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みんなの新武将/モンゴル - (2019/06/23 (日) 01:35:47) の1つ前との変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*モンゴル
モンゴル帝国とは、モンゴル高原の遊牧民を統括し、のちにその勢力を世界規模にまで押し上げた国家である。
帝国創始者は初代皇帝と呼ばれる、のちの[[チンギス・ハーン>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1273.html#id_cac9e0df]]であるテムジンであった。テムジンの父であるイェスゲイは
勇者(バアトル)と謳われるほどの人物であったが早逝し、テムジンは幼くして辛酸を舐めることとなった。
しかし長じるとモンゴルの有力者となり、モンゴル高原の諸部族との争いで徐々に地位を高め、盟友で強敵でもある
ジャムカを始めとする多くの部族・首長を倒して諸部族を統一。1206年にモンゴル帝国を建国した。
テムジンを支えたのは「バルジュナ湖の誓い」と呼ばれる君臣の契を結んだ19人の股肱の忠臣、「四駿四狗」と呼ばれる8人の優秀な側近、
そしてテムジンの弟達や、第一皇后とされるボルデの産んだ子息達であった。その後チンギス・ハーンとなったテムジンは、
[[金>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1272.html]]、西遼、ホラズム・シャー朝などに対して積極的な外征を繰り返し、帝国の祖を築いた。チンギス・ハーンの死後、後継となったのは
彼の三男であるオゴディ(オゴタイ)であった。兄弟いずれとも仲の良い彼はチンギス・ハーンの生前から後継者に目されており、またその役目を忠実にこなした。
[[オゴディ>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1273.html#id_e1eb5728]]は兄弟たちと協力して金を滅ぼし、周辺諸国を支配下に置き、首都カラコルムを中心として帝国最盛期を築いた。
また遠くヨーロッパに対しても、オゴタイの甥であるバトゥを始めとする西征軍が編成され、1241年のワールシュタットの戦いではヨーロッパ諸国連合軍に大勝した。
この戦いはワールシュタット(ドイツ語で死体の山の意)の名が示す通り、ヨーロッパ全土にモンゴルの脅威を伝播させる戦いとなった。
しかし、1241年、帝国最盛期を現出したオゴタイが死去し、翌1242年にオゴタイの兄であるチャガタイが死去すると、帝国全土に暗雲が立ち込めた。
既にジョチ、トルイといった他のチンギス・ハーンの息子達は世を去っており、後継者の選出が長引き、権力の空白化を生じさせた。
1246年悶着の末にオゴタイの後継には彼の長男であるグユクが選ばれたが、皇帝即位当初から彼と不仲であったバトゥと対立が生じた上、
グユクは1248年、即位からわずか2年で病没。結局以降モンゴル帝国では、大カーンと呼ばれる皇帝を巡る争いや、勢力拡大による膨張化で生じた
有力ウルス(諸王家)同士、あるいは皇帝を含めた争いにより、世界帝国は徐々に解体へと向かい、第5代皇帝である[[クビライ>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1270.html#id_4f32388f]]が
元を建国する頃には、モンゴル帝国は[[元>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1270.html]]を中心とする緩やかな諸連合国家(ウルス、ハン国)の集合体となった。
元が1368年に[[明>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1260.html]]によって中原から撤退し、1388年にクビライの子孫が途絶えた後も、北元をはじめ、いくつかのハン国が
チンギス・ハーン及び、モンゴル帝国の遺産、継承政権として残存した。しかし、それらの国々も時代の流れとともに歴史上から徐々に消滅していき、
1783年、ロシア帝国[[エカチェリーナ2世>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_4bc1d08e]]によるクリミア・ハン国併合をもってモンゴル帝国の遺産国家は完全に消滅した。
今日世界最大の領国版図を誇ったモンゴル帝国は多くの国々を滅ぼし、多くの国々を支配下にいれた。その遠征事業が完全失敗に終わったのは
[[バイバルス>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2726.html#id_3a98ec17]]率いるエジプトのみとされており、後継国家を含めても[[北条時宗>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2711.html#id_b0112401]]を中心とする日本など、帝国に抗えた国家は数少ない。
より詳細な説明は[[Wikipedia>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD]]などを参照
国号を「元」に改めた1271年以降に元において存命・活躍した人物は「[[みんなの新武将/元]]」を参照。
なお、元朝を除くモンゴル帝国の継承国家やウルスについてもこちらを参照
*モンゴル帝国(~1271年)
**成吉思汗
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|素質|
|100|100|85|71|92|覇王|A|A|S|S|S|C|1162?|1227|維持・長or開眼|
【チンギスハーン】
モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)。イェスゲイの長男。テムジン(鉄木真)。
父の死後、窮地を乗り越え、「四狗」「四駿」らの重臣と共にモンゴルの諸部族を一代で統一し、
西夏・金・中央アジア・イランなどを次々征服し一大帝国を築いた。
帝国の解体後も、影響は中央ユーラシアになお残存し、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。
その業績故、故国モンゴルでは神格化されたが、中華圏では邪悪な征服者として否定され、
欧州では「タタールの軛」として後世まで畏怖された。
その広大な領土は、初の世界帝国とも評される。
**木華黎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|94|89|64|69|57|騎神|A|A|S|S|C|C|1170|1223|
【ムカリ】
モンゴル帝国の元勲。四駿の一人。国王。
テムジン(チンギス・ハン)に仕え、モンゴル諸部の統一戦で卓抜した戦功を上げる。
左翼万戸を授かり、右翼万戸のボオルチュらと共に「四駿」に数えられた。
第1次金征伐では野狐嶺の戦いで金軍を大破し、金の衰退を決定付ける。
チンギスから「国王」の称号が与えられ、西征の際の契丹・女真・漢族の抑えとなった。
史天沢・張柔・厳実などの漢人軍閥を引き込んで金征服の準備を整え、第2次金征伐で開封へ侵攻した。
西夏や郭蝦蟆らの抗戦に対応するため、山西へ軍を回す途中で陣没した。
補足:漢字表記は他に「木合里」「謀合理」「摩和賚」「摩睺羅」などがある。
**哲別
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|92|51|58|71|弓神|B|A|S|S|C|C|?|1225頃|
【ジェベ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。
初めはタイチウトに属しており、精密な弓射を得意としていた。
ケレイトとタイチウトの戦いではテムジンの馬を射て落馬させる。
テムジンに投降すると「ジェベ」の名前を賜り、
ナイマンとの戦いではクビライらと先鋒を務め、「四狗」の勇名を馳せた。
第一次金征伐では守兵を城外に誘き出す戦術を用い、烏沙堡や居庸関を陥落させた。
その後はクチュルクを討って西遼を滅ぼし、
西征ではカルカ河畔の戦いでキャプチャク・ルーシの連合軍を破る。
チンギスの帰還命令を受けて帰還する途上で没した。
補足:漢字表記は他に「者別」「只別」など。なお、ジェベは鏃の意味。
ジェベ以前の名はジルゴアダイ(只儿豁阿歹)。
**速不台
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|93|76|19|64|飛将|B|A|S|S|A|C|1176|1248|
【スブタイ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。
メルキト部の征討で功績を立て、西征に従軍してホラズム・シャーを追討した。
ジェベと共にロシア平原に侵攻してカルカ河畔の戦いで勝利を収める。
帰還後はチンギス・ハーンの西夏親征に従軍した。
第二次金征伐ではトルイの別働隊で指揮を取り、完顔陳和尚を撃破し、開封を攻略し金を滅ぼした。
バトゥの西征にも従軍し、キャプチャクやハンガリー征服などにおいて功績を立てた。
世界史の中でも最も広範囲を駆け巡った武将の一人で、
東は高麗、南は開封、北はシベリア、西はアドリア海まで至っている。
補足:漢字表記は他に「雪不台」「速別額台」「唆伯台」など。
拙速な編纂だった元史には、「速不台」(120巻)と「雪不台」(121巻)の二つの列伝が併在している。
**朮赤
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|86|68|62|67|長駆|B|B|A|S|C|C|?|1225年|
【ジュチ】
チンギス・ハーンの長男。
ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の祖。ジョチと表記する事も。
ジュチとはモンゴルにおいて「客人」の意味を持ち、これは生母であるボルテが
一時メルキト族に略奪されており、後に再びチンギスの元に戻った際にジュチが誕生した
事による出生の疑惑から来ているとされる。
父に従ってモンゴル統一戦争やその後の各地の遠征に従軍して功績を挙げ、大西征の
後は中央アジア西北部から東ヨーロッパ南部のキプチャク草原を与えられ、子孫は
代々この地を治めたが、ジュチ自身は父に先んじてこの地にて病死した。
**察合台
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|84|66|76|64|規律|B|A|A|S|A|C|?|1242年|
【チャガタイ】
チンギス・ハーンの次男。
チャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の祖。
父に従い各地の遠征に従軍して活躍し、西遼が統治していたトルキスタン付近を与えられた。
法に対して厳格であった為、父からモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任されて「ヤサの番人」の異名を取った。
兄であるジュチとはジュチの出生の疑惑や激しい気性もあってか不仲であった。
チンギスの死後はハーンに即位したオゴタイを補佐し、子孫は代々チャガタイ・ウルスを支配した。
**窩闊台
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|73|75|87|91|仁政|A|B|A|S|A|C|1186年|1241年|
【オゴタイ】
モンゴル帝国第2代ハーン。チンギス・ハーンの三男。
父の遠征に従って活躍し、兄弟の中では温厚で一族の和を取り持つ事が出来た
為、父より帝国の後継者に指名された。
西はヨーロッパ、東は中国や朝鮮半島に遠征軍を派遣して帝国の領土を拡大し、
数多くの人材を起用して帝国の統治に務めたが、深酒が原因で在位十年余で死去した。
**拖雷
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|93|77|75|86|勇将|A|S|S|S|B|C|1192|1232年|
【トゥルイ】
チンギス・ハーンの四男。
他の兄と共に父に従って各地の遠征で多大な功績を挙げ、父が死去した際には
末子相続の慣習に従い、父の持つ多大な財産を譲り受けて帝国随一の実力者となり、
監国として帝国の政治を担い、その後はハーン位に就くのを固辞して兄オゴタイの
即位に尽力した。
1232年には完顔陳和尚率いる金の大軍を撃破し、モンゴル軍屈指の名将としての
実力を轟かせたが、モンゴルに帰還する途中で急死した。
**耶律阿海
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|75|93|86|72|百出|C|B|S|A|S|C|?|?|
【ヤリツアカイ】
金、モンゴル帝国の政治家、武将。遼の宗室の出身。
勇略を有し、騎射に優れ、諸国の言語に通じていた。
金の官吏としてケレイトに使者として赴いた際に、テムジンと面識を持つ。
その翌年にテムジンに投じ、参謀として活躍する。
オン・カンに敗れたテムジンの逃避行にも随伴し、バルジュナ湖の誓いにも加わった。
モンゴル統一や西夏征伐で献策を行い、功績を重ねていく。
第一次金征伐では先鋒を務め、中都を包囲して和議を結び、太師に任じられた。
西征にも従軍し、攻略したサマルカンドで征服地の統治を委ねられ、73歳で没した。
補足:「バルジュナ湖の誓い」は、落ち延びたテムジンと麾下の19騎が湖の濁水を飲んで再起を誓ったもの。
この19名はチンギス・ハーンの股肱の重臣として非常に信頼された。
**郭宝玉(玉臣)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|82|77|84|75|79|攻城|A|B|S|A|S|C|?|?|
【カクホウギョク(ギョクシン)】
金、モンゴル帝国の武将。郭子儀の末裔、郭侃の祖父。
金末期に猛安となるが、烏沙堡で金軍が敗れるとモンゴルに投降した。
チンギス・ハーンに中原攻略の策を問われると、西南諸藩を征服してから中原に進出するよう進言する。
また、無辜の人々を殺さず、大罪以外での極刑を廃止するなどの統治政策を上奏した。
攻城策を献じ、ムカリに従軍してモンゴルの燕南侵出に貢献した。
西征にも従い、胸を負傷しながらも陣頭に立ち、敵の船団を火矢で壊滅させるなどの活躍をする。
その後スブタイの契丹・渤海征伐に従い、帰還の途上で没した。
**耶律楚材(晋卿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|38|36|87|97|82|風水|C|C|B|B|A|C|1190|1244|
【ヤリツソザイ(シンケイ)】
初期モンゴル帝国の官僚。遼の王族出身。
遼の滅亡後は金に仕え、モンゴルの金攻略の際捕虜となるが、
長身長髭で堂々たる態度で、中国の天文・卜占に精通したためチンギス・ハーンの目に止まり、
招聘され書記官として仕えた。
オゴデイの即位後も書記として仕え、中書省の幹部として金の旧領の統治に携わり、
新税制を導入し安定して高い税収を確立した。
晩年は中央アジア出身のムスリム財務官僚層が台頭して信を失い、失意の中没した。
**楊惟中(彦誠)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|52|34|86|90|77|規律|C|C|B|C|A|B|1205|1259|
【ヨウイチュウ(ゲンセイ)】
モンゴル帝国の政治家。西寧の弘州出身。
オゴデイに仕官し、西域三十余国に法治を敷き、戸籍を整備する。
南宋征伐が行われると行中書省事となって南宋から得た人材を[[燕京>薊]]に集め、
姚枢らを推挙し、宋代の政治制度や技術をモンゴルに浸透させていく。
グユクの代に耶律楚材が没すると中書令となり、国政を一身に背負った。
楚材の統治方針を継承しつつ、武仙の反乱で発生した残党の平定を行う。
また、河南・四川・陝西で暴政を取り締まって綱紀を引き締めた。
モンケの代にはクビライの麾下で南宋征伐に従い、蔡州で陣没した。
**劉嶷(孟方)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|88|68|65|59|血路|S|B|A|S|A|C|1200|1262|
【リュウギョク(モウホウ)】
モンゴル帝国の武将。別名・劉黒馬。
父の劉伯林がモンゴルに投降しており、若い時から征戦に従軍していた。
武仙の反乱では真定を降し、胡岭の戦いでは金将の忽察虎を斬る。
オゴデイが即位すると漢人軍閥の筆頭となり、
第二次金征伐では西路から侵攻し、三峰山で金軍を大破し釣州城まで攻め取った。
金の南京(開封)を陥落させ、西京・河東・陝西の諸軍を統括する。
モンケの代には陝西の商州に駐屯して南宋への抑えとなり、親征に従い[[成都]]を落とす。
クビライの代に南宋が瀘州を包囲すると、病を押して救援に向かうが途上で陣没した。
補足:通称の「黒馬」は幼名。産まれたときに同時に厩で黒馬が産まれたことが由来。
特技は、13人で外出していた際に金兵に包囲されたが、包囲に斬り込んで一人も欠けることなく突破したエピソードから。
**張柔(徳剛)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|92|74|57|69|威風|A|A|A|A|A|A|1190|1268|
【チョウジュウ(トクゴウ)】
金、モンゴル帝国の武将。張弘範の父。
金末期に苗道潤に取り立てられ重用されるが、苗道潤が賈瑀に殺害されたため復仇を誓う。
本路経略使となるが、賈瑀討伐の直前にモンゴルの侵攻を受け投降する。
モンゴルの武将として雄・易・安・保の諸州を攻略し、賈瑀を殺害し仇を討った。
河朔を転戦し、流矢で二度負傷しながらも冀北の三十余城を落とし、
金を河南に駆逐して河朔を震撼させたと驍勇を賞された。
金が滅亡すると入朝し、南宋領の湖北・淮南・四川への出兵に従軍する。
晩年は工部事となり、クビライの[[大都>薊]]造営に携わった。
**厳実(武叔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|75|76|72|80|沈着|A|S|A|B|B|B|1181|1240|
【ゲンジツ(ブシュク)】
金、南宋、モンゴル帝国の武将。
義侠の人物で、金国内の反乱の際に功績を上げて取り立てられるが、誣告を受けて青崖山に逃れた。
南宋の済南治中となるも、南宋の国力不足を見てムカリの侵攻の際にモンゴルに投じた。
金征伐では濮・東平・益都など山東地方の攻略で功績を上げた。
東平路行軍万戸を授かり、五十余城を統べる。
タイスン(ムカリの弟)の殺戮では河南の数万の民を匿って食料を供給し、
親族を殺害した武将の妻子を怨まずに帰郷を援助するなど、寛大な人物であった。
没すると領内は民の慟哭で溢れたという。
補足:後代には、南宋を裏切っている点で否定的な評価もされている。
**董俊(用章)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|85|51|60|76|射手|A|B|S|B|B|C|1186|1233|
【トウシュン(ヨウショウ)】
金、モンゴル帝国の武将。
金末期に募兵に応じ、強弓を引いたことから募兵隊の指揮を委ねられる。
ムカリの侵攻を受けて投降し、金将の武仙を大破した。
武仙が投降するとムカリに対して武仙の動向に注意するよう進言し、
武仙が史天倪を殺害すると、史天沢を支援して武仙の反乱を鎮圧する。
金の汴京(開封)攻囲中に夜戦で襲撃を仕掛けられ、乱戦の中で戦死した。
漢人軍閥の中では席次が低かったが、濫りに民に殺害や掠奪を加えず、
大小百余りの戦いで戦功を上げた忠孝の士として賞賛された。
**史天祥
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|72|89|78|74|55|補佐|S|A|B|S|A|C|1191|1258|
【シテンショウ】
モンゴル帝国の武将。
親族の史秉直(史天沢の父)に従い、モンゴルのムカリに降った。
父の史懐徳と勇士数百名を選抜した黒軍を編成し、懐徳が戦死すると黒軍を統率する。
ムカリの麾下で金征伐や叛乱平定で活躍し、諸城を攻略していく。
真定に至ると、民に危害が出ぬよう武仙を説得し投降させる。
真定に駐留しようとするが、将才を惜しんだムカリに従軍するよう説得され、
以後も黒軍を率いてムカリを補佐し続けた。
西夏征伐の際に負傷して視力を失い[[北京>薊]]に帰還するが、
致仕は許されずに軍務を委ねられ続け、モンケの代に没した。
**汪世顕(仲明)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|88|49|53|62|踏破|B|S|A|S|B|B|1195|1242|
【オウセイケン(チュウメイ)】
金、モンゴル帝国の武将。祖先はオングート(汪古)族。
初めは金に仕え、陝西の田端の反乱平定や、モンゴルの侵攻を防ぎ功績を上げた。
開封陥落後も鞏昌府でモンゴルに抵抗を続け、金滅亡の翌年にコデンに投降した。
その後はコデンの四川侵攻で先鋒を務め、陽平関では曹友聞の掎角の陣に単騎で突撃し、友聞を討ち取る。
以後も葭萌や開州([[重慶>江州]])で勝利を重ねるが、長江沿岸に至る度に南宋の孟珙の援軍に阻まれた。
[[成都]]を陥落させると論功で甘粛・隴西の諸州を封じられ、
全ての漢人世侯を凌ぐ勢力となるも、間もなく病没した。
**蒙哥
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|91|86|90|83|72|駆逐|A|A|S|S|S|C|1209|1259年|
【モンケ】
モンゴル帝国第4代ハーン。トゥルイの長男。
オゴタイの時代にはバトゥやグユクと共にヨーロッパ遠征に参加して活躍し、
オゴタイの死後はバトゥと共にグユクの即位に反対してグユク一派と対立、
そしてグユクの死後にバトゥらの支援を受けてハーンに即位した。
将としての才能に秀でてユークリッド幾何学など数多くの学術にも精通していたが、
敵対したオゴタイ家やチャガタイ家らの一派に対して粛清を行う等、猜疑心が強く
苛烈な一面も持ち、晩年は弟のフビライとの関係も思わしくない中で南宋攻略の際
に急死、結果的に帝国内部における分裂の一因となった。
**旭烈兀
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|93|91|75|79|74|攻城|A|S|A|S|S|C|1218年|1265年|
【フラグ】
フラグ・ウルス(イル・ハン国)初代。トゥルイの五男。フレグとも。
兄であるモンケ・ハーンの命令で中東遠征の総司令官となり、1258年にバグダット
を陥落させてアッバース朝を滅ぼし、さらにシリアに勢力を拡大した。
モンケの死後はモンゴル高原には戻らずに制圧した中東地域を領土とし、新たに
ハーン位に就いたフビライを支持しつつもフラグ・ウルスの当主として独立した
勢力を築いた。
**抜都
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|99|99|95|88|94|神将|S|A|S|S|S|C|1207年|1256年|
【バトゥ】
モンゴル帝国の武将。チンギスの長男ジョチの次男。ジョチ・ウルスの実質的な創始者。
父ジョチの死後、兄が病弱だったこともありその地位を継いだ。1236年に叔父で
皇帝でもあるオゴタイの命によりヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、破竹の勢いで
ロシア、ポーランド、ハンガリーといったヨーロッパ諸国を尽く占領した。しかしオゴタイが
死去するとその後継であるグユクと対立。自らの基盤に割拠してモンゴル帝国分裂の原因を作る。
混乱する帝国中枢をよそに勢力を伸ばす一方、帝国皇帝(カアン)に昵懇な関係のモンケを即位させた。
※ モンゴル帝国遠征軍総司令官として常勝無敗で敵を倒すその様は、ヨーロッパで「タタールのくびき」の体現者として長く畏れられる。謀略にも長け、対立していた皇帝グユクの急死をバトゥの暗殺とする説も根強い
*モンゴル帝国(1271年~)
モンゴル帝国継承国家の歴史は[[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD#.E3.83.A2.E3.83.B3.E3.82.B4.E3.83.AB.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E3.81.AE.E7.B6.99.E6.89.BF.E6.94.BF.E6.A8.A9]]を参照
元の人物は[[こちら>みんなの新武将/元]]を参照
**ティムール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|100|99|96|91|94|覇王・築城・捕縛|S|S|A|S|A|C|1336|1405|冷静|晩成・長or維持・長|
【ティムール】
中央アジアの軍事指導者で、ティムール朝の建国者。「帖木尔」
バルラス部の貴族の子として生まれ、やがて叔父のもとで勢力を蓄え頭角を現す。
紆余曲折を経てかつての同盟者であったフサインを倒し、以降ホラズム、ペルシア、インドなど
多くの地域へと遠征を開始。また三年戦役、五年戦役、七年戦役とそれぞれ呼ばれる
西アジアの遠征も随時行い、連戦連勝を続けた。その後オスマン帝国と敵対してアンカラの戦いで
激突し、敵の皇帝であったバヤズィト1世を捕虜にする大勝利を収めた。
明の遠征に向かう途中、病を患い死去。その破竹の勢いはチンギス・カーンと並び称された。
※ チンギス・ハーンの次男チャガタイに仕えた重臣の子孫。元朝秘史によると、チンギスとは遠縁の関係。「帖木児」とも。
※ その他候補となった特技:駆逐
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