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みんなの新武将/倭・日本(中世) - (2017/03/02 (木) 23:38:21) の編集履歴(バックアップ)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
平清盛の死後、平氏打倒の風潮が流れ、落ち延びていた
源頼朝
とその弟、範頼と義経。
そして頼朝の従兄弟でもある木曽義仲らの挙兵もあり、平氏政権は打倒され、平家は没落した。
かわって源氏の源頼朝が鎌倉に幕府を開き、新たな武士政権が発足。頼朝の死後、
源氏は将軍を2人続けて早くに失い、事実上滅亡となったが、かわって執権の北条氏が台頭。
後鳥羽上皇率いる朝廷軍との争いに勝ち、武士政権を確立させる。8代執権 北条時宗 の代に
元の軍勢が来襲し、以降鎌倉幕府は衰退。1333年に滅亡する。
その後倒幕に功のあった 足利尊氏 が勢力を伸ばし、3代将軍 足利義満 の代に室町幕府が確立する。
しかし応仁の乱などを機に衰退し、将軍に実権がなく内乱状態に突入する。
そして頼朝の従兄弟でもある木曽義仲らの挙兵もあり、平氏政権は打倒され、平家は没落した。
かわって源氏の源頼朝が鎌倉に幕府を開き、新たな武士政権が発足。頼朝の死後、
源氏は将軍を2人続けて早くに失い、事実上滅亡となったが、かわって執権の北条氏が台頭。
後鳥羽上皇率いる朝廷軍との争いに勝ち、武士政権を確立させる。8代執権 北条時宗 の代に
元の軍勢が来襲し、以降鎌倉幕府は衰退。1333年に滅亡する。
その後倒幕に功のあった 足利尊氏 が勢力を伸ばし、3代将軍 足利義満 の代に室町幕府が確立する。
しかし応仁の乱などを機に衰退し、将軍に実権がなく内乱状態に突入する。
中世(鎌倉時代~戦国時代、諸説あり)
【鎌倉時代(12世紀~14世紀前半)】
源頼朝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
78 | 70 | 89 | 96 | 86 | 強運・威圧・詭計 | B | C | A | B | C | C | 1147 | 1199 | 冷静 |
【ミナモトノヨリトモ】
鎌倉幕府の初代将軍。平治の乱で敗れた源氏の嫡男として伊豆に流罪となるが
平氏は高倉宮以仁王が平家追討を命ずる令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にある事を悟った頼朝は挙兵。
関東を平定した後に平家、奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷から征夷大将軍に任命された。
「天下」の呼称を初めて使った人でもある。
鎌倉幕府の初代将軍。平治の乱で敗れた源氏の嫡男として伊豆に流罪となるが
平氏は高倉宮以仁王が平家追討を命ずる令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にある事を悟った頼朝は挙兵。
関東を平定した後に平家、奥州藤原氏を滅ぼし、朝廷から征夷大将軍に任命された。
「天下」の呼称を初めて使った人でもある。
※その他候補となった特技:明鏡・眼力
源範頼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
85 | 83 | 76 | 67 | 80 | 威風・威圧・補佐 | A | A | B | S | C | B | 1150 | 1193 | 冷静 |
【ミナモトノノリヨリ】
平安末~鎌倉初の武将。源義朝の六男。頼朝の弟。
頼朝軍の総司令官を務めた。源平合戦では義経の活躍が有名だが、
本軍を率いた範頼も堅実な用兵で一度も敗北する事なく平家討伐を成功させている。
一般に凡将のイメージがあるが彼を平凡と扱っている資料は14世紀に記された『源平盛衰記』のみであり、
信憑性は低いとされる。なお彼も平家滅亡後に義経同様、頼朝に幽閉・殺害された。
平安末~鎌倉初の武将。源義朝の六男。頼朝の弟。
頼朝軍の総司令官を務めた。源平合戦では義経の活躍が有名だが、
本軍を率いた範頼も堅実な用兵で一度も敗北する事なく平家討伐を成功させている。
一般に凡将のイメージがあるが彼を平凡と扱っている資料は14世紀に記された『源平盛衰記』のみであり、
信憑性は低いとされる。なお彼も平家滅亡後に義経同様、頼朝に幽閉・殺害された。
※その他候補となった特技:金剛・長駆
源義経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
97 | 99 | 88 | 20 | 87 | 疾走・飛将・待伏 | A | B | A | S | C | A | 1159 | 1189? |
【ミナモトノヨシツネ】
平安末の武将。源義朝の9男。頼朝の弟。
兄・頼朝の挙兵に奥州より駆け付け、木曽義仲の討伐や平氏討伐に功績。
余人の思いも寄らぬ斬新な奇作の数々や、時には無謀とも思える戦術を駆使し、瞬く間に義仲、平氏を滅亡に追い込んだ。
正に後世の英傑たる指揮官であったが、軽率な行動と政治力の欠如が、
朝廷から距離を置きたい頼朝の足枷となり頼朝と対立。
極端な合理主義的思想から名誉を重んじる武士たちからは嫌煙され、従う兵もなく奥州へ逃げるが欺かれて殺害された。
現在において悲劇の英雄として人気が高い。
平安末の武将。源義朝の9男。頼朝の弟。
兄・頼朝の挙兵に奥州より駆け付け、木曽義仲の討伐や平氏討伐に功績。
余人の思いも寄らぬ斬新な奇作の数々や、時には無謀とも思える戦術を駆使し、瞬く間に義仲、平氏を滅亡に追い込んだ。
正に後世の英傑たる指揮官であったが、軽率な行動と政治力の欠如が、
朝廷から距離を置きたい頼朝の足枷となり頼朝と対立。
極端な合理主義的思想から名誉を重んじる武士たちからは嫌煙され、従う兵もなく奥州へ逃げるが欺かれて殺害された。
現在において悲劇の英雄として人気が高い。
※その他候補となった特技:急襲・乱戦・連戦・洞察
源義仲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
74 | 100 | 52 | 38 | 69 | 飛将・連戦・疾走 | A | B | A | S | C | C | 1154 | 1184 |
【ミナモトノヨシナカ】
平安末の武将。源義賢の次男であり、源頼朝の従兄弟にあたる。
2歳の時に大蔵合戦で父の義賢を失い、斎藤実盛らの手引で木曾谷で庇護された。
その後、兄の仲家が以仁王の乱で戦死するに及び、源氏の一角として平氏に対して挙兵。
倶利伽羅峠の戦いで10万の平氏軍を破り、以後怒涛の進撃を繰り返して京へ入洛。平氏の都落ちを誘発する。
だが、その後は朝廷勢力との対立、平氏方の反撃、食料飢饉などに悩まされて孤立衰退、
最後は関東で力をつけていた源頼朝が派遣した、範頼・義経兄弟の軍勢に粟津の戦いで敗れ、戦死した。
その生涯は史料でも項羽、呂布にしばしば比される。
平安末の武将。源義賢の次男であり、源頼朝の従兄弟にあたる。
2歳の時に大蔵合戦で父の義賢を失い、斎藤実盛らの手引で木曾谷で庇護された。
その後、兄の仲家が以仁王の乱で戦死するに及び、源氏の一角として平氏に対して挙兵。
倶利伽羅峠の戦いで10万の平氏軍を破り、以後怒涛の進撃を繰り返して京へ入洛。平氏の都落ちを誘発する。
だが、その後は朝廷勢力との対立、平氏方の反撃、食料飢饉などに悩まされて孤立衰退、
最後は関東で力をつけていた源頼朝が派遣した、範頼・義経兄弟の軍勢に粟津の戦いで敗れ、戦死した。
その生涯は史料でも項羽、呂布にしばしば比される。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも
Te-PersonEditor
などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
源行綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
72 | 84 | 65 | 54 | 73 | 騎将・連戦・遁走 | C | B | C | A | C | C | ? | ? |
【ミナモトノユキツナ】
平安末の武将。摂津国多田源氏の人間。
木曽義仲に呼応して反平氏の軍を挙げ、摂津河内を瞬く間に勢力に取り組み平家の都落ちに貢献。
義仲が朝廷と敵対すると朝廷軍につき、やがて源頼朝に味方し打倒平氏の活動を継続。
一の谷の戦いでは、源義経とともに戦い絶対的不利な状況を覆した。しかし平氏が滅亡すると
対立した義経と昵懇な関係であったと頼朝に咎められ、所領を没収の上追放された。
平安末の武将。摂津国多田源氏の人間。
木曽義仲に呼応して反平氏の軍を挙げ、摂津河内を瞬く間に勢力に取り組み平家の都落ちに貢献。
義仲が朝廷と敵対すると朝廷軍につき、やがて源頼朝に味方し打倒平氏の活動を継続。
一の谷の戦いでは、源義経とともに戦い絶対的不利な状況を覆した。しかし平氏が滅亡すると
対立した義経と昵懇な関係であったと頼朝に咎められ、所領を没収の上追放された。
源頼政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
85 | 69 | 78 | 83 | 74 | 鉄壁・論客・不屈 | A | A | A | B | C | C | 1104 | 1180 | 雅仁親王・守仁親王 | 平宗盛 |
【ミナモトノヨリマサ】
平安末の武将。摂津源氏の人間。
後白河天皇および二条天皇など朝廷天皇家に傍近く仕え、保元の乱および
平治の乱でも彼らを支えた。平治の乱では同じく源氏であった
源義朝と袂を分かっている。平清盛が実権を掌握しても変わらず
朝廷に仕え続け、老齢かつ源氏の身でありながら清盛の信任は厚かったと
言われている。しかし院と平氏政権の対立が顕著になってくると院に同調し、
また平氏後継の平宗盛と対立したこともあり、以仁王と語らって挙兵、奮戦するも敗死した。
平安末の武将。摂津源氏の人間。
後白河天皇および二条天皇など朝廷天皇家に傍近く仕え、保元の乱および
平治の乱でも彼らを支えた。平治の乱では同じく源氏であった
源義朝と袂を分かっている。平清盛が実権を掌握しても変わらず
朝廷に仕え続け、老齢かつ源氏の身でありながら清盛の信任は厚かったと
言われている。しかし院と平氏政権の対立が顕著になってくると院に同調し、
また平氏後継の平宗盛と対立したこともあり、以仁王と語らって挙兵、奮戦するも敗死した。
※ 乱自体は早期に終息したが、以仁王の綸旨は源頼朝、源義仲らの平氏討伐における大義名分となる。子孫は頼朝に味方した。
源頼家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
37 | 65 | 33 | 41 | 56 | 怒髪・威圧・楽奏 | B | C | B | B | C | C | 1182 | 1204 | 北条時政・北条義時 | 猪突 |
【ミナモトノヨリイエ】
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の嫡男。母は北条政子。
梶原景時や比企能員の後ろ盾を得つつ、将軍後継として育てられてきたが、
源頼朝の急死後に将軍職を継ぐと、十三人合議制とされ重臣たちとの対立をうむ。
頼家自身も反発したが梶原景時の失脚を食い止めることができず、1203年重病にて倒れる。
この際北条氏による比企氏襲撃があり、自身の嫡男一幡も殺害された。激怒して
北条氏討伐を実行しようとするも、従う者は少なく将軍職を廃され幽閉される。
のち、幽閉先の修禅寺にて殺害された。
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の嫡男。母は北条政子。
梶原景時や比企能員の後ろ盾を得つつ、将軍後継として育てられてきたが、
源頼朝の急死後に将軍職を継ぐと、十三人合議制とされ重臣たちとの対立をうむ。
頼家自身も反発したが梶原景時の失脚を食い止めることができず、1203年重病にて倒れる。
この際北条氏による比企氏襲撃があり、自身の嫡男一幡も殺害された。激怒して
北条氏討伐を実行しようとするも、従う者は少なく将軍職を廃され幽閉される。
のち、幽閉先の修禅寺にて殺害された。
源実朝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
46 | 29 | 74 | 58 | 65 | 詩想・祈願・楽奏 | C | C | C | C | C | C | 1192 | 1219 |
【ミナモトノサネトモ】
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝の四男。母は北条政子。
兄である頼家の失脚後、北条氏の後援を得て3代将軍となる。
新古今和歌集を運ばせて和歌や京風文化を重んじ、自らも金槐和歌集を編纂して
朝廷との関係向上に腐心した。北条氏の実権や軍勢によって、和田氏や
畠山氏らを討伐したが、1219年鶴岡八幡宮拝賀の際に甥で養子でもあった公暁に暗殺された。
鎌倉時代の武将。鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝の四男。母は北条政子。
兄である頼家の失脚後、北条氏の後援を得て3代将軍となる。
新古今和歌集を運ばせて和歌や京風文化を重んじ、自らも金槐和歌集を編纂して
朝廷との関係向上に腐心した。北条氏の実権や軍勢によって、和田氏や
畠山氏らを討伐したが、1219年鶴岡八幡宮拝賀の際に甥で養子でもあった公暁に暗殺された。
雅仁親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
14 | 8 | 91 | 87 | 94 | 虚実・鬼謀・連環 | C | C | C | C | C | C | 1127 | 1192 |
【マサヒトシンノウ】
平安・鎌倉時代の天皇・上皇。のちの後白河天皇。
鳥羽上皇の四男として生誕し、鳥羽法皇の崩御後に兄の崇徳上皇と皇位を争った。
その後二条天皇に譲位して自らは上皇として権力を握るが、双方の支持する公家勢力の争いが生じ、
結果的に政局中枢を外れることとなった。しかし二条天皇が若年で崩御すると再び息を吹き返し、
孫の六条天皇、ついで自身の七男であった高倉天皇を皇位に据えた。また群臣の平清盛と協調して
政権運営にあたるが、清盛の嫡男であった平重盛の死後から徐々に対立、一時期は治承三年の政変を
おこされて政局を清盛に牛耳られるが、反平氏勢力を巧みに利用して平家の没落を裏から行った。
源平や他勢力を巧みに牛耳ったことから、源頼朝は後白河天皇を「日本国第一の大天狗」と評したと言う。その後、1192年に崩御。
平安・鎌倉時代の天皇・上皇。のちの後白河天皇。
鳥羽上皇の四男として生誕し、鳥羽法皇の崩御後に兄の崇徳上皇と皇位を争った。
その後二条天皇に譲位して自らは上皇として権力を握るが、双方の支持する公家勢力の争いが生じ、
結果的に政局中枢を外れることとなった。しかし二条天皇が若年で崩御すると再び息を吹き返し、
孫の六条天皇、ついで自身の七男であった高倉天皇を皇位に据えた。また群臣の平清盛と協調して
政権運営にあたるが、清盛の嫡男であった平重盛の死後から徐々に対立、一時期は治承三年の政変を
おこされて政局を清盛に牛耳られるが、反平氏勢力を巧みに利用して平家の没落を裏から行った。
源平や他勢力を巧みに牛耳ったことから、源頼朝は後白河天皇を「日本国第一の大天狗」と評したと言う。その後、1192年に崩御。
藤原秀衡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
82 | 45 | 94 | 88 | 83 | 論客・富豪・繁殖 | B | C | B | A | C | C | 1122? | 1187 | 冷静 |
【フジワラノヒデヒラ】
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
陸奥・出羽の両国を領し、奥州十七万騎といわれる軍事大国を築く。
また朝廷とも昵懇な関係を築き、藤原基成の娘を迎え入れた。
鎮守府将軍として源氏・平家の中央の争いを傍観しつつ、源義経を庇護
するなど力を蓄えた。平家が滅亡すると源頼朝から圧力をかけられるが
悉く跳ね除ける。しかし、圧力が弱まることのないままその途中で死去
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
陸奥・出羽の両国を領し、奥州十七万騎といわれる軍事大国を築く。
また朝廷とも昵懇な関係を築き、藤原基成の娘を迎え入れた。
鎮守府将軍として源氏・平家の中央の争いを傍観しつつ、源義経を庇護
するなど力を蓄えた。平家が滅亡すると源頼朝から圧力をかけられるが
悉く跳ね除ける。しかし、圧力が弱まることのないままその途中で死去
※ その発展ぶりは当時第二の規模を誇る平泉に代表される。のちにそこにある中尊寺金色堂の存在がマルコポーロによって東方見聞録に記された
※その他候補となった特技:徴税・築城・沈着・眼力
藤原泰衡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
22 | 28 | 27 | 45 | 33 | 怒髪・急襲・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1165? | 1189 |
【フジワラノヤスヒラ】
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
次男であったが、唯一の嫡出子であったために後継者として育てられる。
秀衡の死後家督を相続するが、兄弟親族と対立し、弟たちを次々に殺害。
また源頼朝の圧力に屈し、衣川で源義経を闇討ちし自害に追い込み、彼と
協調路線を志す弟の忠衡らも殺害した。しかし、頼朝の奥州征討の意は固く、
鎌倉幕府の奥州征討軍の前にわずか3日で敗北した。その後、家臣に裏切られて討たれた。
平安・鎌倉時代の武将。奥州藤原氏当主。
次男であったが、唯一の嫡出子であったために後継者として育てられる。
秀衡の死後家督を相続するが、兄弟親族と対立し、弟たちを次々に殺害。
また源頼朝の圧力に屈し、衣川で源義経を闇討ちし自害に追い込み、彼と
協調路線を志す弟の忠衡らも殺害した。しかし、頼朝の奥州征討の意は固く、
鎌倉幕府の奥州征討軍の前にわずか3日で敗北した。その後、家臣に裏切られて討たれた。
佐藤継信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
52 | 78 | 46 | 49 | 63 | 護衛・沈着・不屈 | B | C | B | A | C | C | 1150? | 1185 | 源義経 |
【サトウツグノブ】
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦が起こると源義経に付き従って参戦した。
しかし、屋島の戦いで戦死。一説には平教経が放った矢から
義経を庇って戦死したと伝えられている。
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦が起こると源義経に付き従って参戦した。
しかし、屋島の戦いで戦死。一説には平教経が放った矢から
義経を庇って戦死したと伝えられている。
※その忠孝ぶりは後世にまで讃えられた。一説には義経が佐藤氏の娘を娶っていて、縁戚関係だったともいわれる。
佐藤忠信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
64 | 79 | 42 | 27 | 77 | 血路・猛者・待伏 | A | C | B | B | C | C | 1153? | 1186 | 源義経 |
【サトウタダノブ】
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦に従軍する。兄である継信の戦死後も変わらず義経に仕え続けた。
その後、源頼朝と対立し、朝敵となった義経を逃がすべく京で奮戦するも
多勢に無勢で鎌倉方の襲撃によって自害した。
平安末期の武将。奥州藤原氏の家臣。
奥州藤原氏に仕える佐藤基治または藤原忠継の子として生まれる。
平家に敗れた源義経が奥州藤原氏に庇護されるとその郎党となり、
源平合戦に従軍する。兄である継信の戦死後も変わらず義経に仕え続けた。
その後、源頼朝と対立し、朝敵となった義経を逃がすべく京で奮戦するも
多勢に無勢で鎌倉方の襲撃によって自害した。
足利義清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
68 | 85 | 29 | 41 | 67 | 強行・猛者・怒髪 | A | A | B | A | C | B | ? | 1183 |
【アシカガヨシキヨ】
平安末の武将。源義仲の家臣。足利義康の長男。細川氏、仁木氏の祖。
源頼朝の庇護を受けた異母弟足利義兼と異なり、京で朝廷に仕え、
その後は源頼政らと語らい以仁王の挙兵を促した。頼政の敗死後は落ち延びて
源義仲に仕える。源義仲が上洛した際には西側から攻囲に参加し、平氏の都落ちを
誘発した。義仲から重用され、平氏討伐軍の一軍を率いて西方へと向かうが、備中水島にて
平知盛、平教経らと戦い、敗死した。平氏軍の策と用兵に苦戦した味方の救援を行った矢先の事であったという。
平安末の武将。源義仲の家臣。足利義康の長男。細川氏、仁木氏の祖。
源頼朝の庇護を受けた異母弟足利義兼と異なり、京で朝廷に仕え、
その後は源頼政らと語らい以仁王の挙兵を促した。頼政の敗死後は落ち延びて
源義仲に仕える。源義仲が上洛した際には西側から攻囲に参加し、平氏の都落ちを
誘発した。義仲から重用され、平氏討伐軍の一軍を率いて西方へと向かうが、備中水島にて
平知盛、平教経らと戦い、敗死した。平氏軍の策と用兵に苦戦した味方の救援を行った矢先の事であったという。
今井兼平
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
58 | 90 | 51 | 34 | 79 | 血路・護衛・猛者 | A | B | A | A | C | C | 1152 | 1184 | 源義仲 |
【イマイカネヒラ】
平安末の武将。源義仲の家臣。義仲四天王の1人。
中原兼遠の四男として生まれ、義仲の乳兄弟として彼を支える。
義仲が長じて挙兵すると、彼を補佐し、横田河原で城長茂を破る。
以後義仲の破竹の進軍に貢献して、倶利伽羅峠の戦いをはじめ
主要な戦に参加。平氏都落ちを誘発して義仲入京を助けた。
法住寺合戦では特筆すべき軍功をたてるが、平氏と頼朝の板挟みにあい
粟津の合戦で義仲をただ1騎で守るも、義仲が敗死すると彼に殉じた。
平安末の武将。源義仲の家臣。義仲四天王の1人。
中原兼遠の四男として生まれ、義仲の乳兄弟として彼を支える。
義仲が長じて挙兵すると、彼を補佐し、横田河原で城長茂を破る。
以後義仲の破竹の進軍に貢献して、倶利伽羅峠の戦いをはじめ
主要な戦に参加。平氏都落ちを誘発して義仲入京を助けた。
法住寺合戦では特筆すべき軍功をたてるが、平氏と頼朝の板挟みにあい
粟津の合戦で義仲をただ1騎で守るも、義仲が敗死すると彼に殉じた。
梶原景時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
75 | 60 | 73 | 82 | 21 | 長駆・能吏・連戦 | A | B | C | S | C | B | 1140? | 1200 |
【カジワラカゲトキ】
平安・鎌倉時代の武将。もと大庭景親の家臣、のち源頼朝の家臣。
石橋山の戦いで大庭景親につき、源頼朝を散々に打ち破るが、洞窟に籠る頼朝をあえて見逃し、
この恩から源頼朝に重用された。その後、上総広常の謀殺や平氏・木曽討伐で軍功を挙げ、
特に宇治川の戦いや一ノ谷の戦いでは抜群の働きを見せた。実務に優れ、官僚的な役割を
果たす一方、奇抜斬新な発想を持つ源義経と度々対立し、義経を讒言したことから後世に悪人扱いを受ける遠因となった。
頼朝の死後、2代将軍である源頼家に疎まれ失脚。京に向かう途中、駿河国で在郷武士に襲撃され、自害。
北条氏らと同じく、頼家排斥と実朝擁立を考えていたからと言われている。
平安・鎌倉時代の武将。もと大庭景親の家臣、のち源頼朝の家臣。
石橋山の戦いで大庭景親につき、源頼朝を散々に打ち破るが、洞窟に籠る頼朝をあえて見逃し、
この恩から源頼朝に重用された。その後、上総広常の謀殺や平氏・木曽討伐で軍功を挙げ、
特に宇治川の戦いや一ノ谷の戦いでは抜群の働きを見せた。実務に優れ、官僚的な役割を
果たす一方、奇抜斬新な発想を持つ源義経と度々対立し、義経を讒言したことから後世に悪人扱いを受ける遠因となった。
頼朝の死後、2代将軍である源頼家に疎まれ失脚。京に向かう途中、駿河国で在郷武士に襲撃され、自害。
北条氏らと同じく、頼家排斥と実朝擁立を考えていたからと言われている。
梶原景季
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
72 | 91 | 46 | 25 | 83 | 猛者・騎将・強行 | A | C | A | S | C | C | 1162? | 1200 |
【カジワラカゲスエ】
平安・鎌倉時代の武将。梶原景時の嫡男。
父とともに源頼朝に仕え、頼朝の側近馬廻りとして活動する。
その後、頼朝と義仲の対立が表面化すると、源範頼・義経兄弟の義仲追討軍に随行。
宇治川の戦いでは先陣を争い、その後の平氏討伐でも一ノ谷の戦いで大いに奮戦するなど
軍功を立てた。屋島、壇ノ浦では源義経軍に属して平家滅亡に貢献。義経と同じく
後白河法皇から任官され頼朝の不興を買うが、すぐに許された。その後奥州藤原氏討伐にも参加している。
源頼朝の死後、鎌倉武士らと対立して追放され、駿河で在郷武士に襲撃された。奮戦ののち自害。
平安・鎌倉時代の武将。梶原景時の嫡男。
父とともに源頼朝に仕え、頼朝の側近馬廻りとして活動する。
その後、頼朝と義仲の対立が表面化すると、源範頼・義経兄弟の義仲追討軍に随行。
宇治川の戦いでは先陣を争い、その後の平氏討伐でも一ノ谷の戦いで大いに奮戦するなど
軍功を立てた。屋島、壇ノ浦では源義経軍に属して平家滅亡に貢献。義経と同じく
後白河法皇から任官され頼朝の不興を買うが、すぐに許された。その後奥州藤原氏討伐にも参加している。
源頼朝の死後、鎌倉武士らと対立して追放され、駿河で在郷武士に襲撃された。奮戦ののち自害。
※ 源平合戦における花形武者として講談では人気が高い
※その他候補となった特技:連戦・急襲・規律
上総広常
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 |
74 | 69 | 61 | 75 | 78 | 名声・富豪・繁殖 | A | C | A | A | C | C | ? | 1184 | 平清盛 |
【カズサヒロツネ】
平安時代の武将。坂東平氏のうちの房総平氏出身。
東国最大の兵力を擁し、平氏ではあったが平清盛との対立もあり
源義朝、源義平らの郎党として活動。平治の乱では義朝の要請によって
出陣した義平十七騎の1人として従軍した。その後平氏の追手を振り切り
領国へと帰還するが、中央の平清盛との対立をますます深める。
源頼朝が挙兵して安房へ入ると、同族の千葉常胤とともに大軍を率いて
頼朝に恭順。源頼朝の関東基盤の中心的存在となるが、その力を恐れられ頼朝に謀殺された。
平安時代の武将。坂東平氏のうちの房総平氏出身。
東国最大の兵力を擁し、平氏ではあったが平清盛との対立もあり
源義朝、源義平らの郎党として活動。平治の乱では義朝の要請によって
出陣した義平十七騎の1人として従軍した。その後平氏の追手を振り切り
領国へと帰還するが、中央の平清盛との対立をますます深める。
源頼朝が挙兵して安房へ入ると、同族の千葉常胤とともに大軍を率いて
頼朝に恭順。源頼朝の関東基盤の中心的存在となるが、その力を恐れられ頼朝に謀殺された。
※その他候補となった特技:遁走・威圧・猛者
大庭景親
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
55 | 70 | 36 | 42 | 58 | 名声・威圧・血路 | A | B | A | A | C | C | ? | 1180 | 剛胆 |
【オオバカゲチカ】
平安時代の武将。坂東平氏の末裔の1人。兄に大庭景義。
兄とともに源義朝に仕え、保元の乱では源為朝に兄とともに挑みかかるが、
為朝の強弓に敗れ、負傷した兄景義を助けて退散した。その後源義朝が没落すると
平清盛に仕え、以仁王の乱では足利忠綱らとともにこれを鎮圧する。
源頼朝が挙兵すると石橋山の戦いで10倍の軍勢をもって源頼朝を破るが、当時部下であった
梶原景時の差配で頼朝を取り逃がす。以後破竹の勢いの頼朝軍の前で徐々に孤立。
富士川の戦いで平氏軍が惨敗すると頼朝に降伏するが、許されず刑死した。
平安時代の武将。坂東平氏の末裔の1人。兄に大庭景義。
兄とともに源義朝に仕え、保元の乱では源為朝に兄とともに挑みかかるが、
為朝の強弓に敗れ、負傷した兄景義を助けて退散した。その後源義朝が没落すると
平清盛に仕え、以仁王の乱では足利忠綱らとともにこれを鎮圧する。
源頼朝が挙兵すると石橋山の戦いで10倍の軍勢をもって源頼朝を破るが、当時部下であった
梶原景時の差配で頼朝を取り逃がす。以後破竹の勢いの頼朝軍の前で徐々に孤立。
富士川の戦いで平氏軍が惨敗すると頼朝に降伏するが、許されず刑死した。
葛西清重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
78 | 83 | 75 | 81 | 77 | 強行・操舵・駆逐 | A | B | A | A | B | A | 1161? | 1238 | 剛胆 |
【カサイキヨシゲ】
平安時代の武将。桓武平氏の末裔。奥州葛西氏の祖。
治承・寿永の乱では早くから源頼朝に味方し、富士川の戦いに従軍。
その後頼朝の関東鎮定に貢献し、源義高らの勢力鎮圧に貢献する。
平氏軍との戦いでは、主に主軍の源範頼の郎党として活躍。九州に渡って
平氏の後方を遮断、北条義時や小山朝政らとともに頼朝から激賞された。
奥州合戦でも従軍し先陣をつとめ、戦後奥州総奉行となった。以後も幕府に尽くし、初期幕臣の重鎮となる。
平安時代の武将。桓武平氏の末裔。奥州葛西氏の祖。
治承・寿永の乱では早くから源頼朝に味方し、富士川の戦いに従軍。
その後頼朝の関東鎮定に貢献し、源義高らの勢力鎮圧に貢献する。
平氏軍との戦いでは、主に主軍の源範頼の郎党として活躍。九州に渡って
平氏の後方を遮断、北条義時や小山朝政らとともに頼朝から激賞された。
奥州合戦でも従軍し先陣をつとめ、戦後奥州総奉行となった。以後も幕府に尽くし、初期幕臣の重鎮となる。
※ 豊島清元の三男として生まれ、葛西御厨を領したことから葛西三郎と言われる。のち豊臣秀吉の奥州仕置に至るまで約500年の間葛西氏は奥州に君臨した。
※その他候補となった特技:勇将・威圧
工藤祐経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
30 | 23 | 76 | 44 | 48 | 言毒・楽奏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1147? | 1193 |
【クドウスケツネ】
平安・鎌倉時代の貴族。藤原南家の出身。
はじめ叔父の伊東祐親の助言により京仕えとなるが、その間に
叔父に所領を奪われ、権力争いを起こす。のち再起を掲げて鎌倉に下り、
弟の縁で源頼朝に仕えた。京での実務能力やその経験を買われ頼朝に重用され、
主に朝廷公家衆との交渉などを勤めている。治承・寿永の乱では源範頼の山陽軍に
従軍したが、武功を立てることはなくもっぱら事務働きを勤める。1193年、かつて
権力争いを起こした伊東祐親の孫に襲撃され、暗殺された。
平安・鎌倉時代の貴族。藤原南家の出身。
はじめ叔父の伊東祐親の助言により京仕えとなるが、その間に
叔父に所領を奪われ、権力争いを起こす。のち再起を掲げて鎌倉に下り、
弟の縁で源頼朝に仕えた。京での実務能力やその経験を買われ頼朝に重用され、
主に朝廷公家衆との交渉などを勤めている。治承・寿永の乱では源範頼の山陽軍に
従軍したが、武功を立てることはなくもっぱら事務働きを勤める。1193年、かつて
権力争いを起こした伊東祐親の孫に襲撃され、暗殺された。
※ 後世その最期は「曽我兄弟の仇討」と言われ、「曽我物語」などをはじめ広く民衆に親しまる結果となった。子孫は戦国大名伊東氏の祖となる。
大江広元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
18 | 11 | 88 | 97 | 75 | 補佐・能吏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1148 | 1225 |
【オオエノヒロモト】
平安・鎌倉時代の貴族。もとは朝臣だったが、のちに鎌倉幕府幕臣となる。子孫に毛利元就。
藤原氏、中原氏の出とされるが定かではない。1184年に鎌倉へと下向し、
公文所別当に就任。のちに政所別当となり、源頼朝のもとで鎌倉幕府の政治全般を司る。
頼朝に守護、地頭の設置を提案したとも伝えられ、京の公卿衆との交渉役を兼任した。
のちに実権を握る北条氏にも同調し、執権である北条義時と連署するなど初期鎌倉幕府の中核を成した。
平安・鎌倉時代の貴族。もとは朝臣だったが、のちに鎌倉幕府幕臣となる。子孫に毛利元就。
藤原氏、中原氏の出とされるが定かではない。1184年に鎌倉へと下向し、
公文所別当に就任。のちに政所別当となり、源頼朝のもとで鎌倉幕府の政治全般を司る。
頼朝に守護、地頭の設置を提案したとも伝えられ、京の公卿衆との交渉役を兼任した。
のちに実権を握る北条氏にも同調し、執権である北条義時と連署するなど初期鎌倉幕府の中核を成した。
和田義盛
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 |
86 | 92 | 31 | 54 | 78 | 弓将・怒髪・白馬 | A | B | S | S | C | A | 1147 | 1213 | 源頼朝・和田義直 | 梶原景時・畠山重忠・北条義時 |
【ワダヨシモリ】
平安・鎌倉時代の武将。三浦氏の出身。頼朝挙兵に早くから従っていたが、
当時平氏方であった畠山重忠に敗れ北条時政ら頼朝方と合流。
その後頼朝再挙に大きな貢献を残し、関東武者の協力を取り付けることに成功した。
平氏や義仲の討伐では主に主軍であった源範頼の郎党となり、範頼の相談役として彼を補佐したという。
壇ノ浦の合戦では自ら船に乗り込み平氏軍をなぎ倒すなど大功を立てた。奥州合戦では先陣を務め藤原国衡を
追撃したが、畠山重忠と対立。頼朝死後も幕府重鎮として、梶原比企畠山討伐にも従軍して功を立てたが
北条義時の挑発にのって和田合戦を起こし、敗死した。愛息であった義直の死を知り落胆したところを討たれたという。
平安・鎌倉時代の武将。三浦氏の出身。頼朝挙兵に早くから従っていたが、
当時平氏方であった畠山重忠に敗れ北条時政ら頼朝方と合流。
その後頼朝再挙に大きな貢献を残し、関東武者の協力を取り付けることに成功した。
平氏や義仲の討伐では主に主軍であった源範頼の郎党となり、範頼の相談役として彼を補佐したという。
壇ノ浦の合戦では自ら船に乗り込み平氏軍をなぎ倒すなど大功を立てた。奥州合戦では先陣を務め藤原国衡を
追撃したが、畠山重忠と対立。頼朝死後も幕府重鎮として、梶原比企畠山討伐にも従軍して功を立てたが
北条義時の挑発にのって和田合戦を起こし、敗死した。愛息であった義直の死を知り落胆したところを討たれたという。
※その後、子孫は義盛の嫡孫である朝盛の子である家盛が佐久間家村の養子として存続。後世尾張佐久間氏に続き、佐久間信盛や佐久間盛政らを輩出した。
畠山重忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
91 | 98 | 67 | 85 | 89 | 勇将・威風・沈着 | A | B | S | S | C | C | 1164 | 1205 | 剛胆 |
【ハタケヤマシゲタダ】
平安・鎌倉時代の武将。坂東平氏の出身。
源義朝に仕えていたが、彼の敗死後は平家に仕えた。源頼朝が
挙兵するとはじめは敵対したが、のちに臣従する。その後、
源義仲や平宗盛らを討伐するべく源範頼、源義経の郎党として従軍し
宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなどで特筆すべき軍功を残した。
奥州藤原氏との戦いでも先陣をつとめその滅亡に貢献。頼朝死後の鎌倉幕府でも
重鎮として支えていたが、北条時政と牧の方らに讒訴され、130騎で数万騎相手に挑み、奮戦後自害した。
怪力無双の豪傑でありながら清廉潔白と讃えられ、「坂東武士の鑑」と言われた。
平安・鎌倉時代の武将。坂東平氏の出身。
源義朝に仕えていたが、彼の敗死後は平家に仕えた。源頼朝が
挙兵するとはじめは敵対したが、のちに臣従する。その後、
源義仲や平宗盛らを討伐するべく源範頼、源義経の郎党として従軍し
宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いなどで特筆すべき軍功を残した。
奥州藤原氏との戦いでも先陣をつとめその滅亡に貢献。頼朝死後の鎌倉幕府でも
重鎮として支えていたが、北条時政と牧の方らに讒訴され、130騎で数万騎相手に挑み、奮戦後自害した。
怪力無双の豪傑でありながら清廉潔白と讃えられ、「坂東武士の鑑」と言われた。
※その死は北条家の内部分裂の遠因ともいわれる。史料講談問わず、美談の多い人物。
※その他候補となった特技:急襲・猛者・強行・騎神
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも
Te-PersonEditor
などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
熊谷直実
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
68 | 91 | 26 | 23 | 58 | 猛者・遁走・強行 | A | B | S | S | C | B | 1141 | 1207 |
【クマガイナオザネ】
平安・鎌倉時代の武将。はじめ源義朝・義平親子に仕えた。
平家が隆盛すると平家に仕えるが、石橋山の戦いを機に源頼朝に仕え、
以後源氏軍の重鎮として活躍。佐竹氏との戦いで大功を立て、
源義仲、平家討伐にも従軍して源範頼、源義経兄弟を支えた。
宇治川の戦い、一の谷の戦いではそれぞれ先鋒を務めて奮戦し大功をあげる。
だが、若年の平敦盛を討ち取ったことや、叔父との所領争いに悲観して晩年出家した。
平安・鎌倉時代の武将。はじめ源義朝・義平親子に仕えた。
平家が隆盛すると平家に仕えるが、石橋山の戦いを機に源頼朝に仕え、
以後源氏軍の重鎮として活躍。佐竹氏との戦いで大功を立て、
源義仲、平家討伐にも従軍して源範頼、源義経兄弟を支えた。
宇治川の戦い、一の谷の戦いではそれぞれ先鋒を務めて奮戦し大功をあげる。
だが、若年の平敦盛を討ち取ったことや、叔父との所領争いに悲観して晩年出家した。
北条時政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
70 | 59 | 86 | 90 | 77 | 機略・威圧・詭計 | B | C | B | B | C | C | 1138 | 1215 |
【ホウジョウトキマサ】
平安・鎌倉時代の武将。鎌倉幕府初代執権。
もとは伊豆の在地豪族として配流された源頼朝の監視役であったが、
娘の政子の影響で頼朝の後援者となり、謀略面で彼を支える。
挙兵後の山木館襲撃にも加わり、そのまま頼朝に従軍。石橋山合戦で
敗れた後は甲斐武田家と交流を結び、頼朝に同調させた。その後頼朝の命で
京都守護を任され、朝廷交渉や政務をおこなった。頼朝死後は政敵を
悉く失墜させたが、牧氏事件にて実子の北条義時らと対立。敗れて失脚した。
平安・鎌倉時代の武将。鎌倉幕府初代執権。
もとは伊豆の在地豪族として配流された源頼朝の監視役であったが、
娘の政子の影響で頼朝の後援者となり、謀略面で彼を支える。
挙兵後の山木館襲撃にも加わり、そのまま頼朝に従軍。石橋山合戦で
敗れた後は甲斐武田家と交流を結び、頼朝に同調させた。その後頼朝の命で
京都守護を任され、朝廷交渉や政務をおこなった。頼朝死後は政敵を
悉く失墜させたが、牧氏事件にて実子の北条義時らと対立。敗れて失脚した。
※後年、北条時政は豪族の娘を母にもつ義時ではなく、貴族の娘を母に持つ政範を嫡子に考えていたといわれ、これが北条氏内部対立の遠因になったとも。
北条政子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
7 | 8 | 72 | 87 | 66 | 傾国・洞察・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1157 | 1225 |
【ホウジョウマサコ】
鎌倉時代の人物。北条時政の長女。実弟に北条義時。夫は源頼朝。
伊豆へ配流されていた源頼朝と恋に落ち、監視役であった実家の反対を押し切って彼の正室となる。
その後は源頼朝の正室としての権力を手にし、源頼家、源実朝を産んで確たるものとした。
また嫉妬深く、側室、妾になろうとする人間を排除していたとも言われる。
頼朝との間に4人の子をもうけたが、いずれの子にも先立たれ、特に源実朝の死去は源氏嫡流の断絶を招いた。
その後は実家である執権北条氏の権力固めを本格化させ、尼将軍として4代将軍を傀儡にし、実権を握った。
「右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い」の文言でも有名。
鎌倉時代の人物。北条時政の長女。実弟に北条義時。夫は源頼朝。
伊豆へ配流されていた源頼朝と恋に落ち、監視役であった実家の反対を押し切って彼の正室となる。
その後は源頼朝の正室としての権力を手にし、源頼家、源実朝を産んで確たるものとした。
また嫉妬深く、側室、妾になろうとする人間を排除していたとも言われる。
頼朝との間に4人の子をもうけたが、いずれの子にも先立たれ、特に源実朝の死去は源氏嫡流の断絶を招いた。
その後は実家である執権北条氏の権力固めを本格化させ、尼将軍として4代将軍を傀儡にし、実権を握った。
「右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い」の文言でも有名。
北条義時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
69 | 65 | 97 | 94 | 89 | 百出・虚実・強運 | B | B | B | C | C | C | 1163 | 1224 |
【ホウジョウヨシトキ】
鎌倉幕府の二代執権。北条時政の次男。嫡男の戦死後に後継者に指名され、
父とともに源頼朝を支える。源頼朝の死後は権謀術数を発揮し、父親である時政をも
廃して北条家の権力拡大に多大な功績をのこした。3代将軍源実朝が暗殺されると
幕政をほぼ一手に牛耳り、これを異とする後鳥羽上皇ら朝廷軍と交戦。
武家政権を日本の頂点に確立し、武家政権の祖とも言われる。
鎌倉幕府の二代執権。北条時政の次男。嫡男の戦死後に後継者に指名され、
父とともに源頼朝を支える。源頼朝の死後は権謀術数を発揮し、父親である時政をも
廃して北条家の権力拡大に多大な功績をのこした。3代将軍源実朝が暗殺されると
幕政をほぼ一手に牛耳り、これを異とする後鳥羽上皇ら朝廷軍と交戦。
武家政権を日本の頂点に確立し、武家政権の祖とも言われる。
※その他候補となった特技:明鏡・威圧・連環
北条時房
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
77 | 64 | 82 | 86 | 90 | 能吏・深謀・論客 | B | B | A | C | C | B | 1175 | 1240 |
【ホウジョウトキフサ】
鎌倉時代の武将。北条時政の三男。兄に北条義時、姉に北条政子、甥に北条泰時。
2代将軍であった源頼家に近侍し、頼家追放後も鎌倉幕府で重きをなした。
畠山重忠、和田義盛の乱では兄の義時から離れて一軍を率い、奮戦して武功を立て、乱鎮圧に貢献。
その後は後鳥羽上皇と関係を持ち、朝廷と幕府の交渉も行うが、承久の変では幕府方の主軍として甥の泰時を補佐。
幕府方大勝利に貢献している。戦後六波羅探題南方、鎌倉幕府連署の初代にも就任。北条氏大仏流の祖となった。
鎌倉時代の武将。北条時政の三男。兄に北条義時、姉に北条政子、甥に北条泰時。
2代将軍であった源頼家に近侍し、頼家追放後も鎌倉幕府で重きをなした。
畠山重忠、和田義盛の乱では兄の義時から離れて一軍を率い、奮戦して武功を立て、乱鎮圧に貢献。
その後は後鳥羽上皇と関係を持ち、朝廷と幕府の交渉も行うが、承久の変では幕府方の主軍として甥の泰時を補佐。
幕府方大勝利に貢献している。戦後六波羅探題南方、鎌倉幕府連署の初代にも就任。北条氏大仏流の祖となった。
北条泰時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
75 | 52 | 80 | 93 | 84 | 能吏・仁政・論客 | B | B | B | C | C | C | 1183 | 1242 |
【ホウジョウヤストキ】
鎌倉幕府の三代執権。裏切りイメージの強い北条氏にあって中国伝説上の名君・尭舜と比較され、
人々から「まことの賢人」と評された名君。御成敗式目を制定し、仁政を敷いて源頼朝が築いた鎌倉幕府を
更に発展させた。承久の乱では幕府軍の司令官として17万の大軍を率い、朝廷軍を打ち破る。
この勝利は朝廷と幕府の優位性を決定づかせ、武士の台頭を改めて諸国に知らしめた。
鎌倉幕府の三代執権。裏切りイメージの強い北条氏にあって中国伝説上の名君・尭舜と比較され、
人々から「まことの賢人」と評された名君。御成敗式目を制定し、仁政を敷いて源頼朝が築いた鎌倉幕府を
更に発展させた。承久の乱では幕府軍の司令官として17万の大軍を率い、朝廷軍を打ち破る。
この勝利は朝廷と幕府の優位性を決定づかせ、武士の台頭を改めて諸国に知らしめた。
北条実時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
32 | 29 | 95 | 84 | 72 | 詩想・仁政・指導 | C | C | C | C | C | C | 1224 | 1276 |
【ホウジョウサネトキ】
鎌倉時代中期の武将。父は北条実泰、3代執権である北条泰時の甥。
父が27歳で出家したため、若干10歳で元服し家督を継承する。
聡明さを見込まれ11歳にして小侍所別当となり、北条泰時から孫である北条経時の補佐を託された。
以後、4代執権となった北条経時から、8代執権の北条時宗に至るまで幕政を補佐し北条氏政権の中軸を成した。
晩年は蔵書を集めて金沢文庫を創設。生涯学問と政務に貢献し続けた。
鎌倉時代中期の武将。父は北条実泰、3代執権である北条泰時の甥。
父が27歳で出家したため、若干10歳で元服し家督を継承する。
聡明さを見込まれ11歳にして小侍所別当となり、北条泰時から孫である北条経時の補佐を託された。
以後、4代執権となった北条経時から、8代執権の北条時宗に至るまで幕政を補佐し北条氏政権の中軸を成した。
晩年は蔵書を集めて金沢文庫を創設。生涯学問と政務に貢献し続けた。
北条時輔
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
32 | 74 | 61 | 67 | 58 | 騎将・射手・怒髪 | C | C | A | A | C | C | 1248 | 1272? |
【ホウジョウトキスケ】
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の長男。異母弟に北条時宗、北条宗政。
騎射・蹴鞠に秀で、武将としての才覚は申し分なかったが、母が側室であり
正室の子で器量申し分のない北条時宗に比べ父から冷遇されていた。1256年に元服し三郎時利と名乗る。
将軍である宗尊親王に近侍し、翌年に小山氏の娘を娶った。この間流鏑馬、笠懸の騎射を務めている。
1264年、北条時宗の連署就任に同じく、六波羅探題南方に任命され、京に出向。しかし1272年に北条教時らが
謀叛の疑いで誅されると、数日後に執権職に就任していた北条時宗に軍を差し向けられた。時宗の命を受けた
北条義宗の襲撃を受け、誅殺されたと言われているが、吉野へ逃れたとする生存説もある。以降、史料に名は出ない。
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の長男。異母弟に北条時宗、北条宗政。
騎射・蹴鞠に秀で、武将としての才覚は申し分なかったが、母が側室であり
正室の子で器量申し分のない北条時宗に比べ父から冷遇されていた。1256年に元服し三郎時利と名乗る。
将軍である宗尊親王に近侍し、翌年に小山氏の娘を娶った。この間流鏑馬、笠懸の騎射を務めている。
1264年、北条時宗の連署就任に同じく、六波羅探題南方に任命され、京に出向。しかし1272年に北条教時らが
謀叛の疑いで誅されると、数日後に執権職に就任していた北条時宗に軍を差し向けられた。時宗の命を受けた
北条義宗の襲撃を受け、誅殺されたと言われているが、吉野へ逃れたとする生存説もある。以降、史料に名は出ない。
北条時宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
76 | 45 | 81 | 89 | 85 | 機略・威圧・祈願 | C | C | C | C | C | C | 1251 | 1284 |
【ホウジョウトキムネ】
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の次男にして嫡男。のちの鎌倉幕府第8代執権。
若干7歳で元服し、以後別当、連署といった要職を歴任。北条政村が執権職を辞任すると、その後を継いだ。
安達泰盛、北条実時ら重臣衆や、御内人の平頼綱、そして前執権の北条政村の補佐を受けて幕政の中心となる。
二月騒動を始めとする得宗専制の体制強化に励み、元との対外交渉も強硬路線を貫いた。
弘安の役では事前の対処から実際の軍事行動に至るまで一貫して指示を出し、元軍撃退に多大な貢献を残す。
だが、元寇による国情疲弊を回復できぬまま、若干33歳にして病死した。
鎌倉時代中期の武将。北条時頼の次男にして嫡男。のちの鎌倉幕府第8代執権。
若干7歳で元服し、以後別当、連署といった要職を歴任。北条政村が執権職を辞任すると、その後を継いだ。
安達泰盛、北条実時ら重臣衆や、御内人の平頼綱、そして前執権の北条政村の補佐を受けて幕政の中心となる。
二月騒動を始めとする得宗専制の体制強化に励み、元との対外交渉も強硬路線を貫いた。
弘安の役では事前の対処から実際の軍事行動に至るまで一貫して指示を出し、元軍撃退に多大な貢献を残す。
だが、元寇による国情疲弊を回復できぬまま、若干33歳にして病死した。
少弐景資
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
77 | 82 | 65 | 62 | 71 | 射手・築城・待伏 | A | C | A | C | C | C | 1246 | 1286 |
【ショウニカゲスケ】
鎌倉時代中期の武将。藤原秀郷を祖とする。
元冠襲来の文永の役において九州連合軍の総大将としてモンゴル軍4万の兵と対する。
モンゴルの集団戦法に翻弄され大敗するも、撤退の最中モンゴル軍の副司令官を射落とす大功をあげた。
来る弘安の役に際しては北九州の防備計画を練り上げ、前回の失敗を生かした鉄壁の防御陣地を完成させる。
17万のモンゴル軍が襲来すると前線指揮官として堅実な守備に徹し、モンゴル軍を決して上陸させなかった。
長く海上を漂ったモンゴル軍は季節通りの台風に引き裂かれ、一夜にして海の藻屑と消えたという。
後に兄との内紛で敗死した。
鎌倉時代中期の武将。藤原秀郷を祖とする。
元冠襲来の文永の役において九州連合軍の総大将としてモンゴル軍4万の兵と対する。
モンゴルの集団戦法に翻弄され大敗するも、撤退の最中モンゴル軍の副司令官を射落とす大功をあげた。
来る弘安の役に際しては北九州の防備計画を練り上げ、前回の失敗を生かした鉄壁の防御陣地を完成させる。
17万のモンゴル軍が襲来すると前線指揮官として堅実な守備に徹し、モンゴル軍を決して上陸させなかった。
長く海上を漂ったモンゴル軍は季節通りの台風に引き裂かれ、一夜にして海の藻屑と消えたという。
後に兄との内紛で敗死した。
平頼綱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
52 | 14 | 85 | 68 | 6 | 威圧・徴税・徴収 | C | C | B | C | C | C | 1241 | 1293 | 北条時宗 | 安達泰盛orなし |
【タイラノヨリツナ】
鎌倉幕府中期の武将。内管領。北条時宗、貞時の二代に仕える。
御内人でありながら有力御家人をも凌ぐ力を持ち、特に安達泰盛と度々対立。
執権であった北条時宗が早逝すると後継の貞時が幼少であることにつけこみ、霜月騒動で
安達泰盛を滅亡に追い込んだ。最盛期は執権である北条家を凌ぐほどの権力を手にし
寵愛する次男の飯沼助宗を昇進させ続けたが、この動きを不安視した執権の北条貞時に
軍を差し向けられ、混乱の中で自害した。
鎌倉幕府中期の武将。内管領。北条時宗、貞時の二代に仕える。
御内人でありながら有力御家人をも凌ぐ力を持ち、特に安達泰盛と度々対立。
執権であった北条時宗が早逝すると後継の貞時が幼少であることにつけこみ、霜月騒動で
安達泰盛を滅亡に追い込んだ。最盛期は執権である北条家を凌ぐほどの権力を手にし
寵愛する次男の飯沼助宗を昇進させ続けたが、この動きを不安視した執権の北条貞時に
軍を差し向けられ、混乱の中で自害した。
北条貞時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
27 | 24 | 45 | 69 | 53 | 規律・楽奏・眼力 | C | C | C | C | C | C | 1272 | 1311 | 早熟・短 |
【ホウジョウサダトキ】
鎌倉幕府第9代執権。北条得宗家出身。北条時宗の嫡男。息に北条高時、北条泰家など
父が早逝したため、わずか13歳で家督を継ぐ。しかし後ろ盾となるべき
有力一門が既に死没しており、得宗家の権力形骸化によって多くの政争が起こった。
霜月騒動や平禅門の乱の後は得宗家の権力強化に乗り出し、鎮西探題の設置や永仁の徳政令など
を発布。出家して執権職を退いてからも大きな権力を持ち、事実上の総領として君臨。
しかし晩年は、自身と懇意であった北条師時の早逝、自身と対立していた北条宗宣の執権就任、
息子2人の夭折などで心労をきたし、側近の長崎円喜に政治を任せて酒色乱行の日々を過ごした。
鎌倉幕府第9代執権。北条得宗家出身。北条時宗の嫡男。息に北条高時、北条泰家など
父が早逝したため、わずか13歳で家督を継ぐ。しかし後ろ盾となるべき
有力一門が既に死没しており、得宗家の権力形骸化によって多くの政争が起こった。
霜月騒動や平禅門の乱の後は得宗家の権力強化に乗り出し、鎮西探題の設置や永仁の徳政令など
を発布。出家して執権職を退いてからも大きな権力を持ち、事実上の総領として君臨。
しかし晩年は、自身と懇意であった北条師時の早逝、自身と対立していた北条宗宣の執権就任、
息子2人の夭折などで心労をきたし、側近の長崎円喜に政治を任せて酒色乱行の日々を過ごした。
北条高時
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
21 | 2 | 51 | 36 | 69 | 詩想・楽奏・論客 | C | C | C | C | C | C | 1304 | 1333 |
【ホウジョウタカトキ】
鎌倉幕府第14代執権。北条得宗家出身。北条貞時の三男。
兄2人の夭折や父、貞時の早逝もあり14歳で14代執権に就任するが、
実権は後見人となった長崎高綱らが握っていた。生来病弱であり、24歳で執権職を辞任し出家。
しかし北条泰時に連なる得宗家の出であり、執権辞任後も北条家を纏め上げる地位に存在した。
辞任後は嘉暦の騒動などもあって幕政を混乱させ、各地で反鎌倉幕府の軍事行動を呼び込んだ。
高時は軍を派遣してこの鎮圧にあたるが、最終的に後醍醐天皇の挙兵、足利尊氏の離反、新田義貞の鎌倉襲撃などもあり
多くの北条氏一門が戦死。菩提寺である東勝寺に退き、そこで自刃した。
鎌倉幕府第14代執権。北条得宗家出身。北条貞時の三男。
兄2人の夭折や父、貞時の早逝もあり14歳で14代執権に就任するが、
実権は後見人となった長崎高綱らが握っていた。生来病弱であり、24歳で執権職を辞任し出家。
しかし北条泰時に連なる得宗家の出であり、執権辞任後も北条家を纏め上げる地位に存在した。
辞任後は嘉暦の騒動などもあって幕政を混乱させ、各地で反鎌倉幕府の軍事行動を呼び込んだ。
高時は軍を派遣してこの鎮圧にあたるが、最終的に後醍醐天皇の挙兵、足利尊氏の離反、新田義貞の鎌倉襲撃などもあり
多くの北条氏一門が戦死。菩提寺である東勝寺に退き、そこで自刃した。
【南北朝時代・室町時代(14世紀~15世紀)】
尊治親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
16 | 2 | 73 | 44 | 80 | 遁走・名声・昂揚 | C | C | C | C | C | C | 1288 | 1339 |
【タカハルシンノウ】
鎌倉・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第二皇子。のちの「後醍醐天皇」。
1318年に父親の院政下で即位したが、朝廷方針から邦良親王と皇位継承権を巡って対立。
鎌倉幕府が邦良親王を支持したため、倒幕運動を幾度と無く計画する。
正中の変、元弘の変といずれも失敗に終わり、隠岐に流されるが脱出。楠木正成、足利高氏、新田義貞らの
力を借りてついに鎌倉幕府を滅亡させた。以後実権を握り、「建武新政」を開始するが、天皇専制の体制に
対する各地の不満や、鎌倉幕府の残党勢力に悩まされ、ついには足利尊氏の離反を招いて南北朝の動乱を招く。
足利尊氏率いる北朝の勢力を対処できないまま、1339年病に倒れ崩御。
鎌倉・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第二皇子。のちの「後醍醐天皇」。
1318年に父親の院政下で即位したが、朝廷方針から邦良親王と皇位継承権を巡って対立。
鎌倉幕府が邦良親王を支持したため、倒幕運動を幾度と無く計画する。
正中の変、元弘の変といずれも失敗に終わり、隠岐に流されるが脱出。楠木正成、足利高氏、新田義貞らの
力を借りてついに鎌倉幕府を滅亡させた。以後実権を握り、「建武新政」を開始するが、天皇専制の体制に
対する各地の不満や、鎌倉幕府の残党勢力に悩まされ、ついには足利尊氏の離反を招いて南北朝の動乱を招く。
足利尊氏率いる北朝の勢力を対処できないまま、1339年病に倒れ崩御。
足利尊氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 口調 | 素質 |
90 | 68 | 82 | 83 | 88 | 遁走・不屈・詩想 | S | A | A | S | C | C | 1305 | 1358 | 足利義詮・高師直 | 足利直冬 | 剛胆 | 豪放 | 開眼(武勇)・早熟・短(政治)・維持・長(それ以外) |
【アシカガタカウジ】
室町幕府の創始者。源義家を祖とする清和源氏の末裔。
後醍醐天皇の決起に呼応して鎌倉幕府を離反。討幕に功績をあげる。
討幕後は武士を蔑にする後醍醐天皇と対立。北畠顕家、楠正成らに敗北を繰り返し九州まで追われたが、
多々良浜の戦いで10倍の兵力を覆し再起を果たす。その後、上洛を果たし征夷大将軍に就任した。
戦前の皇史観では極悪人と評されたが、何度敗北しても人望を失わない優れた将器の持ち主であった。
室町幕府の創始者。源義家を祖とする清和源氏の末裔。
後醍醐天皇の決起に呼応して鎌倉幕府を離反。討幕に功績をあげる。
討幕後は武士を蔑にする後醍醐天皇と対立。北畠顕家、楠正成らに敗北を繰り返し九州まで追われたが、
多々良浜の戦いで10倍の兵力を覆し再起を果たす。その後、上洛を果たし征夷大将軍に就任した。
戦前の皇史観では極悪人と評されたが、何度敗北しても人望を失わない優れた将器の持ち主であった。
※その他候補となった特技:名声・騎神・槍神・威風
足利直義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
78 | 67 | 77 | 94 | 86 | 能吏・名声・反計 | A | B | A | B | C | B | 1306 | 1352 | 足利直冬 | 高師直 |
【アシカガタダヨシ】
南北朝時代の人物。清和源氏の末裔。足利尊氏の実弟。
兄の尊氏に従って六波羅探題を攻撃。建武政権下では鎌倉の実質的支配を任された。
中先代の乱の際は北条時行の軍勢の前に敗れ、混乱の中で護良親王を殺害した。
その後、救援にきた足利尊氏と合同で鎌倉幕府の残党を撃破し、南北朝の動乱後も兄を支持。
「両将軍」と言われるほどの北朝の中心的人物として、建武式目を制定し室町幕府初期の政治を担った。
だが、足利尊氏が重用する高師直と対立、結果的に尊氏からも離反し観応の擾乱を引き起こす。
南朝に降伏して尊氏方を圧倒し、高師直らを殺害することに成功するが、自身も南朝と組んだ尊氏による
追討令を受け、足利尊氏と戦うが敗北。鎌倉にて降伏し、その後急死した。太平記によると、足利尊氏による毒殺という。
南北朝時代の人物。清和源氏の末裔。足利尊氏の実弟。
兄の尊氏に従って六波羅探題を攻撃。建武政権下では鎌倉の実質的支配を任された。
中先代の乱の際は北条時行の軍勢の前に敗れ、混乱の中で護良親王を殺害した。
その後、救援にきた足利尊氏と合同で鎌倉幕府の残党を撃破し、南北朝の動乱後も兄を支持。
「両将軍」と言われるほどの北朝の中心的人物として、建武式目を制定し室町幕府初期の政治を担った。
だが、足利尊氏が重用する高師直と対立、結果的に尊氏からも離反し観応の擾乱を引き起こす。
南朝に降伏して尊氏方を圧倒し、高師直らを殺害することに成功するが、自身も南朝と組んだ尊氏による
追討令を受け、足利尊氏と戦うが敗北。鎌倉にて降伏し、その後急死した。太平記によると、足利尊氏による毒殺という。
護良親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
85 | 74 | 79 | 54 | 86 | 威風・怒髪・遁走 | A | A | C | C | C | C | 1308 | 1335 |
【モリヨシシンノウ】
建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。
比叡山で兵法を会得し、武芸の腕は余人を圧倒。天台座主始まって以来の変わり者と評される。
朝廷軍の軍事指導者として討幕軍を組織し、赤松円心の子・則祐らと共に各地を勇戦。
鎌倉幕府打倒の悲願を達成した。戦後は征夷大将軍に就任するも、
足利尊氏との政争に敗れて失脚。鎌倉に幽閉され殺害された。
建武の新政期の人物。後醍醐天皇の皇子。
比叡山で兵法を会得し、武芸の腕は余人を圧倒。天台座主始まって以来の変わり者と評される。
朝廷軍の軍事指導者として討幕軍を組織し、赤松円心の子・則祐らと共に各地を勇戦。
鎌倉幕府打倒の悲願を達成した。戦後は征夷大将軍に就任するも、
足利尊氏との政争に敗れて失脚。鎌倉に幽閉され殺害された。
楠木正成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
87 | 73 | 91 | 43 | 82 | 百出・不屈・金剛 | S | A | A | C | C | C | ? | 1336 |
【クスノキマサシゲ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。大楠公。
後醍醐天皇を助け建武の新政の原動力となった。
武士とは思えない奇想天外な戦術で鎌倉幕府の大軍を翻弄し散々に打ち破る。
鎌倉では彼を「天王寺の妖霊星」と呼んで恐れたという。
倒幕後はかつての戦友・足利尊氏と対立。一時は尊氏を九州まで追いやったが、湊川の戦いで敗北。
新田義貞の殿となり戦死した。尊氏はその死に涙したという。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。大楠公。
後醍醐天皇を助け建武の新政の原動力となった。
武士とは思えない奇想天外な戦術で鎌倉幕府の大軍を翻弄し散々に打ち破る。
鎌倉では彼を「天王寺の妖霊星」と呼んで恐れたという。
倒幕後はかつての戦友・足利尊氏と対立。一時は尊氏を九州まで追いやったが、湊川の戦いで敗北。
新田義貞の殿となり戦死した。尊氏はその死に涙したという。
※その他候補となった特技:乱戦・槍神・虚実
新田義貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
71 | 86 | 68 | 70 | 45 | 強行・遁走・騎将 | A | C | C | S | C | C | 1300 | 1338 |
【ニッタヨシサダ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行うが、朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。源氏の出。
新田宗家を相続するが、以前から鎌倉得宗家とは折り合いが悪く、
領国問題から後醍醐天皇と連携を取り、鎌倉幕府に対し挙兵。
北条高時を自害させて鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ。建武政権下では
鎌倉に残って戦後処理などを行うが、朝廷からはあまり重きを置かれなかったようである。
その後建武政権から離反した足利尊氏と抗争を開始、一時は尊氏を追いやるも最終的には敗れる。
湊川合戦の敗走後は北陸に遁走するが、やがて足利尊氏らに追い詰められ、最期は越前藤島で戦死した。
※その他候補となった特技:反計・不屈
北畠顕家
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
93 | 79 | 77 | 53 | 85 | 強行・飛将・不屈 | A | A | C | S | C | C | 1318 | 1338 | 早熟・長 |
【キタバタケアキイエ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、奮闘虚しく敗死した。享年21歳。
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。
「風林火山」の旗印を歴史上初めて使用した人物としても知れる。
建武の新政が始まると16歳でその鋭才を見込まれ奥州支配を任される。
足利尊氏の決起に際して、奥州から5万の兵力を率いて僅か20日で上洛。
豊島河原の戦いで20万の尊氏軍に2万足らずの兵力で勝利した。
湊川の戦いで南朝が大敗すると要請を受けて再度上洛。
度重なる遠征と連戦で軍団は疲弊し、奮闘虚しく敗死した。享年21歳。
※その他候補となった特技:明鏡・騎神・百出
高師直
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 親愛 |
87 | 65 | 75 | 68 | 27 | 強奪・妙計・補佐 | A | C | B | A | C | C | ? | 1351 | 剛胆 | 尊大 | 足利尊氏 |
【コウノモロナオ】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
足利尊氏の側近として倒幕に参加。後に尊氏を武士の旗頭に担ぎ室町幕府成立に多大な功績を残した。
幕府の成立後、尊氏の弟・直義と対立。観応の擾乱を引き起こし殺害される。
非常に野心家で権力を軽んじる傲慢な人物だったと言われ、
人妻であろうと奪えるものは奪い、主君だろうと天皇だろうと構わず背く中世最大の悪玉と称される。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
足利尊氏の側近として倒幕に参加。後に尊氏を武士の旗頭に担ぎ室町幕府成立に多大な功績を残した。
幕府の成立後、尊氏の弟・直義と対立。観応の擾乱を引き起こし殺害される。
非常に野心家で権力を軽んじる傲慢な人物だったと言われ、
人妻であろうと奪えるものは奪い、主君だろうと天皇だろうと構わず背く中世最大の悪玉と称される。
※その他候補となった特技:金剛・鉄壁・昂揚
赤松円心
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
90 | 55 | 81 | 79 | 73 | 乱戦・待伏・不屈 | A | B | A | C | C | C | 1277 | 1350 |
【アカマツエンシン】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。もとの名を則村。
後醍醐天皇の挙兵に際し、護良親王の令旨を受けて参戦。
瀬川の戦いでは3千の兵力で20万の鎌倉幕府軍を撃破した。
建武の新政に反発し、足利尊氏に接近。
九州へ逃れる尊氏軍を助け、 追撃してきた追討軍を撃退して時間を稼いだ。
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。もとの名を則村。
後醍醐天皇の挙兵に際し、護良親王の令旨を受けて参戦。
瀬川の戦いでは3千の兵力で20万の鎌倉幕府軍を撃破した。
建武の新政に反発し、足利尊氏に接近。
九州へ逃れる尊氏軍を助け、 追撃してきた追討軍を撃退して時間を稼いだ。
斯波高経
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
86 | 87 | 79 | 74 | 81 | 威風・捕縛・急襲 | S | B | A | S | C | C | 1305 | 1367 | 足利直義 | 京極道誉・細川頼之 |
【シバタカツネ】
鎌倉・南北朝時代の武将。足利家一門。尾張足利家とも。
鎌倉幕府に仕えていたが、同族の足利高氏が離反するとこれに同調し、六波羅探題を攻撃する。
建武政権では朝廷の差配に従い、畿内各地の反乱鎮圧に貢献。越前守護となった。
南北朝の動乱が発生すると北朝方となった足利尊氏に追従し、北朝方の北陸軍中枢となり、
南朝方の楠木正成や新田義貞らと争った。尊氏九州落ちの際には長門国に在陣して南朝に備え、
足利尊氏が再起をはかるとこれに追従し、湊川の戦いでは楠木正成の退路を絶った。その後
藤島の戦いでは新田義貞を戦死させるなど活躍するが、観応の擾乱では尊氏方直義方を右往左往した。
晩年、足利義詮を支え、幕府権力の向上に腐心したが、反対派の圧力により失脚を命じられ、失意のまま没した。
鎌倉・南北朝時代の武将。足利家一門。尾張足利家とも。
鎌倉幕府に仕えていたが、同族の足利高氏が離反するとこれに同調し、六波羅探題を攻撃する。
建武政権では朝廷の差配に従い、畿内各地の反乱鎮圧に貢献。越前守護となった。
南北朝の動乱が発生すると北朝方となった足利尊氏に追従し、北朝方の北陸軍中枢となり、
南朝方の楠木正成や新田義貞らと争った。尊氏九州落ちの際には長門国に在陣して南朝に備え、
足利尊氏が再起をはかるとこれに追従し、湊川の戦いでは楠木正成の退路を絶った。その後
藤島の戦いでは新田義貞を戦死させるなど活躍するが、観応の擾乱では尊氏方直義方を右往左往した。
晩年、足利義詮を支え、幕府権力の向上に腐心したが、反対派の圧力により失脚を命じられ、失意のまま没した。
※ 後年、四男の義将が尾張守護、管領として権力を固めた。のちの戦国時代で、織田信長の主筋にあたる斯波義銀は彼の子孫にあたる
京極道誉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
85 | 61 | 88 | 92 | 86 | 不屈・反計・捕縛 | A | B | A | A | B | C | 1296 | 1373 |
【キョウゴクドウヨ】
鎌倉・南北朝時代の武将。佐々木道誉とも。諱は「高氏」
はじめ北条高時に仕え、高時の「高」を偏諱に賜った。のち元弘の変でも幕府に従軍し、
後醍醐天皇の隠岐配流も見送っている。しかし楠木正成討伐や後醍醐天皇の帰還を機に、
足利高氏と語らって幕府を離反。この際北条仲時を捕え自害させた。建武新政でも朝廷に貢献し、
中先代の乱に対しても朝廷軍として従軍したが、のちに足利尊氏と語らい再び離反。以後、足利尊氏とともに
北朝派の主戦力として、南朝派や直義派との戦いに従事して活躍する。尊氏死後は義詮を支え、政所執事となった。
その後も幕府内で不動の権力を築き、後世人を食った態度とともに「婆沙羅大名」と言われる。
鎌倉・南北朝時代の武将。佐々木道誉とも。諱は「高氏」
はじめ北条高時に仕え、高時の「高」を偏諱に賜った。のち元弘の変でも幕府に従軍し、
後醍醐天皇の隠岐配流も見送っている。しかし楠木正成討伐や後醍醐天皇の帰還を機に、
足利高氏と語らって幕府を離反。この際北条仲時を捕え自害させた。建武新政でも朝廷に貢献し、
中先代の乱に対しても朝廷軍として従軍したが、のちに足利尊氏と語らい再び離反。以後、足利尊氏とともに
北朝派の主戦力として、南朝派や直義派との戦いに従事して活躍する。尊氏死後は義詮を支え、政所執事となった。
その後も幕府内で不動の権力を築き、後世人を食った態度とともに「婆沙羅大名」と言われる。
足利直冬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 |
85 | 89 | 57 | 33 | 68 | 猛者・勇将・不屈 | S | B | A | S | C | B | 1327 | 1387? | 足利直義 | 足利尊氏・足利義詮 |
【アシカガタダフユ】
鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。足利尊氏の庶子であり、足利直義の養子。
足利尊氏の子として生まれるが、母親の身分が低かったと言われ、生涯を通じて父尊氏から冷遇される。
尊氏と面会すらできず、相模・京で寺につとめる喝食として過ごした。実子ができなかった叔父直義が
不憫に思い彼を養子とし、元服後は「直冬」と名乗った。南北朝の動乱が激化すると、足利尊氏が
渋々取り立て、直冬は南朝勢力との戦いで軍功をあげたが、尊氏はなお冷遇した。叔父の直義の差配により
長門探題として西国の重鎮となる。観応の擾乱の際は一貫して直義に味方し、足利尊氏・義詮らを追い詰めた。
しかし、直義の死後は勢力を挽回され、最終的には義詮方の細川頼之による討伐軍に追われた。
晩年は安芸ないし石見に隠棲し、足利義満に庇護されたというが、定かではない。
鎌倉時代末期・南北朝時代の武将。足利尊氏の庶子であり、足利直義の養子。
足利尊氏の子として生まれるが、母親の身分が低かったと言われ、生涯を通じて父尊氏から冷遇される。
尊氏と面会すらできず、相模・京で寺につとめる喝食として過ごした。実子ができなかった叔父直義が
不憫に思い彼を養子とし、元服後は「直冬」と名乗った。南北朝の動乱が激化すると、足利尊氏が
渋々取り立て、直冬は南朝勢力との戦いで軍功をあげたが、尊氏はなお冷遇した。叔父の直義の差配により
長門探題として西国の重鎮となる。観応の擾乱の際は一貫して直義に味方し、足利尊氏・義詮らを追い詰めた。
しかし、直義の死後は勢力を挽回され、最終的には義詮方の細川頼之による討伐軍に追われた。
晩年は安芸ないし石見に隠棲し、足利義満に庇護されたというが、定かではない。
※ 太平記によると、直冬の母とされる越前局は「古ヘ将軍ノ忍テ一夜通ヒ給タリシ」とあり、かなり身分の低い(研究者の中には否定する人もいる)、それも足利家の庇護を受けていない一夜限りの関係である女性とされている。直冬が寺勤めの頃に落魄のなか病死したと言われる。
足利義詮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 |
82 | 51 | 81 | 89 | 80 | 遁走・徴税・徴収 | A | B | A | A | B | B | 1330 | 1367 | 足利尊氏・楠木正行 |
【アシカガヨシアキラ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。足利尊氏の嫡男。室町幕府第2代将軍。執権北条氏の御一門でもある。
母とともに鎌倉に人質となっていたが、父の高氏が六波羅探題を攻めた際に足利家臣に連れられ、
鎌倉攻撃を企図する新田義貞の軍に合流。鎌倉幕府の滅亡後は叔父の直義とともに鎌倉を統治し、
足利尊氏が建武政権から離反した後も父に従った。観応の擾乱で叔父直義が離反すると、尊氏によって
京に呼び戻され、以後足利軍の政軍における中核を成す。叔父であった足利直義の死後は、その後を継いだ
異母兄の足利直冬と対立。神南の戦いで中心的な役割を果たし、直冬勢力を滅ぼすことに成功した。
父の死後将軍職を継ぎ、南朝に与した勢力を次々と傘下に入れたが、1367年早逝。南北朝の合一は息子義満によって果たされる。
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。足利尊氏の嫡男。室町幕府第2代将軍。執権北条氏の御一門でもある。
母とともに鎌倉に人質となっていたが、父の高氏が六波羅探題を攻めた際に足利家臣に連れられ、
鎌倉攻撃を企図する新田義貞の軍に合流。鎌倉幕府の滅亡後は叔父の直義とともに鎌倉を統治し、
足利尊氏が建武政権から離反した後も父に従った。観応の擾乱で叔父直義が離反すると、尊氏によって
京に呼び戻され、以後足利軍の政軍における中核を成す。叔父であった足利直義の死後は、その後を継いだ
異母兄の足利直冬と対立。神南の戦いで中心的な役割を果たし、直冬勢力を滅ぼすことに成功した。
父の死後将軍職を継ぎ、南朝に与した勢力を次々と傘下に入れたが、1367年早逝。南北朝の合一は息子義満によって果たされる。
北条時行
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
66 | 74 | 41 | 55 | 78 | 連戦・長駆・名声 | A | B | B | A | C | C | ? | 1353 |
【ホウジョウトキユキ】
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府第14代執権である北条高時の次男。
鎌倉幕府の滅亡時に叔父の北条泰家らに連れられて鎌倉を脱出し、信濃国で潜伏した。
その後成長すると北条氏再興を掲げて挙兵。建武体制に不満を持つ武士を糾合しながら鎌倉へ進軍し
足利直義を破って鎌倉を占拠した。しかし、再起を図った足利尊氏らに敗れ、再び鎌倉を離れることとなる。
その後、南朝と融和して関東で勢力を張る足利氏との戦いを繰り広げるが、1352年に足利勢力に敗れて
捕えられ、翌年に処刑された。彼の死をもって北条家は事実上の滅亡を迎えた。
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府第14代執権である北条高時の次男。
鎌倉幕府の滅亡時に叔父の北条泰家らに連れられて鎌倉を脱出し、信濃国で潜伏した。
その後成長すると北条氏再興を掲げて挙兵。建武体制に不満を持つ武士を糾合しながら鎌倉へ進軍し
足利直義を破って鎌倉を占拠した。しかし、再起を図った足利尊氏らに敗れ、再び鎌倉を離れることとなる。
その後、南朝と融和して関東で勢力を張る足利氏との戦いを繰り広げるが、1352年に足利勢力に敗れて
捕えられ、翌年に処刑された。彼の死をもって北条家は事実上の滅亡を迎えた。
足利基氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
63 | 69 | 76 | 83 | 88 | 名声・詭計・楽奏 | A | A | B | B | C | B | 1340 | 1367 |
【アシカガモトウジ】
南北朝時代の人物。足利尊氏の四男。実兄に2代将軍である足利義詮。甥に3代将軍である足利義満がいる。
はじめ兄の義詮の後任として、叔父にあたる足利直義の側近くに置かれた。観応の擾乱で直義が没落すると
そのまま鎌倉に居座り、鎌倉府の重鎮として足利幕府を補佐しつつ、独自の勢力を築いた。
その後は関東に居座る北条時行・新田義興ら南朝勢力と抗争を続け、これを滅ぼした。
薩埵山体制と呼ばれる鎌倉府独自の体制を築き上げ、鎌倉府の祖となったが、後に
畠山国清の失脚、宇都宮氏綱や関東管領となった上杉氏との権力対立などもあり、
不穏分子を抱えたまま28歳で早逝した。武勇の誉れ高く、教養人であったと言われている。
南北朝時代の人物。足利尊氏の四男。実兄に2代将軍である足利義詮。甥に3代将軍である足利義満がいる。
はじめ兄の義詮の後任として、叔父にあたる足利直義の側近くに置かれた。観応の擾乱で直義が没落すると
そのまま鎌倉に居座り、鎌倉府の重鎮として足利幕府を補佐しつつ、独自の勢力を築いた。
その後は関東に居座る北条時行・新田義興ら南朝勢力と抗争を続け、これを滅ぼした。
薩埵山体制と呼ばれる鎌倉府独自の体制を築き上げ、鎌倉府の祖となったが、後に
畠山国清の失脚、宇都宮氏綱や関東管領となった上杉氏との権力対立などもあり、
不穏分子を抱えたまま28歳で早逝した。武勇の誉れ高く、教養人であったと言われている。
菊池武光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
93 | 96 | 70 | 82 | 89 | 飛将・猛者・威風 | S | B | A | S | C | C | 1319 | 1373 |
【キクチタケミツ】
南北朝時代の武将。肥後の名族菊池氏の出身。
南北朝の動乱で南朝方に味方し、菊池氏を再興させ当主となる。
その後、北朝方の九州探題を悉く撃退し、後醍醐天皇の皇子であった
懐良親王を迎え入れ、南朝の九州支配を確立。1359年には反旗を翻した
少弐・大友連合軍を筑後川にて劣勢を覆して勝利し、1361年には太宰府を陥落させた。
しかし、幕府方の大内義弘や今川了俊に勢力拡大を阻まれて衰退。征西府の衰退の最中1373年に病没した。
南北朝時代の武将。肥後の名族菊池氏の出身。
南北朝の動乱で南朝方に味方し、菊池氏を再興させ当主となる。
その後、北朝方の九州探題を悉く撃退し、後醍醐天皇の皇子であった
懐良親王を迎え入れ、南朝の九州支配を確立。1359年には反旗を翻した
少弐・大友連合軍を筑後川にて劣勢を覆して勝利し、1361年には太宰府を陥落させた。
しかし、幕府方の大内義弘や今川了俊に勢力拡大を阻まれて衰退。征西府の衰退の最中1373年に病没した。
※ 北朝の後光厳天皇は「鎮西宮並びに菊池武光以下、凶徒追討の事」と綸旨を出し、武光の威光を脅威と捉えていた。劣勢著しい南朝の中優勢を保っていた九州だが、武光の死後今川了俊によって鎮定される。
北畠顕能
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
86 | 71 | 75 | 89 | 77 | 不屈・連戦・能吏 | B | A | S | A | C | C | 1326 | 1383? |
【キタバタケアキヨシ】
南北朝時代の武将。父は北畠親房、兄に北畠顕家、顕信がいる。異説として父が中院貞平とも。伊勢国司北畠家の祖。
南朝勢力の拡大の一貫で、兄たちと別れて伊勢に入る。地元国衆の支持を得つつ、北朝方であった
高師秋を撃退するが、既に南朝勢力は衰亡しつつあり、本拠であった玉丸の地を捨て多気に移った。
多気に移った後も北朝への反抗を継続し、楠木正行らとともに南朝の中核を担う。
1352年には北朝方で2代将軍の足利義詮を近江に追い落とし、南朝の京洛凱旋を成功させるが、
既に北朝優位の状況は変わらず、同年に再び都落ちとなっている。その後も北朝勢力相手に善戦を続け、
南朝方の重鎮として貢献したが、1383年頃に死去。以後、南朝は反抗の決定力を失い、南北朝合一へと傾くことになる。
南北朝時代の武将。父は北畠親房、兄に北畠顕家、顕信がいる。異説として父が中院貞平とも。伊勢国司北畠家の祖。
南朝勢力の拡大の一貫で、兄たちと別れて伊勢に入る。地元国衆の支持を得つつ、北朝方であった
高師秋を撃退するが、既に南朝勢力は衰亡しつつあり、本拠であった玉丸の地を捨て多気に移った。
多気に移った後も北朝への反抗を継続し、楠木正行らとともに南朝の中核を担う。
1352年には北朝方で2代将軍の足利義詮を近江に追い落とし、南朝の京洛凱旋を成功させるが、
既に北朝優位の状況は変わらず、同年に再び都落ちとなっている。その後も北朝勢力相手に善戦を続け、
南朝方の重鎮として貢献したが、1383年頃に死去。以後、南朝は反抗の決定力を失い、南北朝合一へと傾くことになる。
山名時氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
86 | 83 | 92 | 91 | 79 | 強運・勇将・明鏡 | A | A | S | S | C | C | 1303 | 1371 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【ヤマナトキウジ】
南北朝時代の武将。父は山名政氏、母は上杉氏の出身。山名氏中興の祖。
家系上は新田氏の一族であるが、母方の縁戚関係を重視して足利氏に付き従った。
鎌倉幕府の滅亡、建武政権と南北朝の動乱に際しても足利尊氏に従い、湊川の戦いなど
足利方の軍事行動に従軍して功を立てた。その後も足利氏の勢力拡大につれて、塩冶高貞などを
討伐し、自らの勢力も拡大し山陰地方に独自の勢力基盤を築く。足利氏が観応の擾乱で分裂すると、
尊氏、直義、直冬、義詮と巧みに主君を変えながら自ら勢力を蓄え、山陰を中心とする5ヶ国の守護と、
引付頭人、侍所頭人など幕府の要職を兼任。のちに一門合わせて11ヶ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた。
南北朝時代の武将。父は山名政氏、母は上杉氏の出身。山名氏中興の祖。
家系上は新田氏の一族であるが、母方の縁戚関係を重視して足利氏に付き従った。
鎌倉幕府の滅亡、建武政権と南北朝の動乱に際しても足利尊氏に従い、湊川の戦いなど
足利方の軍事行動に従軍して功を立てた。その後も足利氏の勢力拡大につれて、塩冶高貞などを
討伐し、自らの勢力も拡大し山陰地方に独自の勢力基盤を築く。足利氏が観応の擾乱で分裂すると、
尊氏、直義、直冬、義詮と巧みに主君を変えながら自ら勢力を蓄え、山陰を中心とする5ヶ国の守護と、
引付頭人、侍所頭人など幕府の要職を兼任。のちに一門合わせて11ヶ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた。
※ 時氏の没後も勢力は衰えず、当初は所領安堵を承認した室町幕府も、山名氏の勢力を脅威と感じ、3代将軍足利義満の時代に明徳の乱が起きる。
藤原政宗
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
81 | 87 | 75 | 73 | 84 | 遁走・不屈・勇将 | S | B | S | A | C | C | 1353 | 1405 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【フジワラノマサムネ】
南北朝時代、室町時代の武将。伊達氏の出。「大膳大夫政宗」とも。
1377年に家督を相続し、鎌倉公方と関係を密にする長井氏を攻め滅ぼした。
足利義満の叔母を正室とし、幕府よりの姿勢を示して鎌倉公方と対立。
大崎詮持、蘆名満盛と共謀して鎌倉公方に反乱を起こした。乱は長期化し、
上杉禅秀率いる大軍に大損害を与えたが、時勢に恵まれず降伏した。
南北朝の動乱で衰退していた伊達氏中興の祖と呼ばれる。
南北朝時代、室町時代の武将。伊達氏の出。「大膳大夫政宗」とも。
1377年に家督を相続し、鎌倉公方と関係を密にする長井氏を攻め滅ぼした。
足利義満の叔母を正室とし、幕府よりの姿勢を示して鎌倉公方と対立。
大崎詮持、蘆名満盛と共謀して鎌倉公方に反乱を起こした。乱は長期化し、
上杉禅秀率いる大軍に大損害を与えたが、時勢に恵まれず降伏した。
南北朝の動乱で衰退していた伊達氏中興の祖と呼ばれる。
※後年、戦国時代に彼に肖った伊達家17代当主「
伊達政宗
」が登場する。藤次郎政宗と区別して「大膳大夫政宗」とも呼ばれる。藤原は伊達の本姓
足利義満
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
95 | 42 | 98 | 99 | 91 | 虚実・連環・論客 | B | C | C | A | C | C | 1358 | 1408 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長(それ以外)・開眼(武勇) |
【アシカガヨシミツ】
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
室町幕府3代将軍。足利尊氏の孫であり、足利義詮の嫡男。
生まれる前に祖父を亡くし、数え年10歳で父を亡くした為3代将軍に就任する。
細川頼之や斯波義将らを巧みに操り幕府体制を整える一方、山名氏、土岐氏、大内氏などといった
有力守護大名を次々に討伐、削減し足利幕府の権勢を確立し最盛期を築いた。
また朝廷政治にも関与し、南北朝の合一を果たしている。中国・明との勘合貿易を進め
日本国王に封じられた。一説には皇位簒奪を企んでいたとも言われている。
※その他候補となった特技:威圧・富豪・徴税・明鏡
細川頼之
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
89 | 78 | 96 | 97 | 85 | 詩想・神算・能吏 | A | C | S | A | C | B | 1329 | 1392 | 冷静 | 冷静 | 威厳 | 維持・長or早熟・長 |
【ホソカワヨリユキ】
足利一門細川家の出身。細川京兆家中興の祖。足利尊氏、足利義詮、足利義満の三代に仕える。
父が南北朝の動乱で戦死したため23歳で当主として尊氏、義詮の軍事行動を助けた。
阿波守護として四国・畿内の南朝勢力と戦い、神南の戦いでは義詮を助けて軍功をあげた。
観応の擾乱が長期化すると足利直冬の根拠地である中国地方征討軍の大将として活動し、軍謀両面で勢力拡大に貢献。
中国平定後は四国征伐軍の大将となり、四国も平定して管領に推挙された。政治面では
義詮死後の幼い足利義満を支え、半済令の制定や朝廷の対立宥和に尽力、戦略面でも中枢を担った。
晩年は反対派の圧力緩和のために一時的に失脚したが、義満の絶大な信頼は揺るがず、重用され続けた。
足利一門細川家の出身。細川京兆家中興の祖。足利尊氏、足利義詮、足利義満の三代に仕える。
父が南北朝の動乱で戦死したため23歳で当主として尊氏、義詮の軍事行動を助けた。
阿波守護として四国・畿内の南朝勢力と戦い、神南の戦いでは義詮を助けて軍功をあげた。
観応の擾乱が長期化すると足利直冬の根拠地である中国地方征討軍の大将として活動し、軍謀両面で勢力拡大に貢献。
中国平定後は四国征伐軍の大将となり、四国も平定して管領に推挙された。政治面では
義詮死後の幼い足利義満を支え、半済令の制定や朝廷の対立宥和に尽力、戦略面でも中枢を担った。
晩年は反対派の圧力緩和のために一時的に失脚したが、義満の絶大な信頼は揺るがず、重用され続けた。
※ 失脚後は出家したこともあり、細川頼之は幕府の重職につかなかった。しかし足利義満は重職にない頼之を中枢に参加させるため、御前沙汰評定を頻繁に開いたという。一族に細川晴元らを輩出。細川藤孝、細川忠興らは弟である細川頼有の末裔
※その他候補となった特技:論客・築城
今川了俊
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
94 | 82 | 85 | 68 | 72 | 威風・昂揚・妙計 | A | C | S | B | C | B | 1326 | ? |
【イマガワリョウシュン】
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。足利義詮に仕え、
義詮が病没すると義満に仕えた。1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、小弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、大内氏らの援助もあって
1391年に九州をほぼ平定、1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
足利一門今川家の出身。今川範国の次男。足利義詮に仕え、
義詮が病没すると義満に仕えた。1370年に九州探題に推挙され、九州にて南朝勢力と戦った。
一方で島津、大友、小弐ら日和見勢力にも剛柔合わせた対処を行い、大内氏らの援助もあって
1391年に九州をほぼ平定、1392年の南北朝合一により完全平定に至った。
しかし晩年は昵懇であった大内氏の幕府に対する反乱などから足利義満に警戒され、
駿河遠江の半国守護を兼任するに留まった。子孫は堀越氏、瀬名氏を名乗った。
※その他候補となった特技:急襲・射手・勇将・明鏡
斯波義将
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 嫌悪 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
79 | 84 | 91 | 93 | 88 | 威風・鬼謀・百出 | S | C | A | S | C | B | 1350 | 1410 | 斯波高経・足利義満 | 細川頼之 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【シバヨシマサ(シバヨシユキ)】
足利一門斯波家の出身。管領、越前守護。義詮、義満、義持と足利3代に仕える。
斯波高経の四男として生誕し、父にその才能を重用され、わずか13歳で管領(執事)につく。
しかし、父の強引なやり方に反発した諸侯の煽りを受けて失脚。
父の死後足利義詮に許されて返り咲いた。その後は越中北陸征伐の要として出陣し、
足利直義に属していた桃井氏を討伐。周辺勢力も駆逐し北陸の重鎮として君臨した。
康暦の政変では因縁のあった細川頼之を糾弾し、彼を失脚させて、斯波氏最盛期を築いた。
晩年は足利義満、足利義持の2将軍から重用され、時に将軍をも諫止し、
越前加賀信濃尾張遠江と五州を領するその栄華は諸侯をも恐れさせた。
足利一門斯波家の出身。管領、越前守護。義詮、義満、義持と足利3代に仕える。
斯波高経の四男として生誕し、父にその才能を重用され、わずか13歳で管領(執事)につく。
しかし、父の強引なやり方に反発した諸侯の煽りを受けて失脚。
父の死後足利義詮に許されて返り咲いた。その後は越中北陸征伐の要として出陣し、
足利直義に属していた桃井氏を討伐。周辺勢力も駆逐し北陸の重鎮として君臨した。
康暦の政変では因縁のあった細川頼之を糾弾し、彼を失脚させて、斯波氏最盛期を築いた。
晩年は足利義満、足利義持の2将軍から重用され、時に将軍をも諫止し、
越前加賀信濃尾張遠江と五州を領するその栄華は諸侯をも恐れさせた。
※ 細川頼之は最終的に養子で弟の細川頼元を通じ、地位を回復させたが、彼の没後は斯波家が足利一門最大勢力となった。織田信長を輩出した織田氏を取り立てたのは嫡男義重である。
※その他候補となった特技:明鏡・補佐
足利氏満
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 音声 | 口調 | 素質 |
64 | 58 | 70 | 83 | 48 | 反計・不屈・強行 | A | A | B | A | C | C | 1359 | 1398 | 足利義満 | 剛胆 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【アシカガウジミツ】
南北朝時代の武将。父は足利基氏。足利尊氏の孫。従兄弟に足利義満。
父の早逝により9歳で鎌倉公方に就任。父の勢力を引き継ぎつつ、一方で武蔵平一揆に対し
若干10歳で出陣し、鎮圧させる。中央幕府で政変が生じるとしばしば独立を志し、
当時の将軍であった足利義満への謀叛を考慮するが、側近であった上杉憲春の死によって頓挫した。
その後も足利義満ら幕府中央政権に対し反発路線をしき、足利将軍家と結びつきの強い小山氏を滅ぼして北関東に覇権を唱えた。
関東から出羽・陸奥にいたるまでの強大な権力を有したが、このことは将軍家の不信感、対立を堅実なものとなり、
足利氏満の死後、孫の持氏になって幕府将軍家と鎌倉公方家の全面戦争を引き起こす要因となった。
南北朝時代の武将。父は足利基氏。足利尊氏の孫。従兄弟に足利義満。
父の早逝により9歳で鎌倉公方に就任。父の勢力を引き継ぎつつ、一方で武蔵平一揆に対し
若干10歳で出陣し、鎮圧させる。中央幕府で政変が生じるとしばしば独立を志し、
当時の将軍であった足利義満への謀叛を考慮するが、側近であった上杉憲春の死によって頓挫した。
その後も足利義満ら幕府中央政権に対し反発路線をしき、足利将軍家と結びつきの強い小山氏を滅ぼして北関東に覇権を唱えた。
関東から出羽・陸奥にいたるまでの強大な権力を有したが、このことは将軍家の不信感、対立を堅実なものとなり、
足利氏満の死後、孫の持氏になって幕府将軍家と鎌倉公方家の全面戦争を引き起こす要因となった。
細川満元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
58 | 44 | 69 | 81 | 78 | 明鏡・補佐・能吏 | B | C | A | C | C | C | 1378 | 1420 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長 |
【ホソカワミツモト】
南北朝・室町時代の武将。細川頼元の嫡男で、細川頼之の甥。
足利家一門かつ細川京兆家当主。足利義満、足利義持を支え、
摂津土佐讃岐丹波と4カ国の守護を兼任。1412年には管領にも就任し、
足利義持に重用された。就任中は主に北畠氏、上杉氏らをはじめとする
在地勢力の反乱に対処する傍ら、将軍家の対立問題の対処にも追われた。
1421年に管領を辞任して隠居した。その執政ぶりは貴賤なく賞賛されたという。
南北朝・室町時代の武将。細川頼元の嫡男で、細川頼之の甥。
足利家一門かつ細川京兆家当主。足利義満、足利義持を支え、
摂津土佐讃岐丹波と4カ国の守護を兼任。1412年には管領にも就任し、
足利義持に重用された。就任中は主に北畠氏、上杉氏らをはじめとする
在地勢力の反乱に対処する傍ら、将軍家の対立問題の対処にも追われた。
1421年に管領を辞任して隠居した。その執政ぶりは貴賤なく賞賛されたという。
足利義教
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
45 | 17 | 90 | 86 | 51 | 威圧・詭計・強奪 | C | C | C | C | C | C | 1394 | 1441 | 剛胆 | 威厳 | 維持・短 |
【アシカガヨシノリ】
室町幕府6代将軍。足利義満の三男。
将軍親政と幕府権威の向上を志し、将軍を中心とする幕府制度を推し進めた。
また延暦寺・園城寺や鎌倉公方・関東管領のような勢力間の内部対立に干渉を進め
幕府裁定に従わない勢力を滅亡、弾圧させ幕府の権力を強化。守護大名の
内部統制にも干渉し、幕府権力のもとで一元化した体制を構築すべく奔走した。
しかし結城合戦の鎮定後に招かれた守護大名、赤松氏邸で行われた「御成」中に
赤松氏の武者によって殺害された。
室町幕府6代将軍。足利義満の三男。
将軍親政と幕府権威の向上を志し、将軍を中心とする幕府制度を推し進めた。
また延暦寺・園城寺や鎌倉公方・関東管領のような勢力間の内部対立に干渉を進め
幕府裁定に従わない勢力を滅亡、弾圧させ幕府の権力を強化。守護大名の
内部統制にも干渉し、幕府権力のもとで一元化した体制を構築すべく奔走した。
しかし結城合戦の鎮定後に招かれた守護大名、赤松氏邸で行われた「御成」中に
赤松氏の武者によって殺害された。
足利義政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
32 | 9 | 57 | 74 | 59 | 楽奏・詩想・能吏 | C | C | C | C | C | C | 1436 | 1490 | 小心 | 丁寧 | 早熟・短 |
【アシカガヨシマサ】
室町幕府8代将軍。足利義教の次男。
早逝した兄の義勝の後を受けて8代将軍に就任。将軍親政をこころざし、守護大名や
関東公方の内紛に度々介入、仲裁を行った。しかし側近勢力の分裂化や守護大名の
勢力拡大を抑えることができず、文正の政変で守護大名に反発され、将軍親政は頓挫した。
以後は政治主導の意欲を失い、守護大名同士の闘争を傍観。やがて将軍後継者同士の対立をも誘発させ
応仁の乱を引き起こした。9代将軍足利義煕が亡くなると後を追うようにして病を発し、後事を
10代将軍で甥の足利義材に託した。
室町幕府8代将軍。足利義教の次男。
早逝した兄の義勝の後を受けて8代将軍に就任。将軍親政をこころざし、守護大名や
関東公方の内紛に度々介入、仲裁を行った。しかし側近勢力の分裂化や守護大名の
勢力拡大を抑えることができず、文正の政変で守護大名に反発され、将軍親政は頓挫した。
以後は政治主導の意欲を失い、守護大名同士の闘争を傍観。やがて将軍後継者同士の対立をも誘発させ
応仁の乱を引き起こした。9代将軍足利義煕が亡くなると後を追うようにして病を発し、後事を
10代将軍で甥の足利義材に託した。
日野富子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
1 | 3 | 71 | 6 | 5 | 強奪・詭計・機略 | C | C | C | C | C | C | 1440 | 1496 | 剛胆 | 尊大 | 早熟・短 |
【ヒノトミコ】
室町時代の人物。日野重政の娘。
8代将軍足利義政に嫁ぎ、足利義政の乳母や側室を追放し地位を確立。
義政との間に実子が誕生すると、やがて後継者と定められていた義視との対立に関与。
両軍の参戦大名に金を貸し付け、莫大な資金を蓄えていたと伝えられている。
応仁の乱後は実子の足利義尚が9代将軍に就任するが、夫の足利義政とは対立し後に別居。
兄の勝光とともに日野家の権勢を拡大させ、兄や義尚の死後も御台として幕政に重きをなした。
その後は10代将軍に足利義材を推挙するが、彼とも後に対立。明応の政変を起こし義材を追放した。その3年後に病没。
足利家はその後、追放された10代義材の勢力と、後釜の11代義澄の勢力にわかれ、室町幕府滅亡時まで尾を引いた。
室町時代の人物。日野重政の娘。
8代将軍足利義政に嫁ぎ、足利義政の乳母や側室を追放し地位を確立。
義政との間に実子が誕生すると、やがて後継者と定められていた義視との対立に関与。
両軍の参戦大名に金を貸し付け、莫大な資金を蓄えていたと伝えられている。
応仁の乱後は実子の足利義尚が9代将軍に就任するが、夫の足利義政とは対立し後に別居。
兄の勝光とともに日野家の権勢を拡大させ、兄や義尚の死後も御台として幕政に重きをなした。
その後は10代将軍に足利義材を推挙するが、彼とも後に対立。明応の政変を起こし義材を追放した。その3年後に病没。
足利家はその後、追放された10代義材の勢力と、後釜の11代義澄の勢力にわかれ、室町幕府滅亡時まで尾を引いた。
※その他候補となった特技:徴税・徴収・富豪
山名宗全
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
80 | 86 | 65 | 77 | 72 | 猛者・急襲・連戦 | A | B | A | S | C | C | 1404 | 1473 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 |
【ヤマナソウゼン】
室町時代の人物。室町幕府四職「山名家」の出身。出家前の諱は「持豊」
三男であったがその資質を評価され山名家の家督を継ぎ、室町幕府によって抑圧されていた
山名家を再興。将軍義教が暗殺されると、率先して主犯の赤松満祐討伐を行い、完遂させて
10ヶ国の守護を兼任した。足利幕府で権勢を振るうが、赤松氏を滅ぼしたことで赤松氏の再興運動により
幕府や細川家と対立。一度は難を逃れるが、日野富子による足利義尚擁立に加担し、応仁の乱に巻き込まれた。
劣勢の状態の中、高齢でありながら自ら具足を着て指揮、敵の迎撃を行ったと言われている。しかし1473年戦いの最中に死去。
室町時代の人物。室町幕府四職「山名家」の出身。出家前の諱は「持豊」
三男であったがその資質を評価され山名家の家督を継ぎ、室町幕府によって抑圧されていた
山名家を再興。将軍義教が暗殺されると、率先して主犯の赤松満祐討伐を行い、完遂させて
10ヶ国の守護を兼任した。足利幕府で権勢を振るうが、赤松氏を滅ぼしたことで赤松氏の再興運動により
幕府や細川家と対立。一度は難を逃れるが、日野富子による足利義尚擁立に加担し、応仁の乱に巻き込まれた。
劣勢の状態の中、高齢でありながら自ら具足を着て指揮、敵の迎撃を行ったと言われている。しかし1473年戦いの最中に死去。
細川勝元
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
74 | 52 | 88 | 85 | 81 | 論客・妙計・連環 | A | A | S | B | C | C | 1430 | 1473 | 冷静 | 冷静 | 維持・長 |
【ホソカワカツモト】
室町時代の人物。室町幕府管領「細川家」の出身。
13歳で家督継承後、9ヶ国の守護を兼任し、23年にわたって管領を歴任した。
畠山氏と対立した関係で、初め山名家と手を結び、山名宗全の養女を正室に迎えた。
しかし畠山氏が分裂を起こすと、山名家の勢力を危険視し、山名家に滅ぼされた赤松氏を再興する。
その他斯波家の家督争いも宗全と対立する方針を選び、山名宗全が勝元と対立した大内家を支援したことで
関係が修復不可能なものとなった。足利将軍家の家督争いでは将軍義政の弟である義視を支持。
幕府を掌中に収め周辺大名と連携して山名宗全との全面戦争を行った。戦況は優勢であったが、宗全の
粘りのため決定打を欠き、戦争長期化に伴い和睦を模索するも決裂。宗全の死後わずか数ヶ月で死去した。
室町時代の人物。室町幕府管領「細川家」の出身。
13歳で家督継承後、9ヶ国の守護を兼任し、23年にわたって管領を歴任した。
畠山氏と対立した関係で、初め山名家と手を結び、山名宗全の養女を正室に迎えた。
しかし畠山氏が分裂を起こすと、山名家の勢力を危険視し、山名家に滅ぼされた赤松氏を再興する。
その他斯波家の家督争いも宗全と対立する方針を選び、山名宗全が勝元と対立した大内家を支援したことで
関係が修復不可能なものとなった。足利将軍家の家督争いでは将軍義政の弟である義視を支持。
幕府を掌中に収め周辺大名と連携して山名宗全との全面戦争を行った。戦況は優勢であったが、宗全の
粘りのため決定打を欠き、戦争長期化に伴い和睦を模索するも決裂。宗全の死後わずか数ヶ月で死去した。
畠山義就
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
86 | 91 | 77 | 73 | 38 | 駆逐・急襲・飛将 | S | A | A | S | C | C | 1437 | 1491 | 剛胆 | 剛胆 | 維持・長 |
【ハタケヤマヨシナリ】
室町時代の人物。室町幕府管領「畠山家」の出身。
畠山持国の子と言われていたが、母が桂女の出であったため不実子説が
囁かれた。しかし、父持国に重用され、畠山家の後継者とされ足利義政の
承認を受ける。だが、本来の家督継承者であった持豊および政長と対立し
戦争をたびたび起こす。細川勝元や山名宗全の介入を招き、一時期は朝敵にされるなど
苦境にあったが、不屈の闘志でこれを乗り越えて権勢を誇った。晩年は
将軍家の差配に従わず河内大和で軍事力による実効支配をつづけた。
室町時代の人物。室町幕府管領「畠山家」の出身。
畠山持国の子と言われていたが、母が桂女の出であったため不実子説が
囁かれた。しかし、父持国に重用され、畠山家の後継者とされ足利義政の
承認を受ける。だが、本来の家督継承者であった持豊および政長と対立し
戦争をたびたび起こす。細川勝元や山名宗全の介入を招き、一時期は朝敵にされるなど
苦境にあったが、不屈の闘志でこれを乗り越えて権勢を誇った。晩年は
将軍家の差配に従わず河内大和で軍事力による実効支配をつづけた。
※その内乱と抗争期間の長さは、応仁の乱ひいては戦国時代の到来における元凶とされることもある。
※その他候補となった特技:築城、不屈、遁走
【戦国時代(室町時代後期、16世紀)】
- 適性のみ変更しておきました -- (名無しさん) 2016-02-09 08:41:03
- 水軍適性もだと思われます、平教経や平知盛とやり合おうとするとAで何とかですので… -- (名無しさん) 2016-04-04 10:12:53
- 水軍適性変更しておきました -- (名無しさん) 2016-04-04 19:12:35
- 2016-04-04 10:12:53です 対応感謝いたします -- (名無しさん) 2016-04-05 18:26:39
- 義経の政治高くないか。
個人的には1でも過大だと思うレベルだが。
あと魅力は100近く、統率と武力は逆がちょうどいいと思う。
あくまでも個人の意見 -- (名無しさん) 2016-10-03 20:25:41 - 一応屋島の前や頼朝と対立する時になけなしの政治逸話がある -- (名無しさん) 2016-10-03 23:15:29
- お、しばらく見ないうちに大分増えてる -- (名無しさん) 2016-10-04 02:02:21
- https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2779.html
南北朝時代の武将をこちらへ移転させました -- (名無しさん) 2017-05-29 03:27:53 - 義経を政治最低にするなら頼朝は政治だけが取り柄の武将にしてもいいと思う。
統率75武力44知力68政治99魅力23ぐらいで。当然義理最低野望最高で。 -- (名無しさん) 2018-08-21 17:13:13 - 北条高時は劉禅レベルの能力(魅力以外全部一桁)でいいと思う。 -- (名無しさん) 2018-09-18 20:53:08