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鶴は帰りぬ
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鶴は帰りぬ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)実《じつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)戸|旅籠《はたご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
そうよ、なにも隠すことなんかありゃあしない、あたしあの子が好きだったよ。名まえは実《じつ》。あの人は実があるとか、不実だとかいうときの「実」という字だって。呼びにくい名だから、みんなすぐに覚えちまった。初めて来たのは六年まえ、いや七年になるかしら、あの子は十七で、徳さんていう人の提灯《ちょうちん》持ちをしていた。そう、日ぎりの早飛脚は夜なかに走ることもある、そういうとき、提灯を持って先に立つ役で、またそのあいだに仕事の手順も覚えるというわけさ。
あたしは初めのうち、気ぶっせいで陰気な子だと思った。そのじぶんはまだ子供こどもしていて、卵なりの顔や、はっきりしすぎた眼鼻だちが、つんとした、よりつきにくい感じだったし、ひどく口が重くって、ろくさまものも云わないというふうだったからね。いまだってよく知らない者は「気どってる」なんて云うけれど、それはあの顔だちと、あんまり口をきかないためにそう思えるだけで、芯《しん》はごくすなおな、そう、どっちかというと臆病なくらいはにかみやなんだ。
あたしはいちど、あの子をものにしようとしたことがある。なにさ、もちろん酔ってるよ、そのときだって酔ったあげくのことさ、本陣にお座敷があって、うんと飲んで、ふらふらになっていた、その勢いであの子の寝床へ、もぐりこんだのさ。
あたしは二十三、なにか度外れなことがやってみたい年ごろなんだろう、いきなりもぐりこんで、手足で絡みついてやった。とび起きるか、声でもだすかと思ったら、あの子は身動きもしないでじっとしている。躯《からだ》をまっすぐに伸ばして、石のように固くなって、そしてがたがたふるえてるのさ。
こっちは酔ってるから、これはものになるって思って手をやった。なにさ、ばかだね、そんなことはしまいまで聞いてから云うもんだ。
あたしは手をやった、そうするとあの子は、「おっ母さん」て云った。ふるえているものだから、がちがちと歯がなったっけ。おそろしさのあまりおっ母さんて云ったんだろう、いまでもその声と、歯の鳴る音がはっきり耳に残ってる。
まが悪いのなんのって、あたしは、酔いもさめちゃって、あやまったりなだめたり、すかしたりして、そうそうに逃げだしちまったさ。実さんて人はそんな子だったよ。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
実が相田屋の店へはいろうとすると、軒先にいた番頭の和吉が、「いらっしゃいまし」と、けいきのいい声をあげておじぎをし、すぐに気がついて、まが悪そうに笑った。
「お一人ですか」
実はうなずいて店へはいっていった。
宵の八時ごろで、帳場には主人の文造がおり、酒や肴《さかな》をはこぶ女中たちが、忙しそうにたちはたらいていて、その一人が、はいって来た実に声をかけ、すると他の女中たちや、帳場にいる文造も声をかけた。
実は担いでいた張籠《はりご》をおろし、鉢巻をとって半纒《はんてん》の肩腰をはたき、それから広い上り端《はな》へ腰をかけて、草鞋《わらじ》の緒を解きかかった。――挾箱《はさみばこ》の形に似た張籠は黒の溜塗《ためぬり》で、片方に「島十」と赤く太い字で書いてあり、担ぐための三尺の棒の先には、小さな鈴が付いている。その鈴が、飛脚であることを知らせるのであった。
下女のお市が洗足《すすぎ》の盥《たらい》を持って来て、訝《いぶか》しそうに訊《き》いた、「こんどはお一人ですか」
実は「うん」といった。
足を洗っていると、おせき[#「せき」に傍点]が出て来た。この相田屋に十年ちかくもいる妓《おんな》で、年は三十になるが、唄がうまいのと、酔いぶりが面白いのとで、いまもお座敷ではにんきがあった。おせき[#「せき」に傍点]はもう飲んでいるらしく、眼のふちがぼっと染まってい、声もはしゃいでいた。
「いらっしゃい」とおせき[#「せき」に傍点]は実の肩を押えていった、「どうしたの、一人」
「こんどは早じゃないんだ」と実はぶっきら棒に答えた。
「じゃあ泊るのね」
実は「さあ」といった。
「おしの[#「しの」に傍点]は嫁にいったのよ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「急に話がきまって、七日まえに暇をとったの、あんたに会ってからいきたいって、べそをかいてたぞ、こら」
背中を押されてのめりそうになり、「危ねえな」と云って、実はおせき[#「せき」に傍点]の手から肩をかわした。
飲み食いだけの客には、別棟になった座敷がある。おせき[#「せき」に傍点]はそこをぬけて来たのだろう、おろく[#「ろく」に傍点]という若い妓が呼びに来、おせき[#「せき」に傍点]は実に、「あとで遊びにゆくよ」と、云って、おろく[#「ろく」に傍点]といっしょに去った。実はいつも二階の七番に泊る。小部屋だがいちばん端にあるので、短い時間に熟睡するには静かでよかった。風呂からあがって来ると、おみよ[#「みよ」に傍点]という女中が食膳《しょくぜん》をそろえていて、「食事を少し待ってくれ」と云った。
「おせき[#「せき」に傍点]さんがすぐに来るそうですから、それまで待っていて下さいって云ってました」
実は坐って、濡れ手拭で髪を撫《な》で、おみよ[#「みよ」に傍点]は茶と菓子の盆を彼の前に置いた。
「しの[#「しの」に傍点]ちゃんお嫁にいったんですよ」とおみよ[#「みよ」に傍点]は茶を注ぎながら云った、「向うは鳴海の瀬戸物屋で、お婿さんはびっこなんですって、恥ずかしいから遊びに来てくれとは云えないって、あんなに賑《にぎ》やかな人が、すっかりしぼんでましたわ」
実は菓子をつまみ、茶を啜《すす》りながら、三尺の床間を見た。着彩の色のすっかり褪《さ》めた山水の軸が掛けてあり、その下に木彫の大黒の像が置いてあった。
「しの[#「しの」に傍点]ちゃんの代りに、あたしが番になりたいんだけれど」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「――実さんからそう云ってくれると、番になれるんだけれど」
「置物が変ったな」と実は呟《つぶや》いた。
「ねえ、そうしてくれない、実さん」
「うん」と実が気のない調子で云った、「おれはどっちだっていいよ」
「頼りないの」とおみよ[#「みよ」に傍点]はながしめに睨《にら》み、立ちあがってから、振向いて訊いた。
「何刻に起こしに来ましょうか」
「起こさなくってもいいよ」
「お泊りになるんですか」
実は「うん」といった。
おみよ[#「みよ」に傍点]が去ると、実は横になって肱枕《ひじまくら》をした。彼は浮かない顔をして、ぼんやり食膳を眺めた。かなり空腹ではあるが、それほど疲れているわけでもないし、べつに気懸りなこともないのに、なんとなく鬱陶しいような、けだるい気分にとらわれていた。――九月になったばかりで、まだ火をいれるには早いが、晩秋の爽やかな夜気が、壁のあたりから忍びよってくるように思われ、裏座敷から聞えて来る三味線の音も、半月まえとは違って、しんと、冴《さ》えてひびくように感じられた。
階段に足音がしたので、実が起き直ると、おせき[#「せき」に傍点]が乱暴にはいって来、うしろの障子をあけたまま、膳の脇へ坐って云った。
「感心に待ってたわね、躾《しつけ》がよろしい、褒めてやるぞ」
実が立とうとした。
「どこへゆくの」とおせき[#「せき」に傍点]が訊いた。
実は障子を見て云った、「閉めるんだ」
「そうやっといて」とおせき[#「せき」に傍点]は手で顔をあおぎながら去った、「いまお酒が来るんだから、今夜はあんたも飲むのよ」
実は坐り直して「いいきげんだな」と云った。
おせき[#「せき」に傍点]は酔って赤くなった顔を、しきりに手であおぎながら話しだし、まもなく、障子のかげで声がして、若い女中が酒肴の盆を持ってはいって来た。
「このひとおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん」とおせき[#「せき」に傍点]が実にいった、「こんど来たひとで、あんたの番になるの、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、江戸の島十という飛脚屋の実さんよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は手をついて挨拶した。
実はどきりとした。おとわ[#「とわ」に傍点]の顔を見たとたんに、知っている、と直感したのである。古くから知っていて、久方ぶりに会った、ずいぶん久しぶりに、めぐり会った、という感じがし、同時におとわ[#「とわ」に傍点]のほうでも、明らかにどきっとしたことが、その眼にあらわれた。――知った相手ではない、初めて会うのだ、ということはすぐにわかった。
けれども、さいしょのどきっとした感動は強く心に残って、眼の合うたびに、胸の奥がきりきりするようであった。おせき[#「せき」に傍点]はそんなことまでは気づかなかったろう、だが、実のようすで安心したらしく、盃《さかずき》に一つ酌をすると、座敷があるからといって立ちあがった。
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはまだ馴れないんだから困らせないで」とおせき[#「せき」に傍点]がいった、「あたしの大事な妹なんだから、番にしたのは実さんを見込んだからだってこと、忘れるんじゃないぞ」
「わかったよ」と実がいった。
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、起こしに来る刻《とき》を聞いとくのよ」
そう云っておせき[#「せき」に傍点]は出ていったが、階段の途中までいったかと思うと、引返して来て障子をあけ、そこから覗《のぞ》いていった。
「今夜は酔うまで飲むのよ、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんも合《あい》をしなさい、わかったわね」
そして、障子を閉め、いいきげんに鼻唄をうたいながら去っていった。実は心ぼそいような、胸のおどるような気持で、黙って一つ飲み、それからおとわ[#「とわ」に傍点]を見た。
「飲めるのか」
おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑して首を振り、「でも頂きます」と手を出した。
実は盃を渡し、酌をしてやった。おとわ[#「とわ」に傍点]は一と口なめて、その盃を膳の上に置き、新しい盃を取って実に渡した。――おとわ[#「とわ」に傍点]はごく平凡な顔だちで、口が少し大きく、ものをいうと前歯にみそっ歯のあるのが見えた。それを気にしているためか、それとも単にそういう癖なのか、人を見るときには唇を一文字にひき緊めるが、すると唇の両端が上へきれあがって、顔ぜんたいにあどけない表情がひろがるのであった。
「おせき[#「せき」に傍点]さんは忘れたんだ」と実がぶきように云った、「今夜は泊るんだから、起こしに来なくってもいいんだよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は眼でうなずいた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
実も口の重いほうだが、おとわ[#「とわ」に傍点]も同じらしく、ただもう酌をすることにかかっており、実のほうでも話題がないから、しぜんに酌をされるだけ飲むというぐあいで、たちまち酔ってゆくのがわかった。
「床間の置物が変ったね」と実がいった。
おとわ[#「とわ」に傍点]は振向いて、「そうですか」といい、暫く眺めていて、「大黒さまですね」と独り言のように呟いた。
「まえには青銅《からがね》の鶴があったんだ」と実が云った、「おれがここで泊りだしてから、ずっとそうだった、もう五年くらいこの部屋で泊るが、あの掛軸も置物も変ったためしがないんだ、掛軸は元のままなんだが、どうして置物だけを変えたのかな」
「さあ」と首をかしげて、それからおとわ[#「とわ」に傍点]はちらっと実を。見た、「もう五年もいらっしゃるんですか」
「初めから数えると七年めだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいていった、「あたし今日でやっと五日めですわ」
それでまた話がとぎれた。
燗徳利《かんどくり》の二本めがからになり、おとわ[#「とわ」に傍点]は代りを取りに立った。実はそうとは知らず、独りになるとくすくす笑いだして「ざまあねえや」と呟いた。若い男と女が差向いでいて、床間の掛軸や置物のほかに、話すことはねえのか、ねえらしいな、ねえらしい、これが生れつきだ、と彼は呟いた。
おとわ[#「とわ」に傍点]が酒を持って戻って来た。
「もうだめだ」と実が見て云った、「酒はもうだめだ、すっかり酔っちまった」
「でもおせき[#「せき」に傍点]姐《ねえ》さんが」
「いやだめだ」と彼は首を振った、「眼がちらくらするようだ、飯にしよう」
おとわ[#「とわ」に傍点]は「はい」といって、では温かい御飯を持って来ようと、立ちかけたが、実はそれを止めて「茶漬がいい」といった。腹はくちかったが、茶漬を一杯だけ喰《た》べると、すぐに、寝かしてくれといって、手洗いに立った。
横になってから、おとわ[#「とわ」に傍点]がなにかいった。なにか用はないか、と訊いたのだろう。彼はそれに答えたと思ったが、おとわ[#「とわ」に傍点]の出てゆくのも知らずに眠ってしまった。どのくらい眠ったものか、夢うつつに呼び起こす声を聞きながら、夜具をゆすられるまで、眼がさめなかった。
――起きなくちゃいけない、時刻だ。
そう思ってようやく眼をあけると、すぐそこにおとわ[#「とわ」に傍点]の顔があった。暗くしてある行燈の光りで、微笑しているおとわ[#「とわ」に傍点]の顔が眼の前にあり、微笑したままでそっと囁《ささや》いた。
「八つ半(午前三時)になります」
「ああ」と実がいった、「八つ半、――いや、朝まで寝るんだ」
「さっき起こせって仰しゃっていましたわ」
「おれがか」といって、彼は片手をおとわ[#「とわ」に傍点]のほうへ伸ばした。「酔ってたんだな」
これという考えもなく、ほとんど本能的に手を伸ばし、おとわ[#「とわ」に傍点]はその手を握った。握ったとたんに、いちど放そうとし、すぐにまた、そっと握り直した。
実はめまいのような衝動におそわれ、半身を起こしておとわ[#「とわ」に傍点]を抱いた。どうしてそんなことができたのか、自分でもわからない。彼はまったく夢中だったが、悪いという気持は微塵《みじん》もなかったし、極めて自然にそうなった。おとわ[#「とわ」に傍点]も拒もうとはしなかった。彼女のからだは彼の両腕のなかでやわらかに力を失い、彼の手のままにしんなりとたわんだ。
彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背骨が、自分の手の下でおどろくほど柔軟にたわみ、からだぜんたいがこちらへ溶けこむように感じた。彼は耳のそばでおとわ[#「とわ」に傍点]の激しいあえぎを聞きながら、自分のぶきようさに狼狽《ろうばい》した。おとわ[#「とわ」に傍点]のからだは少しも動かず、激しい呼吸だけが生きているようであった。そうしてまもなく、その切迫した喘《あえ》ぎを聞きながら、彼の意識は昏《くら》んだ。
明けがた、――実は眼をさますと、はね起きてあたりを見わたした。もちろんおとわ[#「とわ」に傍点]はいなかった。おとわ[#「とわ」に傍点]が去ったのを彼は覚えている、彼女はなにも云わなかった。彼女はひとこともものをいわず、静かに、影のように去ってゆき、彼は包まれるような疲れと、あまい移り香のなかに残されたのだ。
「たいへんなことをした」と彼は口の中でいった、「どうしよう」
ひとこともものをいわず、黙って、影のように去っていったおとわ[#「とわ」に傍点]の姿が思いだされ、彼の胸の奥がきりきりとなった。
「だめだ」と、暫く思い耽《ふけ》っていたのち、彼は力なく首を振った、「とても顔は合わせられない、とても、――立つことにしよう」
いまのうちに出てゆこうと彼は思った。
酔いはすっかりさめ、のどが渇いていた。実はおちつかない動作で身支度をし、張籠を持って階下へおりた。店にはまだ懸明りや行燈がついており、武助というもう一人の番頭が、いま着いた客に洗足を出していた。客は実の知っている男で、江戸|旅籠《はたご》町の「紀梅」という、やはり飛脚屋の友次郎であった。実は宿賃を紙に包んで帳場に置き、上り端へいって武助に声をかけた。
足拵《あしごしら》えをしながら、実は武助に向って、「おとわ[#「とわ」に傍点]という女中に借りたものがあるが、大阪からの戻りに寄ると伝えてくれ」と頼み、勘定は帳場に置いてあると云った。――友次郎は声をかけただけで、話しかけはしなかった。実の口の重いこと、あまりなかまづきあいをしないことは、よく知られていたからである。
外はまだほの暗く、空気は冷えていた。街筋には疎《まば》らに人や馬の往来が見え、炊《かし》ぎの煙がたなびいていた。
「おれは本気だったぜ」
棒の先で鈴が鳴り、彼は眼を据えて自分に云った、「出来どころや浮気じゃなかった、これっぽっちの混りっけもない、しぜんななりゆきだった」
「おとわ[#「とわ」に傍点]もそうだった」と、暫く歩いてから、また彼は呟いた、「ちっとも騒がなかったし、驚きも、いやがりもしなかった、そうだろう、そうじゃなかったか、ちっとでもいやがったか、――おとわ[#「とわ」に傍点]も同じ気持だったんだ、そうでなくって、あんなにしぜんななりゆきはありゃあしない、たしかだ、おとわ[#「とわ」に傍点]も同じ気持だったんだ」
惣門《そうもん》のところで彼は立停った。惣門では番士が竹箒《たけぼうき》を持って、橋の上を掃いており、堀の水はすっかり明るくなっていた。
「引返そうか、引返して逢ってゆこうか」と彼は堀の水を眺めながら呟いた、「いや、帰りのほうがいい、宿の者にもぐあいが悪い、帰りに寄ったとき話すとしよう」
実は思いきったように橋を渡っていった。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
あの子って云うのがどうしておかしいのさ、十七の年から知っていて、月に幾たびとなく顔を見ているんだもの、あたしにはいまでもあの子というよりほかに、云いようはありゃしないよ、あたしはあの子が自慢なんだ、飛脚をしていれば読み書きのできるのは、あたりまえだろうけれど、実さんはそれ以上によくものを知ってる。
たとえばほら、お客なんかが「さような事を船中にて申さぬものに候《そうろう》」って云うでしょ。あれがどんな故事から出たものか、云っている当人がたいてい知りゃあしない。それを実さんは知ってた、あれは謡《うたい》の「舟弁慶」にある文句で、本当は「さようなことをば船中にては申さぬことにて候」って云うんだってさ。
それからまた、「なんとかがなんとかして、いまだこれあらざるなり」だとか、「なんとかがどうとかして、せざるべけんや」なんて云う四角な字も読めるんだ。こんなこと人に云うんじゃないよ、あの子は秘し隠しに隠してるし、およそ、知ったかぶりの嫌いな子なんだから。
あのとおり口べたで、あいそっけがなくて人と話もろくにしない。はたの者にはひどく気むずかしい我儘《わがまま》者のようにみえるだろうけれども、本当は思いやりの深い、よく気のつくやさしい性分なんだ。
何年かまえ、あたしが躯をこわして八十日ばかり寝たことがあった。そのとき実さんは、往きにも帰りにもみまいによってくれる、なにかしら手土産を持ってね。あの調子だからあんまり口はききゃあしない、土産物を置いて、黙って四半刻ばかり坐っていて、それから「じゃあまた、――」なんて云って、立ってゆくのさ。
七日ぎりという早飛脚のときでも、顔を見せないということはなかった。こんなことを数えたらきりがない、それにたいてい忘れちゃってるけどさ。あの子はそんなふうな、じつのこもった、情愛の深いところがあるんだ。
ただ一つ心配なのは、まだあの子はつまずいたことがない、今年の竹のようにすうっと、まっすぐに育ったままで、躯も心も無傷だということなんだ。そんなことで一生が送れるもんじゃない、年がいってからのつまずきはこたえるからね。え、ああわかったよ、もう一つ飲んだらゆくよ。あ、ちょっと、お客はだれとだれさ。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
大阪からの帰りに、実が相田屋へ着いたのは、夜の九時ころであった。実はすぐにおとわ[#「とわ」に傍点]が出て来るものと思った。飛脚の扱いはほかの客と違っていて、早《はや》のときなどは、二刻とか一刻半とか、時間をきめて眠り、時間どおりに立ってゆく。食事もそのときによって、寝るまえに喰べたり、起きてから喰べたりするし、雑用の世話も多い。
しかも、すべてがきちんと時間どおりに、はこばなければならないので、女中も番をきめて、一切の面倒を一人でみるようになっていた。――それで当然、おとわ[#「とわ」に傍点]が出て来ると思ったのだがそうではなく、洗足は下女が取り、部屋へとおしたのはおみよ[#「みよ」に傍点]、風呂を知らせて来たのはお松であった。
実はおちつかない不安そうな顔つきで、風呂へはいり、風呂場で髭《ひげ》を剃《そ》った。
「どうしたんだ」と彼は剃り残った髭を指でさぐりながら呟いた、「病気で寝てでもいるのか、それとも、もうここからいなくなってしまったんだろうか」
部屋へ戻ると、お松が食膳の支度をしていた。実の顔がもっと不安そうになり、お松が話しかけるのを遮《さえぎ》って、おとわ[#「とわ」に傍点]はどうしたのかと、さりげない口ぶりで訊いた。
「あ、それで思いだした」とお松は立ちあがりながら云った、「おせき[#「せき」に傍点]姐さんがうかがうから、御膳をあがるのは少し待って下さいって、そのあいだ飲んでいてもらうようにって云ってましたから、いまお酒を持ってまいります」
実は剃刀《かみそり》をしまいながら、胸ぐるしいような気分におそわれ、もういちどおとわ[#「とわ」に傍点]のことを訊こうとしたが、訊くことができなかった。お松が出てゆくと、隣りの六帖に客がはいった。
「なにかあったんだな」と彼は呟いた、「このまえのことでなにかあったんだ、あの晩のことが宿の者にわかって、おとわ[#「とわ」に傍点]が出されでもしたんじゃないか」
実は深い息をし、立ちあがって張籠を置き直した。
「風呂なんかいいや」と隣りで客の云うのが聞えた、「酒を飲むから支度をしてくれ、なにかうまい物を揃えてな、それから酌人を二人ばかり呼んでくれ」
おつね[#「つね」に傍点]という女中の声で、断わるのが聞えた。こちらは泊り客だけで、遊ぶのなら裏の別座敷へいってくれ、というのである。
「飲むだけならいいのか」と客がせっかちらしくきいた、「面倒くせえ、そんなら酌人はいらねえからここへ持って来てくれ」
実が坐ると、すぐに障子があき、酒の盆を持って、おとわ[#「とわ」に傍点]がはいってきた、実は胸の奥がきりきりとなり、躯がふっと浮くように感じた。
おとわ[#「とわ」に傍点]は盆を置いて挨拶をし、それから、膳を寄せて、燗徳利をその上へ置いた。挨拶をする声も低かったし、いちどちらっと実を見たきり、あとは俯向《うつむ》いたまま眼をあげず、まるで酔ってでもいるように、顔を赤らめていた。――実も赤くなり、すっかりあがって、眼のやり場もないというふうであった。おとわ[#「とわ」に傍点]が燗徳利を持ち、実は盃を取ったが、すぐにまた置きながら、おせき[#「せき」に傍点]の来るまで待とう、と云った。
「姐さんはいらっしゃいません」とおとわ[#「とわ」に傍点]がうつむいたままで云った。
実は不審そうに云った、「だって、待っていろということづてがあったんだよ」
「でも、いらっしゃいませんの」とおとわ[#「とわ」に傍点]が低い声で云った、「うかがえないからよろしくって、云っていました」
実はうなずいて盃を取った。おとわ[#「とわ」に傍点]が酌をし、彼は飲んだ。どちらも気があがっているようで、ついすると酒をこぼし、そのたびに慌てておとわ[#「とわ」に傍点]が拭いた。一本の酒が半ばになったとき、実が思いきったように顔をあげて、おとわ[#「とわ」に傍点]を見た。
「このまえは、――」と云いかけて、あとが続かなくなり、彼はみじめに吃《ども》った、「このあいだは悪かった」
おとわ[#「とわ」に傍点]はいそいで「いいえ」と首を振り、あとを聞くのが怖《おそ》ろしいとでもいうように、燗徳利を両手でつかんで、身を固くした。
「じつは」と彼が云った、「話が、――相談があるんだが」
するとおとわ[#「とわ」に傍点]が「あの」とべつのことを訊いた、「友次郎さんという人をご存じですか」
「友次郎って」と彼が訊き返した、「紀梅の飛脚をしている男か」
おとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいた。
「知っている」と彼が云った、「顔を見れば挨拶をするぐらいのものだが、あいつがどうかしたのか」
「いいえ、ただ、――」とおとわ[#「とわ」に傍点]は口ごもった、「ただ訊いてみただけです」
「あいつは口の多いやつだ」
「そうですか」とおとわ[#「とわ」に傍点]が口の中で云った。
実は黙って飲んだ。話の腰を折られたのと、おとわ[#「とわ」に傍点]がその話に触れられたくないようすなので、あとを続けることができなかったのである。彼は酒を一本でやめて、飯にした。隣りの客は独り言をいいながら飲んでいた。裏のほうには遊びの客が幾組かあるらしく、賑やかに三味線や唄の声がし、女中もそちらがいそがしいのだろう、隣りの客にゆっくり酌に坐る者もないようであった。
「客扱いの悪いうちだ」と隣りで独り言を云うのが聞えた、「金の有りそうな客のところばかりへばり付いて、こっちはほっぽり放しじゃあねえか、おらあそろそろ肚《はら》が立ってきそうだ」
その客が手を鳴らした。
「肚を立てちゃあいけねえと医者がいった」と、またその客がいった、「肚を立てると肝の臓が悪くなるからってよ、おれが肝の臓が悪くなるというのが、ここのうちの者にはわからねえのかな」
実は食事を済ませ、おとわ[#「とわ」に傍点]が膳を片づけて去った。実が手洗いから戻って来ると、おとわ[#「とわ」に傍点]が夜具を敷いており、隣りでおつね[#「つね」に傍点]と客のやりあっているのが聞えた。
「肝が悪くなるって」とおつね[#「つね」に傍点]が訊いていた、「虫でも起こるんですか」
「それは疳《かん》だ」と客がいい返した、「子供じゃあるめえし、この年で疳の虫が起こる道理があるかい、わからねえな、肝の臓だ」
「おつね[#「つね」に傍点]が「ああそうですか」といった。夜具を敷き終ったおとわ[#「とわ」に傍点]が、口を手で押えて忍び笑いをし、実はそれをしおに、話したいことがあるんだが、といいだした。するとおとわ[#「とわ」に傍点]は、急にまた躯を固くし、ええとうなずきながら、「でもそれは、この次にうかがいますわ」と囁くようにいった。
「じゃあ次にしよう」と彼もうなずいた、「――怒ってるじゃないだろうな」
おとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振った。
「じゃあこの次に」と彼は念を押すようにいった、「きっとだよ」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
次の上りで、実が相田屋へ来たのは、午《ひる》ちょっと過ぎたじぶんであった。こんどはおとわ[#「とわ」に傍点]がすぐに出て来た。実はまた気があがってい、おとわ[#「とわ」に傍点]も赤い顔で、まともに彼が見られないようであった。
「こんどは十日ぎりの早で、すぐに立たなければならないんだ」と彼は云った、「いや、草鞋はぬがない、午飯を喰べて、ひと休みするだけなんだ」そして彼は声をひそめて、すばやく云った、「話は帰りにするよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は黙ってうなずいた。
実は四日めに戻って来た。宵の七時ころで、おとわ[#「とわ」に傍点]が洗足を取り、部屋へ案内した。その夜は客がいっぱいで、隣りにも二人|伴《づ》れが酒を飲んでおり、酔った声でなにか云いあっているのが聞えた。――実が風呂から出て、支度をしてある食膳の脇に坐ると、まもなくおせき[#「せき」に傍点]が来て障子をあけた。
「お疲れさま」とおせき[#「せき」に傍点]が廊下に立ったままで云った、「あたしは坐っちゃあいられないの、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんがすぐ来るわ」
実は手拭で衿首《えりくび》を拭きながら、まぶしそうな眼つきでおせき[#「せき」に傍点]を見た。
「実さん、話は明日にしてちょうだい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「明日おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんが出られるようにするから、外で逢ってゆっくり話すといいわ、もちろん、あんたに暇があればだけれど」
「暇はある」と彼が答えた、「そのために一日分だけ詰めて来たんだ」
「いいわ、じゃあ高岩の弁天様で待つことにしましょう、知ってるわね」
実は首を振った。
「鉄炮《てっぽう》場の上《かみ》よ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「新町で訊けばわかるわ、川っぷちの静かなところで、あんまり人も来ないから、話すにはちょうどいいと思うの、そこで待っていてちょうだい」
時刻は朝の十時、とおせき[#「せき」に傍点]が云った。実は「わかった」とうなずいた。おせき[#「せき」に傍点]はじっと彼の眼をみつめ、ふと微笑しながら、声をひそめて云った。
「しっかりやるのよ」
実は赤くなって、眼をそむけた。
おせき[#「せき」に傍点]が去り、おとわ[#「とわ」に傍点]が来た。待ち合せのことは聞いているのだろうが、おとわ[#「とわ」に傍点]はそんなけぶりはみせなかったし、実もなにも云わなかった。二人はこのまえよりもっと固くなり、実はそれをほぐすために、せかせかと盃をかさねた。
「あの竿《さお》池はおめえ、底が泥だぜ」と隣りでいっているのが聞えた、「おらあ砂地だとばかり思ってたんだが、じつは泥よ」
「そうかなあ、へええ」と伴れが答えた、「あの池がね、まさか泥とは、気がつかなかったなあ」
「うん、泥なんだ」と先の男がいった、「おらあてっきり砂地だと思ってたんだ、ところがおめえ、じつは底は泥なんだ」
実はふいに盃を置いた。その動作が突然だったので、おとわ[#「とわ」に傍点]はびくっと身を反らせた。実は立ちあがって、片づけてある物をひろげ、腰掛の中から紙包を取出すと、膳の前へ戻って坐りながら、おとわ[#「とわ」に傍点]の前へそれを置いた。
「つまらねえ物だが」と彼がてれたように云った、「気にいったら取っといてくれ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は包んである紙をひらいてみた。すると小さな桐の箱があらわれ、その蓋に「古梅園」と書いた、短冊《たんざく》形の紙が斜めにはってあった。その字が読めたのだろうか、おとわ[#「とわ」に傍点]は珍しく、いかにも嬉しそうに微笑し、それを両手で持って胸へ押しつけた。
「古梅園の紅ね、うれしいわ」
実はてれた顔になり、「なに、つまらねえ」などと云いながら盃を持った。二本めの酒が終っても、口のほぐれるほど酔うけしきがなかったし、明日という約束があるので、実は飯にした。
「あの竿池がね、知らなかったなあ」と隣りではまだ話していた、「あの池の底が泥だとはさ、そいつはまったく気がつかなかったよ」
「泥なんだ、うん」ともう一人が云った、「どうしたって砂地としきゃ思えねえが、あれで底は泥なんだから」
実が寝てからも、その話は続いていた。竿池の底が砂地でなくて泥だ、ということが、二人のあいだで限りもなく繰り返され、実はこちらで、それを聞きながら眠ったようであった。
明くる朝、彼はおそく相田屋を立った。――九時まえだろうか、教えられたとおり新町で人に訊いて、約束の場所へいった。そこは田圃《たんぼ》のまん中で、萱生川に面しており、対岸には樹の茂った小高い丘があった。高岩弁天は小さな社で、松林に囲まれており、そこから川の岸までは、草の伸びた空地がひろがっていた。
古びた社殿をひとまわりしてから、実は空地のほうへ出てゆき、川の見えるところで、草の上へ張籠をおろし、自分もその脇へ腰をおろした。彼は両手で膝《ひざ》を抱え、眼を細めながら、対岸の松の茂っている丘を眺めやった。おとわ[#「とわ」に傍点]の来るまで、実はその恰好のまま動かずにいた。――おとわ[#「とわ」に傍点]は静かに来た。草履をはいているので、足音は聞えなったし、そばへ近よっても、すぐには声がかけられなかった。
「おそくなってごめんなさい」とようやくおとわ[#「とわ」に傍点]がいった。
「実はその声で初めて気づき、振返って、「ああ」といった。おとわ[#「とわ」に傍点]は小さな風呂敷包を抱えてい、硬ばった顔で微笑した。実はまわりを見まわして、草の茂っている処《ところ》をさした。
「なにか敷こうか」
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振り、そこへ横坐りになりながら云った、「おせき[#「せき」に傍点]姐さんに、お使いを頼まれて来ましたの」
「長くはいられないんだな」
「ええ、いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はまたかぶりを振った、「姐さんがうまく云って下さるそうですから」
実はうなずいて、そのまま黙り込んだ。おとわ[#「とわ」に傍点]は包を片手で膝の上に抱え、片手を伸ばして、草を摘み取った。
「あかまんまだわ」とおとわ[#「とわ」に傍点]は口の中で呟いた。
「おれは来年の秋に店を出す」と実がやがて口をきった、「いまいる島十というのは、伯父がやっているんだ、店は浅草の森田町にあるんだが、その伯父の世話で、来年の秋には店を出すことになっているんだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]はそっとうなずいた。実はそこで話を区切り、うっ向いて、草をむしりながら、暫くのあいだ云いよどんでいた。
「あの晩は」と実が云いだした、「あの初めての晩、おれは本気だったんだぜ」
おとわ[#「とわ」に傍点]が身を固くした。
「はいって来たおめえを見たとき、おれは古くから知っていたような、古い馴染のような気がして、どきっとした、その、どきっとした気持は、初めて会ったんだとわかってからも消えなかったし、いまでもこの胸の奥に残ってる」と彼は俯向いたままで云った、「――夜なかにあんな、むりなことをしたのは悪かった、けれども、決して出来ごころや、浮気じゃあなかった、おれは本気だったんだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]が「ええ」と云った。よくわかっているという意味が、かなりはっきり感じられるこわ音であった。
「おれは一人だ」と実はまた暫くまをおいて続けた、「ふた親もなしきょうだいもない、近い親類は島十の伯父一家だけだし、それも来年の秋に店を出せば、そううるさくつきあうこともない、だから、しょうばいのほかのことで、苦労するようなことはないと思うんだが、おめえ、嫁に来てもらえねえだろうか」
実は頸《くび》から赤くなり、耳のところまで赤くなった。
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あたし、そのつもりでした」
実はこっくりとうなずき、夢中で草をむしりながら、次に云う言葉を捜していた。そして、やがておとわ[#「とわ」に傍点]のほうを見て訊いた。
「おめえ、うちのほうはどうなんだ」
「なんにも心配はありません」
「おれはなんとでもするぜ」と実は熱心に云った、「おれには親きょうだいがないんだから、そっちの事情によっては仕送りもしようし、おれに出来ることで必要なことなら、なんとでもするから話してみてくれ」
「そんな心配はないんです」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あたしも身一つなんですから」
「本当だな、隠してるんじゃないだろうな」
おとわ[#「とわ」に傍点]が実に振向いた、「どうしてそんなことを仰しゃるの」
「初めになにもかもはっきりしておきたいんだ」
「あたしのほうははっきりしています」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あなたが来いと仰しゃれば、その日すぐにでも、いっしょにゆけます」
実はうなずいた。もう話すことはない、彼はなにかほかに云っておくことがあるかと、暫く考えていて、それから云った。
「来年の秋までだけれど、いいな」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「二年でも三年でも、――」
実は頭を垂れた。それは無言の礼のようにみえ、そのまま二人は黙ってしまった。どちらも話すことが胸にいっぱいで、しかも、どう話したらいいかわからないというようすであった。おとわ[#「とわ」に傍点]はさっき摘み取った草の花を、ぼんやりと眺めていて、それからかなり長く経ってから、ぽつんと云った。
「こういう草、江戸のほうにもあるかしら」
実は眼をあげて見た、「あるよ、江戸ではあかまんまっていうんだ」
「こっちでもそうよ、小さいじぶん、これでよくおまんまごとをして遊んだわ」
「江戸には花の白いのもある、それはしろまんまっていうんだ」と実が云った、「おれもよくおまんまごとのなかまに入れられて、むりやり旦那にされて困ったことがある」
「こわい旦那さまだったでしょうね」
「かみさん連中のほうがこわかったぜ」
「そうかしら」
短い沈黙ののちに、おとわ[#「とわ」に傍点]がくくと含み笑いを始めた。さも可笑《おか》しそうで、なかなか笑いが止らず、実はどうしたのかと、けげんそうな眼つきで振向いた。
「ごめんなさい」とおとわ[#「とわ」に傍点]が指で眼を押えながらいった、「あたしたち、ほかに話すことがないのかしらって思ったら、急に可笑しくなってしまって、――」
「まったくだ」と実は苦笑した、「おまんまごとの話をする場合じゃなかった」
おとわ[#「とわ」に傍点]は笑い続け、実もそれにさそわれたように、笑いながら張籠へ手をやった。
「そろそろでかけよう」と彼は云った、「おれはこのとおり、話の継ぎ穂ということもわからねえ人間だ、頼むよ」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はうなずき、それから口の中で囁くように云った、「――あたしこそ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
冗談いっちゃいけないよ、あの子が女にちょっかいを出さないのは、女嫌いなんてきざなもんじゃない、浮気がいやで、本当の愛情が欲しいからなんだ。
あの子は七つの年に父親に死なれ、母親といっしょに伯父さんに引取られた。伯父さんは母親の兄さんで、そう、「島十」はその人の店なのさ。伯父さんはあの子を不憫《ふびん》がって、じつの子よりも可愛がったそうだけど、伯母という人はたいそうしっかり者だそうだし、五人も子供があるから、どうしたって実さんだけ別扱いにはできやしない。
おまけに、あの子が十一になると、母親も亡くなってしまい、こんどは伯母という人がはっきり口をきくようになった。あの子は子守りから薪割り、拭き掃除から洗濯までさせられたらしい。いっそ、他人のうちならいい、年季奉公ならべつだけれど、伯父|甥《おい》の仲でいて、奉公人同様に追いまわされるのは辛いよ、考えてみるだけだって辛いもんだ。
それでもあのとおり、実さんはまっすぐに育った。いじけたところやひがんだところはこれっぽっちもないし、そんな苦労をしたとは思えないほど、うぶで生一本じゃないの。
ただね、あの子はしんみな愛情というものを知らない。伯父さんのうちでした苦労は、かえってあの子の生れついた性分をよくしたといえるようだけれど、しんみの本当の愛情だけは足りなかった。
あたしにはそれがわかるんだ、あれだけ女たちに云いよられても、決して手を出さなかったのはそのためだと思う。あの子だって男だから、まさか女を知らないわけじゃないだろう、遊びぐらいしたことはあるに相違ないさ。でも据膳においそれと箸《はし》を出すような、けちなまねはしなかった。そんな摘み食いや浮気なんかに決して用はない、あの子の欲しいのは、本当の愛情なんだよ。
いいえ、わからない。それは知らないよ、ことによるともうみつけたかもしれない、そういう相手をみつけたとすれば、あの子はきっと、どうどうとやる。人にうしろ指をさされるようなことは決して、しゃあしないよ。いいともさ、あたしは賭《か》けてみせるよ。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
年が暮れ、年が明けた。実とおとわ[#「とわ」に傍点]の仲は誰にも気づかれなかったし、変ったことも起こらなかった。二月になったばかりのある日、実は夜の十時すぎになって、相田屋へ着いたことがある。彼は洗足をしながら、おとわ[#「とわ」に傍点]に云った。
「十日ぎりの早だが、詰めて来たから明日は四時でいいよ」
「御膳はあがりますか」
「酒を少し飲もう」と実が云った。
風呂はもう汚れていたので、おとわ[#「とわ」に傍点]が湯を取り、実はざっとほこりをながすだけで済ませた。裏は例によって、三味線や唄の声で賑やかだったが、こちらは泊り客も少ないとみえ、どの部屋もひっそりとしていた。おとわ[#「とわ」に傍点]が酒の支度をして来ると、実はそこへ反物を出していて、おとわ[#「とわ」に傍点]に渡した。それまでに着物地を二反、羽折地を二反貰っているので、おとわ[#「とわ」に傍点]は受取りながら当惑したような顔をした。
「どうしたんだ」と実が訊いた、「気にいらないのか」
おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑しながら首を振った、「そうじゃないんです、こんなにいただくと、人にみつかったとき困ると思って、――あたしこれまでいただいた分だけでも、隠すのに苦労しているんですよ」
実は腑《ふ》におちない顔つきで、黙っておとわ[#「とわ」に傍点]をみつめた、その視線に気づいたのであろう、おとわ[#「とわ」に傍点]は反物をそこへ置き、燗徳利をとって、酌をしながらいった。
「あなたが、来いと仰しゃるまで、あたしたちのことは誰にも知られたくないんです」
実は納得がいかなそうに訊いた、「知られてはぐあいの悪いことでもあるのか」
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振り、羞《はにか》んで、眼を伏せながらいった、「二人のことは二人だけで大事にしていたいんです、縁もない人たちになにか云われたりすると、あたしたちだけの大事なものが、よごれてしまうような気がするんです」
実はうなずき、もういちどうなずいて云った、「わかった、じゃあこれは持って帰ろう」
「いいえ、それでは荷になるでしょうし、せっかく持って来て下すったんですからいただきますわ、でも、どうぞこれからはこういう心配はなさらないで下さい」
実は「うん」とうなずいた。
その夜、実は始めて酒を三本飲み、初めて酔った。自分でもわかるほど機嫌よく酔い、ひどく心がはずんだ。二人のことは二人だけで大切にしてゆこう、というおとわ[#「とわ」に傍点]の言葉がよほど胸にしみたらしい、おとわ[#「とわ」に傍点]を見る彼の眼は、うるんで、熱を帯び、口では云えない感動をあらわすかのように、幾たびも深い太息《といき》をもらした。
夜具を敷いてもらって横になったのは、もう十二時を過ぎたころで、別座敷の絃歌《げんか》の声も聞えなくなっていた。酔いざめの水を枕許に置き、行燈を暗くして、おとわ[#「とわ」に傍点]は出てゆこうとした。おやすみなさい、というおとわ[#「とわ」に傍点]の声を聞いて、実も「おやすみ」と答えながら、枕の上からおとわ[#「とわ」に傍点]を見た。おとわ[#「とわ」に傍点]はほほえんでみせた。自然にうかんだものではなく、彼に向ってほほえみかけるという感じだった。
実はおとわ[#「とわ」に傍点]のほうへ手を伸ばした。おとわ[#「とわ」に傍点]はそっとかぶりを振り、彼は手を引込めようとした。するとおとわ[#「とわ」に傍点]が膝ですりよって、彼の手を握った。おそれるように、そっと握った手はふるえていて、それが実の気持を激しく唆《そそ》った。
実は起きあがって抱こうとし、おとわ[#「とわ」に傍点]はそれを拒んだ。両手で実の腕をはらいのけ、おびえたように身をずらせ、実が戸惑った顔で腕をおろすと、こんどはおとわ[#「とわ」に傍点]が彼の膝へうつぶしてしまった。彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背へ手を置いた。
おとわ[#「とわ」に傍点]の躯は石のように固く、そしてはっはっと、苦しそうに荒い息をしながら、躯ぜんたいでふるえていた。
彼は眼をつむった。このぶきようなあらそいは、自分がもう一と押しするだけで片がつく。それはわかっているけれども、石のように固くなったおとわ[#「とわ」に傍点]の躯と、躯ぜんたいでふるえているのを知ると、彼にはそれ以上どうすることもできなかった。
「悪かった」と彼が囁いた、「ごめんよ」
「ごめんなさい」とおとわ[#「とわ」に傍点]がふるえながら囁き返した。実はうなずいて云った。「寝るから、いっておやすみ」
「ごめんなさい」ともういちどおとわ[#「とわ」に傍点]がささやいた、「怒らないでね」
「あやまるのはおれのほうだ、さあ、いっておやすみ」
彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背中をそっと押した。
初めて逢ったときに契ったことが、まるで現実のことではなかったように、その後は二人とも臆病になり、日の経つにしたがって、どちらも相手に遠慮ぶかくなった。惹《ひ》かれる気持はしだいに強くなるのに、手が触れてもびくっとし、顔が赤くなるというふうである。
こうして二月も過ぎ、三月になったが、このあいだに二度、いやなことを耳にした。いちどは、「紀梅」の友次郎にからかわれたのである。駿河《するが》の江尻の宿で、午の弁当をいっしょに喰べたのだが、そのとき友次郎はにやにや笑いながら、「いいのができたようだな」とあごをしゃくった。実は黙っていた。
「おめえほどの堅物でも、かなわねえことがあるんだな」と友次郎はいった、「しかし、気をつけたほうがいいぜ、海道筋には尻尾《しっぽ》の裂けたような狐が出るからな」
実が静かに振向いた、「狐がどうしたって」
「忘れずに眉毛を濡らしとけっていうことさ」
実はきっとした声で云った、「――狐たあ、だれのことだ」
友次郎は実の怒った眼にたじろいだ。
「だれだったって、おれは、ただ」
「だれが狐だっていうんだ」と実はひそめた声でたたみかけた、「そんなことを云う以上、相手がだれだかわかってるんだろう、云ってみろ、どこのだれなんだ」
「そう怒るなよ、こんなことでそうむきになるやつがあるかい」と友次郎が云った、「おめえには、うっかり冗談も云えねえんだから」
「いまのは冗談か」
「冗談だよ」と友次郎が苦笑した、「しかしさ、そう怒るところをみると、なにかあることはたしからしいな」
実はふきげんにそっぽを向いた。
「おめえ、語るにおちたぜ」と友次郎は巧者に話をそらした。
二度めは相田屋で泊った晩。隣りに客が二人はいって、酒を飲みながら女の話を始めたが、そのなかで、おとわ[#「とわ」に傍点]のことに触れるのを聞いた。かれらは女中や妓たちのことを無遠慮にしなさだめしたうえ、もっともいろごとに脆《もろ》いのは、「おとわ[#「とわ」に傍点]のような女だ」と云いだした。
「そいつは眼ちがいだな」と一人の客は反対した、「あんな沈んだような愁い顔の、あいそもろくさまいえないような女が、いろごとに脆いなんていうことはないよ」
「じゃあためしてみるさ」ともう一人がいった、「見かけのいろっぽい女より、ああいうしんとしたじみな女のほうが、かえってそのことにかけては達者なんだ、やってみろよ、黙ってつかまえれば文句なしだぜ」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
実はいやな気持になった。初めておとわ[#「とわ」に傍点]と逢ったときの、明けがたの出来事を思いだしたからである。
――黙ってつかまえれば文句なしだ。
かたちはそのとおりである。そうなるまえに、お互いの気持が深く通じあったことはたしかだが、そうなったかたちはその客の言葉どおりであった。
「ばかな」と実は強く首を振った、「それだから、どうだっていうんだ、おとわ[#「とわ」に傍点]が相手構わずそんなことをするとでも思うのか」
「おい」とまた彼は自分に云った、「おめえやきもちをやいてるらしいな、しっかりしろ」
四月にはいったある日、――実が昏れがたに相田屋へ着くと、おみよ[#「みよ」に傍点]が出て来て洗足をとった。彼はべつに気にもとめず、部屋へとおり、風呂へいった。しかし、食膳を持って来たのもおみよ[#「みよ」に傍点]だったので、おとわ[#「とわ」に傍点]はどうしたのか、と訊いてみた、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんでなくって、お気の毒さま」とおみよ[#「みよ」に傍点]はながし眼に彼を見た、「たまに一度ぐらいあたしだっていいでしょ、それとも、どうしてもおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんじゃなければいけないんですか」
「いいさ」と彼は云った、「おれはただ、どうしたのかと訊いただけだ」
「すなおね」とおみよ[#「みよ」に傍点]が笑った、「あの人、弟が病気だってうちへ帰ったのよ」
実は眼を細めておみよ[#「みよ」に傍点]を見た。
「病気じゃない、けがだわ」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「木から落ちたっていったかしら、お午まえに妹さんが迎えに来て、いっしょにでかけていったの、おそくとも明日は帰るでしょ」
「――妹や、弟が、あるのか」
「五人きょうだいよ、知らないの」とおみよ[#「みよ」に傍点]は云った、「おっ母さんにおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、その下に妹二人と、弟が二人いるんだって、あの人も考えてみればたいへんだわ」
実は眼をそらしながら訊いた、「うちはここから遠いのか」
「大平川の手前を北へのぼった、台仙寺っていうところですって、たしかその庄屋さまの地内にいるって聞きましたよ」おみよ[#「みよ」に傍点]は笑いながら云った、「みまいにいってあげるんでしょ」
「飯にしよう」
彼は立ってゆき、濡れ手拭を掛けて戻ると、すすまない手つきで箸をとった。
「その、――」と彼は茶碗を受取りながら、さりげない調子で訊いた、「その、おふくろさんと四人きょうだいの世帯を、全部ひとりで背負ってるのか」
「へんな噂もあるけれど」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「そんなこともないでしょ、おっ母さんや上の妹さんは賃仕事をしているらしいし、下の子たちだって使い走りぐらいするでしょ、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんひとりでなんて、とても背負いきれるもんじゃありませんよ」
「へんな噂があるって」
「やっかんで云うんでしょうけれどね、その庄屋さまがあの人に首ったけで、月づき貢いでいるとかなんとか、うるさいことを云う人があるんですよ」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「むろんあたしなんか、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんをそんな人だとは決して思やしませんけどね」
実は黙って、一杯だけ喰べて、箸を置いた。
「あら、もうあがらないんですか」
「お茶をくれ」と実が云った。
明くる朝、実は四時に相田屋を立った。そうして、それっきり、彼は相田屋へ姿をみせなくなった。
実は泊る宿場を変えて、その城下町は素通りをするようにした。予定が狂って、その城下で泊るときは、相田屋のある伝馬《てんま》町を避け、六地蔵町の、千ぐさ屋というのに宿を取った。――こうして四十日あまり経った。その年は五月になっても晴れ続きで、から梅雨になるらしいといわれていたが、下旬に近いある夜、千ぐさ屋に泊っている実のところへ、とつぜんおせき[#「せき」に傍点]があらわれた。
そのときは早ではなかった。宵の九時ごろに宿を取り、風呂をあびたり食事をしたりして、横になるとほどなく、階段をあがる足音がし、「八番だろう、わかってるよ」というおせき[#「せき」に傍点]の声が聞えた。荒い足音とその声とで、それがおせき[#「せき」に傍点]であり、酔っているということはすぐわかった。八番ということは、階段口の脇にある彼の部屋のことである。実はすばやく起きあがって、寝衣《ねまき》の衿《えり》をかき合せた。
おせき[#「せき」に傍点]は黙って、乱暴に障子をあけた。実は手を伸ばして、行燈を明るくした。おせき[#「せき」に傍点]はじっと彼を睨《にら》んでいて、それから階段のところへゆき、大きな声で女中を呼んだ。
「もと[#「もと」に傍点]ちゃんお酒をちょうだい、肴なんかいらないから、大きいのを三本ばかり持って来てよ、冷でもいいから早くね」
そして、戻って来て部屋へはいり、障子を閉めてぺたっと坐った。相当に酔っているのだろう、いつもとは違って顔色が蒼《あお》く、躯が不安定にぐらぐら揺れた。
「悪いいたずらをするやつがあるもんだ」とおせき[#「せき」に傍点]は云った、「それでも取りっ放しじゃなかったからまだしもだけれど、――おひやはないの、実さん」
「持って来させよう」
「それには及ばないよ、これから飲むんだから」と云って、おせき[#「せき」に傍点]は頭をがくっとさせた、「――おまえさんの泊る七番にあった鶴が、かえって来たのを知ってるかい」
実はその意味がすぐにはわからなかった。
「青銅《からがね》の鶴だよ、忘れたのかい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「縮緬《ちりめん》屋の重兵衛っていう客が持ってっちゃったんだ、このあいだ返して来たんで、またあの床間に置いてあるよ、――なぜこんなことを話すかわかるかい」
実は黙っていた。女中があがって来、声をかけて障子をあけた。
「お燗のついたのだけ持って来ました」と女中は燗徳利をのせた盆をそこへ置いた、「あとはついたらすぐに持って来ます」
「盃なんかじゃだめよ」とおせき[#「せき」に傍点]が乱暴に云った、「湯呑と、それからおひやをちょうだい」
もと[#「もと」に傍点]という女中が戻って来るまで、おせき[#「せき」に傍点]は黙って、ぐったりと頭を垂れていた。もと[#「もと」に傍点]が来ると手を振って追いたて、まず水差の口からじかに、喉《のど》を鳴らして水を飲んだ。
「さあ、――」とおせき[#「せき」に傍点]は燗徳利を取りながら云った、「云いたいことを聞こうじゃないの、いったいどういうわけなのさ」
実は腕組みをし、低い声で話しだした。
「聞えないよ」とおせき[#「せき」に傍点]が遮った、「もっとちゃんと、はっきりした声でいってちょうだい」
「おれは台仙寺へいったんだ」と彼は声を少し高めて続けた、「そして、みんな聞いたんだ、あれには母親があり、妹と弟が四人いて、そうして庄屋の持ち家に住んでるし、庄屋の世話になっている」
「おまけに庄屋が、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんを妾《めかけ》に欲しがっている、っていうんだろう」
実は首を振った、「妾じゃあない後妻だ、庄屋は五年まえかみさんに死なれて、そのあとへおとわ[#「とわ」に傍点]を欲しがっているということだ」
おせき[#「せき」に傍点]は「へえ」と云い、湯否に注いだ酒を呷《あお》った。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
「へえ、そうかい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「それだけのことであの子から逃げたのかい」
「初めにおれは訊いたんだ、嫁に来てもらうつもりだから訊いたんだ」と彼は吃《ども》りながら云った、「おれにできる限りのことはする、なにか困るような事情はないか、親きょうだいはどうだ、おれには親もきょうだいもないから、場合によったら引取ってもいいって、念を押して訊いたんだ、――おとわ[#「とわ」に傍点]は、なんにもないって云った、自分も一人ぼっちで、親きょうだいはない、身ひとつだからいつでもゆける、決してそんな心配はいらないって云ったんだ」
おせき[#「せき」に傍点]は黙って二杯めを飲んだ。
「――どうしてそんなことを云ったんだろう」とおせき[#「せき」に傍点]は首をかしげながら呟いた、「おかしな子だね、どうしてだろう」
「あいつは来る気はなかったんだ、それが台仙寺へいってみてわかった、これだけの事情があって、そこからぬけることはできゃあしない、おれといっしょになる気はなかったんだ」
「どうしてじかに話してみなかったの」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「あの子は実さんといっしょになるって云ったんでしょ」
「本当にその気なら嘘はつかないはずだ」
おせき[#「せき」に傍点]は三杯めを飲んだ。
「あの子はね、実さん」とおせき[#「せき」に傍点]は低い声で云った、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんは、庄屋へ後妻にゆくことになったんだよ」
実は黙っていた。
「あたしにはわかる、あの子はなに一つ云わない、悲しいようなそぶりもみせやしないけれど、どんなにあんたを想っていたか、あんたが来なくなってどんなに悲しがっていたか、あたしには切ないほどわかるんだ」とおせき[#「せき」に傍点]がのど声で云った、「あの子のうちはもとはよかった、田地も三十町歩くらいあったし、ほかに山も持っていたそうよ、あの子は読み書きもできるし、お茶や花もやり、琴も弾けるんだ、それを、父親という人が道楽者で、すっかり遣いはたしたうえ、四十まえの若さで卒中で死んだ、残ったのは借金ばかりで、おまけに去年の秋ぐちには自火を出して、家屋敷がすっかり灰になっちまった、――庄屋があの子を後妻に欲しいと云いだしたのは、そのときのことだっていうわ、でもあの子はそれをいやがって、相田屋へ奉公に来たのよ、もしも、……あの子がもしも後妻にゆくつもりだったら、女中奉公になんぞ来るわけがないじゃないの、そうじゃないの、実さん」
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんが後妻にゆく気になったのは」とおせき[#「せき」に傍点]は続けた、「その気になったのは実さんのためよ、あんたが来なくなり、もう望みがないと思ったからよ、あたしにはそれがちゃんとわかるんだ、可哀そうだとは思わないの、実さん」
実はうつ向いて、腕組みをして、黙っていた。
「可哀そうとは思わないの」とおせき[#「せき」に傍点]が繰り返した、「この月いっぱいで、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはいってしまうのよ、それでもいいの」
実は黙っていて、やがていった、「おれにはもう、いうことはないよ」
「それっきり、――」とおせき[#「せき」に傍点]が云った。
実は黙ってうなずいた。
「じゃあ、あたしから頼むわ、いちどだけおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんと逢ってちょうだい」とおせき[#「せき」に傍点]がいった、「場所は高岩弁天、このまえのところよ、明日の朝七時にあの人を待たしとくわ」
実は「いやだ」と云った。
「あたしが頼んでもだめなの」
実は暫くしておせき[#「せき」に傍点]を見、「床間の鶴は返ったかもしれないが、――」しかしそこで彼は首を振った、自分の言葉をうち消すように首を振り、そして低い声で続けた、「おせき[#「せき」に傍点]さんには済まないが、おれはいやだ、おれは逢わない」
おせき[#「せき」に傍点]は黙って実の顔を見てい、それから燗徳利を取ったが、酒はもう湯呑の半分もなかった。
「もと[#「もと」に傍点]のやつ、あとを持って来ないつもりだな」とおせき[#「せき」に傍点]は呟いてその酒を飲み、実に向って「そうかい」といった、「それならそれでいいよ、あたしはおまえさんをみそくなっていたようだ、おまえさんにはじつがある、ほかの男たちとは違って、しんそこ情のある人だと思っていた、人にもそう云って自慢してたんだ、ばからしい、そんならそれでいいよ」
おせき[#「せき」に傍点]は立ちあがった。
「お邪魔さま、御馳走さまとは云わないよ」とおせき[#「せき」に傍点]は云った、「この酒の代は下で払ってゆくからね、あたしに学があれば云ってやりたいことがあるんだけれど、――ああくやしい」
おせき[#「せき」に傍点]はよろめきながら出ていった。
障子はあけたままで、階段をおりてゆき、女中たちになにかどなるのが聞えた。実は組んでいた腕をとき、立ちあがって障子を閉めた。そして、行燈を暗くしていると、また階段をどたどたと乱暴に登って来て、おせき[#「せき」に傍点]が障子をあけた。
「いうまいと思ったけれど」とおせき[#「せき」に傍点]はよろよろしながらいった、「どうしてもいわずにはいられないからいってしまう、実さん、おまえ初めてあの子と逢ったときのことを覚えているかい」
実は片膝をついたままうなずいた。
「けれども知らないだろう」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「あのときおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんの下の物が、よごれていたのを、知らないだろう」
実は訝《いぶか》しそうな眼をした。
「あたしはこの眼で見たんだ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「女の一生で初めての、それもたった一度しきゃないよごれなんだ、どういうことだか、わかるかい」
実の立てていた片膝がゆっくりとおり、彼は無表情に壁のほうを見た。
「おまえさんは来なさんな」とおせき[#「せき」に傍点]は調子を変えて云った、「あたしはあの子をやるよ、明日の朝の七時、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんを高岩の弁天様へやるよ、おまえさんは来なさんな」
おせき[#「せき」に傍点]は障子を静かに閉めて去った。
明くる朝の七時まえ、――実は高岩弁天の境内にいた。もう陽はかなり高く、松林の向う、萱生川の流れの上で、二羽の鵜《う》が水にもぐったり、舞い立ったりしていた。実は脇に張籠《はりご》を置き、松の幹によりかかって、その鵜のすることをぼんやり眺めていた。
「もう刻限だ」と彼は呟いた、「来やあしねえさ」
だがまもなく、人のけはいがするように思い、振向くと、おとわ[#「とわ」に傍点]がさっさっとした足どりで、こっちへ来るのが見えた。おとわ[#「とわ」に傍点]は硬ばった顔つきで、さっさっと、まっすぐにこちらへ来、実のそばへ来ると微笑した。
「また待って頂いたのね、ごめんなさい」
「ひと眼、逢いたかったんだ」と実はぎごちなく云った、「それに、訊きたいこともあったんで、それがもしなんなら」
「ええ、姐《ねえ》さんから聞きました」とおとわ[#「とわ」に傍点]がうなずいた、「親きょうだいのことで嘘をついたって、怒ってらっしゃることは聞きました、でもあたし、……嘘は云わなかったんですよ」
「嘘じゃなかったって」
「ええ、あのときは本当だったんです、あのときのあたしの気持には親もきょうだいもなかったんです、あなたといっしょになれるんなら、親きょうだいは棄ててもいいと思ったんです」と云っておとわ[#「とわ」に傍点]は微笑した、「――嘘をついたのでも隠したのでもなく、あたし本当の気持でそう云ったんです」
実は息を止めておとわ[#「とわ」に傍点]を見た、おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑していた。実は止めた息をごく静かに吐き、それにつれて頭を垂れた。それから、頭を垂れたままで、「おれは」と云いかけたが、おとわ[#「とわ」に傍点]がそれを遮った。
「いまは違います」と彼女は云った、「いまのあたしには親きょうだいがあるし、義理も背負ってしまいました、いまはもう勝手なまねはできませんの、――どうしてかということは姐さんからお聞きになったと思います」
「金のことならおれが」と実が云いかけた。
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]は強くかぶりを振って遮った、「お金や義理もありますけれど、あたしの気持がもう、そういうものからぬけだせなくなったんです、ごめんなさい、こんなこと云ってはいけないんでしょうけれど、嘘をついたと思われたままでは、どうしても気が済まなかったものですから」
「悪かった」
「いいえあやまってはいや、あやまってもらうことなんかありませんわ、ただわかって下さりさえすればいいんです」
実はほとんど聞きとれないほどの声で、「おれが悪かったよ」といった。
「ではあたし帰ります」とおとわ[#「とわ」に傍点]は彼からはなれた、「用をそのままにして来ましたから、これであたし失礼します」
実は頭を垂れたままでいた。
「さようなら」と云って、おとわ[#「とわ」に傍点]は歩きだし、もういちど明るい声で云った、「さようなら」
実は身動きもしなかった。
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
帰って来て、あの人は初めて泣いた。まだ寝ていたあたしのところへ来て、身もだえをして泣いたよ。それまでは泣くどころか、悲しそうな顔つきさえみせなかったのにね。
あたしは起きて話を聞いた。あの子はすっかり話したよ、あたしは聞いていて眼がさめた。まるで水でもあびたあとのようにさっぱりして、ふつか酔いもきれいにさめちまった。
それからあたしは云ってやった、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんいっておやり」ってさ、二人はいっしょになるのが本当だ、これからすぐに追っかけておいで、ってさ。
あの子は泣きながらかぶりを振った。本当にもうだめなのよ、姐さん、いまになってはどうにもならないってこと、姐さんにもわかるでしょって泣きながら云った。
それであたしは立ちあがって、鏡筥《かがみばこ》をあけて、鏡の下に入れておいた物を出して、あの子の前へ置いてやった。あかまんまさ、あの子が実さんと初めて弁天さまで逢って、帰ったときに持って来たんだ。あの子にはなんの気持もなかったんだろう。そこへ置いていったのを見て、あたしはそっと拾いあげた。二人が初めて逢引をして、おまんまごとの話をしたっていうのを聞いたら、自分の小さいころを思いだしたんだね、なつかしいような、切ないような気分になって、この中へしまって置いたのさ。
あの子はびっくりしたような眼で、あたしの顔を見あげた。あたしはいってやった、「あのときのあかまんまだよ、忘れたのかい」って。
あの子はぽかんと口をあけた、そこでまた、あたしは云ってやった、「あとのことはどうにでもなる、そのままでいいから追っかけておいで」って、「それであんたの一生がきまるんだよ」ってさ。え、ああ知ってるよ、お客の呼んでいることは知ってるよ、これだけ飲んだらゆくから待たしといて。大丈夫だってばさ、うるさいね。
うん、――あの子は、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはとびだしていった、ひと言「姐さん」と云ったきり、それこそ面もふらずという恰好でとびだしていったよ。いまでもそう思う、あのときあたしは、人の一生のきまるところを見たんだってね。
もちろん、うまくいってるさ、実さんが店を出してから、もうそこそこ一年になるだろう、ああ、そうだよ、いまやって来る福さんていうのが、実さんの店の人さ。それではひとつ、今夜の稼《かせ》ぎにかかろうかね。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊朝日別冊新緑読物号」
1957(昭和32)年4月
初出:「週刊朝日別冊新緑読物号」
1957(昭和32)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)実《じつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)戸|旅籠《はたご》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
そうよ、なにも隠すことなんかありゃあしない、あたしあの子が好きだったよ。名まえは実《じつ》。あの人は実があるとか、不実だとかいうときの「実」という字だって。呼びにくい名だから、みんなすぐに覚えちまった。初めて来たのは六年まえ、いや七年になるかしら、あの子は十七で、徳さんていう人の提灯《ちょうちん》持ちをしていた。そう、日ぎりの早飛脚は夜なかに走ることもある、そういうとき、提灯を持って先に立つ役で、またそのあいだに仕事の手順も覚えるというわけさ。
あたしは初めのうち、気ぶっせいで陰気な子だと思った。そのじぶんはまだ子供こどもしていて、卵なりの顔や、はっきりしすぎた眼鼻だちが、つんとした、よりつきにくい感じだったし、ひどく口が重くって、ろくさまものも云わないというふうだったからね。いまだってよく知らない者は「気どってる」なんて云うけれど、それはあの顔だちと、あんまり口をきかないためにそう思えるだけで、芯《しん》はごくすなおな、そう、どっちかというと臆病なくらいはにかみやなんだ。
あたしはいちど、あの子をものにしようとしたことがある。なにさ、もちろん酔ってるよ、そのときだって酔ったあげくのことさ、本陣にお座敷があって、うんと飲んで、ふらふらになっていた、その勢いであの子の寝床へ、もぐりこんだのさ。
あたしは二十三、なにか度外れなことがやってみたい年ごろなんだろう、いきなりもぐりこんで、手足で絡みついてやった。とび起きるか、声でもだすかと思ったら、あの子は身動きもしないでじっとしている。躯《からだ》をまっすぐに伸ばして、石のように固くなって、そしてがたがたふるえてるのさ。
こっちは酔ってるから、これはものになるって思って手をやった。なにさ、ばかだね、そんなことはしまいまで聞いてから云うもんだ。
あたしは手をやった、そうするとあの子は、「おっ母さん」て云った。ふるえているものだから、がちがちと歯がなったっけ。おそろしさのあまりおっ母さんて云ったんだろう、いまでもその声と、歯の鳴る音がはっきり耳に残ってる。
まが悪いのなんのって、あたしは、酔いもさめちゃって、あやまったりなだめたり、すかしたりして、そうそうに逃げだしちまったさ。実さんて人はそんな子だったよ。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
実が相田屋の店へはいろうとすると、軒先にいた番頭の和吉が、「いらっしゃいまし」と、けいきのいい声をあげておじぎをし、すぐに気がついて、まが悪そうに笑った。
「お一人ですか」
実はうなずいて店へはいっていった。
宵の八時ごろで、帳場には主人の文造がおり、酒や肴《さかな》をはこぶ女中たちが、忙しそうにたちはたらいていて、その一人が、はいって来た実に声をかけ、すると他の女中たちや、帳場にいる文造も声をかけた。
実は担いでいた張籠《はりご》をおろし、鉢巻をとって半纒《はんてん》の肩腰をはたき、それから広い上り端《はな》へ腰をかけて、草鞋《わらじ》の緒を解きかかった。――挾箱《はさみばこ》の形に似た張籠は黒の溜塗《ためぬり》で、片方に「島十」と赤く太い字で書いてあり、担ぐための三尺の棒の先には、小さな鈴が付いている。その鈴が、飛脚であることを知らせるのであった。
下女のお市が洗足《すすぎ》の盥《たらい》を持って来て、訝《いぶか》しそうに訊《き》いた、「こんどはお一人ですか」
実は「うん」といった。
足を洗っていると、おせき[#「せき」に傍点]が出て来た。この相田屋に十年ちかくもいる妓《おんな》で、年は三十になるが、唄がうまいのと、酔いぶりが面白いのとで、いまもお座敷ではにんきがあった。おせき[#「せき」に傍点]はもう飲んでいるらしく、眼のふちがぼっと染まってい、声もはしゃいでいた。
「いらっしゃい」とおせき[#「せき」に傍点]は実の肩を押えていった、「どうしたの、一人」
「こんどは早じゃないんだ」と実はぶっきら棒に答えた。
「じゃあ泊るのね」
実は「さあ」といった。
「おしの[#「しの」に傍点]は嫁にいったのよ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「急に話がきまって、七日まえに暇をとったの、あんたに会ってからいきたいって、べそをかいてたぞ、こら」
背中を押されてのめりそうになり、「危ねえな」と云って、実はおせき[#「せき」に傍点]の手から肩をかわした。
飲み食いだけの客には、別棟になった座敷がある。おせき[#「せき」に傍点]はそこをぬけて来たのだろう、おろく[#「ろく」に傍点]という若い妓が呼びに来、おせき[#「せき」に傍点]は実に、「あとで遊びにゆくよ」と、云って、おろく[#「ろく」に傍点]といっしょに去った。実はいつも二階の七番に泊る。小部屋だがいちばん端にあるので、短い時間に熟睡するには静かでよかった。風呂からあがって来ると、おみよ[#「みよ」に傍点]という女中が食膳《しょくぜん》をそろえていて、「食事を少し待ってくれ」と云った。
「おせき[#「せき」に傍点]さんがすぐに来るそうですから、それまで待っていて下さいって云ってました」
実は坐って、濡れ手拭で髪を撫《な》で、おみよ[#「みよ」に傍点]は茶と菓子の盆を彼の前に置いた。
「しの[#「しの」に傍点]ちゃんお嫁にいったんですよ」とおみよ[#「みよ」に傍点]は茶を注ぎながら云った、「向うは鳴海の瀬戸物屋で、お婿さんはびっこなんですって、恥ずかしいから遊びに来てくれとは云えないって、あんなに賑《にぎ》やかな人が、すっかりしぼんでましたわ」
実は菓子をつまみ、茶を啜《すす》りながら、三尺の床間を見た。着彩の色のすっかり褪《さ》めた山水の軸が掛けてあり、その下に木彫の大黒の像が置いてあった。
「しの[#「しの」に傍点]ちゃんの代りに、あたしが番になりたいんだけれど」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「――実さんからそう云ってくれると、番になれるんだけれど」
「置物が変ったな」と実は呟《つぶや》いた。
「ねえ、そうしてくれない、実さん」
「うん」と実が気のない調子で云った、「おれはどっちだっていいよ」
「頼りないの」とおみよ[#「みよ」に傍点]はながしめに睨《にら》み、立ちあがってから、振向いて訊いた。
「何刻に起こしに来ましょうか」
「起こさなくってもいいよ」
「お泊りになるんですか」
実は「うん」といった。
おみよ[#「みよ」に傍点]が去ると、実は横になって肱枕《ひじまくら》をした。彼は浮かない顔をして、ぼんやり食膳を眺めた。かなり空腹ではあるが、それほど疲れているわけでもないし、べつに気懸りなこともないのに、なんとなく鬱陶しいような、けだるい気分にとらわれていた。――九月になったばかりで、まだ火をいれるには早いが、晩秋の爽やかな夜気が、壁のあたりから忍びよってくるように思われ、裏座敷から聞えて来る三味線の音も、半月まえとは違って、しんと、冴《さ》えてひびくように感じられた。
階段に足音がしたので、実が起き直ると、おせき[#「せき」に傍点]が乱暴にはいって来、うしろの障子をあけたまま、膳の脇へ坐って云った。
「感心に待ってたわね、躾《しつけ》がよろしい、褒めてやるぞ」
実が立とうとした。
「どこへゆくの」とおせき[#「せき」に傍点]が訊いた。
実は障子を見て云った、「閉めるんだ」
「そうやっといて」とおせき[#「せき」に傍点]は手で顔をあおぎながら去った、「いまお酒が来るんだから、今夜はあんたも飲むのよ」
実は坐り直して「いいきげんだな」と云った。
おせき[#「せき」に傍点]は酔って赤くなった顔を、しきりに手であおぎながら話しだし、まもなく、障子のかげで声がして、若い女中が酒肴の盆を持ってはいって来た。
「このひとおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん」とおせき[#「せき」に傍点]が実にいった、「こんど来たひとで、あんたの番になるの、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、江戸の島十という飛脚屋の実さんよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は手をついて挨拶した。
実はどきりとした。おとわ[#「とわ」に傍点]の顔を見たとたんに、知っている、と直感したのである。古くから知っていて、久方ぶりに会った、ずいぶん久しぶりに、めぐり会った、という感じがし、同時におとわ[#「とわ」に傍点]のほうでも、明らかにどきっとしたことが、その眼にあらわれた。――知った相手ではない、初めて会うのだ、ということはすぐにわかった。
けれども、さいしょのどきっとした感動は強く心に残って、眼の合うたびに、胸の奥がきりきりするようであった。おせき[#「せき」に傍点]はそんなことまでは気づかなかったろう、だが、実のようすで安心したらしく、盃《さかずき》に一つ酌をすると、座敷があるからといって立ちあがった。
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはまだ馴れないんだから困らせないで」とおせき[#「せき」に傍点]がいった、「あたしの大事な妹なんだから、番にしたのは実さんを見込んだからだってこと、忘れるんじゃないぞ」
「わかったよ」と実がいった。
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、起こしに来る刻《とき》を聞いとくのよ」
そう云っておせき[#「せき」に傍点]は出ていったが、階段の途中までいったかと思うと、引返して来て障子をあけ、そこから覗《のぞ》いていった。
「今夜は酔うまで飲むのよ、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんも合《あい》をしなさい、わかったわね」
そして、障子を閉め、いいきげんに鼻唄をうたいながら去っていった。実は心ぼそいような、胸のおどるような気持で、黙って一つ飲み、それからおとわ[#「とわ」に傍点]を見た。
「飲めるのか」
おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑して首を振り、「でも頂きます」と手を出した。
実は盃を渡し、酌をしてやった。おとわ[#「とわ」に傍点]は一と口なめて、その盃を膳の上に置き、新しい盃を取って実に渡した。――おとわ[#「とわ」に傍点]はごく平凡な顔だちで、口が少し大きく、ものをいうと前歯にみそっ歯のあるのが見えた。それを気にしているためか、それとも単にそういう癖なのか、人を見るときには唇を一文字にひき緊めるが、すると唇の両端が上へきれあがって、顔ぜんたいにあどけない表情がひろがるのであった。
「おせき[#「せき」に傍点]さんは忘れたんだ」と実がぶきように云った、「今夜は泊るんだから、起こしに来なくってもいいんだよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は眼でうなずいた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
実も口の重いほうだが、おとわ[#「とわ」に傍点]も同じらしく、ただもう酌をすることにかかっており、実のほうでも話題がないから、しぜんに酌をされるだけ飲むというぐあいで、たちまち酔ってゆくのがわかった。
「床間の置物が変ったね」と実がいった。
おとわ[#「とわ」に傍点]は振向いて、「そうですか」といい、暫く眺めていて、「大黒さまですね」と独り言のように呟いた。
「まえには青銅《からがね》の鶴があったんだ」と実が云った、「おれがここで泊りだしてから、ずっとそうだった、もう五年くらいこの部屋で泊るが、あの掛軸も置物も変ったためしがないんだ、掛軸は元のままなんだが、どうして置物だけを変えたのかな」
「さあ」と首をかしげて、それからおとわ[#「とわ」に傍点]はちらっと実を。見た、「もう五年もいらっしゃるんですか」
「初めから数えると七年めだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいていった、「あたし今日でやっと五日めですわ」
それでまた話がとぎれた。
燗徳利《かんどくり》の二本めがからになり、おとわ[#「とわ」に傍点]は代りを取りに立った。実はそうとは知らず、独りになるとくすくす笑いだして「ざまあねえや」と呟いた。若い男と女が差向いでいて、床間の掛軸や置物のほかに、話すことはねえのか、ねえらしいな、ねえらしい、これが生れつきだ、と彼は呟いた。
おとわ[#「とわ」に傍点]が酒を持って戻って来た。
「もうだめだ」と実が見て云った、「酒はもうだめだ、すっかり酔っちまった」
「でもおせき[#「せき」に傍点]姐《ねえ》さんが」
「いやだめだ」と彼は首を振った、「眼がちらくらするようだ、飯にしよう」
おとわ[#「とわ」に傍点]は「はい」といって、では温かい御飯を持って来ようと、立ちかけたが、実はそれを止めて「茶漬がいい」といった。腹はくちかったが、茶漬を一杯だけ喰《た》べると、すぐに、寝かしてくれといって、手洗いに立った。
横になってから、おとわ[#「とわ」に傍点]がなにかいった。なにか用はないか、と訊いたのだろう。彼はそれに答えたと思ったが、おとわ[#「とわ」に傍点]の出てゆくのも知らずに眠ってしまった。どのくらい眠ったものか、夢うつつに呼び起こす声を聞きながら、夜具をゆすられるまで、眼がさめなかった。
――起きなくちゃいけない、時刻だ。
そう思ってようやく眼をあけると、すぐそこにおとわ[#「とわ」に傍点]の顔があった。暗くしてある行燈の光りで、微笑しているおとわ[#「とわ」に傍点]の顔が眼の前にあり、微笑したままでそっと囁《ささや》いた。
「八つ半(午前三時)になります」
「ああ」と実がいった、「八つ半、――いや、朝まで寝るんだ」
「さっき起こせって仰しゃっていましたわ」
「おれがか」といって、彼は片手をおとわ[#「とわ」に傍点]のほうへ伸ばした。「酔ってたんだな」
これという考えもなく、ほとんど本能的に手を伸ばし、おとわ[#「とわ」に傍点]はその手を握った。握ったとたんに、いちど放そうとし、すぐにまた、そっと握り直した。
実はめまいのような衝動におそわれ、半身を起こしておとわ[#「とわ」に傍点]を抱いた。どうしてそんなことができたのか、自分でもわからない。彼はまったく夢中だったが、悪いという気持は微塵《みじん》もなかったし、極めて自然にそうなった。おとわ[#「とわ」に傍点]も拒もうとはしなかった。彼女のからだは彼の両腕のなかでやわらかに力を失い、彼の手のままにしんなりとたわんだ。
彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背骨が、自分の手の下でおどろくほど柔軟にたわみ、からだぜんたいがこちらへ溶けこむように感じた。彼は耳のそばでおとわ[#「とわ」に傍点]の激しいあえぎを聞きながら、自分のぶきようさに狼狽《ろうばい》した。おとわ[#「とわ」に傍点]のからだは少しも動かず、激しい呼吸だけが生きているようであった。そうしてまもなく、その切迫した喘《あえ》ぎを聞きながら、彼の意識は昏《くら》んだ。
明けがた、――実は眼をさますと、はね起きてあたりを見わたした。もちろんおとわ[#「とわ」に傍点]はいなかった。おとわ[#「とわ」に傍点]が去ったのを彼は覚えている、彼女はなにも云わなかった。彼女はひとこともものをいわず、静かに、影のように去ってゆき、彼は包まれるような疲れと、あまい移り香のなかに残されたのだ。
「たいへんなことをした」と彼は口の中でいった、「どうしよう」
ひとこともものをいわず、黙って、影のように去っていったおとわ[#「とわ」に傍点]の姿が思いだされ、彼の胸の奥がきりきりとなった。
「だめだ」と、暫く思い耽《ふけ》っていたのち、彼は力なく首を振った、「とても顔は合わせられない、とても、――立つことにしよう」
いまのうちに出てゆこうと彼は思った。
酔いはすっかりさめ、のどが渇いていた。実はおちつかない動作で身支度をし、張籠を持って階下へおりた。店にはまだ懸明りや行燈がついており、武助というもう一人の番頭が、いま着いた客に洗足を出していた。客は実の知っている男で、江戸|旅籠《はたご》町の「紀梅」という、やはり飛脚屋の友次郎であった。実は宿賃を紙に包んで帳場に置き、上り端へいって武助に声をかけた。
足拵《あしごしら》えをしながら、実は武助に向って、「おとわ[#「とわ」に傍点]という女中に借りたものがあるが、大阪からの戻りに寄ると伝えてくれ」と頼み、勘定は帳場に置いてあると云った。――友次郎は声をかけただけで、話しかけはしなかった。実の口の重いこと、あまりなかまづきあいをしないことは、よく知られていたからである。
外はまだほの暗く、空気は冷えていた。街筋には疎《まば》らに人や馬の往来が見え、炊《かし》ぎの煙がたなびいていた。
「おれは本気だったぜ」
棒の先で鈴が鳴り、彼は眼を据えて自分に云った、「出来どころや浮気じゃなかった、これっぽっちの混りっけもない、しぜんななりゆきだった」
「おとわ[#「とわ」に傍点]もそうだった」と、暫く歩いてから、また彼は呟いた、「ちっとも騒がなかったし、驚きも、いやがりもしなかった、そうだろう、そうじゃなかったか、ちっとでもいやがったか、――おとわ[#「とわ」に傍点]も同じ気持だったんだ、そうでなくって、あんなにしぜんななりゆきはありゃあしない、たしかだ、おとわ[#「とわ」に傍点]も同じ気持だったんだ」
惣門《そうもん》のところで彼は立停った。惣門では番士が竹箒《たけぼうき》を持って、橋の上を掃いており、堀の水はすっかり明るくなっていた。
「引返そうか、引返して逢ってゆこうか」と彼は堀の水を眺めながら呟いた、「いや、帰りのほうがいい、宿の者にもぐあいが悪い、帰りに寄ったとき話すとしよう」
実は思いきったように橋を渡っていった。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
あの子って云うのがどうしておかしいのさ、十七の年から知っていて、月に幾たびとなく顔を見ているんだもの、あたしにはいまでもあの子というよりほかに、云いようはありゃしないよ、あたしはあの子が自慢なんだ、飛脚をしていれば読み書きのできるのは、あたりまえだろうけれど、実さんはそれ以上によくものを知ってる。
たとえばほら、お客なんかが「さような事を船中にて申さぬものに候《そうろう》」って云うでしょ。あれがどんな故事から出たものか、云っている当人がたいてい知りゃあしない。それを実さんは知ってた、あれは謡《うたい》の「舟弁慶」にある文句で、本当は「さようなことをば船中にては申さぬことにて候」って云うんだってさ。
それからまた、「なんとかがなんとかして、いまだこれあらざるなり」だとか、「なんとかがどうとかして、せざるべけんや」なんて云う四角な字も読めるんだ。こんなこと人に云うんじゃないよ、あの子は秘し隠しに隠してるし、およそ、知ったかぶりの嫌いな子なんだから。
あのとおり口べたで、あいそっけがなくて人と話もろくにしない。はたの者にはひどく気むずかしい我儘《わがまま》者のようにみえるだろうけれども、本当は思いやりの深い、よく気のつくやさしい性分なんだ。
何年かまえ、あたしが躯をこわして八十日ばかり寝たことがあった。そのとき実さんは、往きにも帰りにもみまいによってくれる、なにかしら手土産を持ってね。あの調子だからあんまり口はききゃあしない、土産物を置いて、黙って四半刻ばかり坐っていて、それから「じゃあまた、――」なんて云って、立ってゆくのさ。
七日ぎりという早飛脚のときでも、顔を見せないということはなかった。こんなことを数えたらきりがない、それにたいてい忘れちゃってるけどさ。あの子はそんなふうな、じつのこもった、情愛の深いところがあるんだ。
ただ一つ心配なのは、まだあの子はつまずいたことがない、今年の竹のようにすうっと、まっすぐに育ったままで、躯も心も無傷だということなんだ。そんなことで一生が送れるもんじゃない、年がいってからのつまずきはこたえるからね。え、ああわかったよ、もう一つ飲んだらゆくよ。あ、ちょっと、お客はだれとだれさ。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
大阪からの帰りに、実が相田屋へ着いたのは、夜の九時ころであった。実はすぐにおとわ[#「とわ」に傍点]が出て来るものと思った。飛脚の扱いはほかの客と違っていて、早《はや》のときなどは、二刻とか一刻半とか、時間をきめて眠り、時間どおりに立ってゆく。食事もそのときによって、寝るまえに喰べたり、起きてから喰べたりするし、雑用の世話も多い。
しかも、すべてがきちんと時間どおりに、はこばなければならないので、女中も番をきめて、一切の面倒を一人でみるようになっていた。――それで当然、おとわ[#「とわ」に傍点]が出て来ると思ったのだがそうではなく、洗足は下女が取り、部屋へとおしたのはおみよ[#「みよ」に傍点]、風呂を知らせて来たのはお松であった。
実はおちつかない不安そうな顔つきで、風呂へはいり、風呂場で髭《ひげ》を剃《そ》った。
「どうしたんだ」と彼は剃り残った髭を指でさぐりながら呟いた、「病気で寝てでもいるのか、それとも、もうここからいなくなってしまったんだろうか」
部屋へ戻ると、お松が食膳の支度をしていた。実の顔がもっと不安そうになり、お松が話しかけるのを遮《さえぎ》って、おとわ[#「とわ」に傍点]はどうしたのかと、さりげない口ぶりで訊いた。
「あ、それで思いだした」とお松は立ちあがりながら云った、「おせき[#「せき」に傍点]姐さんがうかがうから、御膳をあがるのは少し待って下さいって、そのあいだ飲んでいてもらうようにって云ってましたから、いまお酒を持ってまいります」
実は剃刀《かみそり》をしまいながら、胸ぐるしいような気分におそわれ、もういちどおとわ[#「とわ」に傍点]のことを訊こうとしたが、訊くことができなかった。お松が出てゆくと、隣りの六帖に客がはいった。
「なにかあったんだな」と彼は呟いた、「このまえのことでなにかあったんだ、あの晩のことが宿の者にわかって、おとわ[#「とわ」に傍点]が出されでもしたんじゃないか」
実は深い息をし、立ちあがって張籠を置き直した。
「風呂なんかいいや」と隣りで客の云うのが聞えた、「酒を飲むから支度をしてくれ、なにかうまい物を揃えてな、それから酌人を二人ばかり呼んでくれ」
おつね[#「つね」に傍点]という女中の声で、断わるのが聞えた。こちらは泊り客だけで、遊ぶのなら裏の別座敷へいってくれ、というのである。
「飲むだけならいいのか」と客がせっかちらしくきいた、「面倒くせえ、そんなら酌人はいらねえからここへ持って来てくれ」
実が坐ると、すぐに障子があき、酒の盆を持って、おとわ[#「とわ」に傍点]がはいってきた、実は胸の奥がきりきりとなり、躯がふっと浮くように感じた。
おとわ[#「とわ」に傍点]は盆を置いて挨拶をし、それから、膳を寄せて、燗徳利をその上へ置いた。挨拶をする声も低かったし、いちどちらっと実を見たきり、あとは俯向《うつむ》いたまま眼をあげず、まるで酔ってでもいるように、顔を赤らめていた。――実も赤くなり、すっかりあがって、眼のやり場もないというふうであった。おとわ[#「とわ」に傍点]が燗徳利を持ち、実は盃を取ったが、すぐにまた置きながら、おせき[#「せき」に傍点]の来るまで待とう、と云った。
「姐さんはいらっしゃいません」とおとわ[#「とわ」に傍点]がうつむいたままで云った。
実は不審そうに云った、「だって、待っていろということづてがあったんだよ」
「でも、いらっしゃいませんの」とおとわ[#「とわ」に傍点]が低い声で云った、「うかがえないからよろしくって、云っていました」
実はうなずいて盃を取った。おとわ[#「とわ」に傍点]が酌をし、彼は飲んだ。どちらも気があがっているようで、ついすると酒をこぼし、そのたびに慌てておとわ[#「とわ」に傍点]が拭いた。一本の酒が半ばになったとき、実が思いきったように顔をあげて、おとわ[#「とわ」に傍点]を見た。
「このまえは、――」と云いかけて、あとが続かなくなり、彼はみじめに吃《ども》った、「このあいだは悪かった」
おとわ[#「とわ」に傍点]はいそいで「いいえ」と首を振り、あとを聞くのが怖《おそ》ろしいとでもいうように、燗徳利を両手でつかんで、身を固くした。
「じつは」と彼が云った、「話が、――相談があるんだが」
するとおとわ[#「とわ」に傍点]が「あの」とべつのことを訊いた、「友次郎さんという人をご存じですか」
「友次郎って」と彼が訊き返した、「紀梅の飛脚をしている男か」
おとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいた。
「知っている」と彼が云った、「顔を見れば挨拶をするぐらいのものだが、あいつがどうかしたのか」
「いいえ、ただ、――」とおとわ[#「とわ」に傍点]は口ごもった、「ただ訊いてみただけです」
「あいつは口の多いやつだ」
「そうですか」とおとわ[#「とわ」に傍点]が口の中で云った。
実は黙って飲んだ。話の腰を折られたのと、おとわ[#「とわ」に傍点]がその話に触れられたくないようすなので、あとを続けることができなかったのである。彼は酒を一本でやめて、飯にした。隣りの客は独り言をいいながら飲んでいた。裏のほうには遊びの客が幾組かあるらしく、賑やかに三味線や唄の声がし、女中もそちらがいそがしいのだろう、隣りの客にゆっくり酌に坐る者もないようであった。
「客扱いの悪いうちだ」と隣りで独り言を云うのが聞えた、「金の有りそうな客のところばかりへばり付いて、こっちはほっぽり放しじゃあねえか、おらあそろそろ肚《はら》が立ってきそうだ」
その客が手を鳴らした。
「肚を立てちゃあいけねえと医者がいった」と、またその客がいった、「肚を立てると肝の臓が悪くなるからってよ、おれが肝の臓が悪くなるというのが、ここのうちの者にはわからねえのかな」
実は食事を済ませ、おとわ[#「とわ」に傍点]が膳を片づけて去った。実が手洗いから戻って来ると、おとわ[#「とわ」に傍点]が夜具を敷いており、隣りでおつね[#「つね」に傍点]と客のやりあっているのが聞えた。
「肝が悪くなるって」とおつね[#「つね」に傍点]が訊いていた、「虫でも起こるんですか」
「それは疳《かん》だ」と客がいい返した、「子供じゃあるめえし、この年で疳の虫が起こる道理があるかい、わからねえな、肝の臓だ」
「おつね[#「つね」に傍点]が「ああそうですか」といった。夜具を敷き終ったおとわ[#「とわ」に傍点]が、口を手で押えて忍び笑いをし、実はそれをしおに、話したいことがあるんだが、といいだした。するとおとわ[#「とわ」に傍点]は、急にまた躯を固くし、ええとうなずきながら、「でもそれは、この次にうかがいますわ」と囁くようにいった。
「じゃあ次にしよう」と彼もうなずいた、「――怒ってるじゃないだろうな」
おとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振った。
「じゃあこの次に」と彼は念を押すようにいった、「きっとだよ」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はうなずいた。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
次の上りで、実が相田屋へ来たのは、午《ひる》ちょっと過ぎたじぶんであった。こんどはおとわ[#「とわ」に傍点]がすぐに出て来た。実はまた気があがってい、おとわ[#「とわ」に傍点]も赤い顔で、まともに彼が見られないようであった。
「こんどは十日ぎりの早で、すぐに立たなければならないんだ」と彼は云った、「いや、草鞋はぬがない、午飯を喰べて、ひと休みするだけなんだ」そして彼は声をひそめて、すばやく云った、「話は帰りにするよ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は黙ってうなずいた。
実は四日めに戻って来た。宵の七時ころで、おとわ[#「とわ」に傍点]が洗足を取り、部屋へ案内した。その夜は客がいっぱいで、隣りにも二人|伴《づ》れが酒を飲んでおり、酔った声でなにか云いあっているのが聞えた。――実が風呂から出て、支度をしてある食膳の脇に坐ると、まもなくおせき[#「せき」に傍点]が来て障子をあけた。
「お疲れさま」とおせき[#「せき」に傍点]が廊下に立ったままで云った、「あたしは坐っちゃあいられないの、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんがすぐ来るわ」
実は手拭で衿首《えりくび》を拭きながら、まぶしそうな眼つきでおせき[#「せき」に傍点]を見た。
「実さん、話は明日にしてちょうだい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「明日おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんが出られるようにするから、外で逢ってゆっくり話すといいわ、もちろん、あんたに暇があればだけれど」
「暇はある」と彼が答えた、「そのために一日分だけ詰めて来たんだ」
「いいわ、じゃあ高岩の弁天様で待つことにしましょう、知ってるわね」
実は首を振った。
「鉄炮《てっぽう》場の上《かみ》よ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「新町で訊けばわかるわ、川っぷちの静かなところで、あんまり人も来ないから、話すにはちょうどいいと思うの、そこで待っていてちょうだい」
時刻は朝の十時、とおせき[#「せき」に傍点]が云った。実は「わかった」とうなずいた。おせき[#「せき」に傍点]はじっと彼の眼をみつめ、ふと微笑しながら、声をひそめて云った。
「しっかりやるのよ」
実は赤くなって、眼をそむけた。
おせき[#「せき」に傍点]が去り、おとわ[#「とわ」に傍点]が来た。待ち合せのことは聞いているのだろうが、おとわ[#「とわ」に傍点]はそんなけぶりはみせなかったし、実もなにも云わなかった。二人はこのまえよりもっと固くなり、実はそれをほぐすために、せかせかと盃をかさねた。
「あの竿《さお》池はおめえ、底が泥だぜ」と隣りでいっているのが聞えた、「おらあ砂地だとばかり思ってたんだが、じつは泥よ」
「そうかなあ、へええ」と伴れが答えた、「あの池がね、まさか泥とは、気がつかなかったなあ」
「うん、泥なんだ」と先の男がいった、「おらあてっきり砂地だと思ってたんだ、ところがおめえ、じつは底は泥なんだ」
実はふいに盃を置いた。その動作が突然だったので、おとわ[#「とわ」に傍点]はびくっと身を反らせた。実は立ちあがって、片づけてある物をひろげ、腰掛の中から紙包を取出すと、膳の前へ戻って坐りながら、おとわ[#「とわ」に傍点]の前へそれを置いた。
「つまらねえ物だが」と彼がてれたように云った、「気にいったら取っといてくれ」
おとわ[#「とわ」に傍点]は包んである紙をひらいてみた。すると小さな桐の箱があらわれ、その蓋に「古梅園」と書いた、短冊《たんざく》形の紙が斜めにはってあった。その字が読めたのだろうか、おとわ[#「とわ」に傍点]は珍しく、いかにも嬉しそうに微笑し、それを両手で持って胸へ押しつけた。
「古梅園の紅ね、うれしいわ」
実はてれた顔になり、「なに、つまらねえ」などと云いながら盃を持った。二本めの酒が終っても、口のほぐれるほど酔うけしきがなかったし、明日という約束があるので、実は飯にした。
「あの竿池がね、知らなかったなあ」と隣りではまだ話していた、「あの池の底が泥だとはさ、そいつはまったく気がつかなかったよ」
「泥なんだ、うん」ともう一人が云った、「どうしたって砂地としきゃ思えねえが、あれで底は泥なんだから」
実が寝てからも、その話は続いていた。竿池の底が砂地でなくて泥だ、ということが、二人のあいだで限りもなく繰り返され、実はこちらで、それを聞きながら眠ったようであった。
明くる朝、彼はおそく相田屋を立った。――九時まえだろうか、教えられたとおり新町で人に訊いて、約束の場所へいった。そこは田圃《たんぼ》のまん中で、萱生川に面しており、対岸には樹の茂った小高い丘があった。高岩弁天は小さな社で、松林に囲まれており、そこから川の岸までは、草の伸びた空地がひろがっていた。
古びた社殿をひとまわりしてから、実は空地のほうへ出てゆき、川の見えるところで、草の上へ張籠をおろし、自分もその脇へ腰をおろした。彼は両手で膝《ひざ》を抱え、眼を細めながら、対岸の松の茂っている丘を眺めやった。おとわ[#「とわ」に傍点]の来るまで、実はその恰好のまま動かずにいた。――おとわ[#「とわ」に傍点]は静かに来た。草履をはいているので、足音は聞えなったし、そばへ近よっても、すぐには声がかけられなかった。
「おそくなってごめんなさい」とようやくおとわ[#「とわ」に傍点]がいった。
「実はその声で初めて気づき、振返って、「ああ」といった。おとわ[#「とわ」に傍点]は小さな風呂敷包を抱えてい、硬ばった顔で微笑した。実はまわりを見まわして、草の茂っている処《ところ》をさした。
「なにか敷こうか」
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振り、そこへ横坐りになりながら云った、「おせき[#「せき」に傍点]姐さんに、お使いを頼まれて来ましたの」
「長くはいられないんだな」
「ええ、いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はまたかぶりを振った、「姐さんがうまく云って下さるそうですから」
実はうなずいて、そのまま黙り込んだ。おとわ[#「とわ」に傍点]は包を片手で膝の上に抱え、片手を伸ばして、草を摘み取った。
「あかまんまだわ」とおとわ[#「とわ」に傍点]は口の中で呟いた。
「おれは来年の秋に店を出す」と実がやがて口をきった、「いまいる島十というのは、伯父がやっているんだ、店は浅草の森田町にあるんだが、その伯父の世話で、来年の秋には店を出すことになっているんだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]はそっとうなずいた。実はそこで話を区切り、うっ向いて、草をむしりながら、暫くのあいだ云いよどんでいた。
「あの晩は」と実が云いだした、「あの初めての晩、おれは本気だったんだぜ」
おとわ[#「とわ」に傍点]が身を固くした。
「はいって来たおめえを見たとき、おれは古くから知っていたような、古い馴染のような気がして、どきっとした、その、どきっとした気持は、初めて会ったんだとわかってからも消えなかったし、いまでもこの胸の奥に残ってる」と彼は俯向いたままで云った、「――夜なかにあんな、むりなことをしたのは悪かった、けれども、決して出来ごころや、浮気じゃあなかった、おれは本気だったんだ」
おとわ[#「とわ」に傍点]が「ええ」と云った。よくわかっているという意味が、かなりはっきり感じられるこわ音であった。
「おれは一人だ」と実はまた暫くまをおいて続けた、「ふた親もなしきょうだいもない、近い親類は島十の伯父一家だけだし、それも来年の秋に店を出せば、そううるさくつきあうこともない、だから、しょうばいのほかのことで、苦労するようなことはないと思うんだが、おめえ、嫁に来てもらえねえだろうか」
実は頸《くび》から赤くなり、耳のところまで赤くなった。
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あたし、そのつもりでした」
実はこっくりとうなずき、夢中で草をむしりながら、次に云う言葉を捜していた。そして、やがておとわ[#「とわ」に傍点]のほうを見て訊いた。
「おめえ、うちのほうはどうなんだ」
「なんにも心配はありません」
「おれはなんとでもするぜ」と実は熱心に云った、「おれには親きょうだいがないんだから、そっちの事情によっては仕送りもしようし、おれに出来ることで必要なことなら、なんとでもするから話してみてくれ」
「そんな心配はないんです」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あたしも身一つなんですから」
「本当だな、隠してるんじゃないだろうな」
おとわ[#「とわ」に傍点]が実に振向いた、「どうしてそんなことを仰しゃるの」
「初めになにもかもはっきりしておきたいんだ」
「あたしのほうははっきりしています」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「あなたが来いと仰しゃれば、その日すぐにでも、いっしょにゆけます」
実はうなずいた。もう話すことはない、彼はなにかほかに云っておくことがあるかと、暫く考えていて、それから云った。
「来年の秋までだけれど、いいな」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]が云った、「二年でも三年でも、――」
実は頭を垂れた。それは無言の礼のようにみえ、そのまま二人は黙ってしまった。どちらも話すことが胸にいっぱいで、しかも、どう話したらいいかわからないというようすであった。おとわ[#「とわ」に傍点]はさっき摘み取った草の花を、ぼんやりと眺めていて、それからかなり長く経ってから、ぽつんと云った。
「こういう草、江戸のほうにもあるかしら」
実は眼をあげて見た、「あるよ、江戸ではあかまんまっていうんだ」
「こっちでもそうよ、小さいじぶん、これでよくおまんまごとをして遊んだわ」
「江戸には花の白いのもある、それはしろまんまっていうんだ」と実が云った、「おれもよくおまんまごとのなかまに入れられて、むりやり旦那にされて困ったことがある」
「こわい旦那さまだったでしょうね」
「かみさん連中のほうがこわかったぜ」
「そうかしら」
短い沈黙ののちに、おとわ[#「とわ」に傍点]がくくと含み笑いを始めた。さも可笑《おか》しそうで、なかなか笑いが止らず、実はどうしたのかと、けげんそうな眼つきで振向いた。
「ごめんなさい」とおとわ[#「とわ」に傍点]が指で眼を押えながらいった、「あたしたち、ほかに話すことがないのかしらって思ったら、急に可笑しくなってしまって、――」
「まったくだ」と実は苦笑した、「おまんまごとの話をする場合じゃなかった」
おとわ[#「とわ」に傍点]は笑い続け、実もそれにさそわれたように、笑いながら張籠へ手をやった。
「そろそろでかけよう」と彼は云った、「おれはこのとおり、話の継ぎ穂ということもわからねえ人間だ、頼むよ」
「ええ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はうなずき、それから口の中で囁くように云った、「――あたしこそ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
冗談いっちゃいけないよ、あの子が女にちょっかいを出さないのは、女嫌いなんてきざなもんじゃない、浮気がいやで、本当の愛情が欲しいからなんだ。
あの子は七つの年に父親に死なれ、母親といっしょに伯父さんに引取られた。伯父さんは母親の兄さんで、そう、「島十」はその人の店なのさ。伯父さんはあの子を不憫《ふびん》がって、じつの子よりも可愛がったそうだけど、伯母という人はたいそうしっかり者だそうだし、五人も子供があるから、どうしたって実さんだけ別扱いにはできやしない。
おまけに、あの子が十一になると、母親も亡くなってしまい、こんどは伯母という人がはっきり口をきくようになった。あの子は子守りから薪割り、拭き掃除から洗濯までさせられたらしい。いっそ、他人のうちならいい、年季奉公ならべつだけれど、伯父|甥《おい》の仲でいて、奉公人同様に追いまわされるのは辛いよ、考えてみるだけだって辛いもんだ。
それでもあのとおり、実さんはまっすぐに育った。いじけたところやひがんだところはこれっぽっちもないし、そんな苦労をしたとは思えないほど、うぶで生一本じゃないの。
ただね、あの子はしんみな愛情というものを知らない。伯父さんのうちでした苦労は、かえってあの子の生れついた性分をよくしたといえるようだけれど、しんみの本当の愛情だけは足りなかった。
あたしにはそれがわかるんだ、あれだけ女たちに云いよられても、決して手を出さなかったのはそのためだと思う。あの子だって男だから、まさか女を知らないわけじゃないだろう、遊びぐらいしたことはあるに相違ないさ。でも据膳においそれと箸《はし》を出すような、けちなまねはしなかった。そんな摘み食いや浮気なんかに決して用はない、あの子の欲しいのは、本当の愛情なんだよ。
いいえ、わからない。それは知らないよ、ことによるともうみつけたかもしれない、そういう相手をみつけたとすれば、あの子はきっと、どうどうとやる。人にうしろ指をさされるようなことは決して、しゃあしないよ。いいともさ、あたしは賭《か》けてみせるよ。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
年が暮れ、年が明けた。実とおとわ[#「とわ」に傍点]の仲は誰にも気づかれなかったし、変ったことも起こらなかった。二月になったばかりのある日、実は夜の十時すぎになって、相田屋へ着いたことがある。彼は洗足をしながら、おとわ[#「とわ」に傍点]に云った。
「十日ぎりの早だが、詰めて来たから明日は四時でいいよ」
「御膳はあがりますか」
「酒を少し飲もう」と実が云った。
風呂はもう汚れていたので、おとわ[#「とわ」に傍点]が湯を取り、実はざっとほこりをながすだけで済ませた。裏は例によって、三味線や唄の声で賑やかだったが、こちらは泊り客も少ないとみえ、どの部屋もひっそりとしていた。おとわ[#「とわ」に傍点]が酒の支度をして来ると、実はそこへ反物を出していて、おとわ[#「とわ」に傍点]に渡した。それまでに着物地を二反、羽折地を二反貰っているので、おとわ[#「とわ」に傍点]は受取りながら当惑したような顔をした。
「どうしたんだ」と実が訊いた、「気にいらないのか」
おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑しながら首を振った、「そうじゃないんです、こんなにいただくと、人にみつかったとき困ると思って、――あたしこれまでいただいた分だけでも、隠すのに苦労しているんですよ」
実は腑《ふ》におちない顔つきで、黙っておとわ[#「とわ」に傍点]をみつめた、その視線に気づいたのであろう、おとわ[#「とわ」に傍点]は反物をそこへ置き、燗徳利をとって、酌をしながらいった。
「あなたが、来いと仰しゃるまで、あたしたちのことは誰にも知られたくないんです」
実は納得がいかなそうに訊いた、「知られてはぐあいの悪いことでもあるのか」
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]はかぶりを振り、羞《はにか》んで、眼を伏せながらいった、「二人のことは二人だけで大事にしていたいんです、縁もない人たちになにか云われたりすると、あたしたちだけの大事なものが、よごれてしまうような気がするんです」
実はうなずき、もういちどうなずいて云った、「わかった、じゃあこれは持って帰ろう」
「いいえ、それでは荷になるでしょうし、せっかく持って来て下すったんですからいただきますわ、でも、どうぞこれからはこういう心配はなさらないで下さい」
実は「うん」とうなずいた。
その夜、実は始めて酒を三本飲み、初めて酔った。自分でもわかるほど機嫌よく酔い、ひどく心がはずんだ。二人のことは二人だけで大切にしてゆこう、というおとわ[#「とわ」に傍点]の言葉がよほど胸にしみたらしい、おとわ[#「とわ」に傍点]を見る彼の眼は、うるんで、熱を帯び、口では云えない感動をあらわすかのように、幾たびも深い太息《といき》をもらした。
夜具を敷いてもらって横になったのは、もう十二時を過ぎたころで、別座敷の絃歌《げんか》の声も聞えなくなっていた。酔いざめの水を枕許に置き、行燈を暗くして、おとわ[#「とわ」に傍点]は出てゆこうとした。おやすみなさい、というおとわ[#「とわ」に傍点]の声を聞いて、実も「おやすみ」と答えながら、枕の上からおとわ[#「とわ」に傍点]を見た。おとわ[#「とわ」に傍点]はほほえんでみせた。自然にうかんだものではなく、彼に向ってほほえみかけるという感じだった。
実はおとわ[#「とわ」に傍点]のほうへ手を伸ばした。おとわ[#「とわ」に傍点]はそっとかぶりを振り、彼は手を引込めようとした。するとおとわ[#「とわ」に傍点]が膝ですりよって、彼の手を握った。おそれるように、そっと握った手はふるえていて、それが実の気持を激しく唆《そそ》った。
実は起きあがって抱こうとし、おとわ[#「とわ」に傍点]はそれを拒んだ。両手で実の腕をはらいのけ、おびえたように身をずらせ、実が戸惑った顔で腕をおろすと、こんどはおとわ[#「とわ」に傍点]が彼の膝へうつぶしてしまった。彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背へ手を置いた。
おとわ[#「とわ」に傍点]の躯は石のように固く、そしてはっはっと、苦しそうに荒い息をしながら、躯ぜんたいでふるえていた。
彼は眼をつむった。このぶきようなあらそいは、自分がもう一と押しするだけで片がつく。それはわかっているけれども、石のように固くなったおとわ[#「とわ」に傍点]の躯と、躯ぜんたいでふるえているのを知ると、彼にはそれ以上どうすることもできなかった。
「悪かった」と彼が囁いた、「ごめんよ」
「ごめんなさい」とおとわ[#「とわ」に傍点]がふるえながら囁き返した。実はうなずいて云った。「寝るから、いっておやすみ」
「ごめんなさい」ともういちどおとわ[#「とわ」に傍点]がささやいた、「怒らないでね」
「あやまるのはおれのほうだ、さあ、いっておやすみ」
彼はおとわ[#「とわ」に傍点]の背中をそっと押した。
初めて逢ったときに契ったことが、まるで現実のことではなかったように、その後は二人とも臆病になり、日の経つにしたがって、どちらも相手に遠慮ぶかくなった。惹《ひ》かれる気持はしだいに強くなるのに、手が触れてもびくっとし、顔が赤くなるというふうである。
こうして二月も過ぎ、三月になったが、このあいだに二度、いやなことを耳にした。いちどは、「紀梅」の友次郎にからかわれたのである。駿河《するが》の江尻の宿で、午の弁当をいっしょに喰べたのだが、そのとき友次郎はにやにや笑いながら、「いいのができたようだな」とあごをしゃくった。実は黙っていた。
「おめえほどの堅物でも、かなわねえことがあるんだな」と友次郎はいった、「しかし、気をつけたほうがいいぜ、海道筋には尻尾《しっぽ》の裂けたような狐が出るからな」
実が静かに振向いた、「狐がどうしたって」
「忘れずに眉毛を濡らしとけっていうことさ」
実はきっとした声で云った、「――狐たあ、だれのことだ」
友次郎は実の怒った眼にたじろいだ。
「だれだったって、おれは、ただ」
「だれが狐だっていうんだ」と実はひそめた声でたたみかけた、「そんなことを云う以上、相手がだれだかわかってるんだろう、云ってみろ、どこのだれなんだ」
「そう怒るなよ、こんなことでそうむきになるやつがあるかい」と友次郎が云った、「おめえには、うっかり冗談も云えねえんだから」
「いまのは冗談か」
「冗談だよ」と友次郎が苦笑した、「しかしさ、そう怒るところをみると、なにかあることはたしからしいな」
実はふきげんにそっぽを向いた。
「おめえ、語るにおちたぜ」と友次郎は巧者に話をそらした。
二度めは相田屋で泊った晩。隣りに客が二人はいって、酒を飲みながら女の話を始めたが、そのなかで、おとわ[#「とわ」に傍点]のことに触れるのを聞いた。かれらは女中や妓たちのことを無遠慮にしなさだめしたうえ、もっともいろごとに脆《もろ》いのは、「おとわ[#「とわ」に傍点]のような女だ」と云いだした。
「そいつは眼ちがいだな」と一人の客は反対した、「あんな沈んだような愁い顔の、あいそもろくさまいえないような女が、いろごとに脆いなんていうことはないよ」
「じゃあためしてみるさ」ともう一人がいった、「見かけのいろっぽい女より、ああいうしんとしたじみな女のほうが、かえってそのことにかけては達者なんだ、やってみろよ、黙ってつかまえれば文句なしだぜ」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
実はいやな気持になった。初めておとわ[#「とわ」に傍点]と逢ったときの、明けがたの出来事を思いだしたからである。
――黙ってつかまえれば文句なしだ。
かたちはそのとおりである。そうなるまえに、お互いの気持が深く通じあったことはたしかだが、そうなったかたちはその客の言葉どおりであった。
「ばかな」と実は強く首を振った、「それだから、どうだっていうんだ、おとわ[#「とわ」に傍点]が相手構わずそんなことをするとでも思うのか」
「おい」とまた彼は自分に云った、「おめえやきもちをやいてるらしいな、しっかりしろ」
四月にはいったある日、――実が昏れがたに相田屋へ着くと、おみよ[#「みよ」に傍点]が出て来て洗足をとった。彼はべつに気にもとめず、部屋へとおり、風呂へいった。しかし、食膳を持って来たのもおみよ[#「みよ」に傍点]だったので、おとわ[#「とわ」に傍点]はどうしたのか、と訊いてみた、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんでなくって、お気の毒さま」とおみよ[#「みよ」に傍点]はながし眼に彼を見た、「たまに一度ぐらいあたしだっていいでしょ、それとも、どうしてもおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんじゃなければいけないんですか」
「いいさ」と彼は云った、「おれはただ、どうしたのかと訊いただけだ」
「すなおね」とおみよ[#「みよ」に傍点]が笑った、「あの人、弟が病気だってうちへ帰ったのよ」
実は眼を細めておみよ[#「みよ」に傍点]を見た。
「病気じゃない、けがだわ」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「木から落ちたっていったかしら、お午まえに妹さんが迎えに来て、いっしょにでかけていったの、おそくとも明日は帰るでしょ」
「――妹や、弟が、あるのか」
「五人きょうだいよ、知らないの」とおみよ[#「みよ」に傍点]は云った、「おっ母さんにおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃん、その下に妹二人と、弟が二人いるんだって、あの人も考えてみればたいへんだわ」
実は眼をそらしながら訊いた、「うちはここから遠いのか」
「大平川の手前を北へのぼった、台仙寺っていうところですって、たしかその庄屋さまの地内にいるって聞きましたよ」おみよ[#「みよ」に傍点]は笑いながら云った、「みまいにいってあげるんでしょ」
「飯にしよう」
彼は立ってゆき、濡れ手拭を掛けて戻ると、すすまない手つきで箸をとった。
「その、――」と彼は茶碗を受取りながら、さりげない調子で訊いた、「その、おふくろさんと四人きょうだいの世帯を、全部ひとりで背負ってるのか」
「へんな噂もあるけれど」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「そんなこともないでしょ、おっ母さんや上の妹さんは賃仕事をしているらしいし、下の子たちだって使い走りぐらいするでしょ、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんひとりでなんて、とても背負いきれるもんじゃありませんよ」
「へんな噂があるって」
「やっかんで云うんでしょうけれどね、その庄屋さまがあの人に首ったけで、月づき貢いでいるとかなんとか、うるさいことを云う人があるんですよ」とおみよ[#「みよ」に傍点]が云った、「むろんあたしなんか、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんをそんな人だとは決して思やしませんけどね」
実は黙って、一杯だけ喰べて、箸を置いた。
「あら、もうあがらないんですか」
「お茶をくれ」と実が云った。
明くる朝、実は四時に相田屋を立った。そうして、それっきり、彼は相田屋へ姿をみせなくなった。
実は泊る宿場を変えて、その城下町は素通りをするようにした。予定が狂って、その城下で泊るときは、相田屋のある伝馬《てんま》町を避け、六地蔵町の、千ぐさ屋というのに宿を取った。――こうして四十日あまり経った。その年は五月になっても晴れ続きで、から梅雨になるらしいといわれていたが、下旬に近いある夜、千ぐさ屋に泊っている実のところへ、とつぜんおせき[#「せき」に傍点]があらわれた。
そのときは早ではなかった。宵の九時ごろに宿を取り、風呂をあびたり食事をしたりして、横になるとほどなく、階段をあがる足音がし、「八番だろう、わかってるよ」というおせき[#「せき」に傍点]の声が聞えた。荒い足音とその声とで、それがおせき[#「せき」に傍点]であり、酔っているということはすぐわかった。八番ということは、階段口の脇にある彼の部屋のことである。実はすばやく起きあがって、寝衣《ねまき》の衿《えり》をかき合せた。
おせき[#「せき」に傍点]は黙って、乱暴に障子をあけた。実は手を伸ばして、行燈を明るくした。おせき[#「せき」に傍点]はじっと彼を睨《にら》んでいて、それから階段のところへゆき、大きな声で女中を呼んだ。
「もと[#「もと」に傍点]ちゃんお酒をちょうだい、肴なんかいらないから、大きいのを三本ばかり持って来てよ、冷でもいいから早くね」
そして、戻って来て部屋へはいり、障子を閉めてぺたっと坐った。相当に酔っているのだろう、いつもとは違って顔色が蒼《あお》く、躯が不安定にぐらぐら揺れた。
「悪いいたずらをするやつがあるもんだ」とおせき[#「せき」に傍点]は云った、「それでも取りっ放しじゃなかったからまだしもだけれど、――おひやはないの、実さん」
「持って来させよう」
「それには及ばないよ、これから飲むんだから」と云って、おせき[#「せき」に傍点]は頭をがくっとさせた、「――おまえさんの泊る七番にあった鶴が、かえって来たのを知ってるかい」
実はその意味がすぐにはわからなかった。
「青銅《からがね》の鶴だよ、忘れたのかい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「縮緬《ちりめん》屋の重兵衛っていう客が持ってっちゃったんだ、このあいだ返して来たんで、またあの床間に置いてあるよ、――なぜこんなことを話すかわかるかい」
実は黙っていた。女中があがって来、声をかけて障子をあけた。
「お燗のついたのだけ持って来ました」と女中は燗徳利をのせた盆をそこへ置いた、「あとはついたらすぐに持って来ます」
「盃なんかじゃだめよ」とおせき[#「せき」に傍点]が乱暴に云った、「湯呑と、それからおひやをちょうだい」
もと[#「もと」に傍点]という女中が戻って来るまで、おせき[#「せき」に傍点]は黙って、ぐったりと頭を垂れていた。もと[#「もと」に傍点]が来ると手を振って追いたて、まず水差の口からじかに、喉《のど》を鳴らして水を飲んだ。
「さあ、――」とおせき[#「せき」に傍点]は燗徳利を取りながら云った、「云いたいことを聞こうじゃないの、いったいどういうわけなのさ」
実は腕組みをし、低い声で話しだした。
「聞えないよ」とおせき[#「せき」に傍点]が遮った、「もっとちゃんと、はっきりした声でいってちょうだい」
「おれは台仙寺へいったんだ」と彼は声を少し高めて続けた、「そして、みんな聞いたんだ、あれには母親があり、妹と弟が四人いて、そうして庄屋の持ち家に住んでるし、庄屋の世話になっている」
「おまけに庄屋が、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんを妾《めかけ》に欲しがっている、っていうんだろう」
実は首を振った、「妾じゃあない後妻だ、庄屋は五年まえかみさんに死なれて、そのあとへおとわ[#「とわ」に傍点]を欲しがっているということだ」
おせき[#「せき」に傍点]は「へえ」と云い、湯否に注いだ酒を呷《あお》った。
[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]
「へえ、そうかい」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「それだけのことであの子から逃げたのかい」
「初めにおれは訊いたんだ、嫁に来てもらうつもりだから訊いたんだ」と彼は吃《ども》りながら云った、「おれにできる限りのことはする、なにか困るような事情はないか、親きょうだいはどうだ、おれには親もきょうだいもないから、場合によったら引取ってもいいって、念を押して訊いたんだ、――おとわ[#「とわ」に傍点]は、なんにもないって云った、自分も一人ぼっちで、親きょうだいはない、身ひとつだからいつでもゆける、決してそんな心配はいらないって云ったんだ」
おせき[#「せき」に傍点]は黙って二杯めを飲んだ。
「――どうしてそんなことを云ったんだろう」とおせき[#「せき」に傍点]は首をかしげながら呟いた、「おかしな子だね、どうしてだろう」
「あいつは来る気はなかったんだ、それが台仙寺へいってみてわかった、これだけの事情があって、そこからぬけることはできゃあしない、おれといっしょになる気はなかったんだ」
「どうしてじかに話してみなかったの」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「あの子は実さんといっしょになるって云ったんでしょ」
「本当にその気なら嘘はつかないはずだ」
おせき[#「せき」に傍点]は三杯めを飲んだ。
「あの子はね、実さん」とおせき[#「せき」に傍点]は低い声で云った、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんは、庄屋へ後妻にゆくことになったんだよ」
実は黙っていた。
「あたしにはわかる、あの子はなに一つ云わない、悲しいようなそぶりもみせやしないけれど、どんなにあんたを想っていたか、あんたが来なくなってどんなに悲しがっていたか、あたしには切ないほどわかるんだ」とおせき[#「せき」に傍点]がのど声で云った、「あの子のうちはもとはよかった、田地も三十町歩くらいあったし、ほかに山も持っていたそうよ、あの子は読み書きもできるし、お茶や花もやり、琴も弾けるんだ、それを、父親という人が道楽者で、すっかり遣いはたしたうえ、四十まえの若さで卒中で死んだ、残ったのは借金ばかりで、おまけに去年の秋ぐちには自火を出して、家屋敷がすっかり灰になっちまった、――庄屋があの子を後妻に欲しいと云いだしたのは、そのときのことだっていうわ、でもあの子はそれをいやがって、相田屋へ奉公に来たのよ、もしも、……あの子がもしも後妻にゆくつもりだったら、女中奉公になんぞ来るわけがないじゃないの、そうじゃないの、実さん」
「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんが後妻にゆく気になったのは」とおせき[#「せき」に傍点]は続けた、「その気になったのは実さんのためよ、あんたが来なくなり、もう望みがないと思ったからよ、あたしにはそれがちゃんとわかるんだ、可哀そうだとは思わないの、実さん」
実はうつ向いて、腕組みをして、黙っていた。
「可哀そうとは思わないの」とおせき[#「せき」に傍点]が繰り返した、「この月いっぱいで、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはいってしまうのよ、それでもいいの」
実は黙っていて、やがていった、「おれにはもう、いうことはないよ」
「それっきり、――」とおせき[#「せき」に傍点]が云った。
実は黙ってうなずいた。
「じゃあ、あたしから頼むわ、いちどだけおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんと逢ってちょうだい」とおせき[#「せき」に傍点]がいった、「場所は高岩弁天、このまえのところよ、明日の朝七時にあの人を待たしとくわ」
実は「いやだ」と云った。
「あたしが頼んでもだめなの」
実は暫くしておせき[#「せき」に傍点]を見、「床間の鶴は返ったかもしれないが、――」しかしそこで彼は首を振った、自分の言葉をうち消すように首を振り、そして低い声で続けた、「おせき[#「せき」に傍点]さんには済まないが、おれはいやだ、おれは逢わない」
おせき[#「せき」に傍点]は黙って実の顔を見てい、それから燗徳利を取ったが、酒はもう湯呑の半分もなかった。
「もと[#「もと」に傍点]のやつ、あとを持って来ないつもりだな」とおせき[#「せき」に傍点]は呟いてその酒を飲み、実に向って「そうかい」といった、「それならそれでいいよ、あたしはおまえさんをみそくなっていたようだ、おまえさんにはじつがある、ほかの男たちとは違って、しんそこ情のある人だと思っていた、人にもそう云って自慢してたんだ、ばからしい、そんならそれでいいよ」
おせき[#「せき」に傍点]は立ちあがった。
「お邪魔さま、御馳走さまとは云わないよ」とおせき[#「せき」に傍点]は云った、「この酒の代は下で払ってゆくからね、あたしに学があれば云ってやりたいことがあるんだけれど、――ああくやしい」
おせき[#「せき」に傍点]はよろめきながら出ていった。
障子はあけたままで、階段をおりてゆき、女中たちになにかどなるのが聞えた。実は組んでいた腕をとき、立ちあがって障子を閉めた。そして、行燈を暗くしていると、また階段をどたどたと乱暴に登って来て、おせき[#「せき」に傍点]が障子をあけた。
「いうまいと思ったけれど」とおせき[#「せき」に傍点]はよろよろしながらいった、「どうしてもいわずにはいられないからいってしまう、実さん、おまえ初めてあの子と逢ったときのことを覚えているかい」
実は片膝をついたままうなずいた。
「けれども知らないだろう」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「あのときおとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんの下の物が、よごれていたのを、知らないだろう」
実は訝《いぶか》しそうな眼をした。
「あたしはこの眼で見たんだ」とおせき[#「せき」に傍点]が云った、「女の一生で初めての、それもたった一度しきゃないよごれなんだ、どういうことだか、わかるかい」
実の立てていた片膝がゆっくりとおり、彼は無表情に壁のほうを見た。
「おまえさんは来なさんな」とおせき[#「せき」に傍点]は調子を変えて云った、「あたしはあの子をやるよ、明日の朝の七時、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんを高岩の弁天様へやるよ、おまえさんは来なさんな」
おせき[#「せき」に傍点]は障子を静かに閉めて去った。
明くる朝の七時まえ、――実は高岩弁天の境内にいた。もう陽はかなり高く、松林の向う、萱生川の流れの上で、二羽の鵜《う》が水にもぐったり、舞い立ったりしていた。実は脇に張籠《はりご》を置き、松の幹によりかかって、その鵜のすることをぼんやり眺めていた。
「もう刻限だ」と彼は呟いた、「来やあしねえさ」
だがまもなく、人のけはいがするように思い、振向くと、おとわ[#「とわ」に傍点]がさっさっとした足どりで、こっちへ来るのが見えた。おとわ[#「とわ」に傍点]は硬ばった顔つきで、さっさっと、まっすぐにこちらへ来、実のそばへ来ると微笑した。
「また待って頂いたのね、ごめんなさい」
「ひと眼、逢いたかったんだ」と実はぎごちなく云った、「それに、訊きたいこともあったんで、それがもしなんなら」
「ええ、姐《ねえ》さんから聞きました」とおとわ[#「とわ」に傍点]がうなずいた、「親きょうだいのことで嘘をついたって、怒ってらっしゃることは聞きました、でもあたし、……嘘は云わなかったんですよ」
「嘘じゃなかったって」
「ええ、あのときは本当だったんです、あのときのあたしの気持には親もきょうだいもなかったんです、あなたといっしょになれるんなら、親きょうだいは棄ててもいいと思ったんです」と云っておとわ[#「とわ」に傍点]は微笑した、「――嘘をついたのでも隠したのでもなく、あたし本当の気持でそう云ったんです」
実は息を止めておとわ[#「とわ」に傍点]を見た、おとわ[#「とわ」に傍点]は微笑していた。実は止めた息をごく静かに吐き、それにつれて頭を垂れた。それから、頭を垂れたままで、「おれは」と云いかけたが、おとわ[#「とわ」に傍点]がそれを遮った。
「いまは違います」と彼女は云った、「いまのあたしには親きょうだいがあるし、義理も背負ってしまいました、いまはもう勝手なまねはできませんの、――どうしてかということは姐さんからお聞きになったと思います」
「金のことならおれが」と実が云いかけた。
「いいえ」とおとわ[#「とわ」に傍点]は強くかぶりを振って遮った、「お金や義理もありますけれど、あたしの気持がもう、そういうものからぬけだせなくなったんです、ごめんなさい、こんなこと云ってはいけないんでしょうけれど、嘘をついたと思われたままでは、どうしても気が済まなかったものですから」
「悪かった」
「いいえあやまってはいや、あやまってもらうことなんかありませんわ、ただわかって下さりさえすればいいんです」
実はほとんど聞きとれないほどの声で、「おれが悪かったよ」といった。
「ではあたし帰ります」とおとわ[#「とわ」に傍点]は彼からはなれた、「用をそのままにして来ましたから、これであたし失礼します」
実は頭を垂れたままでいた。
「さようなら」と云って、おとわ[#「とわ」に傍点]は歩きだし、もういちど明るい声で云った、「さようなら」
実は身動きもしなかった。
[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]
帰って来て、あの人は初めて泣いた。まだ寝ていたあたしのところへ来て、身もだえをして泣いたよ。それまでは泣くどころか、悲しそうな顔つきさえみせなかったのにね。
あたしは起きて話を聞いた。あの子はすっかり話したよ、あたしは聞いていて眼がさめた。まるで水でもあびたあとのようにさっぱりして、ふつか酔いもきれいにさめちまった。
それからあたしは云ってやった、「おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんいっておやり」ってさ、二人はいっしょになるのが本当だ、これからすぐに追っかけておいで、ってさ。
あの子は泣きながらかぶりを振った。本当にもうだめなのよ、姐さん、いまになってはどうにもならないってこと、姐さんにもわかるでしょって泣きながら云った。
それであたしは立ちあがって、鏡筥《かがみばこ》をあけて、鏡の下に入れておいた物を出して、あの子の前へ置いてやった。あかまんまさ、あの子が実さんと初めて弁天さまで逢って、帰ったときに持って来たんだ。あの子にはなんの気持もなかったんだろう。そこへ置いていったのを見て、あたしはそっと拾いあげた。二人が初めて逢引をして、おまんまごとの話をしたっていうのを聞いたら、自分の小さいころを思いだしたんだね、なつかしいような、切ないような気分になって、この中へしまって置いたのさ。
あの子はびっくりしたような眼で、あたしの顔を見あげた。あたしはいってやった、「あのときのあかまんまだよ、忘れたのかい」って。
あの子はぽかんと口をあけた、そこでまた、あたしは云ってやった、「あとのことはどうにでもなる、そのままでいいから追っかけておいで」って、「それであんたの一生がきまるんだよ」ってさ。え、ああ知ってるよ、お客の呼んでいることは知ってるよ、これだけ飲んだらゆくから待たしといて。大丈夫だってばさ、うるさいね。
うん、――あの子は、おとわ[#「とわ」に傍点]ちゃんはとびだしていった、ひと言「姐さん」と云ったきり、それこそ面もふらずという恰好でとびだしていったよ。いまでもそう思う、あのときあたしは、人の一生のきまるところを見たんだってね。
もちろん、うまくいってるさ、実さんが店を出してから、もうそこそこ一年になるだろう、ああ、そうだよ、いまやって来る福さんていうのが、実さんの店の人さ。それではひとつ、今夜の稼《かせ》ぎにかかろうかね。
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「週刊朝日別冊新緑読物号」
1957(昭和32)年4月
初出:「週刊朝日別冊新緑読物号」
1957(昭和32)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ