駆けるがごとく、空を往く。
その槍の機神から、マルクスはゆっくりと流れる海を見降ろしていた。
ゴーラの海は内海だ。けれど、こうして空駆けながら見おろす海は広い。
海原には点々と船があり、帆に風をはらんで往く。この海はゴーラの心の臓だった。ゴーラ湾こそが、
ゴーラ帝国の心臓であり、ゴーラの海は血潮だった。
血潮が命の源であるように、ゴーラの海もまた、ゴーラ帝国の力の源だった。ゴーラの力を船にしてあつめ、そしてゴーラ湾の岸へと流し込む。
その力は大きく強く、帝國、あるいはかつての
北方辺境をしても、拮抗するのがようやくであった。
ゴーラ湾の南には、未だ四つの王国が残り、海への道を阻んでいる。いや、四つのうちの一つ、オスミナはすでにゴーラの一国とは言えぬものとなっている。
いま、すでにそうだ。
オスミナはゴーラに背き、軍船を出す密約を帝國と結んでいる。
「・・・・・・」
ただその軍船がどの程度の力を持っているのか、確かめたわけではない。もちろん情報は持っていた。だが要るのは人づてのことではない。
マルクスは、そのオスミナの軍船を求めて高く、そしてゆっくりと飛ぶ。あるより早く飛ぶと、風はその質を変え、何事も叩き伏せる暴風となって広がる。その音は遠く十哩二十哩と響き渡ってしまう。しかしそうなったとしても槍の機神そのものは何の揺らぎも感じず飛び続ける。
そうなることを知ったのは、槍の機神に関わる文書を見てからだ。今のマルクスにできるのは、古代魔導帝國のその遺産を使う事だけだ。
そうして、あえてゆっくりと飛びながら、マルクスは一つの島を探していた。ゴーラ湾の東、フィンマルク湾と呼ばれる湾の、ややオスミナ側の小さな島だ。
それらしき島は、すぐに見つかったのだが、マルクスの見つけた島が、オスミナ側の思うその島なのかはわからない。ゴーラ湾の船乗りは、口伝と経験で航路を覚える。そもそもマルクスは口伝の航路を知らずまた、船乗りは空から島を探すことなど思いつきもしない。
それらしき島の周りに船がいる。いずれも帆をおろし、動いていない。
それがオスミナの船なのかどうかは、機神の双眸をこらして、見取るしかない。その帆柱にオスミナの旗が掲げられているかどうかを。
近くには、さらに二隻がある。聞いていない船だった。良くあることだが、その些細な違いが大きな間違いを呼ぶかもしれない。
「・・・・・・」
いや、二隻ではない。
二隻に見えたのは船体が二つあるからだ。だがその船体は橋のようなもので横につながれている。
双胴船というものだ。そういうものがあるのは知っていたが、見たことはなかった。
そして二つの船体を繋ぐ橋のようなものに、オスミナの旗印が横たえられ、掲げられている。
オスミナの船だと言いたいのだろう。
そして、さらに一人の姿がある。
マルクスの知っている姿だった。
「・・・・・・」
さらにその繋橋では、白く旗が振られている。意味ありげに振るその旗の言わんとすることも、マルクスには読めた。
「冗談じゃない」
マルクスは先の双胴船の上を通り過ぎ、その後に槍の機神の行き脚を殺ぐ。目指すのは初めに目指していた島だ。
島の方も、まあ控えめに言っても不毛な島だった。かつては木々もあったのだろうが、今にあるのはせいぜい茂みと言ったところだ。差し渡しでも三百呎かそこら、ほんとうにただの小島だ。
いまや足元に大きく見える裸島に向かって、マルクスは力を効かせる。効かせる、としか言いようもない。魔術の認識を強く働かせなければ、槍の機神は飛ぶこともできない。
そして効かせた力を支えにして、槍の機神は緩やかに身をひるがえす。船の姿を正面に見ながら両の脚を振りだし、降りてゆく。その脚によって直に裸島の、草を踏み、さらに片膝をつく。
息をついて、マルクスは仮面をはずし、甲蓋を開いて機神の胎内から抜け出す。さすがにフィンマルク湾は寒い。物入れから外套を引っ張りだし、さらに神具の槍を抜き出す。
機神の背を伝い降りたとき、船からも小舟がこちらに向かってきていた。
先の双胴船からだ。こちらに向かい来る小舟で、人影が動いている。動いているどころか、小舟の舳先で飛び跳ねている。そのたびに小舟も大きく揺れて、左右で漕ぐ櫂も揺れる。
「あいつかよ・・・・・・」
赤みがかった髪、いつも佩いている神具の二刀は、忘れようにも忘れられない。
「マルクスー!」
小舟はやがて島の浅瀬にのりあげ、漕ぎ手が水に降りるより早く、赤毛の姿は舳先を蹴って大きく飛ぶ。
「マルクスっ!」
しぶきを上げて浅瀬を駆けて、そのまま再び大きく飛ぶ。
「!」
両手を大きく広げて、飛んだ勢いのままに抱きついてくる。
「!」
勢いと、抱きつく力の二つで、マルクスの背を折りそうになる。
「・・・・・・シャルロッテっ!」
「ひさしぶりっ!元気だったっ!あれが新しい機神?!」
「でかい声で言うんじゃない」
体も声も圧されかかり、ようやくマルクスは言い返す。
「シャルロッテ、お前はもう近衛騎士団のものじゃない」
「・・・・・・」
抱きついたままマルクスを見上げるシャルロッテは、それまでの滑らかに動いていた口をつぐむ。
「・・・・・・怒ってる?」
「怒ってるかどうかのことじゃない」
マルクスはシャルロッテの体を押し返して言った。
「帝國の機神のことを、ゴーラ諸国に知られるわけにはゆかない」
見上げ見返していたシャルロッテは、またたきうつむく。
「・・・・・・ごめん」
それからゆっくりと、抱きついていた形から退く。肩を落とし、それでも赤毛の前髪を透かすようにマルクスを見返す。
「久しぶりで、うれしかったから、つい調子に乗っちゃった」
シャルロッテは言う。
「こないだも、あたしがいないときに城に来たでしょう」
「外には漏らせない話だったからな」
「それにあたしはもう、近衛騎士団じゃないし」
言って、シャルロッテはふたたびマルクスを上目使いに見上げる。
「みんなは、元気?それとも秘密?」
もう一歩シャルロッテは退いて、それから顔を上げて言う。
「元気ならいいんだよ。みんなのことを少し聞きたかっただけ」
それから言葉を探すように俯き、それから顔を上げて、マルクスの背後の槍の機神を見る。
「驚いた。あれが飛んでいるのを見て、本当に驚いた。あれが新しい機神だと思ったから。それに・・・・・・」
シャルロッテは背後の機神から、マルクスへまっすぐに目を移す。
「君があれから降りて来たことも」
語らぬマルクスにシャルロッテは口をつぐむ。昔のように喋り通しではない。大人になったのだろうか、ふとそんなことを思う。
今、マルクスが身に着けているのは、近衛騎士団の軍装ではないし、帝國軍の軍装でもない。参謀紐も吊るしていないから、マルクスがどう言った身分でここに来ているのか、シャルロッテには判らないだろう。
だがマルクスには、地位と任と役とがある。それを今、ここで示す要が無いだけだ。
「ねえ、ルキアニシアは元気?」
ふいにシャルロッテは顔を上げ、笑みを見せる。
「・・・・・・」
応える代わりにマルクスは左の手を上げて見せる。くるりと返して示す。そうすれば薬指にはめた、精霊銀の結婚指輪が見える。
「結婚・・・・・・指輪?」
「ルキアニスとじゃない」
マルクスは左の薬指に光る指輪を握るようにして手を降ろす。指輪は、あの鍵の指輪ではない。公爵伴侶にふさわしい、家伝のものだ。
シャルロッテの顔に浮かびかけた喜色は、海風に吹き消されるように消えてゆく。その瞳は、マルクスを睨むと言っていいほど強かった。
シャルロッテが来たならば、かならずその話になっただろう。今であるだけ好都合かもしれない。マルクスは静かに応じる。
「宗家に迎えられた。我が伴侶にして我が主は、ケイロニウス・レオニダス女公爵ノイナだ」
「・・・・・・どうして」
「宗家から求められて何を拒む。俺はレオニダス一族の分家筆頭に生まれた。宗家の求めに応じるのが、貴族としての俺の義務だ」
「・・・・・・」
シャルロッテは強く唇を噛み、そして瞳を伏せる。その口を塞ぐ言葉をマルクスは選んだ。
メルクラント一門が、今では一門の体すら失ったことは、シャルロッテにも聞こえているはずだ。シャルロッテこそがメルクラント一門の最後の力を持ち去った。
いや、メルクラント一門は、内戦ですでにその姿を失いかけていた。一門は真っ二つとなり、機神を得た一方はレイヒルフトに付き、領地を得た一方は教会に付いた。そして機神と郎党のみとなった一方にできたことは、レイヒルフトについて戦い続けることだけだった。
「・・・・・・」
その機神は、今、シャルロッテとともにある。シャルロッテが常に佩く二刀は、その機神の神具だ。かつてメルクラント一門の剣であった機神は、今はオスミナの剣となっている。帝國の鞘となったオスミナの、抜かれるべきその剣そのものと言っていい。
だが機神すら失ったメルクラント一門に残された道は、消え去ることだけだ。死に絶えるわけではない。
「・・・・・・じゃあ」
シャルロッテは伏せていた瞳を上げる。
「ルキアニシアはどうしているの」
「承知していない」
「・・・・・・」
シャルロッテの唇が強く結ばれる。海風に赤い髪がざわめくように揺れる。
「じゃあ、ルキアニシアは一人きりなの」
「知らん」
「・・・・・・ひどいよ、マルクス」
シャルロッテは顔を上げた。
「君だって、ルキアニシアのことは良く知ってるはずだよ。」
「その通りだ。お前よりもな」
「じゃあ、どうして・・・・・・」
言葉が通じないのは、わかっていた。
「オフィーリアとルキアニスと、お前はどちらを選ぶ」
シャルロッテは唇を噛む。けれどマルクスの瞳を受けても、その目は伏せなかった。
「両方だよ!あたしはどちらも捨てない!」
「ならばお前がやればいい」
「・・・・・・」
ぎり、とシャルロッテは奥歯を噛む。
「ルキアニシアは、本当に君のことが好きだったのに!」
「お前に関わりない」
シャルロッテは抗った。
「でもあたしはルキアニシアの友達なんだから」
「だから何だ」
「君を、許さない」
「それでどうする」
「・・・・・・」
シャルロッテは応えなかった。降ろしたままの手を、強く握りしめる。拳を震わせ、強くマルクスを睨みつけながら、けれどシャルロッテは動かなかった。
かつてのシャルロッテなら、それを振りかぶっただろうか。
もっとも、神具を手にした近衛騎士が、漫然と拳を受けるわけには行かない。シャルロッテはそれもまた、覚えているだろうか。近衛騎士は皇帝陛下を護持するものだ。その者が負けることは許されない。許されたとしても、ケイロニウス・レオニダス公爵家の名に泥を塗って生きて永らえることなどできようか。
「俺の名に免じて、その喧嘩、預からせてもらおうか」
シャルロッテの拳がぴくりと震える。マルクスは顔を上げる。シャルロッテの背後からの声だった。
その姿は、シャルロッテの駆けてきた跡をゆっくりと歩いてくる。
シャルロッテは動かない。マルクスを睨みつけていた瞳も、いつの間にか伏せられていた。男は構わずマルクスを見る。
「久しいな。アケローン河以来か」
口髭を蓄えた、まさに好男子というような黒髪の男だった。実は好男子というには、やや年を食っている。その面にもしっかりと己の地歩を築いた男ならではの自負があった。すでに惑う事知らずと言ったところだろうか。もちろんマルクスもその男を知っていた。
「お久しぶりです、カメロン船長」
カメロン船長は口髭をしごき、うなずき応じる。やや長い黒髪は、首の後ろで束ねてある。背も高く、またしなやかだが鍛えられた体つきをしている。
「河の時の、二人組の一人だろう」
「そんなことまで覚えておられたとは」
そう、アル・カディアに上陸したときのことだ。あの時、魔族領と人族との境を成す、アケローン河を下る船団の航行支援をしていたのがカメロン船長だった。そしてアル・カディアに上陸する前衛役を行ったのがマルクスとルキアニスで、二人の乗機を上陸地点まで運んだのが、カメロン船長の直卒する船だった。
あれが、マルクスとルキアニスが二人だけで任を行った最後だったかもしれない。
「俺は人の顔を忘れないほうだからな」
その彼は、もとは帝國人ですらなかったらしい。この大陸と獣人たちの大陸との間にある多島海の船乗りだったともいう。そして彼を知るものは難事を切り抜ける船乗りとして、彼を押す。
彼もまた、レイヒルフトという人の持つ数限りない人資の繋がりの一人だった。その彼を借り出してきたわけであるから、マルクスは帝國だけでなく、その人資を掌るレイヒルフトが納得するような結末を導かねばならない。
カメロン船長でなければならなかった。船乗りのことは船乗りにしかわからない。オスミナの快速船、さらにはそれを操る船乗りの力を見極めるには、船乗りがいる。
彼が使うに値しないと見極めたなら、また別の策を立てねばならない。
「帝國と、オスミナの両国をもってして、快速船をゴーラ湾に出す。しかも少なくとも秋一杯だろう」
カメロン船長は続ける。
「それら物糧を抱えて、ヴィーキア海軍から逃げ回っていたら、役には立つまい。ゴーラ海軍は、ヨーテルボリ海峡を先制封鎖するだけだ。それでは意味が無い」
マルクスは口をつぐむ。
もちろん、マルクスとて考えていない訳ではなかった。と、いうより、バルタス王国の中にいくつか手ごろな港を見繕っていた。そのどれかなり、いくつかなりに事前に物糧を集めておくという手も考えないではなかった。
だが、マルクスの考えていた以上に、ゴーラでのオスミナの立ち位置は無かった。あとは、港湾確保のために、どこからどのように部隊を出すかということになる。
だがそのためにたとえば一個連隊を出せるかと言われれば難しいだろう。一番、手間暇がかからないのが、ヴィルミヘ河を使って海兵部隊をフィンマルク湾めぐりで送り込むことに思えた。
オスミナ快速船の力をはかることは、余技のようなものだ。実際のところ、カメロン船長をここに求めたのは、その評価と相談のためでもあった。
「・・・・・・」
できることならば、シャルロッテのいないところで。
「そこでだ」
カメロン船長は言う。もはやおおよそのところは判っているという風に。
「まさか機神が二柱もあるとは思わなかったぞ」
「・・・・・・二柱?」
「そうだ」
カメロン船長はうなずく。
「オスミナの一柱と、そしてあの空飛ぶもう一柱だ」
少し驚き、マルクスは振り返る。
「・・・・・・」
そこには機神の中でも異形といっていい、槍の機神がかしずいて待つ。カメロン船長は背後より言う。
「二柱の機神があって、できないことはどれだけあると思う?」
マルクスは再び振り向く。
カメロン船長は人の悪い笑みを浮かべ、口髭をしごく。
シャルロッテは、マルクスを見返し、けれど、答えるものを持たぬ風に目を逸らす。二柱の機神。たしかにそれだけのものを送り込めるのなら、多くのことが変わる。それはもちろん、判っていた。
「伺いましょう、カメロン船長。シャルロッテ、お前もオスミナの岸として話を聞いてほしい」