五ヶ瀬(ごかせ)はアキツ帝国海軍の防空巡洋艦。
元はウマムスタンとアキツの協定によりウマムスタンが所有するパールスの造船所で建造されたスルハンダリヤ型の一番艦であった。
元はウマムスタンとアキツの協定によりウマムスタンが所有するパールスの造船所で建造されたスルハンダリヤ型の一番艦であった。
基本情報 | |
建造所 | レッドゴッド造船バンダレ・アッバース造船所 |
運用者 | ウマムスタン海軍→大アキツ帝国海軍 |
艦種 | 防空巡洋艦 |
級名 | スルハンダリヤ |
建造費 | |
母港 | バンダレ・アッバース→ |
艦歴 | |
計画 | 1939年度海軍造船計画 |
起工 | |
進水 | |
竣工 | |
引き渡し | |
最期 | |
除籍 | |
要目 | |
基準排水量 | 7000t |
公試排水量 | |
満載排水量 | |
全長 | |
水長線 | |
速力 | 35ノット |
兵装 | 12.5cm連装両用砲9基18門 |
37mm4連装機関砲4基16門 | |
20mm連装機銃6基12門 | |
550mm 4連装魚雷発射管片舷1基合計8門 |
歴史
建造
五ヶ瀬、スルハンダリヤ級はウマムスタン海軍外洋艦隊の防空艦として設計された艦である。一番艦スルハンダリヤはアキツの③計画、ウマムスタンの1939年度海軍造船計画に基づき建造され、ブルンクルの護衛を任されることとなる。
ブルンクル、スルハンダリヤは他の駆逐艦を連れて同じ時期1940年10月に佐世保に入港、引き渡された。そしてブルンクルは天鸞に、スルハンダリヤも五ヶ瀬に、引率してきた駆逐艦もそれぞれ名前を改めて第二の艦生を受けることとなる。乗組員からの評価は天鸞と同様概ね好評であった。
第一段作戦(140-58〜)
基本天鸞(ブルンクル)を参照。あまり防空戦闘を行う機会はなかった。
ニューギニヤ沖追撃戦(夜戦)と栄光
陸攻部隊がダート海軍任務部隊の複数隻の重巡と駆逐艦に大打撃を与えたとの報を受け取った直後、天鸞の護衛に駆逐艦を二隻だけ残すとそれ以外の艦は艦隊から分離し、全力で任務部隊が存在する海域へ向かい始めていた。この時の水雷部隊の陣容は軽巡一隻(五ヶ瀬)と駆逐艦5隻である。
これらの艦隊は熾烈な猛爆撃を受けるもレキシントン沈没に燃えるダート海軍が意地を見せた戦いとなった。衆寡敵せず水雷戦隊は航空攻撃で大破していた重巡このニューギニヤ沖追撃戦の結果重巡サンフランシスコ、ミネアポリス、ペンサコーラ、駆逐艦7隻を撃沈する大戦果をあげたものの駆逐艦2隻大破、1隻中破、1隻死傷者が発生するなどの損害を受けた。
第一段階作戦から西方作戦
この時期に関しては天鸞の護衛をしており、西方作戦まで大きな出番はなかった。西方作戦中のサバン島沖海戦ではアルビオン軍の艦載機に対して対空戦闘を行うものの自艦、そして天鸞を守りきれず中破、兵装が損害を負った。
第二次ソロモン海戦
本海戦では雲鸞が合流した航空艦隊から離脱、囮役を担うこととなった龍驤艦隊の護衛艦として同行した。囮として同艦隊はサラトガ、エンタープライズ、ワスプの3隻から激しい攻撃を受けたが、龍驤の優れた回避行動と五ヶ瀬の猛烈というのもなまるぬるいであろう対空射撃(19機撃墜と当時なら一個艦隊の対空射撃に匹敵する戦果。雷撃、爆撃進路を邪魔され攻撃を外した機も相応に存在したと考えられる)により龍驤が小破するのみで第一次攻撃を乗り切ることに成功した。当初、最も有力な防空艦が引き抜かれることに難色を示したものの、五ヶ瀬艦長が「祥鳳を繰り返してはならない」と言ったことで説得され、最終的には快く送り出した天鸞艦長もこの知らせに「五ヶ瀬を送った甲斐があった」と喜んだという。
しかし、同時期にワスプがアキツ航空戦隊により壮絶に沈没しつつもダート海軍は再攻撃を開始、第二次攻撃隊が午後4〜5時にかけて攻撃を開始。この二度目の攻撃には流石に耐えきれず龍驤が被弾、魚雷一発の当たりどころが悪かったこともあり急速に傾き、午後6時には総員退艦命令が出された。五ヶ瀬も爆弾一発を喰らった。
大戦果の真相
上で述べたように19機撃墜とは本来一個艦隊の戦果に匹敵する大戦果である。(栗田艦隊が18機、水上特攻艦隊攻撃時に失われた航空機が故障含め13機、マリアナ沖における米艦隊の対空砲火の戦果がそもそも辿り着けたアキツ機が少ないという事情もあったが19機である。五ヶ瀬の戦果はこれらと同等である)この結果に両艦隊司令部が驚いた。ダート海軍もスルハンダリヤ級を注文している。また、この凄まじい対空能力にはアキツ海軍の高官達も注目し、五ヶ瀬艦長に聞き取りを行なったところ事実が浮かび上がった。
実は、この大戦果はとあるイレギュラーによるものであった。先のサバン島沖海戦で損傷しシンガプーラで修理中の五ヶ瀬の元に、あるウマムスタン人が訪ねてきた。その人こそウマムスタンおける兵器開発のメッカ、イルディリム設計局の創設者にして初代局長であった。1937年に戦車開発を手掛けてからしばらく遠ざかっていたものの、元々彼はスルビヤ人電気技師の高弟の一人、電気電子技術のエキスパートであり、初期の電波天文学においても功績を残していた。この頃には手が空いた途端にセンチメートル波レーダーを実用化し、更にそこから1年でマイクロ波レーダーを実用化していた。そこから戦車開発と並行して『イルベガン計画』の主要スタッフの一人として参加するなどしている。
彼がシンガプーラを訪れた理由は自身の研究成果の実証試験のため、『レーダー開発においてアキツのY博士とU博士の論文が大変に参考になったためその返礼』としてウマムスタンの最新式射撃管制装置、『マイクロ波レーダーを組み込んだ砲射撃指揮装置(Mk.37 GFCSからMk.56 GFCS)』をプレゼントしてその運用を五ヶ瀬に任せたいというものであった。天鸞艦長は困惑し、砲射撃指揮装置を前に暫く頭を悩ませたが、同期の蒼龍艦長を通じてアキツ海軍としては珍しくレーダーを関心を持っており、最終的には(好奇心に負けて)実戦での有効性を確認するために工員に改修を指示した。(なお当然ながら、上層部に話を通していない兵器の現地改修は違法行為である)装置を託した技師はそのままウマムスタンに蜻蛉返りした。
そのため、上述の五ヶ瀬艦長への聞き取りでこの違法な現地改修が発覚した際はちょっとした騒ぎとなったものの、違法だとは知らなかった五ヶ瀬艦長は不問に処され、天鸞艦長も今までの戦功から異動とはならず訓戒処分に留まった。また、これによりアキツ海軍の防空意識も改善され、今まで以上にレーダー技術及び対空射撃に関心を持つようになり、対航空機を意識した陣形を研究するようになった。また、ウマムスタン海軍に対しては軽巡五ヶ瀬に搭載されている砲射撃指揮装置あるいはそれに準ずる装置の輸出を打診したものの先述した通り、ウマムスタンの最先端技術であるため丁重に断られた。そのため、次善の策として二式二号電波探信儀一型の搭載や三式一号電波探信儀三型の採用を急ぐこととなった。
なお、この時に引き渡した砲射撃指揮装置の構成部品に当時のウマムスタンにおいて最新式の電気機械式アナログコンピュータが含まれていることが問題視され、初代局長は帰国直後に科学省から呼び出されたのだが、『来年には型落ちになるからまあ問題ないだろう』と言って、翌年の1943年にイルベガンを完成させたという。とんだ天災である。
そして、上で言ったように第二次ソロモン海戦の結果を受けダートもまたスルハンダリヤ級に興味をもち、ウマムスタンに発注をかけたのだがおそらくやってくるのはモンキーモデルである。ダートが激怒しないことを祈るばかりである。