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うぐいす

最終更新:2019年11月01日 06:05

harukaze_lab

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うぐいす
山本周五郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)咳《せき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|帖《じょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
-------------------------------------------------------

[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]

「じたばたするこたあないですよ、――よくなるものはいつか、よくなっていくし、……そうでないものはいつだって、同じことでしょう」
「それはまあそうでしょうが」老人は低く咳《せき》をする、「――すると不平なしというわけですな」
「ぬけてるんでしょう、きっと、昔から、よく長生きをするって云われました、戦地でも――いや、こいつも悪かありません」
 暗くてなにも見えない、しかしあたりに人間が大勢いることはたしかだ。老人と昌三が黙ると、誰かの低いうめきや、なにかぶつぶつ呟《つぶ》やく声が聞こえる、少し遠いところで赤ん坊のぐずり泣きが始まり、どこかで男が大きな欠伸《あくび》をする。――赤ん坊の泣きごえが高くなり、舌打ちをする音やなにか小言を言いだす者がある。昌三は軍袴《ぐんこ》の隠しから鶯笛《うぐいすぶえ》をとりだし、もたれていた半身を起こしてそれを吹く。
 ほうーほけきょう、けきょけきょ――。
 芸のない吹き方である。音《ね》は澄んでいて美しいのだから、ちょっと吹き方に技巧を加えればすばらしいだろう、――しかし彼は夢にもそんなことは考えないし、自分では充分それで満足らしい。
 ほうーほうーほけきょう。
 呟やき声やうめきが止まる、赤ん坊の泣きごえが低くなる。みんな、鶯笛の音にひきつけられてゆく。……早春の丘の林、霧にぼかされた梅の花枝、白っぽい女笹の藪《やぶ》、椿《つばき》、青い麦畑、――暗い空間に人々はそれらの幻想をみる、そこから若い鶯の囀《さえ》ずりが聞こえてくる。いっときみじめな現実を忘れ、絶望のくるしさから解放される。……いつものことだ、悲惨な境遇にいる人を慰さめるのはたやすい、コンクリートの冷たい暗澹《あんたん》たる空洞の中では、一枚の木の葉でも悲惨の自覚から救うことができる。昌三の鶯笛はかなりまえからその人たちの慰さめになっていた。
「くどいようですがいかがですか」老人が居住まいを直しながら言う、「このあいだも云ったように私が博奕《ばくち》にでもすってしまうのがおちなんですよ、これで一生めちゃめちゃにしちまいました、――どうです、失敗するつもりでなにかやってみませんかな」
「折角ですがどうも、――御親切はありがたいんですが、……」
 六七日まえ向こうから呼びかけたのがきっかけで、それから毎晩こうして話すようになった。年は六十前後だろう、古洋服に古い外套《がいとう》を着て、骨董品《こっとうひん》のような中折れをかぶっている、勝負事が身を誤るもとで、とうとうこんなところまで落魄《らくはく》したと云っているが、言葉つきもおっとりしているし、風貌にも品があって、こんな地下道で寝る人のようにはみえない。復員して来て五十日以上も経つが、こんなに人と話すのははじめてである。……故郷の市では廃墟の上に、見知らぬ人たちの仮小舎が建っていた、わずかな持ち物を売りながら十日あまりうろついたけれど、自分の家の焼跡さえはっきりわからずじまいで、そのまま漠然と東京へ出て来た。……ありふれた経路である、なにもかもなくなって、地下道で寝るようになってからは、人に恵まれて食ったことも少なくなかった。だがそれをやめた、惰性は人間を腐らせる、ゆき詰まるところへぎりぎりにゆき詰まらないと本当の打開はない。彼は同情や恵みから躰《たい》をかわした、そしてもう七日も水のほかなにも口へ入れない日が続いている。
 老人は一昨日の夜、久しぶりに目が出て五千円ばかりあるが、これでなにかやってみないかと勧めた。昌三は断わった、彼は現在の混沌《こんとん》とした世相にも反感や絶望を感じないし、自分の将来にも決して絶望してはいない。たしかに悪徳や無秩序が氾濫《はんらん》しているけれども、軍閥に逆手《さかて》を取られた恐怖時代よりはましだ、しかもなにか真実な善きものが、すでにこの混沌の中から成長しつつあるのを感じる――自分でぬけていると云う楽天的な気性のためだろうか、戦場でこんどこそいけないというどたん場を、幾たびも生き抜けて来た慣性《かんせい》だろうか、自分の近い将来にもなにか善き途ひらけるという予感、むしろ自信に似たものがあるのだ。……老人はそういうところに興味をもったらしい、だが五千円という金が自分にとって機会《チャンス》だとは彼には思えなかった。
 朝になる。なにも食わなくなってからの八日めの朝が。コンクリートの空洞から人々が追い出される。街はまだはの暗い、市電が烈しい車輪の音を立てる。追い出された群れはちりぢりになって、まだ眠っている蒼白《あおじろい》い街のどこかへ消えてゆく。高い石崖《いしがけ》の下で立ちどまった昌三の脇を、老婆につれられた子供が通りぬける。
「おじさん」子供が振り返る、「――鶯のおじさん」
 地下道の友達なのだ、昌三は手をあげる、笑うことはできない。そして同じ時間の始まりだ、水があると飲む。寝ているベンチから警棒で起こされる、雑踏する往来を歩くが、くさむらの中をゆくように雑踏とは無関係だ。水を飲む、――どことも知れない草原、土堤の斜面。頭の中でぐるぐるとなにかが廻る。幻聴が起こる。からっぽの雑嚢《ざつのう》が肩にくいこむほど重い、ふとなにか頭にひらめく、なんだっけ。……雑嚢を前へまわす、折岩昌三と名が書いてある。
「ああそうか」うなずく、「――おれ自身だ」
 冷たい暗澹たる空洞には今夜も人が群れている、同じことだ、昌三はいつものくせで身を投げだす、終わってゆくようでもあり、始まりつつあるようでもある。なにが、――彼は眼をつむる、どのくらいたってか知らない、隣りへ誰かが割り込んで来る、老人がいつもの調子でこう話しかける。
「今日はたいそう冷えましたな、しかしこれが順当でしょうな」

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 人間はどのくらい饑餓《きが》に耐えられるだろう、戦地では三回ほど経験がある、終戦の時には十二日も水ばかりで暮らした。そのとき悩まされた浮腫《むくみ》はまだ現われないが、幻視と幻聴は明らかに度数が多くなった。――動けなくなる時期の近づいていることはたしからしい、狼狽《ろうばい》する気持が起こる、今になって。
 追い出しが始まった、夜が明けたのだ。立ち上がると老人が「朝飯を一緒にいかがですかな」と云う、毎朝のことである。彼は首を振って別れを告げる、「ではまた、今夜――」そしてみじめな群れとともに出てゆく。
 今朝はいつもより暗い、走ってゆく都電にはまだ燈がついていた、大型のトラックが続けさまに舗道を震動させる。足もとがきまらず、躯《からだ》は浮いているようだ。どっちへゆとう、ぼんやりと公園のほうを見た。――そのとき向こうから走って来る者があった、往来する人をかきわけるようにして、なにか叫んでいる、黒い厚手のコートを着た老婆だった。昌三はどうしたのかと眼をみはる、その人は走って来て、彼の前へ立った、肩で息をしながら叫ぶ。
「まあ坊ちゃま、坊ちゃま、お帰りになったんですか、まあ、――」
 人違いである。昌三はぐらりと手を振った。
「いつお帰りになりました、ばあやはどんなにお待ちしていたかしれません、でもよございました、これでばあやは安心しました」
「あなたは人違いをしていますよ、僕はあなたを知りません」
「まあなにをおっしゃるんです」老婆は近寄って彼の腕をつかむ、「ばあやのお梅をお忘れになったんですか、よく見てください坊ちゃまばあやですよ」
「知りません、失礼ですが僕は――」
「まさか折岩昌三という名までお忘れになったのじゃないでしょうね」老婆はおののくような眼で彼の表情を見まもる、「あああなたは病人のようなお顔をしていらっしゃる、さ、まいりましょう、みんな病気のせいですよ、いま車を呼んで来ますからね」
 たしかに折岩昌三と云った。頭がぐらぐらする、なにも考えられない、人違いだ、舌がひどく粘る、どうしよう。――しかしそこへ老婆が自動車を呼んで来た、たいへんな間違いだ、しかしそれを説明する気力も意欲も起こらない、老婆は彼の腕をかかえる、宙を歩くように漠然とした感情の抵抗がある、だが彼は車へ乗る。……老婆は彼の肩へ手をまわし、自分のほうへもたらせながら話す、彼は断片だけを夢現のように聞くだけだ。
「旦那さまと奥さまはあの晩の空襲に、――お二人とも、ばあやは小山の御新宅のほうにいたんです、半年前から建てていた坊ちゃまのお住居に、……留守番にいっていたばあやだけが助かりました」老婆はハンカチでそっと眼をおおう、「でも工場も本社も焼けちゃいません、戦争が終わるとすぐ仕事を始めて、以前より盛んにやっています、――ただ人は変わりましたわ、工場のほうにはまえからの人がいますけれど、本社は元からの人は半分でしょう、坊ちゃまは専務の加沢《かざわ》さんを御存じでしたね、それから藤田さん、……そのくらいでしょう、お二人ともいませんのよ、加沢さんは空襲で亡くなり、藤田さんは戦争ちゅう飛行機工場へお抜かれなすって、南方で病死したとかいうことです」
 頭の中でぐるぐるとなにか廻りだす。幻聴と老婆の声とが混乱する、父も母も空襲で死んだ、たしかだ。しかし朝になれば地下道から追い出される、そうだ、なにかが始まるんだ、工場から職工たちが群れになって出て来る。
「毎日まいにち駅へいってみました」老婆の声である。「復員局にも、どんなに足を運んだでしょう、……でもきっと、坊ちゃまはきっと帰っていらっしゃるって、――これで安心しました、亡くなった旦那さまや奥さまも、ばあやは、ばあやは、……ばあやは」いつまでも同じ言葉が続く。いくら努力しても笛はいつもの音が出ない、頭の蕊《しん》がぐらぐらとなって、なにもかもわからなくなった。
 車の停まる反動で昌三は眼が覚めた。
「さあ着きました」老婆が彼の腕をとる、「すみませんが「運転手さん、ちょっと手を貸してくださいな、病人なもんですから」
 左右からかかえられて車を下りた。表面のざらざらした低い石の門を入るとき、そこに自分の名の表札が出ているのを見た。折岩昌三たしかにそう書いてあった。
 ――夢を見ているんだな。
 門を入るとゆるい傾斜を二十間ほど登る、丘というほどではないが道よりかなり高い、芝生にまるく刈り込んだ植木がある、家はバンガロー風の見つきで、カーテンの下がった大きいガラス窓が見える。老婆が玄関のドアをあける、そこから昌三の意識はまた印象の断片へとぼやけていった。
 広い大きな応接室、ピアノがあり、壁面に幾つも油画が掲げてある、カーテンの下がっていた窓だ。厚い絨氈《じゅうたん》、「これがお書斎です」やはり洋間で、片方の壁いっぱいに本の詰まった書棚、がっちりと重そうな机、椅子、銀色に光る置き煖炉、まっ白な障子と長い廊下。ようやく地下道へ来た。いつもの場所へ身を投げだす、「鶯のおじさん」同じ夜が始まるのだ。彼は大きい溜息《ためいき》をついた。

[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]

 奇跡というよりほかに説明しようのないことが始まった。
 果汁から重湯になり、牛乳入りのゆるい粥《かゆ》から、やや固めの粥に、煎《い》り卵や刺身がつくようになったのは四日めのことだった。――このあいだお梅という老婆と若い女中が、ほとんどかかりっきりで介抱してくれた。もちろん彼は親切な人に救われたものと思っていた、ただ十|帖《じょう》敷きの客間のような部屋で、秩父縞《ちちぶじま》のぜいたくな夜具に寝かされていることや、二人の態度のあまり丁寧すぎることなどが、だんだんいぶかしくなってきたのはたしかである。それが四日めになって急に驚くべき展開を始めた。……その日、午前十時ごろだろう、ばあやのお梅が入って来て、
「専務さんと工場長さんがいらっしゃいました、まだ本当でないからって申し上げたんですけれど、御挨拶だけさせていただきたいっておっしゃいますから」
「なんですか」昌三はびっくりした、「僕がその人たちに、――いったい専務さんとか工場長とか」
「黙ってうんうんとおっしゃっていればようございますよ、ばあやがお側にいますから」
 心得たように云って去ったが、すぐに二人の男を案内して来た。二人とも肥っていた、沢田市造という専務はあかい童顔に口ひげを立てた四十四五、工場長は吉川宗二郎といってもう五十の上だろう、沢田よりもっとがっちり肥えて、ぶすっとした感じの、眼のきつい顔をしていた。――二人は昌三の枕許《まくらもと》へ来て窮屈にズボンの膝《ひざ》を折った。
「このたびは無事に御帰還なさいましておめでとうございます」専務がまず挨拶した、「社員を代表しまして一言御挨拶を申し上げます、まことに長いあいだ御苦労さまでございました」
 専務が終わると、吉川工場長が工員を代表して同じ祝辞を述べた。後者はひどくぶっきら棒である、――昌三はなんとも言いようがない、黙って会釈しながらばあやを見た。専務はすぐに振り返って、「村田君」と呼ぶ、待っていたように洋装の娘が入って来てお辞儀をした。
「村田七重子という秘書課の者です」専務が紹介して云った、「社長にお付きすることになっていますので、御静養ちゅう午後だけこちらへ連絡に伺わせることにいたしました」
「どうぞよろしくお願いいたします」
 村田七重子はもう一ぺんお辞儀をしながらこっちを見た。色の白いきめのこまかい、面長でいてふっくりした、かなり美しい顔だちである、昌三は途方にくれて漠然とうなずくばかりだった。
「さあそれでは」ばあやのお梅がすばやくこう云った、「お疲れになるといけませんからこのくらいで、――お横におなりなさいまし」
 三人が出ていったあと、昌三は化かされたような顔で天床を眺めた。いったいこれはどういうわけだ。なに事が起こったのだろう、――地下道、彼の頭にふとあの朝のことが思いうかんだ。早朝の公園下で老婆がとびついて来た。坊ちゃま、ばあやのお梅ですよ、そして車で、……そうだ、これは人違いの続きだ、親切な人に救われたのではなく、この家の若主人と間違えられてきたのだ。だが待てよ、昌三はさらに思いだす、お梅という老婆は折岩昌三と呼んだ、この家の門柱にもその名を書いた表札が掲げてあった。これはどういう意味だ、――彼は一種ぞっとするような気持におそわれ、低いうめきをあげながら眼をつむった。
 昼食のあとで昌三はお梅を呼んでもらった。彼女は昌三がそのことを言いだすなり、もうたくさんという風に手を振った。
「もう二度とおっしゃらないでくださいまし、お乳をあげて育てたばあやが、かりにも坊ちゃまを間違えるはずがないじゃあございませんか、そんな御冗談はもうたくさんでございますよ、――それよりお預かり物を見ていただきましょうね」
 お梅は立っていったが、すぐにかなり大きな手|提《さ》げ金庫を持って来た。そして「ただお眼をとおしてくださればいいから」と云って、金庫の中の物を取っては、一つ一つ寝たままの彼に渡した。
「これは株券の保管証です、うちの社のほかに東日紡織、化学染料などが主なものです、これが中央銀行の定期、口座が二つになっていますね、それから帝邦銀行の当座と特別当座、合同銀行の定期と当座です、――これが社債、国債、この中に不動産の登記書類が入っていますからごらんください、現金はここに一万二千円、小出しを二千五百円ほどばあやがお預かりしています、家計簿はお起きになってから見ていただきますから」
 株券の保管証も、証券類も銀行通帳も、記名のものにはみな折岩昌三と記してある。彼は馬鹿にでもなったように、その巨額な資産の証明を茫然と眺めるばかりだった。――折岩昌三、類の少ない姓だとよく言われた彼の名、その名儀によるこれらの財産、……挨拶に来た専務と工場長。昌三はまたしてもぞっと寒けにおそわれた。
 翌日の午前ちゅう、着物が出来て来たと云って見せられた、久留米の紺|飛絣《がすり》のそろい、結城紬《ゆうきつむぎ》のこまかい縞のそろい、それから秩父の小さい弁慶縞の丹前である。――そして一時間ほどすると、洋服屋が来たと云って起こされた。

[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]

「御本のほかはなにもかも麹町の御本宅で焼けてしまいましてね」洋服屋に寸法を取らせる昌三の側で、お梅がそこをここをと指図しながら言った、「背広や外套なんかまだお手に通さないのがあったんですのに、山村さんできる限り早く仕立を頼みますよ」
 寸法を取り終わると切地の見本選びである、背広二着と夜の礼服と外套、ガウンなどがその見本の中から選ばれた。――おれは誰かの替玉《かえだま》になるんだな。そのとき昌三はこんなことを思った。富豪の財産を横領する悪漢一味。その手先に使われる自分、そのうちに毒殺されて。……彼はまたすっと背中に悪寒を感じた。
 昼食がすむと彼は起きることにした。紺飛絣の着ごこちは久しぶりである、「家の中をごらんになってください」ばあやのお梅がそう言って案内してくれた。平屋造りで日本間が七つ、洋間は書斎と寝室と応接、それに障子張りで温室のように鉢物を飾ったサン・ルーム、こういった間取りである。応接間は十坪ほどの広さで、ピアノが置いてあり、テーブルや椅子や長椅子などの配置されたさまは、ちよっとした団欒《パーティ》ぐらい結構やれそうである。――書斎では書棚の本を見たが、科工方面のものが多く、あとは小説や美術や音楽や、茶、華、陶器などの雑書が、ざっと六七千冊あった。
「誰かがこれを集めた」昌三は書棚の前でそう呟やいた、「この一冊一冊を選び、買い、読んだ者がある、これはその精神生活の遺跡だ、しかしおれじゃあない、――この一つだけはたしかだ」
 庭は五百坪ばかりで、南へゆるく傾斜していた。東にある道が庭の南の端を迂回《うかい》している、西と北側には家があるが、これはもっと広い庭と深い木立ちがあるので見えない。――昌三は芝生を踏んでのんびり歩きまわった。枯れかけた芝が明るい日光に暖められて、ゆらゆらと陽炎《かげろう》が立っていた。
「ごめんあそばせ、遅くなりまして」
 こう呼びかけられて振り返ると、村田七重子が近寄って来た。昨日の約束である、昌三はちょっとまぶしそうな眼つきで、「あっちへゆきましょう」と家のほうへ戻った。
「ゆっくり静養していただくために当分は事務のことは申し上げないことになりましたの」応接へ入ると七重子はすぐこう云った、「ただお知りになりたいことがおありでしたら、お伺いして来るようにと申されてまいりました」
「考えておきましょう、今はまだききたいこともないが、――君は前の社長を知っているんですか」
「いいえ存じあげません、わたくしまだ入れていただいたばかりなんですの」
「するとお互いに新入生ですね」こんどは昌三も相手の顔を見ることができた、「仲良くやるとしよう、――先のことはわからないが」
「ピアノお弾きになりますの」
「僕の音楽はこれだけだ」昌三は袂《たもと》へ手を入れて鶯笛を取り出した「こいつのほかにはハモニカも吹けやしない、君は弾けるの?」
「はあ、ほんの真似だけですけれど、――それなんの笛でございますか」
「鶯笛さ、吹いてみようか」
 彼は吹いた。例の無技巧な芸のない吹き方で、七重子はがまんできずに笑いだした、笛がおかしいのではない、彼のあまりに明けっぴろげな悪びれない容子がたまらなかったのだ。
「戦地にいるときもらった慰問袋の中に入っていたんだよ、気持のふさぐ時なんか悪くないぜ」
 七重子は四時までいて帰った。ひとりになってから昌三は、その数時間の自分の態度を反省してふと驚いた、――自分はごく自然にこの家の主人として振舞っていた、村田七重子に対しても、近く自分の秘書になる者として、遠慮のない口をきいた。……こいつはいかん、これじゃあ本当ににせ者になりかねないぞ。ところがこんどは彼はぞっとしなかった。
 午後一時になると毎日きちんと七重子が来た。社内のことが少しずつ話に出る、常務の楢橋さんは剃刀《かみそり》である、会計課長は出っ歯でのっぽ、タイピストでは北島一枝がいちばん美人だ、そんなことをかなり巧みな表現で語る、内幸町にある本社には事務員が百三十五人、田端の工場には部が四つに分かれ、織物部、工業部、企業部に男女の工員が合わせて七百五十余人、研究部に十三人いる、そんなこともわかった。
「みんな社長さんをお待ちしていますわ、若い方たちはことに熱心ですの、もしかすると代表を立ててこちらへお伺いするかもしれませんわ」七重子は来るたびに同じことを云った、「ずいぶんお待ちしていたんですから」
「そんなに期待されたってしようがないよ、なんにも知らない新入生なんだから」
「でもなにか社長さんにお願いすることがあるらしゅうございましてよ」七重子はそっと彼の眼を見た、「わたくしよく存じませんけれど、社内になにか問題が起こっているんじゃないでしょうか」
「労組攻勢というやつかね、やれやれ」
 この期間に一方では、ばあやのお梅から自分の過去を聞かされていた、彼でない彼自身の生立ちの記をである。――

[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]

 昌三の心理はここでもうひとっころびした。ばあやの話は自然で、こしらえや押付けが少しも感じられない、聞いているとそれが本当に自分の育って来た経歴のように思えてくる。財産横領、悪漢一味、替玉などという想像は霧のようにふき飛んでしまい、現在あきらかに証明されている事実が、動かすべからざる拡がりとちからをもって彼を雁字搦《がんじがら》めにするのだ。
「記憶喪失症というやつがある」昌三はふとこんなことを呟やく、「おれもそいつにやられたんじゃないだろうか、――戦争ちゅうに頭をどうかして、過去の記憶が狂ってしまう、そしてまったく架空な記憶が生まれる、……そんなことがないとは断言できない、もしかすると本当に」
 だが彼は故郷の市を思いだす、自分の家のあった古い町筋、弁護士をしていた父、肥えた暢気《のんき》者の母、写真館の塔屋根の風見鳥、旧藩主の庭園だった名高い公園、京町にあったただ一軒の親類、……これは爆撃のためすべて廃墟に化してはいたが、とうてい架空な記憶と思うことはできない、三高から京大の法科を出て、父の事務所を手伝っているうち召集された、これも架空のことなんだろうか、そして実際は昭和繊維工業の社長の子で、巨万の資産と盛業ちゅうの会社の当主というのが本当なんだろうか。――記憶喪失症。それとも奇跡か、アラディンのランプ。考えるとますますわからなくなってくるが、すでに現実的には動いている生活に対して慣性が生じている。お梅には「坊ちゃまは止してくれ」と云った、七重子と話すことも気楽になるし、会社のこともだんだん身近に感じられるようになった。
「アラディンのランプか、記憶喪失症か、時間が解決してくれるまで待つより仕方がない、とにかくおれのせいじゃあないんだ」
 キリストが跛《ちんば》を立たせたことは奇跡であるが、なおってしまった跛はもはや平凡な現実にすぎない、昌三を巻き込んだ境遇も奇跡に近いものだったが、時間の経過につれて順応性がうまれ、新しい生活が彼の内部から動きだす、そこへさらにそれを助長するようなことが起こってきた。
 二週間ほどたったある夜、社員だといって一人の青年が訪ねて来た。お梅は会わないほうがいいと止めたが、彼は会った。――青年は佐野啓一という庶務課の者だと云う、ずんぐりした躯であるがおちついた態度で、言葉もなかなか歯切れがよかった。
「失礼ですが率直に伺わせていただきます、社長は昭和繊維の事業に対して、積極的な活動をなさるお考えがおありでしょうか」
「むずかしい質問だな」昌三はごく自然に微笑した、「まだ社へ出たこともないし、事業の内容もくわしくは知らないんで、――しかし積極的にやる、とにかくやってみようという気持はあるよ」
「それでは一日も早く社へ出ていただきたいんですが、そうでないと、――」佐野は言葉を切った。
「そうでないと、……どうしたんだい」
「社はつぶれるか闇会社の類に堕《だ》してしまうと思います」
 昌三は七重子の顔を思いだした。若い社員たちが期待している。社内になにか問題が起こっているらしい、――彼女はそう云った。
「もしお望みでしたら」佐野はこちらを大胆に見た「私の知っている限りの事情をお話しいたしますが――」
「ありがとう、お願いするかもしれない、しかし今日はこれだけにしておこう、――君はピアノを弾けますか」
「社長の出社を延ばしているのは一部の重役たちの策略だということをお忘れにならないでください」佐野はこう云って椅子から立ち上がった、「昭和繊維には理想があったんです、一部重役の功利欲でそれを売られるのは見るに忍びません、私たちは社長をお待ちしています」
 佐野は丁寧に会釈して出ていった。――昌三はそのまましばらく応接室にひとりでいた、沢田専務はあれから三度やって来た、ほんの顔出しというだけで、「近いうち役付きの者だけで歓迎会をやる予定です」とか、「山の温泉へでも二三週間おいでになりませんか」とか、「とにかくゆっくり静養してください」などと云っていた。もちろん昌三もまだ社へ出る気持はない、出たところでどうしようもないだろう。……しかし昌三はいま渋いような顔をする、社がつぶれるか、闇会社になってしまう、一部重役たちの功利欲で社の理想が売られてしまう。――昌三は袂から鶯笛を出した。
 ほう――ほけきょう、けきょけきょ。
 あくる日、午前十時に村田七重子が来た。今日から社へは出ないでこちらだけへ来ることになったと云う。新しい服がよく似合って、顔つきまで冴《さ》え冴《ざ》えと明るい、――おやおやこんなにきれいだったのか、昌三は珍しそうに彼女を眺める。
「そうすると月給は僕が払うことになるのかい」
「お待ちしてもよろしゅうございますわ」七重子はいたずらそうな眼をする、「まだ社へお出にならない社長さんの秘書では、会計からでも月給《サラリー》をいただくのは恥ずかしゅうございますわ」

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

「社へ出たって僕には仕事なんか出来やしないさ」
「わたくしとても不思議だと思いますの」七重子はピアノの蓋を明けて、低くなにかの曲を弾きだす、「働きたくっても思うような職のない方がたくさんいますわ、その反対にりっぱなお仕事があるのに人任せで、自分ではなんにもなさらない方がありますわね」
「君は僕になにかしろと云うんだね」
「これいかがでして、セヴェラックという人の曲ですの、フランスの田園作曲家ですわ」七重子の指は美しく鍵盤《キイ》の上を走る、「いいえ、わたくし決してそんなことは申しませんわ、ただ今月いっぱいで辞めさせていただきたいということを申し上げたいだけですわ」
「だって君はまだ、入社して間がないって、言ったじゃないか」
「わたくし生活しなければなりませんし、お仕事もしずにサラリーをいただくわけにはまいりませんもの、それから、――いいえこんなこと、申し上げてもしようがございませんわね」
 昌三は返事に困って窓の外を見た。
 中一日おいて専務が来た。歓迎会をやるから出てくれと云う、昌三は新調の背広に着替え、七重子をつれて専務の車に乗った。会場というのは渋谷の焼け残った住宅街にある大きな邸宅で、表に旅館の看板が出ている、車が五台ばかり門前に着けてあった。
「これがやみ料理屋というやつかい」
「とんでもない」専務は笑った、「正々堂々たる営業です、席を借りるだけで、料理も酒もこっちで持ち込むんですから、さあどうぞ」
 門から玄関まで三十間ほどあった。庭にある深い木立ちが、二階建ての凝った建物をおおい隠している、まだ午後三時だというのに、二階でも下でも酔って騒ぐ声が高だかと聞こえた。――専務に案内されたのは二階の広間でテーブルを長くつなげた所に十三人待っていた。常務が三人、山川、楢橋、吹田、篠井監査役に参事が二人、あとは部課長六人ということだ。昌三は漠然たる態度で彼らの挨拶を受けた。そのあとで専務から「なにかひと言」と云われると、彼はのんびりした声で、
「どうもありがとう」
 こう云って頭を下げたきりだった。――おそろしく貫禄《かんろく》のある感じで、みんなちょっと白けた顔つきになった。酒がまわりだすと戦地の話を求められたが、彼は「なんにもありません」と断わった。酒もほとんど飲まないし、運ばれてくる料理にも箸《はし》をつけない。専務と山川常務が座を賑やかにしようとしきりに骨を折ったが、昌三の容子が漠然としてつかみどころがないから、なかなかぎごちない空気が去らなかった。……そのうち篠井監査役が向こうから「社長」と彼に呼びかけた。
「今日はひとつわれわれの抱負を聞いていただきたいんですがな、わが社はこれまで業界でも羨《うらや》まれる好成績をあげてきたんですが、そのため少し手を拡げすぎた傾向がありまして、このままで放置すると逆に欠損状態がやってきます、それで新社長の御就任を機会に、思いきって合理的な経営転換を断行しようと思うんですが」
「いや思うんではなく断行ですな」山川常務が昌三の側へ来て酒を注ぐ、「このままではがたがたときますよ、なにより断行することです、われわれは待ちすぎました」
「癌《がん》は研究部にあるんだ」楢橋常務がぎらりとした声で云った、「現在はいかに危機をきりぬけるかが問題だということだ、理想や夢を追っている時代じゃあない、明日の千両より今日の一両ということだ、まず食うことが先決問題なんだ」
 昌三は珍しいものを見るように相手の顔を見た。楢橋常務は「剃刀だ」と言った七重子の言葉を思いだし、あらためて並んでいる顔をぐるっと眺めまわした、やせてひどい出っ歯の、ちょびひげのある男が服についた、これが会計課長だなと思い、つい知らず微笑をうかべながらすぐ右にいる七重子を見た、彼女は顔を白くし、肩を固くしてうつむいた。
「とにかくわれわれは社長を迎えると同時に、年来の抱負を実行しなければならない」
 楢橋常務はこう続けていた、「本当に社を愛する者、社の将来を真剣に考慮する者、このちからを集合するということだ、そして社長中心に、……」
 昌三は一時間ほどいてその席を立った。彼らの熱弁はなおつきなかったが、七重子が時間を見て、「もうお疲れになりますから」と注意したのを機会に、簡単な挨拶をして立ち上がった。専務と楢橋常務が玄関まで送って来て、まだ顔色が本当でないとか、温泉へでもいって、根本的に健康の回復をはかるがいいとか、社のほうは責任をもって自分たちが引き受けるからなどと云った。――昌三は靴をはいてしまうと、三人の顔を順々に見ながら、
「僕は御承知のとおりまるで不案内です、仕事についてはなんにもわかりません、どうかよろしくたのみます」
 こう云って帽子をとった。
 車へ乗るとひどく気がふさぐので、昌三は後ろへもたれて眼をつむった。渋谷駅で下りるはずの七重子は「おうちまでお送りいたします」と云って、これも車の隅にひっそりと身を寄せていた。

[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]

 七重子が時間をみて帰るのを促がしたのはそうする理由があったのだった。――車を下りて玄関へ入ると、そこに靴が五足あり、出迎えたお梅が「社の方が来て待っている」と告げた。昌三は眉をしかめた、それを見て七重子はつと彼の手を取り、
「お会いにならなければいけませんわ、それは社長としての義務だと思います」
 そして応接のほうへ引っ張っていった。
 五人の社員は椅子を立って迎えた。昌三は自分の席へ掛けながら、その中に先夜の佐野啓一がいるのを認めて、漠然と手を振り「お掛けなさい」とぶっきら棒に云った。
「僭越《せんえつ》ですが紹介させていただきます」佐野は立ったままで四人をかえり見た、「こちらは研究部の林大四郎、同じ部の石本良吉、営業の倉原又男、それから私と同じ庶務課の槇野享助です」
「用件を聞きましょう、――どうか楽にして」
「先日の晩ちょっと申し上げましたが」佐野が言いだした、「事情が切迫してきたようすで、御出社までお待ちできなくなったものですから、――じつはこの一週間以内に重役会議が開かれるらしいんですが、御存じでしょうか」
「いや少しも、――」
「その会議は社の運命を左右するものなんです、しかも一部重役の謀略で、議事はすでにもう決定しており、会議は形式にすぎません、なんとか早く方法を講じませんと取り返しのつかないことになってしまうんです」
「しかしそれは」昌三は歯切れの悪い調子でこう反問した、「それは君たちの意見、――君たちの一つの見解ということになるんじゃないか」
「事実について申し上げます」研究部の石本良吉がおちついた声で口を切った、「こんどの会議では内村監査役と花田常務、海野常務の隠退が発表されます、お断わりしておきますがこの情報は事実ですから、――同時に研究部の廃止と、営業庶務の人事異動、工場のうち企業部の転換が発表されます、これは内村、花田、海野三重役の退陣によって、昭和繊維を儲《もう》け主義の悪徳会社に転向させるものなんです」
 石本良吉は静かに続けた。――昭和繊維にはその出発に理想があった、日本は樺太、満洲を失ってパルプ資源に窮してきた。建築用のテックス、衣料、紙、これだけでも緊急に新資源をみつけなければならない、そこで、一つの部を設けて、竹、蘆《あし》、葭《よし》その他の原材料からパルプを作る研究を始めた。幸い戦前の地盤と機構設備がほとんど無瑾《むきず》で、戦後いち早く操業を始めることができ、社自体の営業成績は好調だったから、研究部では大学の理工科方面からの積極的な援助を求めてやってきた。……現在のところ製作品は人造絹糸とテックスを主にしている、がどちらも優秀な品質と定評をとり、確実な販売網を持っていた。その実績は決算内容が示しているとおりだ。
「そこへ半年ほど前から一部の重役による経営転換が始まったのです」営業の倉原又男が後を受けて云った、「インフレの昂進《こうしん》に伴う経常費の増加を名として、製品の質をおとし、または故意に規格外品を造って闇へ流す、研究部の予算を削って、試作を担当していた企業部をテックス製作に切り替える、ひと口に云えば社の理想とまったく反対な方向、しかもわれわれには我慢のならない悪徳会社の方向へ持っていかれているわけです」
「この事実をよく考えていただきたいんです」佐野が強い眼つきで昌三を見た、「こんどの会議で三重役の退陣が定《きま》れば挽回《ばんかい》のしようはありません、内村、花田、海野、この三人がかろうじて最後の線を守ってきてくれたんです、社長、――僕たちは昭和繊維を闇会社にしたくありません、どうか社を守ってください、わずかな増給より本当の仕事をやりたいんです」
「お願いします社長、僕たちはどんなにでも頑張ります、社を救ってください」
 彼らの言葉はそこで切れた、緊張した沈黙が室内を占め、誰かの昂奮した荒い呼吸が聞こえる。――昌三は両手で椅子の肘掛《ひじかけ》を握りじっとテーブルのひと所をみつめていた、途方にくれたような、一向に感動の表われない表情である、しかしやがてその眼を天床へ向けた。
「話はだいたいわかった、御承知だと思うが、僕はまだ事業の内容をほとんど知らない、君たちの意見を聞いて、それが正しいかどうかを判断する基礎知識もない、ということは、僕にはいま君たちに役だつ力がないということになる」
「では、――」庶務の槇野享助が椅子から立った、「では伺いますがあなたはどなたですか、あなたは昭和繊維工業の社長じゃないんですか」
「少なくとも、自分で選んだ椅子じゃない」
「それなら辞職したらどうです」槇野は蒼くなった。「これだけはっきりした問題の判断もできず、社運の危機に対してなんの力もないとしたら、社長でいることはむしろ罪悪ですよ、失敬ですが御忠告します、おやめなさい」
「待て槇野なにを云うんだ」
 佐野啓一が叫んで押し止めた、「まあいいから黙れ、――失礼いたしました、社長、みんな昂奮しているものですから、私たちとしては本当にのるか反るかの気持なんです、どうかお気を悪くなさらないでください」

[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]

「いや、槇野君の言葉は正しい」昌三はゆがんだ笑い方をした、「うちあけて云えば、僕も辞職を考えているんだ、「実際その才能も力もない者が社長の椅子にいることは、意味がないばかりでなく仕事の邪魔だからな」
「ちょっと待ってください社長」、佐野が立ってテーブルに手を突いた、「僕たちは本気でここへお願いにあがったのです、これは社の興廃に関する問題ですし、同時に全社員と工員の将来が賭けられているんです、どうか感情ぬきに社長の本当のお考えを聞かせてくださいませんか」
 昌三は腕組みをして眼をつむった。かなり長い沈黙が続き、槇野が荒あらしく椅子の音をさせて立った。「帰ろう」と叫ぶように言い帽子を持ってさっさと扉のほうへいった、「おれは明日から就職口を捜すよ」こうどなるのが扉の向こうから聞こえた。
「たいへん失礼いたしました、今日はこれでおいとまします」佐野が怒りを抑えた声でこう云った、「私どもの申し上げたことをよくお考えのうえぜひ社のために闘かってくださるようお願いいたします。失礼しました」
 彼らの去るのを昌三は眼をつむったまま聞いていた。表でエンジンの音がする、七重子がみんなを車に乗せてゆくのだろう、――ふと沢田専務の顔がみえた。篠井監査役の声が「このままで放置すると欠損状態がくる」と云う、楢橋常務のぎろりとした表情、「われわれは社長を迎えるに当たって、年来の抱負を、――癌は研究部にある、本当に社を愛する者……社の将来を真剣に考える者、欠損、挽回、――手を拡げすぎた」こんな言葉の断片が頭でちらちらする。あれももっともだ、あっちはあっちでやはり社を愛している、総合的合理論と、若い直情な正義観との差ではないか、……昌三は深い溜息をついた。
「まあまあ坊ちゃま」お梅が入って来た、「こんな所にまだいらしったんですか、煖炉も消えかかって寒いじゃございませんか、どうかなさいましたんですか」
「いやなんでもない」昌三はさりげなく立ち上がった。「風呂がよかったらもらおうかね」
「そう申し上げにまいったんです、すぐお召しなさいますか」
「あとで御飯を食べるよ」昌三は廊下へ出ながら云った、「ずいぶん御馳走が出たんだけどね、うまそうな物がたくさんあったよ、でもぐっと我慢してやった」
「あら、召し上がらなかったんですか」
「はじめから貫禄を下げるわけにゃいかないじゃないか、相手はみんな練達の士だからな」昌三は風呂場へ入っても続ける、「みんな妙な顔をしてたぜ、若僧と思ってたんだね、……いい人たちだよ」
 昌三はその夜ほとんど眠らずに明かした。彼に与えられた奇跡のような位置、超自然とも言いたい幸運の椅子が、動きだした情勢に押されてゆらゆらし始めた。これは現実だ、奇跡を解消し幸運の椅子を返上して、また地下道へ逆戻りをしない以上、いやでも応でもこの現実と体当りをしなければならない、――一面的な正義観だけで事業はできない、合理論に傾けば現象にひきずられる、自分の椅子は両者の中間にある、しかしまだ両者の是非を決定する能力はない。……いっそ地下道へ帰るか。しかしそのとき七重子の姿が眼にうかぶ。明るい愛嬌《あいきょう》のある、美しいくせに剽軽《ひょうきん》な顔が、――眼尻を下げてにこっと笑う、ピアノを弾きながら、「さあさあ」と促がすように云う、「元気をおだしなさいな、七重子がこんなにお願いしていますのよ」静かな、郷愁のようなセヴェラックの曲だ。……そして昌三は、自分が七重子を愛していることに気づいた。
 あくる朝、七重子が来たとき昌三は背広を着ていた。彼の顔がはれぼったく眼が赤いのを七重子は見た。昌三は待っていたようすで彼女が来るとすぐ、「散歩に出よう」と云って外をひっかけた。七重子の眉は暗く沈んでいた。
 二人はほとんど黙って歩いた。電車の切符は彼が買った、省線へ乗り換えたときひどく混んでいたので、「上野だよ」と彼が言った、七重子は人に押されながらうなずいた。――上野で下りると、彼はずんずん地下道へ下りていった。胸のどこかが温かくうるんでくるようだ。あの場所へ来た、……そこに彼は寝たのである。しかしまるで見知らない風景だ、電燈がついているし、人がそうぞうしく往来するあの暗澹とした絶望の空気はどこにもない。
 彼は外套のポケットに両手を入れて立ち、そっと眼をつむる。あの老人はどうしたろう、泣きぐずる赤児をあやしていた女、鶯のおじさん、あの子供もまだ来るだろうか――。
「まいりましょう」七重子がそっと彼の腕へ手をまわした、「人が見てゆきますわ」
 外へ出ると彼は自動車を呼び止めた。
「田端までやってくれ」
 車が走りだすと、七重子がいぶかしそうに彼を見た。昌三は眼をそらして云った。
「工場を見ておこう」
 七重子の顔がぱっと明るくくずれた。

[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]

 昌三は工場をくわしく見てまわった。そして研究部で昼食の馳走になり、部長から研究部の業績と現在の状態を聞いた。午後になってもういちどテックス部を見た、吉川工場長はきつい眼をいっそうきつくしたが、昌三はおかまいなしに製品まで手に取って調べた。
「研究部の話だと糊料《こりょう》をおとしたそうだね、それで保《もち》は変わらないのかい」
「もっとおとすかもしれません」工場長が云った、「今のところ能率を上げることが第一ですから、なにしろ注文に応じきれない状態で、それに、なに糊料などはどうやったところで五十歩百歩ですよ」
 工場を出て、待たせてあった車に乗ると、昌三は上衣の釦《ボタン》をはずして溜息をついた。
「お疲れになりましたでしょう」
「炭酸ガスを吸いすぎた、――社の近くに喫茶店はないかね」
「ございますわ、ブウケという店が」
「そこへ着けよう、少し眠るからね」
 昌三は車がとまるまでうとうとした。ブウケという店は日比谷公園に近い大きな石造ビルの地下室で、高級喫茶というのだろう、色ランプのやわらかい光が、しっとりとおちついた雰囲気をつくっていた。
「電話があるね」昌三は腰をおろすとすぐに云った、「社へ掛けて佐野を呼んでくれ、都合がよかったら来てくれって」
 七重子は電話を掛けた。昌三はビールを命じた。――五分ほどして佐野啓一が来た。昌三は自分の隣りの椅子を示し、漠然とした例の調子で言った。
「仕事ちゅうすまないが、相談があるんだ、社の決算内容を見たいんだがね、ごくくわしいことを知りたいんだ、正面から僕が手をつけていいだろうか」
「資料はそろっています、御希望でしたらいつでもお眼にかけましょう」
「それから内村、花田、海野、この三人に小山の家へ集まってもらいたいんだ、その連絡をとってもらえないか」
「内村さんはどうですか、躯が悪くて引きこもっておいでですから」
「じゃあそこへ花田と海野氏に来てもらおう、僕のほうからゆくよ、資料は今夜持って来てもらいたいが、そのとき内村へ集まる日取りをきめて来てくれないか、今夜は君だけ来るほうがいいな」
「承知しました、六時までには伺います」
「一杯やっていきたまえ」昌三は佐野のコップにビールを注いだ、「さあ、――なにか云うね、こんなとき」
「ボン・ボワイヤージュです」
「僕はそういうことも知らない」
 家へ帰ったのは午後四時過ぎだった。留守に沢田専務が来て、「熱海ホテルに部屋を予約した」
 と云っていったそうである。七重子はすっかり浮き浮きして云った。
「ばあやさん、あたしお夕飯を御馳走していただきますわ、おいしいものをお願いしますわね」
 つまり居残りの宣言である、昌三は風呂の沸くまで寝室で横になった。――七重子が弾くのだろう、ピアノの快い音が聞こえてくる、彼はそれを子守唄のように聞きながら墜《お》ちるような深い眠りにひきこまれた。……夕食は佐野の来るのを待って一緒にした、それから書斎の煖炉へ火を入れて三人でこもった。
「内村さんのお宅は明日に定めましたがいいでしょうか」佐野は書類を拡げながら云った、「早いほうがいいと思いますし、花田さんと海野さんの都合もいいそうですが」
「いいだろう、家は遠いのかい」
「品川の二本松です、午前十時にお待ちしているということですから」
 昌三は書類を調べにかかった。佐野の説明は要領を得たもので、未経験の昌三を巧みに理解と判断へ導いた。――九時になって、佐野と七重子は帰っていった、昌三は午前二時ごろまで書斎にいた。
 翌日まだ七重子の来ないうちに、昌三はひとりで内村へ訪ねていった。すると品川駅の前の、長い坂の途中で七重子に会った。
「ゆうべお打合せしなかったものですからここでお待ちしていましたの」彼女は明るい顔にいきいきと微笑をうかべていた、「まだ早うございますわね」
「来なくってもよかったんだ」
 しかし昌三は幸福が胸いっぱいにふくれ上がるのを感じた。内村はその坂の上を左へ二丁ほどいった所にあった。……内村監査役は銀白の髪のみごとな老人だった。明らかに、その三重役は社の将来を投げていた。沢田専務らの経営転換はインフレ肯定の上に立つもので、社員工員に対する給与増額の切札を持っている、理想経営などはとうてい支持されるものではない、社長も今のうち株を投げて退陣すべきだ。――昌三は自分の意見はなにも云わずに、「重役会議まですべてを保留すること、個人的にも去就について語らないように」そう頼んで内村を辞した。
 佐野はその日も六時前に来た。
「やっぱり君がいてくれなければ困る、わからないところがあるんだ、家のほうがよかったら今夜から泊まっていってくれないか」

[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]

「御迷惑でなかったら僕もそうしたいです」
「わたくしも」七重子が叫ぶように云う、「わたしも泊めていただきますわ、よろしいでしょう、家へ電話を掛けてまいりますわね」
「君の家には電話があるのかい」
「ええ、いいえ」七重子はちょっとどぎまぎした、「お隣りの電話ですの、取次ですわ」
 十時に茶がはいったとばあやが告げに来た。三人は応接室へ移り、紅茶で菓子をつまんだ。七重子が誰かの即興曲を弾いたとき、昌三は腕を組み眼をつむりながら、――そうだ、これはおれのものだ、と胸のなかで呟やいた。この静かな温かい空気、ばあや、事業、そして七重子のピアノがいつも美しい音を響かせる、これはおれのものだ、そしてそれを確定にするためには、ひと闘いする値打ちがある。……その夜彼らは一時の鳴るまで頑張った。
 翌日。佐野が出勤すると間もなく、沢田専務から電話で「いつ熱海へゆかれるか」と問い合わせてきた。昌三は「一日二日うちに――」と答えさせ、資料の調べを続けた。佐野は六時に帰ったが、ひどく昂奮していて、外套を脱ぐのもそこそこに書斎へとびこんで来た。
「重役会議が明後日に定りました」
「遅くはないさ」昌三は平然と答えた、「こっちは今夜と明日の晩あれば片つくだろう、多少残っても弾丸《たま》は充分だ」
「明日は専務が部課長ぜんぶの招待をします」
「ただし二度とはできない」
「そうあるように祈ります」佐野は感動した眼で昌三を見た、「――社長、僕たちはあなたをお信じ申しました、そしてやっぱり」
「まだ早い、僕をあまり買いかぶらないでくれ、できるだけやってみると云う以外になんの自信もないんだ、相手は練達の士がそろっている、普通にやったんでは敗北は確実だ、――ただ」
 昌三はあとを続けなかった。
 昌三は翌日も籠《こも》りきりでなにか書き続けた。集められた資料をみてゆくうちに、彼は沢田専務一派の不正な仕事を発見したのだ。きわめて巧みに処理されてあるが、専務と篠井監査役と楢橋常務が中心で、昭和繊維の機構を自分たちの事業に利用し、明らかに二重経営をやっている証拠がつかめた、損失は社の経済でカバーし、資金や資材は自由に流用している。――佐野啓一もそれには気づいていないようだ、いい話じゃない、昌三は自分ひとりで始末しようと思い、七重子にも云わずに記録をとっていた。
 佐野は七時過ぎに帰った。専務の招待に出席した部課長の名を調べてきたという、しかし昌三は興もないという顔で聞きながした。――その夜は十時で仕事を終わり、書斎で、ばあやの作った握り鮨《ずし》を食べた。
「いよいよ明日ですね、社長、午前十時に始めるそうです」
「僕より君たちの責任が重いよ」昌三はこう言って佐野と七重子を見た、「彼らは月給増額を掲げている、僕がメスを入れても社員たちが動かなければ負けだ、会議が始まると同時に僕は執務中止を出す、君たちは社員を集めて煽《あお》ってくれ、工場へも連絡して研究部の石本君にやってもらおう、ようすによっては三日間の操業停止をやるよ」
「そこまでおやりになるとは思いませんでした」佐野はたくましく笑った、「いいですとも、僕たちのほうはお引き受けします」
「わたしもやりますわ」七重子は息をはずませる感じで云った、「学校の討論会ではそうそうたるものだったんですから、本当ですわよ、メダルも持っていますわ」
「ピアノのほかに声楽をやるわけか」
 珍しく高い笑い声が起こった。――君たちはもう寝たまえ、そう云って送りだすとき、昌三は(昂奮した感情に唆《そそ》られたのだろう)七重子を扉口で呼び止めた、そして低い声ですばやくこうささやいた。
「明日、会議のあとで、話すことがある」
 七重子はびっくりしたような眼で彼を見た。
「おやすみ、――いい夢をごらん」
 彼は扉を閉めて机へ戻った。激しい幸福感と、それにも負けない強い闘志が感じられる、明日だ、――明日だ、アラディンのランプを現実にする闘い、折岩昌三の新しい生活が明日こそ始まるんだ。……会議が終わったら求婚しよう、七重子は驚くだろうか。
 十一時が鳴った。彼の昂奮は冷めない、少し頭を休めるほうがいい、書斎を出て応接室へいった、扉を明けて入ろうとした。
 佐野と七重子が抱擁《ほうよう》していた。
 はじめはちょっとわからなかったが、七重子の片手が佐野のくびにかかり、二人が顔を重ねているのを認めた。ああと息をひいたとき、二人もとび離れてこっちを見た。
「――失敬」昌三はかろうじて声が出た、「知らなかったもんだから……おやすみ」
 七重子はまっさおになっていた。

[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 松林に早春の日が暖かく照っている。北側にすぐ丘陵があり、前は段下りの茶畑が県道まで続いている。農家を改造した隠居所らしい家の、まぶしいほど日当りのいい広縁に、ばあやのお梅が座っている、座敷には四十余りの客と、この家の老主人が茶をすすりながらお梅の話を聞いていた。……われわれはその老人に見覚えがある。
「それは気の毒なことを、――」老人が溜息をついた、「さぞがっかりしたことだろうな」
「でも気はしっかりしていますね」ばあやは茶をひと口すする、「会議の終わった後で、七重さんがゆうべのお話ってなんでしょうかときいたのだそうです、そうしたら、……君たちの結婚祝いにピアノをあげようと思って、こう云って笑ったそうですよ」
「いいやつだ、ちょっと出来ないね」
 老人はしばらく楽しげに微笑した。
「それで会議の結果はうまくいってるかい」
「ひと月ぐらい揉《も》めましたね、楢橋さんがいちばん執念《しつこ》く蔭で糸を引いたようですよ、沢田専務は案外あっさり冠をぬぎました、もっとも昌三さんにあれを握られたんですからね」
「こないだ内村から手紙が来た、内村もまるっきり知らなかったと言ってる、大した者を拾ったと羨ましがってきたよ、――なにしろ内村は七重を嫁に押し付けるつもりだったんだからな、彼としては羨望《せんぼう》ひとしおだろう」
「七重さんもはじめはいくらかそんな気があったんじゃないでしょうか、佐野さんたち五人で来た晩、帰りに送られる途中で、気持が結びついたらしい話でした、――あの晩は佐野さんがたいそう男をあげていましたから」
「――おまえこんどはなんと言って出て来たんだ」
「お爺さんが会いたいと云って来たからって言いましたさ」お梅は笑う、「戦争が終わってからいちども会いに帰らない、会社のほうもおちついたから二三日お暇をくださいって、――そうしたら昌三がなんと言ったと思います」
「そっちで暮らせってかい」
「いいえ、帰るとき爺さんもつれておいで、二人に父さんと母さんになってもらうから、――まじめな顔でそう言いました、つれて来なければ迎えにゆくよって……」
 老人はつと脇へ眼をそらした。お梅もなにかをまぎらすように、茶碗を取って冷えた茶をすすった。――客はたまりかねたように、「いったいそれは」とはじめて口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》しはさんだ。
「どういうわけなんですかそれは、まるで私にはわけがわかりませんがな」
「いやこうなんです」老人は微笑しながら庭を見やった。庭のまだ蕾《つぼみ》の固い梅の枝に、さっきから鶯が来て枝を渡っている、
「――私は伜《せがれ》を戦地へやるとき、これはもう自分の子ではない、御国へささげてしまったんだ、こう思いました、おそらく子を取られた親はみんなそう思ったことでしょう、……伜が戦死し、戦争に負けて、復員者がたくさん帰って来る、私はそれを見て思った、これはみんな御国のために取られた子だ、とすれば、この中から自分の子を選んでもいいじゃないか、――伜のために建てた家、事業、もし適当ならみんな譲ってもいいじゃないか、こう考えたわけです、そこで内村という監査役をしている友人に話したところ、勤労の裏づけのない富は人間を誤ると云うのですな、私は人間をもっと信用してもいいと思うと云った、私はもっと人間を信ずる、その証拠を見せよう、……騎虎《きこ》の勢いですな、それから地下道へ捜しにゆきました」
 梅の枝を渡っていた鶯が、そのときちちちちと笹鳴きを始めた。
「三人ばかり失敗したあとで、これはと思う若者をみつけました。その若者は――」
 こう云いかけて老人は口をつぐんだ、ややしばらく、梅の枝で驚が音を張って鳴いた。ほうほけきょう、――老人はにこっと笑う。
「あれです、鶯の鳴き音《ね》、若者はよく鶯笛を吹いていました、ちょっとお待ちなさい……ほらあの声です、暗いみじめな地下道の人たちが、若者の笛にうっとり聞き惚《ほ》れる、うなりごえも、泣いている赤ん坊も聞き惚れる、――救いでしたな、私はそれを伜に定めたのですよ」
 鶯はなお鳴き続ける、老夫妻はそれぞれの感慨をもって、じっとそれに聞き入るのだった。
「じゃなんですな」客はこう云って老人を見た「内村さんは甲《かぶと》を脱いだわけですな」
「彼には七重子という娘がいました、その娘を身分を隠して社の秘書課へ入れましてな、社内の情報をさぐりかたがた、昌三の挙動を監視させたんです、それで私より先に昌三にうちこんだんですな、その娘を嫁にと思ったところが、――いや、しかし娘は娘でいい婿を捉《つか》まえましたがな、さよう、そこで内村先生は二重に甲を脱いだわけですよ」
「そしてあなたには伜さんがお出来なすった」客は静かに膝を揺すった、「これは一つ盛大に祝っていただくんですな」
「そんな大きな声を」と老人は手をあげた、
「もう少しあれを聞かせてもらいましょう、……こうしていると地下道がありありと見えてきますよ」



底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
   1983(昭和58)年12月25日 発行
底本の親本:「ストーリイ」博友社
   1948(昭和23)年5月号
初出:「ストーリイ」博友社
   1948(昭和23)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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