「みんなの新武将/五代十国時代」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
みんなの新武将/五代十国時代 - (2011/09/10 (土) 20:31:00) の編集履歴(バックアップ)
五代十国時代(907~960)
唐の滅亡から宋の建国までの分裂期。
中原には主に開封を国都とした五王朝が興亡し、その他の地でも十数の王国が乱立した。
五代とは後梁・後唐・後晋・後漢・後周を指す。
また、十国とは呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢を指し、他にも劉守光の燕・李茂貞の岐などがあった。
唐を滅ぼした朱全忠が興した後梁は、門閥主義・宦官重用を否定して経済都市である開封に都したが、
山西に拠る沙陀族を率いる李氏との抗争で衰え、923年に後唐の李存勗に滅ぼされた。
唐制回帰を唱えて洛陽に都した後唐は、軍部に擁されて開封に遷都した李嗣源の代に最盛期を迎えたが、
契丹の後援を得た石敬瑭によって936年に滅ぼされ、石氏は代償に燕雲十六州の割譲、契丹への臣属、重い歳貢などを課された。
この後晋も契丹と断交したことで946年に滅ぼされ、契丹追撃を指揮した劉知遠が新たに後漢を建てたが、5年足らずで郭威に簒奪された。
次いだ後周は五代最高の名君と称される世宗の時代に、中央集権などの諸制度を整えるとともに燕雲十六州の一部の回復に成功したが、
960年に禁軍を率いる趙匡胤に簒奪された。
この趙匡胤の許で十国政権の多くも平定され、中国は宋朝によって統一された。
中原には主に開封を国都とした五王朝が興亡し、その他の地でも十数の王国が乱立した。
五代とは後梁・後唐・後晋・後漢・後周を指す。
また、十国とは呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢を指し、他にも劉守光の燕・李茂貞の岐などがあった。
唐を滅ぼした朱全忠が興した後梁は、門閥主義・宦官重用を否定して経済都市である開封に都したが、
山西に拠る沙陀族を率いる李氏との抗争で衰え、923年に後唐の李存勗に滅ぼされた。
唐制回帰を唱えて洛陽に都した後唐は、軍部に擁されて開封に遷都した李嗣源の代に最盛期を迎えたが、
契丹の後援を得た石敬瑭によって936年に滅ぼされ、石氏は代償に燕雲十六州の割譲、契丹への臣属、重い歳貢などを課された。
この後晋も契丹と断交したことで946年に滅ぼされ、契丹追撃を指揮した劉知遠が新たに後漢を建てたが、5年足らずで郭威に簒奪された。
次いだ後周は五代最高の名君と称される世宗の時代に、中央集権などの諸制度を整えるとともに燕雲十六州の一部の回復に成功したが、
960年に禁軍を率いる趙匡胤に簒奪された。
この趙匡胤の許で十国政権の多くも平定され、中国は宋朝によって統一された。
五代は唐末の藩鎮体制の延長線上にあり、諸王朝・諸王国は国内に大小の藩鎮を抱え、中央政府は
いわば最有力の藩鎮に過ぎず、そのため特に中原の五代王朝では短命な政権が相い次いだ。
黄河流域以外に諸国が割拠するという前代未聞の状況は、各地域の経済力が各々1つのブロックを形成できるほど発展していたことを示し、
殊に南唐は淮塩と長江デルタの農産力を背景に中原を凌ぐ経済力を回復させ、南唐文化と呼ばれる重要な過渡期文化を開花させた。
いわば最有力の藩鎮に過ぎず、そのため特に中原の五代王朝では短命な政権が相い次いだ。
黄河流域以外に諸国が割拠するという前代未聞の状況は、各地域の経済力が各々1つのブロックを形成できるほど発展していたことを示し、
殊に南唐は淮塩と長江デルタの農産力を背景に中原を凌ぐ経済力を回復させ、南唐文化と呼ばれる重要な過渡期文化を開花させた。
- 五代
- 後梁 907~923
- 後唐 923~936
- 後晋 936~946
- 後漢 947~950
- 後周 951~960
- 十国
- 四川
- 前蜀 907~925
- 後蜀 934~965
- 江南
- 南呉 902~937
- 南唐 937~975
- 湖北
- 荊南 907~963
- 湖南
- 馬楚 907~951
- 杭州
- 呉越 907~978
- 泉州
- 閩 909~945
- 広州
- 南漢 909~971
- 太原(并州)
- 北漢 951~979
- 四川
- その他
- 幽州
- 桀燕 911~913
- 陝西
- 岐 901~924
- 幽州
後梁
朱全忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 86 | 61 | 35 | 80 | 威圧 | A | S | A | B | S | C | 852 | 912 |
【シュゼンチュウ】
五代十国の後梁の太祖。宋州碭山の人。
旧名は朱温。唐より全忠と賜名され、即位後に晃と改名。
黄巣の乱に参加するが、朝廷の招撫に応じ節度使として黄巣平定に大きく貢献し、
乱後は各地の対抗勢力を平定して梁王に封じられた。
経済の一大要衝の開封を抑えて華北に支配権を確立し、晋王李克用を圧迫。
更に朝廷を制圧して宦官貴戚を鏖殺し、哀帝から弑簒し後梁を建国した。
だが、その支配は脆弱で、李存勗に追い詰められると、太子問題で不仲の次子に病床で斬殺された。
黄巣からの離叛と唐朝簒奪によって悪評高き人物。
五代十国の後梁の太祖。宋州碭山の人。
旧名は朱温。唐より全忠と賜名され、即位後に晃と改名。
黄巣の乱に参加するが、朝廷の招撫に応じ節度使として黄巣平定に大きく貢献し、
乱後は各地の対抗勢力を平定して梁王に封じられた。
経済の一大要衝の開封を抑えて華北に支配権を確立し、晋王李克用を圧迫。
更に朝廷を制圧して宦官貴戚を鏖殺し、哀帝から弑簒し後梁を建国した。
だが、その支配は脆弱で、李存勗に追い詰められると、太子問題で不仲の次子に病床で斬殺された。
黄巣からの離叛と唐朝簒奪によって悪評高き人物。
王彦章(子明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 96 | 67 | 34 | 84 | 槍神 | S | B | A | S | C | C | 863 | 923 |
【オウゲンショウ(シメイ)】
後梁の武将。「王鉄槍」の異名で呼ばれ畏れられた。
朱全忠の麾下で、驍勇を示し戦功を立てる。
百斤の重さの鉄槍を振るい、その槍捌きは飛ぶが如く舞っていた様といわれる。
末帝朱友貞の代に五百の兵を率いて鄴の金波亭に駐屯するが、魏に襲撃され敗走する。
李存勗により家族が捕えられ帰順を促された際には、使者を切り捨てて忠義を示した。
後唐が侵攻すると、濮陽で後唐軍に徹底抗戦するが大軍の前に撤退する。
佞臣に讒言され五百の兵のみで再度出撃するも、衆寡敵せず捕縛される。
「人は死して名を留む」と帰順を拒否し斬られた。
後梁の武将。「王鉄槍」の異名で呼ばれ畏れられた。
朱全忠の麾下で、驍勇を示し戦功を立てる。
百斤の重さの鉄槍を振るい、その槍捌きは飛ぶが如く舞っていた様といわれる。
末帝朱友貞の代に五百の兵を率いて鄴の金波亭に駐屯するが、魏に襲撃され敗走する。
李存勗により家族が捕えられ帰順を促された際には、使者を切り捨てて忠義を示した。
後唐が侵攻すると、濮陽で後唐軍に徹底抗戦するが大軍の前に撤退する。
佞臣に讒言され五百の兵のみで再度出撃するも、衆寡敵せず捕縛される。
「人は死して名を留む」と帰順を拒否し斬られた。
補足:字は新五代史による。旧五代史では「賢明」となっている。
葛従周(通美)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 82 | 88 | 47 | 71 | A | S | B | A | A | B | ? | 915 |
【カツジュウシュウ(ツウビ)】
黄巣、後梁の武将。
若い時から濶達で智略があり、黄巣の乱に参加し軍校となる。
王満渡で黄巣軍が朱全忠に敗れると投降し、朱全忠に仕える。
蔡州攻略に従軍した際に朱全忠が落馬すると身を呈して守り、顔や体を負傷しながらも撤退を成功させた。
朱珍や龐師古とともに諸州の征討に活躍。
朱瑾討伐では詐言を用いて朱瑾を城外へ誘き出し打ち破った。
龐師古が淮南戦役で戦死すると報復戦を挑むも大敗した。
晋の李罕之、燕の劉仁恭の侵攻を幾度も防ぎ、王師範麾下の劉鄩を降伏させた。
後梁の建国後まもなく病に罹って引退、末帝の代に病没した。
黄巣、後梁の武将。
若い時から濶達で智略があり、黄巣の乱に参加し軍校となる。
王満渡で黄巣軍が朱全忠に敗れると投降し、朱全忠に仕える。
蔡州攻略に従軍した際に朱全忠が落馬すると身を呈して守り、顔や体を負傷しながらも撤退を成功させた。
朱珍や龐師古とともに諸州の征討に活躍。
朱瑾討伐では詐言を用いて朱瑾を城外へ誘き出し打ち破った。
龐師古が淮南戦役で戦死すると報復戦を挑むも大敗した。
晋の李罕之、燕の劉仁恭の侵攻を幾度も防ぎ、王師範麾下の劉鄩を降伏させた。
後梁の建国後まもなく病に罹って引退、末帝の代に病没した。
楊師厚
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 91 | 78 | 50 | 66 | 強行 | B | S | A | S | B | A | ? | 915 |
【ヨウシコウ】
後梁の武将。
まず李罕之に仕えたが、李罕之が李克用に敗れると朱全忠に投じ重用される。
李茂貞に敗れるが、青州の攻略では王景仁の援軍を退け、王師範を打ち破った。
襄陽攻めでは先鋒を務め、荊州を平定。
劉知俊が反すると劉鄩と討伐軍を率いて長安から駆逐し、さらに岐を荒らした。
柏郷の敗戦を聞くと兵を急行させて李存勗を食い止め、敵軍の退却に乗じて追撃も敢行した。
朱友珪が簒位すると反乱鎮圧等で功績を挙げつつ、禁軍に密命を与えて末帝の即位に協力する。
晩年は功を誇って酒色に溺れたが、病没すると痛惜された。
後梁の武将。
まず李罕之に仕えたが、李罕之が李克用に敗れると朱全忠に投じ重用される。
李茂貞に敗れるが、青州の攻略では王景仁の援軍を退け、王師範を打ち破った。
襄陽攻めでは先鋒を務め、荊州を平定。
劉知俊が反すると劉鄩と討伐軍を率いて長安から駆逐し、さらに岐を荒らした。
柏郷の敗戦を聞くと兵を急行させて李存勗を食い止め、敵軍の退却に乗じて追撃も敢行した。
朱友珪が簒位すると反乱鎮圧等で功績を挙げつつ、禁軍に密命を与えて末帝の即位に協力する。
晩年は功を誇って酒色に溺れたが、病没すると痛惜された。
※特技は荊州平定時の渡河と急戦、劉知俊討伐の速攻、晋(後の後唐)軍侵攻への対応などから。
王景仁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 88 | 68 | 34 | 69 | 連戦 | A | S | B | A | C | A | ? | 914頃 |
【オウケイジン】
南呉、後梁の武将。元の名を茂章。
少年の時に楊行密の麾下となり、先陣を争い勇名を馳せた。
朱友寧が青州を攻めた際には援軍に向かい、友寧を討ち取る。
朱全忠の報復戦では砦からの迎撃を繰り返し、朱全忠が幕下に加えたいと願うほどであった。
楊行密の死後に楊渥と対立し、呉越の銭鏐に投じ、朱全忠に召され後梁に帰順する。
北面招討使となり王鎔を攻めるも、李存勗の介入により柏郷で敗北する。
末帝の代に淮南へ侵攻した際には、通りかかった楊行密の墓の前で号泣した。
霍山で後梁軍は敗れるも殿となって奮戦し、帰還後に病没した。
南呉、後梁の武将。元の名を茂章。
少年の時に楊行密の麾下となり、先陣を争い勇名を馳せた。
朱友寧が青州を攻めた際には援軍に向かい、友寧を討ち取る。
朱全忠の報復戦では砦からの迎撃を繰り返し、朱全忠が幕下に加えたいと願うほどであった。
楊行密の死後に楊渥と対立し、呉越の銭鏐に投じ、朱全忠に召され後梁に帰順する。
北面招討使となり王鎔を攻めるも、李存勗の介入により柏郷で敗北する。
末帝の代に淮南へ侵攻した際には、通りかかった楊行密の墓の前で号泣した。
霍山で後梁軍は敗れるも殿となって奮戦し、帰還後に病没した。
劉鄩
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 71 | 90 | 72 | 74 | 急襲 | A | A | A | A | A | C | 861 | 920 |
【リュウジン】
後梁の武将。
若い時から兵略を好み、青州の王師範に仕え、盧宏が反すると伏兵をもって破る。
兗州を攻め取り葛従周の攻囲を受けるも屈せず、王師範の投降を受けて開城した。
その後は朱全忠に仕え、劉知俊の反乱では潼関を陥落させ長安回復の功績を挙げた。
魏州では李存勗と対峙する最中に太原を急襲しようとするが、進軍を長雨に阻まれ断念。
その後も、主戦を唱える末帝と対立しながら最前線で戦い続ける。
朱友謙討伐で援軍に来た李嗣昭に敗北。
朱友謙と姻戚関係にあったことから、軍功と名声を妬んだ諸臣に讒訴され毒殺された。
後梁の武将。
若い時から兵略を好み、青州の王師範に仕え、盧宏が反すると伏兵をもって破る。
兗州を攻め取り葛従周の攻囲を受けるも屈せず、王師範の投降を受けて開城した。
その後は朱全忠に仕え、劉知俊の反乱では潼関を陥落させ長安回復の功績を挙げた。
魏州では李存勗と対峙する最中に太原を急襲しようとするが、進軍を長雨に阻まれ断念。
その後も、主戦を唱える末帝と対立しながら最前線で戦い続ける。
朱友謙討伐で援軍に来た李嗣昭に敗北。
朱友謙と姻戚関係にあったことから、軍功と名声を妬んだ諸臣に讒訴され毒殺された。
※「鄩」は「尋」を代わりに入力。
霍存
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 91 | 58 | 36 | 67 | 弓将 | S | B | S | A | C | C | ? | 893 |
【カクソン】
朱全忠麾下の武将。
堯勇で騎射に優れ、少年の時に黄巣の乱に参加した。
黄巣が王満渡で朱全忠に敗れると葛従周・張帰霸と共に投降する。
秦宗権攻めでは張至の陣営を破り、秦賢の騎兵隊を破り三千を殺した。
濮州攻囲では、城壁から朱全忠を挑発した敵将を一矢で射殺し称賛された。
晋王軍と遭遇した馬牢川の戦いでは、
その戦いぶりから晋王軍が戦いを避け撤退するほどで、魏州の淇門まで追撃した。
石佛山の戦いで援軍として急行し朱瑾を大敗させるが、流矢によって戦死した。
朱全忠にその忠勇を惜しまれ、後梁建国後に太保が追贈された。
朱全忠麾下の武将。
堯勇で騎射に優れ、少年の時に黄巣の乱に参加した。
黄巣が王満渡で朱全忠に敗れると葛従周・張帰霸と共に投降する。
秦宗権攻めでは張至の陣営を破り、秦賢の騎兵隊を破り三千を殺した。
濮州攻囲では、城壁から朱全忠を挑発した敵将を一矢で射殺し称賛された。
晋王軍と遭遇した馬牢川の戦いでは、
その戦いぶりから晋王軍が戦いを避け撤退するほどで、魏州の淇門まで追撃した。
石佛山の戦いで援軍として急行し朱瑾を大敗させるが、流矢によって戦死した。
朱全忠にその忠勇を惜しまれ、後梁建国後に太保が追贈された。
寇彦卿(俊臣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 89 | 87 | 78 | 39 | 騎将 | A | A | B | S | C | C | 861 | 918 |
【コウゲンケイ(シュンシン)】
後梁の武将。
身長は八尺、騎射に巧みで書史を好んだ。
宣武軍の牙将で赴任してきた朱全忠に見出される。
羅紹威の牙軍討伐の際には、計略を授け牙軍誅滅に協力した。
朱全忠から名馬「一丈烏」を贈られ、岐王軍との戦いでの勇姿を「真の神将なり!」と讃えられた。
朱全忠が遷都を計画すると、昭宗の元に派遣され洛陽へ連行する。
後梁建国後は軍政の要職を歴任するが、天津橋で事故を起こしたため自首して責を問い、一時降格する。
朱全忠が弑されると生前の恩義に涙した。
明敏で忠義を尽くしたが、謀殺を好んだため人々からは忌避された。
後梁の武将。
身長は八尺、騎射に巧みで書史を好んだ。
宣武軍の牙将で赴任してきた朱全忠に見出される。
羅紹威の牙軍討伐の際には、計略を授け牙軍誅滅に協力した。
朱全忠から名馬「一丈烏」を贈られ、岐王軍との戦いでの勇姿を「真の神将なり!」と讃えられた。
朱全忠が遷都を計画すると、昭宗の元に派遣され洛陽へ連行する。
後梁建国後は軍政の要職を歴任するが、天津橋で事故を起こしたため自首して責を問い、一時降格する。
朱全忠が弑されると生前の恩義に涙した。
明敏で忠義を尽くしたが、謀殺を好んだため人々からは忌避された。
後唐
李克用
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 94 | 58 | 11 | 87 | 疾走 | A | B | A | S | B | C | 856 | 908 |
【リコクヨウ】
五代十国の後唐の太祖。武帝。西突厥沙陀部の朱邪赤心=李国昌の子。
黄巣の乱平定で武勲第一と称され、黄巣を関外に退けたことで河東軍節度使とされ、
黄巣を敗死させ、晋王に封ぜされた。
隻眼だったために「独眼竜」の異称があり、またその軍は全員が黒衣を纏っていたので「鴉軍」と畏怖された。
黄巣敗滅の頃より、開封に拠る朱全忠とは不倶戴天の敵となって河北の支配を争ったが、
朝廷工作などには疎かったため、朱全忠が河中を制圧してからは劣勢となり、太原で病死した。
五代十国の後唐の太祖。武帝。西突厥沙陀部の朱邪赤心=李国昌の子。
黄巣の乱平定で武勲第一と称され、黄巣を関外に退けたことで河東軍節度使とされ、
黄巣を敗死させ、晋王に封ぜされた。
隻眼だったために「独眼竜」の異称があり、またその軍は全員が黒衣を纏っていたので「鴉軍」と畏怖された。
黄巣敗滅の頃より、開封に拠る朱全忠とは不倶戴天の敵となって河北の支配を争ったが、
朝廷工作などには疎かったため、朱全忠が河中を制圧してからは劣勢となり、太原で病死した。
李存勗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 91 | 57 | 34 | 49 | 騎将 | B | A | A | S | B | C | 885 | 926 |
【リソンキョク】
後唐の初代皇帝・荘宗。李克用の長子。
唐を滅ぼした後梁に対抗し、勇猛さを朱全忠に畏れられた。
李克用の死後に晋王位を継ぎ、後梁と河北を争う。
幽州を攻めて桀燕を滅ぼし、契丹の国境侵犯を退けた。
後唐を建国し皇帝に即位し、同年に後梁を滅ぼす。
岐が降伏すると前蜀に兵を出して滅ぼし、華北から四川までを版図とした。
しかし、演劇や狩猟に明け暮れ、宦官を重用して讒言による粛清を行ったため、各地で反乱が勃発。
李嗣源討伐に出陣するが、洛陽を攻められ撤退する中で禁軍が反乱を起こし、流れ矢に当たって戦死した。
後唐の初代皇帝・荘宗。李克用の長子。
唐を滅ぼした後梁に対抗し、勇猛さを朱全忠に畏れられた。
李克用の死後に晋王位を継ぎ、後梁と河北を争う。
幽州を攻めて桀燕を滅ぼし、契丹の国境侵犯を退けた。
後唐を建国し皇帝に即位し、同年に後梁を滅ぼす。
岐が降伏すると前蜀に兵を出して滅ぼし、華北から四川までを版図とした。
しかし、演劇や狩猟に明け暮れ、宦官を重用して讒言による粛清を行ったため、各地で反乱が勃発。
李嗣源討伐に出陣するが、洛陽を攻められ撤退する中で禁軍が反乱を起こし、流れ矢に当たって戦死した。
李存孝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 99 | 24 | 18 | 64 | 威風 | S | A | S | S | B | C | ? | 894 |
【リソンコウ】
晋王李克用の武将。本名は安敬思。李克用の養子となり李存孝を名乗る。
驍勇冠絶、天下無双と謳われ、「王は項羽、将は李存孝が一番」と評された。
唐の実権を巡って朱全忠と李克用が抗争を繰り広げる中、
李存孝は河陽の侵攻には失敗するものの、邢・洺・磁の三州の攻略で戦功を立てる。
孫揆率いる唐の討伐軍を伏兵を持って破り、孫揆を捕縛する。
その後も数々の武勲を立てるが、李存信と対立し誣告されたため、王鎔と通じ朱全忠に降る。
李克用に李存信の罪を訴えて許しを請うが、捕縛され処刑された。
晋王李克用の武将。本名は安敬思。李克用の養子となり李存孝を名乗る。
驍勇冠絶、天下無双と謳われ、「王は項羽、将は李存孝が一番」と評された。
唐の実権を巡って朱全忠と李克用が抗争を繰り広げる中、
李存孝は河陽の侵攻には失敗するものの、邢・洺・磁の三州の攻略で戦功を立てる。
孫揆率いる唐の討伐軍を伏兵を持って破り、孫揆を捕縛する。
その後も数々の武勲を立てるが、李存信と対立し誣告されたため、王鎔と通じ朱全忠に降る。
李克用に李存信の罪を訴えて許しを請うが、捕縛され処刑された。
※特技は、張遼・甘寧に比せられた(旧五代史)ということで。
騎兵はもとより槍や弓にも優れていたので、特技は選り取り見取り。
騎兵はもとより槍や弓にも優れていたので、特技は選り取り見取り。
張承業(継元)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
30 | 34 | 88 | 94 | 90 | 明鏡 | C | C | C | C | C | C | 846 | 922 |
【チョウショウギョウ(ケイゲン)】
唐、晋王李克用・李存勗に仕えた宦官。
元の姓は康だったが、唐の宦官張泰収の養子となり、張姓となる。
朱全忠が唐を簒奪し宦官を滅ぼそうとすると、李克用に匿われ幕下に加わる。
太原の内政を司り、前線に兵糧を輸送し続けた。
李克用の死後に叛乱を起こそうとした李克寧を誅殺し、馮道を登用するなど李存勗を補佐する。
李存勗の酒席で国庫から金を出すよう要求された際には、私的に使用するものではないと断固として拒否した。
李存勗の皇帝即位を諌めたが聞き入れられず、絶食して死んだ。
後代、中国史上最も忠心のある宦官と評価されている。
唐、晋王李克用・李存勗に仕えた宦官。
元の姓は康だったが、唐の宦官張泰収の養子となり、張姓となる。
朱全忠が唐を簒奪し宦官を滅ぼそうとすると、李克用に匿われ幕下に加わる。
太原の内政を司り、前線に兵糧を輸送し続けた。
李克用の死後に叛乱を起こそうとした李克寧を誅殺し、馮道を登用するなど李存勗を補佐する。
李存勗の酒席で国庫から金を出すよう要求された際には、私的に使用するものではないと断固として拒否した。
李存勗の皇帝即位を諌めたが聞き入れられず、絶食して死んだ。
後代、中国史上最も忠心のある宦官と評価されている。
周徳威(鎮遠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 96 | 81 | 40 | 74 | 洞察 | A | S | A | S | B | C | ? | 918 |
【シュウトクイ(チンエン)】
晋王李克用・李存勗配下の武将。
勇猛ながら智略にも富み、進軍中に上がる砂塵を見るだけで敵兵力を看破できるほどだった。
朱全忠の太原包囲では、「陳夜叉」の異名をもつ陳章を生け捕りにし、後梁を畏れさせた。
潞州が包囲されると援軍に駆けつけ、後梁軍を撃ち破って李嗣昭を救出する。
幽州攻略でも功績を上げ、契丹の侵攻では幽州を二百日間堅守し、李嗣源の援軍まで持ち堪えた。
李存勗の後梁への速戦方針を諌めるが聞き入れられなかった。
胡柳陂で周徳威は敵主力に包囲され奮戦するが、友軍の潰走に巻き込まれ戦死した。
晋王李克用・李存勗配下の武将。
勇猛ながら智略にも富み、進軍中に上がる砂塵を見るだけで敵兵力を看破できるほどだった。
朱全忠の太原包囲では、「陳夜叉」の異名をもつ陳章を生け捕りにし、後梁を畏れさせた。
潞州が包囲されると援軍に駆けつけ、後梁軍を撃ち破って李嗣昭を救出する。
幽州攻略でも功績を上げ、契丹の侵攻では幽州を二百日間堅守し、李嗣源の援軍まで持ち堪えた。
李存勗の後梁への速戦方針を諌めるが聞き入れられなかった。
胡柳陂で周徳威は敵主力に包囲され奮戦するが、友軍の潰走に巻き込まれ戦死した。
郭崇韜(安時)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 68 | 93 | 81 | 58 | 築城 | S | A | A | S | A | C | ? | 926 |
【カクスウトウ(アンジ)】
後唐の武将。唐の名将郭子儀の後裔を名乗る。
初めに李克修に仕え、その後李克用に仕える。
李存勗が後唐を建国すると兵部尚書、枢密使となる。
王彦章との戦いでは6日で砦を築いて迎撃し、王彦章の撃破に成功。
その後も後梁討伐で献策を続け、論功で第一の功績とされる。
政治面では劉氏の立后に協力し、宦官の排除を唱えた。
政務を顧みない李存勗に諫言を行うが、宦官との対立を深めていく。
太子李継岌を総大将とする前蜀討伐で軍権を預かり、前蜀を滅ぼす。
しかし、宦官の誣告を信じた荘宗が宦官の馬彦珪を成都に遣わし、処刑された。
後唐の武将。唐の名将郭子儀の後裔を名乗る。
初めに李克修に仕え、その後李克用に仕える。
李存勗が後唐を建国すると兵部尚書、枢密使となる。
王彦章との戦いでは6日で砦を築いて迎撃し、王彦章の撃破に成功。
その後も後梁討伐で献策を続け、論功で第一の功績とされる。
政治面では劉氏の立后に協力し、宦官の排除を唱えた。
政務を顧みない李存勗に諫言を行うが、宦官との対立を深めていく。
太子李継岌を総大将とする前蜀討伐で軍権を預かり、前蜀を滅ぼす。
しかし、宦官の誣告を信じた荘宗が宦官の馬彦珪を成都に遣わし、処刑された。
李嗣昭(益光)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 89 | 67 | 24 | 69 | 不屈 | S | A | A | S | B | C | ? | 925 |
【リシショウ(エキコウ)】
後唐の武将。
最初の名は韓進通。矮躯だったが武勇に優れた。
李克柔(李克用の弟)の義子となり、名を李嗣昭に改める。
李克用に愛され、若い時から従軍し、軍機に精錬していった。
潞州を包囲された際には、投降を拒み続け一年以上の包囲に耐え、周徳威に救出された。
胡柳陂の戦いでは周徳威の戦死で混乱する自軍を収拾し、
山に陣取った後梁軍に対して山を登って急襲し、敗勢を覆して勝利に導いた。
李存勗が契丹に包囲されると、三百騎を率いて救出。
しかし鎮州の張文礼討伐にて、城壁の破壊中に頭を射抜かれ戦死した。
後唐の武将。
最初の名は韓進通。矮躯だったが武勇に優れた。
李克柔(李克用の弟)の義子となり、名を李嗣昭に改める。
李克用に愛され、若い時から従軍し、軍機に精錬していった。
潞州を包囲された際には、投降を拒み続け一年以上の包囲に耐え、周徳威に救出された。
胡柳陂の戦いでは周徳威の戦死で混乱する自軍を収拾し、
山に陣取った後梁軍に対して山を登って急襲し、敗勢を覆して勝利に導いた。
李存勗が契丹に包囲されると、三百騎を率いて救出。
しかし鎮州の張文礼討伐にて、城壁の破壊中に頭を射抜かれ戦死した。
符存審(徳詳)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
93 | 84 | 90 | 68 | 70 | 妙計 | S | B | A | S | A | C | 862 | 924 |
【フソンシン(トクショウ)】
後唐の武将。初名は符存。
豪気な性格で義侠心があり、智謀と兵法に通じていた。
はじめ李罕之に仕え、その後李克用に仕えその義子となり李存審と名乗る。
李克用の征戦に従軍し、知謀と奇兵をもって戦功を重ねていく。
後梁の五十万を号する大軍が侵攻すると、
六百の騎兵を変装させて潜入し、朱全忠の本営を襲い後梁軍に大勝した。
契丹が侵攻し幽州を包囲すると、綿裡裹針の計をもって大破し幽州の包囲を解いた。
胡柳陂の戦いでは主力の銀槍隊を率い、後梁軍を殲滅した。
生涯で百余りの戦闘に参加し、一度の敗北もなかった武将である。
後唐の武将。初名は符存。
豪気な性格で義侠心があり、智謀と兵法に通じていた。
はじめ李罕之に仕え、その後李克用に仕えその義子となり李存審と名乗る。
李克用の征戦に従軍し、知謀と奇兵をもって戦功を重ねていく。
後梁の五十万を号する大軍が侵攻すると、
六百の騎兵を変装させて潜入し、朱全忠の本営を襲い後梁軍に大勝した。
契丹が侵攻し幽州を包囲すると、綿裡裹針の計をもって大破し幽州の包囲を解いた。
胡柳陂の戦いでは主力の銀槍隊を率い、後梁軍を殲滅した。
生涯で百余りの戦闘に参加し、一度の敗北もなかった武将である。
補足:字は旧五代史・新五代史とも「徳詳」だが、「徳祥」とも伝わっている。
姓名は「李存審」であるが、息子の符彦卿も名将として活躍しているため、
李克用の十三太保(実子・養子)の中では唯一、正史に原姓で伝が記載されている。
姓名は「李存審」であるが、息子の符彦卿も名将として活躍しているため、
李克用の十三太保(実子・養子)の中では唯一、正史に原姓で伝が記載されている。
李嗣源
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 86 | 72 | 90 | 92 | 仁政 | B | A | A | S | B | C | 867 | 933 |
【リシゲン】
後唐の二代皇帝・明宗。李克用の養子。
李存勗のもとで契丹の幽州侵攻を退け、王彦章の軍を撃ち破り、後梁を滅ぼすのに功績を立てる。
荘宗の治世で頻発する乱の鎮圧に従事する中、自らも反旗を翻し洛陽へ侵攻する。
荘宗の死後に即位し、馮道を宰相とし、宦官を殺して荘宗の悪政を除いた。
文盲ながら民衆の苦しみに関心を払って善政を敷き、後周の世宗に並ぶ名君とされている。
孟知祥が四川で挙兵を起こした際には、蜀王に封じて懐柔策を取っている。
病に倒れると太子の秦王李従栄が挙兵し、李従栄誅殺の報せを聞いて危篤となり没した。
後唐の二代皇帝・明宗。李克用の養子。
李存勗のもとで契丹の幽州侵攻を退け、王彦章の軍を撃ち破り、後梁を滅ぼすのに功績を立てる。
荘宗の治世で頻発する乱の鎮圧に従事する中、自らも反旗を翻し洛陽へ侵攻する。
荘宗の死後に即位し、馮道を宰相とし、宦官を殺して荘宗の悪政を除いた。
文盲ながら民衆の苦しみに関心を払って善政を敷き、後周の世宗に並ぶ名君とされている。
孟知祥が四川で挙兵を起こした際には、蜀王に封じて懐柔策を取っている。
病に倒れると太子の秦王李従栄が挙兵し、李従栄誅殺の報せを聞いて危篤となり没した。
後漢
史弘肇(化元)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 81 | 49 | 56 | 39 | 規律 | A | A | B | A | B | C | ? | 950 |
【シコウチョウ(カゲン)】
後梁、後晋、後漢の武将、政治家。
農民の子に生まれ、後梁の代に禁軍の兵士となり、劉知遠(後漢の高祖)の元で雷州刺史となる。
後晋を滅ぼして引き上げる契丹を駆逐し、代州から河東・河南を制圧し戦功を立てた。
寡黙で軍規に厳しく、洛陽から開封に至る要衝を押さえた際には民に対して秋毫も犯させなかった。
劉知遠が開封に入り後漢を立てるが、直後に崩じたため隠帝劉承祐を補佐して禁軍を統率し京城の治安維持に務める。
しかし、法に苛烈に厳しく、文人と対立し、罪の軽重を問わずに極刑を下していたため、隠帝により誅殺された。
後梁、後晋、後漢の武将、政治家。
農民の子に生まれ、後梁の代に禁軍の兵士となり、劉知遠(後漢の高祖)の元で雷州刺史となる。
後晋を滅ぼして引き上げる契丹を駆逐し、代州から河東・河南を制圧し戦功を立てた。
寡黙で軍規に厳しく、洛陽から開封に至る要衝を押さえた際には民に対して秋毫も犯させなかった。
劉知遠が開封に入り後漢を立てるが、直後に崩じたため隠帝劉承祐を補佐して禁軍を統率し京城の治安維持に務める。
しかし、法に苛烈に厳しく、文人と対立し、罪の軽重を問わずに極刑を下していたため、隠帝により誅殺された。
後周
郭威
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 83 | 69 | 76 | 84 | 駆逐 | A | A | S | A | B | C | 904 | 954 |
【カクイ】
後周の初代皇帝太祖。
十八歳の時に李継韜の募兵に応じ、その武勇を愛された。
李継韜が後唐の荘宗に誅されると、軍吏に取り立てられ劉知遠の麾下となる。
後晋が滅亡して劉知遠が高祖となって後漢を建てると、要職を委ねられる。
高祖が即位直後に病没すると李守貞、趙思綰、王景崇らが反乱を起こすが、この全てを平定した。
しかし隠帝の猜疑心から史弘肇、王殷らが粛清されたため謀反を起こす。
一族を皆殺しにされるが、隠帝が弑されたため帝位に就き後周を建国する。
慕容彦超の乱を親征して鎮圧したが、即位四年で没した。
後周の初代皇帝太祖。
十八歳の時に李継韜の募兵に応じ、その武勇を愛された。
李継韜が後唐の荘宗に誅されると、軍吏に取り立てられ劉知遠の麾下となる。
後晋が滅亡して劉知遠が高祖となって後漢を建てると、要職を委ねられる。
高祖が即位直後に病没すると李守貞、趙思綰、王景崇らが反乱を起こすが、この全てを平定した。
しかし隠帝の猜疑心から史弘肇、王殷らが粛清されたため謀反を起こす。
一族を皆殺しにされるが、隠帝が弑されたため帝位に就き後周を建国する。
慕容彦超の乱を親征して鎮圧したが、即位四年で没した。
馮道(可道)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 47 | 93 | 99 | 93 | 能吏 | C | C | B | C | A | B | 882 | 954 |
【フウドウ(カドウ)】
五代十国時代の政治家。瀛州景城県来蘇里の人。五朝八姓十一君に仕えた伝説的宰相。
皇帝・王朝が激しく入れ替わった時代に、後梁以外の五代王朝の全てと、
後晋を滅ぼし一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。
馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称し、彼の宰相としての在任期間は二十年にも及ぶ。
節度使出身の五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する慈愛心が薄かったため、
時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。
その才能と人望故、当時の木版印刷の発明者として仮託された。
五代十国時代の政治家。瀛州景城県来蘇里の人。五朝八姓十一君に仕えた伝説的宰相。
皇帝・王朝が激しく入れ替わった時代に、後梁以外の五代王朝の全てと、
後晋を滅ぼし一時的に中原を支配した契丹族王朝の遼に仕え、常に高位にあった。
馮道は仕えた主君を「五朝八姓十一君」と称し、彼の宰相としての在任期間は二十年にも及ぶ。
節度使出身の五代の武人皇帝や北方の遼の皇帝たちには、農民に対する慈愛心が薄かったため、
時に暴走する皇帝を諫め続け、時の民衆に敬仰された。
その才能と人望故、当時の木版印刷の発明者として仮託された。
符彦卿(冠侯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 92 | 84 | 39 | 81 | 弓神 | S | A | S | A | C | C | 898 | 975 |
【フゲンケイ(カンコウ)】
五代・北宋の武将。父は符存審。
十三歳で李存勗(荘宗)に仕える。
興教門の変で、荘宗を護って奮戦し十数人を射殺したが、荘宗は弑逆され慟哭した。
後晋の時代には、契丹軍に包囲された高行周を救出し、
陽城が包囲されると契丹軍の後尾に弩兵を潜り込ませ大破した。
後晋が滅びると契丹に投降するが、後漢が建つと帰順し、その後は後周にも仕えた。
北漢が潞州に南進してくると世宗の親征に従い、契丹の援軍も打ち破って世宗から賞された。
北宋の代には宴で弓射を披露し全射的中させ、名馬を下賜された。
五代・北宋の武将。父は符存審。
十三歳で李存勗(荘宗)に仕える。
興教門の変で、荘宗を護って奮戦し十数人を射殺したが、荘宗は弑逆され慟哭した。
後晋の時代には、契丹軍に包囲された高行周を救出し、
陽城が包囲されると契丹軍の後尾に弩兵を潜り込ませ大破した。
後晋が滅びると契丹に投降するが、後漢が建つと帰順し、その後は後周にも仕えた。
北漢が潞州に南進してくると世宗の親征に従い、契丹の援軍も打ち破って世宗から賞された。
北宋の代には宴で弓射を披露し全射的中させ、名馬を下賜された。
高行周(尚質)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 86 | 79 | 70 | 80 | 急襲 | S | A | A | A | B | C | 885 | 952 |
【コウコウシュウ(ショウシツ)】
五代の武将。息子は高懐徳。
父を誅殺した劉仁恭に仕えさせられ、その後桀燕を滅ぼした李嗣源(後唐の明宗)の幕下に加わる。
鄆州攻めでは雨中での夜襲を進言し、先鋒となって夜に黄河を渡河し成功させる。
後唐、後晋期には反乱鎮圧や契丹侵攻に対処し続けた。
後漢が滅びると契丹に帰順するが、劉知遠が後漢を興すとこれに加わった。
後漢建国後に起きた杜重威の反乱を鎮圧し、鄴都留守、太尉、中書令を歴任。
後周の太祖郭威にも宿将として信任され、名ではなく王号で呼ばれる程だった。
五代の武将。息子は高懐徳。
父を誅殺した劉仁恭に仕えさせられ、その後桀燕を滅ぼした李嗣源(後唐の明宗)の幕下に加わる。
鄆州攻めでは雨中での夜襲を進言し、先鋒となって夜に黄河を渡河し成功させる。
後唐、後晋期には反乱鎮圧や契丹侵攻に対処し続けた。
後漢が滅びると契丹に帰順するが、劉知遠が後漢を興すとこれに加わった。
後漢建国後に起きた杜重威の反乱を鎮圧し、鄴都留守、太尉、中書令を歴任。
後周の太祖郭威にも宿将として信任され、名ではなく王号で呼ばれる程だった。
柴栄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 66 | 87 | 95 | 96 | 仁政 | B | B | S | B | A | A | 921 | 959 |
【サイエイ】
後周の第二代皇帝。世宗。邢州竜岡の人。
郭威の皇后の弟で、郭威の養子として輔弼し、没後に即位。
直後に入寇した北漢と契丹を撃破し、戦後は軍紀を粛正し、精鋭を選抜し直属の殿前軍を編成した。
殿前軍で節度使を抑え、後蜀の四州、南唐の江北を奪って後顧の憂いを除き、
北伐して燕雲十六州の内三州を制圧したが、幽州で病死した。
内政では、廃仏で仏教教団を牽制すると共に、「大周刑統」を制定し、
減税や開墾・治水灌漑を振興して農政を充実させ、北宋による統一を準備した。
五代随一の名君とされ、歴史的賢君と評される。
後周の第二代皇帝。世宗。邢州竜岡の人。
郭威の皇后の弟で、郭威の養子として輔弼し、没後に即位。
直後に入寇した北漢と契丹を撃破し、戦後は軍紀を粛正し、精鋭を選抜し直属の殿前軍を編成した。
殿前軍で節度使を抑え、後蜀の四州、南唐の江北を奪って後顧の憂いを除き、
北伐して燕雲十六州の内三州を制圧したが、幽州で病死した。
内政では、廃仏で仏教教団を牽制すると共に、「大周刑統」を制定し、
減税や開墾・治水灌漑を振興して農政を充実させ、北宋による統一を準備した。
五代随一の名君とされ、歴史的賢君と評される。
南唐
李昪(正倫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 74 | 78 | 88 | 78 | 屯田 | B | B | B | C | B | S | 888 | 943 |
【リベン(セイリン)】
南唐の初代皇帝烈祖。元の名を徐知誥、徐誥。
孤児だった頃に南呉の楊行密に救われ、徐温の養子となる。
徐温の元で軍事・内政両面で能力を発揮し、徐温の死後に南呉の実権を握り斉王となる。
睿帝より禅譲され、斉を建国。翌年国号を唐(南唐)に改め、名も李昪とした。
開墾・治水を行って内政を充実させ、呉越と和解して戦争を控え、民を休息させた。
隣国の呉越の宮廷が大火を起こした際には、侵攻の好機とする進言を退け、見舞金を送るほどであった。
晩年は不老不死を求め丹薬中毒となり、背中の腫物で病が悪化し病没した。
南唐の初代皇帝烈祖。元の名を徐知誥、徐誥。
孤児だった頃に南呉の楊行密に救われ、徐温の養子となる。
徐温の元で軍事・内政両面で能力を発揮し、徐温の死後に南呉の実権を握り斉王となる。
睿帝より禅譲され、斉を建国。翌年国号を唐(南唐)に改め、名も李昪とした。
開墾・治水を行って内政を充実させ、呉越と和解して戦争を控え、民を休息させた。
隣国の呉越の宮廷が大火を起こした際には、侵攻の好機とする進言を退け、見舞金を送るほどであった。
晩年は不老不死を求め丹薬中毒となり、背中の腫物で病が悪化し病没した。
※「昪」は「日」の下に「弁」。入力する際は似ている「昇」を代わりに当てる。
劉仁贍(守恵)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 59 | 84 | 73 | 86 | 鉄壁 | B | B | S | C | A | S | 900 | 957 |
【リュウジンセン(シュケイ)】
南唐の武将。
儒学に通じ、兵書を好み声望を得ており、士を重んじて法を厳粛に守った。
後周の世宗柴栄が南唐へ親征すると、寿春防衛の任に当たる。
竹龍と呼ばれる闘艦の投石や水攻めに耐え、寿春城を防衛し続けた。
援軍が紫金山で敗れ、劉仁贍も陣中で病に倒れると、
息子の劉崇諌が投降しようとしたため息子を斬り、将兵は城を死守することを誓った。
その後も将兵は数ヶ月城を堅守するが、劉仁贍が危篤となったため副将が寿春を開城して降伏する。
世宗が忠義の名臣と称え要職を与えようとするが、すでに息を引き取っていた。
南唐の武将。
儒学に通じ、兵書を好み声望を得ており、士を重んじて法を厳粛に守った。
後周の世宗柴栄が南唐へ親征すると、寿春防衛の任に当たる。
竹龍と呼ばれる闘艦の投石や水攻めに耐え、寿春城を防衛し続けた。
援軍が紫金山で敗れ、劉仁贍も陣中で病に倒れると、
息子の劉崇諌が投降しようとしたため息子を斬り、将兵は城を死守することを誓った。
その後も将兵は数ヶ月城を堅守するが、劉仁贍が危篤となったため副将が寿春を開城して降伏する。
世宗が忠義の名臣と称え要職を与えようとするが、すでに息を引き取っていた。