三番目のN/ああ鳴海探偵事務所 ◆gry038wOvE
ハードボイルダーは本来的には580km/hのスピードで走る事が出来るバイクであった。ただ、現状日本の道路でそれだけのスピードを出す事はできない為、左翔太郎も最高時速でハードボイルダーを走らせた事は風都内では殆どない。追跡、逃走、緊急時に限ってそれ以上の速度で走る必要があり、稀にスピードを早めさせて貰う事があるが、少なくとも「左翔太郎」の姿のままで60km/h以上出す事は滅多になかった。
今、この移り変わっていく港の景色をぼんやりと見つめながら、翔太郎はそんな普段の自車と比べた速度の低さを感じ取っていた。感じているのはおよそ30km/hの速度。非常にゆったりとしている。ダミードーパントとしての限界速度なのか、翔太郎を気遣った為なのかはわからない。理由を考えるほど頭は働かなかった。
レイジングハート・エクセリオンがダミーメモリで変身したこの贋作のハードボイルダーに今現在、翔太郎は載っている。彼女にガイアメモリの使用を注意する事もこの時はなかった。当然の指摘をする事さえ忘れるほど、彼の内心が一つの事に傾いていたのだ。
(フィリップ……)
亡き相棒の事であった。
一人の相棒の姿が黎明の空に蘇ってしまうのである。
海岸線の向こうには、まだまだ何も見えないが、だからこそ死者の国があってもおかしくないようで、あの向こうを目指したくなる。手が届かない遠い世界だ。
だが、本当に死人の顔をしているのは他でもない翔太郎だった。当分食べ物を受け付けそうにない渇いた唇は、舌で拭われる気配もなく、半開きの虚ろなまなざしは、どんな景色にも意識を傾けていないようにさえ見える。少し空いた口の中から、時折、バイクの揺れに従って小さな嗚咽が漏れるのが、辛うじて彼を生者にしていた。かつて、フィリップが一度いなくなり、あの長い一年が始まった時、彼は今と同じ顔を個室の鏡の前で見ていたはずだ。
今はサイドミラー越し、たまにそれと同じ物が見えている。
「……」
これでいよいよ、風都に帰る事が出来る仮面ライダーは、正真正銘一人になった。フィリップ、照井の二人の仮面ライダーは勿論、霧彦、冴子、井坂、大道、泉京水まで全員死んでしまった。
この場では、人数は時間が経過するごとに確かに減っていく。
合理性を考えるならば、──人間の命ひとつひとつは勿論、大切な物であるが、それ以上に──今の彼らはひとつの戦力という意味でも要される物であった。
主催者たる何者かは、もしかすれば今のガドル以上という事も充分にあり得る。
(勝てるのか……?)
翔太郎の頭には、ただ不安定で素朴な疑問。
バットショットは帰ってくるだろうか。
黒幕を倒したところで話は終わるのだろうか。
もっとたくさんの仲間がいても勝てなかった相手より遥かに強い主催者を打倒せるのか。
この物語で自分たちは自由と平和は掴みとれるのだろうか。
そして──
(俺はもう仮面ライダーにもなれないが、──どうすればいい)
ダブルドライバーは勿論、翔太郎の頭脳となるフィリップもいない、強化アイテムであるファングメモリもエクストリームメモリも破壊された、そして、利き腕を失った翔太郎は、これからもまともな行動にさえ支障を及ぼす。
更にそれだけではない。翔太郎は自分自身がそんな現実に打ちのめされて精神的まで萎縮している事をはっきり自覚していた。癪だが、それに抗う気力さえ無い事がそれを証明していた。たとえ今、仮に誰が何を言おうと、翔太郎の奥底にある力が覚醒する事はないだろうというほどに、彼の中が暗い靄が展開しているのだ。
到底、今の自分が戦える姿ではないのはわかっている。肉体的にも、頭脳的にも、精神的にも──それを認め切った時、彼の中に初めて、敗者の気分という物が舞い降りてきた。
これからどうするべきか、というのが彼の中でもわからなくなってくる。
あったはずの意志が小さくなっている──このままいけば完全になくなってしまうのは確かだ。
焦りはあるが、抗う気力がない。いっそ死者の方が百倍楽に、何も考えずいられる。
(今の俺には……何も)
左翔太郎という男が風都を守る事ができたのは、偏に仮面ライダーだったからである。
だが、仮面ライダーという存在を構成する為の諸要素が取り除かれた今、翔太郎は仮面ライダーではなく、ただの不慣れな障害初心者だ。この時もまた、右腕は頭の帽子が飛ばないように抑えようとしていた。
これでは、仮に精神的に落ち着きがあっても、一人の男としての活躍も望めない。
右腕がなければ敵の顔面にストレートパンチを叩き込む事もできず、当然仮面ライダーダブルや仮面ライダージョーカーに変身できてもまともな戦いができない。
自棄になって周囲に暴力を振るおうにも、右腕を振り降ろす事ができない。形のある空気が形のない空気を切るだけだった。
(──)
この鬱屈とした感情が発散しきれずに、一度は苛立ちが脳内を支配する。
殺し合い。
その言葉通り、いずれ自分は脱落し、この殺し合いの終わりさえ見えないまま仲間たちの所へ逝ってしまうようなビジョンが見え始めた。
しかし、それを抑え込むのにも疲れはじめ、だんだんと、彼は何も考えなくなり、また一段、気力を失っていく。
レイジングハート・エクセリオンも、普段口うるさい魔導輪もその時、口を開く事はなかった。
△
鳴海探偵事務所の中は、避難所と化していた。一人の男が起こした大火災で消えた街から、逃げるようにして生き延びた人間たちがそこで神妙な顔をしている。
椅子やソファの数もここにいる人の数を考えれば全く足らず、片足を楽に崩して床に立つ者もいる。例によって、気を使った花咲つぼみや高町ヴィヴィオが数分前までそうだったのだが、今は沖一也や石堀光彦がその役割を担っていた。当然、大の大人の男が女子二名の気遣いに甘んじるわけにもいかない。
事務所のデスクの椅子に躊躇なく座っているのが佐倉杏子だ。性格から来るある種の茶目っ気は、決してこの状況下で誰かを癒す事はなかった。
「さて、どうする」
翔太郎を待つ間、鳴海探偵事務所内にいる彼らは、今後の行動方針を話し合っていた。勿論、翔太郎が辛い境遇に立たされている事は理解しているが、今後についてはなるべく早く決めなければならない。ここで燻っていても時間ばかりが進み、一層不利になるだろう。
最終決戦は確かに近づいている。それに向けて、必要な準備を終えておき、最終決戦までの計画を立てておく。この島に残っている残りの問題も全て解決してから外に向かう予定である。
それはとうに決めていた。
チーム分けは四種類。
D-5エリアに向かうのは花咲つぼみチーム。──美樹さやかを救うという目的で。
図書館に向かうのは桃園ラブチーム。──巴マミを救うという目的で。
クリスタルステーションに向かうのは涼村暁チーム。──戦力増強の目的で。
ほか、なるべく翔太郎とともに待機する人間も数名欲しい。──休息場所や計画立案の目的で。
なるべく平等な戦力になるよう、13人を4つに分けるのである。基本的には本人の希望を叶えるように行動する事になる。ただ、やはり融通を利かせ合う必要もあり、あまりすぐには誰かが口を開く事はなかった。
少しだけ沈黙があった後、自然と誰かが口を開いた。
「おれはつぼみについていく。あかねさんも探さなきゃならねえし、動かねえわけには……」
「私はラブと行きます」
響良牙と蒼乃美希が言う。殆ど同時だった。彼らの場合は、おそらく親しい相手と同じルートを選ぶ事を考えたのだろう。良牙は、天道あかねを捜す目的がある以上、積極的に移動しなければならない。美希は一日かけて再会した友人と、これからしばらくは一緒にいたいのだ。そして、その選択による不都合は一切起こらないと判断した。
「俺は暁と行く。電力源は俺の手にあるしな」
暁の行く道には石堀光彦が続くようだ。一人が行けば、後は遠慮なく円滑に立候補が出る。
クリスタルステーションに行くのは、三体の超光騎士の為だ。だが、超光騎士を動かすには高圧電流によって、一度起動させる必要がある。石堀が変身する仮面ライダーアクセルのエレクトリックの力によってそれを可能とする。
他にも沖一也や響良牙などが電撃系の技を使う事ができるが、誰も挙げないならば早い内に安全なルートを目指したかったのだろう。だが、どうやら暁はそれでは不服なようだ。
「なんだよ、男と一緒かよ……」
「じゃあ、私も行きましょうか?」
更にそこに続こうとするのは、高町ヴィヴィオであった。
暁の言葉を真に受けたのだ。暁は残念ながらこの年代の少女に興味ナシという感じだが、不服な気分は少し和らいだ。多少雰囲気が和やかになると思ったのだろう、暁は彼女を歓迎するように能天気な笑顔を見せた。
おそらくレイジングハート・エクセリオンもこちらの道を選ぶだろう、という算段がすぐに暁の中で組みあがっていたのもこの笑顔を構成する一要因だ。
「私は──」
杏子は、こうして次々決まっていく中でも、まだ迷いがあった。
ラブとつぼみが行きたい場所は、実質「おめかしの魔女」や「人魚の魔女」の居場所だ。
その二体の魔女と杏子は知り合いだった。巴マミと美樹さやか──あの二人。
かつての魔法の師匠、巴マミ。
かつて対立した魔法少女、美樹さやか。
どちらに行くべきか──。二つの魔女を順に倒していく時間はない。
どちらにもそれぞれ、因縁があり、義理があり、未練がある。どちらかを選ぶという事は、どちらかを選ばないという事になってしまう。
桃園ラブ、花咲つぼみの二名も、おそらくは杏子が一緒に来てくれる前提で計画を立てている事だろう。どちらかを選ぶと同時に、そうでない方を裏切るのが「選択」なのだ。
悩んだ後で、杏子は言った。
「──悪い、つぼみ。私はラブと一緒に行く」
つぼみに謝りながら、杏子は自分が行く道を伝えた。このままマミと会った人間がいなければ当然、つぼみと一緒に行く予定だったが、ラブに会った今はそうもいかない。
しかし、つぼみは何となく察したのか、黙って頷いた。恨み顔をしているようにも見えるが、むしろ事情を解したうえで、自分自身で成し遂げようと言う決意ある顔だった。
自分自身で成し遂げる──あるいは、それも一つの正しい道だった。
杏子が来るか、来ないかという選択が、またこの先、運命を変えていってしまう事など、気づきもせず、ラブとつぼみは杏子の選択を歓迎した。
しかし──
「ねえ、きみは何でそう深刻そうに道を選んだのかな?」
零が首を傾げつつも、杏子の腹の内を探るように笑って訊いた。
杏子は、見透かされたような意思を感じ、一瞬で機嫌を損ねた。
「あ?」
眉間に皺を寄せて零の方を見る杏子に、零は相変わらず笑顔を崩さなかった。杏子にとっては、世界で最も邪悪な笑顔に見えるかもしれない。
重大な秘密を暴かれるのではないかという不安が杏子の脳裏を掠めた。
この男の髪先に視線を合わせると、零の方は強引に視線を合わせてくる。その視線をまた弾いた時、零は訊いた。
「二人がやりたい事って、結局何なんだ? 魔女を倒すって言ってるけど、今の様子だと、なんだか、只事じゃないね。……そっちの事情はずっと俺たちに黙っているつもりかな?」
この中で、杏子の隠している事を気にしているのは零だけのようだ。他の人間は問い詰める事もなく、零を止めるのでもなく、もしこれが機会になれば話してほしいとばかりに黙ってその様子を見つめていた。
「……」
「どう?」
零は、同じく秘密を抱えているだろうラブやつぼみにも視線を送ったが、それぞれ目を逸らした。
そんな様子を見て、零が、やれやれ、と嘆息しながら言った。
「……わかった。誰も答えないなら、俺もついていく事にしようかな」
何とかお茶を濁そうとする杏子に、零はそう勝手に決めた。
騒めくギャラリーを代表して、杏子が焦燥した様子で答える。
「はぁ!? ちょっと待てよ。時空魔法陣とかいう物の管理はあんたしかできねえんだろ!?」
「どうせ、行ける場所なんてもうそんなに残ってない。破壊された施設には時空魔法陣を発動できないんだ。たとえば、図書館の近くに行くにも、肝心の図書館、教会、風都タワーは全壊。更に言うなら、三人で行くには遠すぎる。村エリアにある車を使っていくのが一番の得策だから、運転できる人間が必要になる。きみたちは運転できる?」
佐倉杏子、桃園ラブ、蒼乃美希の三人だけで行くには、遠すぎるのだ。
村からそう遠くないD-5エリアや、時空魔法陣で移動できるクリスタルステーションはともかく、この距離の移動が徒歩であるのは難しい。
ましてや、女子中学生だけ三人というのは無理に決まっている。
「それなら、孤門さんをそちらに向かわせるべきです」
横から口を挟んだのはつぼみであった。
零は意表を突かれたようにそちらを見た。
「え?」
「涼邑さんは、私たちについてきてもらえませんか?」
「どうしてかな……」
零がそれを口にしながらも、なるほど、すぐに意図を理解した。
「……そうか。戦力バランスの問題か」
もし零が杏子についていくと、魔女を退治にしに行く二チームの戦力差が激しくなるのである。
ラブチームが、ラブ、美希、杏子、零。つぼみチームが、つぼみ、良牙、孤門。
「涼邑さんは杏子の意図がわからないみたいですけど、私についてくれば、杏子が何をしたいのかもわかります」
「だが、戦力バランスの沖さんを連れてくればいい」
「それも駄目なんです」
つぼみは、何となくこの場の様子を見て一也が一言も話さない意図も理解していた。
決して、他の人間に行き場を譲るつもりで黙っているわけではない。自ずと余り物になるこの「待機」という選択肢を考えているのだ。
それは、戦いたくないからでも、休みたいからでもなかった。
「だって、沖さんは、結城さんの腕を翔太郎さんに移植するつもりなんですから」
そう、左翔太郎の右腕が損失されたとしても、ここには丁度、おあつらえ向きの「右腕」が残っていた。誰もがその移植について一瞬考えただろう。ただ、それを口にしないのは、科学や医学に一切詳しくない人間には、それが現実性のある話なのかわからないからである。しかし、少なくとも科学の方面で一定の理解がある一也が思案しているという事は、アタッチメントの再移植は可能かもしれないという事だ。
「……その通りだ。しかし、実際に翔太郎くんの姿を見ない事にはどうにもならない。どのくらい損失したのかによって、アタッチメントを取り付けられるかどうかも変わる」
「……」
「ともかく、俺は向こうに着いたら、翔太郎くんの為に最善を尽くしてみるつもりだ」
机上に置いてある鋼の右腕を見つめながら、一也はそう言った。
零はそんな彼の様子を見て、考え直す事にした。杏子が隠しているらしい何かは、つぼみについていけばわかるという事である。それはおそらく間違いない。
戦力バランスを考えても、零が行くべき道は一つだろう。
「なるほど……。それじゃあ、仕方ないな。ほら」
零が魔戒剣を翻した。つぼみに向けて魔戒剣の柄を向け、つぼみに向けて押し出す。
咄嗟につぼみはその柄を掴む。どっしりとした重みのある鉛のような剣で、つぼみは思わず手を放してその剣を落としてしまった。音が鳴るも、地面から跳ね返る事もなく、重量級の物体が地面に落ちたのを感じさせた。
「あ、すみません……!」
慌ててつぼみはその剣を拾おうとするも、そのあまりの重量に、持ち上げる事ができなかった。その様子を見て、零は憂いの瞳で言った。
「やっぱり制限なんてかかっていなかったのか」
前に、ソウルメタルの重さについて結城丈二と語らった事がある。
あれは並の心の人間には持てない材質である。──いや、仮に常人の中でそこそこ精神の強い者でも、ソウルメタルを持ち上げる事は難しい。
しかし、結城は軽々と持ち上げた。それは、あの義手の力でもあり、結城のこれまでの仮面ライダーとしての長い戦いに依る所があったのだろう。
「こ、こんな重い剣で戦ってるんですか……」
「それはソウルメタルで作られた剣だ。心の持ちようで重さを変える。普通の人間じゃあ到底持てない。俺や鋼牙みたいに鍛えた人間じゃないとな」
「そ、そうなんですか」
「だが、結城さんはその右腕で確かに持ち上げて見せたんだ。きっとこれからも俺たちを助けてくれる。その右腕を絶対に無駄にするなよ」
一也は、その言葉に頑健な顔で頷いた。
△
(帰って来た……いや……)
左翔太郎は鳴海探偵事務所の前まで来ていた。
(違うな……)
鳴海探偵事務所という場所に辿り着いたとしても、それはただ彼を辛くするだけであった。眼前の「かもめビリヤード」という立札がこんなにも寂しく見えるのは、果たして何度目か。
鳴海壮吉が死んだ時も、フィリップが地球の記憶と同化して姿を現さなくなった時も、左翔太郎はこの看板を無意識的に見上げたかもしれない。いや、厳密には彼はその看板を見ようとして見ているのではなく、顔を上げると偶然視界に入ってしまうだけだったのだが。
「……はぁ」
吐息は溜息となった。
思わず、殺し合いの事を忘れてこの探偵事務所こそが自分の暮らした場所であるように感じて安心したが、その思いはすぐ、勝手に取り払われた。考え直してみれば、この鳴海探偵事務所は、これほど精巧に似せてあるというのに、全く別の物なのだ。
レイジングハートは、並んでいるバイクや自転車の横に自ずと駐車されたが、この事にも翔太郎は気づかなかった。自分が二輪車扱いで駐車されている事を言いだせず、仕方なく、ハードボイルダーの姿から再び元の姿に戻り、レイジングハートは翔太郎に訊いた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
レイジングハートの気遣いは翔太郎には無用だった。彼が精神的に成熟しているからではなく、どんな言葉や気遣いも耳にかからなくなるほど未熟だったからである。
横顔は何かに苛立っているように見えた。あまり話しかけて気分の良い相手ではなさそうだと、はっきりわかる。しかし、放っておいていいものか、それもわからずただただ言いようのない気まずさを感じていた。
「心配するな」
その言葉が、却って心配を煽る。全く、心配させない気のない「心配するな」の言葉であった。
「──」
その様子を見て、ザルバは意識的に口を閉ざした。翔太郎に対する失望があり、翔太郎に感じた共感やちょっとした思い出を口の中に仕舞い込むと、ザルバは暫くただの指輪になる事にした。
翔太郎が抱えているのは人間らしい弱さではあるが、戦士としてはあってはならない弱さである。きっと魔戒騎士には絶対になれない男だ。
翔太郎、レイジングハート、ザルバ──相棒を失った三人であるが、彼らは亡霊のようになりながらも半ば習慣的に事務所のドアへ向かっていく翔太郎の後を追った。
まだ雨音は鳴りやまず、彼らを濡らし続けていた。雨は布で厳重に止血されている翔太郎の腕にも沁みた。
△
丁度、午前4時ごろだろうか。
それぞれが落ち着いていたところに、左翔太郎は入って行った。
翔太郎は、ドアの向こうの芋洗い状態の事務所の様子に、どこか幻滅したような表情を見せた。フィリップや鳴海亜樹子はそこにはいない。賑やかよりも、もう少し空っぽの方が良い。ずぶぬれの翔太郎を迎えたのは、この戦いを終わらせるべく思索を巡らせている男女だ。──それが、残念に思えた。
眠りこけている者もいる。──いや、気を失っているのだろうか。
翔太郎も眠りたかった。
「翔太郎くん……」
入るや否や、誰もが驚愕した表情で翔太郎を見つめていた 。
隣にいるべき男がなく、そこにあるべき腕がなく、目は輝きを失い、雨に濡れたまま現れた翔太郎──その風貌は、つい数時間前まで笑い合っていた翔太郎とは別人だった。
気力そのものが抜け落ちているというか、まだ落ち着けないというか……誰もがその変貌を見抜いたのは言うまでもない。
気障な台詞ひとつ出てこず、歩く時のよろけた仕草も一目に格好悪い。
「よう……帰ったぜ……」
翔太郎は、強がるようにして言った。いつもなら、少しは軽い印象を与える工夫をするはずが、今日は全く無気力でそうした工夫さえ見せる様子がなかった。口から言葉を吐き出しただけで、意味を込めて伝えようとする言葉ではなかった。彼が歩けば、事務所の床は一瞬で水たまりを作る。自分の事務所だからどうでもいい、という感じだろう。
すぐにでも倒れてしまいそうな彼を、真後ろでレイジングハート・エクセリオンが支えた。思った以上に水を吸っている彼は、レイジングハートの腕にも重かった。
「……?」
レイジングハートの顔を見て、そこにいる誰もが不審げになった。
それが誰なのか、他の誰もが知らない。変身を解いた状態の彼女を見た者は誰もいなかったのだ。それに気づいて、慌ててレイジングハートは言う。
「そういえば、この姿では自己紹介をしていませんでしたね。私はレイジングハートです」
「あ、ああ……君が。こりゃあまた随分」
彼女はまだ、自分の姿をはっきりと鏡に映していなかった。鏡は事務所にいくらでもあるはずだ。後でどうにかしたい。
自分の姿を全く知らないままこんな自己紹介をするのも変だったが、それぞれ納得したようだった。
「……さて、翔太郎くん。これからチームを四つに分ける」
一也が口を開いている間に、つぼみが自分の座っていたソファをどいて、翔太郎に席を譲った。ソファが水を吸って、そこだけ少し濃く色を変えてしまう。
石堀がタオルを投げたが、翔太郎はそれを手に取らなかった。頭の上に不恰好に乗せられたタオルに触れる者は誰もない。だが、そのまま一也が続けた。
「F-5エリアに向かう花咲つぼみチーム、図書館に向かう桃園ラブチーム、クリスタルステーションに向かう涼村暁チーム、そして村エリアに留まる人間だ。……君は待機でいいか?」
翔太郎は、黙って首を縦に振った。
できるのならこの懐かしい事務所に留まりたいと思ったが、そうも行かないのが辛いところだ。辛うじて、そんな駄々をこねないほどには仮面ライダーの使命を抱いていた。
大人になった以上、どうしても出てくる癖だ。自分の我が儘を周囲には言えない。
「ああ、俺は待機でいい。……変身もできねえし、これじゃあ役に立たねえしな」
ただ、役立たずになってしまった自分を自嘲する言葉は自ずと吐き出された。
変身アイテム、相棒、腕を一片になくした翔太郎は、今後の戦闘で自分が役に立たない事を重々自覚し、それが周囲に迷惑をかける可能性まで見えているのだろう。
その反応は、一也の予想通りである。厳しい事を言うが、今の彼は周囲から見ても役立たずであった。だからこそ、「待機」という選択肢の中に最初から翔太郎を入れていたのだ。
「──ッ!」
奥で、杏子が奥歯を噛み、怒りの表情を見せたが、それを言葉にするのは誰もが控えた。こうも予想通りに動くほど底の浅い男だと、杏子は思っていなかっただろう。これまでの私淑の感情を裏切られたような、そんな気持ちだった。
勿論、そうして待機してくれていた方が都合の良い事は変わらない。しかし、怒りを抑えるのを必死にした。
電話越しに要件を伝えたあの時よりも、きっと様々な思い出を反芻した。あの時聞こえた喉から干からびたような声の主は、身も心も骨のようになっていた。それが怒りに繋がってくる。
そんな杏子の顔に気が付いたのは、ただ一人、蒼乃美希だけだった。
響良牙も、黙って翔太郎の顔を見て、舌打ちしたい衝動を抑え込んだ。
△
翔太郎は、そのすぐ後にはバスルームにいた。
この鳴海探偵事務所には、普段フィリップが住んでいた。トイレやバスルームもちゃんと設置されており、一応翔太郎もその場所は知っていた。
全身ずぶぬれ状態だった翔太郎は、自分の先ほどの疲れを洗い流していた。
右腕の先は布で覆われているが、この先を見ればおそらくは断面があるのだろう。このまま血を出さないよう、右腕を避けて冷水でシャワーを浴びた。
頭から被る冷水は、彼の頭の中身まで冷やしてくれる事はなかった。
(くそ……)
自分の無力が地面に幾重も叩きつけられているようだ。
鳴海探偵事務所内には、ちゃんと衣服も残されてあったが、どれも「右腕がある」と仮定したうえでのものだ。
中にはフィリップの服もあった。もう誰かが着る事はない。──以前も、そういえばそんな感慨とともにフィリップの服を漁った気がする。
「……っ」
こうして頭から水を被ると、やはり涙は流れてしまう。
隠す事ができる場所。男が一人でいられる場所。そこに立つと、やはりしばらく我慢していた物が再び流れ出てしまう。
「フィリップ……!」
翔太郎の嘆きの声がバスルームに響く。
大丈夫だ、ここには誰もいないはずだ。
『……おい』
しかし、バスルームの外の脱衣所から、靄がかかった声が聞こえた。
『あんたはもうこれ以上、戦う必要はないと思うぜ。後はおれたちに任せろ』
聞こえるのは、響良牙の声だ。
彼は、トイレに向かっていたはずが、どうやら全然見当違いの場所に来てしまったらしい。
しかし、一応脱衣所になっている場所に来たので、これを機会とばかりに服をデストロン戦闘員スーツから元の服へ着替えていた真っ最中だった。
着替え終わった後で、翔太郎の嗚咽と嘆きが聞こえてきたのだ。
良牙も本心ではない。
どこか苛立ちはある。しかし、それでも彼は、腕がない彼が戦う辛さや、友人を喪った翔太郎の悲しみを理解し、何とか汲んでやるつもりだった。
「……」
『ただ、一人機嫌を損ねてる奴がいる。……そいつには気をつけな』
そう気障に言い残して、良牙はその脱衣所から消えていった。
少し恥ずかしいところを見せてしまった気持ちで、翔太郎はしばらく黙っていた。
良牙は、その後、事務所の外で、慌てて良牙を探しに行ったつぼみによって保護された。
△
「さて、首輪は解除した。これで君ももっと自由に動けるよ」
沖一也が、レイジングハートに言った。彼は、鏡台の前でレイジングハートの首輪を解除したのだった。既に首輪解除はお手の物といった感じだろう。
しかし、レイジングハートは構わず、ずっと鏡台の方を見つめていた。
そこで、一也からはアクマロやノーザの話を聞いていた。いずれも、既に倒された事になっているらしい。
「ありがとう、ございます……」
初めて、はっきりと見た自分の顔立ちは、浮かない顔という他なかった。
目の前にある鏡台は、光を吸収してレイジングハート・エクセリオンの今の顔を見せてくれている。月下の湖で見た自分の姿よりも数段、はっきりとその憂いの瞳に色を灯していた。
生まれたての体であるゆえか、皺や浮腫みもなく、誰かに傷つけられる事もまだない可憐な姿をしているのだった。
鏡に映った自分の姿に、レイジングハートは特別歓喜するでもなく、「こういうものか」と受け入れていた。
上手に喜ぶ事もできず、安易に人前で喜べる状況でもなかった。
「うーん……」
真横で唸るのは高町ヴィヴィオである。脳内の混乱が拭い去れないようだ。額の冷や汗と苦笑いは何か言いたげだが、何も言えないから唸り声だけが漏れたのだ。
こうしてレイジングハートが非人から人間になったというのは、喜ばしい話なのか、否なのか。当人でさえ理解していないところに周囲がフォローできるわけもない。
彼女の唸り声が耳をすり抜けた後で、レイジングハートはおもむろに立ち上がった。
そして、そのまま彼女の瞳が見たのは、涼邑零であった。
「俺に用かい」
「ええ」
「バラゴの事だな」
「その通りです。私の前では、龍崎駆音という名前を使っていましたが」
当然ながら、零に対する用事はバラゴに関わる話である。
先ほどから魔戒騎士とレイジングハートの間で巻き起こっている認識の祖語に回答を求めたい所だったのだ。
いや、あくまで、もっと中立な観点から彼を知りたいだけだったのかもしれない。
「奴は俺の父を、妹を殺し、俺の家族を壊し……それから鋼牙の父親も殺した魔戒騎士だ。俺は、それ以上は知らない」
「……しかし、駆音は確かに私を庇って死にました。悪い人とは思えません」
レイジングハートの言葉に、零は眉を顰めた。まるで別人の話をしているような違和感を覚えたのだ。仇を擁護される事に腹が立たないのも、その違和感がストッパー代わりになっていたからであり、レイジングハートのバラゴ像がもう少しでも零の知るバラゴに近かったら、零は機嫌を損ねただろう。
当然ながら、零はバラゴのまっとうな人間の部分を一切知らない。何故闇に堕ちたのか、その経緯も何も知らない。だからこそ、零の中でのバラゴのイメージは邪悪な鎧の怪物と同義な物に成り果てていた。仇、以上の情報はない。
「でも、同じように、誰かを庇って死んだ人がこの場にいます。それは、冴島鋼牙です」
零が恨みの瞳でレイジングハートを凝視したのは、その言葉を聞いた時だった。零の表情には気づいたが、彼女は続ける。
「私の推測ですが、それが魔戒騎士の宿命なのでしょう。たとえ、あなたの言うように闇に堕ちたとしても、守るべき物がきっと彼にもあった」
「……俺の前でバラゴを擁護するな」
零を苛立たせる事になる決定打といえば、今の一言であった。
魔戒騎士というキーワードと同時に、バラゴと鋼牙を結び付けた今の一言が、零にとっては不愉快だったのだろう。
「──わかりました。いずれにせよ、本人はもういません。あなたにとって仇で、私にとって恩人である。しかし、私とあなたは、今は仲間である。それ以上の答えは出ないかもしれません」
これ以上バラゴの正体を掴もうとすればするほどに、きっと二人の間に生まれる溝は巨大になるだろう。その果てにバラゴがいかなる人物なのか浮かび上がる事もない。
このまま水を掛け合っても仕方のない話だと、早々に自己解釈を諦めた。
「ああ、俺はそれでいい。あんたがあいつをどう思おうが、俺には関係ないしな。それでも俺は憎み続ける。きっと」
「……」
「それでいいだろ。俺はバラゴは嫌いだが、あんたは好きだ。綺麗だぜ、あんた」
そう茶化すと、零は薄く笑ってそっぽを向いた。
これ以上の対話を拒否しているのをはっきりと示していた。
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最終更新:2014年07月21日 11:31