イドラム動脈奪取戦(共立英語:Battle for Idram Artery)とは、
ロフィルナ王国東部のヴァルヘラ軍閥と北部のステラム・シュラスト軍閥が、補給路「イドラム動脈」の支配権を巡って繰り広げた戦闘である。
 
概要
 イドラム動脈奪取戦は、共立公暦1003年に
ロフィルナ王国東部と北部で発生した軍事衝突であり、
第三次ロフィルナ革命が混迷を深める中で展開した重要な局地戦である。この戦いの焦点は、ロフィルナ中部を横断する戦略的補給ルート「イドラム動脈」の支配権を巡る争いだった。東部のヴァルヘラ軍閥は、ティラスト派政権を率いる
レルナルト・ヴィ・コックスの要請の下、西部の革命記念都市グロノヴェイルへのレアメタルや弾薬の供給を維持し、ティラスト派の戦線を支える生命線を守ることを目指した。一方、北部のステラム・シュラスト軍閥は、第三勢力として連合軍やティラスト派から距離を置き、独自の自治体制を築くために補給路の掌握を企図。交易ルートの確保と鹵獲装備の蓄積を通じて、戦後の勢力拡大を見据えていた。
 
 戦闘の舞台となったのは、「イドラム動脈」沿いの険しい山岳地帯に位置する「ヴェルナト高地」である。この高地は岩だらけの尾根と深い森林に覆われ、補給路を見下ろす天然の要塞として知られていた。ヴァルヘラ軍閥は豊富な資源と組織力を活かし、最終的にステラム・シュラストを撃退して勝利を収めたが、その代償として大きな損害を被り、後の戦局に暗い影を落とした。この戦いは、共立公暦1004年に
オクシレイン大衆自由国軍が仕掛けた「
オペレーション・ボトルブレイク」で補給網が分断される遠因となり、ヴァルヘラの疲弊がティラスト派全体の崩壊を加速させる伏線となった。戦闘は数ヶ月の短期間で終結したが、その影響はロフィルナ中部の民間インフラに深刻な打撃を与え、避難民を生み出した。国際社会(連合軍)がまだ直接介入していない時期であったため、地方軍閥間の独立した動きが際立ち、革命の混沌を象徴する戦いとして歴史に刻まれた。
経緯
 イドラム動脈奪取戦は、共立公暦1003年の夏から秋にかけて、激しい攻防を経て進行した。以下に、その詳細な経緯を段階ごとに記述する。
開戦:ヴァルヘラの補給危機とステラム・シュラストの奇襲
 共立公暦1003年7月初旬、ヴァルヘラ軍閥は連合軍による
南部港湾の制圧で補給が逼迫し、西部のコックス軍から緊急要請を受けた。ヴァルヘラ州軍政府は、東部の鉱山地帯「テルミナス坑道」から採れたレアメタルをグロノヴェイルへ運ぶため、装甲トラックと軽戦車からなる輸送隊を編成した。「イドラム動脈」を経由し、ヴェルナト高地を通過する最短ルートを選択したが、急峻な崖と狭い峠道が特徴のこの道は、敵の待ち伏せに脆弱だった。時間的制約から他に選択肢がなかったため、この危険を承知で進路を決定した。一方、ステラム・シュラスト軍閥は、鹵獲した
heldoの無人偵察機を密かに運用し、ヴァルヘラの動きを事前に把握していた。7月15日深夜、ステラム・シュラストの遊撃隊が高地の森林に潜伏し、榴弾砲と携行式ロケットランチャーで輸送隊を急襲した。夜闇に響く砲声と共にトラックが爆発し、護衛の軽戦車は泥濘にはまって動けなくなった。ヴァルヘラ側は混乱に陥ったが、護衛隊長の冷静な指揮で反撃を開始。軽戦車の残存部隊が榴弾を撃ち込み、遊撃隊の前線を押し返すことに成功し、輸送隊の約半数が辛うじて脱出した。危機を脱したヴァルヘラは直ちに増援を要請し、予備部隊と装甲車両をヴェルナト高地へ急派。ステラム・シュラストは一部のレアメタルを鹵獲したが、全てを奪う前に撤退を余儀なくされた。
ヴェルナト高地の攻防
 7月下旬、戦闘はヴェルナト高地での本格的な陣地戦へと発展した。ステラム・シュラストは高地の北側斜面に防御線を構築し、鹵獲した
ユミル・イドゥアム連合帝国製の移動式ロケットランチャーを配備した。森林の奥深くに隠した拠点から、ヴァルヘラの進軍を牽制する態勢を整えた。対するヴァルヘラ軍閥は、
レルナルト・ヴィ・コックスの直属将軍であるガルム・ヴィ・テルスト(Garm vi Tersto)の指揮の下、高地の南斜面にトーチカを急造した。重機関銃と対戦車砲を配置し、装甲車両を盾にした強固な陣地を築いた。8月3日深夜、ヴァルヘラ軍は濃霧を利用して夜間攻撃を開始した。ガルム将軍は自ら先頭に立ち、装甲車両を率いて南側斜面を突破した。ステラム・シュラストのロケット攻撃で車両が炎上したが、ヴァルヘラの歩兵が森林に突入し、白兵戦で敵陣を切り崩した。ステラム・シュラストのゲリラ戦術は一時的にヴァルヘラを混乱させた。特に「
北の影」と呼ばれた匿名の指揮官は、岩場に隠れた狙撃手を操り、ヴァルヘラの前衛部隊に大きな損害を与えた。しかし、8月中旬に襲った豪雨が戦場を泥濘に変え、ステラム・シュラストの機動力が著しく低下した。ヴァルヘラは重火器の優位を活かし、高地の中央部に拠点を築いた。ガルム将軍は東側の尾根を迂回する大胆な作戦を展開し、ステラム・シュラストの補給路を遮断した。「
北の影」は部下と共に撤退を余儀なくされた。
ヴァルヘラの勝利と支配確立
 9月に入ると、ステラム・シュラストの補給が途絶え、兵士の士気が低下した。対してヴァルヘラは、東部の鉱山から追加の物資を調達し、装甲車両の補修を急いだ。9月7日、ガルム将軍は総攻撃を命令し、ヴァルヘラ軍は高地の北側まで進撃した。ステラム・シュラストの防御線は崩壊し、残存兵は北部へ逃亡した。9月12日、サンリクト公国の商人たちが「イドラム動脈」の交易再開を求め、両軍に停戦を仲介した。ステラム・シュラストは事実上の敗北を認め、ヴァルヘラがヴェルナト高地の支配を宣言した。戦場には焼け焦げたトラックの残骸や砕けたロケットランチャーが散乱し、勝利の代償として戦力が大きく削がれた。補給路は再開されたが、ステラム・シュラストのゲリラ残党は周辺の山岳地帯に潜伏し、輸送隊への散発的な襲撃を続けた。
影響
 ヴァルヘラ軍閥の勝利により、「イドラム動脈」を通じたレアメタルと弾薬の供給が一時的に安定し、西部グロノヴェイルの臨時兵器工場が再稼働した。ティラスト派は1003年秋から冬にかけて、連合軍の攻勢に対抗する装甲車両と無人ドローンの生産を増強でき、
コックス大宰相の指導力が再評価された。ガルム将軍は東部の英雄として称賛され、ヴァルヘラ州軍政府の戦略的価値と地位が高まった。しかし、ステラム・シュラストのゲリラ戦による損害は深刻で、戦力は人的・物的両面で疲弊した。特に装甲車両の半数が修復困難となり、兵士の士気も低下した。この疲弊が、翌年の「
オペレーション・ボトルブレイク」で
オクシレイン大衆自由国軍が補給網を分断する際、ヴァルヘラの抵抗力を著しく弱める要因となった。
 ヴェルナト高地周辺の農村は戦闘で壊滅し、焼け落ちた家屋や荒廃した田畑が広がった。住民が住処を失い、北部や中部へ避難した。イドラム動脈の一時的な不通は、食料や医薬品の輸送を阻害し、中部地域で飢餓と疫病が急増した。公式記録では、この期間に栄養失調や感染症で命を落とす者が続出し、難民キャンプでは避難民同士の衝突が絶えなかった。戦場に散乱した無人機や車両の残骸は、避難民による略奪の対象となり、武装した民間人が治安をさらに悪化させた。ヴァルヘラの勝利は東部住民に一時的な安心感を与え、ティラスト派への支持が若干回復したが、戦闘の苛烈さと民間人への影響から、ガルム将軍への批判も高まった。一方、ステラム・シュラスト支配地域では敗北が反ヴァルヘラ感情を煽り、北部住民の自治意識が強まった。アリウス公王の王党派は、この混乱に乗じて難民支援を展開し、中部での支持基盤を拡大する契機を得た。
 ステラム・シュラストは敗北したものの、一部の鹵獲装備とレアメタルを北部へ持ち帰り、山岳地帯でのゲリラ戦を継続した。鹵獲した移動式ロケットランチャーを分解し、自軍向けに改良した火砲を少数生産し、後の戦いで連合軍を悩ませる基盤を維持した。「
北の影」は北部で伝説化し、敗北をバネに勢力再編を急いだ。この戦闘でイドラム動脈の支配はヴァルヘラに傾いたものの、ステラム・シュラストの散発的な抵抗が続き、補給路の完全な安定化は実現しなかった。両勢力ともに後続の大規模戦闘への準備が遅れ、ヴァルヘラは補給路の防衛に兵力を割かざるを得ず、ステラム・シュラストは勢力の再編に時間を要した。戦闘による疲弊と東部の孤立感は解消せず、一部の指揮官がコックスに進言したが、強硬姿勢を崩さず、ヴァルヘラにさらなる動員を要求したため、内部の軋轢が潜在化した。
文明共立機構は、この混乱を注視し、介入の必要性を議論し始めたが、1003年時点では介入しておらず、地方軍閥間の緊張が持続した。歴史家はこの戦いを、「ヴァルヘラの最後の輝き」と呼び、後の敗北を予兆する転換点として位置づけた。
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最終更新:2025年10月13日 23:46