天鸞(てんらん)はアキツ帝国海軍の航空母艦。元はウマムスタンとアキツの協定によりウマムスタンが所有するパールスの造船所で建造されたブルンクル級航空母艦の一番艦であった。
基本情報(140-38〜) | |
建造所 | レッドゴッド造船バンダレ・アッバース造船所 |
運用者 | ウマムスタン海軍→大アキツ帝国海軍 |
艦種 | 航空母艦 |
級名 | ブルンクル級 |
建造費 | |
母港 | バンダレ・アッバース→ |
艦歴 | |
計画 | 1939年度海軍造船計画 |
起工 | |
進水 | 1939年6月 |
竣工 | 1939年9月 |
引き渡し | 1940年10月 |
最期 | |
除籍 | |
要目 | |
基準排水量 | 22000t |
公試排水量 | |
満載排水量 | |
全長 | 231m |
歴史
建造(140-45〜)
1920年代、ウマムスタン海軍はカラート奪還後の外洋艦隊再建に向けた計画を練り始めていた。再建後の外洋艦隊のあり方については海軍内でも様々な意見があったが、海軍航空隊が力を持ち始める中で空母戦力に注目する者も多かった。その頃、ダート合衆国に駐在武官として派遣されていた海軍の〇〇はパーティーにてアキツ海軍の高官(山本五十六)と知り合いになった。共に航空主兵論者であった二人はダート合衆国での任期を終えても文通を続けていた。次世代の主戦力となるであろう航空母艦の試験の場を求めた〇〇はその伝手を使いアキツに航空母艦を割安で輸出し、内陸国となって久しいウマムスタンの艦艇が世界に通用することを確かめようとした。
アキツ海軍としても割安で空母を入手できるこの提案に興味を示し、軍縮条約からの脱退と共にウマムスタンと契約を結び、ブルンクル級空母一隻を調達することとなった。ブルンクルはアキツでは③計画に組み込まれ、ウマムスタンでは1939年度海軍造船計画で建造が決定された。1939年(昭和14年)9月、ブルンクルは第二次大戦が開戦するのとほぼ同時に就役したブルンクルはおよそ一年に及ぶウマムスタン海軍による試験と改良を経て1940年(昭和15年)10月にアキツ海軍に引き渡された。また、これに伴い艦名を「天鸞」と改めた。
アキツ海軍側からの評判は上々であった。元々バーラト洋で活動することが想定されていた外洋艦隊の試金石であった同艦はサイクロンやスコール、熱帯気候を想定した設計がなされていた。アイスクリーム(サンデー)製造機などの設備が整えられていたことも乗員たちからは好評であった。
第一段作戦(140-58〜)
天鸞を太平洋戦争(大東亜戦争)の第一段作戦でどこに用いるかについては連合艦隊司令部と軍令部で議論が交わされた。連合艦隊は真珠湾を一航戦、二航戦に天鸞、翔鶴、瑞鶴を加えた7隻の空母を以て全力攻撃することを主張したが、軍令部は南方作戦に用いることを主張していた。最終的に連合艦隊の強い要請、『あの国は天鸞が世界に通じるのかを不安に思っている。ならば、我等の手でやるしかないだろう』という山本長官の意見により10月19日、空母の全力使用が認められた。
天鸞航空隊の攻撃目標は艦艇、飛行場、並びに真珠湾の要塞砲群とされた。この時要塞砲群が目標とされた理由については謎が多い。連合艦隊の基本方針は「艦艇のみならず工廠、油槽もと欲張り、艦艇への攻撃が不十分となることを防ぐ」というものだった。その上ハワイ上陸、真珠湾制圧はすでに否定されており真珠湾要塞、要塞砲にさほどの価値はなかった。しかし天鸞にはこれと矛盾する指令が下されたことになる。一部の史家は要塞砲を無力化した上での戦艦隊突入による戦果の拡張を狙ったと主張するが、海軍は最初から戦艦隊の突入を断念しており、実際実行に移されなかった。また、ダート軍にアキツ軍の狙いをハワイ島上陸と誤認させることで艦隊の修復、新規建造を妨げる狙いがあったと主張する者もいるが、これも工廠への攻撃が計画すらされていなかったことから否定する意見も多い。ただし、開戦当初のダートの輸送・製造能力の限界からハワイ要塞の修復で時間を浪費させればどちらにせよ工廠での修復は困難であり、それで十分だと判断したという再反論も存在する。
天鸞は11月18日佐伯湾を離れ、艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入った。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね、一路ハワイ真珠湾へと向かった。12月8日、天鸞は他の空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)と共に真珠湾に対し2波にわたる攻撃を行った。この時天鸞航空隊は停泊中のダート艦隊に損害を与え、陸上で敵機122機を撃破したのみならず、共同戦果ではあるものの命令されていた真珠湾の露天砲台のほぼ全て(ダート海軍の報告書によれば「99%が破壊された」とされる)を破壊する大戦果を挙げる。
ウェーク島攻略
天鸞が所属する南雲機動艦隊はアキツ本土への帰路についた。この間、開戦と同時にウェーク島攻略に向かった攻略部隊は、ダート軍の反撃により予想外の被害(疾風、如月沈没)を出して撃退された。このため南雲機動部隊に上陸支援要請があり、第八戦隊の6隻(第八戦隊《利根、筑摩》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第17駆逐隊第1小隊《谷風、浦風》)、天鸞航空戦隊は南雲機動部隊から分離、12月18日より南洋部隊の指揮下に入った。別働隊は第六戦隊(第1小隊《青葉《旗艦》、加古》、第2小隊《衣笠、古鷹》)と合流したのち、12月21日、22日、23日の第二次ウェーク島攻略作戦に参加した。21日より天鸞は攻撃に参加し、ウェーク島とダート海兵隊を攻撃した。これ以降23日まで波状攻撃を繰り返し、多少の損害を受けるもダート軍に損害を与えた。天鸞ら航空戦隊の助けもあり23日にはアキツ軍の勝利を見届けてアキツ本土に梶を切った。
ニューギニア沖海戦
会敵まで
内地に到着した天鸞は随伴艦とともに補給と乗員たちの休息をとり、一月中頃には活動を再開した。任務は占領地域への輸送も兼ねた南洋の見回り、ダート海軍の反撃を警戒する役回りを命じられた。なお、反撃を警戒すると書くと重要そうな役割に思えるが、実際のところは派手な戦功を期待できない外れくじである。そのため、次こそは大物を沈めてみせると意気込んでいた乗組員は肩透かしを食らったような格好となったが、真珠湾攻撃成功を祝して振る舞われた甘味によって概ね不満は抑え込まれた。また、2月1日にギルバート諸島が有力な機動部隊から奇襲攻撃を受けたことで、乗員たちも警戒任務の重要性を認識。改めて訓練と任務に励むようになった。
一方1942年(昭和17年)2月中旬、南洋部隊は「米海軍機動部隊真珠湾出撃の模様」という情報を入手、2月18日(日本時間)0150、麾下部隊に警戒措置を執るよう下令した。 2月19日1335、トラック泊地より南東160浬に位置するモートロック諸島の見張所から「国籍不明の駆逐艦2隻発見」との報告を得る(米軍調査によると、該当駆逐艦なし。米軍機動部隊は該当報告位置から南東約530浬地点を行動中)。当時、南洋部隊(第四艦隊)の水上艦艇(鹿島、第六戦隊など)は大多数がトラック泊地にあり、空母祥鳳はパラオ方面に移動中だった。第十七飛行隊や第六戦隊の航空機は、敵艦を発見できなかった。だが、結果として駆逐艦発見の誤認が、アキツ海軍航空隊の先制攻撃に繋がった。
2月20日0615、艦載水上偵察機から「敵情得ず」の報告を受けた南洋部隊司令部は、陸上隊の索敵攻撃の待機を解く。だが南洋部隊航空部隊指揮官はすでに索敵攻撃を命じており、索敵機は発進した後だった。横浜海軍航空隊の飛行艇部隊はラバウルを拠点に広範囲の索敵を実施した。 また、近くに存在した天鸞も自ら偵察機を放った同日朝0830、哨戒中の天鸞の零式偵察機(第2号機。元はKar-20S)がダート艦隊を発見、空母1隻・巡洋艦4隻・駆逐艦10隻を報告した。その後、同機は14000mまで高度を上げ敵機の追跡を難なく振り切り、それどころか燃料が許すまで敵艦隊を追跡した。司令部は続いて別の飛行艇を向かわせるも消息を絶った。 米軍側記録によれば、2月20日1015にラバウル東方350浬地点で旗艦レキシントンはレーダーで機影を探知、F4Fワイルドキャット6機を向かわせた。ワイルドキャットはアキツ軍の四発飛行艇1機を撃墜、1機を撃退、単発艦上偵察機を取り逃がしたとした。サッチ隊長も出撃し、大艇1機を共同で撃墜している。
ニューギニア沖海戦
報告を受けた天鸞上からの指示を待たず2月20日即座に攻撃隊を発進、零戦12機、艦爆6機、艦攻12機が1330に米軍機動部隊に攻撃を加える。なお、命令自体は攻撃決定後一一〇〇に受領している。第一次攻撃隊は防御を固めた敵の防空網に阻まれ、敵に打撃を与えられずにいた。そんな中1415、陸攻隊17機が全機攻撃を開始。任務部隊はレーダーで基地航空隊の接近を探知しており、当然ながら迎撃することを試みた。が、これは不十分なものとなった。大物撃沈を狙う天鸞の航空隊が任務部隊の直掩機をしつこく追い回し、ようやく天鸞の航空隊が去ったものと見なして直掩機の交代を行っているタイミングでやってきたからである。
そのため、ラバウル基地航空隊の第2中隊9機は全滅させることが出来たものの、続く第1中隊8機に関しては直掩機の迎撃が間に合わなかった。結果、駆逐艦4 隻と重巡洋艦3隻が大破した。
ニューギニア沖第二波攻撃
一方天鸞の方は第一波攻撃隊を収容すると再攻撃を開始。零戦14機、艦爆12機、艦攻16機の部隊が第二波として米機動艦隊に襲いかかった。満身創痍の護衛艦隊に空母を守れるはずもなく魚雷3発、爆弾6発の命中を受け大爆発を起こし、急速に船体が左舷方向へ傾いた。18時30分頃には艦内の魚雷と爆弾が誘爆し、火災がどうにもならないとの報告を受けてレキシントン艦長は艦の放棄を決意。18時40分に総員退艦を令し、乗員が次々と脱出を始めた。
ここにレキシントンは世界初の空母戦で沈没した艦となり、同時に天鸞は世界で初めて空母戦で敵空母を撃沈した艦となった。レキシントン喪失を受けダート任務部隊は撤退を決断するが、すでに天鸞の護衛から離れた軽巡五ヶ瀬を中心とする水雷部隊が迫っていた。
ニューギニヤ沖追撃戦(夜戦)
先立って天鸞の護衛に駆逐艦二隻、分離していた五ヶ瀬は残りの五隻の駆逐艦を率いて米艦隊を追撃した。詳細は五ヶ瀬の項目を参照。この戦いで先の航空戦で大きく損傷した重巡洋艦3隻、駆逐艦7隻を撃沈した。しかし、激しい反撃により水雷戦隊側も駆逐艦2隻が大破、1隻中破、1隻が軽微な損傷を受けた。
関東沖海戦
ニューギニア沖海戦で天鸞麾下の艦隊は一定の損失を被った。アキツ本土に戻り、その修理と損傷した駆逐艦の入れ替えを行い、本土にそのまま待機することとなった。
しかし1942年4月18日、アキツ本土沿岸距離500浬地点から発艦したB-25爆撃機16機からなる編隊が東都に飛来した。これに対し、当時、横須賀に在泊していた天鸞は同じく内地在泊艦艇と共にダート機動部隊の捕捉・撃滅を命じられた。そして、外洋に出た天鸞や警戒部隊は4月20日夕刻頃に関東沖合のダート機動部隊を発見することに成功した。
4月20日夕刻頃、間もなく捜索を打ち切ろうとしたその時であった。空母二隻からなるダート機動部隊発見の報が天鸞艦橋に齎された。これに対し、天鸞は直ちに航空隊の出撃を命令、関東沖海戦が勃発した。
だが、発見時刻が夕刻であり、更にはダート機動部隊の位置がかなり遠くであったことから航空隊が機動部隊上空に着いた時には殆ど日が沈んでおり、空母の視認が困難であった。結局、この天鸞航空隊の戦果は空母小破という極僅かなものに留まった。
なお、この空母天鸞のダート機動部隊追撃に関してアキツ海軍上層部は天鸞航空隊に大きな損害が無かったことから「敢闘精神が足りん!!帝都を攻撃した鬼畜共を生かして帰すとは何事か!体当りしてでも沈めろ!」と艦長を厳しく叱責。
辛うじて更迭は免れたものの天鸞艦長の赤煉瓦からの評価は大きく下がった。
珊瑚海海戦とまさかの大戦果
軍令部と連合艦隊は天鸞艦隊の次の作戦目標に関して侃侃諤諤の議論を交えていた。すなわち、バーラト、北方、MI、南のどの作戦に投入するかである。最終的に天鸞は1942年4月24日に帝都空襲で共にダート海軍空母を追いかけた祥鳳とともに横須賀から出撃。4月29日、トラック泊地に到着し、第六戦隊と合流するとその翌日の4月30日には泊地から出撃し、MO攻略部隊MO主隊の一角としてツラギ攻略部隊の上陸支援を行うこととなった。
このMO作戦において天鸞は祥鳳からやや南東方向に先行する形で海域を突き進んでいたそのため、五航戦から突如飛び込んできた翔鶴の偵察機2機がダート機動部隊を発見したという報告(実際には油槽船と駆逐艦)に対しても機敏に反応することができ、直ちに真南へ航空隊を発艦させた。
そして、爆装した攻撃機部隊が南へ向けて飛行を続けていた時、ダート機動部隊が存在すると報告された位置よりも近い位置で複数条の航跡を認められた。それはまさに珊瑚海に進出したダート軍の空母機動部隊であった。
この時の空母機動部隊の陣容は空母2隻、重巡8隻、軽巡10隻、駆逐艦14隻というものであり、ポートモレスビー防衛に対するダート海軍の本気度が伺える。
だが、そんな虎の子の艦隊は不幸にも天鸞航空隊に見つかってしまった。既に発見した祥鳳に向けて攻撃隊を放っていて、直ぐには反撃を行うことは出来ない。かくして、ダート海軍空母機動部隊に攻撃隊が襲いかかる。
空襲の結果、天鸞航空隊はたちまちのうちに防空網を突破し、駆逐艦を殆ど無視して軽巡、重巡、空母と大物に殺到した。この時の攻撃により、重巡チェスターとアストリアはスクリューが破壊され、航行能力を喪失。また、アウストラリス海軍所属の軽巡ホバートは舵を破壊されたことでその場で旋回を続けるばかりとなった。
しかし、それ以外では駆逐艦2隻を中破、軽巡4隻を中破、重巡2隻を小破した程度で際立った戦果はなく肝心の航空母艦に対する攻撃に至っては至近弾と小破に留まった。また、この天鸞航空隊の攻撃と同時刻に天鸞の北西にいた祥鳳は猛烈な空襲に遭遇し、魚雷7本と爆弾13発を受け、大火災が発生。空襲開始から短時間で艦首から沈没し始め、アキツ海軍が喪失した最初の空母となった。
そして、祥鳳沈没の報を受け取った天鸞艦長は怒りに燃え、第二次攻撃隊の準備を整え始めたが、同時に航空隊からダート海軍機動部隊が西方へ急速に離脱しているとの報告を受け取った。
この時、ダート海軍機動部隊は先のニューギニア沖海戦で空母レキシントン他多数を沈めた悪魔如き天鸞の攻撃によって完全に恐慌状態となっており、続いて襲ってくるであろう五航戦の攻撃を避けるためにも継戦ではなく撤退を早々に決定。いわゆる、「Szégyen a futás, de hasznos.」である。
して、「逃げ恥」という格言の通り、ダート海軍機動部隊の形振り構わなさは凄まじかった。今後の反撃の要となるであろう航空母艦二隻を優先して逃すために乗組員だけ収容すると、航行能力を喪失したに等しい重巡チェスターとアストリア、軽巡ホバートを放棄した。
そして、これらの自沈処理を駆逐艦、更には付近の海域で潜航していた潜水艦に任せたのだが、これが裏目に出た。この時のダート海軍の潜水艦はMk.14という磁気信管と触接信管が両方装備された潜水艦用魚雷を使用していた。しかし、これらの信管には重大な欠陥があった。磁気信管は早期爆発を起こし、触接信管は若干強度不足で命中した角度によっては不発の可能性があったのだ。
結果、重巡チェスター、重巡アストリア、軽巡ホバートは駆逐艦の魚雷攻撃で破孔が生じ、浸水したものの最終処理を担当した潜水艦の魚雷が全て不発または早期爆発に終わったことで完全に沈没せず、海上を漂流する状態となった。
当然、天鸞部隊がこれを見逃すはずもなく、ダート海軍機動部隊が既に離脱していたこともあり、一日がかりで応急処置を施すと悠々と曳航し、付近の港に凱旋した。要するに、敵の巡洋艦隊一つを丸ごと鹵獲することに成功した
この大戦果により天鸞艦長には功二級金鵄勲章が贈られた。しかも叙勲は天鸞艦長が帝都に召喚され、皇主直々に行われた。叙勲後、天鸞艦長は皇主とともに東御苑の庭園を少し散歩しながら会話をしたという。この際艦長は皇主に戦争の趨勢を尋ねられ
「祥鳳を喪ったのは大きな痛手だが、きっとこれからどんどん主力艦を喪うことになる」
「捕虜から聞いた話だが、ダート合衆国は真珠湾の攻撃を騙し討ちとして復讐に燃えている」
「ダート海軍の防空網は強固。これからもっと手強くなって航空機を撃墜してくる」
などと話し、最終的に「最大限の努力は致しますが限界がある」と締めた
「捕虜から聞いた話だが、ダート合衆国は真珠湾の攻撃を騙し討ちとして復讐に燃えている」
「ダート海軍の防空網は強固。これからもっと手強くなって航空機を撃墜してくる」
などと話し、最終的に「最大限の努力は致しますが限界がある」と締めた
そして、話を一通り聞き終えた皇主陛下は「そうか……」と一言だけ漏らし、池の鯉をじっと見つめたと言われている。
西方作戦
珊瑚海で大戦果を上げた天鸞艦隊の次なる目標はバーラト洋であった。MI作戦、AL作戦、西方作戦のどれに投入するかは赤煉瓦でも意見の分かれるところであったが、最終的に「真に戦争の早期終了を狙うならバーラトを攻撃してウマムスタンの参戦を引き出すべき。急がば回れだ」と主張する西方作戦派の主張が通り、天鸞艦隊は西方作戦に投入されることとなった。珊瑚海海戦で五航戦が無傷であったことで西方に空母戦力を回しても何とかなるだろうという空気感があったこと、ヒマラヤを経由した援蒋ルートを潰したいという思惑もあった。
1942年5月中旬、トラック泊地を出発した艦隊は輸送船9隻を撃沈、5隻拿捕、潜水艦9隻を撃沈した。同時にチッタゴン、カルカッタ、マドラスなどの港湾都市を立て続けに爆撃した。特にカルカッタは連合軍陸軍部隊の物資集積地となっていたことから集中的に狙われ大きな被害を出した。南方部隊機動部隊が引き上げたという情報がアルビオン軍にも伝わっていたことで「現在、バーラト洋にアキツ空母は一隻も存在しない」とアルビオン将兵が思い込んでいたところに後方が爆撃された格好となったので心理的衝撃も凄まじかった。これに対してアルビオンは戦艦2隻(アイアンクラッド作戦に参加していた東洋艦隊のレゾリューション、ウォースパイトと思われる)、空母2隻(同じくフォーミダブル、インドミタブルだと思われる)を派遣してこれの迎撃に当たらせた。
その頃天鸞はアンダマン・ニコバル諸島で補給を受け、艦長や乗組員は拿捕した輸送艦に積んであったウイスキーを飲み、キャンディーを舐め、葉巻を吸うなどして海賊行為の成果を存分に満喫していた。そんな中天鸞にはミッドウェーでの敗戦の報がもたらされた。史実と異なり蒼龍艦長、第二航空戦隊司令官こそ生き残ったものの、この大損害を受けた赤煉瓦の命令により天鸞は太平洋に帰還することとなった。6月12日、天鸞艦隊はアンダマン・ニコバル諸島を出発したが、天鸞の迎撃に出ていた東洋艦隊に捕捉される。西方に東洋艦隊のフルマー艦載機を発見した天鸞艦隊もまた東洋艦隊に捕捉されたことを認識し、索敵を開始。両艦隊が攻撃隊を飛ばし、サバン島沖海戦が始まった。
先にアルビオン艦隊の攻撃隊が天鸞艦隊に到達。天鸞艦隊も迎撃機を飛ばし、防空巡洋艦五ヶ瀬を中心に対空砲火を浴びせるもののアルビオン攻撃隊の突破を許す。アルビオン海軍は戦前からウマムスタン連合共和国の動向を一挙手一投足まで監視しており、ウマムスタン海軍が外洋艦隊再建を狙って大アキツ皇国と接触していたことも当然知っていた。そして、アルビオンにおける最悪の事態、復活したウマムスタン外洋艦隊とのバーラト洋における戦闘を想定し、ブルンクル級空母、スルハンダリヤ級軽巡洋艦といった艦艇の情報を収集して対策を入念に練っていた。そして、アルビオン航空隊は事前の打ち合わせ通り、スルハンダリヤ級軽巡洋艦の機関砲と機銃の配置的に最も弾幕が薄くなる角度から海面ギリギリの超低高度で接近犠牲を覚悟の上で天鸞艦隊の防空網へ突入した。この攻撃により大型駆逐艦一隻、小型駆逐艦一隻が轟沈、大型駆逐艦一隻、小型駆逐艦一隻が中破した。また五ヶ瀬も砲塔が破壊され、天鸞も中破の損害を負った。
その頃天鸞の攻撃隊もアルビオン艦隊に到着したものの、先のセイロン沖海戦では南方部隊機動部隊相手に遅れを取ってしまったもののアルビオン海軍は馬鹿みたいな性能をしている数々のウマムスタン戦闘機を想定して対空装備を充実させていた結果、天鸞航空隊は防空網を完全に突破することが出来ず、攻撃は不十分なものに終わった。それでも魚雷を避けようとした駆逐艦が操艦を誤り戦艦の艦首に激突、戦艦が損傷した他衝突した駆逐艦が沈没するという被害を負わせた。
天鸞艦隊はそのまま損傷艦を連れて離脱、東洋艦隊も陸攻の攻撃圏内に入ることを嫌い追撃を切り上げた。こうしてサバン島沖海戦はアルビオン東洋艦隊の勝利という形で幕を閉じた。
編集者妄想
敗因は純粋に戦力に勝る東洋艦隊に主導権を与えてしまったことだろう。当初計画ではアルビオン艦隊を釣り出し、待ち構えて迎撃する予定であったが、ミッドウェーでの敗北の報により撤退する途中で敵の襲撃を許す形となった。天鸞航空隊はおよそ70機、東洋艦隊は機体性能において劣勢とはいえ90〜110機である。(下の両空母の記事を参照)また、シーファイアも艦上戦闘機としては航続距離に難ありだが、迎撃戦闘機としては優秀な部類であるため、これもまた攻撃隊が十分な成果をあげられなかった理由だと考えられる。
フォーミダブル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
インドミタブル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AB_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%80%E3%83%96%E3%83%AB_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
インドミタブル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9F%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AB_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
修理と第二次ソロモン海戦
ミッドウェー海戦、サバン島沖海戦の敗北を受け大本営・軍令部では史実と違い急遽戦訓研究会が開かれた。これには史実と違い生き残った第二航空戦隊司令官と蒼龍艦長が軍令部に怒鳴り込んだことの影響も大きいとされる。ここでは兵装転換の間の悪さ、空母の脆弱性、火災予防の強化及び消火訓練の必要性、警戒兵力の少なさ、効果的な防空網の形成方法、艦上機の全般の生産要求数の少なさゆえの補填の効かなさ、更にそれを上回る搭乗員の補填の効かなさなどが話し合われ、さらに戦線がそもそも広がり過ぎであるという認識を海軍としても持つことになった。ただし、流石に急速な方針転換は様々な観点から困難であるとされ、最終的に戦線の整理については棚上げされ、現状でも可能な戦術の見直し、航空機や対空装備の生産に関する追加指示や修正、搭乗員育成計画の拡大、対空を専門とする艦艇の設計指示、空母の人事配置の見直しなどに留まった。
その頃、天鸞と護衛艦たちはシンガプーラの工廠で修理を受けていた。まだ、ほぼ同時にブルンクル級航空母艦二番艦、雲鸞(ヤシルクル)がシンガプーラに到着していた。本来は天鸞に合流してバーラト洋で通商破壊を行う予定であったが、ミッドウェーの敗北によりその予定を中止、シンガプーラで立ち往生していた。そこに天鸞が入港したため、麾下の航空隊の合同訓練を行いつつ修理を待つこととした。
1942年8月、修理を完了した天鸞は雲鸞と共にガダルカナル島攻略を担う一木支隊支援のため第三艦隊に合流、第二次ソロモン海戦に参加した。この戦いでは翔鶴、瑞鶴からなる第一航空戦隊および同艦隊の雲鸞と共にワスプ、エンタープライズ、サラトガ攻撃に参加した。戦訓研究会の影響もあり史実のように一切打ち合わせをせず戦闘に突入するようなことはなく、空母同士の戦闘は囮役の龍驤を失いつつも比較的順調に進み、ワスプを撃沈、エンタープライズ、サラトガを中破させることに成功したものの、成果を出したのは主に瑞鶴隊であり大きな戦果は上げられなかった。
鸞輸送、再度のソロモン海戦
(天鸞、雲鸞で同様の内容)
陸奥を中心とした水上艦隊がヘンダーソン飛行場に突入、ダート軍に甚大な損害を負わせたもののダート軍の抵抗は激しくその後の陸軍による総攻撃は失敗した。これを受け大本営はガタルカナル島、引いてはヘンダーソン飛行場を制圧するために陸軍部隊増派を決定。約4000名をガタルカナル島へ送ることとなった。
陸奥を中心とした水上艦隊がヘンダーソン飛行場に突入、ダート軍に甚大な損害を負わせたもののダート軍の抵抗は激しくその後の陸軍による総攻撃は失敗した。これを受け大本営はガタルカナル島、引いてはヘンダーソン飛行場を制圧するために陸軍部隊増派を決定。約4000名をガタルカナル島へ送ることとなった。
輸送部隊護衛のため天鸞・雲鸞の二隻の空母が出撃することとなり、ガタルカナル島南東のエスピリトゥサント島から飛来する航空部隊の警戒を行いつつ輸送船団をガダルカナルまで到達させるものとした。第二次ソロモン海戦で低速の輸送船団が敵艦隊に発見されかけた反省から高速輸送船を用いた輸送も考えられたが、まだ数が少なく空母の護衛があれば問題ないだろうという判断で投入は見送られ、輸送船団は従来の低速輸送艦が使用されることとなった。輸送船の機関故障による立ち往生などのトラブルに見舞われながらも無事に9月18日早朝、ガタルカナル島にアキツ陸軍部隊約4000名が無傷で上陸した。少数ながら重火器を装備してた援軍を合わせて陸軍はヘンダーソン飛行場への総攻撃を開始、激戦の末にアキツ陸軍が勝利し、ダート海兵隊はテナルー川東岸への撤退を余儀なくされた。ここにヘンダーソン飛行場、ルンガ飛行場はアキツの支配下に戻ることとなった。
この頃、太平洋方面での損害を受けてダート海軍は練成を終えたばかりであったコンコード(ゾルクル)を太平洋に派遣、ホーネットともにソロモン方面に警戒のため進出していた。9月21日、ダート海兵隊の敗報を受け取ったダート海軍は直ちにヘンダーソン飛行場奪回及びアキツ空母撃破のため、空母ホーネットとコンコードを基幹とする艦隊をガタルカナル島沖に進出させることを決定。ここに再びソロモン海戦が勃発した。
艦載機同士の戦いはお互いに決定打を欠いた。あくまで輸送支援任務のためにソロモンに赴いていた天鸞・雲鸞艦隊は主に戦闘機を搭載しており、隙のない防空網でダート航空隊を寄せ付けなかった。第一次攻撃は二つの空母を同時攻撃、二次では天鸞を集中的に攻撃するなど戦術を変えたものの決定打にはならなかった。それはダート艦隊を狙ったアキツ艦隊も同じであり、攻撃機が少なかったアキツ軍もダート艦隊に有効打を与えることができず、13時にお互いを発見して始まった海戦は未だお互いに特に損害を与えることなく続いていた。