬鹿気てる、……婿に行ったお蔭だということを知ってるのかしらん」
「も、もう二度とこんなことは、ないのでございましょうね、また果合いなどと」
「あの腰抜けではないなあ」
市之進は元気な声で笑った。
和枝は良人の言葉を聞いていなかった。良人は飽くまで勝ったと信じている。そして事実そうかも知れない、然し相手の刀は良人の袴から着物まで通っている、良人はそれを気付いていないのだ。……偶然そこまでしか届かなかったのか、それとも、欽之助がわざと傷つけることを避けたのか、いずれにしてもそれに気付かない良人が、果して本当に勝ったと云えるであろうか?
――事実を良人に話さなくてはならない。
和枝はそう思った。二人は生れ変ったつもりで再出発しようとしているのだ。良人を本当の武士にするためには、この事実ははっきりさせなくてはいけない。
――然し、若し事実を知ったら。
良人は果して素直な気持で考え直して呉れるだろうか、否! 恐らく彼の気性として再び果合いを挑むであろう、そうしたらどうなる。良人が再び勝てばいい、万一にも欽之助の刀が今度こそもう一寸伸びた場合には……。
和枝はぞっと身震いを感じた。然し、それは自分の考えの怖ろしさではなくて、門口に訪れる人の声がしたからである。
「物申す、……物申す」
「はい」
和枝が急いで立上った。……障子を明けると、門口に中年の武士が立っている。ついぞ見なれぬ顔だった。
「なんぞ御用でございますか」
「不躾なことをお訊ね用すが、松倉町の堀端にて、先刻果合いをなすったのは此方の御主人ではござるまいか、お伺い仕る」
「ああ拙者です」
市之進が答えながら立って来た。
「それについて御不審でもありますか」
「いや、実は、拙者は松平越中守家中の者でござるが、上役の者共が今日お立合いの始終を屋敷内より拝見仕りましたそうで」
「お屋敷から?……ああなるほど、越中様の裏でしたな」
「それで失礼ながら、若し御浪々中なれば是非いちど御意を得たく、御都合お繰合せのうえ藩邸までお運びを願うようにと、拙者使者に遣わされてまいった次第でござるが」
「然し、……御用向は一体なんですか」
「拙者からは申し上げ兼ねるが、貴殿の刀法をお慕い申してのことゆえ、或いは、……仕官のお勤めなどではあるまいかと思います」
市之進は茫然と妻の方を振返った。……禍が転じて福となったのだ。あの果合いを越中守の家臣が屋敷の中から見ていたのだ。そして恐らく此処まで跟けて来たに違いない。
――出世の時が来た。
光のように輝く良人の顔を、和枝もひたと熱い眼で見上げながら、そして胸いっぱいにこう叫んでいた。
――良人は矢張り勝ったのだ。見ていた人がこうして証人になって呉れた。……良人は勝ったのだ、到頭、自分たちの世に出る時が来たのだ。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「何処か体の具合でも悪いのではないか」
「……いいえ」
「近頃少し晴れ晴れせぬようだな」
信子は眼をあげられなかった。
和枝夫妻を訪ねてから二十日余りになる、自分では良人に悟られぬように努めているつもりなのに、心の憂悶は自然と色に出てしまう。……良人が曽て和枝を愛したということは、まだ自分と縁組をする以前のことであるし、結局その愛は酬いられなかったのだから、そんなに苦しむ理由にはならない筈だ。
――その年頃になれば、男も女も誰かを愛するようになる、それは自然なことだ。
良人だけが特別にそうだった訳ではない。そういう経験は誰にでもあることなのだ。
そう自分に説き聞かせるあとから、
――でもわたしはそうではなかった、わたしにとっては良人が初めて愛情を注いだ人だ。わたしの心には、良人と会うまえにどんな人の影をも留めていなかった。
信子は苦しんだ。深窓に育ち、世の経験に浅いだけ、初めて受けた心の傷手をどう切抜けたらいいか分らないのである。良人に凡てを打明けたら、なんどもそう考えた。然し、むろん出来ることではなかった。
「なにか心配ごとでもあるなら話したらどうか、若しまた体に故障でもあるなら医者にみせなければならぬ。……顔色も悪く、沈んでばかりいる様子は変ではないか」
「でも本当に、なんでもございませんのですから」
「それならいいが」
欽之助は呟《つぶや》くように云った。
「男は迂濶だからな、……云うべきことは云って呉れぬと」
「……はい」
「今日はまた将監どのが見える日だった、いまの内に御用の始末をして置こう」
そう云って立上ったが、ふと静かにてれ[#「てれ」に傍点]たような笑い方をしながら、
「実は家中の老人連から頻《しき》りに訊かれるのだよ、もうそろそろ目出度い報せがあってもいい頃ではないかって、……それで余計、気になっていたのだ」
「まあ、……そんなこと、……」
信子はどきっと胸をうたれた。
良人の去って行くのを見上げることもせず、信子は耳まで赧くなった面を伏せていた。……此頃つづく煩悶で思い出す暇もなかったけれど、信子の体はもう三月あまり変調であった。若しやという気もしたし、一方ではまた騙されるのではないかとも思っていた、それがいま良人の口からそう云われた刹那、いきなり揺り上げられたような激しい感動と共に、
――そうだ。
と頷くものを全身に直覚した。
良人の声音は明かに期待する色を持っていた。夫婦という感覚のつながりの微妙さが、良人の心のそのことを伝えたのであろう。その気持が、信子を直《じか》に揺りあげたのだ。けれど、彼女の心はいま、それを喜んでいいのか哀しんでいいのか分らないほど混乱している。良人の昔の恋がこんなに自分を苦しめているとき、そのときに自分が新しい生命を胸の下に自覚しなければならぬとは……。
大沼将監が例の通り碁打ちに来た。
そして、その接待の終らぬうちに家扶が信子への来客を知らせて来た。……和枝が玄関で会いたいというのである。
「……和枝さまが、なんの用で来たのだろう」
信子は疵口を撫でられたような身の震えを感じながら出て行った。
和枝は玄関先に立っていた。……あの時とは見違えるほど立派な姿になっている。贅沢なものではないが衣裳も新しく、艶々と結いあげた髪には櫛簪が光っているし、顔には薄化粧さえしていた。
「表を通りかかったのでお寄りしました」
和枝はひどく切り口上で云った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「あのときは御迷惑を掛けましたわね、でももう心配して頂く必要はなくなりましたわ、良人は二百石で出世を致しましたから。……それを申し上げようと思いましてね」
「それは……お目出度うございますこと」
「皮肉なめぐりあわせですわね」
和枝は相手を見下ろすように、冷やかな薄笑いをうかべながら云った。
「此方の御主人と果合いをしましたでしょう? あれが出世の緒口《いとぐち》になりましたの」
「果合いでございますって?……それはいつ」
「ほほほほ、貴女は御存じありませんの? 尤もお負けになったのだから、御主人もお話がし悪かったでしょうけれど。……その果合いの様子を松平越中守さまの御重役が、お屋敷の中から見ていらしったのですって、それで是非にという御懇望で仕官致しましたの」
どうだと云わん許りに、和枝は額をあげて信子を見た。信子は黙っていた。
「わたくしたち今では越中家のお屋敷に居りますわ。来て頂くという訳にもいきませんけれど、それだけお知らせにあがりましたの。……失礼いたします」
驕慢な口調で、云うだけのことを云うと和枝は去って行った。……恐らくは見返してやる気で訪れたものであろう。然し、信子はそんなことよりも、良人と市之進が果合いをしたということ、それが縁で越中守に召抱えられたということを聞いて、頭いっぱいに訳の分らぬ混乱が起った。
――松平越中守、白川藩の御重役。
白川藩の重役といえば、いま客間へ来ている大沼将監も越中守家の重役ではないか、それはあのとき、信子が市之進を推挙して貰おうとした相手ではないか。
信子は部屋へ戻った。……計らずも思い出した将監のことから、まだ茶を運んだ許りでなんのもてなしもしてなかったことに気付いたのである。……将監の好物である松花堂の玉露糖を持って、信子は静かに客間へ行った。
然し、客間へ入ろうとしたとき、中から聞えて来る低い話声の一つが、思わず信子を立ち止らせた。
「あの男、お役に立ちそうですか」
良人の声である。
「あの男?……ああ市之進か」
将監の声も低かった。
「……ふん、馬鹿と鋏は使いようと云ってな、叩けばどうにか役に立つじゃろ、腕もかなりなもんじゃが、なにしろ高慢が瑾《きず》だ、あれが脱《と》れぬうちは駄目じゃよ、……胴へ入れた貴公の一刀、儂の見たところでは下着まで斬ったと思うが、……あの男それをまだ知らぬようだぞ」
「着物は脱ぎますから、始末する者が云わなければ知れますまい。……あの女房は、良人をよく知っています」
「だが、貴公も馬鹿げた世話をやく、あれはほどにして市之進を推挙する義理でもあるのか?」
石の音がした。……それからやや暫くして、欽之助の笑を含んだ声がした。
「川柳点にこんなのがあります、『あの女房すんでに己が持つところ』……御存じですか?」
「そんなものは知らん」
「穿っているでしょう。……それなんです、実はずっとまえ、あの女房と拙者とのあいだに縁談があったのです、吉井の父がお気に入りでした。是非貰えというのです。然し……いちど会ってみて直ぐ、是はいかんと思いました。ひと口に申すとまるで拙者などの歯に合う女ではないのです。それで断わりました」
「それが市之進に嫁ったというのか?」
「恋仲だったそうですね」
「怪しからん、猥りがましい左様な」
「そういう女だったのです、吉井の父もあとでそのことを知って、無理強いに勧めたことを謝っていました」
「だが……あの果合いのとき市之進めは、恋敵だとやら申していたではないか」
「女がそう云ったのでしょう、或る女たちは世界中の男が自分に恋し、そして失恋するものだと思います。あの女もそういう気質の一人なのです。……たとえ死んでも、男から縁談をことわられたなどということを承認する女ではありません。……市之進はそれを見抜けなかった、それがあの男を不幸にしたのです」
信子の全身の血が歓呼の叫びをあげた。
――良人は和枝を愛しはしなかった、良人は和枝を愛したことはなかったのだ。
なんという歓喜だ。和枝の気質を知っている信子には、いまこそまざまざと凡てが分る、いまこそ真実が光を浴びて登場する、そうだ、凡ては和枝の虚栄の心から出たことだったのだ。
「だから……」
と欽之助は続けた。
「あの男のためにひと肌脱ぐ気になったのです。むろん、信子から頼まれなかったら、そうと知ってもあんなことはしなかったでしょうが、あの女が妻の親しい友達だということで……それで此方へもお願いした次第です」
「その苦心が彼に分るかしらん、あの一刀の戒《いまし》めすら気付かぬ市之進めに……」
「拙者の計らったことだという点は、どうかいつまでも分らぬようにして置いて下さい、……分らせないためにあんな面倒なことをしたのですから」
「憎いほど……貴公はよく気が廻る。……佐藤はよい婿をとり居ったぞ」
将監は歎息した、それから、急にくすくすと笑いだして云った。
「なんだって? あの女房……そのいま申した川柳点とやらをもういちど聞かせんか」
「いけません、今度云うと悪口になりますから」
「なに知っとる、あの女房……すでに、あの女房すでに拙者が……すでに自分が……」
信子は幸福で胸をいっぱいにしながら襖を明けた。
抑えようのない涙と微笑がつきあげてくる。
良人の逞しい肩が、そのときほど頼母しく見えたことはなかった。
――大沼さまがお帰りになったら、すぐあのことを申し上げよう。
菓子盆を置きながら、信子は片手でそっと胸の下を抑えた。
新しい生命を、温かく生々と掌《たなごころ》へ感じながら、彼女は明るく澄んだ声で云った。
「粗菓でございます」
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「奉公身命」大白書房
1941(昭和16)年10月
初出:「奉公身命」大白書房
1941(昭和16)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(例)吃驚《びっくり》
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(例)御|緻縹《きりょう》
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(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
「まあ吃驚《びっくり》させること」
「そんなに驚いていて?」
「驚きますとも、こんなに突然いらっしゃるのですもの、でもよく来て下すったわ」
信子は友の手を取りながら、いそいそと自分の居間へ導いた。
「こんな狭いところで御免あそばせ、お客間でいま碁が始ってますから、此方の方が気楽で宜しいわ、……どうぞお楽にね」
「御来客でございますの?」
「主人の碁敵ですの、構いませんからどうぞ御ゆっくりあそばして、……なつかしいこと」
横庭に面した窓を明けて、信子は友の眼を熱く見戍《みまも》りながら云った。
「何年ぶりでしょう、五年かしら」
「五年、……そう、丁度五年ですわ」
「お変りにならないのね、憎らしいほどお美しいわ」
「あら、それは貴女のことよ」
和枝は明暗の濃い表情で睨みながら頭を振った。
「貴女こそ見違えるほどお美しくなったわ、少しお肥えになったようだし、肌など艶々として、まるでお嬢さまのように初々しいわ、お仕合せなのね」
「お仕合せなのは何方《どちら》かしら、あんなに華かな噂で、さんざんわたくしたちを羨ませて、お望み通りの方と御祝言をあそばして、本当に貴女は仕合せを絵に描いたような方ですわ」
「それを云わないで、信子さま」
和枝は急に眼を伏せながら遮った。
「わたくし仕合せじゃないの、この着物を見て頂戴、それからこの顔、痩せたでしょう、手だってこんなに汚くなってしまったわ」
「和枝さま、そんなことおっしゃっては」
「いいえ本当、妾《わたくし》、間違ってしまったんですわ」
信子は黙ってしまった。そして、あの頃の事を思い出した。
二人は五年まえまで、琴の師匠の許で相弟子の仲だった。和枝は米沢藩上杉家の江戸留守役を勤める波木井靱負《はぎいゆきえ》の二女であった。琴も上手だったし、派手好みで勝気で、おまけに群を抜いた美貌の持主で、常に弟子たち仲間の女王のような位置を占めていた。……衣裳も髪飾りも、絶えず新しい流行を追い、しかも武家の娘には不似合な豪奢な品ばかり揃えていたし、時には歌舞伎役者の紋を附けた道具などを、平気で持ち歩いたりした。
こういう派手ずくめな和枝は、毎《いつ》もなにかしら弟子たちのあいだに新しい話題を投じていたが、或る時、おそろしく思い切ったことを云いだして皆の眼を瞠《みは》らせた。
――わたくしにいま縁談があるの。
和枝は、常に話題の中心になる者の自信たっぷりな調子で云った。
――半年もまえからわたくしを見染めたのですって。向うの家は御老職なのよ、御二男で分家をなさるっていうんだけど、わたくし断っていますの。……だってその方は御|緻縹《きりょう》もぱっとしないし、お話も下手だし、なんだか辛気臭くって迚《とて》も嫁ぐ気になれないんですもの。……だけど本当を云うとね。
と、彼女は悪戯そうに声をひそめた。
――わたくし実は、いま恋人があるのよ。
――まあ、和枝さまったら。
――驚くことないわ、自分の一生の良人ですもの、自分が好きな人を選ぶのあたりまえじゃありませんか。その方とても殿御ぶりがいいし、気が利いているし。……皆さんにもいちど見て頂くわ。
厳格な武家に育った娘たちは、和枝の話を聞いてみんな胆を消した。縁談のことを口にするさえ恥かしい年頃なのに、男の品評や、恋人があることまでずばずば云う、その思い切った態度には、唖然として返すべき言葉もなかった。……そして事実、それから四五日経つと、和枝の恋人だというその若侍が、稽古帰りの彼女を待っているところを、皆は見せられた。
男は美男だった、和枝がみんなに引合せると、彼は平気で皆に話しかけて来た。……それは如何にも、機智に富み、そつ[#「そつ」に傍点]の無い気の利いた態度で、身装《みなり》もひどく凝った好みをみせていた。
和枝はそれから間もなく、親たちの反対を押し切って、その男と結婚し、同時に琴の師から去ったのである。……想ひ合った同志の二人が、幸福な生活を送っているだろうということは誰も疑わなかった、噂が出ればきまって、
――お似合いの御夫婦で、さぞ円満でしょう。
――きっとお揃いで派手に暮していらっしゃるわ。
半分は羨望を交えて話し合ったものだ。それなのに、いま五年振りで会う和枝はまるで人柄が違っている、……着物も貧しく、髪飾も申訳ばかり、美しさを誇った面ざしも痩が目立つし、手指も荒れてかさかさに乾いている。
むかしの花の、なんと無慙に萎れたことであろう、信子は思わず眼を外らした。
「良人《おっと》はわたくしが考えたような人ではなかったの。娘の目なんて……本当に馬鹿なものですわね、縹緻がいいだの、気が利くの、話し巧者だの、……そんなところしか分らない、本当のものなんか何も見えないのよ。わたくし……親たちの意見を馬鹿にした自分の愚さがよく分りましたわ」
和枝はそっと涙を拭いた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
彼女の良人|寺門市之進《てらかどいちのしん》は二百石の留守役であったが、派手な生活を続けるために出入りの商人たちと金の間違いを起し、三年まえに浪人してしまった。……親たちからは面目に関すると云って義絶されるし、些《いささ》かの貯えもない夫婦は、全く貧窮の底に陥ったのである。
「でもわたくし」
和枝は涙を押し拭って云った。
「このままで終りたくないの、今までのことはすっかり忘れて、生れ変った気持で、なにもかも新しくやり直してみるつもりよ、良人もその覚悟でせっせと道場通いを始めています」
「道場へいらしって?」
「若い頃から剣法だけは才があると云われていたのですって、この道で必ず世に出るのだって、いま夢中で稽古に通っていますの。……それで、実は貴女にお願いがあって来たのですけど」
「伺いますわ、御相談になれることなら」
「此方《こちら》ではたしか、御用人をお勤めあそばしてらっしゃるでしょう。若《も》しもいい折がありましたら、……仕官の口をお世話して頂きたいと思いますの」
どんな小藩でもいいし、食禄にも望みはない、士分でさえあれば、兎に角それを土台として、将来の立身は自分の腕で努める。……和枝は懇願するように繰返した。
「他にはお頼りする方もありませんし」
そう云ったときの淋しい眸を、信子は忘れることが出来なかった。
和枝が帰るのを送ってから、信子は茶の支度をして客間へ行った。……そこでは主人の欽之助と、客の松平越中守の老職である大沼将監とが、まだ熱心に碁を囲んでいた。
「誰か客のようだったが……」
「はい、わたくしの古いお友達でございました」
「此方《こっち》は構わなくていいぞ」
「いいえ、もう帰りましたから」
欽之助はそうかと頷いて茶を取った。
客の大沼老人は、いま窮地にある様子で、盤面の上へのしかかるようにしながら、殆ど夢中で手を読んでいた。……将監は白川藩松平家の江戸年寄役で、ながいこと信子の父と碁敵であったのを、父が去年亡くなるとそのまま、欽之助に相手を持ち越したかたちで、暇さえあると押し掛けて来るのだった。……数日まえに来たとき、
――藩邸の道場で手直し番を一人欲しいが、適当な人物はないだろうか。
と云っていたのを信子は思い出し、和枝のことを良人に頼もうと考えたのであった。
「どうぞお茶を一服……」
「いや、それどころの騒ぎではない、どうか構わないで、此処が生死の境じゃ」
信子のすすめる茶には見向きもせず、老人は盤面にのしかかって呻いた。……信子はそっと良人を見た。欽之助は微笑しながら茶を啜っていた。
――偶《たま》には負けて差上げればいいのに。
そう思いながら、信子はそっと座を退いた。
信子は自分を仕合せだと思っている。和枝の身上を聞いてからは一層その感を深くした。父の佐藤小典は大久保家の用人で、彼女はその一人娘だったが、和枝とは反対に縹緻《きりょう》も性質も平凡だし、父の厳しい躾け通りにつつましく育った。……そして、三年まえに欽之助を婿に迎えたのであるが、彼もまた同じような人柄で、口数も寡《すくな》く、起居も静かな、これといって人眼につく特徴のない人物だった。
欽之助は松平丹後守の老職の二男だから、家柄もおつかつだし、そのうえ気質もよく似た極めて平凡な縁組であった。そして其の後の生活も、またなんの奇もなく、落着いた静かな日が続いている。去年父が死ぬと、直ぐその跡を継いで用人になったが、これとても至極無事に運んだことで、家中の評判も悪からず、と云って特に好評というのでもなく、つまり、すべてが平穏無事に過ぎているのである。そして如何にもそれは二人に似つかわしい生活であった。
「……信子、お帰りだぞ」
良人の声が聞えたのは、それから更に一刻ほど後のことだった。……客を送り出すと、さすがに労《つか》れた様子で、信子のたてる薄茶を美味そうに代えながら、珍しく気軽に雑談を始めた。
――和枝の話をするなら今がいい。
信子はそう気付いたので、
「わたくしお願いがあるのですけれど」
と口を切った。欽之助は直ぐ察したという眼で、
「さっき来た客のことか」
「はい、わたくしの古いお琴の友達なのですけれど、いまお気の毒な身の上になっていらして……」
信子は、和枝の身の上を詳しく語った。
欽之助は黙って聞いていたが、和枝が親の反対を押し切って、寺門市之進と結婚したというあたりへ来ると、いつか妻から顔を外向《そむ》けて、不快そうに眉をひそめていた。
「そういう訳で、いまお二人は生れ変ったつもりで初めからやり直そうとしているんですけれど、それについて何処か仕官の口がありましたら」
「世話をしろと云うのか」
欽之助の口調は驚くほど厳しかった。
「そして、おまえそれを請合ったのか」
「はい、……わたくし若《も》しや、……大沼さまの御家中にでも」
「差し出がましいことをする」
信子は吃驚《びっくり》して良人を見た。……欽之助はひどく不快そうに立ちながら去った。
「武士が主取りをするのに、妻の縁などを頼るとは不作法なことだ、仕官の口が頼みたいなら其の者が自分でまいるべきではないか、……左様なこと、猥りに取次いではならん」
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
「わたくしの話し方が悪かったのですわ」
信子は済まなそうに云った。
「ですから、主人は怒ったのだと思いますの。家へ来てから三年、いちども叱られたことがないので、わたくしすっかりどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してしまって……」
「申し訳ないこと」
――和枝は淋しそうに眼を伏せた。
「わたくしがあんなお願いにあがったのは悪かったのね」
「いいえ、それは違ってよ、話す時と話し方がいけなかったの、主人の気持をよく知っていたつもりなのに、やはり女は考え方が足らないんですのね。……ですから、いちど御主人に宅へおいでを願ったらと思うのですけれど」
「でも、それではなおお怒りになるでしょう」
和枝がそう云いかけた時、表の格子が手荒く明いて、誰か入って来る気配がした。
「良人ですわ」
和枝がそう云いながら立とうとした。然しそれより先に、襖を明けて寺門市之進が入って来た。……裏長屋のひと間きりない侘《わび》住居、身を避ける余地もない狭い部屋だった。
「お帰りなさいまし、こちらは……」
「いや分ってる」
市之進は妻の言葉を遮って、
「いま格子の外であらまし聞いた。おまえ此方に仕官の口でもお願いしたとみえるな」
「はい、申し上げないで悪うございましたが」
「悪い、馬鹿なことをする!」
立ったままである。
初対面の挨拶もなく、客の前で立ったまま妻を叱りつける不作法な態度に、信子は呆れて眼をやった。……いつかの日、琴の稽古帰りに見た時とは様子もずいぶん違っている。美男だった面影は貧苦のためかとげとげ[#「とげとげ」に傍点]しく痩せ、洗い晒しの着物には継ぎが当っていた。
「失礼だが、貴女の御主人は」
と、彼は信子を見下ろして云った。
「大久保家で佐藤欽之助とおっしゃるのですね、いま表で供の者に訊いたのだが、……元は丹後守の家中で清水という姓ではありませんか」
「はい、……左様でございます」
「そうでしょう、多分そうだと思った」
市之進は嘲るように鼻で笑った。
「だからこそ、拙者自身で頼みに来いなどと云ったのですよ、御主人はさぞ得意になっておいでだろう、ははははは」
「貴方は主人を御存じでいらっしゃいますか」
「拙者だけではない、ここにいる妻も知っています、分りよく云えば、貴女の御主人と拙者とは恋敵だったのです。そして貴女の御主人側は負けたのです。和枝は貴女の御主人を嫌って拙者の妻になった訳です。……大層な御執心だったのですがね」
「貴方、そんなことをおっしゃって」
「黙ってろ」
驚いて止めようとする和枝を叱りつけて、
「おまえもおまえだ、清水欽之助が大久保家中に婿入りしたことは聞いた筈ではないか。選《よ》りに選って彼奴《あいつ》の所へ、落魄《おちぶ》れた恰好で仕官の口を頼みに行くなんて、求めて嘲笑を買うようなものではないか、ばかな」
「でもわたくし、まさか……」
「お帰り下さい」
市之進は乱暴に喚いた。
「そして帰ったら御主人にそう伝えて下さい、恋の遺恨が晴れてさぞ本望でござろうと、……然し、然し寺門市之進も武士だ、昔の恋敵に憐憫を乞うほど落魄れはせぬと」
信子は夢中で外へ出た。
市之進の辛辣な言葉が、針のように心を刺した。夢にも知らなかったことだ。良人が曽て自分の他に人を恋したという、然もその相手が和枝であったという、……考えてみればあの頃、某藩の老職の二男が和枝を見染め、半年あまりも熱心に求婚していたという話を聞いていたが、それが良人であったに違いない。
――そうだ、それだからこそ良人は、あんなに怒ったのだ、あんなに不快そうな怒り方をしたのだ。
――そして、あんなに怒る以上、良人はまだ、まだその恋を忘れることが出来ずにいるのではあるまいか。
信子の頭は昏《くら》くなった。……今日までの平凡ながら静かな、落着いた仕合せな生活の底に、そんな秘密が隠れていたのだと思うと、信子はあらゆるものが砂のように崩壊するのを感じて、思わず両手で面を蔽った。
――良人があの人を、あの人を……。
若し供の者が注意してなかったら信子は家へ帰ることをさえ忘れたに違いない。平穏無事に育って来た信子の心はこの大きな衝撃に遭って全く打ちのめされてしまった。世間の家庭に起る悲しい話を聞くたびに、自分たちだけはと思っていた仕合せが、矢張り同じような不運を胎《はら》んでいたのだ、……今までの静かな、仕合せな生活は二度と帰っては来ないだろう。
――ああ!
信子はなんども低く呻き声をあげた。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
五月雨《さみだれ》のからっと晴れた日だった。
槙町にある道場から出た市之進が、八丁堀の家へ帰ろうとして歩いて行くと、河岸のところで向うから来た二人連れの武士の一人が、市之進の方を指しながら、
「……あの男です」と、連れに云うのが聞えた。
無礼な奴と思って市之進が見ると、それは佐藤欽之助であった。……連れは六十に近い老武士で、欽之助と共になにやら笑いながら此方《こっち》を見て通過ぎようとする。
――おのれ! と市之進は向直って、
「待て、欽之助待て!」
声をかけながら二人の前へ立ち塞がった。……老人の方は二三間とび退いたが、欽之助は冷笑したまま傲然と立ち止った。
「貴、貴公いま、なにを笑った」
「……笑いはしない」
「己は聾《つんぼ》でも盲でもないぞ、貴公いま己を指さし、あの男だと云って連れと一緒に笑ったではないか、己の落魄《おちぶ》れたのが可笑しいか、それで昔の恨《うらみ》を晴らすつもりか」
「貴公がそんな姿をしているのを見ると」
欽之助は冷やかに去った。
「……それは慥《たしか》に可笑しいよ、然し、その姿が可笑しいのじゃないぞ、昔の姿を思い出すからだ」
「申したな、……武士が武士を笑うからは、覚悟があるだろうな」
「なんだ、果合いでも望むのか」
「あの頃とは少々違うぞ、来い!」
欽之助は唇で笑いながら、
「狼狽《うろた》えるな、こんな街中でなにが出来る。果合いをするなら少し歩こう、邪魔の入らぬところで悠《ゆっ》くりやろうではないか。……お互いに片をつけるいい時だ」
「よし、逃げるなよ」
二人は歩きだした。……欽之助の連れの老人も少し後から跟《つ》いて行った。
橋を渡ると、松平越中守の屋敷で、塀に沿って行くと舟入り堀になる。四辺《あたり》はひっそりした組屋敷が並び、堀に面して空地がひらけていた。……市之進は大股にその空地へ入ると、手早く身支度をして大剣を抜いた。
「さあ来い。……お連れの仁、助太刀をなさるか」
「馬鹿な」
欽之助は冷笑して、
「この御仁には関わりのないことだ。安心して力いっぱい斬って来い。娘を騙すのと真剣勝負は勝手が違うぞ」
「よく云った、貴様こそその言葉を忘れるな」
欽之助は覆物を脱いで、大剣の柄へ手をかけたまま、よし[#「よし」に傍点]と云った。
市之進は籠手下りの上段につけた。
連れの老人は二三間はなれた所から、無言のまま凝《じっ》と様子を見ていた。……欽之助は相手の眼を見詰めたまま微動もしない。市之進の面上に、やがてさっ[#「さっ」に傍点]と血が充ちて来た。
傾きかかった光の空を、蜻蛉がついついと飛んで行く。堀の向うに繋いである舟の上で舟子たちが二三人なにやら高声に話している。四辺がひっそりとしているので、その話声がのどかに聞えて来た。
突然、稲妻が空を截《き》ったかと見えた。
喉を劈《さ》く絶叫と、二刀《ふたふり》の剣光が同時に殺到し、両個の体が風を発して躍動した。……然し、次の刹那には、欽之助は二三間とび退きざまだっ[#「だっ」に傍点]と尻餅をつき、市之進は大剣を頭上にのしかかっていた。
「勝負みえた、みえたぞ!」
危い一瞬、黙って見ていた老人が、そう叫びながら二人の間へ割って入った。
「これ以上は無用、……先ず、先ず其許《そのもと》から刀をお引き下さい」
「拙者は、引いても、宜しいが」
そう云って市之進は欽之助を見やった。
「高言にも似合わぬ、恋も剣も、しょせんは勝つ者が勝つようだな。……立ち上ってもう一度やるか、拙者の方に遠慮はいらんぞ」
「…………」
欽之助は刀を持ったまま頭を垂れ、肩を波打たせていた。老人は市之進を抑えた。
「もうやめられい。果合いは勝負が決すればそれでよい、この老人が確《しか》と検分を仕った、どうぞもうお引き下さい」
「折角のお執成し、仰せに任せます」
「それで老人の面目も立つ。佐藤氏、さあこれへまいって仲直りをするがよい。武士は武士らしく、果合いは果合い、終ったらあっさり手を握るものだ」
「お言葉ですがそれは拙者が御免蒙る」
市之進は大剣を鞘に納め、身支度を直しながら冷やかに拒絶した。
「その男とは素より友人でもなし、これから、再び口を利く要はないでしょう。……欽之助、口惜しかったらいつでも来い、家は貴様の女房が知っている、逃げも隠れもせんぞ」
云い捨てて彼は空地から去った。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
家へ帰ると、出迎えた和枝が、
「……どうかなさいましたか」
と不審そうに訊いた。
「大層お顔の色が悪うございますが」
「……欽之助と会ったんだ」
市之進はあがると直ぐ袴の紐を解きながら、
「汗になったから着換えさして呉れ」
「はい。……それで、なにか?」
「己を見て笑い居った。……連れがあってな、それに己の落魄れた姿を指さしながら、あの男だと云って笑ったんだ、それで果合いをした」
「まあ! 果合いを?」
「馬鹿な話さ」
裸になった市之進は水口へ下り、盥《たらい》へ水を汲んで体の汗を拭きながら話しつづけた。
「よほど恋の遺恨が忘れられぬとみえてな、娘を口説くのと、真剣勝負とは勝手が違うぞ、などと高言を吐いたが、いざ抜合せてみるとたあい[#「たあい」に傍点]のない奴さ」
「……まさかあの方を……」
「斬れば斬れたが、その連れの老人が割って入り、勝負みえたと止めるので、命だけは助けてやったよ」
「それで、貴方には別にお怪我は……」
「馬鹿を云え、あんな奴になんで手が出るものか、さんざん辱めてやったがぐうの音も出せず、尻餅をついて片息という態《ざま》さ」
話を聞きながら、良人の脱いだ物を片付けていた和枝は、なにをみつけたかはっ[#「はっ」に傍点]と色を変え、手早く袴、帯、着物と、そこへひろげて見直した。……袴と帯と着物と、その三つを通して一文字に五寸ばかり、刀で薙《な》いだ裂目がある。丁度臍の真下というところだ、肌襦袢一重だけが危く免れているだけ。……いま一寸伸びていたら、そう思うと和枝は全身の血が逆流するような恐怖を感じた。
「なんだ、なにを見ている」
「あ! いえ、い、いま乾そうと存じまして」
和枝は慌ててひと纒《まと》めに押しやりながら、立ち上って良人の背へ着物を着せかけた。
「どうした、手が震えているではないか」
「怖い話を伺ったものですから」
「欽之助のあの態《ざま》を見ていたら、怖いより可笑しくって笑ったろう、あれで大久保家の用人だというんだから馬鹿気てる、……婿に行ったお蔭だということを知ってるのかしらん」
「も、もう二度とこんなことは、ないのでございましょうね、また果合いなどと」
「あの腰抜けではないなあ」
市之進は元気な声で笑った。
和枝は良人の言葉を聞いていなかった。良人は飽くまで勝ったと信じている。そして事実そうかも知れない、然し相手の刀は良人の袴から着物まで通っている、良人はそれを気付いていないのだ。……偶然そこまでしか届かなかったのか、それとも、欽之助がわざと傷つけることを避けたのか、いずれにしてもそれに気付かない良人が、果して本当に勝ったと云えるであろうか?
――事実を良人に話さなくてはならない。
和枝はそう思った。二人は生れ変ったつもりで再出発しようとしているのだ。良人を本当の武士にするためには、この事実ははっきりさせなくてはいけない。
――然し、若し事実を知ったら。
良人は果して素直な気持で考え直して呉れるだろうか、否! 恐らく彼の気性として再び果合いを挑むであろう、そうしたらどうなる。良人が再び勝てばいい、万一にも欽之助の刀が今度こそもう一寸伸びた場合には……。
和枝はぞっと身震いを感じた。然し、それは自分の考えの怖ろしさではなくて、門口に訪れる人の声がしたからである。
「物申す、……物申す」
「はい」
和枝が急いで立上った。……障子を明けると、門口に中年の武士が立っている。ついぞ見なれぬ顔だった。
「なんぞ御用でございますか」
「不躾なことをお訊ね用すが、松倉町の堀端にて、先刻果合いをなすったのは此方の御主人ではござるまいか、お伺い仕る」
「ああ拙者です」
市之進が答えながら立って来た。
「それについて御不審でもありますか」
「いや、実は、拙者は松平越中守家中の者でござるが、上役の者共が今日お立合いの始終を屋敷内より拝見仕りましたそうで」
「お屋敷から?……ああなるほど、越中様の裏でしたな」
「それで失礼ながら、若し御浪々中なれば是非いちど御意を得たく、御都合お繰合せのうえ藩邸までお運びを願うようにと、拙者使者に遣わされてまいった次第でござるが」
「然し、……御用向は一体なんですか」
「拙者からは申し上げ兼ねるが、貴殿の刀法をお慕い申してのことゆえ、或いは、……仕官のお勤めなどではあるまいかと思います」
市之進は茫然と妻の方を振返った。……禍が転じて福となったのだ。あの果合いを越中守の家臣が屋敷の中から見ていたのだ。そして恐らく此処まで跟けて来たに違いない。
――出世の時が来た。
光のように輝く良人の顔を、和枝もひたと熱い眼で見上げながら、そして胸いっぱいにこう叫んでいた。
――良人は矢張り勝ったのだ。見ていた人がこうして証人になって呉れた。……良人は勝ったのだ、到頭、自分たちの世に出る時が来たのだ。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「何処か体の具合でも悪いのではないか」
「……いいえ」
「近頃少し晴れ晴れせぬようだな」
信子は眼をあげられなかった。
和枝夫妻を訪ねてから二十日余りになる、自分では良人に悟られぬように努めているつもりなのに、心の憂悶は自然と色に出てしまう。……良人が曽て和枝を愛したということは、まだ自分と縁組をする以前のことであるし、結局その愛は酬いられなかったのだから、そんなに苦しむ理由にはならない筈だ。
――その年頃になれば、男も女も誰かを愛するようになる、それは自然なことだ。
良人だけが特別にそうだった訳ではない。そういう経験は誰にでもあることなのだ。
そう自分に説き聞かせるあとから、
――でもわたしはそうではなかった、わたしにとっては良人が初めて愛情を注いだ人だ。わたしの心には、良人と会うまえにどんな人の影をも留めていなかった。
信子は苦しんだ。深窓に育ち、世の経験に浅いだけ、初めて受けた心の傷手をどう切抜けたらいいか分らないのである。良人に凡てを打明けたら、なんどもそう考えた。然し、むろん出来ることではなかった。
「なにか心配ごとでもあるなら話したらどうか、若しまた体に故障でもあるなら医者にみせなければならぬ。……顔色も悪く、沈んでばかりいる様子は変ではないか」
「でも本当に、なんでもございませんのですから」
「それならいいが」
欽之助は呟《つぶや》くように云った。
「男は迂濶だからな、……云うべきことは云って呉れぬと」
「……はい」
「今日はまた将監どのが見える日だった、いまの内に御用の始末をして置こう」
そう云って立上ったが、ふと静かにてれ[#「てれ」に傍点]たような笑い方をしながら、
「実は家中の老人連から頻《しき》りに訊かれるのだよ、もうそろそろ目出度い報せがあってもいい頃ではないかって、……それで余計、気になっていたのだ」
「まあ、……そんなこと、……」
信子はどきっと胸をうたれた。
良人の去って行くのを見上げることもせず、信子は耳まで赧くなった面を伏せていた。……此頃つづく煩悶で思い出す暇もなかったけれど、信子の体はもう三月あまり変調であった。若しやという気もしたし、一方ではまた騙されるのではないかとも思っていた、それがいま良人の口からそう云われた刹那、いきなり揺り上げられたような激しい感動と共に、
――そうだ。
と頷くものを全身に直覚した。
良人の声音は明かに期待する色を持っていた。夫婦という感覚のつながりの微妙さが、良人の心のそのことを伝えたのであろう。その気持が、信子を直《じか》に揺りあげたのだ。けれど、彼女の心はいま、それを喜んでいいのか哀しんでいいのか分らないほど混乱している。良人の昔の恋がこんなに自分を苦しめているとき、そのときに自分が新しい生命を胸の下に自覚しなければならぬとは……。
大沼将監が例の通り碁打ちに来た。
そして、その接待の終らぬうちに家扶が信子への来客を知らせて来た。……和枝が玄関で会いたいというのである。
「……和枝さまが、なんの用で来たのだろう」
信子は疵口を撫でられたような身の震えを感じながら出て行った。
和枝は玄関先に立っていた。……あの時とは見違えるほど立派な姿になっている。贅沢なものではないが衣裳も新しく、艶々と結いあげた髪には櫛簪が光っているし、顔には薄化粧さえしていた。
「表を通りかかったのでお寄りしました」
和枝はひどく切り口上で云った。
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
「あのときは御迷惑を掛けましたわね、でももう心配して頂く必要はなくなりましたわ、良人は二百石で出世を致しましたから。……それを申し上げようと思いましてね」
「それは……お目出度うございますこと」
「皮肉なめぐりあわせですわね」
和枝は相手を見下ろすように、冷やかな薄笑いをうかべながら云った。
「此方の御主人と果合いをしましたでしょう? あれが出世の緒口《いとぐち》になりましたの」
「果合いでございますって?……それはいつ」
「ほほほほ、貴女は御存じありませんの? 尤もお負けになったのだから、御主人もお話がし悪かったでしょうけれど。……その果合いの様子を松平越中守さまの御重役が、お屋敷の中から見ていらしったのですって、それで是非にという御懇望で仕官致しましたの」
どうだと云わん許りに、和枝は額をあげて信子を見た。信子は黙っていた。
「わたくしたち今では越中家のお屋敷に居りますわ。来て頂くという訳にもいきませんけれど、それだけお知らせにあがりましたの。……失礼いたします」
驕慢な口調で、云うだけのことを云うと和枝は去って行った。……恐らくは見返してやる気で訪れたものであろう。然し、信子はそんなことよりも、良人と市之進が果合いをしたということ、それが縁で越中守に召抱えられたということを聞いて、頭いっぱいに訳の分らぬ混乱が起った。
――松平越中守、白川藩の御重役。
白川藩の重役といえば、いま客間へ来ている大沼将監も越中守家の重役ではないか、それはあのとき、信子が市之進を推挙して貰おうとした相手ではないか。
信子は部屋へ戻った。……計らずも思い出した将監のことから、まだ茶を運んだ許りでなんのもてなしもしてなかったことに気付いたのである。……将監の好物である松花堂の玉露糖を持って、信子は静かに客間へ行った。
然し、客間へ入ろうとしたとき、中から聞えて来る低い話声の一つが、思わず信子を立ち止らせた。
「あの男、お役に立ちそうですか」
良人の声である。
「あの男?……ああ市之進か」
将監の声も低かった。
「……ふん、馬鹿と鋏は使いようと云ってな、叩けばどうにか役に立つじゃろ、腕もかなりなもんじゃが、なにしろ高慢が瑾《きず》だ、あれが脱《と》れぬうちは駄目じゃよ、……胴へ入れた貴公の一刀、儂の見たところでは下着まで斬ったと思うが、……あの男それをまだ知らぬようだぞ」
「着物は脱ぎますから、始末する者が云わなければ知れますまい。……あの女房は、良人をよく知っています」
「だが、貴公も馬鹿げた世話をやく、あれはほどにして市之進を推挙する義理でもあるのか?」
石の音がした。……それからやや暫くして、欽之助の笑を含んだ声がした。
「川柳点にこんなのがあります、『あの女房すんでに己が持つところ』……御存じですか?」
「そんなものは知らん」
「穿っているでしょう。……それなんです、実はずっとまえ、あの女房と拙者とのあいだに縁談があったのです、吉井の父がお気に入りでした。是非貰えというのです。然し……いちど会ってみて直ぐ、是はいかんと思いました。ひと口に申すとまるで拙者などの歯に合う女ではないのです。それで断わりました」
「それが市之進に嫁ったというのか?」
「恋仲だったそうですね」
「怪しからん、猥りがましい左様な」
「そういう女だったのです、吉井の父もあとでそのことを知って、無理強いに勧めたことを謝っていました」
「だが……あの果合いのとき市之進めは、恋敵だとやら申していたではないか」
「女がそう云ったのでしょう、或る女たちは世界中の男が自分に恋し、そして失恋するものだと思います。あの女もそういう気質の一人なのです。……たとえ死んでも、男から縁談をことわられたなどということを承認する女ではありません。……市之進はそれを見抜けなかった、それがあの男を不幸にしたのです」
信子の全身の血が歓呼の叫びをあげた。
――良人は和枝を愛しはしなかった、良人は和枝を愛したことはなかったのだ。
なんという歓喜だ。和枝の気質を知っている信子には、いまこそまざまざと凡てが分る、いまこそ真実が光を浴びて登場する、そうだ、凡ては和枝の虚栄の心から出たことだったのだ。
「だから……」
と欽之助は続けた。
「あの男のためにひと肌脱ぐ気になったのです。むろん、信子から頼まれなかったら、そうと知ってもあんなことはしなかったでしょうが、あの女が妻の親しい友達だということで……それで此方へもお願いした次第です」
「その苦心が彼に分るかしらん、あの一刀の戒《いまし》めすら気付かぬ市之進めに……」
「拙者の計らったことだという点は、どうかいつまでも分らぬようにして置いて下さい、……分らせないためにあんな面倒なことをしたのですから」
「憎いほど……貴公はよく気が廻る。……佐藤はよい婿をとり居ったぞ」
将監は歎息した、それから、急にくすくすと笑いだして云った。
「なんだって? あの女房……そのいま申した川柳点とやらをもういちど聞かせんか」
「いけません、今度云うと悪口になりますから」
「なに知っとる、あの女房……すでに、あの女房すでに拙者が……すでに自分が……」
信子は幸福で胸をいっぱいにしながら襖を明けた。
抑えようのない涙と微笑がつきあげてくる。
良人の逞しい肩が、そのときほど頼母しく見えたことはなかった。
――大沼さまがお帰りになったら、すぐあのことを申し上げよう。
菓子盆を置きながら、信子は片手でそっと胸の下を抑えた。
新しい生命を、温かく生々と掌《たなごころ》へ感じながら、彼女は明るく澄んだ声で云った。
「粗菓でございます」
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「奉公身命」大白書房
1941(昭和16)年10月
初出:「奉公身命」大白書房
1941(昭和16)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ