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みんなの新武将/倭・日本(近代) - (2019/04/25 (木) 16:52:54) の編集履歴(バックアップ)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
新武将の能力値や適性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
当然、万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
佐久間啓が手掛けた「海防八策」、徳川慶喜が受理した「大政奉還建白書」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
佐久間啓が手掛けた「海防八策」、徳川慶喜が受理した「大政奉還建白書」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は こちら
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果は こちら 。能力効果は こちら
倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
1853年の黒船来航を機に日本は大きく動き出した。尊王攘夷運動はやがて倒幕運動になりかわり、
薩摩藩、長州藩らが中心となって天皇を君主とする政権樹立へと奔走した。やがて江戸幕府は倒れ、
明治政府が樹立。士族となっていた武士も時流に抗えず廃れていった。富国強兵を掲げた明治政府は
やがて国外進出を試み、清と戦い勝利した後は国際社会の中心国家として躍進。
第一次世界大戦でも戦勝国となり、国際連盟で重きをなした。しかし中国、アメリカ等との対立を機に
ドイツと同盟を結び、国際連盟を脱退。第二次世界大戦、太平洋戦争へと突入した。
薩摩藩、長州藩らが中心となって天皇を君主とする政権樹立へと奔走した。やがて江戸幕府は倒れ、
明治政府が樹立。士族となっていた武士も時流に抗えず廃れていった。富国強兵を掲げた明治政府は
やがて国外進出を試み、清と戦い勝利した後は国際社会の中心国家として躍進。
第一次世界大戦でも戦勝国となり、国際連盟で重きをなした。しかし中国、アメリカ等との対立を機に
ドイツと同盟を結び、国際連盟を脱退。第二次世界大戦、太平洋戦争へと突入した。
近代(黒船来航~第二次世界大戦、諸説あり)
【幕末・明治時代(19世紀後半~20世紀初頭)】
統仁親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 12 | 57 | 60 | 69 | 威圧・怒髪・祈願 | C | C | C | C | C | C | 1831 | 1867 |
【オサヒトシンノウ】
江戸時代の皇族、天皇。のちの「孝明天皇」。明治天皇の父。
1835年に親王となり、西郷従道ら薩摩藩士を門人に招いて深く交流した。
その後1846年に天皇となり、幕府との連携を強めて外患排除に乗り出す。
異国船が日本に到着して条約を求めると断固として反対。「四海静謐」を
願って列強攘夷を推し進めるべく行動。将軍職へ就任した徳川家茂と連携を強め
公武合体の立役者となった。しかし徳川家茂の早逝わずか1年後に薨去。
死因は天然痘とするものが有力だが、岩倉や大久保など反対派による暗殺説も根強い。
江戸時代の皇族、天皇。のちの「孝明天皇」。明治天皇の父。
1835年に親王となり、西郷従道ら薩摩藩士を門人に招いて深く交流した。
その後1846年に天皇となり、幕府との連携を強めて外患排除に乗り出す。
異国船が日本に到着して条約を求めると断固として反対。「四海静謐」を
願って列強攘夷を推し進めるべく行動。将軍職へ就任した徳川家茂と連携を強め
公武合体の立役者となった。しかし徳川家茂の早逝わずか1年後に薨去。
死因は天然痘とするものが有力だが、岩倉や大久保など反対派による暗殺説も根強い。
徳川家定
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 |
13 | 9 | 55 | 31 | 47 | 解毒・威圧・眼力 | C | C | C | C | C | C | 1824 | 1858 | 阿部正弘 |
【トクガワイエサダ】
徳川幕府第13代将軍。徳川家慶の四男。
将軍世嗣となるが、生まれつき病弱であり、器量を心配した
父家慶によって徳川慶喜を将軍候補とされそうになるも、
阿部正弘の尽力で事なきを得る。将軍就任後も阿部正弘、堀田正睦らに
幕政を任せ、自らは将軍権威の存在であり続けた。病身になると
将軍継嗣問題が発生するが、自らの差配で後継者に慶福を指名した。
徳川幕府第13代将軍。徳川家慶の四男。
将軍世嗣となるが、生まれつき病弱であり、器量を心配した
父家慶によって徳川慶喜を将軍候補とされそうになるも、
阿部正弘の尽力で事なきを得る。将軍就任後も阿部正弘、堀田正睦らに
幕政を任せ、自らは将軍権威の存在であり続けた。病身になると
将軍継嗣問題が発生するが、自らの差配で後継者に慶福を指名した。
徳川家茂
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
39 | 61 | 50 | 63 | 85 | 眼力・怒髪・造船 | C | C | B | C | C | B | 1846 | 1866 |
【トクガワイエモチ】
徳川幕府第14代将軍。紀伊徳川家出身。11代将軍徳川家斉の孫。
初名は慶福と名乗り、6歳で元服し紀州藩を継いだが、藩政は重臣に任せた。
1858年の将軍後継問題では、井伊直弼ら譜代大名に担がれ将軍候補となり、
一橋派を破って第14代将軍に就任した。孝明天皇と協力して公武合体、列強攘夷を
推し進めたが、幕府に反発する長州藩を征伐中に大坂城で病に倒れ、死去。
早逝ながらその器量は勝海舟も認めたという。
徳川幕府第14代将軍。紀伊徳川家出身。11代将軍徳川家斉の孫。
初名は慶福と名乗り、6歳で元服し紀州藩を継いだが、藩政は重臣に任せた。
1858年の将軍後継問題では、井伊直弼ら譜代大名に担がれ将軍候補となり、
一橋派を破って第14代将軍に就任した。孝明天皇と協力して公武合体、列強攘夷を
推し進めたが、幕府に反発する長州藩を征伐中に大坂城で病に倒れ、死去。
早逝ながらその器量は勝海舟も認めたという。
徳川慶喜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
56 | 77 | 74 | 86 | 72 | 威圧・遁走・推進 | C | C | A | C | C | C | 1837 | 1913 | 冷静 | 開眼or維持・長 |
【トクガワヨシノブ】
徳川幕府第15代将軍。水戸徳川家出身。水戸藩主であった徳川斉昭の七男。
生来英邁として知られ、一橋家の養子に入り「一橋慶喜」と名乗る。
徳川家定の死後、将軍候補として祭り上げられるが、慶喜は乗り気ではなかったことを
首謀者の実父に伝え、そのためか14代将軍には家茂が就任。この件などで大老の井伊直弼と対立し
翌年の安政の大獄では謹慎処分を受けるが、井伊直弼の死後は幕政に復帰。将軍後見職として家茂を補佐する。
時には強硬策を用いて公武両面の政局を牛耳るが、時勢には抗えず、家茂が死去して15代将軍になった
約1年後に大政奉還を実行。戊辰戦争では水戸学の影響からか積極的な軍事行動は行わず、以後はほとんど隠棲して余生を過ごした。
徳川幕府第15代将軍。水戸徳川家出身。水戸藩主であった徳川斉昭の七男。
生来英邁として知られ、一橋家の養子に入り「一橋慶喜」と名乗る。
徳川家定の死後、将軍候補として祭り上げられるが、慶喜は乗り気ではなかったことを
首謀者の実父に伝え、そのためか14代将軍には家茂が就任。この件などで大老の井伊直弼と対立し
翌年の安政の大獄では謹慎処分を受けるが、井伊直弼の死後は幕政に復帰。将軍後見職として家茂を補佐する。
時には強硬策を用いて公武両面の政局を牛耳るが、時勢には抗えず、家茂が死去して15代将軍になった
約1年後に大政奉還を実行。戊辰戦争では水戸学の影響からか積極的な軍事行動は行わず、以後はほとんど隠棲して余生を過ごした。
井伊直弼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
69 | 62 | 91 | 70 | 58 | 指導・威圧・論客 | A | C | A | B | B | C | 1815 | 1860 |
【イイナオスケ】
江戸時代幕末の大老。彦根藩主。井伊直政の子孫。
井伊直中の14男として生まれ、幼少期から藩邸で学び暮らしたという。
その後、兄である直元が早逝したため藩主後継となり、のちに彦根藩を継いだ。
藩政改革を実行する傍ら、風雲急を告げる国内問題にも干渉し、譜代大名の重鎮として
幕府政治の根幹を成す。その後幕府大老に就任して、自身の推す徳川慶福を将軍につけ、
安政の大獄をはじめとする反対派を次々処罰。幕府の権威復興を図ろうと腐心した。
しかし、弾圧した反対派である水戸藩の脱藩浪士に襲撃され、1860年江戸城桜田門で落命。
江戸時代幕末の大老。彦根藩主。井伊直政の子孫。
井伊直中の14男として生まれ、幼少期から藩邸で学び暮らしたという。
その後、兄である直元が早逝したため藩主後継となり、のちに彦根藩を継いだ。
藩政改革を実行する傍ら、風雲急を告げる国内問題にも干渉し、譜代大名の重鎮として
幕府政治の根幹を成す。その後幕府大老に就任して、自身の推す徳川慶福を将軍につけ、
安政の大獄をはじめとする反対派を次々処罰。幕府の権威復興を図ろうと腐心した。
しかし、弾圧した反対派である水戸藩の脱藩浪士に襲撃され、1860年江戸城桜田門で落命。
徳川慶勝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 53 | 61 | 77 | 40 | 眼力・指導・屯田 | B | C | B | C | B | B | 1824 | 1883 |
【トクガワヨシカツ】
徳川家尾張藩14代藩主。高須松平氏出身。高須四兄弟の一人。実弟に松平容保。
その資質を買われ尾張藩藩主へと擁立され、養子縁組を経て1849年藩主就任。
初代藩主徳川義直の遺命を重んじ、早くから勤皇派として活動。尊皇攘夷を掲げ
井伊直弼と対立して謹慎処分となるが、直弼の死後は藩政に復帰。後任となった茂徳を支える。
幕府の重鎮として活躍し、第一次長州征伐では征長軍総督となる。薩摩藩士西郷隆盛を
大参謀に抜擢し、戦争を早期解決に導いた。しかしのちに幕府と長州の対立が再燃すると
勤皇派として中立を貫く。戊辰戦争では新政府軍側につき、明治維新では北海道開拓に貢献する。
徳川家尾張藩14代藩主。高須松平氏出身。高須四兄弟の一人。実弟に松平容保。
その資質を買われ尾張藩藩主へと擁立され、養子縁組を経て1849年藩主就任。
初代藩主徳川義直の遺命を重んじ、早くから勤皇派として活動。尊皇攘夷を掲げ
井伊直弼と対立して謹慎処分となるが、直弼の死後は藩政に復帰。後任となった茂徳を支える。
幕府の重鎮として活躍し、第一次長州征伐では征長軍総督となる。薩摩藩士西郷隆盛を
大参謀に抜擢し、戦争を早期解決に導いた。しかしのちに幕府と長州の対立が再燃すると
勤皇派として中立を貫く。戊辰戦争では新政府軍側につき、明治維新では北海道開拓に貢献する。
松平慶永
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
52 | 36 | 79 | 90 | 71 | 富豪・威圧・論客 | C | C | C | C | C | C | 1828 | 1890 |
【マツダイラヨシナガ】
徳川家御三卿、田安徳川家出身(血統上は一橋徳川家出身)。幕末四賢侯の1人。
当初は伊予松山藩を養子として継ぐ予定であったが、幕命により急遽養子として越前松平藩を継ぐ。
由利公正や橋本左内など有力な人物を取り立て、藩政改革や軍制改革を推し進めた。
黒船来航後は攘夷派のち開国派として活動。徳川家定の死後は徳川慶喜を将軍候補に推し進めるも
井伊直弼に政争で敗れ謹慎処分となった。桜田門外の変の後は幕政に参与し、政事総裁職、京都守護職などを歴任。
明治維新後は新政府のもと大蔵卿、民部卿を務めたが、1871年以後は公職を辞した。
徳川家御三卿、田安徳川家出身(血統上は一橋徳川家出身)。幕末四賢侯の1人。
当初は伊予松山藩を養子として継ぐ予定であったが、幕命により急遽養子として越前松平藩を継ぐ。
由利公正や橋本左内など有力な人物を取り立て、藩政改革や軍制改革を推し進めた。
黒船来航後は攘夷派のち開国派として活動。徳川家定の死後は徳川慶喜を将軍候補に推し進めるも
井伊直弼に政争で敗れ謹慎処分となった。桜田門外の変の後は幕政に参与し、政事総裁職、京都守護職などを歴任。
明治維新後は新政府のもと大蔵卿、民部卿を務めたが、1871年以後は公職を辞した。
島津斉彬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 59 | 74 | 98 | 65 | 発明・眼力・造船 | C | C | A | C | A | A | 1809 | 1858 |
【シマヅナリアキラ】
江戸時代の大名。薩摩藩11代藩主、島津家28代当主。幕末四賢侯の1人
早くに世子とされたが、藩内の対立や父親の危惧により、40代まで藩主になれず高崎崩れの一因となる。
老中阿部正弘の覚えめでたく、彼や将軍徳川家慶らの後援を受け、薩摩藩藩主となる。
藩主就任後は洋学研究や富国強兵をつとめ、反射炉や溶鉱炉、ガラスやガス灯などを製造。
またジョン万次郎を保護して造船術を学び、軍艦「昇平丸」や蒸気船「雲行丸」などを建造している。
また西郷隆盛や大久保利通など多くの維新志士を推挙し重用、国策関与では公武合体を推し進めた。
しかし将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、その政争に敗北。抗議のために兵を率いて上洛しようとするが、直前に急死した。
江戸時代の大名。薩摩藩11代藩主、島津家28代当主。幕末四賢侯の1人
早くに世子とされたが、藩内の対立や父親の危惧により、40代まで藩主になれず高崎崩れの一因となる。
老中阿部正弘の覚えめでたく、彼や将軍徳川家慶らの後援を受け、薩摩藩藩主となる。
藩主就任後は洋学研究や富国強兵をつとめ、反射炉や溶鉱炉、ガラスやガス灯などを製造。
またジョン万次郎を保護して造船術を学び、軍艦「昇平丸」や蒸気船「雲行丸」などを建造している。
また西郷隆盛や大久保利通など多くの維新志士を推挙し重用、国策関与では公武合体を推し進めた。
しかし将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、その政争に敗北。抗議のために兵を率いて上洛しようとするが、直前に急死した。
毛利敬親
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
44 | 36 | 72 | 68 | 83 | 眼力・仁政・名声 | B | C | B | C | B | B | 1819 | 1871 |
【モウリタカチカ】
江戸・明治時代の大名。毛利萩藩13代藩主。毛利元清系子孫。
毛利斉元の子として生まれ、1836年相次ぐ藩主の死をきっかけに家督を継ぐ。
村田清風、坪井九右衛門らを登用して藩政改革に乗り出し、吉田松陰や高杉晋作、
桂小五郎や井上聞多といった維新志士を多数見出した。激動の長州藩の
中枢にいながら藩政には他者を抜擢する形をとり、長州藩の安泰と国策推進に
関わった。晩年は正義派と呼ばれる討幕派を支持し、水面下で支援した。
江戸・明治時代の大名。毛利萩藩13代藩主。毛利元清系子孫。
毛利斉元の子として生まれ、1836年相次ぐ藩主の死をきっかけに家督を継ぐ。
村田清風、坪井九右衛門らを登用して藩政改革に乗り出し、吉田松陰や高杉晋作、
桂小五郎や井上聞多といった維新志士を多数見出した。激動の長州藩の
中枢にいながら藩政には他者を抜擢する形をとり、長州藩の安泰と国策推進に
関わった。晩年は正義派と呼ばれる討幕派を支持し、水面下で支援した。
鍋島直正
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
68 | 36 | 89 | 92 | 82 | 発明・解毒・論客 | C | C | A | C | S | A | 1815 | 1871 | 維持・長 |
【ナベシマナオマサ】
幕末、肥前国佐賀藩藩主。鍋島閑叟とも。
父の鍋島斉直から藩主の座を引き継ぎ、藩政改革と財政再建に着手。
また藩校であった弘道館を拡充して人材教育の充実も実施した。
軍事技術の導入にも貪欲であり、自藩製造でアームストロング砲や反射炉の製造を行っている。
他にも天然痘のワクチンをオランダから輸入して、治療に成功させるなど
「蘭癖大名」と言われるくらい西洋の技術学問を取り入れた。明治政府の樹立後も
その慧眼で来るべき新時代における政策方針を提唱していたが、1871年に死去。
幕末、肥前国佐賀藩藩主。鍋島閑叟とも。
父の鍋島斉直から藩主の座を引き継ぎ、藩政改革と財政再建に着手。
また藩校であった弘道館を拡充して人材教育の充実も実施した。
軍事技術の導入にも貪欲であり、自藩製造でアームストロング砲や反射炉の製造を行っている。
他にも天然痘のワクチンをオランダから輸入して、治療に成功させるなど
「蘭癖大名」と言われるくらい西洋の技術学問を取り入れた。明治政府の樹立後も
その慧眼で来るべき新時代における政策方針を提唱していたが、1871年に死去。
松平容保
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
70 | 68 | 58 | 66 | 71 | 威圧・血路・論客 | B | B | C | C | C | C | 1836 | 1893 | 早熟・短 |
【マツダイラカタモリ】
幕末の会津藩主。水戸徳川家の養子であり会津の祖・保科正之の血統ではない。
徳川幕府の要請により京都守護職に就任。会津藩士たちを率いて上洛し、新撰組などの
警察組織を結成する事で京都の治安維持に努めた。尊王攘夷派に対し八月十八日の政変などで
優位に立ったが、鳥羽伏見の戦いで幕府が大敗した事で一転。薩長連合から逆賊の汚名を受けた。
会津戦争に際して軍制改革に着手するも京都守護職を全うした事で会津の財政は完全に破綻しており、
改革に失敗。新政府軍に対して徹底抗戦の構えを見せるが全く歯が立たず、降伏を戸惑った事で
幕末最大の悲劇を生んだ。会津戦争後は許され華族として余生を過ごした。
幕末の会津藩主。水戸徳川家の養子であり会津の祖・保科正之の血統ではない。
徳川幕府の要請により京都守護職に就任。会津藩士たちを率いて上洛し、新撰組などの
警察組織を結成する事で京都の治安維持に努めた。尊王攘夷派に対し八月十八日の政変などで
優位に立ったが、鳥羽伏見の戦いで幕府が大敗した事で一転。薩長連合から逆賊の汚名を受けた。
会津戦争に際して軍制改革に着手するも京都守護職を全うした事で会津の財政は完全に破綻しており、
改革に失敗。新政府軍に対して徹底抗戦の構えを見せるが全く歯が立たず、降伏を戸惑った事で
幕末最大の悲劇を生んだ。会津戦争後は許され華族として余生を過ごした。
織田信学
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
35 | 38 | 57 | 63 | 72 | 遁走・富豪・強運 | C | C | C | C | C | C | 1819 | 1891 |
【オダノブミチ】
幕末の天童藩主。織田信長の信雄系子孫。
家督相続後に悪化する藩財政を専売制などによって改善。
天童藩2万石の領主として、幕末動乱には積極的な関与を行わず
あくまで藩民を優先、新政府および奥州越列藩同盟双方と友好関係を結ぶ。
庄内藩の攻撃を受けるなど紆余曲折を経て、1868年強固な勢力となった
新政府の傘下へと入る。のち明治天皇に拝謁、織田信長を祭神とする
建勲神社創建を見届け、隠棲ののち死去。
幕末の天童藩主。織田信長の信雄系子孫。
家督相続後に悪化する藩財政を専売制などによって改善。
天童藩2万石の領主として、幕末動乱には積極的な関与を行わず
あくまで藩民を優先、新政府および奥州越列藩同盟双方と友好関係を結ぶ。
庄内藩の攻撃を受けるなど紆余曲折を経て、1868年強固な勢力となった
新政府の傘下へと入る。のち明治天皇に拝謁、織田信長を祭神とする
建勲神社創建を見届け、隠棲ののち死去。
源篤子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
11 | 6 | 73 | 60 | 82 | 論客・指導・不屈 | C | C | C | C | C | C | 1836 | 1883 |
【ミナモトノアツコ】
江戸・明治時代の女性。島津忠剛の娘。「天璋院」「篤姫」の名で有名。
1853年に従兄で薩摩藩藩主の島津斉彬、ついで近衛忠煕の養女として13代将軍徳川家定に嫁いだ。
徳川家定の死後落飾して「天璋院」と名乗り、大奥の立場から幕政を補佐。
戊辰戦争の際には勝海舟らと協力して江戸城の無血開城を手助けしたと伝わる。明治維新後も
薩摩へ帰ることはなく、晩年は徳川将軍家の人間として徳川家達らを育てた。
江戸・明治時代の女性。島津忠剛の娘。「天璋院」「篤姫」の名で有名。
1853年に従兄で薩摩藩藩主の島津斉彬、ついで近衛忠煕の養女として13代将軍徳川家定に嫁いだ。
徳川家定の死後落飾して「天璋院」と名乗り、大奥の立場から幕政を補佐。
戊辰戦争の際には勝海舟らと協力して江戸城の無血開城を手助けしたと伝わる。明治維新後も
薩摩へ帰ることはなく、晩年は徳川将軍家の人間として徳川家達らを育てた。
補足:剛毅な性格で、14代将軍徳川家茂の正室であった和宮や、15代将軍徳川慶喜とたびたび
対立し、のちに和解したことが勝海舟の手記に記述されている。
対立し、のちに和解したことが勝海舟の手記に記述されている。
大石種次
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
45 | 95 | 22 | 7 | 82 | 猛者・不屈・名声 | C | C | C | C | C | C | 1797 | 1863 | 維持・長 |
【オオイシタネツグ】
江戸時代末期の武将。筑後柳河藩士。天保の三剣豪の1人。
父の公費により家計は厳しかったと言われているが、御前試合で敗北したことを
きっかけに剣の道を追求し、大石新影流を創始。九州で武者修行を積んだ際は
一度も負けたことはなかったと言われ、やがて藩命により江戸にむかったが
そこでも大方の相手には勝利した為、江戸道場は大騒ぎになったと言われている。
後年、噂を聞きつけた老中の水野忠邦が彼を招き、手だれのものと競わせたと言われている。
1848年に隠居し、1863年に死去した。
江戸時代末期の武将。筑後柳河藩士。天保の三剣豪の1人。
父の公費により家計は厳しかったと言われているが、御前試合で敗北したことを
きっかけに剣の道を追求し、大石新影流を創始。九州で武者修行を積んだ際は
一度も負けたことはなかったと言われ、やがて藩命により江戸にむかったが
そこでも大方の相手には勝利した為、江戸道場は大騒ぎになったと言われている。
後年、噂を聞きつけた老中の水野忠邦が彼を招き、手だれのものと競わせたと言われている。
1848年に隠居し、1863年に死去した。
※日本有数の剣豪の1人。作る場合は是非とも
Te-PersonEditor
などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
吉田松陰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
80 | 39 | 97 | 52 | 91 | 論客・眼力・不屈 | C | C | S | C | S | S | 1830 | 1859 | 維持・長 |
【ヨシダショウイン】
江戸時代末期の武将。長州萩藩士。杉矩方とも。
幼年の頃から玉木文之進が開いた松下村塾で学び、その後山鹿流兵学、
長沼流兵学などを身に着け、明倫館兵学師範に就任。しかし
西欧列強が日本に参入すると遅れを痛感して九州、江戸、長崎をまわり
独自に遊学、この際佐久間象山らに師事した。その後、西洋軍艦に
乗り込んで海外留学しようとするも失敗、のちに松下村塾塾長となり、
木戸孝允、高杉晋作ら多くの維新志士を見出し育てたが、幕府に危険視され、
安政の大獄に連座して処刑された。その思想は弟子たちに受け継がれ、明治維新の先駆けとなった。
江戸時代末期の武将。長州萩藩士。杉矩方とも。
幼年の頃から玉木文之進が開いた松下村塾で学び、その後山鹿流兵学、
長沼流兵学などを身に着け、明倫館兵学師範に就任。しかし
西欧列強が日本に参入すると遅れを痛感して九州、江戸、長崎をまわり
独自に遊学、この際佐久間象山らに師事した。その後、西洋軍艦に
乗り込んで海外留学しようとするも失敗、のちに松下村塾塾長となり、
木戸孝允、高杉晋作ら多くの維新志士を見出し育てたが、幕府に危険視され、
安政の大獄に連座して処刑された。その思想は弟子たちに受け継がれ、明治維新の先駆けとなった。
※その他候補となった特技:指導・明鏡
佐久間啓
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
74 | 45 | 93 | 87 | 31 | 発明・指導・論客 | C | C | S | C | S | A | 1811 | 1864 | 維持・長 |
【サクマヒラキ】
江戸時代末期の武将。信濃松代藩士。佐久間象山とも。
若年の頃より和算、儒学、朱子学など学問を学び、その才を
松代藩主である真田幸貫に重用され、真田幸良の教育係を務めた。
その後西洋兵学を学んで主君である幸貫に「海防八策」を献上した。
徳川慶喜とも京で国政に関する議論を交わしたが、のち河上彦斎らの手にかかって暗殺された。
吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟などをはじめ、幕末における多くの人間に影響を与えた。
江戸時代末期の武将。信濃松代藩士。佐久間象山とも。
若年の頃より和算、儒学、朱子学など学問を学び、その才を
松代藩主である真田幸貫に重用され、真田幸良の教育係を務めた。
その後西洋兵学を学んで主君である幸貫に「海防八策」を献上した。
徳川慶喜とも京で国政に関する議論を交わしたが、のち河上彦斎らの手にかかって暗殺された。
吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟などをはじめ、幕末における多くの人間に影響を与えた。
木戸孝允
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
67 | 83 | 87 | 94 | 88 | 不屈・遁走・眼力 | C | C | S | C | S | B | 1833 | 1877 | 冷静 | 謙遜 | 維持・長い |
【キドタカヨシ(キドコウイン)】
幕末、長州藩士。桂小五郎とも。和田昌景の長男として生誕し、幼少の頃桂家へ養子に出された。
吉田松陰に兵学を学び、内藤作兵衛に剣術を学んだ。のち高杉晋作、久坂玄瑞らとともに長州藩の藩政中枢を担い、
薩長同盟の会談をはじめ長州藩を舵取りし、倒幕運動の中心的役割を果たす。
明治新政府では五箇条の御誓文や版籍奉還などに携わり、後世「維新三傑」と呼ばれるほどの
貢献を残した。1877年に持病が悪化して死去。死の寸前まで明治政府と西郷隆盛を案じていたと言われる。
幕末、長州藩士。桂小五郎とも。和田昌景の長男として生誕し、幼少の頃桂家へ養子に出された。
吉田松陰に兵学を学び、内藤作兵衛に剣術を学んだ。のち高杉晋作、久坂玄瑞らとともに長州藩の藩政中枢を担い、
薩長同盟の会談をはじめ長州藩を舵取りし、倒幕運動の中心的役割を果たす。
明治新政府では五箇条の御誓文や版籍奉還などに携わり、後世「維新三傑」と呼ばれるほどの
貢献を残した。1877年に持病が悪化して死去。死の寸前まで明治政府と西郷隆盛を案じていたと言われる。
西郷隆盛
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
90 | 62 | 69 | 79 | 94 | 威風・金剛・護衛 | C | B | S | B | A | C | 1828 | 1877 | 剛胆 | 威厳 | 維持・長い |
【サイゴウタカモリ】
幕末、薩摩藩士。西郷隆永とも。父は西郷九郎。
島津斉彬に用いられ、若年の頃から供として江戸へ登り他藩の博識者と国事を議論したという。
一時期藩政から遠ざけられ辛酸を舐めた時もあったが、やがて藩政を主導し、犬猿の仲となっていた
長州藩との同盟に成功する。明治維新では中心的役割を担い、戊辰戦争の新政府軍司令官として
奔走する一方、王政復古の大号令や江戸城無血開城にも関わった。明治新政府でも重用されるが
明治六年の政変で下野。のち西南戦争を起こした。しかし衆寡敵せず敗れ、自刃した。「維新三傑」の1人。
幕末、薩摩藩士。西郷隆永とも。父は西郷九郎。
島津斉彬に用いられ、若年の頃から供として江戸へ登り他藩の博識者と国事を議論したという。
一時期藩政から遠ざけられ辛酸を舐めた時もあったが、やがて藩政を主導し、犬猿の仲となっていた
長州藩との同盟に成功する。明治維新では中心的役割を担い、戊辰戦争の新政府軍司令官として
奔走する一方、王政復古の大号令や江戸城無血開城にも関わった。明治新政府でも重用されるが
明治六年の政変で下野。のち西南戦争を起こした。しかし衆寡敵せず敗れ、自刃した。「維新三傑」の1人。
大久保利通
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
38 | 9 | 93 | 96 | 62 | 発明・明鏡・論客 | C | C | C | C | A | B | 1830 | 1878 | 冷静 | 威厳 | 維持・長い |
【オオクボトシミチ】
幕末、薩摩藩士。父は大久保利世。母方の姓は「皆吉」。
若年の際に藩校で大いに学び、西郷隆盛らと学友であった。
下級藩士の出であったが、その才覚を発揮して出世。斉彬、久光の両島津有力者にも
重用され、京へも同道。公武合体、ひいては倒幕運動に関わる。
明治新政府では大蔵卿、内務卿などを歴任し、明治新政府の新体制構築に多大な功績を残し、
一方で緻密な政治戦略を実行させ、巨大な権力を握っていたことから時には政変などを生んだ。
1878年、紀尾井坂で政治体制に不満を持つ石川県士族に暗殺された。「維新三傑」の1人。
幕末、薩摩藩士。父は大久保利世。母方の姓は「皆吉」。
若年の際に藩校で大いに学び、西郷隆盛らと学友であった。
下級藩士の出であったが、その才覚を発揮して出世。斉彬、久光の両島津有力者にも
重用され、京へも同道。公武合体、ひいては倒幕運動に関わる。
明治新政府では大蔵卿、内務卿などを歴任し、明治新政府の新体制構築に多大な功績を残し、
一方で緻密な政治戦略を実行させ、巨大な権力を握っていたことから時には政変などを生んだ。
1878年、紀尾井坂で政治体制に不満を持つ石川県士族に暗殺された。「維新三傑」の1人。
久坂玄瑞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
79 | 38 | 91 | 50 | 83 | 急襲・機略・沈着 | B | B | A | A | A | B | 1840 | 1865 |
幕末、長州藩士。吉田松陰の妹婿。
萩藩医の家に生まれるが、15歳で家族を失う。その後萩藩に
仕える傍ら九州へ遊学。その過程で吉田松陰を勧められ、
吉田松陰との論戦の末に彼の門弟となる。吉田松陰からは
その才気を高杉晋作と並んで評価され、長州第一の俊才と言われた。
松蔭刑死後は尊王攘夷運動を激化させ、奇兵隊の前身となる光明寺党を設立。
しかし八月十八日の政変を境に幕府とも対立。転身して長州の無実を訴えるべく上洛せんと
兵を率いるが、禁門の変にて会津藩、薩摩藩の連合軍に敗れて自刃。
萩藩医の家に生まれるが、15歳で家族を失う。その後萩藩に
仕える傍ら九州へ遊学。その過程で吉田松陰を勧められ、
吉田松陰との論戦の末に彼の門弟となる。吉田松陰からは
その才気を高杉晋作と並んで評価され、長州第一の俊才と言われた。
松蔭刑死後は尊王攘夷運動を激化させ、奇兵隊の前身となる光明寺党を設立。
しかし八月十八日の政変を境に幕府とも対立。転身して長州の無実を訴えるべく上洛せんと
兵を率いるが、禁門の変にて会津藩、薩摩藩の連合軍に敗れて自刃。
高杉晋作
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
94 | 80 | 88 | 76 | 92 | 急襲・百出・威風 | B | B | S | A | S | A | 1839 | 1867 |
【タカスギシンサク】
幕末の革命家。長州藩士。
松下村塾で吉田松陰の薫陶を受け、尊王攘夷の志士として活躍した。
第一次長州征伐の後、幕府に恭順しようとする長州藩に対し200人を率いてクーデターを起こし、藩の実権を握る。
第二次長州征伐では大村益次郎と藩の軍制改革に務め、最新鋭の重火器を装備した精鋭部隊を育成。
彼が設立した奇兵隊を初めとする長州4千の部隊は幕府軍11万の大軍に完勝。時代を倒幕へと進めた。
大政奉還を目前に肺結核が悪化して死去。享年29歳。
時代の放流を揺り動かしたその激しい生き様は今も多くの人々を魅了してやまない。
幕末の革命家。長州藩士。
松下村塾で吉田松陰の薫陶を受け、尊王攘夷の志士として活躍した。
第一次長州征伐の後、幕府に恭順しようとする長州藩に対し200人を率いてクーデターを起こし、藩の実権を握る。
第二次長州征伐では大村益次郎と藩の軍制改革に務め、最新鋭の重火器を装備した精鋭部隊を育成。
彼が設立した奇兵隊を初めとする長州4千の部隊は幕府軍11万の大軍に完勝。時代を倒幕へと進めた。
大政奉還を目前に肺結核が悪化して死去。享年29歳。
時代の放流を揺り動かしたその激しい生き様は今も多くの人々を魅了してやまない。
大村益次郎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
96 | 48 | 95 | 81 | 59 | 鬼謀・妙計・発明 | A | C | A | C | S | C | 1824 | 1869 |
【オオムラマスジロウ】
幕末、長州の医師、兵学者。維新十傑の一人に数えられる。大村永敏とも。
西洋軍学の専門書を翻訳している内に軍事の世界に没頭。類まれな兵法家に成長する。
高杉晋作と共に奇兵隊の創設に貢献。第2次長州征伐では長州の軍事総督として、
幕府軍11万の大軍を4千の兵力で撃ち払い、大勝利を収めた。
薩長同盟後、新政府軍の総参謀長となり旧幕府勢力を破竹の勢いで壊滅させる。
明治に入り軍制改革に着手したが反動勢力によって暗殺された。
幕末、長州の医師、兵学者。維新十傑の一人に数えられる。大村永敏とも。
西洋軍学の専門書を翻訳している内に軍事の世界に没頭。類まれな兵法家に成長する。
高杉晋作と共に奇兵隊の創設に貢献。第2次長州征伐では長州の軍事総督として、
幕府軍11万の大軍を4千の兵力で撃ち払い、大勝利を収めた。
薩長同盟後、新政府軍の総参謀長となり旧幕府勢力を破竹の勢いで壊滅させる。
明治に入り軍制改革に着手したが反動勢力によって暗殺された。
※その他候補となった特技:工神・名声
小松清廉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
56 | 25 | 98 | 90 | 81 | 論客・明鏡・造船 | C | C | C | C | A | A | 1835 | 1870 | 維持・長 |
【コマツキヨカド】
幕末、明治時代の人物。薩摩藩士。肝付氏子孫。「小松帯刀」の名で有名。
肝付氏の四男として生まれ、はじめ肝付兼戈と名乗った。
幼少時から病弱であったが文武につとめ、特に学問にたいして精力的に励んだ。
その後、島津斉彬、島津久光兄弟に取り立てられ、側近として藩政改革や技術革新に取り組む。
1862年には薩摩藩家老となり、大久保利通や西郷隆盛を従えて日本近代化を推進。
坂本龍馬や桂小五郎らと交渉、また独自にイギリスと交渉して藩の軍備増強にもつとめた。
新政府では率先して版籍奉還を推進したが、1870年36歳で早逝。
幕末、明治時代の人物。薩摩藩士。肝付氏子孫。「小松帯刀」の名で有名。
肝付氏の四男として生まれ、はじめ肝付兼戈と名乗った。
幼少時から病弱であったが文武につとめ、特に学問にたいして精力的に励んだ。
その後、島津斉彬、島津久光兄弟に取り立てられ、側近として藩政改革や技術革新に取り組む。
1862年には薩摩藩家老となり、大久保利通や西郷隆盛を従えて日本近代化を推進。
坂本龍馬や桂小五郎らと交渉、また独自にイギリスと交渉して藩の軍備増強にもつとめた。
新政府では率先して版籍奉還を推進したが、1870年36歳で早逝。
西郷頼母
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
58 | 57 | 71 | 78 | 76 | 指導・鉄壁・論客 | B | C | C | C | C | C | 1830 | 1911 |
【サイゴウタノモ】
幕末、会津藩の家老。藩祖・保科正之の子孫。
幕府から京都守護の役目を要請された松平容保に対して、不安定な政局に巻き込まれる事を
恐れ懸念を表明した事で、容保から疎まれる。
謹慎を言い渡されたが会津戦争直後に復帰。白河城督に任命されるも新政府軍の
最新鋭重火器にはまるで歯が立たず敵軍の会津城下への侵入を許した。
その後、容保に改めて降伏を要請するが聞き届けられず、嫡子と共に会津を脱出して
函館戦線に加わる。会津の血統である頼母が会津を想い行動したのに対して、徳川からの養子である
容保はあくまで徳川の為に会津を使い潰した。この相違が会津戦争の悲劇を生んだ原因とされる。
幕末、会津藩の家老。藩祖・保科正之の子孫。
幕府から京都守護の役目を要請された松平容保に対して、不安定な政局に巻き込まれる事を
恐れ懸念を表明した事で、容保から疎まれる。
謹慎を言い渡されたが会津戦争直後に復帰。白河城督に任命されるも新政府軍の
最新鋭重火器にはまるで歯が立たず敵軍の会津城下への侵入を許した。
その後、容保に改めて降伏を要請するが聞き届けられず、嫡子と共に会津を脱出して
函館戦線に加わる。会津の血統である頼母が会津を想い行動したのに対して、徳川からの養子である
容保はあくまで徳川の為に会津を使い潰した。この相違が会津戦争の悲劇を生んだ原因とされる。
林田守隆
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
51 | 63 | 70 | 82 | 78 | 富豪・能吏・名声 | B | B | B | C | C | C | 1848 | 1929 | 冷静 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【ハヤシダモリタカ】
幕末~明治時代の武将。
久留米藩の藩士に生まれ、藩校明善堂で武芸と和歌を学ぶ。
幕末の動乱期には勤王派として働き、応変隊の小隊長として戊辰戦争に従軍し、箱館戦争で戦功を挙げる。
戦後は養蚕業や製糸業などに手をつけ様々な開拓事業を興し、地元の経済に恩恵を与えた。
1901年に紫綬褒章を受賞する。晩年は銀行の頭取などを務め、1929年病没。
幕末~明治時代の武将。
久留米藩の藩士に生まれ、藩校明善堂で武芸と和歌を学ぶ。
幕末の動乱期には勤王派として働き、応変隊の小隊長として戊辰戦争に従軍し、箱館戦争で戦功を挙げる。
戦後は養蚕業や製糸業などに手をつけ様々な開拓事業を興し、地元の経済に恩恵を与えた。
1901年に紫綬褒章を受賞する。晩年は銀行の頭取などを務め、1929年病没。
伊地知正治
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
89 | 76 | 93 | 74 | 50 | 明鏡・深謀・攻城 | A | C | A | C | S | C | 1828 | 1886 |
【イジチマサハル】
幕末の武士、薩摩藩士。号は一柳。
3歳で文字を読み神童の誉れ高かったが、病により片目と片足の自由を失った。
薩摩で剣術の奥義を極めた。1859年に精忠組に参加し、その後島津久光の上洛に従い軍奉行に任じられる。
卓越した軍略家として知られ、特に戊辰戦争では自軍の3倍の旧幕府軍兵の籠もる白河城を落とし、母成峠で板垣退助と共に敵を大破し会津若松城を開城に追い込んだ。
戦後は薩摩藩閥の有力者として新政府に入るも征韓論を唱えた西郷隆盛に同調する。しかしそのまま新政府に残り、西南戦争における西郷の敗北を予想している。
要職を歴任し、1886年に病没。
幕末の武士、薩摩藩士。号は一柳。
3歳で文字を読み神童の誉れ高かったが、病により片目と片足の自由を失った。
薩摩で剣術の奥義を極めた。1859年に精忠組に参加し、その後島津久光の上洛に従い軍奉行に任じられる。
卓越した軍略家として知られ、特に戊辰戦争では自軍の3倍の旧幕府軍兵の籠もる白河城を落とし、母成峠で板垣退助と共に敵を大破し会津若松城を開城に追い込んだ。
戦後は薩摩藩閥の有力者として新政府に入るも征韓論を唱えた西郷隆盛に同調する。しかしそのまま新政府に残り、西南戦争における西郷の敗北を予想している。
要職を歴任し、1886年に病没。
近藤勇
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
65 | 88 | 37 | 29 | 66 | 猛者・遁走・護衛 | A | B | C | C | C | C | 1834 | 1868 | 早熟・長 |
【コンドウイサミ】
幕末の武士。新撰組局長。「大久保剛」とも。
武蔵の国に生まれ、幼いころから剣術を志し、天然理心流を学んだ。
のち多くの同志らとともに浪士組に参加。京にのぼり、松平容保のもと壬生浪士組を結成。
その後新撰組としてその局長に居座るが、芹沢鴨や伊藤甲子太郎らの離反を招く。
池田屋事件などで市中に噂される華々しい活躍を見せるも、幕府衰退とともに凋落。
最後は甲陽鎮撫隊となるが、新政府軍に敗れ潰走。江戸市中で新政府軍に捕えられ、刑死した。
幕末の武士。新撰組局長。「大久保剛」とも。
武蔵の国に生まれ、幼いころから剣術を志し、天然理心流を学んだ。
のち多くの同志らとともに浪士組に参加。京にのぼり、松平容保のもと壬生浪士組を結成。
その後新撰組としてその局長に居座るが、芹沢鴨や伊藤甲子太郎らの離反を招く。
池田屋事件などで市中に噂される華々しい活躍を見せるも、幕府衰退とともに凋落。
最後は甲陽鎮撫隊となるが、新政府軍に敗れ潰走。江戸市中で新政府軍に捕えられ、刑死した。
土方歳三
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
78 | 89 | 68 | 44 | 73 | 不屈・威風・猛者 | A | C | C | C | B | C | 1835 | 1869 | 晩成・長 |
【ヒジカタトシゾウ】
幕末の武士。新撰組隊士。鬼の副長の異名で恐れられた。
鳥羽伏見の敗戦の後、各地を勇戦するがその都度敗戦を繰り返し、
会津戦争で新撰組が解体されると旧幕府政府勢力が集まる蝦夷共和国に渡る。
宮古湾海戦では新政府軍の旗戦を強襲し奪取を目論むが失敗。
函館戦争の最中に銃撃され戦死した。
鳥羽伏見後は時代の変化を体感し近代戦術を貪欲に学び取る。
函館のフランス人将校から能力を称賛されたという。
幕末の武士。新撰組隊士。鬼の副長の異名で恐れられた。
鳥羽伏見の敗戦の後、各地を勇戦するがその都度敗戦を繰り返し、
会津戦争で新撰組が解体されると旧幕府政府勢力が集まる蝦夷共和国に渡る。
宮古湾海戦では新政府軍の旗戦を強襲し奪取を目論むが失敗。
函館戦争の最中に銃撃され戦死した。
鳥羽伏見後は時代の変化を体感し近代戦術を貪欲に学び取る。
函館のフランス人将校から能力を称賛されたという。
沖田総司
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
48 | 93 | 36 | 18 | 84 | 洞察・疾走・猛者 | A | A | B | C | C | C | 1842? | 1868 | 維持・長 |
【オキタソウジ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組一番隊組長。
近藤勇、土方歳三らと同門であった。のち近藤に従い新撰組を結成し、
一番隊組長となる。近藤の信任篤く、芹沢鴨暗殺など多くの重要任務をこなした。
池田屋事件でも第一陣として踏み込んだ。のちに離反した山南敬助を捕縛している。
戊辰戦争にも参加し甲陽鎮撫隊に加わるが、数年悩まされた病に勝てず早逝。
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組一番隊組長。
近藤勇、土方歳三らと同門であった。のち近藤に従い新撰組を結成し、
一番隊組長となる。近藤の信任篤く、芹沢鴨暗殺など多くの重要任務をこなした。
池田屋事件でも第一陣として踏み込んだ。のちに離反した山南敬助を捕縛している。
戊辰戦争にも参加し甲陽鎮撫隊に加わるが、数年悩まされた病に勝てず早逝。
※その他候補となった特技:強行・捕縛
永倉新八
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
55 | 94 | 50 | 48 | 71 | 金剛・猛者・急襲 | A | B | C | C | C | C | 1839 | 1915 | 維持・長 |
【ナガクラシンパチ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組二番隊組長。
剣術好きが高じて脱藩し、剣術修行ののち、近藤勇の食客となる。
その後、浪士組、新撰組など近藤と共にしてその中核を担い、二番隊組長を務めた。
池田屋事件でも中心的役割を果たしたが、近藤とは徐々に対立。鳥羽伏見の戦いでは
決死隊を率いて奮戦。その後江戸にもどって近藤と袂をわかち、戊辰戦争の継戦を実行するが、
関東戦線が終結すると松前藩士として帰参。以後は北海道で暮らした。
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と言われ、新撰組最強隊士と言われている。
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組二番隊組長。
剣術好きが高じて脱藩し、剣術修行ののち、近藤勇の食客となる。
その後、浪士組、新撰組など近藤と共にしてその中核を担い、二番隊組長を務めた。
池田屋事件でも中心的役割を果たしたが、近藤とは徐々に対立。鳥羽伏見の戦いでは
決死隊を率いて奮戦。その後江戸にもどって近藤と袂をわかち、戊辰戦争の継戦を実行するが、
関東戦線が終結すると松前藩士として帰参。以後は北海道で暮らした。
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」と言われ、新撰組最強隊士と言われている。
斎藤一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
74 | 92 | 68 | 57 | 65 | 強運・猛者・明鏡 | A | A | C | C | C | C | 1844 | 1915 | 維持・長 |
【サイトウハジメ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組三番隊組長。
江戸の生まれながら、紆余曲折を経て壬生浪士組に参加し、近藤勇の同志となる。
池田屋事件では別働隊となる土方歳三の指揮下にあった。
20歳で副長助勤となるなど近藤勇から大いに重用され、新撰組における
内部粛清をも受け持ち、間諜業務なども務めている。
戊辰戦争ではいずれも最前線で戦うが、会津戦役で松平容保の説得を受け入れ投降。
晩年は政府抜刀隊を指揮して西南戦争に従軍するかたわら、北海道開拓や警視庁勤務なども行った。
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組三番隊組長。
江戸の生まれながら、紆余曲折を経て壬生浪士組に参加し、近藤勇の同志となる。
池田屋事件では別働隊となる土方歳三の指揮下にあった。
20歳で副長助勤となるなど近藤勇から大いに重用され、新撰組における
内部粛清をも受け持ち、間諜業務なども務めている。
戊辰戦争ではいずれも最前線で戦うが、会津戦役で松平容保の説得を受け入れ投降。
晩年は政府抜刀隊を指揮して西南戦争に従軍するかたわら、北海道開拓や警視庁勤務なども行った。
※その他候補となった特技:遁走
武田観柳斎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
47 | 68 | 82 | 81 | 57 | 言毒・詭計・指導 | B | C | B | B | C | C | ? | 1867 | 維持・長 |
【タケダカンリュウサイ】
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組五番隊組長
「武田徳裕」「福田廣」とも。出雲国に生まれ、江戸に上り
甲州流軍学を学び、甲斐武田氏にちなんで武田観柳斎と名乗る。
その後軍学者及び副長助勤をつとめ、新撰組ブレーンとして活躍。
武芸もこなし、池田屋事件では維新志士を捕縛した。軍才を背景に
新撰組でも影響力を高めるが、新撰組が西洋式調練を採用すると徐々に孤立。
伊東甲子太郎に接近して地位を挽回しようとするも、京都鴨川で暗殺された。
幕末の武士。新撰組隊士。新撰組五番隊組長
「武田徳裕」「福田廣」とも。出雲国に生まれ、江戸に上り
甲州流軍学を学び、甲斐武田氏にちなんで武田観柳斎と名乗る。
その後軍学者及び副長助勤をつとめ、新撰組ブレーンとして活躍。
武芸もこなし、池田屋事件では維新志士を捕縛した。軍才を背景に
新撰組でも影響力を高めるが、新撰組が西洋式調練を採用すると徐々に孤立。
伊東甲子太郎に接近して地位を挽回しようとするも、京都鴨川で暗殺された。
※近藤勇と他の隊士の対立の影には観柳斎が暗躍していたといわれ、近藤迷走の元凶とも言われる。暗殺における実行犯は斎藤一だとされている。
相楽総三
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
53 | 49 | 58 | 42 | 65 | 名声・長駆・威圧 | B | C | B | B | C | C | 1839 | 1868 | 剛胆 | 豪放 |
【サガラソウゾウ】
江戸時代末期の武将。
下総大富豪の家に生まれ、若年の頃から軍学国学を学ぶ。
江戸幕府が揺らぎ始めると尊王攘夷運動に身を投じ、江戸で義勇兵を
募って天狗党の乱にも参加。のち薩摩藩の西郷隆盛らと交友を結び、
やがて新政府側につく。戊辰戦争では赤報隊を率いて同志を募ったが、
方針の違いから偽官軍とされ、信濃下諏訪で捕縛され刑死。
江戸時代末期の武将。
下総大富豪の家に生まれ、若年の頃から軍学国学を学ぶ。
江戸幕府が揺らぎ始めると尊王攘夷運動に身を投じ、江戸で義勇兵を
募って天狗党の乱にも参加。のち薩摩藩の西郷隆盛らと交友を結び、
やがて新政府側につく。戊辰戦争では赤報隊を率いて同志を募ったが、
方針の違いから偽官軍とされ、信濃下諏訪で捕縛され刑死。
※その他候補となった特技:富豪
河井秋義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
86 | 74 | 61 | 69 | 45 | 工神・強行・射程 | A | C | A | B | S | C | 1827 | 1868 | 冷静 | 豪放 |
【カワイアキヨシ】
江戸時代末期の武将。長岡藩士。幼名の「河井継之助」が有名。
長岡城下で生まれ、1842年に元服する。江戸、松山、長崎で遊学し、
この時佐久間象山の教えを受けた。その後藩政の主導者となり、藩政改革と
兵制改革を行った。戊辰戦争の際にはアームストロング砲やガトリング砲、
エンフィールド銃など最新兵器を多数買い付け、新政府軍との交渉が決裂すると
北越戦争で獅子奮迅の働きを見せた。長岡城の再奪還や佐幕派諸藩の協調もあり、
新政府軍に大きな犠牲を与えたが、最終的に敗北。会津へ落ち延びたが、破傷風にて死去した。
江戸時代末期の武将。長岡藩士。幼名の「河井継之助」が有名。
長岡城下で生まれ、1842年に元服する。江戸、松山、長崎で遊学し、
この時佐久間象山の教えを受けた。その後藩政の主導者となり、藩政改革と
兵制改革を行った。戊辰戦争の際にはアームストロング砲やガトリング砲、
エンフィールド銃など最新兵器を多数買い付け、新政府軍との交渉が決裂すると
北越戦争で獅子奮迅の働きを見せた。長岡城の再奪還や佐幕派諸藩の協調もあり、
新政府軍に大きな犠牲を与えたが、最終的に敗北。会津へ落ち延びたが、破傷風にて死去した。
坂本直柔(龍馬)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
64 | 80 | 86 | 78 | 82 | 操舵・洞察・論客 | B | C | C | C | A | S | 1836 | 1867 | 冷静 | 豪放 |
【サカモトナオナリ(リョウマ)】
日本の近世末期に活動した武士。
(時節を見極めたという事から、特技は洞察。上級以下で使用する場合は論客でもよいだろう。)
日本の近世末期に活動した武士。
(時節を見極めたという事から、特技は洞察。上級以下で使用する場合は論客でもよいだろう。)
※その他候補となった特技:発明・造船・遁走
楢崎龍
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
37 | 55 | 19 | 8 | 67 | 血路・強運・強行 | C | C | C | C | C | C | 1841 | 1906 | 剛胆 | 豪放 |
【ナラサキリョウ】
江戸時代・明治時代の女性。坂本龍馬の妻
京で生まれ、裕福な家庭で過ごしたが、父が安政の大獄で捕えられ病死すると
生活が困窮、紆余曲折を経て京で過ごし、坂本龍馬と出会い見初められて妻となる。
寺田屋事件では入浴中に捕吏の姿を確認し、そのまま龍馬に伝え龍馬の命を救っている。
その後は龍馬の療養のかたわらに随行。鹿児島、長崎、下関と渡っている。のち、
再び表舞台にたつ龍馬に身を案じられ、長州に預けられた。近江屋事件で龍馬が暗殺されると
落魄するが、勝海舟や寺田屋お登勢の支援を受けつつ隠棲した。
江戸時代・明治時代の女性。坂本龍馬の妻
京で生まれ、裕福な家庭で過ごしたが、父が安政の大獄で捕えられ病死すると
生活が困窮、紆余曲折を経て京で過ごし、坂本龍馬と出会い見初められて妻となる。
寺田屋事件では入浴中に捕吏の姿を確認し、そのまま龍馬に伝え龍馬の命を救っている。
その後は龍馬の療養のかたわらに随行。鹿児島、長崎、下関と渡っている。のち、
再び表舞台にたつ龍馬に身を案じられ、長州に預けられた。近江屋事件で龍馬が暗殺されると
落魄するが、勝海舟や寺田屋お登勢の支援を受けつつ隠棲した。
勝義邦
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 |
77 | 74 | 91 | 85 | 93 | 論客・火攻・洞察 | C | C | A | C | S | S | 1823 | 1899 | 維持・短 |
【カツヨシクニ】
幕末の旗本。のち軍艦奉行。勝海舟とも。
若年の頃から剣術、蘭学を学び、黒船来航の際は海防意見書を提出した。
これが当時の老中であった阿部正弘の目に留まり、幕府中枢入りを果たす。
長崎・神戸で海軍に従事しつつ、遣米使節にも随行した。その後旧幕府軍と新政府軍の戦争が始まると
旧幕府軍の代表として、早期停戦を唱え、策に策を重ねて新政府軍の西郷隆盛と交渉し、
江戸城無血開城を実行した。明治維新後もその才を惜しむ新政府軍から旧幕臣として重用され、
参議、海軍卿などを歴任する傍ら、徳川慶喜や西郷隆盛の名誉回復などにも勤しんだ。
幕末の旗本。のち軍艦奉行。勝海舟とも。
若年の頃から剣術、蘭学を学び、黒船来航の際は海防意見書を提出した。
これが当時の老中であった阿部正弘の目に留まり、幕府中枢入りを果たす。
長崎・神戸で海軍に従事しつつ、遣米使節にも随行した。その後旧幕府軍と新政府軍の戦争が始まると
旧幕府軍の代表として、早期停戦を唱え、策に策を重ねて新政府軍の西郷隆盛と交渉し、
江戸城無血開城を実行した。明治維新後もその才を惜しむ新政府軍から旧幕臣として重用され、
参議、海軍卿などを歴任する傍ら、徳川慶喜や西郷隆盛の名誉回復などにも勤しんだ。
谷干城
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
84 | 73 | 76 | 79 | 82 | 鉄壁・金剛・屯田 | A | C | C | C | B | C | 1837 | 1911 |
【タニタテキ】
幕末~明治の軍人。土佐藩士。農商務大臣。
土佐勤王党に所属し武市半平太の師事を受けるが、後に坂本龍馬に傾倒。
龍馬が暗殺されると敵討ちを宿願としたという。
戊辰戦争では板垣退助の指揮のもとで活躍。戦後は陸軍少将に昇進。
西南戦争において熊本鎮台の司令官として援軍到着までの間、熊本城に籠って西郷隆盛軍と
交戦。加藤清正が築いた熊本城の威力を後世に証明した。
その後、戦争に嫌気をさし軍人から政治家に転身した。
幕末~明治の軍人。土佐藩士。農商務大臣。
土佐勤王党に所属し武市半平太の師事を受けるが、後に坂本龍馬に傾倒。
龍馬が暗殺されると敵討ちを宿願としたという。
戊辰戦争では板垣退助の指揮のもとで活躍。戦後は陸軍少将に昇進。
西南戦争において熊本鎮台の司令官として援軍到着までの間、熊本城に籠って西郷隆盛軍と
交戦。加藤清正が築いた熊本城の威力を後世に証明した。
その後、戦争に嫌気をさし軍人から政治家に転身した。
睦仁親王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
60 | 51 | 85 | 80 | 100 | 仁政・富豪・名声 | C | C | A | A | A | A | 1852 | 1912 | 維持・長 |
【ムツヒトシンノウ】
孝明天皇の皇子。のちの明治天皇。
1868年にわずか14歳で皇位につき、朝廷政治を推進。
旧幕府勢力の軍事行動を掃討、鎮定し新政府を樹立。新体制の構築や
新法律の制定を後押しし、明治維新を主導した。日清戦争や日露戦争時には
国家を総動員して戦争に当たり、自らも大本営から戦争指導を行った。
1912年に崩御した際は、官民問わず殉死者が数多く出たと言われている。
孝明天皇の皇子。のちの明治天皇。
1868年にわずか14歳で皇位につき、朝廷政治を推進。
旧幕府勢力の軍事行動を掃討、鎮定し新政府を樹立。新体制の構築や
新法律の制定を後押しし、明治維新を主導した。日清戦争や日露戦争時には
国家を総動員して戦争に当たり、自らも大本営から戦争指導を行った。
1912年に崩御した際は、官民問わず殉死者が数多く出たと言われている。
岩倉具視
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
32 | 5 | 95 | 93 | 79 | 詭計・論客・百出 | C | C | C | C | C | C | 1825 | 1883 | 冷静 | 維持・短 |
【イワクラトモミ】
幕末~明治の政治家。公家。堀河康親の次男。のち岩倉具慶の養子。
生来英邁であり、孝明天皇の朝廷政治を補佐。和宮降嫁をはじめ
幕府の意図を見抜いた上で、朝廷優位の公武合体体制の構築を進めようとするが
反対派の弾劾にあい、一時失脚。復帰後は幼少の明治天皇を支えつつ、徳川体制の解体と
新体制の発足を進め、実質的な討幕運動を主導する。その後は日本の首脳部を担いつつ
岩倉使節団として外交にも力を発揮。明治近代化の祖となった。
幕末~明治の政治家。公家。堀河康親の次男。のち岩倉具慶の養子。
生来英邁であり、孝明天皇の朝廷政治を補佐。和宮降嫁をはじめ
幕府の意図を見抜いた上で、朝廷優位の公武合体体制の構築を進めようとするが
反対派の弾劾にあい、一時失脚。復帰後は幼少の明治天皇を支えつつ、徳川体制の解体と
新体制の発足を進め、実質的な討幕運動を主導する。その後は日本の首脳部を担いつつ
岩倉使節団として外交にも力を発揮。明治近代化の祖となった。
伊藤博文
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
27 | 59 | 92 | 97 | 85 | 火攻・論客・指導 | C | C | A | B | A | B | 1841 | 1909 | 冷静 | 維持・短 |
【イトウヒロブミ】
幕末~明治の政治家。長州藩士。伊藤俊輔とも。百姓の生まれであったが、松下村塾でよく学び、吉田松陰の影響を受けた。
のち一度藩命でイギリスへ渡航したが、帰国後は桂小五郎、高杉晋作らの挙兵にも参陣し
長州藩の倒幕運動に参加。明治新政府では大久保利通、大隈重信らとともに
殖産興業に力を入れ、お雇い外国人らの協力もあり、新橋横浜の鉄道敷設や
群馬県甘楽郡に官営の富岡製糸場を設立した。枢密院議長、内務卿、内閣総理大臣と
要職を歴任する傍ら、日清日露と国運を巡る戦争の戦後処理にも貢献。
しかし初代韓国統監に就任した際に一度は韓国併合に反対し、最終的に是認するが
ハルビン駅で凶弾に倒れた。首謀者は朝鮮人だと言われるが、併合強硬派によるものとする異説もある。
幕末~明治の政治家。長州藩士。伊藤俊輔とも。百姓の生まれであったが、松下村塾でよく学び、吉田松陰の影響を受けた。
のち一度藩命でイギリスへ渡航したが、帰国後は桂小五郎、高杉晋作らの挙兵にも参陣し
長州藩の倒幕運動に参加。明治新政府では大久保利通、大隈重信らとともに
殖産興業に力を入れ、お雇い外国人らの協力もあり、新橋横浜の鉄道敷設や
群馬県甘楽郡に官営の富岡製糸場を設立した。枢密院議長、内務卿、内閣総理大臣と
要職を歴任する傍ら、日清日露と国運を巡る戦争の戦後処理にも貢献。
しかし初代韓国統監に就任した際に一度は韓国併合に反対し、最終的に是認するが
ハルビン駅で凶弾に倒れた。首謀者は朝鮮人だと言われるが、併合強硬派によるものとする異説もある。
陸奥宗光
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
91 | 62 | 97 | 97 | 43 | 論客・言毒・虚実 | A | C | A | C | A | B | 1844 | 1897 | 豪胆 | 早熟・長 |
【ムツムネミツ】
維新期の外務大臣。首相伊藤博文の下不平等条約改正に尽力し、英国と治外法権を撤廃した日英通商航海条約を締結。
その際、政権維持の為裏で暗躍したことで『カミソリ大臣』と渾名された。
維新期の外務大臣。首相伊藤博文の下不平等条約改正に尽力し、英国と治外法権を撤廃した日英通商航海条約を締結。
その際、政権維持の為裏で暗躍したことで『カミソリ大臣』と渾名された。
山縣有朋
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
85 | 81 | 75 | 78 | 30 | 射手・富豪・指導 | A | C | S | S | S | C | 1838 | 1922 | 剛胆 | 普通・短 |
【ヤマガタアリトモ】
幕末~明治の軍人。長州藩士。元帥陸軍大将。
吉田松陰や久坂玄瑞らの影響を受け、高杉晋作のもとで頭角をあらわした。
長州藩の維新志士として長州征伐や戊辰戦争で軍功。明治政府では西郷隆盛と協力して
軍制改革を実行した。西南戦争や日清戦争でも司令官として指揮を執り、勝利に貢献している。
一方で後進の育成や政治主導にも余念がなく、政界でも幅広い人脈を築いていた。
晩年は元老として実権を握っていたが、反対勢力との対立も少なくなかったと言われる。
幕末~明治の軍人。長州藩士。元帥陸軍大将。
吉田松陰や久坂玄瑞らの影響を受け、高杉晋作のもとで頭角をあらわした。
長州藩の維新志士として長州征伐や戊辰戦争で軍功。明治政府では西郷隆盛と協力して
軍制改革を実行した。西南戦争や日清戦争でも司令官として指揮を執り、勝利に貢献している。
一方で後進の育成や政治主導にも余念がなく、政界でも幅広い人脈を築いていた。
晩年は元老として実権を握っていたが、反対勢力との対立も少なくなかったと言われる。
桂清澄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
71 | 60 | 78 | 89 | 82 | 論客・名声・眼力 | A | B | A | A | A | B | 1848 | 1913 | 剛胆 | 丁寧 | 維持・長 |
【カツラキヨズミ】
幕末~明治時代の軍人、政治家。長州藩士。「桂太郎」の名で有名。
毛利元就の重臣桂広澄の子孫であり、その家柄から人脈を築いて重用される。
長州藩では藩主嫡男の毛利元徳の小姓となり、第二次長州征伐やのちの戊辰戦争に従軍。
戦後新政府では主に木戸孝允や山縣有朋らとともに陸軍創設に携わる。
その後伊藤博文や山縣有朋らに重用され、日清戦争に従軍。日露戦争では
戦局の根幹を握る内閣総理大臣に指名され、東郷・大山らを起用して善戦した。
のちに政府で支持を集め、西園寺公望と並ぶ「桂園時代」を作った。1913年病没。
幕末~明治時代の軍人、政治家。長州藩士。「桂太郎」の名で有名。
毛利元就の重臣桂広澄の子孫であり、その家柄から人脈を築いて重用される。
長州藩では藩主嫡男の毛利元徳の小姓となり、第二次長州征伐やのちの戊辰戦争に従軍。
戦後新政府では主に木戸孝允や山縣有朋らとともに陸軍創設に携わる。
その後伊藤博文や山縣有朋らに重用され、日清戦争に従軍。日露戦争では
戦局の根幹を握る内閣総理大臣に指名され、東郷・大山らを起用して善戦した。
のちに政府で支持を集め、西園寺公望と並ぶ「桂園時代」を作った。1913年病没。
※その他候補となった特技:仁政
西郷従道
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
82 | 59 | 84 | 81 | 80 | 眼力・明鏡・仁政 | B | B | A | B | A | S | 1843 | 1902 | 西郷隆盛・大山巌・島津斉彬 | 剛胆 | 維持・長 |
【サイゴウツグミチ】
幕末、明治時代の軍人。薩摩藩士。西郷隆盛の実弟。大山巌の従弟。本名は「隆興」。
はじめ島津斉彬に茶坊主として出仕するが、彼に惹かれて還俗し、精忠組に加担して
島津斉彬に忠誠を誓い尊皇攘夷運動に身を投じた。その後、薩英戦争や戊辰戦争に若年ながら従軍。
新政府では山縣有朋らとともに軍制改革に着手し、台湾出兵にも貢献。実兄の隆盛が下野すると
薩摩閥重鎮となり、陸軍卿、農商務卿など要職を歴任。のちに海軍大臣となり山本権兵衛を重用して
海軍を陸軍に並び立つ巨大組織へと成長させた。1892年元老就任、のち1902年死没。
幕末、明治時代の軍人。薩摩藩士。西郷隆盛の実弟。大山巌の従弟。本名は「隆興」。
はじめ島津斉彬に茶坊主として出仕するが、彼に惹かれて還俗し、精忠組に加担して
島津斉彬に忠誠を誓い尊皇攘夷運動に身を投じた。その後、薩英戦争や戊辰戦争に若年ながら従軍。
新政府では山縣有朋らとともに軍制改革に着手し、台湾出兵にも貢献。実兄の隆盛が下野すると
薩摩閥重鎮となり、陸軍卿、農商務卿など要職を歴任。のちに海軍大臣となり山本権兵衛を重用して
海軍を陸軍に並び立つ巨大組織へと成長させた。1892年元老就任、のち1902年死没。
大山巌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 口調 | 素質 |
96 | 76 | 75 | 52 | 89 | 駆逐・勇将・威風 | A | A | S | C | S | C | 1842 | 1916 | 西郷隆盛・西郷従道 | 剛胆 | 晩成・短 |
【オオヤマイワオ】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。通称は大山弥助。
薩英戦争で西欧列強の軍事力に衝撃を受け、江川塾で砲術を極める。
戊辰戦争では野戦指揮官として各地を転戦。彼が改良した「弥助砲」は会津戦争などで猛威を振るった。
日露戦争では満州軍総司令官に就任。満州平野で総兵力50万に匹敵する精強なロシア軍と
国家の命運を賭けた一進一退の攻防を繰り広げ、薄氷の勝利をもぎ取る。
海の東郷に対し、陸の大山と評される英雄。君が代を国歌に推挙した人物としても知られる。
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。通称は大山弥助。
薩英戦争で西欧列強の軍事力に衝撃を受け、江川塾で砲術を極める。
戊辰戦争では野戦指揮官として各地を転戦。彼が改良した「弥助砲」は会津戦争などで猛威を振るった。
日露戦争では満州軍総司令官に就任。満州平野で総兵力50万に匹敵する精強なロシア軍と
国家の命運を賭けた一進一退の攻防を繰り広げ、薄氷の勝利をもぎ取る。
海の東郷に対し、陸の大山と評される英雄。君が代を国歌に推挙した人物としても知られる。
秋山好古
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
79 | 86 | 70 | 65 | 81 | 騎神・急襲・白馬 | B | C | A | S | B | C | 1859 | 1930 | 維持・長 |
【アキヤマヨシフル】
幕末、明治、大正時代の軍人。松山藩士。
藩校明教館、ついで明治時代大阪師範学校を卒業。のちに陸軍士官学校を
卒業し、軍人としての道を歩む。殊に騎兵指揮に長けており、1887年には
フランスへ留学して先進的な騎兵戦術を学んだ。日清戦争、日露戦争に従軍し
特に日露戦争では、数多くの合戦で騎兵戦術を駆使し、ロシアのコサック相手に
善戦し軍功を上げた。晩年は元帥昇進の声もあったが拒否し、
郷里である松山で教鞭をとった。日本騎兵の父と言われる。
幕末、明治、大正時代の軍人。松山藩士。
藩校明教館、ついで明治時代大阪師範学校を卒業。のちに陸軍士官学校を
卒業し、軍人としての道を歩む。殊に騎兵指揮に長けており、1887年には
フランスへ留学して先進的な騎兵戦術を学んだ。日清戦争、日露戦争に従軍し
特に日露戦争では、数多くの合戦で騎兵戦術を駆使し、ロシアのコサック相手に
善戦し軍功を上げた。晩年は元帥昇進の声もあったが拒否し、
郷里である松山で教鞭をとった。日本騎兵の父と言われる。
伊東祐亨
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
93 | 58 | 77 | 58 | 79 | 推進・水神・強襲 | C | B | C | B | S | S | 1843 | 1914 | 晩成・短 |
【イトウスケユキ】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
勝海舟の神戸海軍操練所で塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
日清戦争直前には海軍大将に昇進、連合艦隊司令長官に就任した。
豊富な資金力で世界最強の軍艦を保有した清国の北洋艦隊に対し、日本は軍艦と呼べる軍艦を持たなかったが、
巧みな艦隊運動と新兵器の水雷艇で北洋艦隊を無力化。清国提督・丁汝昌を戦死させ、北洋艦隊を完全に駆逐した。
戦力的に日本の勝利は絶対にあり得ないと考えていた西欧列強はこの結果に驚愕したと伝わる。
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
勝海舟の神戸海軍操練所で塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
日清戦争直前には海軍大将に昇進、連合艦隊司令長官に就任した。
豊富な資金力で世界最強の軍艦を保有した清国の北洋艦隊に対し、日本は軍艦と呼べる軍艦を持たなかったが、
巧みな艦隊運動と新兵器の水雷艇で北洋艦隊を無力化。清国提督・丁汝昌を戦死させ、北洋艦隊を完全に駆逐した。
戦力的に日本の勝利は絶対にあり得ないと考えていた西欧列強はこの結果に驚愕したと伝わる。
立見尚文
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
94 | 87 | 72 | 58 | 79 | 勇将・不屈・連戦 | S | B | A | C | A | C | 1845 | 1907 | 剛胆 |
【タツミナオフミ】
幕末~明治の軍人。
戊辰戦争で桑名藩の雷神隊を率いて各地を転戦。卓越した野戦指揮で新政府軍をたびたび撃破した。
朝日山の戦いでは山県有朋率いる大軍を敗走させ、奇兵隊出身の参謀・時山直八を戦死させる大功を得る。
西南戦争で明治政府の要請により陸軍少佐に就任。以後、功績をあげて陸軍大将まで上り詰めた。
日露戦争では第8軍の司令官に就任。ロシア軍9万2千の奇襲により日本軍が壊滅の危機に陥った黒溝台会戦において、
兵2万を率いて左翼の秋山好古隊8千を救援。多大な犠牲を被りながらも撃退に成功した。
剣術や槍術の印可を受ける武芸の達人であり、その生涯は「常勝」の異名で飾られる。
幕末~明治の軍人。
戊辰戦争で桑名藩の雷神隊を率いて各地を転戦。卓越した野戦指揮で新政府軍をたびたび撃破した。
朝日山の戦いでは山県有朋率いる大軍を敗走させ、奇兵隊出身の参謀・時山直八を戦死させる大功を得る。
西南戦争で明治政府の要請により陸軍少佐に就任。以後、功績をあげて陸軍大将まで上り詰めた。
日露戦争では第8軍の司令官に就任。ロシア軍9万2千の奇襲により日本軍が壊滅の危機に陥った黒溝台会戦において、
兵2万を率いて左翼の秋山好古隊8千を救援。多大な犠牲を被りながらも撃退に成功した。
剣術や槍術の印可を受ける武芸の達人であり、その生涯は「常勝」の異名で飾られる。
黒木為楨
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 |
88 | 88 | 57 | 31 | 70 | 強行・猛者・攻城 | S | S | C | B | A | C | 1844 | 1923 | 晩成・短 |
【クロキタメモト】
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
戊辰戦争で旧式の小銃隊を率いて多大な活躍を収める。西南戦争、日清戦争にも参戦し、
日露戦争直前には陸軍大将に昇進した。日露戦争が勃発すると第一軍司令官を拝命。
初戦の鴨緑江会戦でロシア軍をわずか1日で撃破して白人社会を驚愕させる。
その後は本営からの命令を待たずに独自で作戦を展開、敵の準備不足をついた
電撃作戦で次々に要所を占拠した。戦線が予想外に拡大したため本営からの補給が滞ったが、
為楨は夜襲と白兵戦を用いてなおも進撃をやめず、その尋常ではない連戦連勝にロシア軍は彼を
『クロキンスキー』と称して恐れた慄いたという。彼の猪突猛進に本営は頭を悩ましたが、
初戦のこの勝利がなければ外貨調達の目途が立たず、日本の勝利はあり得なかったと言われる。
剛直で荒々しい軍人であり明治天皇を相撲で投げ飛ばした逸話を持つ。晩年は元帥まで昇りつめた。
幕末~明治の軍人。薩摩藩士。
戊辰戦争で旧式の小銃隊を率いて多大な活躍を収める。西南戦争、日清戦争にも参戦し、
日露戦争直前には陸軍大将に昇進した。日露戦争が勃発すると第一軍司令官を拝命。
初戦の鴨緑江会戦でロシア軍をわずか1日で撃破して白人社会を驚愕させる。
その後は本営からの命令を待たずに独自で作戦を展開、敵の準備不足をついた
電撃作戦で次々に要所を占拠した。戦線が予想外に拡大したため本営からの補給が滞ったが、
為楨は夜襲と白兵戦を用いてなおも進撃をやめず、その尋常ではない連戦連勝にロシア軍は彼を
『クロキンスキー』と称して恐れた慄いたという。彼の猪突猛進に本営は頭を悩ましたが、
初戦のこの勝利がなければ外貨調達の目途が立たず、日本の勝利はあり得なかったと言われる。
剛直で荒々しい軍人であり明治天皇を相撲で投げ飛ばした逸話を持つ。晩年は元帥まで昇りつめた。
奥保鞏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
90 | 64 | 92 | 51 | 83 | 不屈・連戦・沈着 | A | B | A | C | S | C | 1847 | 1930 | 冷静 | 威厳 |
【オクヤスタカ】
幕末~明治の軍人。小倉藩士。
陸軍に入隊し佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧などに参加する。西南戦争では頬を銃弾で射抜かれるが怯まず勇戦した。
日清戦争を前にして野津道貫の後任として第5師団長に就任する。その後日清戦争の功により華族に叙せられた。
日露戦争では第2軍司令官として南山の陣地を攻略したり得利寺の戦いで兵力で勝るロシア軍を撃破したりと殊勲を挙げ、「南山の奥」と賞された。
1911年に薩長閥以外で初の元帥となる。1930年病没。
参謀の補佐無しでも作戦の立案ができるほどに軍事に長け、戦功を誇らない謙虚な面も持ち合わせた人物であった。
幕末~明治の軍人。小倉藩士。
陸軍に入隊し佐賀の乱、神風連の乱の鎮圧などに参加する。西南戦争では頬を銃弾で射抜かれるが怯まず勇戦した。
日清戦争を前にして野津道貫の後任として第5師団長に就任する。その後日清戦争の功により華族に叙せられた。
日露戦争では第2軍司令官として南山の陣地を攻略したり得利寺の戦いで兵力で勝るロシア軍を撃破したりと殊勲を挙げ、「南山の奥」と賞された。
1911年に薩長閥以外で初の元帥となる。1930年病没。
参謀の補佐無しでも作戦の立案ができるほどに軍事に長け、戦功を誇らない謙虚な面も持ち合わせた人物であった。
東郷平八郎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
94 | 78 | 86 | 54 | 91 | 推進・水神・操舵 | B | B | A | B | S | S | 1848 | 1934 | 剛胆 | 晩成・短 | 5/5 | 2/5 |
【トウゴウヘイハチロウ】
日本の武士・薩摩藩士、明治・大正期の大日本帝国海軍軍人。
明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。
日露戦争でロシア海軍を破った事で世界の注目を集め、「東洋のネルソン」として賞賛された。
世界三大提督の一人として、現在でも世界の海軍将校からその名を知られている。肉じゃがの生みの親でもある。
日本の武士・薩摩藩士、明治・大正期の大日本帝国海軍軍人。
明治期の日本海軍の司令官として、日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。
日露戦争でロシア海軍を破った事で世界の注目を集め、「東洋のネルソン」として賞賛された。
世界三大提督の一人として、現在でも世界の海軍将校からその名を知られている。肉じゃがの生みの親でもある。
乃木希典
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
92 | 62 | 89 | 58 | 93 | 遁走・威風・不屈 | S | C | A | C | S | C | 1849 | 1912 | 冷静 | 開眼(武力) 維持・長(その他) | 5/5 | 1/5 |
【ノギマレスケ】
幕末~明治の軍人。長州藩士。後世に軍神、聖将の異名を残す。
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いた歴戦の将帥で、日露戦争では第3軍を率いる司令官に就任。
難攻不落の旅順要塞攻略を本営から命じられ、6万人という甚大な戦傷者を出しながらもこれを成し遂げた。
奉天会戦においては包囲作戦の左翼を命じられ、その武名を恐れたロシア軍司令官クロパトキンから
10万の兵力を差し向けられるも、3万8千の兵力でこれを押しかえしクロパトキンに撤退を決意させた。
武士道の体現者たるその強烈な精神性は多くの人々を惹きつけ、兵たちは彼の為に喜んで命を投げ捨てたという。
幕末~明治の軍人。長州藩士。後世に軍神、聖将の異名を残す。
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争を戦い抜いた歴戦の将帥で、日露戦争では第3軍を率いる司令官に就任。
難攻不落の旅順要塞攻略を本営から命じられ、6万人という甚大な戦傷者を出しながらもこれを成し遂げた。
奉天会戦においては包囲作戦の左翼を命じられ、その武名を恐れたロシア軍司令官クロパトキンから
10万の兵力を差し向けられるも、3万8千の兵力でこれを押しかえしクロパトキンに撤退を決意させた。
武士道の体現者たるその強烈な精神性は多くの人々を惹きつけ、兵たちは彼の為に喜んで命を投げ捨てたという。
後世に名将か愚将かの殊更議論に絶えない軍人ながら、第一次世界大戦の欧州各国で行われた近代要塞攻防戦の数々と
比較するならば乃木の攻略は迅速かつ最低限の犠牲に収まる事も忘れてはならない。
比較するならば乃木の攻略は迅速かつ最低限の犠牲に収まる事も忘れてはならない。
※その他候補となった特技:攻城・強行・駆逐
梅沢道治
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
83 | 67 | 74 | 68 | 80 | 規律・不屈・連戦 | S | B | B | B | B | C | 1853 | 1924 | 冷静 | 晩成・短 | 4/5 | 1/5 |
【ウメザワミチハル】
幕末~明治の軍人。仙台藩士。
戊辰戦争で幕府軍の額兵隊として参戦、敗北後は流罪となる。
釈放された後陸軍に入隊、西南戦争や日清戦争を経験し大佐まで昇進する。
日露戦争の沙河会戦において3倍以上のロシア軍を後備部隊を率いて撃退し、更なる大部隊による猛攻を受けるも持ちこたえ勝利の糸口を作った。
常に兵の士気に気を配り、部隊の歌を作ったりと部下を大切にしたため絶対の信頼を得ていた。
幕末~明治の軍人。仙台藩士。
戊辰戦争で幕府軍の額兵隊として参戦、敗北後は流罪となる。
釈放された後陸軍に入隊、西南戦争や日清戦争を経験し大佐まで昇進する。
日露戦争の沙河会戦において3倍以上のロシア軍を後備部隊を率いて撃退し、更なる大部隊による猛攻を受けるも持ちこたえ勝利の糸口を作った。
常に兵の士気に気を配り、部隊の歌を作ったりと部下を大切にしたため絶対の信頼を得ていた。
幸徳秋水
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
17 | 12 | 81 | 67 | 62 | 論客・機略・言毒 | C | C | C | C | C | C | 1871 | 1911 |
【コウトクシュウスイ】
明治時代の思想家。
高知県にうまれ、幼少期から四書五経を学ぶ。
その後、紆余曲折を経て萬朝報の記者として活動。
政治家の醜聞や自由民権運動、帝国主義を否定した反戦論を謳った。
その後、田中正造の依頼で足尾銅山鉱毒事件における直訴状の草案を記す。
のちに自ら同志たちとともに「平民社」を立ち上げ、平民新聞を手掛けるが
新聞紙条例適用など政府の弾圧を受け、大逆事件の首謀者として刑死した。
明治時代の思想家。
高知県にうまれ、幼少期から四書五経を学ぶ。
その後、紆余曲折を経て萬朝報の記者として活動。
政治家の醜聞や自由民権運動、帝国主義を否定した反戦論を謳った。
その後、田中正造の依頼で足尾銅山鉱毒事件における直訴状の草案を記す。
のちに自ら同志たちとともに「平民社」を立ち上げ、平民新聞を手掛けるが
新聞紙条例適用など政府の弾圧を受け、大逆事件の首謀者として刑死した。
管野スガ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
2 | 4 | 66 | 47 | 58 | 傾国・反計・遁走 | C | C | C | C | C | C | 1881 | 1911 |
【カンノスガ】
明治時代の思想家。
大阪に生まれ、勝ち気な性格で知られた。19歳の時に結婚するが、
夫とソリがあわず離婚。その後大阪新報で記者となり、キリスト教に
改宗した。女性運動や社会主義運動に積極的に活動し、幸徳秋水や
堺利彦に共鳴して同志となる。その後荒畑寒村と結婚するが、赤旗事件で
夫が入獄すると三行半をつきつけて、幸徳秋水と愛人関係になった。
しかし、湯河原の湯治中に大逆事件に巻き込まれ、病身の身ながら刑死。
明治時代の思想家。
大阪に生まれ、勝ち気な性格で知られた。19歳の時に結婚するが、
夫とソリがあわず離婚。その後大阪新報で記者となり、キリスト教に
改宗した。女性運動や社会主義運動に積極的に活動し、幸徳秋水や
堺利彦に共鳴して同志となる。その後荒畑寒村と結婚するが、赤旗事件で
夫が入獄すると三行半をつきつけて、幸徳秋水と愛人関係になった。
しかし、湯河原の湯治中に大逆事件に巻き込まれ、病身の身ながら刑死。
新島八重
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
46 | 64 | 58 | 55 | 71 | 射手・解毒・反計 | C | C | A | C | B | C | 1845 | 1932 |
【ニイジマヤヱ】
幕末、明治、大正、昭和時代の女性。「新島八重子」とも。旧姓山本
会津藩の砲術師範であった山本権八の娘。1865年に川崎尚之助と
婚姻するが、戊辰戦争で敗北後に生き別れた。その後米沢や京で過ごし、
京で知り合った新島襄と再婚。彼の理想とする「同志社英学校」の
設立に尽力する。夫との死別後は日本赤十字社に入社し、日清戦争に
おける軍人への治療などに貢献し、勲六等宝冠章を授与された。1932年死没。
剛毅な性格で、会津戦争の際には自ら銃を持って籠城隊に志願し、奮戦したといわれる。
幕末、明治、大正、昭和時代の女性。「新島八重子」とも。旧姓山本
会津藩の砲術師範であった山本権八の娘。1865年に川崎尚之助と
婚姻するが、戊辰戦争で敗北後に生き別れた。その後米沢や京で過ごし、
京で知り合った新島襄と再婚。彼の理想とする「同志社英学校」の
設立に尽力する。夫との死別後は日本赤十字社に入社し、日清戦争に
おける軍人への治療などに貢献し、勲六等宝冠章を授与された。1932年死没。
剛毅な性格で、会津戦争の際には自ら銃を持って籠城隊に志願し、奮戦したといわれる。
※一説には会津戦争における鶴ヶ城攻防戦で大山巌を狙撃した首謀者と言われている
渋沢栄一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 53 | 87 | 99 | 81 | 洞察・仁政・風水 | C | C | C | C | C | C | 1840 | 1931 |
【シブサワエイイチ】
幕末、明治、大正、昭和時代の人物。
もとは武蔵の農民であったが、剣術を学んで縁あって徳川慶喜に仕える。
その後、徳川昭武とともにパリの万国博覧会を視察して感銘を受け、
明治新政府では大蔵省へと入省した。度量衡や国立銀行条例を定め、
退官後は第一国立銀行をはじめ、京阪電気鉄道、東京証券取引所など
大小500以上の企業設立に貢献。日本資本主義の父と呼ばれた
幕末、明治、大正、昭和時代の人物。
もとは武蔵の農民であったが、剣術を学んで縁あって徳川慶喜に仕える。
その後、徳川昭武とともにパリの万国博覧会を視察して感銘を受け、
明治新政府では大蔵省へと入省した。度量衡や国立銀行条例を定め、
退官後は第一国立銀行をはじめ、京阪電気鉄道、東京証券取引所など
大小500以上の企業設立に貢献。日本資本主義の父と呼ばれた
※コーエーのブランド名、「シブサワ・コウ」の「シブサワ」は彼にちなむ
【大正時代】
高橋是清
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
69 | 28 | 85 | 94 | 88 | 能吏・不屈・沈着 | C | C | C | C | C | C | 1854 | 1936 |
【タカハシコレキヨ】
大正~昭和の政治家・大蔵大臣。その容姿から「ダルマ蔵相」と呼ばれ親しまれた。
アメリカ留学で語学力を磨いた後、政界入りする。
ペルーの炭鉱開発には失敗したものの、大蔵大臣就任後には財政政策で手腕を発揮した。
大蔵大臣として山本、原内閣を支えた後、清浦内閣では護憲三派を結成して第二次護憲運動を主導、清浦内閣を退陣させた。
犬養内閣ではリフレーション政策を行うことで世界恐慌を鎮静させたが、
軍事費予算の削減に反発した青年将校により暗殺された。
大正~昭和の政治家・大蔵大臣。その容姿から「ダルマ蔵相」と呼ばれ親しまれた。
アメリカ留学で語学力を磨いた後、政界入りする。
ペルーの炭鉱開発には失敗したものの、大蔵大臣就任後には財政政策で手腕を発揮した。
大蔵大臣として山本、原内閣を支えた後、清浦内閣では護憲三派を結成して第二次護憲運動を主導、清浦内閣を退陣させた。
犬養内閣ではリフレーション政策を行うことで世界恐慌を鎮静させたが、
軍事費予算の削減に反発した青年将校により暗殺された。
加藤高明
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
17 | 9 | 86 | 88 | 81 | 富豪・論客・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1860 | 1926 | 冷静 | 維持・短 |
【カトウタカアキ】
明治~大正時代の政治家。尾張藩出身。
東京大学法学部を経て政界に進出し、大隈重信、伊藤博文を支えた。
第一次世界大戦時には、中華民国に対し21ヶ条の要求を突きつけ、戦後の日本権益を大きく拡大したが、
これに対しては元老から反対意見が出されている。その後憲政会を経て内閣総理大臣に就任。
日ソ基本条約、普通選挙法、治安維持法と飴と鞭を使い分け、憲政の常道と呼ばれる政党政治を確立した。
明治~大正時代の政治家。尾張藩出身。
東京大学法学部を経て政界に進出し、大隈重信、伊藤博文を支えた。
第一次世界大戦時には、中華民国に対し21ヶ条の要求を突きつけ、戦後の日本権益を大きく拡大したが、
これに対しては元老から反対意見が出されている。その後憲政会を経て内閣総理大臣に就任。
日ソ基本条約、普通選挙法、治安維持法と飴と鞭を使い分け、憲政の常道と呼ばれる政党政治を確立した。
津田梅子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
2 | 1 | 90 | 62 | 93 | 反計・論客・指導 | C | C | C | C | C | C | 1864 | 1929 | 冷静 | 維持・長 |
【ツダウメコ】
明治~大正時代の女性。士族階級の出身。
6歳にして岩倉使節団に随行する女子留学生に選ばれ、アメリカで留学生活を送る。
長い留学生活で帰国後、日本語に不自由するほどであったと言われ、この間伊藤博文のツテで
下田歌子から日本語を学んだ。のち華族女学校の英語教師となる。
1889年には再度の渡米を行い、帰国後1900年に女子英学塾を設立。一般女子教育の先駆者と言われる。
明治~大正時代の女性。士族階級の出身。
6歳にして岩倉使節団に随行する女子留学生に選ばれ、アメリカで留学生活を送る。
長い留学生活で帰国後、日本語に不自由するほどであったと言われ、この間伊藤博文のツテで
下田歌子から日本語を学んだ。のち華族女学校の英語教師となる。
1889年には再度の渡米を行い、帰国後1900年に女子英学塾を設立。一般女子教育の先駆者と言われる。
犬養毅
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
9 | 6 | 81 | 92 | 88 | 論客・威圧・詩想 | C | C | C | C | C | C | 1855 | 1932 | 剛胆 | 維持・長 |
【イヌカイツヨシ】
明治・大正・昭和時代の政治家。
慶應義塾大学卒業後、新聞記者を経て1890年政界に進出。
進歩党・憲政本党の結成に貢献し、第一次護憲運動を起こして「憲政の神様」と称された。
文部大臣、逓信大臣等を務めた後、西園寺公望の推挙で内閣総理大臣に就任。
満州国問題の解決を図っている最中、5.15事件で軍部の青年将校に銃撃され、その傷がもとで死去。
この事件は統帥権干犯問題とあわせて、軍部の台頭を象徴する出来事として記録されている。
明治・大正・昭和時代の政治家。
慶應義塾大学卒業後、新聞記者を経て1890年政界に進出。
進歩党・憲政本党の結成に貢献し、第一次護憲運動を起こして「憲政の神様」と称された。
文部大臣、逓信大臣等を務めた後、西園寺公望の推挙で内閣総理大臣に就任。
満州国問題の解決を図っている最中、5.15事件で軍部の青年将校に銃撃され、その傷がもとで死去。
この事件は統帥権干犯問題とあわせて、軍部の台頭を象徴する出来事として記録されている。
徳川家達
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 | 素質 |
32 | 21 | 75 | 67 | 84 | 論客・沈着・能吏 | C | C | C | C | C | C | 1863 | 1940 | 冷静 | 維持・長 |
【トクガワイエサト】
明治・大正・昭和時代の政治家。田安徳川家の出身で、父は徳川慶頼。
徳川家茂から将軍後継者に指名されていたが、若干4歳であったために
徳川慶喜にその座を奪われる。明治新政府後は徳川宗家を継ぎ、
駿府藩主となるが、廃藩置県で東京に戻った。イギリス留学後に政界へ
入り、貴族院議長を31年にわたって務める。1922年にはワシントン会議の全権大使を
つとめ、これに調印。のち日本赤十字社の社長を兼任、オリンピック東京大会組織委員長に
就任するなど、文化的事業にも貢献した。
明治・大正・昭和時代の政治家。田安徳川家の出身で、父は徳川慶頼。
徳川家茂から将軍後継者に指名されていたが、若干4歳であったために
徳川慶喜にその座を奪われる。明治新政府後は徳川宗家を継ぎ、
駿府藩主となるが、廃藩置県で東京に戻った。イギリス留学後に政界へ
入り、貴族院議長を31年にわたって務める。1922年にはワシントン会議の全権大使を
つとめ、これに調印。のち日本赤十字社の社長を兼任、オリンピック東京大会組織委員長に
就任するなど、文化的事業にも貢献した。
※山本権兵衛の辞任後に、後継首相に推す声もあったが、徳川の血が新政府で政治を取ることに疑念を抱き辞退した。
原六郎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
75 | 53 | 78 | 90 | 72 | 富豪・指導・能吏 | B | C | B | C | C | C | 1842 | 1933 | 冷静 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【ハラロクロウ】
幕末~大正期の志士、軍人、実業家、銀行家。但馬の大地主の出身。
元は進藤俊三郎という名で、尊王攘夷活動に没頭する。生野の変に参加し、戊辰戦争でも活躍した。
戦後は鳥取藩士に取り立てられ藩の洋式化に従う。その後経済に関心を持ち、アメリカやイギリスで経済学や金融学を学ぶ。
帰国後は横浜正金銀行の頭取となり、経営を再建させ横浜正金銀行中興の祖と呼ばれた。
実業家としても数多の企業の設立、事業に貢献した。1933年病没。
幕末~大正期の志士、軍人、実業家、銀行家。但馬の大地主の出身。
元は進藤俊三郎という名で、尊王攘夷活動に没頭する。生野の変に参加し、戊辰戦争でも活躍した。
戦後は鳥取藩士に取り立てられ藩の洋式化に従う。その後経済に関心を持ち、アメリカやイギリスで経済学や金融学を学ぶ。
帰国後は横浜正金銀行の頭取となり、経営を再建させ横浜正金銀行中興の祖と呼ばれた。
実業家としても数多の企業の設立、事業に貢献した。1933年病没。
田熊常吉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
25 | 34 | 92 | 78 | 77 | 妙計・発明・不屈 | C | C | C | C | C | C | 1872 | 1953 | 冷静 | 維持・長 | 5/5 | 1/5 |
【タクマツネキチ】
大正・昭和時代の発明家、実業家。「汽鑵王」と称される。
15歳で医者の書生を務め、様々な職業を経験する。1909年に製材機の発明家、岡本弥三郎と出会いボイラーの発明を志す。
素人同然だった彼は独学でボイラーの基礎を学び、苦心を重ねた末に1912年に自作のボイラーを完成させる。
素人とは思えぬ構想によってこのボイラーは翌年にタクマ式ボイラーとして特許を承認され、その翌年には大阪の発明博覧会で最高金賞を受賞した。
改良を続けたこのボイラーは万国工業会議でも史上最高の評価を得、名実共に世界一のボイラーとなる。
昭和に入ると田熊汽罐製造会社(現タクマ)を設立し、小型化された「つねきちボイラー」の販売を進めた。
1930年には日本の十大発明家の一人として顕彰を受けている。
大正・昭和時代の発明家、実業家。「汽鑵王」と称される。
15歳で医者の書生を務め、様々な職業を経験する。1909年に製材機の発明家、岡本弥三郎と出会いボイラーの発明を志す。
素人同然だった彼は独学でボイラーの基礎を学び、苦心を重ねた末に1912年に自作のボイラーを完成させる。
素人とは思えぬ構想によってこのボイラーは翌年にタクマ式ボイラーとして特許を承認され、その翌年には大阪の発明博覧会で最高金賞を受賞した。
改良を続けたこのボイラーは万国工業会議でも史上最高の評価を得、名実共に世界一のボイラーとなる。
昭和に入ると田熊汽罐製造会社(現タクマ)を設立し、小型化された「つねきちボイラー」の販売を進めた。
1930年には日本の十大発明家の一人として顕彰を受けている。
細川永一
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 | 義理 | 野望 |
26 | 20 | 93 | 75 | 72 | 発明・機略・妙計 | C | C | C | C | C | C | 1889 | 1964 | 冷静 | 維持・長 | 4/5 | 1/5 |
【ホソカワエイイチ】
大正・昭和時代の技術者、実業家。兵庫県に生まれる。
大学卒業後、技術者として島津製作所に就職し、電池用鉛粉の開発に従事する。
1916年に島津製作所を退職し、細川鉄工所(後のホソカワミクロン)を設立する。
1930年に微粉砕機ミクロンミルを開発。ミクロンミルは世界で初めてミクロン単位の粉を作ることを可能とし、日本国内の粉の品質や製造能力の向上を促した。
永一の開発したこの機械は改良を重ね、1951年にスーパーミクロンミルとして一つの完成形を迎える。
彼の開発した技術を下地としてホソカワミクロンは一気に成長し、世界をリードする日本の粉体技術の土台を形成した。
1957年に紫綬褒章を受賞し、死後は彼の功績を賞して勲四等瑞宝章が贈られた。
大正・昭和時代の技術者、実業家。兵庫県に生まれる。
大学卒業後、技術者として島津製作所に就職し、電池用鉛粉の開発に従事する。
1916年に島津製作所を退職し、細川鉄工所(後のホソカワミクロン)を設立する。
1930年に微粉砕機ミクロンミルを開発。ミクロンミルは世界で初めてミクロン単位の粉を作ることを可能とし、日本国内の粉の品質や製造能力の向上を促した。
永一の開発したこの機械は改良を重ね、1951年にスーパーミクロンミルとして一つの完成形を迎える。
彼の開発した技術を下地としてホソカワミクロンは一気に成長し、世界をリードする日本の粉体技術の土台を形成した。
1957年に紫綬褒章を受賞し、死後は彼の功績を賞して勲四等瑞宝章が贈られた。
【昭和時代】
戦前・戦中は
こちら
を参照
戦後は
こちら
を参照
- では失礼いたしまして -- (名無しさん) 2016-03-09 01:45:47
- http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html
一部の武将を移転させました
能力値などはそのままとなっております -- (名無しさん) 2016-07-18 12:35:56 - 吉田松陰は指導じゃないっすかね? -- (名無しさん) 2016-11-01 01:33:32
- 候補特技として反映させておきました -- (名無しさん) 2016-11-01 02:23:34
- 2016-11-01 01:33:32です どうもです -- (名無しさん) 2016-11-01 07:25:08
- 空白化及び削除は禁止です 編集過程はメモ帳などでお願いします {2017-05-20 23:55:45}
- 記事の空白化は他人が決してやってはいけません
何をどう編集するのかきっちり明記しない以上、荒らし行為であると判断されます。
みんなの新武将の空白化については朝鮮・韓国>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/71.htmlで非常に問題視されており、
ハッキリ言いますとやってはいけない行為です。
なんら理由なく空白化を続ける場合、プロパイダーなどを通して管理者から警告が行くこともあります -- (名無しさん) 2017-05-23 05:12:30 - https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/71.html -- (名無しさん) 2017-05-23 05:12:54
- コメント欄まで編集とは見下げ果てたクズ荒らしだな -- (名無しさん) 2017-05-24 08:54:27
- https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/?cmd=backup&action=show&pageid=2715&num=7
https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/?cmd=backup&action=show&pageid=2715&num=6
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このコメントはログに流します -- (名無しさん) 2017-05-24 08:59:45