峰岡政本

峰岡政本(みねおかまさもと)〈1917年8月ー1984年1月〉は、共和党自由党所属の衆議院議員共和党政務調査会長、保守研のメンバー。

来歴

生い立ち

1917年8月、東京都出身。東京大学法学部卒業。1940年に高等文官試験行政科に合格して、衆議院事務局に入局。委員部、議事部で勤務を経験。1943年に召集を受けて、第3軍に従軍。樺太警備などに派遣された。
1945年12月に復員、終戦連絡事務局第3部物資調達班、第3部物資担当課長を経て、1948年3月に退官。同年4月より日本学術研究所(現・日本大学学術機構)に入所。渉外課主任として、政府各機関などとの交渉役を務める。1950年より日本大学大阪校学生部長、校務部長を歴任。

政界入り

1958年3月、日本大学大阪校を退職して、共和党の活動に参加。義弟(妹の旦那)の大友正孝が、共和党組織運動局長に就任した縁で、大阪選挙区からの出馬を打診される。党幹部との面談を重ね、大阪府旧1区の公認候補となる。1959年7月12日投開票を迎える、第19回衆議院総選挙にて選挙区中4位で初当選。以降6期連続当選。

当選後、大友正孝を推薦人として、保守研に参加。衆議院司法警察委員会農林委員会で国対族の議員として活躍。白石内閣(1966年4月)の商工政務次官黒田内閣(1967年4月)の農林政務次官を務める。1970年5月、選挙戦で生き残った中堅議員の一人として、これまで縁の遠かった政務調査会副会長に就任。党の政策議論の中心的な役割を果たし、特に警察法改正や航空法改正などの社会党懸案の検証などを担当した。1973年5月に総裁に就任した江藤隆一の派閥横断的人事の恩恵を受けて、昇格する形で政務調査会長に就任。1975年3月の臨時党大会「自由党への合流を容認」する立場から、政調会長演説を行った。

1975年4月以降、自由党所属となり、政策審議会長に迎えられる。政審副会長は、義弟の大友正孝が務めた。1977年6月に退任して、自由党子どもの権利特別委員長警察制度調査会長などを務めた。1979年12月に、地元選挙区である大阪での遊説中に倒れて救急搬送。翌選挙となった第25回衆議院総選挙へは出馬しない方針を発表して、事実上政界引退。1983年4月に芝の宮大坂病院の集中治療を受けたが回復せず、逝去。

子息

1952年に、大阪商人組合理事長・田部恵三の次女である「田部和香子」と見合い結婚。1957年に長男の峰岡晋作国策パルプ社長)、1959年に次男の峰岡忠一郎裁判官仙台高等裁判所長)がそれぞれ生まれる。

選挙歴

選挙 投開票 選挙区 所属 定数 順位
第19回衆議院総選挙 1959.7.12 41歳 旧大阪1区 共和党 9 4/12
第20回衆議院総選挙 1963.7.14 45歳 旧大阪1区 共和党 9 5/11
第21回衆議院総選挙 1966.4.24 48歳 旧大阪1区 共和党 9 6/18
第22回衆議院総選挙 1970.4.26 52歳 旧大阪1区 共和党 9 3/11
第23回衆議院総選挙 1973.9.16 56歳 旧大阪1区 共和党 9 2/16
第24回衆議院総選挙 1978.7.2 60歳 旧大阪1区 自由党 9 8/19
最終更新:2025年10月11日 10:30