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harukaze_lab @ ウィキ

逃亡記

最終更新:2019年11月01日 08:03

harukaze_lab

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管理者のみ編集可
逃亡記
山本周五郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)囁《ささや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)富|弥三郎《やさぶろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]
-------------------------------------------------------

[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]

「お姉さま、わたくしよ」とみさを[#「みさを」に傍点]は姉をつかまえた、「お声をださないで」
 あつみ[#「あつみ」に傍点]はとびあがった。そんなところに妹がいようとはまったく気づかなかったのと、「みつかった」という直感とで、抱えている包を危うくとり落しそうになった。
「心配なさらないでいいのよ」と妹は囁《ささや》いた、「わたくしのお部屋へゆきましょう、いいえ大丈夫、およそのことは知っています、まえから知っていたんです、それでお姉さまがどうなさるかしらって、わたくしはらはらしながら見ていたのよ」
「お願いよ、みさを[#「みさを」に傍点]さん」とあつみ[#「あつみ」に傍点]は妹に云った。
 彼女は哀れなほど震えていた、「このままゆかせてちょうだい、こうするよりほかにしようがないのだから、ね、お願いよみさを[#「みさを」に傍点]さん、放して」
「しようはあってよ」と妹が云った、「あるからお止めするのよ、わたくし樅山《もみやま》さまのこと、ちゃんと知っていますわ」
 あつみ[#「あつみ」に傍点]は闇の中で息をひいた。よほど驚いたのだろう、「は」と息をひくのがみさを[#「みさを」に傍点]の耳にはっきり聞えた。みさを[#「みさを」に傍点]は片手で姉の手を掴《つか》み、片手で背中をやさしく抱えた。
「それから横江さまのことも」と妹はすばやく囁いた、「横江さまのことはわたくしがお引受けしますわ」
「あなたがですって」
「大きな声をなさらないで」と妹は姉の背を抱えている手に力をいれた、「こんな場合ですもの、お姉さまでなくとも、人の命を救うためには手段を選んではいられませんわ」
「だってみさを[#「みさを」に傍点]さん」と姉はおずおず訊《き》き返した、「あなたいったいどうなさろうというの」
「わたくしのお部屋へゆきましょう」と妹は云った、「わたくしがどうするか聞いて頂いて、お姉さまのお知恵もお借りしたいの、さ、早く、人の来ないうちにゆきましょう」
「大丈夫なのね、みさを[#「みさを」に傍点]さん」と姉は震えながら云った、「もし間違うとわたくし死んでしまってよ」
「わたくしお姉さまの妹よ」とみさを[#「みさを」に傍点]はきっぱり云いった、「――さあまいりましょう」

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 横江半四郎は予定より七日ほど早く江戸を立ち、まる十日も早く国許《くにもと》へ着いた。供は吉富|弥三郎《やさぶろう》、木内|又助《またすけ》、宮原|忠左衛門《ちゅうざえもん》。ほかに下僕五人で、下僕が多いのは荷物が多いためであった。――江戸を早く立ったのは、途中で三カ所、名所見物をする筈だったのだが、供頭《ともがしら》の吉富弥三郎がつまらないことにうるさく小言を云うので、「そんなら見物などはやめにしよう」と云い、宿も早立ち晩着きで道をはやめたから、しぜん日数も二割がた短縮したのであった。
 横江は代々江戸邸の年寄役で、(禄《ろく》は千五百二十石、内四百七十石は与力馬乗)父の文左衛門は五十九歳だが、五年まえに隠居している。兄の文之進は三十五歳、家督相続と同時に文左衛門を襲名し、妻と二人の子があった。半四郎は兄より十歳も年下だった。学問や武芸の手ほどきも兄から受けたし、その後も「父上は四郎をあまやかす」ということで、ずっと兄の監督のもとに成長した。こんど、溝口《みぞぐち》と婿養子の縁談がはじまったとき、父は半四郎のために躊躇《ちゅうちょ》した。
 ――溝口は城代家老であるし、相手は家付きの娘だからわがまま者に相違ない。
 それでは四郎が可哀そうだ、というのである。しかし兄は耳にもかけず、独りでてきぱきとはなしを纒《まと》めてしまった。半四郎は黙って経過を眺めていたが、縁組が決定したと聞いてむっとした。
 ――自分の一生の問題について、自分の意志がこんなふうに無視されるのは愉快ではありませんね。
 と彼は抗議をした。兄の文左衛門は弟の顔をつくづくと見まもり、それからゆっくりと「おれはおまえを愉快な気分にさせようなどと思ってはいないよ」と云った。それで問答は終りだった。
 ――ああそうですか。
 と半四郎は云い、心のなかで「よし」と頷《うなず》いた。
 溝口|掃部《かもん》は城代家老(禄三千二百石、内千二百石は与力鉄砲)で、あつみ[#「あつみ」に傍点]、みさを[#「みさを」に傍点]という二人の娘がいる。姉が十八歳、妹が十七歳。半四郎は長女のあつみ[#「あつみ」に傍点]と結婚するわけである。――城代家老は片山|主水正《もんどのしょう》と一代交代の定りだから、半四郎が溝口家を継いでも、城代にはなれない。だが家格は横江より上であって、彼がもしそのつもりになれば、兄を閉口させるぐらいのことはぞうさのないはなしである。彼が心のなかで「よし」と思った理由は、どうやらそのへんにあるようであった。
 国許に着いた半四郎と従者たちは、片山主水正の屋敷で草鞋《わらじ》をぬいだ。主水正が仲人役で、祝言の日までそこに滞在する約束だったのである。しかし、半四郎の到着が十日も早かったため、片山ではまだ準備がととのっていなかった。
 主水正は三十二歳であるが、母親や、部屋住の叔父や、二人の弟や妹が一人いるほか、子供が男女とりまぜて六人あるし、それらの召使や乳母たちなどを合わせると、二十人を越す大家族で、いま半四郎のために手入れをしている部屋が出来あがるまでは、客として泊められる座敷が一つもないのであった。
「こういうわけですから」と主水正は了解を求めた、「ひとつ溝口で泊ってもらいましょう」
 半四郎は「はあ」と口ごもった。婿にゆく家へ食客にゆくというのは気が進まない、ほかに頼む家はないのだろうか。彼がそう思っていると、主水正は無頓着な性分らしく、もう家扶《かふ》を呼んで、さっさと必要な指示を与えた。
「どうせ溝口へはいることだし」と主水正は彼に云った、「溝口には空いている座敷も多いことだから、私の客として、二三日泊めてもらうことにしましょう」
「はあ」と半四郎は云った。
 風呂をあび、支度をしていると、「溝口夫妻がみえた」と知らせて来た。半四郎たちは麻裃《あさがみしも》を着け、家扶にみちびかれてその座敷へいった。主水正の紹介で挨拶を交わし、吉富弥三郎と、木内、宮原の三人をひきあわせてから、そこで小酒宴がひらかれた。
 掃部は四十四五歳、肥えた躯《からだ》つきで、眉が太く唇が厚く、眼はどんよりとして、いま眠りからさめたばかりといったような、もの憂げな色をしていた。妻女のたき[#「たき」に傍点]は三十五六歳で、色も白いし顔だちも美しく、躯が小柄なのでずっと若くみえる。上歯が少し反っていて、(それが恥ずかしいのだろう)笑うときにはちょっと手で口を隠すようにする、それが少女の含羞《はじらい》のように可愛らしくみえた。
 ――娘がこの母親に似ていたらいいな。
 半四郎は心のなかでそう思った。
 縁組の話にはまったく触れず、単に主水正の客ということで、一刻ほどすると、溝口夫妻とともに、半四郎はその家へ移った。供は吉富弥三郎だけ伴《つ》れ、あとは片山家に残した。
 溝口の家は大手前にあり、角《かど》屋敷で、敷地も広いし建物も大きく、庭には古い杉林があった。かねて命じてあったとみえ、客間へとおるとすぐに酒肴《しゅこう》の膳《ぜん》が出た。
「片山は家族が多くておちつけない」と掃部が云った、「ひとつくつろいでゆっくりやるとしよう」
 掃部は肩の凝《こり》でもおちたように、さばさばした顔つきになり、どんよりしていた眼までが活き活きしてきた。酒の席に女は邪魔だそうで、妻女も引込んだままだし、娘たちも出ては来ず、若い二人の家士が給仕をした。掃部は酒が強いらしく、大きな盃《さかずき》でぐんぐん飲んだ。その盃は桑の白木《しらき》で、「これで飲めば断じて中風にはならない」ということだったが、よほど古くから常用しているのだろう、すっかり酒が浸込《しみこ》んで、飴色《あめいろ》に光っていた。
「いま新しく国絵図を作っているが」と掃部はとつぜん云った、「――去年、公儀からの通達でやっているのだが、知っているか」
「知っております」
「どんな人間が思いついたものか」と掃部は首を振った、「七十二年まえに作った国絵図がちゃんとあるのに、山川林野が動くわけでもあるまいし、いままた新たに作れなどとは、いったいどういう人間がどういう量見で思いついたものか、――これ紋弥、どこを見ておる、酌だ」
「費用は嵩《かさ》む、人手は足りない」と掃部は続けた、「特に、――北の井手領との境界が難物で、これにはどうやら手を焼きそうな案配だ」
 このおやじ酔ったんだな、と半四郎は思った。初対面の自分などに、どうしてこんな話をするのか、こんなおやじを舅《しゅうと》に持つというのは、あまり愉快ではないな、彼は心のなかで呟《つぶや》いた。
「そこで早速だが」と、掃部は云った、「そのもとに国絵図の支配をやってもらう、いまの支配は木曾孫太夫という者であるが、これは気にいらない、わしは彼は気にいらない」

[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]

 掃部は「木曾孫太夫の気にいらない」ことを並べ、半四郎はそれを聞きながら飲んだ。すすめられるままにずいぶん飲み、殆んど泥酔してしまった。そんなに飲んだことも初めてだし、べろべろになるほど酔ったのも初めてであった。――弥三郎に支えられて、寝所へはいったことと、着替えもせずに袴《はかま》をはいたまま寝て、吉富に諄《くど》く小言を云われたことは覚えているが、それもはっきりしたものではなく、やがて誰かが自分をゆり起こしながら、
「横江さま、お起き下さい、横江さま」
 と囁くのを聞いたときにも、まだ弥三郎が小言を云っているものと思い、「うるさい」と寝返りをうち、「いっそ寝てしまえ」とどなった。
 すると誰かが彼の口を手で塞《ふさ》いだ。
「起きて下さい、横江さま」と半四郎の耳もとでその声が囁いた、「あなたのお命が危ないのです、お命が危ないのですから起きて下さい」
 半四郎は眼をさました。それは若い女の声であり、彼の口を塞いでいる手は、なま温たかく、柔らかくしなやかで、そして、ひどくふるえているのが感じられた。半四郎は寝返った。有明行燈の仄《ほの》かな光りで、そこに、紫縮緬《むらさきぢりめん》の袖頭巾をかぶった若い女のいるのが見え、その女はまだ彼の口を押えたまま、
「しっ」と彼に頭を振ってみせた。
「どうぞ黙って」と彼女は囁いた、「静かにお起きになって下さい、静かに」
 半四郎は起きあがった。「命が危ない」という囁きの異常さよりも、その声の緊張した調子や、相手のひどくふるえているのが、唯事でないという感じを与えたのである。――女は半四郎が着たまま寝ていたことを認め、
「そのままでいいから、刀だけ持っていっしょに来てくれ」と囁いた。半四郎は「どうするんです」と訊いた。
「わけはあとで申上げます、不寝番の見張がいますから気をつけて」と女は囁いた、「どうぞこちらへいらしって下さい」
「どこへゆくんです」
「此処《ここ》を出るんです」と女が答えた、「わたくしがいいと申上げるまで、なにも仰《おっ》しゃらないで下さい」
 半四郎は頷いた。
 彼はまだ酔っていた。抜き足で歩きだしてから、自分がまだ完全に酔っていることに気づき、激しい喉《のど》の渇きに気づいた。――中廊下をいって曲るとき、女は半四郎に向って、「あれを見ろ」という手ぶりをした。右側の、廊下を隔てた向うの座敷に、明るく灯がついていて、侍が一人、煙管《きせる》で莨《たばこ》をふかしている。そこにはもう一人か二人いるらしく、低い話し声も聞えた。それがたぶん「不寝番」なのだろう、女は半四郎の袖を引き、眼くばせをして、そこを左へ曲っていった。
 ――このままこの女についていっていいのか、これは悪い冗談ではないのか、いったい誰がなんのためにおれの命を狙っているのか、この女はなに者なのか。
 こういう疑問が、酔った頭の中でいたずらに空転し、だが彼は女の導くままについていった。
 初めて泊った家のことで、どこをどうぬけだしたのかわからない。小さな戸口で草履をはき、庭へ出ると小雨が降っていて、きみの悪いほど気温の高いのが感じられた。――女が半四郎の手を握った。その手は小さくて、(彼の口を塞いだときよりは)しなやかに温たかく、緊張のためだろう、じっとりと汗ばんでいた。その手は半四郎を導いてゆき、やがて潜り戸をぬけて外へ出た。
 女が潜り戸を閉めると、築地塀《ついじべい》に沿った暗がりから「善助です」という声がし、黒い人影がこっちへ近よって来た。女はその男と口早になにか囁きあい、男は「わかりました」と云って、闇の彼方へ消えたが、すぐに、駆け去ってゆく馬蹄《ばてい》の音が聞えた。
「こちらです」と女は半四郎の袖を引いた、「いそぎますから足もとに気をつけて下さい」
「喉が渇いているんだが」
「がまんして下さい、すぐにさしあげます」
 女の言葉はきつかった。そして、さっさと先に立って歩きだした。
 雨はやみもせず、強くもならず、同じ調子で降っていた。女は道をそれて、田圃《たんぼ》の畦道《あぜみち》へおり、それを幾曲りかして、林の中へはいった。半四郎は畦道で滑って、片足を田へ踏込んだ。その田は鋤《す》き返したばかりで、まだ水は張ってなかったが、雨で土がゆるんでいたため、踏込んだ足がくるぶしまで入り、やっと抜いたものの、足も草履も泥まみれになっていた。
「こいつはやりきれない」林の中へはいると、彼は肚《はら》を立てたように云った、「ここで少し雨やみをしましょう、足が泥だらけで気持が悪くってしようがない」
「いまは足どころではございません」と女は立停りもせずに云った、「いつ追手が来るかわからないんですから、少しでも遠くへいっていなければなりませんわ、いそいで下さい」
「ふん」と彼は鼻を鳴らした、「ではひとつ、歩きながらでも、わけを話してもらいましょうか」
「あとで」と女は云った、「少しは黙ってお歩きになれませんの」
 半四郎はう[#「う」に傍点]といって黙った。
 林をぬけると登りになり、いちど下って、また坂道になった。勾配《こうばい》もかなり急だし、粘土質らしく、半四郎は幾たびも滑り、いちどは尻もちをついてしまったが、女は馴れているのか、滑りもせずに調子よく登っていった。ばかなはなしだ、と手の泥を擦りながら、半四郎は心のなかで思った。
 ――こんなわけのわからない、ばかげたはなしがあるか、この娘はきっとおれをひっかけたんだろう、うん、命が危ないなどと威《おど》して、この雨のなかを逃げまわらせたあげく、みんなで泥まみれになったおれを囲んで、手を叩いて笑うんじゃないか。
 たぶんそんなことになるんじゃないのか、と半四郎は想像した。
「もしもそんなことであってみろ」と彼は声に出して呟いた、「万一そんなことであってみろ、ふん、思い知らせてくれるぞ」
「なんですか」と女が訊いた。
「なんでもない」と彼は云った、「――どこへゆくかあてはあるんですか」
「暢気《のんき》なことを仰しゃらないで」と女が云った、「こんな山の中をあてもなしに歩く筈がないじゃありませんか」
「するとあてはあるんですね」
 坂は下りになっていた。
「気をつけて下さい」と女が云った、「ここは急坂で滑りますから」
 そう云ったとたんに女が滑った。坂が急勾配になった処《ところ》で、とつぜん滑り、声をあげて半四郎に縋《すが》りついた。
 彼はすばやく手で支えたが、女は両手でそれにしがみついたので、その重みでこんどは彼がよろめき、双足を滑らせて、女を抱えたまま仰向けに転倒した。
 女は声をあげて笑った。折り重なって倒れたとき、(雨の匂いのなかで)半四郎は女のあまやかな肌の香と、温たかさと、抱いている腕に、彼女の弾力のある胸のふくらみを感じ、火にでも触ったように、腕をふり放しながら立ちあがった。
 女はまだ声をあげて笑っていた。

[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]

 六尺四方もありそうな大きな炉で、焚木《たきぎ》の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》が揺れ、薄い煙が立っていた。
 炉端に半四郎と女が坐っていた。二人とも借り着で、女は解いた髪の毛を背中にちらし、前髪の垂れてくるのを、指で掻《か》きあげながら、低いけれどもしっかりした調子で話していた。
 行燈は煤《すす》けているし、炉の煙がたちこめるので、彼女の姿は明瞭には見えない。
 しかし、その年の若いのと、顔だちの際立って品のいいことに、半四郎はびっくりしていた。
 彼女は溝口家の奥に仕えている侍女で、名はさと[#「さと」に傍点]というそうである。ここは彼女の乳母の家であり、与市という息子夫婦と、その子供が三人、与市の弟が二人いて、三町歩ばかりの田地山林がある、「今夜のことはかれらと相談のうえ」だそうで、少しも遠慮することはない、と彼女は云った。
 二人を迎えたのは五十年配の肥えた女で、それが乳母だったのだろう、さと[#「さと」に傍点]を「お嬢さま」と呼び、着替えをさせたり、濡れた髪を解いて拭いたり、すべてを独りで、まめまめと手ばしこくやった。家族の者は一人もあらわれなかった、次の間あたりにはいたらしい、乳母がなにか命ずると、低い受け答えや、起ち居する人のけはいが聞えた。けれどもこちらへは、ついに誰も出て来なかったし、用が済むと乳母自身も去ってしまった。
「それで、――」と半四郎がさと[#「さと」に傍点]を見た、「詳しいことはまだ話してもらえないのか」
「夜の明けるまえに此処から出てゆかなければなりませんの」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「ここがわたくしの乳母の家だということはわかっていますから、追手の来ないうちに山越しをしなければ」
「この雨の中をか」と彼は遮《さえぎ》った。
「槍が降ろうともですわ」とさと[#「さと」に傍点]が答えた。
「いやだ」と半四郎は云った、「こんな、狐に化かされたようなことはもうたくさんだ、理由が聞けないならおれは溝口へ戻る」
「わけは申上げます、はじめからそのつもりでまいったのですから」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「けれどたぶん、横江さまにはあんまり思いがけなくて、すぐにはお信じになれないかもしれません、――これは古い桑の根っこなんです」
 半四郎は「なに」と云った。さと[#「さと」に傍点]は長い金火箸《かなひばし》で、炉の中を突つきながら、「いいえ、この燻《くすぶ》っている木の根のことですわ」と云った。
 さと[#「さと」に傍点]は、煙から顔をそむけ、ちょっと咳《せき》をして、それから半四郎をじっと見つめながら、低くひそめた声で話しだした。
 半四郎はしまいまで黙って聞いた。それは思いがけないというよりも、彼には「作りばなし」か「まったく有り得ないこと」のようにしか受取れなかった。彼は黙ったまま、炉で揺れている※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]を見まもり、少し強くなったらしい雨の音を聞いていた。それからふと眼をあげて、「どうしておまえはそれを知ったのか」と訊いた。さと[#「さと」に傍点]は自分は奥勤めをしているから、ひそかにその密談を聞いたのだ、と答えた。
「わたくし横江さまをお助けしなければと思って、この乳母の家へ相談に来ました」とさと[#「さと」に傍点]は続けた、「そして乳母や善助たちと手筈をきめ、隠れ場所もすっかり準備して待っていたんですわ」
「善助というのは」
「ええ、お屋敷の裏にいたでしょう」とさと[#「さと」に傍点]は頷いた、「あれが与市の弟で、その下の弟の仁助もいたんです、二人はあのあとで馬に乗って、表街道のほうへいった筈ですわ」
「なんのために、――」
「追手の眼をくらますためによ、こんな雨になってはだめかもしれないけれど、裏に二頭の蹄《ひづめ》の跡が残っていれば、いちどはそれをめあてに追いかけるでしょう」
「この雨がなければね」と彼は頷いた、「うん、相当な知恵だ」
「さあ支度を致しましょう、馬の肢跡《あしあと》が役に立たないとすると、追手はまっすぐに此処へ来ると思います」
「だって雨が強くなったようだぞ」
「あなたはまあ、――」とさと[#「さと」に傍点]は彼をにらみ、首を振って乳母を呼んだ、「でかけるから支度をしておくれ」
「まあ待ってくれ」と彼は云った、「おまえはもういい、これからは自分でなんとかしよう、私のことは放っといてくれ」
「なんとかするって、どうなさるおつもりですか」とさと[#「さと」に傍点]が反問した、「追手がどこにどう手をまわしているかわからないのに、あなたは土地のようすをまるで御存じないでしょう、どの山を越えるとどこへ出るか、どの川はどこへ下るか、なにも御存じないのにどうなさるおつもりですか」
 半四郎は「うん」と詰った。乳母がそこへ用意の品を持って来た。
「わたくしだって逃げなければならないんですよ」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「横江さまを伴れ出したのがわたくしだということは、もうわかっているに違いありませんもの、そうでしょ」
「うん、そうかもしれない」
「そうにきまってますわ、さあ着替えて下さい」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「わたくしだって捉《つか》まればどうされるかわからないんですから、あら、この合羽《かっぱ》は小そうございますわね」
「いいよ、これで充分だ」
 二人は身支度を終った。さと[#「さと」に傍点]は手織木綿の粗末な筒袖を着、葛布《くずふ》の短袴《たんこ》をはいて、髪はうしろでひと束ねに括《くく》った。まるで少年のようなきりっとした姿になり、前半に短刀まで差した。大きな重詰となにかの包を旅嚢《りょのう》に入れて、それを背負った上から男の雨合羽を掛けると、半四郎をせきたてて草鞋《わらじ》をはいた。――このあいだも、家人は誰も顔をみせず、乳母がひとりで世話をした。乳母は戸口まで二人を送りだして、口の中で神仏の加護を祈った。
「洞の支度はすっかり出来ております」と乳母は云った、「夜になったら善助をやりますから、御入用な物があったら仰しゃって下さいまし」
「わかったわ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「あちらのほうも話したとおりにしておいてね、さあ、横江さままいりましょう」
 二人は雨の中へ出ていった。
 夜明けまえに、かれらは「洞」へ着いた。それは渓流を前にした断崖《だんがい》にあり、灌木《かんぼく》の茂みが入口を蔽《おお》い隠していた。そこへ来るまでに約三時間かかった、山を越え、谷川を渡り、渓谷をのぼり、また山を越えるというありさまで、洞へ着いたときには、半四郎はすっかりへばっていた。
「さあ着きました、これがその場所よ」とさと[#「さと」に傍点]は洞の入口を示しながら云った。「ここなら大丈夫、ゆっくり休んで下さいな」

[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]

 二人はそこに三日間いた。
 その洞は自然のものではなく、何十年かまえに銅を掘った廃坑だということであった。入口から五六間はいったところに、打藁《うちわら》を厚く敷き、その上に熊の毛皮が幾枚も重ねてあった。二人はそこへ横になって、毛氈《もうせん》を二枚ずつ掛けて寝た。熊の毛皮や毛氈などという高価な品を、こんな洞の中でむぞうさに使うというのは、さと[#「さと」に傍点]の実家がよほど富裕なのであろう、――また、そこには食器を入れる箱や、鍋《なべ》、湯沸しなどがあった。石で囲んだ簡単な釜戸《かまど》の脇に、細く裂いた焚木や、炭までが用意してあり、さと[#「さと」に傍点]はそこで食事を作ったり、湯茶を沸かしたりした。毎日一度、夜になってから善助が来た。握飯と菜の重詰を持って来、城下のようすを報告するためであるが、さと[#「さと」に傍点]は重詰は手をつけずに返した。
「食事はあたしが拵えるからいいわ」とさと[#「さと」に傍点]は善助に云った、「ばあやにもう持って来なくってもいいって云っておくれ」
 それを聞いたとき、半四郎はうんざりした。さと[#「さと」に傍点]の炊く飯は半煮えで芯《しん》があるか、粥《かゆ》のようにぐしゃぐしゃだった。菜も同じように、煮物は半煮えだったり、甘すぎたり辛すぎたりするし、干魚を焼くとまるで火がとおっていないか、さもなければ炭のように焦がすのであった。しかもさと[#「さと」に傍点]自身はいかにも満足そうで、しばしば自慢をし、半四郎が褒めないと不服そうな顔をした。
「ねえ、楽しいでしょ」とさと[#「さと」に傍点]は彼に向って云う、「楽しいわね、横江さま、わたくしずっとまえからこんなふうに暮してみたいって思ってましたのよ、こういう山の中で、自分で御飯を炊いたりお洗濯をしたり、それから好きな殿方のお世話をしてあげたり、――ああ」と彼女は太息《といき》をつくのであった、「それがとうとう本当になったのね、誰も邪魔をする者はないし、あなたはいい方だし、ああ、――一生こうして暮せたらどんなにいいでしょ」
 半四郎は憮然《ぶぜん》と彼女を見まもっていた。
「いったい、さと[#「さと」に傍点]の家はなにをしているんだ」と彼は訊いた、「商人か、それとも」
「商人よ、ええ商人ですわ」とさと[#「さと」に傍点]は答えた、「城下で兼庄っていうお店をやっていますの、呉服だの髪道具だの売っているし、材木屋もやっていますわ」
「呉服と材木だって、――」
「いいえ」とさと[#「さと」に傍点]は手を振った、「あの、材木屋のほうは弟、ええ父の弟がやってますの、ですから屋号も違うんですけれど、あなた魚をお釣りになったことあって」
 そしてこの谷川には魚がたくさんいること、なかでも鮎《あゆ》は名物で、季節になると他領の人たちまで鮎漁に来る、などと云いだした。
「さて、詳しい話を聞こうか」と三日めの夜に半四郎が云った、「このまえのはあらましで、はっきりしないところがあった、今夜は仔細《しさい》を聞かせてもらうとしよう」
「だって、わたくしすっかり申上げましたわ」
「では繰り返しでもいい」と彼は云った、「もういちどゆっくり話してくれ」
 さと[#「さと」に傍点]は咳をした。
「ようございます」と彼女は神妙に云った、「では辻褄《つじつま》の合うように申上げますわ」
 さと[#「さと」に傍点]はゆっくり話しだした。
 半四郎は横江の子ではなく、藩主の御|落胤《らくいん》であった。長門守祐永《ながとのかみひろなが》がまだ若く、大三郎といっていた時代に、侍女に産ませた子で、それをひそかに横江が引取って育てた。これは極秘で、長門守さえ知らないものと思っていたところ、重臣の一部が知っていたらしく、半四郎を世子《せいし》に直そうという計画が起こった。それは現在の世子である与五郎|永刻《ながとき》が、病弱のうえに暗愚で、とうてい一藩のあるじたる質がない、という理由なのだが、事実は一部の重臣たちが「半四郎擁立」によって、自分たちが藩政の中枢を握ろうとする野心から企まれたものである。――この計画を現老職が探知した。そうして、そんな危険な陰謀の根を断つためには、「半四郎をなきものにする」のが、もっとも単直であり確実な手段である、ということに相談がきまり、表面は「溝口の婿」という触出しで城下へ伴れて来、ここで暗殺をする手筈だった、というのであった。
 半四郎は聞き終ってからも、やや暫く黙っていた。
 まっ暗な洞の中に、渓流の音がこだましていた。追手に気づかれてはならないので、灯をともさないから、洞の中はまったくの闇であった。半四郎は熊の毛皮の上にあぐらをかいて座り、腕組みをして、じっとうなだれていた。
 ――兄とおれは十歳も年が違う。
 と彼は思った。二人きりの兄弟で、あいだが十年もあるというのは珍しいだろう。また、兄はよく「父上は四郎を「あまやかす」と云って、自分でびしびし彼を教育した。父が彼をあまやかしたのは事実である、半四郎は小さいじぶんから「おやじは甘いな」と思っていた。年をとってから生れた子だからあまやかすのだろう、と思っていたが、さと[#「さと」に傍点]の話が本当だとすれば、藩主の子であるために大切にしたのかもしれない。
 ――そうだ、そう考えることは不自然ではない。
 と彼は心のなかで頷いた。
「なにを考えていらっしゃるの」と闇の中でさと[#「さと」に傍点]が云った、「わたくしの申上げたこと、お信じになれないんですか」
「信じるも信じないも、――」と彼は浮かぬ調子で云った、「とにかく、これからどうするかということが」
「しっ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「黙って、――」
 半四郎は口をつぐんだ。
 渓流の音を縫って、人の話し声が聞えて来た。善助なら一人で来る筈だし、そんなに高声をあげるようなことはない。半四郎は手さぐりで刀を取り、静かに入口のほうへ出ていった。――洞の口から覗《のぞ》いてみると、十間ばかり下のほうに、提灯《ちょうちん》が三つ見え、四五人の侍たちの姿が(灌木の茂みの向うに)影絵のように眺められた。
「あれがもと銅を掘った坑《あな》だ」と侍たちの一人が云っていた、「そこに入口があって、奥と川上のほうへ坑道が延びている、川上のほうにも坑の口がある」
「まだそこはしらべてないんだな」
「まだだ」とまえの侍が云った、「しかしおれは慥《たし》かだとにらんでいる、おれのにらんだ眼に狂いはないと思う、なんならこれから入ってみようじゃないか」
「そうさな」と他の一人が云った、「せっかく来たんだから、そうするか」
「入口はそこだね」
 一人が提灯をあげながらこちらへ来た。半四郎は刀の柄に手をかけた。するとさと[#「さと」に傍点]が、うしろから彼にすがりつき、
「半四郎さま」とふるえ声で囁いた、「半四郎さま、追手ですわ」
 さと[#「さと」に傍点]はぶるぶると震えていた。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

「ああ見えるよ、そこが入口だね」と近よって来た侍が云った、「すっかり草むらで塞がってるな、ずいぶん長いことうっちゃってあったようじゃないか」
「慥かだと思うかい」と他の一人が云った。
「慥かだと思うね」と初めの侍が云った。
「明日来てみよう、そうすればわかるよ」
「いま入ってみようじゃないか」
「明日にしよう」と他の侍が云った、「まさか夜のうちに逃げだすわけでもないだろうからな」
 そしてかれらは去っていった。
「大丈夫だ」と半四郎はさと[#「さと」に傍点]に云った、「もう震えることはない、いってしまったよ」
「ここならみつかるまいと思ったのに」とさと[#「さと」に傍点]は彼にすがりついたまま云った、「夜の明けるまえに逃げだしましょう」
「逃げるあてがあるのか」
「もちろんよ」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「与市や善助と相談して、それだけの用意はちゃんとしてありますわ」
「坐ろう」と彼はさと[#「さと」に傍点]を押しやった、「さっきの話の続きだが」と彼は元の場所へ坐りながら云った、「私の立場がそういうことだとすると、なんとか身のふりかたを考えなければならない、いまのように、こんな山の中まで追手が来るんだから、領内でうろうろしているのは求めて危険を待つようなものだ」
「それはそうですけれど、ちゃんと隠れ場所があるんですから、そんなにいそがなくともいいと思いますわ」
「私は命を狙われているんだ、そうじゃないのか」
「こんなにまっ暗だと話もできませんわ」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「とにかくいまは此処から逃げだすということがさき、あとのことはまたおちついてからに致しましょう」
 そして手さぐりで毛氈をひろげ、二枚を半四郎に、他の二枚を自分に掛けて「おやすみあそばせ」と横になった。半四郎も横になりながら、今夜は善助の来るのがおそいな、と云った。今夜は来ないでしょう、とさと[#「さと」に傍点]が云った。追手がはいったことを知っているに相違ないから、用心のために今夜は来ないと思う。うん、そうかもしれない、たぶんそうだろう、では寝るとしよう、と半四郎が云った。彼はなかなか眠れなかった。さと[#「さと」に傍点]はまもなく眠り、軽い鼾《いびき》をたて始めたが、彼は追手の侍たちを(現に)その眼で見、かれらの話す声をその耳で聞いて、自分の命が「狙われている」ということを現実に感じ、そのなまなましい現実感に圧倒されたようで、本当のところは眠る気持になどなれないのであった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「すみません、堪忍して下さい」
「なにが、――」と彼は訊き返した。
「ごめんなさい」とさと[#「さと」に傍点]がまた云った、「お願いよ、……堪忍して下さい」
「なんだ」と彼は呟いた、「寝言か」
 まさしく寝言らしい。そして、さと[#「さと」に傍点]は軽く呻《うめ》き声をあげながら、半四郎のほうへ身をすり寄せ、片手を(毛氈の下へ入れて)彼の躯へ巻きつけた。子供が眠りながら母親に抱きつくような、ごく自然な、あまえた動作で、半四郎もその手を押しのけることができず、微笑しながらじっとしていた。すると、さと[#「さと」に傍点]はもっと身をすり寄せ、彼の胸へ顔を押しつけながら、その腕ですっかり彼を巻いてしまった。――重なりあった毛氈のあいだから、温められた娘の躯の匂いと躰温とが、彼の全身をあやすように包み、そして彼の膚にしみこんでくるように感じられた。よっぽどのあまったれだったんだな、半四郎はそう思いながら、毛氈で顎《あご》の下をきっちり塞ぎ、温気の洩れないようにして眼をつむった。
 彼が眼をさましたとき、さと[#「さと」に傍点]はもう起きて飯を炊いていた。洞の中が火で明るく、ぱちぱちと焚木のはぜる音がし、飯の炊ける甘い匂いが漂っていた。
「おめざめですか」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「おめざめならおちょうずを使って下さいな、もうすぐ朝餉《あさげ》のお支度ができますわ」
「まだまっ暗じゃないか」彼は伸びをした。
「明るくならないうちにでかけるんですから、ぐずぐずしてはいられませんのよ、今朝は」
 おふくろか女房のようだな、と思いながら半四郎は起きあがった。ゆうべは子供みたようだったが、いまはおふくろか女房のようだ、飯を炊いたりしていると、女らしい自信たっぷりな気持になるんだな、と半四郎は思った。彼が洞を出て、渓流のほうへおりてゆくと、さと[#「さと」に傍点]がうしろから手拭や楊枝を持って追って来た。
「お顔を洗うのに手ぶらでどうなさいますの」とさと[#「さと」に傍点]はおとなぶって云った、「四郎さまにはどこかしら眼のはなせないようなところがおありだわ、いつも誰かが付いていてあげなければならないようなところが、――きっと末っ子でいらっしゃるからでしょ」
 半四郎は流れの岸に跼《かが》み、口をすすいで歯を磨き始めたが、ふと振向いてさと[#「さと」に傍点]を見た。
「なんだって」と彼は不審そうに云った、「私が末っ子とは、どういうことだ」
「だって、――あら」とさと[#「さと」に傍点]は慌てて、なにかを持上げるような、あいまいな手まねをした、「だってあなたは、横江家としては、つまり末っ子だというわけですわ、そうじゃございませんの」
「さと[#「さと」に傍点]は私の兄のようなことを云う」と彼は渋い顔をした、「四郎という呼びかたも同じだ、いまに私を折檻《せっかん》するようになるんじゃないのか」
 さと[#「さと」に傍点]は赤くなり、
「あら御飯が焦げていますわ」と云いながら、洞のほうへ走り去った。
 空が白みかけるころ、二人は山越しをしていた。さと[#「さと」に傍点]も包を二つ持っているが、半四郎はばかげて大きな包を背負い、片手にもう一つ包を提げていた。――四月中旬の、早暁の山の空気は爽やかで、芽立ち始めた樹林に霧がながれ、しきりに小鳥の囀《さえず》りが聞えていたが、半四郎はそんなものは見もせず聞きもしなかった。彼は自分の恰好のぶざまさを呪《のろ》い、その重たさを呪った。まるで夜逃げだ、と彼は思った。江戸の市民たちのなかで、食い詰めると「夜逃げ」をするということをよく聞いた。売る物は売り、必要な道具だけを背負ったり持ったりして、夫婦親子が夜中ひそかに逃げだすらしい。
 ――たぶんいまのおれの恰好みたようなもんだろう、この恰好はたぶん。
 さと[#「さと」に傍点]が「あ」といって半四郎の腕をつかんだ。誰か来ます、隠れましょう、と彼女は云いながら、彼を引張って傍らの藪《やぶ》の底へともぐり込んだ。ばかげて大きな包を背負っている彼は、その包が邪魔になり、木の下枝につかえたり、転びそうになったりした。
「しっ、静かに」とさと[#「さと」に傍点]は藪蔭に跼みながら云った、「もっと低く、それでは頭が見えてしまいます、もっと低く、もっと、――」

[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]

 三人|伴《づ》れの侍たち(みな遠道の支度をしていた)が来て、通り過ぎていった。重い包を背負ったまま、不自然な恰好で跼んでいた半四郎は、かれらがやって来て、すぐ向うを通り過ぎるとき、息が詰って胸がつぶれそうになった。
「先頭にいた人は木曾孫太夫という方よ」とさと[#「さと」に傍点]が囁《ささや》いた、「三番めが樅山重三郎さま、みんな御|家中《かちゅう》の方たちですわ」
 木曾孫太夫とは聞き覚えのある名だった。慥かにどこかで聞いたような気がする、と半四郎は思った。
「こっちもだめらしいな」と彼は云った、「ああいう侍が来ているとすれば、要所にはそれぞれ人数が配ってあるだろう、これはとうてい逃げきれないぞ」
「わたくしが付いていますわ」とさと[#「さと」に傍点]は手を貸して彼を立たせながら云った、「そんな心配をなさらないで、わたくしに任せていらっしゃればいいの、もうそれもほんの暫くの御辛抱なんですから」
「暫くの辛抱って、――辛抱すればどうにかなるというのか」
「まいりましょう」とさと[#「さと」に傍点]は歩きだした、「世の中のことって、いつなにが起こるかわからないし、起こったことがどう変るかわからないでしょ、千万長者が一夜|乞食《こじき》になったり、丈夫な人が急にぽっくり死んだり、それから、ええと」
「そう並べなくともいい、要するに逃げみちはあるということか」
「もちろんですわ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「あるからこそこうして、あら、道が違ったかしら」
「もういちど聞かせてくれ、本当に逃げ道があるんだな」
 さと[#「さと」に傍点]は「ええ」とはっきり頷《うなず》いた。
「人ひとりの命にかかわることですもの」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「いくらわたくしだって当もなしにうろうろしやあしませんわ、ああ此処《ここ》よ、この道をこっちへおりるんだわ」
 彼女は道を右へ折れた。
 深い雑木林の中の、細い踏みつけ径《みち》を、つづら折に下ってゆくと、下のほうから渓流の音が聞えて来た。半四郎は前をゆくさと[#「さと」に傍点]のうしろ姿を見ながら、ふと「可愛い娘だな」と思い、すると(まるでいま眼がさめでもしたように)とつぜん感謝と愛着の情がこみあげてきた。うん可愛い娘だ、縹緻《きりょう》も悪くはないし、云うことも気がきいてる、と彼は心のなかで呟《つぶや》いた。町家の生れにしては屹《きっ》としたところもあるし、気性もいい、気性はなかなかいい、それにこんな若さで、おれの命を助けるためにけんめいになってる、これはあだやおろそかなことじゃない、うん、決してあだやおろそかなことじゃないぞ、と彼は心のなかで自分に云った。
「もうすぐよ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「滑るからお気をつけになって」
 そう云ったとたんに、さと[#「さと」に傍点]自身がつるっと足をとられ、「あらあら」と声をあげながら、尻もちをついたまま、二間ばかり滑っていった。手を出すひまもない、半四郎は「危ない」と叫び、さと[#「さと」に傍点]は笑いだした。
「いやだわまた滑っちゃったわ」と笑いながらさと[#「さと」に傍点]は云った、「こんども自分で云って自分で滑っちゃったわ、いやだわ、ばかばかしい」そして尻もちをついたままで暫く笑った。半四郎が手を貸して立たせてやり、歩きだしてからも、なお「ああ損しちゃった、ばかばかしい」と云っては独りで笑いこけるのであった。
 坂道を下りきると、流れの急な渓流があり、杣道《そまみち》がそれに沿って上下へ通じていた。そこは日陰で空気はひんやりと冷たく、杉林がつよく匂っていた。――これから少し下ったところに隠れ場所がある、とさと[#「さと」に傍点]が云いかけると、半四郎が「しっ、いるぞ」と云って、うしろからさと[#「さと」に傍点]の肩を押えた。渓流が曲っているので、見とおしは利かないが、若い杉林を透して、向うに四五人の人のいるのが見えた。
「戻るか、隠れるか」
「戻れませんわ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「隠れてようすをみましょう」
 二人は杉林の中へはいった。
 杉の樹がつよく匂い、下生《したばえ》がきれいに新芽を付け、木洩れ日がその新芽を鮮やかに浮き出させていた。二人は下生の陰に隠れ、見ていると、六人の男たちが杣道をこっちへ来た。槍を持った小者が三人、そして他の三人は侍たちであるが、これも各自いろいろな道具を持っていた。
「慥かにこっちへはいってる」と一人が云っていた、「もう間違いはない、御支配に話して見張りを殖やすことにしよう」
「みつけしだいに斬ってしまうのさ」と他の一人が云った、「文句はあとだ、まず斬って、それからの掛合にすればいいんだ」
 かれらは川上のほうへ去っていった。
「だめだわ」とさと[#「さと」に傍点]が囁いた、「これでは場所を変えなければなりませんわ」
「まだほかにあるのか」
「ええ」とさと[#「さと」に傍点]が頷いた、「でもそこへは善助といっしょでなければだめなんですの、わたくしではようすがわからないんですから」
「善助とはどこで会う」
「この向うの隠れ場所なんです、そこにいれば来る手筈になっているんですけれど、あんなに追手が入込んでいては、来られないかもしれませんわ」
「どうも塞がれたらしいな」と彼は太息をついた、「これはもう袋の鼠というかたちらしいぞ」
「此処で待っていましょう」とさと[#「さと」に傍点]はあたりを眺めまわした、「あそこの蔭がいいわ、あそこなら道からは見えないし、善助が来ればこっちからは見えますもの、まいりましょう」
 二人はもう少し奥にある、下生の繁みの蔭へはいり、半四郎は背負っている包をおろした。
「堪忍して下さいましね」とさと[#「さと」に傍点]は包をおろすのを手伝いながら云った、「こんな物を背負わせたり、こんな山の中を歩きまわらせたりして、――済みません、どうかお怒りにならないで下さいましね」
「おまえがあやまることはないじゃないか、怒るどころか、私こそおまえに礼を云わなければならない、礼も云い詫《わ》びなければならないのは私のほうだ」
「それはそうだけれど」さと[#「さと」に傍点]は乾いた枯草を集めて坐る場所を作った、「此処へ坐りましょう、はい、四郎さまはこちら、おなかがすきましたわね、おむすびをあげましょうか」
「私はまだいい」
「わたくしおなかがすきましたわ」とさと[#「さと」に傍点]は自分の持って来た包の一つをあけた、「わたくしのおなか変なんですのよ、御膳を喰べて少しすると一遍きゅっとすいてしまうの、そのときなにか頂くといいんだけれど、すいたままにしておくとくうくう泣くんですの、ほんとよ、ほら、いまも泣いてるでしょ」

[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]

 さと[#「さと」に傍点]は半四郎のほうへ向き直って、腹の鳴っているのを聞かせようとした。彼は眼をそらせながら、うんと頷き、「私はいいからお喰べ」と云った。こっちへ向き直ったさと[#「さと」に傍点]の、匂やかにまるい胸と腹部のふくらみが、あまりにまぢかで眩《まぶ》しかったのである。さと[#「さと」に傍点]は重箱をあけ、自分で握ったむすび飯を喰べた。その朝の飯は水が少ないうえに焦がしたので、よく握りが利かないのだろう、持っている手からぽろぽろとこぼれた。
 午《ひる》ちかい時刻に善助が来た。彼は蓑《みの》と笠を着て、川下のほうからいそぎ足に来、さと[#「さと」に傍点]がそれをみつけて声をかけた。善助は流れに沿った杣道で立停り、杉林の中をすかし見て、さと[#「さと」に傍点]の姿を慥かめてから近よって来た。
「どうしたの、その恰好」とさと[#「さと」に傍点]が訊いた、「雨でも降ってるようじゃないの」
 善助は笠をぬいで、今日は雨になります、と答えた。あら、こんなに晴れているのに。はい、今日はやがて雨になると思います、と善助はていねいに答え、それから、追手らしい人たちがいたので、昨夜は洞へゆけなかったこと、またこの辺にも御家中の人がだいぶみえるから、いっそ殿島へ御案内するほうがいいと思い、その手配をして来た、と云った。――彼は半四郎に向って、(いちど)極めて丁重な礼をしたが、それからは半四郎に遠慮するようすで、さと[#「さと」に傍点]にだけ低い声で話した。
「いいわ」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「では殿島へゆきましょう」
「明るいうちは困るのです」と善助が首を振った。「まわりに家がありますし、屋敷内でも人眼がございますから、日が昏《く》れてからにして下さいまし」
「だって雨になるとすると、此処で待ってるわけにはいかないでしょ」
「あの小屋でいいと思います」と善助が云った、「いま御家中の方たちが休まれたとき、鮫《さめ》ヶ|淵《ふち》までのぼってから城下へ帰る、と話しておられましたから、今日のうちは大丈夫だと存じます」
 それならそうしましょう、とさと[#「さと」に傍点]は承知した。
 半四郎の荷物を善助が背負い、さと[#「さと」に傍点]の包を半四郎が持って、三人は杉林を出、渓流に沿って三町ばかり下った。その谷間の勾配《こうばい》はかなり急で、流れは速く、到る処で川なかの石に砕け、白いしぶきをあげたり、滝のように落ちたりしていた。
「これはわたらい[#「わたらい」に傍点]川っていいますの」とさと[#「さと」に傍点]が半四郎に教えた、「この谷の切れるところで昨日の川といっしょになるんですけれど、こちらも鮎《あゆ》や山女魚《やまめ》がたくさん捕れますわ」
 半四郎は黙って頷いた。追手が刻々と迫って来、じりじりと網をしぼられるようで、彼としては鮎や山女魚どころのはなしではないのであった。――その小屋は、川を前にした杣道の脇にあった。鉈目《なため》を付けた柱と厚い板で造ってあり、いかにもがっちりとして見え、土間には炉が掘ってあった。これは簗小屋《やなごや》よ、と中へはいりながらさと[#「さと」に傍点]が云った。
「梁小屋とはなんだ」
「あら御存じないの」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「この前の川に簗をかけて魚を捕るんですよ、そうして客があるときはこの小屋で、捕った鮎だの山女魚だのを料理して喰べさせるんですわ」
 半四郎は「ふん」と無関心に頷いた。
 善助は包を片づけてから、炊事道具や食器などは此処へ置いて、殿島へは躯だけいらっしゃればよかろう、と云った。今日はもう人は来ないだろうが、戸口を閉めて中から棒をかい、もし人が来たら裏からぬけ出すように、「私は日昏れまえにまたまいります」と云って、まもなく去っていった。
 午後はさと[#「さと」に傍点]の楽しげなお饒舌りのうちに過ぎていった。
「少し黙っていられないのか」と半四郎が三度ばかり注意した、「追手が来るとその声で感づかれてしまうぞ」
「大丈夫よ、川の音が高いから聞えやしませんわ」とさと[#「さと」に傍点]は云った、「でも少し黙りましょう、わたくしも口が草臥《くたび》れましたわ」
 そして坐り直して、「自分はふだんは決してお饒舌りではないのだ」と釈明し始め、そのままずるずると、また饒舌りだすのであった。半四郎はもう叱ろうとはせず、横になって黙って聞いていた。すると、さと[#「さと」に傍点]の話しぶりがさも楽しそうなので、こっちもいつかしら楽しい気分になり、話が彼女の姉の悲しい恋になると、身につまされてほろりとなりさえした。彼女には一つちがいの姉があり、或る人と激しく恋しあっている。だがそれは親たちに許されない、許される望みもないので、このまま放っておけば家出をするだろう。家出をしても二人で暮してゆけるわけがないから、やがては心中でもするにちがいない。それを思うと、自分は姉が可哀そうで身も世もないような心持になる、というふうにさと[#「さと」に傍点]は語った。
「うん、気の毒だな」と半四郎はしんみりと云った、「そんな心配もあるのに、おれのためにまたこんな苦労をさせるとは済まない」
「済まないなんてことはございませんわ、つまりは同じことなんですもの」
「同じことだって、――」
「ええ、いいえ」とさと[#「さと」に傍点]は慌てて唾をのみこみ、そして頬を赤らめながら頷いた、「ええ、だって、姉も姉ですけれど、四郎さまだってお命が危ないのですもの、あら、わたくしまたお饒舌りをしてましたのね」
「姉さんとその人を結婚させる法はないのか」
「四郎さま」とさと[#「さと」に傍点]は衝動的に云った、彼女の眼はそのとききらきらと光った、けれどもすぐにその光りは消え、「もうこのお話はよしましょう」と首を振った、「たぶんうまくゆくだろうと思うのですけれど、でもいまはもうよしましょう、おむすびをあげましょうか」
 半四郎は「自分でお喰べ」と云った。
 黄昏《たそがれ》になって善助が来た。雨は降らず、こんどは彼も蓑を着てはいなかったが、さと[#「さと」に傍点]は気づかないようすでなにも云わなかった。むすび飯と香物で夕餉を済まし、すっかり暗くなるのを待って、三人はその小屋を出た。――渓流に沿ってさらに四五町ほど下り、丸木橋で流れを越した。対岸は松林で、道は丘へと登りになる、「こっちは領分外ではないのか」と半四郎が訊いた。まだ御領内です、と善助が答えた。ずっと昔はこのわたらい[#「わたらい」に傍点]川が領境だったそうだが、百何十年かまえに改正されて、吉岡郷の矢倉山というのが領境になった。「それは御国絵図にもちゃんと書いてある」と善助は云った。
「御国絵図、――」半四郎はふと訊き返し、それから自分に頷いた、「ああそうか、あのとき聞いたのか」

[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]

「なにをお聞きなさいましたの」
「なに、朝あの山道で見た男のことさ」
「樅山重三郎さまですか」
「いや木曾孫太夫のほうさ」と半四郎は云った、「どこかで聞いた名だと思ったが、いま気がついたんだ」
「あら御存じでしたの」
「いや当人は知りゃあしない、溝口さんから聞いたんだ」と彼は云った、「木曾という男はいま国絵図御改の支配をさせているが、溝口さんは気にいらないそうで、私を支配にするのだと云っていた、もちろんそれはでたらめだろう、私を暗殺するのが本来の目的なんだから、国絵図御改の支配にするなどというのはでたらめだろうが、孫太夫という男を好かないのは事実らしいよ」
「人家が近くなります」と善助が注意した、「どうぞお静かに」
 半四郎は黙った。
 丘を登りきると耕地がひらけ、風よけの樹立に囲まれた農家が、道の左右に見えはじめた。殿島というのは領内でも指折りの豪農だそうで、当主の八右衛門は五十七歳、藩主の長門守から特別の待遇を受けていて、城中でも寄合相当の格式が与えられており、――それは数度に及ぶ多額な上納金によるのだが、お城へあがるときは、馬乗塗笠を許されているということであった。夜だったのでよくわからないが、その屋敷は白い築地塀《ついじべい》をまわし、中には五棟の土蔵と、二階造りの母屋をはじめ、数寄屋、隠居所、長屋、厩《うまや》など、いろいろな建物が並んでいた。
 三人は横の馬入れ門からはいった。そこに一人の老人がいて、善助が「義平という者です」とさと[#「さと」に傍点]にひきあわせた。老人は善助の兄(与市)の妻の親で、この屋敷の庭頭をしており、二人を匿《かく》まってくれるのだそうで、「すっかり準備ができています」とさと[#「さと」に傍点]に云い、一と棟の物置へ案内した。――母屋の二階には明るく灯がついて、酒宴でもあるのか、かなり離れているのに、賑《にぎ》やかなざわめきが聞えて来た。
 そこは古い文書類を入れて置く建物とみえ、さして大きくはないが、床が高く、用材も造りもがっちりしたものであった。内部の三方には棚があって、これには栞《しおり》の付いた書冊が幾山か積んであり、また古文書《こもんじょ》を入れた櫃《ひつ》が五つ、それぞれ貼札《はりふだ》を付けて並べてあった。――また、書類を調べるときに使うのだろう、まん中が畳敷になっていて、料紙や硯箱《すすりばこ》の載った小机が据えてあった。
「ここへは人はまいりません」と義平が二人に云い、小さな燈明に火をいれた、「外へは洩れませんが、灯はこれで御辛抱を願います、あとで御寝具を持ってまいりますから」
 善助は明日また来ると云って、義平と共にたち去った。
 半四郎はおちつかなかった。山中の洞とは違って、ここは人の屋敷内である。この建物の外はいつ人が通りかかるかもしれないし、いつ誰に気づかれるかもわからない。「此処はまずい」と彼は思った。此処は危ない。早く領分外へ出るほうがいい。そんなことを思いながら、棚の前へいって、積んである書類を手に取ってみた。
「わたくしなんだか変な気持ですわ」とさと[#「さと」に傍点]が葛布の短袴をたたみながら云った、「洞の中や簗小屋のときはなんでもなかったんですけれど、こうして畳の上で四郎さまと二人だけになると、なんだか怖いような悪いような変な気持がして、胸がどきどき致しますわ」
 半四郎は黙って書類をめくっていた。
 それは年貢や運上の分限帳《ぶげんちょう》のうち、小物成《こものなり》の分だけを、年代順に積んだものであった。
「吉岡郷佐多村、東字より渡氷川《わたらいがわ》に至る矢竹、下草《したぐさ》、柴、川漁」などに対する小物成代として、しかじかの代銀を納めると、勘定奉行所に宛てた、殿島八右衛門署名の文書であった。もっとも古いのは六十年まえのもので、それは殿島の先代か先々代であろう、署名も五郎兵衛などというのがあった。
「なにを見ていらっしゃいますの」とさと[#「さと」に傍点]が振向いて見た、「なんですの、それ、草紙かなにかでございますか」
「いや」と彼は云った。「なんでもないよ」
 そして、見ていたものを棚へ戻し、こっちへ来て坐った。
 二人はそこに三日と二夜いた。そのあいださと[#「さと」に傍点]はすっかり羞《はにか》みどおしで、手まめに半四郎の世話をしながら、「どうしてこんな変な気持になるのでしょ」とか、「なんだか悪いことでもしているみたようよ」などと繰り返し、半四郎が相手にならずにいると、「まるで花嫁さまになったような気持だわ」と云って肩をすくめ、ちらっと彼のほうを横眼で見たりした。
 ――ちゃんと聞えたよ。
 と半四郎はそのとき心のなかで云った。それもいいかもしれない、おまえは好い娘だ。少しお饒舌りだけれども、可愛い饒舌りかただし、聞いていると楽しい気分になる。うん、と彼は心のなかで頷いた。そうだ、おまえを妻にしよう、無事に逃げのびることができたら、二人でどこかでおちついてもいい。よし、そうすることにしよう、と彼は思った。――義平は日に三度、食事と茶をはこんで来、「なにごともないから安心するように」と云って、空いている食器を持ってすぐに去り、よけいな世辞を云ったり、うるさく世話をやくようなことはなかった。
 善助はあの翌日の夜に来、一日おいてまた来た。そして城下のようすを報告するのだが、二度めに来て帰ったあと、さと[#「さと」に傍点]がにこにこしながら、「勘違いでした」と云った。善助はさと[#「さと」に傍点]にしか話さないので、半四郎はさと[#「さと」に傍点]から報告を聞くのであるが、「勘違い」のわけを聞いて、彼はちょっと首をひねった。
「追手じゃあなかったって」
「ええ追手じゃあなかったんですって」とさと[#「さと」に傍点]が云った、「山道で会った木曾孫太夫さまたちは、国絵図御改の見廻りだし、わたらい[#「わたらい」に傍点]川で会った人たちはその絵図の測量をしていたんですって、それから洞のところへ来たのは、どうやら隣りの藩の侍たちらしい、っていうことでしたわ」
 半四郎は「ふん」と訝しそうに首をひねり、だが「みつけしだい斬ってしまおう」とか、「こっちへはいったのは慥かだ」と云っていたじゃないか。ええそうよ、とさと[#「さと」に傍点]は頷いた。それにもわけがあるんです、というのは、隣りの松井藩であの洞からまだ銅が採れることを探りだしたそうで、自分の領地に入れてしまおうとしているんでしょう、しきりに領境を越して、人がはいりこむんですって。
「ふん」と半四郎は云った、「それで見張りを殖やせ、などと云っていたんだな」
「そのほうのごたごたで、わたくしたちのことはお預けになったのでしょ」とさと[#「さと」に傍点]はにこにこした。「もうそんなにびくびくしなくてもいいのかもしれませんわ」

[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]

 領地を接している諸侯のあいだに、境界の諍《あらそ》いの起こることは稀ではない。まだ測量法が不完全であり、各藩の国絵図なども明確でないものが多いから、(あの洞から銅が採れるということはべつとしても)こんどのように国絵図御改などという機会には、うまく他領を取り入れるような工作も行われかねないのであった。
 ――そういうことだとすると、おれのことは本当にいちおうお預けになったかもしれない。
 隣藩の者が領境を侵し、こちらが「みつけしだい斬れ」とか、「斬ってからの掛合だ」などと云っていたところで考えると、半四郎の捜索がひとまずあとまわしになる、という予想もさして不自然ではないだろう。そうだ、そう考えても不自然ではない、このひまに領外へ脱出しよう、と彼は思った。
「さと[#「さと」に傍点]、――今夜ここをぬけ出そう」と彼は坐り直した。「その騒ぎに紛れてぬけ出すんだ、どっちへでもいい、今夜のうちに領内から出ることにしよう」
「だってそれは、それはあの」とさと[#「さと」に傍点]は口ごもった。「そのことはわたしに、任せて下さる筈ではございませんか」
「いやこんどはおれがきめる」彼はきっぱりと云った、「もうおれがきめてもいい番だ、今夜どうしてもぬけ出すことにするよ」
 さと[#「さと」に傍点]が「でも」と云いかけたが、半四郎は手を振って戸口を見た。すると、重い引戸が静かにあき、義平が一人の若者を伴れて、はいって来た。老人は引戸を閉めて近より、「和助という手代でございます」とその若者をひきあわせた。半四郎は、なにかあったな、と直感した。義平は声をひそめて「すぐお立退き下さい」と云った。「この物置は焼かれるのです」と平は云った、「仔細は和助から申上げます」
 和助という若者が進み出た。
「いいえ、仔細はよくわかりません」と和助は低い声で云った、「大旦那と客の話を聞いたのですが、夜半を過ぎたら、この物置へ火をかけて焼いてしまう、ということで、お知らせにまいったのです」
「おれたちのことを感づいたのか」
「そうとは思えません」
「聞き違いでもないんだな」と半四郎は眼をそばめた、「――物置とはいえ、ちゃんと屋敷内に建っているものを、火をかけて焼きはらう、というのはおかしいじゃないか」それからふと、彼は和助を見た、「客というのはなに者だ」
「松原というお武家でございます」
「家中の者か」
「いいえ」と和助は首を振り、ちょっと躊躇《ためら》うように義平を見たが、「じつは」と口ごもりながら云った、「じつは、――隣りの松井藩の御重役でございます」
 半四郎は「ふん」と唇を噛《か》んだ。
「わかった」と彼は云った、「ちょうど立退こうと思っていたところだ、このまますぐに出ていっていいか」
「暫くお待ち下さい」と義平が云った、「いま少しすると案内の者の手があきます、そのあいだに用意をして、私がお知らせにまいります」
 半四郎は「わかった」と頷き、二人は出ていった。
 義平と和助が出てゆくと、半四郎はとびあがるように棚の前へゆき、小物成の分限帳を一と山おろした。「どうなさいますの」とさと[#「さと」に傍点]が訝《いぶか》しげに訊いた。僥倖《ぎょうこう》だ、天の助けだ、おれもおまえも城下へ帰れるぞ、と半四郎は云った。さと[#「さと」に傍点]は口をあいた。半四郎はのぼせあがったようになり、並んでいる五つの櫃をしらべ、(鍵《かぎ》の掛っていない)櫃の一つをあけてみた。それには反故《ほご》や古布が詰っており、彼はにっと微笑して、その古布の中から一枚の風呂敷を取出した。
「なにがどうしましたの」とさと[#「さと」に傍点]が立ちあがった。「わたくしたちがどうして城下へ帰れますの、天の助けってなんのことですの」
「神祐天助《しんゆうてんじょ》だ」と彼はおろした一と山の分限帳を、風呂敷に包みながら云った、「勝負はわからない、だめかもわからないが、このうえ逃げまわるより、当って砕けてみる、のるかそるか、この切札で運をためしてみるんだ」
「あら、心ぼそい天の助けですわね」
「これは小物成の分限帳といって、郷村の草木や川漁の運上銀を記したものだ、これには殿島八右衛門の署名と、藩の勘定奉行の名が書いてある」と彼は云った、「つまり、吉岡郷がわが藩の所領だということは、この分限帳がはっきり証拠立てているのだ」
「だって、――」とさと[#「さと」に傍点]は反問した、「それがどうして神祐天助の切札ですの」
「神祐天助は此処へ来あわせたことだ、切札というのは」と彼は包み終ったものを手で叩いた、「この分限帳さ、これを国老のところへ持っていって談判をする、――よくお聞き、さと[#「さと」に傍点]が善助から聞いたとおり、いま領分境のことで諍いが起こっている、松井藩で領分境を侵そうとしている、と云っていたろう」
 さと[#「さと」に傍点]は半四郎をみつめながらこっくりをした。
「殿島がこの建物を焼くのは、この分限帳を灰にするためだ」と彼は続けた、「焼く相談をしていたのが松井藩の重役だとあってみれば、おそらく松井藩となにか密約があるのだろう、百何十年かまえには、吉岡郷は隣藩の領分だったというから、境論が表沙汰になった場合に、この分限帳が無ければ松井藩の云い分がとおるかもしれない、いや、確実に勝つ目算があるから、これを焼くことになったのだと信ずる」
 私はそう信ずる、と半四郎が云ったとき、引戸をあけて、義平が手まねきをした。半四郎はさと[#「さと」に傍点]に眼くばせをし、燈明を消し、そして風呂敷包を(義平に気づかれぬように)持って、土間へおりた。――外へ出ると、中年の下男ふうの男がい、茂平が「竹造という者です」と囁き、男が丁重におじぎをした。
「これが御案内を致します」と義平は囁いた、「どうぞ御無事で、――」
 さと[#「さと」に傍点]は頷き、半四郎は「ぞうさになった」と会釈した。
 空は暗く、雨もよいで、気温が高かった。竹造は二人の先に立って、馬入れ門から外へ出、黙ったまま、三日まえの梁小屋まで送って来た。
「どうぞ此処でお待ち下さい」と竹造は二人を小屋の中へ入れながら云った、「私はこれから善助さんの処へ知らせにまわります」
 そして彼は出ていった。
 まっ暗な小屋の中で、二人だけになるとすぐに、さと[#「さと」に傍点]がはずんだ声で、「わかりました」と云った。
「その分限帳があれば、松井藩の企みを潰《つぶ》すことができるんですのね」
「そして殿島の制裁もできる」と半四郎は闇の中で云った、「明日は堂々と溝口さんに会おう、そして私はこれを差出して、こう云うんだ、――私は町人になります、決して重職がたに利用はされません、町人になって、町家の娘を嫁にもらって、御家中とは一生|関《かか》わりなしに暮します」
「それが切札っていうんですのね、うまいわ、それなら間違いなしと思いますわ」とさと[#「さと」に傍点]は云って、ふとひらき直った。「でも、――あらいやだ、町人の娘をおもらいなさるって、四郎さまにそんな方がいらっしゃるんですか」
「さと[#「さと」に傍点]は町人の娘じゃあないか」
「あらいやだ、わたくしが町人の、――」とさと[#「さと」に傍点]は口ごもった。「だって、それでは、四郎さまがもらうと仰《おっ》しゃるのは」
「おまえは商家の娘なんだろう」
 半四郎は闇の中ですり寄り、手さぐりでさと[#「さと」に傍点]の肩をつかんだ。さと[#「さと」に傍点]の躯《からだ》はぴくっと痙攣《けいれん》し、それからがたがたとふるえた。
「さと[#「さと」に傍点]は私の嫁になるのはいやか」
「ええ」とさと[#「さと」に傍点]は喘《あえ》ぎながら云った、「――もしも四郎さまが、お怒りにならなければ」
「私がなにを怒るんだ」
「わたくしお話し申さなければならないことがございますの、でも、――お話しすれば、四郎さまはきっとお怒りになると思うんです」
「私がなにを怒るんだ」と彼は双手《もろて》でさと[#「さと」に傍点]を抱きよせた。「さと[#「さと」に傍点]は私の命の恩人じゃないか」
「ええそのことなんです」さと[#「さと」に傍点]は彼の腕の中で震え、そして激しく喘いだ、「そのことなんですけれど、でもきっとお怒りなさいますわ」
「怒らない、どんなことがあっても怒りやしないよ」
「それなら初めに堪忍してやると仰《おっ》しゃって」とさと[#「さと」に傍点]は鼻にかかった声で云い、猫の仔《こ》のように半四郎の胸へ身をすりつけた、「たとえどんなことでも怒らない、きっと堪忍してやるって」
「刀に賭《か》けて誓う、私は怒らないぞ」と彼は云った、「――さあ、話してごらん」
「では、では、申上げますわ」
「待て」と彼が云った。「半鐘の音が聞えやあしないか」
 半四郎は口をつぐんだ。板屋根を打つ、かすかな雨の囁きのかなたに、遠く、半鐘の音が聞えていた。
「火をかけたな、これでこの分限帳がものをいうぞ」彼はそう云って坐り直した、「――さあ聞こう、話してくれ」

[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

「そのときすっかり話したのね」とあつみ[#「あつみ」に傍点]が妹に訊いた、「それで、お怒りにならなかった」
「怒らないもんですか」とみさを[#「みさを」に傍点]は姉の晴着を衣桁《いこう》へ掛けながら答えた、「刀に賭けてなんて仰しゃったくせに、話の途中からもうかんかんよ、堅炭《かたずみ》が熾《おこ》ったみたようにかんかんになって、いったいどういうわけだ、って云うのが吃《ども》っちゃって云えなかったくらいよ」
「あなたの困ったお顔が見えるようよ」
「わたくしのほうは覚悟のまえよ、どなられたら却《かえ》っておちついて話せましたわ」とみさを[#「みさを」に傍点]は云った、「お姉さまが樅山重三郎という方と、死ぬほどの恋仲だったこと」
「まあみさを[#「みさを」に傍点]さん」とあつみ[#「あつみ」に傍点]は妹をやさしく睨み、そしてぼっと、はなやかに顔を染めた。
「いいことよ、もう御結婚なさるばかりですもの、恥ずかしがることなんかないでしょ」とみさを[#「みさを」に傍点]は云った、「それで、――四郎さまのいらっしゃるのが十日以上も早かったし、お姉さまは樅山さまとのことをうちあける暇がなかったため、家出をしようとなすったこと、それを止めるために、みさを[#「みさを」に傍点]が知恵を絞ったこと、そうして、あのような手段をとる以外には、方法が思い当らなかった、ということをゆっくりと話しましたわ」
「そうしたらお怒りがしずまって」
「御落胤とはなんだ、ですって」とみさを[#「みさを」に傍点]は続けた、「御落胤で命を狙われているなんて、まるで子供|騙《だま》しみたようじゃないかって、――ですから云ってあげたわ、そう申上げなければ脱け出しては下さらなかったでしょうって、それとも本当に御落胤で、お命を狙われているほうがいいのですかって、――わたくしそう訊き返してあげたわ」
「まあ」と姉は眼をみはった。「あなたのお口にはかなわないことね」
「殿島が松井藩と通謀していることを知ったのも、分限帳を手に入れることができたのも、みんな二人で逃げまわったからでしょ、そうではございませんの、って云ってあげましたわ」
「あの方なんと仰しゃって」
「それはまあそうだ、ですって」とみさを[#「みさを」に傍点]は巧みに半四郎の声色《こわいろ》をまねた、「それからわたくし坐り直して、わたくしは侍女のさと[#「さと」に傍点]ではなく、溝口家の二女のみさを[#「みさを」に傍点]でございます、って云いましたの、そうしたらあの方はとびあがって、なにかどなりそうにして、う、う、と吃ってから、こんどは丁寧な言葉で、――ほかにもっと驚かすようなことがあるなら、いまのうちに云って下さい、って仰しゃったわ」
 あつみ[#「あつみ」に傍点]は袖で口を押えて笑いだした。
「わたくし、自分でも相当なんだなって思いましたわ」とみさを[#「みさを」に傍点]」に傍点]は云った、「――これでお姉さまが、樅山さまとこの溝口家をお継ぎになれば、申し分ないんですけれどね」
「いいえ」とあつみ[#「あつみ」に傍点]は首を振った。「もともと横江さまを養子としてお迎えしたのだし、あなたと御夫婦になって、あとを継ぐのが順当よ、わたくし樅山へ嫁げさえすれば、ほかになんの望みもありませんわ」
「はっきり仰しゃることね」と妹は姉の前へ来て坐った、「――でも四郎さまは、わたくしのこと好いて下さるかしら」
 みさを[#「みさを」に傍点]は急にしんとなった。半四郎はいま松井藩へ掛合にいっている、分限帳が歴とした証拠だから、これはすぐ片づくに相違ない、帰って来たらどういうふうに迎えようか、「どんな挨拶をしたらいいのかしら」とみさを[#「みさを」に傍点]は心のなかで思案した。
「四郎さまは大丈夫よ、あなたを見るときのお眼で、好いていらっしゃるということはよくわかりますわ」と姉が云った、「でもあなたはどうなの、みさを[#「みさを」に傍点]さんは四郎さまをどう思っていらっしゃるの」
「まあお姉さまったら」とみさを[#「みさを」に傍点]は姉をにらみ、これもはなやかに赤くなったが、衒《て》れ隠しのように立ってゆき、障子をあけて云った、「――まだ降ってますわお姉さま、このまま梅雨になるのでしょうか」
 姉は返辞をせずに、忍び笑いをしていた。



底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
   1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「講談倶楽部」
   1956(昭和31)年5月号
初出:「講談倶楽部」
   1956(昭和31)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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