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みんなの新武将/宋 - (2011/09/22 (木) 20:56:35) の最新版との変更点
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#CONTENTS
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*北宋(960~1127)
後周の殿前軍都点検(近衛軍団長)だった趙匡胤が陳橋駅で禁軍将兵に推戴され、後周の天子に禅譲させたもの。
開封を国都と、中唐以来の軍害に顧慮して文尊武卑を国是とし、兵・政・財権を皇帝に集中させる独裁君主制を確立した。
文尊の象徴として科挙の本格的運用と、舌禍・筆禍による処刑を禁じたことが挙げられ、
多数の文人学者が任用されただけでなく、市民を含めた諸文化が開花した。
反面、名文論が先行し、朝議はしばしば党争の場となって政務が停滞し、新旧法争などはその典型といえる。
加えて、武卑策は“良鉄不釘”に象徴されるように武人の質と戦意を大きく低カさせ、貧民対策としての傭兵が状況を助長し、
莫大な軍費に反して契丹・党項・女真には劣勢を強いられ、歳幣などによる講和外交と常備軍の肥大化は財政の大きな負担となった。
神宗期に王安石が断行した新法は社会矛盾の是正と財政再建を骨子としたが、祖法遵守を主張する保守官僚や後宮勢力から排撃され、
以後は新旧法党がしばしば攻守を替えたことで政策が転変し、徒らに社会・経済を混乱させて状況を悪化させただけでなく、
徽宗期には天子と側近の道楽趣味などが加わって苛斂誅求が甚だしくなり、各地で暴動・叛乱が続発した。
また、燕雲十六州回復のために新興の女真族と提携しながら、滅遼後は“以夷制夷”を称して契丹族を煽動するなど背信を重ね、
1127年に金軍の大攻勢を招いて開封が陥落し、徽宗・欽宗のみならず皇族・百官の殆どが塞外に護送され、宋朝は一時断絶した。
**趙匡胤
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|93|95|71|78|90|勇将|S|S|A|S|B|S|927|976|
【チョウキョウイン】
北宋の太祖。
郭威(後の世宗)に仕え、後周建国後に禁軍の将に任じられる。
高平の戦いでは後周軍が壊乱状態となる中、自ら先頭になって敵陣へ突撃して督戦し勝利を収める。
南征では南唐の清流関を陥落させ、その後の反攻も防ぎ、南唐の城塞を次々と攻略した。
世宗崩御に乗じて北漢が侵攻すると、幼帝に不安を抱く将兵らに皇帝に擁立される(陳橋の変)。
その後、恭帝から禅譲され宋を建国。荊南、後蜀、南漢を征服し、天下統一を目前とする中で急死した。
その死には弟で後を継いだ太宗趙匡義による毒殺説がある(千載不決の議)。
**趙匡義
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|64|89|82|56||A|A|B|C|B|C|939|997|
【チョウキョウギ】
北宋の太宗。太祖趙匡胤の弟。
趙普とともに陳橋の変を主導し、趙匡胤の皇帝即位を説得する。
晋王に封じられ臣下の序列一位となり、太祖が各地に親征をする際には留守を任される。
太祖が急死すると太宗として即位。呉越が投降し、北漢を滅ぼし、天下統一を成し遂げる。
その後、燕雲十六州の奪回を目指して遼に親征を行うが失敗に終わる。
治世では太祖の文治主義を継承し、軍人から文人による統治へと転換させた。
なお、即位後に太祖の太子を自殺させ、自身の息子を立太子させたことから、太宗による太祖暗殺説も根強い。
補足:名前は、趙匡胤が宋を建国すると忌諱して趙光義、即位後には趙炅と名を改めている。
**趙普(則平)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|34|27|93|95|37|沈着|C|C|C|C|C|C|922|992|
【チョウフ(ソクヘイ)】
後周、北宋の政治家。
後周の官吏で、趙匡胤の書記となりその知恵袋となる。
陳橋の変を主導して将兵達に趙匡胤に黄衣(皇帝の衣)を着させる。
その後、趙匡義を仲間に引き入れ、趙匡胤が皇帝に即位するよう説得した。
北宋の元勲として宰相に任命される。
趙匡胤が進めた文治主義の実務を取り仕切り、節度使の軍権を削り、科挙による文人の登用に辣腕を振るった。
幾度か讒言により職を追われ、その後復職するを繰り返し、都合三度宰相位に就いている。
「沈毅果断」と称されたが、その反面収賄などで度々弾劾・讒言されている。
**曹彬(国華)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|86|73|42|81|規律|S|S|A|C|A|C|931|999|
【ソウヒン(コクカ)】
後周、北宋の武将。
朴訥な人柄で、略奪を嫌う清廉な人物だった。
北宋の元勲として各地を転戦。
後蜀の征伐戦では僚将による殺戮・略奪を止められなかったが、
これに加わらなかったため、太祖趙匡胤より信頼を受け節度使に任じられる。
南唐の首都・金陵の攻略前には、諸将に略奪を禁ずるために誓紙を出させている。
このため江南は破壊を免れ、北宋に文化隆盛をもたらすこととなった。
太宗趙匡義のもとでは北伐に参加し東路を進むも、兵糧が尽きたところを遼軍に襲撃され敗北している。
**高懐徳(蔵用)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|91|61|49|75|強行|S|A|S|A|B|C|926|982|
【コウカイトク(ゾウヨウ)】
後晋、後漢、後周、北宋の武将。
父の高行周に従軍し、初陣では濮陽で契丹軍に包囲されるもこれを突破する。
高平の戦いで活躍したことで後周の世宗に重用され、南征に起用される。
淮河を渡って敵軍を数騎で偵察し、世宗が淮河で襲撃された際には救援に駆けつけた。
北伐では先鋒を務め、瓦橋関の戦いで勝利した。
陳橋の変で北宋が成立すると、趙匡胤の妹を妻とし皇族に連なる。
各地の反乱鎮圧、十国征伐、北漢征伐に従軍し北宋の元勲として活躍、冀国公となる。
その後、武勝軍節度使に任じられた直後に病没した。
**潘美(仲詢)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|80|82|77|29|詭計|A|A|A|C|A|C|925|991|
【ハンビ(チュウジュン)】
後周、北宋の武将。
趙匡胤に重用され、陳橋の変では諸将が趙匡胤に服するよう説得している。
南漢征伐の指揮を任されると、賀州や韶州で南漢の大軍を撃破し、南漢を降伏させている。
その後、太宗趙匡義の北漢親征・遼親征に従う。
雁門の戦いでは主力軍を率い、別働隊の楊業と挟撃を成功させ勝利を収める。
続く北伐では、西路軍の大将として侵攻するも、遼軍に敗れ撤退。
その際、楊業に出撃を促し見殺しにして撤退したため、その責任で官位を削られ爵位を剥奪された。
後に復官し、晩年には宰相位に就任するも直ぐに亡くなった。
※「楊家将演義」では潘仁美の名で呼ばれる。
**呼延賛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|93|55|14|69|猛者|S|S|C|S|B|C|?|1000|
【コエンサン】
北宋の武将。晋代に漢化した匈奴系の出身。
兵卒時代に武勇を太祖趙匡胤に見出され、軍使に任じられる。
後蜀征伐では先鋒を務め奮戦、北漢征伐では鉄騎軍を率いて太原攻略戦に加わる。
常に自ら軍の先頭に立ち、負傷しながらも敵陣や城壁を突破し、数々の軍功を立てた。
宋の統一後は北辺の守備に就き、定州を守る。
太宗趙匡義の御前では鉄鞭と棗木槊の演舞を披露し、褒賞を受けている。
忠義心厚く勇猛だったが、その反面で猪突する軽率な面もあった。
また、「赤心殺賊」の刺青を一族郎党に施し、紅巾を頭に纏うなど傾奇者でもあった。
**楊業
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|95|56|30|88|騎神|A|A|B|S|C|C|?|986|
【ヨウギョウ】
五代十国末期の北漢、および北宋初期の武将。
北漢の節度使として代州に駐屯するが、北漢が宋に降伏したため楊業も宋に下る。
遼が十万の軍で雁門関を攻めると、楊業は雁門関を迂回して遼軍を奇襲し打ち破っている。
このため「楊無敵」と恐れられた。
宋の太宗趙匡義による北伐では潘美の副将として西路より遼へ侵攻する。
しかし潘美らが北漢の降将である楊業を疎み、楊業が戦わざるをえない状況に置き、
友軍に見殺しにされた楊業の軍は壊滅。捕虜となった楊業は絶食して命を絶った。
補足:本名は楊重貴、北漢時代は劉継業、北宋時代は楊業と名前が変わる。
後代に北宋の忠臣として讃えられ、「楊家将演義」(明代に成立)の第1世代として語り継がれている。
**楊延昭
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|85|72|36|81|鉄壁|S|A|A|S|A|C|958|1014|
【ヨウエンショウ】
北宋の武将。楊業の六男。「楊六郎」の異名で恐れられた。
楊業に従軍し、北伐西路の先鋒を任され朔州を陥落させる。
この北伐戦で父と兄が戦死したため、楊家軍を引き継ぐ。
遼軍が南進すると、武器も兵糧もない中で三千の兵で遂城を守備する。
厳冬期を利用して水を流し城壁を凍らせたため遼軍は攻略に失敗し、「鉄遂城」と畏怖された。
さらに遼軍が報復戦を挑むと、伏兵をもって撃退している。
保州では遼軍の速攻に敗れるも、その後真宗より兵一万を加増され古城を陥落させた。
その直後に宋と遼との和約が成立し、抗遼の戦いは終息した。
補足:本名は楊延朗だが、後に真宗が奉じた道教の神・趙玄朗の名を忌諱して楊延昭と改名している。
また、『楊家将演義』の「四郎探母」で知られる兄の楊貴(楊四郎)の字が延朗で通称「楊延朗」とも呼ばれ非常にややこしいため、
六男を「楊延昭」としておく。
**寇準(平仲)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|46|20|85|84|72|規律|C|C|C|C|C|C|961|1023|
【コウジュン(ヘイチュウ)】
北宋の政治家。
剛直な人柄で直言をはばからず、太宗や真宗に信頼された。
参知政事(執政位)に任じられ、工部、刑部、兵部の要職を歴任し、同平章事(宰相位)に就いた。
遼の聖宗による親征においては、王欽若の南遷論が主流となる中で真宗に親征を主張する。
寇準の主張が入れられ真宗自ら出陣し遼軍と対峙、澶淵の盟が締結される。
北宋はこれにより朝貢国となったが、遼の侵攻以前の国境が維持されることとなった。
しかし、南遷論を覆されたことで恨んだ王欽若が讒言したため失脚する。
没後に名誉回復が行われている。
**王欽若(定国)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|20|18|86|82|14|言毒|C|C|C|C|C|C|962|1025|
【オウキンジャク(テイコク)】
北宋の政治家。江西の人。
江南出身者として初めて宋の宰相に上る。
真宗の信任を受けるが狡猾で讒言を得意とし、士人に憎悪された。
遼の侵攻に対して南遷を主張するも寇準の親征論に敗れる。
戦後、澶淵の盟を「恥ずべき城下の盟」と讒言して寇準を退け、
真宗のために天書を捏造して泰山に封禅の儀を行った。
一時失脚するが仁宗の代に宰相に復し富貴を全うして死ぬ。
真宗朝の奸臣「五鬼」の筆頭に挙げられ、仁宗には「真の奸邪なり」と評された。
**丁謂(公言)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|68|25|88|90|22|徴税|C|C|C|C|C|A|966|1037|
【テイイ(コウゲン)】
北宋の政治家。蘇州の人。奸臣「五鬼」の一人。最初の字は謂之。
経済に通じ、三司使(財政長官)に任じられて宋の財政を一手に担った。
澶淵の役では避難民の保護にあたり黄河の渡し舟を確保。
偽兵の策を用いて戦わず遼軍を撤退させる。
真宗の歓心を買うため王欽若に協力し宮殿造営・宗教儀式に国庫を浪費する。
寇準とその党派に苛烈な粛清を行い、王欽若をも追い落として宰相の地位を手にしたが
二年足らずで失脚。崖州(海南島)へ流された。
熱心な仏教徒でもあり、渡宋してきた日本僧寂照(大江定基)を庇護している。
**狄青(漢臣)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|91|94|74|69|85|急襲|S|B|A|S|B|C|1008|1057|
【テキセイ(カンシン)】
北宋の将。一兵卒から叩き上げで将軍の位まで出世した稀有な人物。汾州西河の人。
貧家の出身だったが、武勇に優れ、西夏との国境で活躍。
四年で二十五回もの戦いに参加し、満身創痍の激戦の中、多くの戦果を挙げる。
この時、出自の刺青を隠すため銅面を被っていたという。
軍略や兵士の心理掌握にも優れ、枢密副史になった後も、
儂智高の反乱では士気揚がらぬ鎮圧軍を策略で叱咤し鎮圧に成功した。
しかし、その才を朝廷に疑われ、左遷先で没した。
庶民出身という出自から、多くの民間伝承に名が残る。
**包拯(希仁)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|24|30|87|94|99|指導|C|C|C|C|C|C|999|1062|
【ホウジョウ(キジン)】
北宋の官吏。別名「包龍図」「包待制」。
清廉潔白で公正無私な官吏の代表的存在。
仁宗の代に科挙を受け進士及第し、建昌知県、天長知県、端州知州を歴任。
監察御史となると当時の任官制度を批判し、汚職を行って民衆を虐げていた官吏を処罰し賊吏を一掃した。
開封府尹に任じられると、一年三ヶ月の短い着任期間で開封府の綱紀を改めた。
最終官位は枢密副使に昇り、病没。死後に吏部尚書を追贈されている。
また死後には「包公」「包青天」と民衆から尊敬され、後代には閻王として神格化され崇拝された。
補足:後世に包拯故事が語り継がれ、名裁判官として広く知られる(日本の大岡越前のエピソードの大元)。
その厳格な様から「包黒子」と呼ばれ、黒がイメージカラーとなっている。
**范仲淹(希文)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|61|78|86|64|屯田|A|B|A|C|C|C|989|1052|
【ハンチュウエン(キブン)】
北宋の政治家、文学者。
進士及第後、吏部に勤めるも改革論を唱え左遷される。
西夏が興ると、陝西で屯田を行いながら数年にわたり侵攻を防ぐ。
韓琦とともに西夏領への侵攻も行うが、これは失敗に終わる。
西夏の人々から「龍図老子」「小范老子」と畏怖され、范仲淹の辺境在任中は国境を犯さなかった。
この功績で中央政界に復帰し、参知政事(副宰相)となる。
その後は慶暦の改革に携わり、陝西宣撫使、戸部侍郎を務め、その後没した。
文学者としては、散文の「士先二天下之憂一而憂、後二天下之楽一而楽(先憂後楽)」で知られる。
**欧陽修(永叔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|13|10|86|89|70|眼力|C|C|C|C|C|C|1007|1072|
【オウヨウシュウ(エイシュク)】
北宋の政治家、文学者、歴史学者。号に醉翁、六一居士。唐宋八大家の一人。
独学で進士及第し、包拯の後任として開封府尹に就任。
范仲淹と改革に取り組むも、強硬な手法が疎まれ度々左遷される。
中央に戻ると要職を歴任、参知政事(副宰相)に昇る。
その中で蘇軾、蘇洵、王安石らを見出し登用している。
王安石の新法改革を初めは支持していたが、青苗法が施行されると反対派に転じて政界を引退した。
文学者としては、初めて「号」を用いた人物とされ、古文復興運動を進めた。
また「新五代史」「新唐書」を編纂し、金石学を創始している。
**王安石(介甫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|26|7|78|91|69|徴税|C|C|C|C|C|C|1021|1086|
【オウアンセキ(カイホ)】
北宋の政治家。撫州臨川の人。唐宋八大家の一人。
財政破綻に苦しむ神宗の治世下で、青苗法・募役法等の様々な新法を施行し、
宰相の地位にまで昇り詰める。
だが、これらの法は特権階級の既得権益を脅かすものであり、
司馬光を中心とする旧法党の猛反発を受けた。
結果として、哲宗の摂政を務めた宣仁太后、及び宰相の司馬光の力で多くの新法が廃止されたが、
彼らの死後に復活している。
徽宗の代でも悪用こそされたが廃止はされず、南宋にも影響を与えた。
**司馬光(君実)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|14|8|87|62|86|論客|C|C|C|C|C|C|1019|1086|
【シバコウ(クンジツ)】
北宋の史家・政治家。陝州夏県の人。司馬孚の末裔とされる。
王安石の新法への反対派である旧法党の最右翼であり、王安石と論争を繰り広げた。
決して一枚岩とはいえなかった旧法党だが、神宗の死後宣仁太后が摂政となったこともあり、
宰相に就任し多くの新法を廃止した。
だが、在任一年程度で亡くなったため、財政政策の代案を打ち出せたかは疑問視される。
最大級の編年体の史書である『資治通鑑』の編者として知られ、
皇帝の輔弼を目的に書かれた本書は極めて評価が高く、帝王学の名著として定評がある。
**蘇軾(子瞻)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|21|20|84|76|75|詩想|C|C|C|C|C|C|1036|1101|
【ソショク(シセン)】
北宋の政治家、詩人、書家。号は東坡居士。唐宋八大家の一人。
進士及第後、地方から中央へと出世するが、王安石の新法改革に反対して左遷される。
さらに、讒言を受け黄州に左遷され、この地を東坡と名づけて東坡居士を名乗るようになる。
この時期に有名な「赤壁賦」を詠んでおり、詠んだ場所は文赤壁と呼ばれるようになった。
旧法派が復権すると中央政界に復帰する。
司馬光が新法を全て廃止しようとすると、有用な新法は残すべきとして対立した。
その後、新法派が再台頭すると再び左遷され、海南島へ追放された。
**种師道(彝叔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|47|90|74|86|明鏡|A|B|S|C|B|C|1051|1126|
【チュウシドウ(イシュク)】
北宋の政治家、武将。
進士及第後に地方官吏となるが、[[蔡京]]の弾劾により十年の間免職する。
復職後は辺境で西夏防衛に功績を上げるが、[[童貫]]の無用な出兵を諌め、金との和約に反対し軍権を剥奪される。
後に金が東京開封府を包囲すると、援軍に駆けつけ完顔宗望の軍と黄河で対峙する。
この進軍中に宋の人々を「百万の援軍を率いてきた」と鼓舞し、開封にもその知らせが届いて士気が上がったため金軍は撤退した。
その後も欽宗の金に対する挑発を諌めながら、病没。
靖康の変に際して欽宗は諫言に従わなかったことを後悔したという。
※「种」の字は、字義の「種」か、似ている「狆」で代字とする。
*南宋(1127~1279)
金の侵攻による開封の陥落後、大名府に駐屯していた康王が応天府(商邱)に逃れて即位し、杭州に遷って宋朝を再興したもの。
高宗の時代は主戦派・和平派が対立し、岳飛・韓世忠ら後に“抗金名将”と呼ばれる驍将を輩出したが、
秦檜の復帰で和平派が優勢となり、岳飛の処刑と岳家軍の解体をへて講和が成立した。
以後、金朝とは海陵王の南征(采石磯の役)とその報復を除けば1206年まで大規模な軍事衝突はなく、
江南開発によって特に江蘇・浙江は“天下の穀倉”と呼ばれるようになった。
孝宗の後は宰相が国政を主導するようになり、同時に慶元の党禁に代表されるように党争が激化した。
1234年には新興のモンゴルと結んで金朝を滅ぼしたが、和約の不履行と河南を急襲したことで敵対し、
モンゴルとの抗争を通じて江淮の地は荒廃の極に達し、このことは南征を図るモンゴルにとって、長江の存在とともに難題とされた。
軍の主力が軍閥によって担われていながらも、中央集権のために軍閥勢力を抑圧・統制したことで
国防力を弱め、1259年に四川が、1273年に襄陽が、1276年には臨安が陥落して事実上滅んだ。
張世傑・陸秀夫ら一部廷臣は幼帝を奉じて海上に逃れたが、1279年に珠江デルタの崖山で暴風雨に遭って完全に滅亡した。
**宗沢(汝霖)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|57|75|89|86|怒髪|A|A|A|C|B|A|1060|1128|
【ソウタク(ジョリン)】
南宋の政治家・武将。
北宋時代に官吏となり、靖康の変が起きると磁州知として金の南下を防ぐ。
康王趙溝(高宗)を救い、高宗が南京で即位すると東京留守に任命され開封を守備する。
以後、義勇兵と人材を集め、兵糧を蓄え、金に抗戦する備えを整える。
金の侵攻を度々防衛し、金の人々より「宗爺爺」と畏怖された。
晩年は高宗に開封への遷都と北伐を十数回上奏し続けるも、戦功を妬む和平派の工作により実現しなかった。
憂悶のうちに病に倒れ、死の直前に「過河!(黄河を渡れ!)」と叫んで没した。
**李綱(伯紀)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|54|82|85|79|造船|B|B|A|C|A|A|1085|1140|
【リコウ(ハクキ)】
北宋、南宋の政治家、詩人。号は梁溪。
開封が包囲された際には東京留守として籠城し、金の侵攻を食い止めた。
しかし江南に左遷され、さらに永安に流配される。
靖康の変の後は南宋で河南の防衛線を固め、軍を再編し水軍を整えた。
しかし、黄潜善、汪伯彦らと対立し、張所により罷免され、海南島へ流された。
復帰後は、荊湖広南宣撫使や江西安撫制置大使を務める。
金への降伏論や和平論に反対し、[[岳飛]]の抗金闘争を支援した。
文筆家として「梁溪集」百八十巻、「靖康伝信録」、「建炎時政記」などの著作がある。
**秦檜(会之)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|11|7|89|91|11|徴収|C|C|C|C|C|C|1090|1155|
【シンカイ(カイシ)】
南宋の宰相。江寧の人。
北宋滅亡後、金が傀儡国家の楚を誕生させるのに猛反対し、金首脳部に連行されるが、
脱走し高宗の下へ帰還すると絶賛され、宰相となる。
宰相として高宗の支持を得て対金講和を目指すと、主戦派を弾圧し、
岳飛をも謀殺して一応は主戦派を抑え込み、和平(紹興の和議)を成立させたが、
それは、国境線を確定し、宋が金に毎年金と絹を金に貢ぐという屈辱的内容だった。
和平後も猛批判が続くが、反対派への弾圧や言論統制などの恐怖政治を貫いた。
後世、奸臣・売国奴と蔑まれたが、再評価の声もある。
**張俊(伯英)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|69|88|64|78|13|強奪|A|S|B|C|B|A|1086|1154|
【チョウシュン(ハクエイ)】
南宋の武将。
康王趙溝(後の高宗)により中軍統制に任じられる。
金軍より明州を守るが、宗弼の侵攻を受けて明州を放棄する。
当時配下だった岳飛らの活躍もあって各地の反乱を鎮圧し、斉(金の傀儡国家)の侵攻を撃退する。
しかし、秦檜が台頭するとこれに同調し軍権を即座に返上。
劉錡を讒言し左遷させ、岳飛の冤罪を訴え誅殺に協力するなど、和平派の主軸として暗躍した。
匪賊出身だったこともあり張俊の軍は暴行略奪を行うことで知られ、「自在軍」として恐れられた。
**韓世忠(良臣)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|93|84|61|79|戟神|A|S|A|B|B|S|1088|1151|
【カンセイチュウ(リョウシン)】
南宋の将。「万人敵」と称された抗金の名将。延安の人。
妻の梁紅玉も共に金と戦った。夫婦仲は非常に睦まじかったという。
西夏迎撃・方臘の乱鎮圧に活躍するが、身分ゆえ評価は芳しくなかった。
靖康の変の後、高宗を済州まで護衛し、以降は抗金闘争に明け暮れる。
黄天蕩の戦いでは妻の梁紅玉とともに八千の兵で金の十万の大軍を破る殊勲を挙げ、
高宗から「中興の武功第一」と称された。
しかし、秦檜の対金講和の策で、岳飛は謀殺され、自身も兵権を奪われる。
その後は隠退し、二度と兵事を語らなかったという。
**梁紅玉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|72|76|73|44|82|楽奏|A|B|S|C|C|S|?|?|
【リョウコウギョク】
南宋の女性。韓世忠の妻。
元は芸妓であったが、韓世忠に惚れ込み、半ば押しかける形で婚姻に至る。
その後は、夫の副将として留守の指揮を担い、黄天蕩の戦いではその勇名を馳せた。
韓世忠が隠棲すると付き従ったようで、両者の仲は終生睦まじかったと伝えられている。
**岳雲(應祥)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|79|82|65|29|88|護衛|A|B|A|A|C|B|1119|1141|
【ガクウン(オウショウ)】
南宋の将。岳飛の甥。
本名は蔡済文だが、男子に恵まれなかった叔父・岳飛の猶子となる(後に岳飛には実子が生まれる)。
武勇に優れ、将器にも恵まれ頭角を現した。
だが、南宋の宰相の秦檜は岳飛父子が目の上の痰瘤であり、
そのため彼は金の皇族の梁王・宗弼(兀朮・斡啜)と密約を結び、
岳飛及びその養子の岳雲を逮捕して投獄した。
岳雲は秦檜によって養父の岳飛と処刑され、晒し首にされたという。
**楊再興
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|91|54|17|77|槍将|S|C|A|S|C|B|1104|1140|
【ヨウサイコウ】
南宋の武将。
最初は湖北の賊だった曹成の将となる。
岳飛の討伐を受けると、岳家軍の将の韓順夫と岳飛の弟の岳翻を討ち取る。
投降すると岳飛に忠義報国を尽くすよう諭され、岳家軍の武将となる。
岳飛の北伐に従い、長水では斉の孫都統を撃ち、蔡州で敵の糧秣を焼き軍功を重ねる。
郾城の戦いでは単騎で金軍に突撃し、満身創痍となりながらも数百を討った。
三百騎で行軍中に臨潁の小商橋で十二万の金軍に包囲され、勇戦して二千人余りを討ち倒したが戦死した。
遺体からは二升もの鏃が出てきたという。
補足:「弓法神奇」と伝承されているので、特技は弓系でも可。
**張浚(徳縁)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|82|34|85|81|83||B|B|A|B|A|A|1097|1164|
【チョウシュン(トクエン)】
南宋の政治家。
高宗が即位すると国防の重要性を説いて四川に赴任する。
宗弼の侵攻に対して富平で防衛するが、友軍が敵前逃亡したため撤退する。
張浚は罷免されるも、宗弼らが陝西に再侵攻したため再び起用され、金軍は四川への侵攻を断念する。
その後も軍政の要職を歴任するも、和平派の秦檜・張俊らと対立し左遷される。
秦檜の死後には再び任用され海陵王の南征に対抗する。
しかし、北伐を企図するも諸将の監督に失敗し敗北、和平派の再台頭を受けて失脚する。
その後、亡くなるまで金との和平を撤回するよう上奏し続けた。
**呉玠(晋卿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|93|90|76|78|69|弓神|S|A|S|B|S|C|1093|1139|
【ゴカイ(シンケイ)】
北宋・南宋の武将。
北宋時代から軍属として西夏との戦いで活躍。
南宋時代は張浚に重用され、弟の呉璘とともに金軍と戦う。
南宋軍が敗れ撤退命令が出た際には、和尚原で踏みとどまり金軍の追撃を阻む。
翌年、宗弼が和尚原に侵攻すると、強弓隊と伏兵をもって金軍を殲滅する。
その後も、地の利を生かした弓射・投石を駆使して金軍を撃退し続ける。
宗弼が再侵攻した際には仙人関で防衛し金軍を大敗させた。
屯田を導入して軍費を増やして余剰分を民に分け与えるなど、民政にも手腕を発揮した。
晩年は酒色に溺れ、喀血死した。
**劉錡(信叔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|76|91|80|86|風水|A|S|S|C|A|S|1098|1162|
【リュウキ(シンシュク)】
南宋の武将。兵法と風水に通じていた。
西夏との戦いで功績を立て、西夏の子供は「劉都護来」と聞くと泣き止んだといわれる。
張浚の配下として陝西・四川を転戦、その後宿衛軍を率いる。
秦檜が台頭し最初の和約が成立すると、東京副留守として開封に派遣される。
その途上で、宗弼が開封を占領した知らせを受けると、劉錡は順昌で防備を固め宗弼の侵攻を防いだ。
張浚と共に柘皐で金軍を破るも、紹興の和議が締結されたため兵権を奪われ左遷される。
海陵王が侵攻した際には江南に撤退するも、これを敵前逃亡と謗られ憂死した。
**楊存中(正甫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|78|88|39|46|62|護衛|B|A|S|C|S|A|1102|1166|
【ヨウソンチュウ(セイヒ)】
南宋の武将。本名は沂中。
張俊の配下として苗伝の反乱鎮圧で功績を上げ、高宗に重用され宿衛軍の統制となる。
韓世忠の指揮下で斉軍と藕塘で戦い、その活躍により宿衛の三軍を統括する。
柘皐の役では完顔宗弼の軍を劉錡らとともに撃退。
その後、秦檜の命令で岳飛の捕縛に協力する。
岳家軍や韓家軍が解体される中、高宗の寵愛もあって朝廷に残り、存中の名を下賜される。
完顔亮が侵攻すると張浚と共に起用され防衛任務に就く。
隆興の和議まで南宋軍の重鎮として職責を果たした。
**虞允文(彬甫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|92|39|92|90|74|火神|B|B|S|C|S|S|1110|1174|
【グインブン(ヒンフ)】
南宋の政治家・武将。
海陵王が六十万の軍を号して侵攻すると、参謀軍事として采石磯に駐屯し長江を挟んで対峙する。
南宋軍の主力が到着する前に戦端が開かれるが、虞允文は将兵を叱咤激励して奮戦。
海鳅船を突撃させ、強弩と霹靂砲(火薬を弾丸とした投石機)を使用して金軍を打ち破る。
その後は主戦派として強硬論を唱え一時左遷されるも右僕射・左丞相を歴任し、宰相として軍制改革と人材登用に励む。
その後、中央を辞して四川宣撫使として四川より北伐軍の準備を行うが、その最中に病没した。
**李顕忠
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|89|64|52|81|血路|S|A|B|S|B|A|1109|1177|
【リケンチュウ】
金、西夏、南宋の武将。本名は世輔。
北宋の代に金との戦いで初陣を果たし奮戦するも、北宋が滅びたため投降する。
宗弼に才を認められ重用されるも、南宋への帰還を計画して失敗し一族が殺されたため西夏に出奔。
西夏でも武功を立て、二十万の兵を預かり金と戦って陝西を攻略する。
南宋国境に近づくと南宋領の四川へ越境し、帰還の念願を果たす。
高宗よりその忠義を称えられ顕忠の名を下賜され、以後は南宋の将として抗金戦で活躍した。
采石磯の戦いでは南宋軍の主力を率いて参陣し、完顔亮を打ち破っている。
**魏勝(彦威)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|86|68|46|69|発明|B|A|S|C|S|A|1120|1164|
【ギショウ(ゲンイ)】
南宋の武将。
若い頃より弓射に優れ、名射手と称えられた。
完顔亮の海州入城の知らせを聞くと、淮河周辺を偵察し、兵器を製造するなど反攻の準備を整える。
金軍が淮河を渡り長江へ迫ると、三百人の「忠義軍」を率いて金領へ逆入し漣水城を落とす。
その後、海州を陥落させ、海州に籠城して抵抗活動を行う。
しかし、孝宗が金と和約交渉を行うために停戦命令を下し、
その隙を狙って金軍が魏勝を襲撃し、矢を受けた魏勝は戦死した。
**朱熹(元晦)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|32|29|89|82|88|仁政|C|C|C|C|C|C|1130|1200|
【シュキ(ゲンカイ)】
南宋の思想家・官吏。朱子。別字に仲晦。
19歳で進士に登第し、地方官を歴任し、社倉法の実施・義役法の考案などを行なう一方、学問を第一として講義を行う。
宰相趙汝愚に招聘されたが、政敵によってすぐ罷免され、不遇のまま病死した。
朱子学は、仏教的思想によって儒経を解釈し“新注”とも称され儒学の正統となり、
朱熹は太師・徽国公を追贈されて孔子廟に従祀された。
孔子を最上の聖人とし、五経より四書を尊重し、
『朱子家礼』は以後の士大夫の日常生活の規範とされ、日本にも伝播し統治理論に用いられて大いに普及した。
**孟珙(璞玉)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|96|84|91|87|90|鉄壁|S|A|S|C|B|S|1195|1246|
【モウキョウ(ハクギョク)】
南宋の武将。
金がモンゴルとの決戦で敗れると、金に侵攻してモンゴル軍と挟撃し金の滅亡に貢献する。
その後、南宋がモンゴルとの協約を破り端平入洛の役を起こすと、孟珙は襄陽を攻略する。
モンゴルが南征を開始すると、南宋防衛の任務を一手に担うようになる。
自ら水陸両軍を巧みに用いてモンゴル軍を破り、各地の防衛線に救援を送り続けた。
疲弊した四川と京湖には屯田を導入して生産力を回復させ、国境の守備軍を再編し強固な防衛体制を築き上げている。
生前没後含めて四十年以上この防衛体制は機能し、モンゴル南進の障害となった。
※「珙」の字が認識されないため、名は「王共」とするか、認識される「垬」(土偏)の字を代わりに当てる。
**李庭芝(祥甫)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|80|69|65|84|築城|A|B|A|C|S|A|1219|1276|
【リテイシ(ショウヒ)】
南宋の武将。
孟珙に見出され、水柵や烽火台を設置し長江の防備を固め、モンゴル軍の侵攻を四川や揚州で食い止めた。
襄陽が包囲されると、援軍に向かおうとしない賈似道と范文虎を糾弾し、自身が援軍に赴く上奏も聞き入れられず逆に左遷される。
結局襄陽は五年の包囲の後に陥落し、これに怒った李庭芝は官を辞した。
その後、モンゴル軍の江南侵攻を受けて再び起用され揚州に籠城。
臨安が陥落し、謝太后から降伏するよう詔を受けるも降伏を拒絶。
包囲を突破し入水しようとしたところを捕縛され、帰順を拒否し処刑された。
**呂文煥
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|81|78|52|87|鉄壁|A|S|A|C|S|S|?|?|
【リョブンカン】
南宋末期の将・軍閥の頭領。呂文徳の弟。
最前線の襄陽の守将となり、五年に亘り籠城しモンゴル軍を苦しめた。
だが、宰相の賈似道と不和だったため、援軍に恵まれず、ついに降伏を余儀なくされた。
一方、クビライから高く評価され、以後は元の重臣となり、南宋攻略では諸城を降らせるなど、
旧人脈を活かした無血開城に成功した。
忠臣多き南宋では異色の存在だが、降伏には賈似道の責任もあるため、彼を売国奴として責める声は少ない。
ただし、文天祥だけは彼を激しく非難したという。
**賈似道(師憲)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|67|54|84|88|10|徴税|B|C|A|C|B|A|1213|1275|
【カジドウ(シケン)】
南宋の武将、政治家。
孟珙の後任として軍政を委ねられ、顎州の役でクビライを打ち破り、宰相位に就任する。
しかし、モンケ・ハーンの死によりクビライが後継者争いのために北還しようとしていた時期で、
顎州の勝敗は賈似道とクビライが密約を結んだという説がある。
宰相として増大する軍費のために、公田法や通貨改革を行い財政再建に務める。
しかしその結果、各軍閥を中央から遠ざけ援軍も送らなかったため、南宋の防衛線は崩壊する。
襄陽陥落の責任を取る形で出兵するも蕪湖で大敗し、流刑に処される途上で殺された。
**范文虎
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|54|68|10|41|2||C|C|A|C|B|A|?|1301|
【ハンブンコ】
南宋、元の武将。賈似道の娘婿。
モンゴル軍が襄陽を包囲すると、援軍として派遣されることを渋る。
襄陽包囲が長期戦となってから十万の援軍を率いて駆けつけるも大敗し投降する。
元に仕えてからは、世祖クビライに鎌倉幕府への使者を推薦するも、使者は全て北条時宗によって斬られる。
クビライの怒りを買った范文虎は弘安の役に江南軍の将として出陣させられる。
しかし、軍議に出席せずに連携を欠き、神風の被害の中で将兵を見捨てて本国へ逃げ帰るという失態を重ねる。
その後帰還した兵により告訴され、成宗テムルの代に処刑された。
**陸秀夫(君実)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|71|44|88|83|91|血路|B|B|A|C|C|S|1236|1279|
【リクシュウフ(クンジツ)】
南宋末期の政治家。亡宋の三傑の一人。
元の伯顔(バヤン)の軍が南宋の首都臨安に迫ると、和平交渉を進め国難を救おうとしたが失敗し、
臨安は無血開城し、恭帝は元に降伏した。
だが、滅亡を潔しとせず、前皇帝の度宗の遺児を連れ臨安を脱出して南方に逃れ、
張世傑と協力して亡命政権を樹立した。
亡命政権の宰相として抵抗運動を続けるが、元軍の猛攻の前に南宋の滅亡は決定的となる。
ついに崖山の戦いで妻子を殺害した後、幼帝と共に入水自殺を遂げた。
その悲劇的な最期は、現在でも多くの人々に哀惜の念を与え続けている。
**文天祥(宋瑞)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|58|92|93|95|洞察|B|C|A|C|S|A|1236|1283|
【ブンテンショウ(ソウズイ)】
南宋末期の将・政治家。亡宋の三傑の一人。
科挙を状元(首席)で合格し天下に名を挙げたが、遷都論を巡り宰相の賈似道と対立する。
元との和平交渉の使者とされた際、伯顔との談判の後で虜囚となる。
宋の滅亡後も、張世傑・陸秀夫らは抵抗を続けていたため、
脱出してゲリラ的抵抗を続けたが、遂に捕らえられる。
獄中でも元への臣従を拒み続けたため、クビライも遂に決断し、惜しまれつつも処刑された。
クビライは「真の男子なり」と彼を評し、後世でも忠臣の鑑として称えられ、
『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。
**張世傑
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|86|81|46|25|84|不屈|B|A|B|S|C|C|?|1279|
【チョウセイケツ】
南宋末期の将。亡宋の三傑の一人。
最初はモンゴルの家臣だったが、罪を得て南宋に逃亡し、
呂文徳にその優秀な才能を見出され将軍となる。
元軍の侵攻を一度は撃退するが、首都・臨安が陥落すると、
陸秀夫と共に前皇帝の度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を樹立した。
その後も南宋の将として失地回復を図るが果たせず、
元軍の猛攻の前に幼帝と陸秀夫は自殺して南宋は滅亡した。
後、ヴェトナムへ逃亡し再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没し死亡した。
張世傑の最期をもって宋は滅亡したと宋史は締めくくっている。
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