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みんなの新武将/秦~楚漢戦争 - (2011/04/05 (火) 19:08:39) の最新版との変更点
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#CONTENTS
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*秦(BC221~BC206)
戦国七雄のひとつの秦が、B221年に始皇帝のもとで諸国を征服・統一したもの。
秦の祖は殷商の紂王に仕えた悪来と言われるが、実際には定かでなく、
初代の襄公は周の東遷に功があり、平王に周の故地である岐山に封じられた。
名君とされる穆公の時代には隣国の大国・晋と並ぶ国力を有したが、穆公の死去にともない
大量の殉死者を出したため国力が低下し、これ以後は晋の圧迫を受け続けることになる。
孝公の代に、魏から来た公孫鞅を登用して変法を行い、富国強兵を推し進め、秦は一躍強国となる。
継いだ恵文王は公孫鞅を処刑したが法は変えず、巴蜀を併合して地力を高め、
楚を大破して漢中を奪い、戦国七雄中随一の国力となった。
白起の活躍で魏・韓・楚を蚕食する間に、燕の上将軍・楽毅が五カ国連合軍を率いて斉を討ち、秦の次に有力だった斉は壊滅する。
ついで、長平の戦いで趙軍が壊滅すると、秦に対抗できる国はなくなり、
247年に秦王を継いだ31代目の政により、他国は221年までに全て併合された。
始皇帝は統一政策・中央集権・君主独裁の確立を進めたが、性急かつ法治至上主義に撤したため、
その死後3年で内乱によって崩壊した。
秦帝国は中国史上最初の大帝国で、嶺南やオルドスをも征服して中国本土の祖形を形成した。
殊に匈奴を漠北に駆逐し、北辺の防牆を修築・連結延長して万里の長城を構築したことは、
遊牧民を介して秦の呼称を遠くローマまで伝えさせ、china・シナの語源となった。
**贏扶蘇
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|64|60|82|85|84|仁政|A|B|A|A|B|C|?|B.C.210|
【エイフソ】
秦の始皇帝の嫡子。
聡明で、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。
しかし、父の政治に諫言したため怒りを買い、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠ざけられた。
始皇帝が巡幸中に崩御すると、弟の胡亥や丞相李斯、宦官趙高の謀略により、
胡亥を後継とし、扶蘇には自害を勧める旨の偽の詔が下される。
蒙恬は偽詔であると進言したが、「疑うこと自体義に反する」と述べ扶蘇は詔に従い自決した。
蒙恬三軍の者で涙しないものはいなかったという。
**贏胡亥
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|6|7|2|2|4||C|C|C|C|C|C|B.C.230|B.C.207|
【エイコガイ】
秦の二世皇帝。始皇帝の末子。
始皇帝の崩御後、丞相の李斯と宦官趙高の謀略により擁立される。
即位前後から趙高の言に従って兄の扶蘇以下、人士を粛清。
驪山陵や阿房宮、万里の長城の建築を推進し、対匈奴防衛の大規模徴兵を行い、
人心の離反を招くが、陳勝・呉広の乱の発生後もそれは変わらなかった。
諫言した李斯を趙高の讒言により処刑し、政務を趙高に一任。
秦軍が敗退を続け、反乱軍が咸陽近郊に進軍されて漸く状況の悪化を知る。
趙高の責任を追及するが、粛清を恐れた趙高に弑逆された。
**趙高
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|3|2|67|15|1|徴収|C|C|C|C|C|C|?|B.C.207|
【チョウコウ】
戦国時代末・秦の宦官・政治家。
趙の王族出身だが、罪を得て宦官となり始皇帝に出仕し、寵愛を受ける。
始皇帝の没後は丞相の李斯を強引に抱き込み、遺言を改竄し、胡亥を自身の傀儡として擁立した。
その後は、「馬を指して鹿と言う」恐怖政治と奢侈・粛清に走り、秦の統一は急激に崩壊。
陳勝・呉広の乱以降の反乱で項羽・劉邦軍に追い詰められると、胡亥を生贄に延命を図るが子嬰に族滅された。
直後に関中へ劉邦軍が殺到し、子嬰は降伏、秦は滅亡した。
漢の王莽と並び、後世度々言及される悪臣の象徴といえる人物。
**王綰
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|7|4|76|80|55||C|C|C|C|C|C|?|?|
【オウワン】
秦の政治家。丞相。
始皇帝に仕え、秦が全国を統一すると、丞相に任ぜられた。
御史大夫の馮劫疾や廷尉の李斯とともに帝号を立てることを建議した。
諸子を分封して王とするよう奏請したが、李斯の反対に遭ったため、
始皇帝は天下を郡県に分けた。
**馮去疾
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|23|14|72|76|57||C|C|C|C|C|C|?|B.C.208|
【フウキョシツ】
秦の政治家。右丞相。始皇帝・二世皇帝に仕えた。霍去疾とも。
陳勝・呉広の乱が起こったのち、二世皇帝は宮中で趙高とともに政治を決裁し、
公卿が朝見することもできなくなったので、李斯や馮劫らとともに二世皇帝胡亥を諫め、
関東の群盗の蜂起は労役や賦税の過重が原因として、阿房宮造営や征戌運漕をやめるよう訴えた。
このため二世皇帝の逆鱗に触れ、獄に下されて自殺した。
**章邯
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|91|86|79|45|81|不屈|S|A|S|B|B|C|?|B.C.205|
【ショウカン】
秦の名将。三秦の一人。雍王。
陳勝・呉広の乱の折に囚人二十万を赦しこれを反乱軍に当てるという策を献じ、斉王田儋らを撃破し、
援軍の司馬欣・董翳らと共に陳勝を敗走せしめ、項羽の叔父項梁を殺すなど戦功を挙げ続ける。
その後、宦官趙高らに陥れられると項羽に降伏し、三秦に封ぜられ漢王を監視する役目を負う。
漢軍の侵攻の際には陳倉で迎撃するも敗北、好畤でも敗れ、
廃丘に籠って抵抗するが弟の章平が捕らえられ、廃丘も水攻めに遭い、自殺した。
**司馬欣
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|74|64|63|52|補佐|B|A|A|B|B|C|?|B.C.207|
【シバキン】
秦の将。三秦の一人。塞王。
陳勝・呉広の乱で、章邯の副将として従軍し、反乱平定に大いに貢献する。
しかし項羽に敗北後は徐々に旗色が悪化し、章邯の命で趙高に援軍要請の使者として咸陽に向かうが、
旧部下から趙高が自分達を処刑すると教唆され、慌てて逃げ出した。
章邯に対して項羽に帰順すべく説いて西楚に降伏し、塞王に封じられる。
後、漢の韓信に敗北すると董翳と共に漢に降る。
睢水の合戦で劉邦が項羽に大敗した際に董翳と共に再び楚に降ったが、成皋にて劉邦の軍に敗死した。
**董翳
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|70|57|46|55|連戦|A|A|A|B|B|C|?|B.C.207|
【トウエイ】
秦の将。三秦の一人。翟王。
章邯の元で都尉として反秦勢力の撃退に活躍。陳勝・呉広の乱を鎮圧した。
項梁を殺したことで激昂した項羽の軍に敗北すると、形勢は逆転して秦は窮地に陥り、
また宮中の腐敗により援軍も望めぬため章邯・司馬欣と共に西楚に降った。
秦の滅亡後は漢中に左遷した劉邦の監視として翟王に封じられ、咸陽の周りを固めている。
//司馬欣とほぼ話が同じため、この程度でよいと思われます。
**王離
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|73|74|36|75|連戦|A|S|A|B|B|C|?|?|
【オウリ】
秦の将。名将王翦の孫。王賁の子。
陳勝・呉広の乱に対し、章邯の副将として反乱軍と戦った。
勢いのある陳勝軍から防戦に務め、兵糧不足に陥らせたところを章邯と連携して大破。陳勝を討伐する。
さらに定陶では章邯と共に楚軍を攻め項梁を、臨済では魏王魏咎を殺して、趙を目指し黄河を渡って北上。
趙王趙歇と宰相張耳が籠もる鉅鹿を包囲する。
しかし趙を救援に来た項羽軍と九度戦闘を交えるも全敗し、捕虜となった。
その後の動向は不明。
*張楚
**陳勝(渉)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|45|57|16|20|33||B|B|C|C|C|C|?|B.C.209|
【チンショウ(ショウ)】
秦末の反乱指導者。張楚王。
人夫の護送中、豪雨に遭い期限に遅刻することが確実になった。
秦の法律に断罪されると悟り、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」と名言を発して叛乱。
始皇帝の長子・扶蘇を詐称して民衆を糾合し、国号を張楚とし王位に就いた。
呉広、周文に命じて咸陽に向けて遠征軍を起こすが秦軍の前に敗北。
章邯と会戦するも大敗を喫し、御者の荘賈に殺された。
陳勝・呉広の乱は僅か半年で鎮圧されたが、叛乱は項梁・項羽・劉邦に引き継がれ、
秦は滅亡することとなる。
**呉広
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|27|34|20|18|12|補佐|B|C|B|C|C|C|?|B.C.209|
【ゴコウ】
秦末の反乱首謀者。
陳勝とともに秦に叛乱を起こす。
将軍として秦に攻め入るが苦戦し、配下の田臧らに暗殺され、指揮権を奪われた。
**周文
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|66|76|37|75|風水|A|S|A|B|A|C|?|B.C.209|
【シュウブン】
秦末の将。張楚の臣。周章とも。
かつて楚の春申君や名将項燕にも仕えた事があり、陳勝から信頼されて一軍を率いた。
陳勝軍の主力を率いて、難攻不落の函谷関を打ち破り秦の首都咸陽に迫るが、
章邯・王離の二十万の秦軍に敗退して撤退。
曹陽に布陣して堅固な陣を築き、二ヶ月以上も章邯軍の猛攻を耐える。
援軍無く、兵糧・武器が無くなったところを急襲され、軍は壊滅した。
敗残の軍隊をまとめ再度戦うが敗北、自刃した。
*楚
**項梁
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|75|73|78|82|名声|A|A|A|C|C|B|?|B.C.208|
【コウリョウ】
秦末の反乱指導者。楚の大将軍・項燕の末子。項羽の叔父。項伯の兄。
陳勝・呉広の乱で秦の支配体制が動揺すると、会稽郡守の殷通を殺害し自ら会稽郡守となる。
自らも反秦の叛乱に参戦し、八千の精兵を率いて出発。
陳嬰、黥布などの軍を併合し、勝手に陳勝の後を継いで楚王となっていた、
景駒とその腹心秦嘉を攻めて敗走させた。
その後、范増の献言を入れて懐王を楚の王に擁立して自らは武信君と名乗り、
北上して秦軍と戦い連戦連勝するが、定陶で章邯率いる秦軍の前に敗死した。
**宋義
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|56|62|70|75|74||C|A|B|C|B|C|?|B.C.207|
【ソウギ】
秦末漢初の将軍。楚の上将軍。
項梁により楚が建国され、懐王が擁立されると旗下に加わる。
連戦連勝で驕り始めた項梁を諌めるが容れられず、斉への使者に派遣される。
果たして項梁は章邯の急襲に敗死するが、
斉へ向かう途上で会った斉の使者への忠告が懐王に伝わったため、
その先見を賞賛されて上将軍となった。
諸将を統率して卿子冠軍と号し趙救援に赴くが、道中で長逗留して将兵は寒さと飢えに苦しむ。
息子を斉の宰相にする密約を、社稷に反すると怒った項羽に殺害された。
**陳嬰
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|56|50|72|64|96|名声|B|B|C|C|B|C|?|183|
【チンエイ】
秦末漢初の群雄。臨淮郡東陽県の人。楚の上柱国。
陳勝・呉広の乱の勃発後、東陽の青年達が乱を起こし、その頭目に推戴された。
この話が伝わると、県内から二万もの人が集い、皆青い頭巾を被り蒼頭軍と称した。
母の助言を受けて項梁の下に帰順し、項梁が懐王を擁立して楚を再興すると、
上柱国として懐王の下に留まった。
項羽が西楚の覇王を称すると客将となり、劉邦が項羽を破ると降伏して赦された。
のち劉邦の命で豫章郡を平定し、王を僭称した壯息を討伐した。
この功で故郷近くの堂邑県に封じられた。
*西楚
※ 「[[項羽軍]]」を参照
*漢
※ 「[[劉邦軍]]」を参照
*魏
**魏咎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|68|46|62|73|87|仁政|B|C|A|C|C|C|?|B.C.208|
【ギキュウ】
戦国時代末から秦の政治家。魏王室の一族で元は甯陵君。魏豹の兄。
魏が秦に滅ぼされると庶民におとされたが、
陳勝の配下の周市が魏の地を平定すると周市に迎えられて王となった。
やがて秦の章邯が陳勝を破り魏に侵攻してくると、
魏軍を率いた周市が斉王の田儋と共に秦軍と戦うが、撃破されて篭城。
矢も食料も尽きると、人民の安全の確保を条件に降伏し、自身は焼身自殺した。
**魏豹
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|65|74|55|52|75|名声|B|B|B|B|B|C|?|B.C.204|
【ギホウ】
秦末漢初の西魏王。魏咎の弟。戦国時代の魏王室の一族。
陳勝・呉広の乱に乗じ兄の魏咎と挙兵し、魏咎が魏王に擁立されるとこれに仕えた。
秦の章邯の侵攻で魏咎が敗死すると、楚の項梁を頼り逃亡して懐王の兵を借り、魏領を奪回。
章邯が項羽に降伏した報を聞くと、自ら魏王と称した。
後、項羽の論功行賞の不満から劉邦と同盟を結び、彭城の戦いに参加するが、
劉邦ら連合軍の大敗後、再び離反して項羽に付いた。
韓信の遠征では最初の標的となり、挟撃策に大敗。
再登用されたが、周苛と樅公に反乱の嫌疑を受け殺害された。
**周市
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|74|68|76|78|84|精妙|B|A|A|B|B|B|?|B.C.208|
【シュウシ】
秦末漢初の張楚の将。魏の宰相。
陳勝・呉広の乱が起こると乱に参加して将軍となり、陳勝軍を率いた。
梁の地を侵略、雍歯を降伏させて北上、狄に侵攻するが斉王となった田儋に敗れる。
敗軍を集めて魏の地を平定し、王に推戴されるが固辞。
魏王室の一族の魏咎を招聘し魏王に擁立し、自らは宰相となった。
秦将章邯が陳勝を破り、都の臨済の包囲したので、斉・楚に救援を請い、
援軍の項它・田儋らと章邯と戦うが敗死した。
*趙
**陳余
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|90|55|52|37|怒髪|B|S|B|S|C|C|?|B.C.205|
【チンヨ】
秦末漢初の趙の将。
陳勝・呉広の乱の後、刎頚の友の張耳と共に陳勝に仕える。
趙歇を趙王に擁立するが、秦の章邯の大軍に圧倒され、
陳余の援軍は張耳と趙歇を半ば見殺しにしてしまう。
項羽の援軍に救われるも、両者の仲は決裂し、棄官して漁師となった。
項羽による論功行賞の後、張耳の追放と趙歇の復位が決まり、陳余は趙に戻る。
楚漢戦争では、劉邦は張耳の偽首を送り趙は漢に味方するが、
漢の大敗と張耳の生存の報を受け、両国は敵対する。
李左車の進言を笑殺して韓信と戦うが、背水の陣の前に趙軍は潰走し、捕縛され刑死した。
**蒯徹(通)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|45|26|93|82|67|百出|C|C|B|C|A|C|?|?|
【カイテツ(トウ)】
秦末漢初の説客。武帝の避諱で蒯通と呼ばれる。
陳勝・呉広の乱で挙兵した張耳と陳余が苦戦した際、助言して趙攻略を成功させた。
趙が漢に滅ぼされると、大将軍韓信の軍に参与。
韓信が田広を攻めた際、酈食其の交渉の成果を無視し、強引に斉を平定させた。
直後、韓信に斉王への即位と天下三分の計を説くが、
拒否されたため、誅殺を怖れて斉を離脱。
後の功臣粛清に際し、韓信はこの事を悔やんだという。
曹参が斉の相国になると賓客として活躍し、賢相として称えられた。
後漢末の武将の蒯越・蒯良は蒯通の子孫という。
**李左車
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|74|63|94|73|55|洞察|A|C|A|C|B|C|?|?|
【リサシャ】
秦末漢初の趙の軍師。広武君。
漢の劉邦と敵対し、漢の別働隊の韓信と井陘の戦いで戦い敗北。
その際、李左車は宰相の陳余に、狭い地形を利用して本隊で守りつつ、
別働隊で韓信を襲うことを献策したが、陳余に却下された。
戦後、韓信は李左車を師と仰いで燕と斉を破る方法を尋ねたところ、
「敗軍の将、兵を語らず」と応え、なおも聞く韓信に李左車はついに折れて策を授けた。
韓信は李左車の策を用い、兵を休息させ、趙を鎮定。
威信で燕王臧荼を服従させた。
*斉
**田儋
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|81|76|78|82|名声|B|A|A|B|A|C|?|B.C.208|
【デンタン】
秦末漢初の斉王。斉王族の傍流の出。
従弟の田栄・田横らと共に「狄の田氏」と呼ばれ、斉の滅亡後も人望を得ていた。
陳勝・呉広の乱に呼応し、秦の県庁を占拠して斉王を自称し、秦打倒に決起。
同時期に劉邦や項梁も挙兵し、楚王陳勝を盟主と仰ぎ続々と傘下に入り、
反乱軍は数十万人に拡大した。
周市の軍を打ち破り、斉を平定したが、秦の章邯が二十万の兵を率い鎮圧に向かい、盟主の陳勝は敗死。
その後、章邯は魏王魏咎の都を包囲したため、救援に向かうも夜襲策にかかり敗死。
魏咎は降伏し、田栄・田横は逃亡した。
**田栄
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|85|54|46|70|駆逐|A|A|B|A|A|B|?|B.C.206|
【デンエイ】
秦末漢初の斉の将。斉王。田儋の従弟で田横の兄。
田儋と共に決起したが、田儋の戦死後は残兵を再編し、田仮が王を僭称すると田仮一族を放逐した。
項梁が章邯に狙われると救援を求められたが、田仮らを匿ったため拒否し、見殺しにした。
そのため項羽から恨まれ、論功行賞で追放され、新王に田都を擁立されたため、
陳余と通じて田都・田市・田安らを滅ぼし、
斉全土を併合し斉王を称して項羽に造反したため、反楚戦争が勃発。
彭越に将軍の印を与え、梁の地で造反させ楚打倒を命じるも、
項羽の討伐軍に敗れ、逃亡時に農民に殺された。
**田横
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|78|84|94|99|不屈|A|A|A|C|A|B|?|B.C.202|
【デンオウ】
秦末漢初の斉の将。宰相。斉王。田栄の弟。
兄の田栄、従兄の田儋と共に郷里の狄県で挙兵し、斉を平定。
田栄が項羽に敗死すると、斉の兵数万を集めて項羽に反撃、
田栄の子の田広を擁立して宰相となり、荒廃した国を再建した。
韓信の趙攻略後、酈食其による漢との同盟を受諾するが、国境の歴城の防備を解いた直後、
韓信の急襲で田広は虜囚となり、多くの部下も斬首された。
悲憤の中、自身が王になって漢軍と戦うが敗北。
食客と共に海上の島へ逃げるが、 劉邦に招かれ洛陽に向かう途上、
卑劣な劉邦に仕えるのを拒んで自害した。
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