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第五次コルナンジェ攻防戦

概要

 第五次コルナンジェ攻防戦は、第三次ロフィルナ革命の後期に起こった市街戦である。
セトルラーム共立連邦を中核とする連合軍が河口の外港から攻め上がり、王都コルナンジェの段丘に並ぶ街区が戦場となった。
共立史では、王都の市街が連合軍の主攻の正面に据えられた最初の交戦に数えられる。

戦力

 連合軍の司令部が作戦の要に据えたのは、河口の入江に構えられた王都の外港であった。埠頭を握れば市街に向かう荷の流れを上流の側から順に断てると見積もられ、艦艇の封鎖線を内側に詰める手順が揚陸の日取りに先立って定められた。艀を用いる荷揚げは潮の高い時間に合わせて組まれたため、梯団の投入は一日に二度の枠へ割り振られた。段丘の階段状の地形は上空からの観測を阻み、航空隊の目標は高所に建つ構造物に定められている。政権軍の部隊が西部戦線の防戦に引き上げられた結果、王都の正面に立つ攻者は連合軍だけとなった。迎える側では、王都直轄司令官ガルヴェイン・ゾルドリックが段丘を上下の二段に割り、下段を消耗の場として明け渡す構想を4月の初めに固める。同じ時期、南部沿岸の戦線から退いたサンリクト公国元帥ヴェイル・グラウストラが、陸路を北上して王都に入った。重い装備の大半は南部の街道に残されており、連れ帰った将兵は小火器を手にしたまま段丘の宿営に収められる。アリウス公王は臨時政府の名で布告を出し、元帥とユリーベル公国の派遣部隊を一つの連合部隊にまとめた。作戦の判断は司令官府に残され、元帥は両公国の将兵を率いる指揮官として、その系統の内側に置かれた。段丘の地下に伸びる下水の経路は民主革命ロフィルナ軍が握っており、同軍は王党派の側にも連合軍の側にも与しない立場を通した。上流の街区へ運ばれる荷は前年から同軍の襲撃を受け続けており、司令官府は渡し場の護衛に人員を割いている。

経過

 共立公暦1007年の交戦は24日に及び、4月10日の揚陸から5月3日の打ち切りまでが一続きの局面をなす。

入江
 4月10日の払暁、連合軍は封鎖線を入江の内側まで詰め、外港の埠頭に先遣の梯団を上げた。航空隊は荷役の軌道と起重機を叩き、水面に係留された艀にも機銃を浴びせている。直轄軍は上流側の水路に古い船体を沈め、艀の進める幅を段丘の手前で狭めた。埠頭の倉庫群では守備の一隊が壁の陰から射撃を続けたため、連合軍の前進は荷揚げ場の縁で足を止める。4月13日の夜半、ヴェイル・グラウストラは入江の東岸に将兵を回り込ませ、潮の引く時間を選んで揚陸中の梯団を横から突いた。艦砲が東岸の斜面を掃くと、公国の部隊は日の出までに段丘の上へ退く。同じ夜、下水の経路を伝った民主革命ロフィルナ軍の一隊が埠頭の背後に現れ、物資の集積に火を放った。焼き討ちは同軍の判断のみで決められており、司令官府が事態を掴んだのは翌朝の報せによる。4月16日、外港の全域が連合軍の手に落ち、沈められた船体の引き揚げが荷揚げの復旧の先に置かれた。

段丘
 4月17日、連合軍は水路の両岸から段丘の下段に取りつき、階段状に並ぶ街区の攻略に移った。上段の窓は下段の街路を見下ろす射線を守備の側に与えており、石段を上る隊列は踊り場ごとに足を止められたうえ、路地の奥から投げ落とされる爆薬にも隊形を崩された。ガルヴェインは4月19日に下段の区画を明け渡す判断を下し、戦列を上段の縁まで引き上げる。退いた住民が上流の高台に移った後、下段の街区は無人の瓦礫として双方の間に横たわった。連合軍は艀を直して弾薬を運び上げたものの、沈んだ船体が浅瀬を作り、荷は下段の岸で積み替えを重ねる。4月22日、航空隊は上段の高所に爆弾を落とし、燃え広がった火は夜半まで消えずに残った。4月26日、公国の将兵は石段を逆に降り、担ぎ上げられる途中の弾薬箱を奪い返している。

打切
 4月27日、連合軍の司令部は西方島への揚陸を優先する指令を受け取り、王都の正面から二つの梯団を船団に戻した。抜けた戦力の穴は航空隊の出撃で埋められ、段丘の上段には連日の爆弾が落ちる。4月29日、司令官府は下段の奪回を令し、中央の石段を元帥の率いる両公国の将兵が、東岸を直轄軍の一隊が受け持った。降りる隊列は路地の角ごとに小隊を残し、退路の確保を前進の条件に据えている。5月1日、下段の街区の半ばが王党派の手に戻り、連合軍は埠頭の一帯に戦線を縮めた。縮んだ戦線の内側では艀の往復が昼の時間に限られ、上げ切れなかった弾薬は埠頭の一角に積み残された。石段の下に取り残された小隊は、瓦礫の隙間に伏せたまま夜を待って岸へ戻る。共立機構国際平和維持軍は5月2日、入江の外周に監視の艇を並べ、埠頭を出入りする船の乗員を照合する措置に踏み切った。5月3日、連合軍は市街への攻勢を打ち切り、任務を外港の保持に切り替えた。

影響

 交戦の帰結は王都の水運の形に及び、王党派の指揮の系統にも組み替えを生んだ。

北岸
 24日の交戦で傷つき、あるいは命を落とした民間人は約30万人を数える。市街の七割は焼け跡に変わり、下段の街区では建物の骨組みだけが水面に影を落とした。外港の埠頭が連合軍の管理に移ったため、河口から上流までを一本で結んでいた水運は下段の岸で切り離される。上流の街区に届く荷は渡し場の艀へ載せ替えられ、丘陵の街道を回る車列が残りを運んだ。下段を離れた住民の多くは高台の裏手に移り住み、焼けた倉庫の跡地が仮の住まいの用地に充てられている。連合軍の駐屯地が置かれた埠頭では、上陸した部隊の糧食の一部が対岸に流れ、街区の市に並んだ。水面に沈んだ船体は交戦の後も残され、艀の航路は浅瀬を避けて東岸寄りに移される。

系統
 双方の軍人の死傷者は約60万人にのぼった。ヴェイル・グラウストラは戦後の帰属を含めた身の処し方をアリウス公王に預け、王党派の一員として王都に留まる。両公国の将兵は元帥の手元に一括され、司令官府の下す作戦の判断に従う形が交戦の後も続いた。欠員の補充は王都の内側から募られ、民主革命ロフィルナ軍は交戦の後も下水の経路を保ち、渡し場に集まる荷を襲う行動を再び始めた。司令官府は同軍との折衝を退け、渡河点の守備を上段の予備役から抜いて充てている。ガルヴェイン・ゾルドリックは戦列を上段に据えたまま、下段の瓦礫を前縁の監視の場として区画ごとに割り当てた。連合軍は王都の正面から抜いた梯団を西方島の沿岸に向かわせ、同年夏のグロノヴェイル包囲戦に主力を集める。ヴァンス・フリートン大統領は攻勢の打ち切りを作戦の順序の入れ替えとして国民に告げ、連邦議会では船団の往復に費やした日数が問われた。攻者の退いた圏域では、交戦の場が外港の周辺と入江の水域に移っている。

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歴史
最終更新:2026年08月23日 20:40