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プレイ日記/英雄集結/董卓/上級/魔王董卓の殺伐たる天下取り 第2部 - (2011/07/18 (月) 18:24:14) のソース
<ここまでのまとめ> 梟雄董卓に率いられた騎馬軍を用いて、何人の武将を殺せるのかをテーマにプレイ日記を書いています。 縛りは以下の通りです。 1、捕まえた武将は一発登用に応じない限り基本的には処断する 2、しかし相性が125~25の武将は3人まで捕虜にでき、1度だけ登用を実行可 3、相性が125~25の武将で登用に失敗した場合は即解放し、再び捕らえた場合は即処断 4、褒賞は半年に1度で、裏切った武将は優先的に捕獲を狙い、捕らえたら即処断 5、主将にはできる限り李儒、華雄、徐栄、李傕、郭汜、樊稠、胡軫、李粛らの初期メンバーを使う 6、鍛冶はたてない(兵器は木獣と井闌1台ずつ使用中、増やす予定はなし) 251年からここまで7年の間に殺した武将は60人で、以下の人たちが封神台ならぬ封将台に入っています。 (犠牲者リスト、すべて処断or戦死した順) -廬植、王匡、馬休、馬岱、馬騰、馬超、馬鉄、馬雲緑、楊氏、韓遂、龐徳、龐会、梁興、張横、朱儁、皇甫嵩(戦死)、成宜、楊秋、李堪、王伉(戦死)、張嶷、楊柏(戦死)、馬玩、羅憲、程銀、侯選、秦宓、呂凱、楊任、楊松、陳寿、陶謙、廖立、董承、何進、呉巨、張松、郭攸之、劉諶、劉岱、王渾、向寵、荀顗、荀勗、王業、藩濬、閻行、馮習、李氏、司馬昭、司馬伷、孔伷、樊建、傅士仁、濮陽興、毌丘甸、楊肇、馬謖、司馬師(戦死)、申儀 (指名手配) -何晏、王韜 もし、みなさんのお好きな武将、お気に入りの武将が入っていたらごめんなさい。また、これからさらに増えていくかもしれませんが、ご諒解くださってお付き合い頂ければありがたくおもいます。 (董卓軍武将名簿) -董卓、李儒、李傕、郭汜、華雄、徐栄、樊稠、胡軫、董旻、牛輔、李粛(明鏡)、董白、成公英、陸凱、楼玄、丁儀、張球、張承、胡遵、閻圃、張衛、張魯、徐質(猛者)、費耀(猛者)、楊昂(猛者)、胡車児、李通、于禁、邵悌(威圧)、張繍、賈詡、鄒氏、張済/桓範、蘇飛、国淵、馬邈、韓忠、張燕 *第2部 「中原に鹿を逐う」 第4回 前回は「この際プライドは抜きだ」と董卓忠臣七将(李、郭、華、徐、樊、胡、李粛)ら以外を部隊主将に使ってしまったので、今回はできるだけ自重していきたいと思います。 長安城にて・・・ 董卓「皆の者、ご苦労であった。ようやく我らはここ長安にて献帝を擁立し奉ることができた。わしも漢朝の臣(パラでは漢室普通)であるからには、漢の威光(わしの威光)を天下に示さねばならん」 李郭華徐樊「ははーっ」 董卓「だが、外に威光を示すにはまず内が確かでなくてはならん。胡軫、樊稠、牛輔の先日の失態はどういうことだ。司馬懿一部隊にいいようにされ、一度取った長安を失うとは何事であるか」 胡軫「はっ、畏れながら申し上げます。叛将の閻行についてはともかくも、我らは司馬懿隊を壊滅させ、司馬懿にも重傷を負わせましたがあと一歩のところで逃げられたのでございます」 樊稠「左様にござります」 牛輔「おう」 董卓「あと一歩で逃げられたら何も変わらないではないか。そんなことだからお主は統率が70(育成しました)しかないのだ」 胡軫「ははっ・・・(くっそ、我らは司馬懿には勝ち、後詰にやられただけだというに・・・)」 董卓「もうよい、それより李儒よ、今後はいかがいたすのじゃ」 李儒「は。ではまず全体を概観していきましょう。」 董卓「ふむ、申せ」 李儒「はい。まず司馬懿軍は洛陽と宛をもち、当面の敵となります。その先には曹操軍が陳留、許昌、汝南、寿春を支配しております。さらに東は呂布軍が小沛、下邳、北海、濮陽を支配しております。河北は鄴を袁紹軍が維持するのみで、あとはすべて公孫瓚の支配下です。一方で南は劉備軍が新野、江夏、襄陽、江陵、永安をもつ大勢力となっており、荊南は意外にも金旋軍が制覇いたしました。揚州は江南3都市を王朗が支配しており、他は廬江を袁術が、柴桑を孫堅が保つのみです。また益州ですが、南の2都市を孟獲軍が、江州と成都を鄧艾軍が支配しており、我が軍と同盟中の鍾会軍は梓潼のみで、鄧艾軍に押され気味のようです」 董卓「ほう、鍾会が倒れたら困るのではないか。唇やぶれて歯さむしと言うぞ」 徐栄「それでは、それがしが長駆して救援に向かいましょうか」 李儒「いえ、よいのです。鍾会は我らとも相性が近く、さらに鄧艾を嫌悪しております。また鄧艾軍も相性的に同盟できぬ相手ではありません」 李郭華樊「ど、どういうことだってばよ・・・」 李儒「つまり静観した後に鍾会軍の将を加えつつ、鄧艾軍と同盟すればよいのです。鄧艾軍も周囲の劉備や孟獲とは敵ですから、その上に我らまでは相手にしたくないでしょう」 董卓「なるほど、妙案じゃのう。ではそういたそう」 李儒「我が軍はまず洛陽を制し、力を蓄え、それをもって中原と河北を制覇しましょう」 董卓「うむ、中原や河北は騎馬が思う様に使えるしのう。まずは司馬懿軍の相手からじゃな」 李儒「ですがその前に長安の内政や軍備でございます(チラッチラッ」 李郭華徐樊「ビクッ・・・・ドドドド、ズキュゥーン!」 李儒「フフフ、ではまいりましょう。・・・あ、胡軫殿は新入りの方々に城内の案内でもしてあげてくだされ」 胡軫「わ、わかりました・・・・(くやしいっ、でも従っちゃうビクンビクン)」 というやり取りがあったと思うので、今回の我が軍は「内政」、「司馬懿軍撃破」、「中原進出」を目標にしていきます。 257年1月 我らが董卓軍は長安および上庸でしっかりと腰を据え、内政に取り掛かった。 さらに盛んに能力研究や武将育成も行って、董卓様の愛臣たちを育成していた。 賈詡が加わったとはいえ、開発に時間がかかることはいまさら言うまでもない。 また、上のようなやり取りがあったせいか、途中で上庸の胡軫らの忠誠がかなり下がっていた。流言をやられたのだろうが、1月と7月にしか褒賞はできないので彼らを信じて我慢する。 ところで、今までプレイヤーは弩兵軍団が最強だと思っていた。反撃もなく、火矢の追加ダメージ、補佐の発動などの点で優れているからである。 しかし今回の集団騎馬戦法もなかなか圧巻の攻撃力をもつことに気付いた。 騎兵という元々の攻撃力の高い兵科で突撃を繰り返して戦死や一騎打ちを狙いつつ、敵を兵器などの本隊から引き剥がすことができ、高い移動力と合わせて非常にスムーズな侵攻ができるからだ。 そして太鼓台の有用性にも改めて気づかされた。 今までは軍楽台を優先的に建てていたが、今回のプレイで騎兵と太鼓台の相性の良さにとても驚かされた。 逆に騎兵の防御力の低さにも気付いた。 これはまぁ愛用している武将たちのせいという理由もあるかもしれないが、相手の戦法を受けた時のダメージが意外と馬鹿にならない。 突撃という戦法の都合上、毎回どうしても相手と隣接することになるためでもあるだろう。 さて、こんなことを考えながら257年は内政と軍備に追われて暮れていった。 時たまの上庸への劉備軍からの小勢の相手以外は全く兵事がなかった。 この間に捕虜の桓範と蘇飛、在野の黄巾将韓忠、馬邈、そして楼玄からの推挙により「屯田」もちの国淵を登用することに成功していた。 こうして董卓軍の将は38人となった。 安定城は「威圧」をつけた邵悌に任せ、天水は張承、武威は董白ちゃんに守らせている。 漢中は閻圃と馬邈をおき、彼らが後方で輸送と治安を担当する。 上庸には徐栄、李傕、郭汜、李儒、胡軫など忠臣、いや中心メンバーがいるが今回は留守番。 華雄や張繍、賈詡といった面々が兵力11万となった長安で出撃命令を待っていた。 258年1月 出撃準備は整ったが、技巧ポイントが5000たまったので、先に技巧研究で精鋭騎兵を開発してから出撃することにした。 期間は90日であるので、4月まで出撃を待つ必要があった。 4月。いよいよ出撃である。 最初の目標、潼関は名将と名高い羊祜が7000の兵を率いて守っていた。 長安から董旻の井闌隊が出るも攻撃位置までわずかに届かないので、しっかりと護衛の騎馬隊をつける。 華雄+李粛(明鏡) 8000騎、樊稠+国淵 7000騎、張繍+徐質(猛者) 7000騎で董旻+丁儀の井闌隊7000を守らせつつ、関の前に太鼓台を建てる。 そこへ羊祜配下の驍将張燕が騎兵3500で突っ込んできた。 ここに第3次対司馬懿戦の幕が切って落とされた。 こちらの一番手は張繍である。彼の突撃と共に太鼓が鳴り響く。 徐質「敵将みつけたぞ、逃げるなかれ。勝負だ」 張燕「おう、こわっぱが。張飛燕といわれるわしの槍をうけてみろ」 両将の武力はほぼ互角なので非常に良い一騎打ちとなった。 だがしかし、互いのゲージが4分の1くらいになったとき颯爽とあの男が現れる。 張繍「徐質殿、ここはそれがしにお任せあれ」 張燕もさすがに二人目は相手にしきれず、張繍に捕獲されてしまう。かっこいいです張繍さん。 捕らえた張燕は相性が8なので捕虜にする。 はじめから潼関に7000で羊祜が籠っていたら苦戦したであろうが、今は3500に減っている。 董旻隊の攻撃によって被害を受け、羊将軍の奮闘もむなしく潼関は落ち、羊祜は歩隲に守られて洛陽へ落ちて行った。 次なる障害は孟嘗君で有名な函谷関である。 ここは董卓様と因縁深いあの男が守っていた。そう、ご存知、王允である。 どうやら何進軍滅亡時に関の守将で外におり、捕獲されずそのまま司馬懿軍に身を寄せていたようだ。 だが函谷関の守兵はたった3000で4隊の攻撃により1ターンで落ちてしまう。王允は捕らえられ斬られてしまった。 董卓軍はあっけなく武関、函谷関を抜いた。 函谷関と洛陽の間には陣が二つ防衛線のように並んで建っており、洛陽城には40000の兵がいる。 激しい戦闘が予想されるので、こちらも長安から本隊を繰り出す。 董卓+張球 12000騎、于禁 6000騎、賈詡+胡車児 6000騎、張済+楼玄 6000騎、李通 6000騎、張衛+桓範 6000騎 という大騎馬軍団が先鋒の4隊に加わって函谷関を越える。 洛陽からももちろん迎撃があり、大乱戦となった。 そう、狭い土地に密集せざるをえない我が軍に敵は火球をうってきたのだ。 これによってあたり一面は火の海となったが、こちらも負けじと突撃を敢行した。火と騎馬が揃う戦場は戦死日和である。 258年6月 敵は4000~6000の部隊がいくつも出てきていた。炎の中で両軍がぶつかる。 突撃を開始して2ターン目、最初に戦死したのは敵将の陳到であった。彼は火で負傷していたところに華雄将軍の突撃を受けて死んだ。 次に死んだのは毌丘倹で、彼は猛者の効果で負傷していたところに火が重なって死んだ。 緒戦で2将を失った司馬懿軍では、陳到隊は副将の袁遺が引き継ぎ、毌丘倹隊は顧譚が引き継ぐ。 が、やがて両隊とも壊滅して共に捕獲され、斬られた。 こちらは逆に7月前で忠誠が下がっていた丁儀を司馬懿軍に引き抜かれてしまった。丁儀のバカめ。彼もリスト入りである。 董卓軍は騎馬で押しに押しまくったが、司馬懿本隊と司馬攸隊が強かった。狭くて一斉が使えないので、突撃と騎射でちまちま削って倒した。 結構な被害を受けつつも洛陽城に取りつき、ようやく10月に陥落させた。 この時ふと気づいたことがある。洛陽は賈詡でとどめをさしたのだが、内政施設が今までで一番残ったのだ。 ここまで政治の低い武将たちで城を取っていたので違いに気付かなかったが、奪取後に残る内政施設数は武将の政治力と関係あるのだろうか。 さて、処断タイムである。落城時は10人以上いたはずだが全ては捕らえられなかったようだ。司馬懿や羊祜などを逃がしている。 捕獲したのは以下の通り。 -歩隲、臧覇、何晏、司馬攸、司馬炎、諸葛誕、蔡琰 登用に応じたのは臧覇だけで、相性から歩隲、諸葛誕、蔡琰の3人を捕虜にする。先に捕らえていた張燕は戦闘の間に既に登用していた。 そして、いよいよその時が来た。ずっと狙っていた裏切り者の何晏である。彼に対してだけは気持ちよく一番右の処断ボタンを押せた。 また司馬攸と司馬炎も斬った。 司馬懿軍は宛を残すのみとなり、董卓様はさらに官爵が進むことに期待しつつ、この年は暮れていった。 259年1月 はっきり言ってこの年には書くことがほとんどない。なぜなら洛陽の内政しかしていないからだ。 敢えて言えば1月に張魯が遺跡を見つけ、李傕の騎兵適性をSにしたことと、3月にも張魯が廟を見つけて、胡軫に「疾走」をつけられたこと、捕虜を登用したことの3つくらいである。 だがこの間に上庸で劉備軍の主力部隊との戦いがあったので一応書いておく。 攻めてきたのは、 -劉備隊弩兵11000と趙雲隊騎兵6000、関羽隊槍兵6000、関興隊戟兵6000、王平隊衝車6000 という主力でそれぞれ副将が1~2名ついていた。なんと今回は宛を通って陸路でやってきたのだ。 迎撃に出たのは李儒、李傕、郭汜、徐栄、胡軫である。最初は負けると思っていたが、火球と太鼓台と「疾走」を用いて対抗した。 それでも各部隊共に兵を半分以上失い、李傕と李儒が関羽隊に捕らえられるという事態にまでなったがなんとか撃破できた。 「疾走」+「猛者」の胡軫+楊昂のおかげだった。王平隊にいた左奕という武将を捕獲し、登用した。 また、柴桑の孫堅軍が劉備軍に滅ぼされていた。西の鍾会軍はまだなんとか存続しているようだ。 董卓軍の洛陽ではまるまる1年以上かかって内政と軍備が終わり、次の宛攻略に向けて動き出した。 260年1月 先ごろの戦で李傕と李儒は関羽からの一騎打ちの申し出を(なぜか)受け、負けて捕まったが、胡軫の活躍もあり、解放された。 その二人がほうほうの体で洛陽に戻ってきた。配下にやさしい董卓様は二人に名誉挽回の機会を与えた。 董卓「貴様ら、何をやっておるか。勝てない一騎打ちを受け、しかも一撃で負けるとは」 李傕「ははっー、面目ございません、董卓様」 董卓「李儒のおらぬ間、いろいろと困ったので軍師は賈詡に任せてしまったぞ」 李儒「ははっ・・・(ぐぬぬぬ・・・今に見ておれ)」 董卓「まあよい、二人とも官職は元の通りにいたすが、その前に命令を下す」 李儒「なんでございましょう」 董卓「賈詡よ」 賈詡「は。お二人にはただちに洛陽から武関に出て、宛を目指して出撃していただきます」 李儒「ほう、なるほど、誘引のはかりごとですな」 董卓「さよう。おぬしらが敵を誘っている間に上庸の部隊で電撃的に宛を落とすのだ」 李傕「はは。かしこまってございます」 李儒「ですが、我ら二人では・・・」 董卓「わかっておる。暇そうな奴をつけるから安心せい」 李儒「ありがとうございます・・・(また脳筋の大将か・・・)、では行ってまいります」 というわけで、武関から侵攻し、宛へ「釣り」を仕掛けることにした。 3月、李傕+李儒8000騎、樊稠+国淵7000騎、賈詡+胡車児6000騎で武関を取り、そのまま宛に侵攻する。 宛には40000がいて、大軍が迎撃に出てくる。 司馬懿隊を筆頭に、太史慈隊、張梁隊、呂虔隊、楊済隊などである。こちらの3隊は宛の北の細長い森に入り敵をおびき寄せる。 同時に、既に上庸から出撃して待機していた郭汜の木獣隊、徐栄や胡軫の騎兵が境を越え、宛城に襲い掛かった。 敵も気づき反転する。しかし誘引部隊は追撃しようにも目の前に太史慈隊と張梁隊の槍兵部隊がいて、地形も森のため突破できない。 それでも徐栄隊が楊済隊を撃破し、主将の楊済を斬った。 - 頑張れ。設定は『戦死多い』ですか? -- 名無しさん (2011-07-18 16:17:40) - ありがとうございます。はい、「多い」に設定しています。かれこれ50~60回は突撃をしていますが戦死はあまり起こりませんね。 -- 董卓の日記著者 (2011-07-18 17:25:19) - まあ、死んでいくのは遠方の無名な武将たちだもんなあ・・・ -- 名無しさん (2011-07-18 18:24:14) #comment