「みんなの新武将/倭・日本」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
みんなの新武将/倭・日本 - (2016/09/19 (月) 03:50:29) の最新版との変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
#CONTENTS
----
*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
日本武尊が所持していた「草薙剣」、源義家が所持していた「天光丸」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
*倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。史料での初出は紀元前150年頃とある。
「倭」というのは国号ではなく、あくまで史料の中での表記であるという説が有力である。
古代以前の歴史は飛鳥時代、奈良時代に成立した「古事記」、「日本書紀」の記述でしか判別できず、今なお多くの謎に包まれている。
三国志の時代では、女王[[卑弥呼>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1257.html#id_d8a5f352]]が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号を授かったが、これは中国の歴史書、
三国志魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に記されている。その後ヤマト政権を経て
朝廷中心の国家体制が構築され、大化の改新、壬申の乱の後、[[天武天皇>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1257.html#id_2f6c70f3]]が即位。
7世紀後半に天武天皇によって「日本」の国号が定められた(異説あり)と言われている。
その後は中臣鎌足の子孫である藤原氏が長い権力闘争の上に莫大な権力を手に入れたが、
[[藤原頼通>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1257.html#id_5c4def62]]の死後、院政中心の政治体制に移行、やがて保元平治の乱を経て
興隆著しい武士層の[[平清盛>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1257.html#id_5d35f26b]]が平氏政権を打ち立てた。
古代→[[中世>みんなの新武将/倭・日本(中世)]]→[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]→[[近代>みんなの新武将/倭・日本(近代)]]
[[戦国時代(東日本)>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html]][[戦国時代(西日本)>みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(西日本)]][[江戸時代>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html]][[戦後>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html]]
*古代(飛鳥時代~平安時代、諸説あり)・それ以前
**【古代以前(6世紀前半以前)】
**神武天皇
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|80|85|82|88|100|覇王・強運・仁政|S|S|S|S|B|A|||剛胆|
【ジンムテンノウ】
日本神話に登場する人物。日本の初代天皇であり皇統の祖。神倭伊波礼琵古命、始馭天下之天皇とも。
天照大神の子孫にあたり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命の三男である。始め九州にて生活し、
東へ遡上して国を治めたと言われている。天照大神による神の加護によって助けられつつ、苦難の果てに
東征を成し遂げて天下を平定、橿原宮にて即位し、今日の日本の祖となった人物と言われている。
※ その事績には様々な説がある。皇室以外の王族王朝だったという説、事績を粉飾されている説、10代崇神天皇や15代応神天皇との同一人物説など。127歳で崩御したと言われているが、当時は半年暦で実際は64歳だったとも言われている。
※その他候補となった特技:火神、鬼門、踏破、強行
**日本武尊
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|100|100|72|21|90|神将・猛者・覇王|S|S|S|S|C|C|||剛胆|
【ヤマトタケル】
日本神話の中でも最も武力に優れた英雄のひとり。性格は異常に猛々しく、冷徹で過酷だったという。
結果的には、それが災いしてその生涯に悲劇的英雄としての色合いを付ける事になった。
古事記、日本書紀によると若干16歳で遠征を命じられ、以降九州から関東までの戦闘で敵を服従させたと言われている。
生涯を守り抜いた剣として草薙剣があるが、これは大元を辿ると素盞鳴尊が八岐大蛇の体から取り出した宝剣である。
この剣を手放して戦に出た日本武尊は、伊吹山で神と戦い病身の身となり、そのまま快癒することなく落命した。
※その他候補となった特技:火神・百出・強運・鬼門
※日本有数の神将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**武内宿禰
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|85|75|90|90|88|楽奏・威圧・強運|B|B|A|C|B|B|||冷静|
【タケウチノスクネ】
大和朝の初期、景行天皇から仁徳天皇に至る五代三百年に渡って仕えたという伝説的人物。
古事記、日本書紀によると大臣として国政を支える傍ら、軍人としても景行天皇の蝦夷征伐、神功皇后の三韓征伐、
忍熊皇子の反乱鎮圧などで活躍したという。実在、非実在論は現在に至るまで論議されている。
宿禰という名前が一族間で受け継がれ、武内宿禰という人物が複数代存在していたという仮説も存在する。
**卑弥呼
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|4|3|74|78|81|祈願・妖術・鬼門|C|C|C|C|C|B|158~175頃|247~248頃|
【ヒミコ】
三国時代の倭国の女王。親魏倭王。
『魏志東夷伝倭人条』等に記述があり、邪馬台国に都をおいていたという。
倭国大乱の後、太陽神信仰の巫者として登場し、女王に推戴され、鬼道で衆を惑わしていたという。
没後、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人が殉葬され、
後継には親族の壹與が2代目の女王に即位した。
[[司馬懿]]の遼東遠征の後に使者が魏に遣わされた為、その影響も指摘されている。
今なお謎が多く、人物比定も異論が多い。
248年の皆既日食で霊力が衰え狗奴国に大敗したという理由で弑殺されたという説もある。
※その他候補となった特技:風水
**台与
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|1|2|77|65|86|祈願・鬼門・論客|C|C|C|C|C|C|235|?|
【トヨ】
三国時代の倭国の女王。魏志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)、晋書に記述がある。臺與とも。
通説によれば女王卑弥呼の死後、倭国が大乱となったため、わずか13歳で即位した。
のち対立する狗奴国との紛争を魏が仲裁。この時、王頎の部下である張政が
彼女と交渉したと言われている。掖邪狗に張政を送らせ、魏の都に朝貢をしたとある。
その後晋書266年に朝貢の記録が残るが、以降史料に名は見えない。
※その他候補となった特技:風水
**難升米
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|12|14|51|67|52|能吏・論客・威圧|C|C|C|C|C|C|?|?|
【ナシメ(ナンショウマイ)】
三国時代の倭国の人物。魏志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に記述がある。
女王卑弥呼の遣使として魏と交渉。238年には率善中郎将の官職を得た。
以降248年まで魏との交渉に携わるが、それ以後は名が見えなくなる。
正体については諸説あるが、なしめの音からなしとみとし、中臣氏の祖ではないかとも、
魏の遣使から皇帝軍旗(黄幢)を授かっていることから、卑弥呼の弟ではないかとも言われる。
**紀大磐
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|63|78|35|17|9|猛者・強奪・威圧|B|B|C|A|C|C|?|?|
【キノオオイワ】
古墳時代の人物。紀小弓の子。紀大磐宿禰とも言われる。
雄略天皇の命を受けての高句麗征伐中に亡くなった父の後を受けて軍に従軍。
軍の大権を巡って蘇我氏と対立し、蘇我韓子に暗殺されかけるが返り討ちにして軍を掌握。
大和朝廷に対しても独立を宣言したのち、逆に高句麗と結んで朝鮮南部の支配を目論み
自らを神聖と称した。しかし現地での抵抗にあい、目論見は頓挫。倭国に帰国したとも、朝鮮で没したとも言う。
**【飛鳥時代(6世紀後半~8世紀前半)】
**厩戸皇子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|65|48|93|98|94|仁政・規律・祈願|C|C|C|C|C|C|||冷静|
【ウマヤトノミコ】
日本一有名な政治家。聖徳太子。推古天皇の摂政をつとめ、能力による人材の登用や憲法の制定など画期的かつ大胆な改革を行った。
近年の研究では、功績に関して実在するかどうか怪しいとする説もある。
**蘇我馬子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|82|70|88|92|84|名声・詭計・百出|B|C|A|C|C|C|551?|626||早熟・長|
【ソガノウマコ】
飛鳥時代の政治家。武内宿禰を祖とする蘇我氏の出自。妻は物部守屋の親族。
通説によれば仏教伝来を巡り、物部氏と対立。排仏派の物部守屋を攻め滅ぼす。
崇峻天皇を擁立して実権を握るが、後に崇峻天皇が反発を強めるとこれを暗殺。
推古天皇を即位させ、摂政となった聖徳太子と合議で政治を運営した。
冠位十二階や十七条憲法、遣隋使など聖徳太子の功績を支え、日本最古の本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を建設。
以後も権勢を振るい蘇我氏の全盛期を築き上げたという。
馬子の人物像については「日本書紀」「古事記」に寄るところが大きい。
これらは大化の改新以後、権勢を握った藤原氏により編纂されたものであり、
そのため悪事ばかりが強調して記述されているとの主張もある。
実際は冠位十二階や十七条憲法、遣隋使などは蘇我馬子の実績であり、これを無視できなかった藤原氏は
聖徳太子という人物を創り上げて馬子の実績を奪った(「聖徳太子はいなかった」説、「聖徳太子=蘇我馬子」説)
などの異説も存在する。
**物部守屋
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|70|77|41|56|54|怒髪・反計・掎角|B|B|A|C|B|C|?|587||早熟・長|
【モノノベノモリヤ】
飛鳥時代の有力豪族。饒速日命を祖先とする軍事氏族、物部氏の出自。
日本書紀によれば敏達天皇の治世、大連に任じられ蘇我氏と共に権勢を振るったが、
仏教伝来を巡って蘇我氏と対立。穴穂部皇子を即位させようと暗躍し、宅部皇子を誅殺するなど暴挙を
繰り返した。これが丁未の乱を招き蘇我馬子、厩戸皇子らに攻められる。
守屋は自ら兵を率いてこれを迎え撃ち、当初は優勢であった。
しかし厩戸皇子が仏法の加護を祈り、戦勝を祈願したことで馬子の軍勢は士気を高め、
守屋の軍は敗北して離散したという。
守屋も討ち取られ、物部の一族は姓を変えて歴史の表舞台から消えた。
**小野妹子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|23|21|86|71|74|論客|C|C|C|C|C|C|?|?|||
【オノノイモコ】
飛鳥時代の政治家、論客。
出自に関しては諸説ある。通説によれば聖徳太子に重用され、
第二回の遣隋使派遣で国書を携えて隋帝・楊広と面会。
「日出ずる処の天子」の書簡に激怒した皇帝を諌め、隋との国交を開いた。
この功績により帰国後は冠位十二階の最高位・大徳に任じられたという。
日本書紀には隋からの帰国時、隋帝からの返書を百済で紛失したとある。
この事件で一時は流刑に処せられたが、すぐに許され出世している。
この事実は、古来より様々な論議を生んでいる。帰国した翌年、高向玄理、旻法師ら留学生を従えて、
再び隋へ派遣されたのを最後に、以後の功績は途絶えた。
**高向玄理
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|32|10|85|85|67|論客|C|C|C|C|C|C|?|654|||
【タカムコノクロマロ】
飛鳥時代の政治家、学者。
魏の曹操の末裔を称する渡来人の子孫。第三回の遣隋使派遣で小野妹子に従い、旻法師らと共に
隋へ留学、640年に帰国する。大化の改新後、旻法師と共に新政府の国博士に任じられ、
遣新羅使として新羅に赴き「任那の調」廃止と引きかえに新羅王子・金春秋を人質にする交渉をまとめた。
649年に新たな官制・八省百官を定めた後、遣唐使の押使として唐に赴き長安で客死したと伝わる。
**日文(旻)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|18|8|82|83|78|指導|C|C|C|C|C|C|?|653|||
【ニチブン(ミン)】
飛鳥時代の政治家、僧侶。
日本書紀によると中国系の渡来人で、魏の曹植の後裔を称する。
第三回の遣隋使派遣で小野妹子に従って隋へ留学。24年の後、帰国して塾を開くと
蘇我入鹿、中臣鎌足ら鋭才を輩出した。大化の改新後、高向玄理とともに国博士に任じられ、
八省百官の制を立案した後に病死。旻の表記は彼の墓に縦書きされた文字を読み間違えたもので、
本名は日文である。
**蘇我入鹿
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|68|51|82|88|64|威圧・怒髪・論客|C|C|B|C|C|C|610?|645||早熟・長|
【ソガノイルカ】
飛鳥時代の政治家。父は蘇我蝦夷。中臣鎌足らと遣隋使である僧・旻法師に学ぶ。
日本書紀の記述によれば、聖徳太子の子・山背大兄王と皇極天皇即位を巡って対立。
上宮王家討伐を掲げて軍を進め、山背大兄王等、聖徳太子の一族を根絶やしにしたという。
以後、朝廷では天皇すら蔑にする専横が目立ち、それを憂いた中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足に
乙巳の変で暗殺された。これにより蘇我宗本家は滅び、蘇我氏は没落の道を歩む。
通説では聖人の一族を根絶やしにした仏敵、中世最大の悪人と認識されるが、
現在は再評価が進み明瞭な政治家であったとの説もある。
「先代旧事本紀」によれば蘇我馬子と物部氏の女性との間に産まれた長男が入鹿であると記述され、
「日本書紀」に登場する蘇我馬子の長男で法興寺(飛鳥寺)の初代寺司・蘇我善徳は入鹿であるという説がある。
日本書紀で入鹿の出自が違うのは彼の功績を隠すため日本書紀編纂者が捏造した結果であり、
ひいてはこの蘇我善徳こそが聖徳太子であった(「聖徳太子は蘇我入鹿」説)という異説も存在する。
**中臣鎌足
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|83|87|86|77|75|秘計・明鏡・連環|A|C|A|C|C|C|614|669||
【ナカトミノカマタリ】
飛鳥時代の政治家。
遣隋使である旻法師、南淵請安らに学び、蘇我入鹿と並んで秀才と評された。
『六韜』を修め、中大兄皇子(天智天皇)の側近として乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺。大化の改新の原動力となった。
大化の改新後は政権中枢に昇り、政敵を蹴落としながら栄達の道を歩む。
死の直前に天智天皇より藤原の姓と冠位十三階の最高位を賜り、以後続く名門藤原氏繁栄の先駆けとなった。
百済の王子・扶余豊璋が彼であるとの意見も存在する。
**阿倍比羅夫
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|73|80|71|72|66|推進・強行・強奪|B|C|B|C|C|A|?|?||
【アベノヒラフ】
飛鳥時代の武将。180隻の水軍を率い、蝦夷を服従させ、粛慎と交戦した。
大化の改新後は蝦夷の領国経営に従事。
中大兄皇子(天智天皇)が百済救援を掲げると、その軍事手腕を買われて征新羅将軍に任命。
朝鮮に渡り唐・新羅連合軍と交戦するも白村江の戦いで大敗した。
**葛城皇子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|78|65|90|88|89|能吏・鬼謀・詭計|B|C|B|C|C|C|626|672(不自然死)||尊大|
【カツラギノミコ】
古代日本を代表する最重要人物の一人。天智天皇。
大化の改新を成し遂げた中大兄皇子の名前で知られる。
乙巳の変の後、有間皇子などの勢力を強引に一掃。百済再興を掲げ行動するも、
白村江の戦いで唐・新羅に惨敗。近江大津宮に遷都し帝に即位した。
即位後、様々な政治改革を決行。遣新羅使を派遣して唐をけん制するとともに、
遣唐使も数度派遣して唐との関係改善に努めた。
その死後、嫡子・大友皇子は弟・大海人皇子に壬申の乱で敗北。天智系は光仁天皇まで途絶える。
壬申の乱の背景について諸説あり、強引な遷都が豪族、民衆の不信感につながった説。
弟・大海人皇子の妻・額田王を権力で奪い取ったことが原因との説が存在する。
**大海人皇子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|95|80|95|96|95|洞察・威風・昂揚|B|B|B|C|B|C|?|686|冷静||普通・長|
【オオアマノミコ】
古代日本を代表する最重要人物の一人。天武天皇。天智天皇の弟。
天智天皇の嫡子・大友皇子を壬申の乱で破り、帝に即位した。
律令制を整備し、仏教を保護。神道を国教に据え、天皇を中心にした中央集権体制を確立。
数々の文化事業を行い、日本文化の礎を築く。 国を二分した壬申の乱では本営から前線の部下たちを指揮。
後方にいながら彼の戦略と人材起用はことごとく的中し、 圧倒的不利を覆して瞬く間に勝利を決定づけた。
その非凡な才覚は韓非子の「翼ある虎」に評され、日本の創設者の呼び声も高い。
補足:[[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87]]
**額田王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|11|2|74|56|93|詩想・楽奏・傾国|C|C|C|C|C|C|?|?|||
【ヌカタノオオキミ】
天武天皇の妃、後に天智天皇の妃となる。万葉集の歌人としても有名。
通説では絶世の美女で大海人皇子(天武天皇)に見初められて妻になったとされる。
大海人皇子との間に十市皇女を儲けたが、額田王の姉を妻にしていた中大兄皇子(天智天皇)が
妹である額田王も欲し、離縁して中大兄皇子に寵愛されたというが定かではない。
彼女が読んだ万葉集の和歌はかつての夫である大海人皇子を想って読んだ歌であり、
天智・天武両天皇との三角関係を想定する内容であるとも言われる。
彼女の存在が壬申の乱の火種になったとの説もあるが定かではない。
**鸕野讚良
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|62|28|93|92|90|百出・深謀・規律|B|B|B|C|B|C|645|703|冷静||
【ウノノサララ、ウノノササラ】
持統天皇。父は天智天皇、夫は天武天皇。
天武天皇が病気がちになると、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。
天武天皇の勅令により、皇太子である草壁皇子と共同で政務を執るようになる。
夫と息子が病気により他界すると、孫の軽皇子が幼年であった為、
天皇に即位して天武天皇の政策を引き継ぎ、律令政治を完成させた。
持統天皇は15才の軽皇子に譲位し、日本史上初の太上天皇になる。
譲位後も政務に関わり、大宝律令の制定・施行にも関与するなど、
日本史上重要な役割を果たした。
補足:[[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87]]
**高市皇子
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|82|78|76|61|90|補佐・明鏡・猛者|A|B|A|A|B|C|654?|696|剛胆||維持・長|
【タケチノミコ】
飛鳥時代の皇族。天武天皇(大海人皇子)の第一皇子。
天武帝の皇子であったが、母の身分が低く、後継者には鸕野讃良皇女の子である
弟の草壁皇子が選ばれた。壬申の乱では父である大海人皇子から軍事を任されて
諸事万端を整えて父の勝利に貢献した。その後吉野の盟約を経て、皇族重鎮として
朝廷を支える。弟の大津皇子、草壁皇子の薨去後も持統天皇を補佐した。息に長屋王。
※ 柿本人麻呂が彼を慕っていたといわれ、立太子された説もある。
**村国男依
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|89|84|80|64|77|連戦・猛者・掃討|S|S|B|C|C|C|?|676|||
【ムラクニノオヨリ】
飛鳥時代の武将。天海人皇子(天武天皇)の舎人として古くから仕え、彼が壬申の乱で決起すると
不破道を塞ぎ、大友皇子と東国の連携を絶った。近江大津宮攻防戦では大海人皇子の嫡子・高市皇子を補佐し、
各地の戦場で活躍。鳥籠山で敵将を討取るなど数々の武功をあげる。
近江瀬田橋の最終決戦では大友皇子の配下である帰化人・智尊に苦しめられるも、瀬田橋を突破し大友皇子を敗死させた。
大海人皇子は戦後の論功行賞で最も多く彼に報いたという。優れた武略の持ち主であったと伝わる。
**大伴吹負
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|83|76|79|54|80|不屈・機略・言毒|A|C|A|C|C|C|?|683|||
【オオトモノフケイ】
飛鳥時代の武将。大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で決起すると計略で敵を欺き、
わずかな手勢で飛鳥を占拠。この功績から大和方面軍の将軍に任命された。
当初は兵力が集まらず苦しい戦いを強いられ、敗戦も多かったが、美濃から紀阿閉麻呂の援軍が
到着すると攻勢に転じ、大和を手中に収めた。
**【奈良時代・平安時代(8世紀前半~12世紀後半)】
**藤原不比等
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|37|8|96|97|71|能吏・深謀・鬼謀|C|C|C|C|C|C|659|720|||
【フジワラノフヒト】
中臣鎌足の次男。天智天皇のご落胤とも
天武天皇に推挙され、持統天皇に重用されることで頭角をあらわした。
皇太子の草壁親王から後事を託された後、その子文武天皇の即位に成功させ、
大宝律令をはじめとする律令制の制定にも関わった。晩年はその強大な勢力を
天皇家に警戒されたが、水面下で着々と藤原氏の権力固めを行い
後の摂関政治に通じる天皇外戚としての権力掌握の原型を作った。
一説には日本書紀成立にも関与していたと言われている。
**弓削道鏡
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|3|14|68|56|42|機略・言毒・能吏|C|C|B|C|C|C|700|772|小心|尊大|
【ユゲノドウキョウ】
法王。日本的な思想を否定する孝謙天皇に寵愛され頭角を表す。
孝謙天皇の意を汲み神託を悪用し天皇の位を望むが、和気清麿らに阻まれた。
天皇との姦通説や巨根説で有名で、巨根説では今なお大和男子の羨望を集める。
※その生涯は秦の宦官「嫪毐」と結び付けられることが多い。最近では天寿を全うしたことから反説として実務的な政治家といわれることもある。詳細は[[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E9%8F%A1]]
**坂上田村麻呂
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|親愛|
|89|77|86|85|93|名声・威風・沈着|A|A|B|C|B|C|758|811|剛胆||阿弖流為|
【サカノウエノタムラマロ】
平安初期の英雄。史上2人目の征夷大将軍に叙せられ、後世に「北天の化現」の異名で知られる。
桓武天皇の下で行われた蝦夷征伐において、朝廷軍を率いて蝦夷の名将アテルイと熾烈な戦いを繰り広げた。
第三次蝦夷征伐では政略による蝦夷の懐柔統治を目論見、蝦夷勢力の分裂を成功させる。
これにより蝦夷は次々に朝廷に降伏。宿敵アテルイも田村麻呂に心服し、田村麻呂は助命を嘆願するも朝廷に処刑された。
薬子の変でも功績をあげると共に、清水寺や富士浅間神社の創建者として現在に名前を残している。
**阿弖流爲
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|親愛|
|90|88|81|65|86|乱戦・弓将・射手|B|A|A|C|C|C||802|剛胆||坂上田村麻呂|
【アテルイ】
古代東北の英雄。
朝廷の蝦夷征伐に対抗するため諸部族を糾合し、10年以上も朝廷と熾烈な争いを繰り広げた。
第一次征伐では紀古佐美率いる朝廷軍5万をわずか4000で迎え撃ち、巧みな戦術で朝廷軍に大勝している。
その後も朝廷と戦い続けたが坂上田村麻呂の懐柔戦略により蝦夷部族の結束は瓦解。
アテルイは朝廷に捕えられて処刑された。田村麻呂の伝説にある「悪路王」は彼がモデルだと言われている。
**藤原利仁
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|83|84|77|60|70|駆逐・沈着・威圧|A|B|C|B|C|B|?|?|剛胆||
【フジハラノトシヒト】
平安中期の武将。将門以前に関東で起こった大乱を鎮め、その武勇を轟かせた。
その武功は「神の人」と称えられ、征新羅将軍に任命される。新羅遠征に向かう途中、
その武名を恐れた新羅人が唐の陰陽師を雇って彼を呪殺したとの逸話があるが定かではない。
彼の軍略を記した兵法書は鞍馬寺に伝わり、鬼一法眼より源義経に伝えられたとされる。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**菅原道真
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|12|4|62|81|89|鬼門・能吏・論客|C|C|C|C|C|C|845|903|剛胆|丁寧|維持・短|
【スガワラノミチザネ】
平安時代の貴族。文章博士。
若年の頃より朝廷で頭角をあらわし、阿衡事件の鎮定に
貢献したことから宇多天皇に重用される。遣唐使の廃止を提言し、
藤原氏に対抗しうる側近として宇多天皇から格別の待遇を受け、宇多天皇の譲位後も
息子の醍醐天皇に対して道真を厚く遇するよう宇多上皇が献言するなど寛平の治の立役者として
朝廷の重鎮を成していたが、やがて昌泰の変にて失脚。大宰府に左遷され、同地で死去した。
藤原氏の讒言によるものとされ、死後に政敵とされる藤原時平が急死したことなどから道真の祟りと言われた。
**平将門
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|87|91|71|65|92|騎将・火攻・猛者|S|B|C|A|C|C|?|940|剛胆||
【タイラノマサカド】
平安中期の武将。日本三大悪人の一人。
関東で大乱を起こし、朝廷を戦慄させた。自らを天皇に変わる「新皇」と称し、
関東に独立王国を築こうとしたが、朝廷の差し向けた藤原秀郷らに敗北し野望は潰えた。
日本における騎馬戦術の先駆者であるという逸話や、日本刀の剃りを考案した人物であるとの逸話がある。
その死後、斬首された首は朝廷を呪詛しながら関東に飛び去ったという伝説を残す。
**藤原秀郷
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|85|87|78|56|76|強襲・金剛・鉄壁|A|B|S|C|C|C|?|?|冷静||
【フジハラノヒデサト】
平安中期の武将。別名は俵藤太。
関東に赴任した官僚の子孫で優れた武勇を誇り、その名を轟かせた。
平将門の乱では朝廷から将門討伐を命令され、卓越した武略で将門を封じ込め関東一円を揺るがす
大乱をわずか2か月で制圧する。大ムカデ討伐など優れた武勇を示す伝説を数多く持ち、
後世にその子孫を名乗る武士が全国各地に存在した。忠臣蔵で有名な大石内蔵助もその一人である。
**藤原純友
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|83|78|61|37|67|水将・操舵・攻城|B|C|A|C|C|A|893|941|剛胆||
【フジハラノスミトモ】
平安中期の貴族。朝廷から瀬戸内海の海賊討伐の命を受けるが、恩賞が少ない事に激怒。
逆に海賊の長となって朝廷に反旗を翻した。朝廷が差し向けた討伐軍を度々撃破し、四国、九州を席巻。
九州大宰府を陥落させた。平将門に呼応し、彼を凌ぐ領土を獲得したが、
将門の乱が鎮圧された事で朝廷の攻勢が激化。名将・小野好古らに追い詰められ処刑された。
**小野好古
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|84|81|75|52|53|水将・強行・推進|A|C|A|A|C|S|884|968|剛胆||
【オノノヨシフル】
平安中期の貴族。弟に三蹟の1人である「小野道風」がおり、弟に比べて
官位の昇進は遅かったといわれている。912年に讃岐権守につき、
讃岐へ赴任して守備万事を担ったといわれている。その後藤原純友が
反乱を起こすと、追捕凶賊使として純友討伐に向かい、自軍に勝る
純友軍を撃破し続け、博多津にて純友軍に致命的な打撃を与え、乱終息に貢献。
その後は従三位参議として朝廷に仕え続けた。
**藤原道長
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|2|5|94|99|70|名声・威圧・論客|C|C|C|C|C|C|966|1028|剛胆||
【フジハラノミチナガ】
平安時代中期の貴族。藤原兼家の四男。
藤原氏中興の祖であり、甥の藤原伊周をはじめ、数々の公家と権力争いを繰り広げ
権力を急速に拡大。父、兼家の権勢を受け継ぎつつそれを確固たるものとし
左大臣、右大臣と要職を歴任した。後年は摂政について天皇家をも牛耳り
自らの孫である敦成親王を後一条天皇として即位させた。晩年は従一位太政大臣に就任。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と言う句の通り、
道長死後も彼の子孫のみが藤原氏として栄華を極めることができたのである。
**藤原頼通
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|
|3|8|83|87|66|能吏・楽奏・論客|C|C|C|C|C|C|992|1074|冷静||早熟・長|
【フジワラノヨリミチ】
平安時代中期の貴族。藤原道長の嫡男。
権勢を誇る道長の嫡男として朝廷内では異例の出世を果たし、
21歳で権大納言、26歳で摂政、28歳で関白に就任、以後転属を
行いながらも計50年にわたって関白を務めた。後一条、後朱雀、後冷泉と
3人の天皇の外戚親族として権勢をふるい、平等院鳳凰堂への改修や
後拾遺和歌集への和歌入首など文化的事業にも精通している。しかし、晩年は
疎遠な後三条天皇の即位や、弟藤原教通との関白職対立など、藤原家衰退の遠因を作った。
**平忠常
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|77|83|21|18|34|猛者・強奪・遁走|B|B|C|B|C|C|967|1031|剛胆||
【タイラノタダツネ】
平安中期の武将。平将門の近親。強大な武力を背景にした傍若無人な振る舞いで朝廷の命に従わず、
国税を求める安房の国司を焼き殺して関東で反乱を起こした。坂東武者を従え朝廷の軍を悉く撃退。
関東三州を手中にし反乱は3年続いたが、最後は疲弊して朝廷に降伏した。
**藤原隆家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|84|68|80|62|83|不屈・威圧・鉄壁|B|C|B|C|C|B|979|1044|剛胆||
【フジハラノタカイエ】
平安中期の公卿。放蕩にふける豪快な性格で「天下の性な者」と呼ばれた。
叔父・藤原道長との政争に敗れ大宰府権帥に左遷後、
眼病治療の為に赴任していた時に朝鮮半島の刀伊(女真族)数千が対馬・壱岐を侵略。
対処を求められた隆家は直ちに九州の武官・僧侶を招集して奇襲でこれを撃退した。
言霊信仰の朝廷はこの事態を嫌忌して隆家に恩賞を与えなかったが、
これは元冠に先駆ける事200年、日本初の自衛戦争であり、
彼が成し遂げた功績は大きい。
**清原武則
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|84|71|68|53|72|強襲・急襲・威圧|B|C|C|A|C|C|?|?|剛胆||
【キヨハラノタケノリ】
平安後期の武将。出羽の領主。
奥州の豪族・安倍氏と、源頼義との間に勃発した前九年の役において、源氏側の求めに応じて
精兵を率いて参戦。安倍氏の拠点を次々に攻略し滅亡に追い込んだ。その圧倒的な軍事力から
「北の王」の異名を取り恐れられたという。
**源義家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|89|93|78|58|82|白馬・洞察・長駆|A|B|S|A|C|C|1039|1106|剛胆||
【ミナモトノヨシイエ】
平安後期の武将。八幡太郎の異名で知られる。
平忠常の乱を鎮めた源頼信の孫。若い頃から神業的な弓馬の腕を誇り、
前九年・後三年の奥州大乱で多大な功績を残し、「天下第一武勇の士」と評された。
一方で勝利する為には如何なる手段も厭わぬ冷酷な一面も持っていたとされる。
後の征夷大将軍・源頼朝及び足利尊氏は彼の子孫にあたる。
**藤原清衡
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|78|62|81|85|84|繁殖・富豪・築城|B|C|B|A|C|C|1056|1128|||
【フジハラノキヨヒラ】
平安後期の武将。前九年の役で清原氏に滅ぼされた亘理藤原氏の出自だが、
母が清原武則の息子と再婚したことにより清原一族に加わる。清原一族の内紛、後三年の役で
同族に追い詰められるも源義家と同盟してこれに対抗。五年に渡る乱を生き残り清原氏の長になる。
その後は姓を藤原に戻し、奥州平泉を中心に版図を広げ、奥州17万騎と言われた藤原氏の黄金卿を築いた。
**平清盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|89|64|85|92|87|富豪・徴税・虚実|B|B|A|B|C|A|1118|1181|||
【タイラノキヨモリ】
平安後期の武将。平氏の棟梁。
保元・平治の乱で宿敵たちを次々に破り、巧みな軍事手腕と日宋貿易による財力で
武士としては初の太政大臣にまで上り詰める。「平氏に非ずんば人に非ず」とまで言われた
平氏全盛期を築き上げたが、情にかられ源頼朝を生かしてしまった事で没落へと歩みを進めた。
**平時忠
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|26|11|87|83|52|論客・威圧・強運|C|C|C|C|C|C|1130|1189|||
【タイラノトキタダ】
平安後期の公家。平清盛の義弟にあたる。
同母姉の時子が清盛の正室となったため、平家一門の重鎮として権勢を振るった。
才覚に優れ、検非違使、蔵人頭を歴任。しかし軽はずみな行動から疎まれることも多く、失脚を
数度経験した。清盛を支え平氏一門の調整役を兼ねつつ独自の権勢を築き、「平家にあらずんば
人にあらず」と豪語する権力を握った。清盛死後も平家重鎮、中納言として権力を握るが、源氏の挙兵により
失墜。自身は平家都落ち同道後、壇ノ浦で捕縛された。功績や身分により死一等を免じられ、配流先の能登で死去。
**源義朝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|81|90|65|68|80|急襲・猛者・乱戦|S|A|A|S|C|C|1123|1160|剛胆||
【ミナモトノヨシトモ】
平安後期の武将。源義家の曾孫であり、源為義の長男。弟に源為朝ら。
幼少時から東国で育ち、上総氏の庇護を受けて育つ。その後、東国関東を
中心に独自の勢力を築き、朝廷に接近して権力を得たが、父である為義と対立し
父方である弟の義賢を義平に命じて敗死させた。嫡男頼朝を高官につけ、
保元の乱で父と対立しつつも勝利し、河内源氏随一の勢力を誇っていたが、平治の乱で
敗れて敗走し、道中尾張野間にて家臣の裏切りにあい死去。
※ 従来源氏の嫡男、惣領であると言われてきたが、最近では実弟の義賢、頼賢を嫡男とする見方が強い。廃嫡されたとする説もある。
**源義平
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|78|95|57|34|83|闘神・連戦・遁走|S|B|S|A|C|C|1141|1160|剛胆||
【ミナモトノヨシヒラ】
平安後期の武将。源義朝の庶長子。「悪源太」の異名をとる。
若年の頃から父、義朝の命で関東東国を支配し、対立する源義賢を大蔵合戦で討ち取る。
その後、平治の乱で父である義朝が中央の政争に関与すると東国から
精鋭を率いて上洛。源氏軍の主力として大いに奮戦した。特に平氏軍との
戦いではわずか17騎で500騎を相手にし、平重盛を心胆寒からしめたと言われている。
源氏軍の敗走後は途中で父と別れるが、父の死後まもなく捕えられ刑死した。
父の仇として平清盛の暗殺を企んだとも言われている
※その他候補となった特技:猛者・鬼門・勇将
**源為朝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|
|85|97|37|26|78|猛者・弓神・遁走|B|A|S|B|C|C|1139|1170|剛胆||
【ミナモトノタメトモ】
平安後期の武将。源義家の曾孫にあたる。
傍若無人な振る舞いで父親に追放されたが、追放先の九州でも暴れまわり鎮西八郎の異名をとった。
保元の乱では規格外の剛勇を発揮し、平氏郎党を戦慄させたという。
保元の乱に敗北し伊豆に流罪になったが、流罪先の伊豆七島を制圧。
討伐軍と交戦し一矢で軍船を沈没させた伝説を残す。琉球王国の正史によれば初代琉球王・舜天は
伊豆から逃れてきた源為朝だと謂うが定かではない。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄、弓のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**平重盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|77|70|68|79|82|昂揚・能吏・補佐|A|A|B|A|C|C|1138|1179||早熟・短|
【タイラノシゲモリ】
平安後期の武将。平清盛の嫡男。弟に平宗盛、平知盛など。安徳天皇の叔父にあたる。
保元、平治の乱に父に従って参戦し奮戦。父の後をついていく形で出世を遂げた。
優れた将器の持ち主で父、清盛から後継者に指名され、後白河法皇にも重用されている。
清盛に次ぐ平家重鎮として君臨したが、晩年は異母弟宗盛の台頭や清盛と後白河の対立など
気苦労が絶えなかったと言われ、1179年に早逝した。彼の死後、その知行国は没収され、
平清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなった。
**平宗盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|29|14|46|71|55|遁走・論客・能吏|C|B|C|C|C|C|1147|1185||普通・短|
【タイラノムネモリ】
平安後期の武将。平清盛の三男。清盛の一門として朝廷政権の要職を占め、兄の重盛を補佐。
重盛が早逝すると平家棟梁後任として扱われるようになるが、清盛と後白河法皇の対立が表面化。
宗盛は時に父、清盛と対立してまで政局の挽回に努めようとするが、結果的には源氏をはじめ、
各地で反平家の反乱が頻発。清盛が亡くなると平家一門を率いて木曽義仲、源頼朝軍と当たるが
後白河法皇の支持を得た源頼朝軍に押され、ついに壇ノ浦で滅亡を見る。宗盛は逃れたが捕えられ
のち源頼朝の命で処刑された。
**平知盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|89|84|75|54|74|猛者・威風・水神|A|B|A|S|C|S|1152|1185||維持・長|
【タイラノトモモリ】
平安後期の武将。平清盛の四男。兄に平重盛、平宗盛など。清盛最愛の息子と言われる。
重盛死後に平家棟梁となった兄の宗盛を補佐し、反平氏軍の反乱鎮圧にもあたった。
清盛の死の前後から弟の重衡とともに平家軍の中核を成し、幾度となく源氏軍らをはじめとする
反平氏連合軍と戦い続けた。都落ち後も奮闘して木曽義仲の軍勢を水島で撃退し再起を図るが
後発でやってきた源範頼、源義経らに一ノ谷で敗北。以降斜陽の平家を必死で支えたが、
勢力を挽回するには至らず、壇ノ浦の戦いで敗北。平家滅亡を見届け、自害した。
**平教経
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|80|98|56|21|70|弓神・操舵・猛者|B|C|S|S|C|A|1160|1185?||維持・長|
【タイラノノリツネ】
平安時代後期の武将。平教盛の次男。平清盛の甥にあたる。
水島の戦いで平家軍の主軸として活躍し、追討してきた木曽義仲軍に甚大な被害を与えた。
その後四国の反平氏勢力の反乱を鎮圧し、平家軍の足場固めに貢献。
一の谷の戦いでは敗戦したが、つづく屋島の戦いでは源義経軍と激戦を繰り広げ、
義経股肱の佐藤継信を戦死させる働きを見せた。壇ノ浦の戦いでも孤軍奮闘し
敵兵を弓や大太刀で切り伏せ、源義経との決戦を望んだが、義経が引いたことで決着を見なかった。
最期は武器や鎧を捨てて仁王立ちしたのち、入水。仁王立ちの際に源氏軍の兵士たちは恐れて
組みかかろうとせず、のち剛の者が三人がかりで組みかかったが、教経の道連れになったという。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**平維盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|23|47|16|28|61|遁走・推進・祈願|C|C|C|C|C|C|1158|1184?||維持・長|
【タイラノコレモリ】
平安時代後期の武将。平重盛の庶長子のち嫡男。
当初は異母弟の資盛が嫡男だったが、殿下乗合事件にて嫡男に昇格した。
その後、父である重盛が早逝すると地位を格下げされ、以仁王の乱では
叔父の重衡に従いこれを鎮圧するが、血気盛んなところを諌められる。
のち富士川の戦い、倶利伽羅峠の戦いで多くの軍勢を抱えながら源氏軍に大敗を
喫し、祖父である平清盛から激怒された。平家都落ちの際に宗家から離反。
紀伊にて出家し、のちに入水したと伝わっている。
*中世(鎌倉時代~戦国時代、諸説あり)
「[[中世>みんなの新武将/倭・日本(中世)]]を参照」
*近世(信長上洛~江戸時代、諸説あり)
「[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]を参照」
*近代(黒船来航~第二次世界大戦、諸説あり)
「[[近代>みんなの新武将/倭・日本(近代)]]を参照」
----
----
#comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/倭・日本/コメント)
*注意点
&color(Red){協議の結果、みんなの新武将の項目は別サイトに移転しています。}
https://wikiwiki.jp/sansinb/
&color(Red){今後はこちらの利用をお願いします。}
表示オプション
横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: