マクラーレンMP4/4

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マクラーレンMP4/4 - (2022/11/28 (月) 23:14:23) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2012/02/27(月) 02:02:36
更新日:2024/01/06 Sat 18:54:30
所要時間:約 3 分で読めます




McLaren-MP4/4は1988年F1選手権に出場したマシンであり、16戦15勝を挙げたマシン。
アイルトン・セナが初めてドライバーズタイトルを獲得したマシンでもある。


  • ドライバー
カーナンバー11 アラン・プロスト
カーナンバー12 アイルトン・セナ

マシン誕生まで

1986年。F1のエンジンメーカーとFISAが会合を開き、このあと数年で、F1のエンジン規則に大きな変更が行われることが決定した。それは、当時主流だったターボエンジンの出力を下げる規制を1988年までに強化し続け、1989年には、ターボエンジンそのものを禁止にするというものだったった。これはタイミング的に同年5月のエリオ・デ・アンジェリスのテスト中における死亡事故が影響したと思われる。

しかし、一方でこの規則に不満を抱く者がいた。それが当時チャンピオン争いを繰り広げているウィリアムズにターボエンジンを供給していたホンダだった。

この頃ホンダはターボエンジンの技術開発で急速に力をつけてきており、前年にチャンピオンを獲得したマクラーレンとTAGポルシェのコンビを凌駕しつつあった。

FISAはホンダと無関係のチームやエンジンメーカーへの根回しを済ませた上で、会合ではホンダの意見を聞かずにこの規則変更を決定しており、あまりの一方的な決定に、当時のホンダでF1プロジェクトの責任者を務めていた桜井淑敏は当然激怒し、FISAの会長であるジャン=マリー・バレストルに反発。

それに対してバレストルは「F1ならヨーロッパのチームやエンジンメーカーだけでもできる」というニュアンスの言葉をホンダ陣営に投げかけたらしく、「F1にイエローは要らない」と桜井に暴言を吐き捨てたという話まであるくらいだった。

そのため、ターボエンジンへの規制や将来的な禁止は、FISAはヨーロッパの文化に日本が勝つ状況は(ヨーロッパ圏において)面白くないと、半ば理不尽な理由*1によるものだと報道している日本のメディアもあるほど。

桜井はターボエンジンの規制に関する不満をを本田宗一郎に直訴し、F1からホンダを撤退させることも報告しようとした。しかし、本田は桜井がターボ禁止の話を持ち出すなり「ホンダだけがターボ禁止なのか?」と質問。ホンダだけでなく、全チームへターボの使用を禁止されるとわかるなりこう口にしたという。

「違うのか、馬鹿な奴等だ。 ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」

この言葉に、桜井は直訴するのをやめてしまったという。ターボエンジンの規制が厳しくなるのはホンダだけではない。だったら自分たちも同じ条件下で技術勝負をしてやろうと、決断したのかもしれない。

しかし桜井は、このまま指を加えて、一方的にFISAのレギュレーション変更を受け入れるつもりもなかった。すでに決定された規則変更を覆す手段は流石に持ち合わせていなかったが、それを受け入れた上でもできることは残っていた。

桜井は、ターボエンジン最終年の1988年に「ある規則」を導入するよう、バーニー·エクレストン((当時F1の商業面を仕切っていたFOCAの会長)に掛け合い、それを実現させることに成功。

そして1988年。ホンダはウイリアムズへのエンジン供給から手を引き、代わりにTAGポルシェを失い、代わりのエンジンを求めていたかつてのライバル、マクラーレンへのエンジン供給を決定。その中で誕生したマシンが、MP4/4であった。

マシン解説

マクラーレンがホンダと組んだ最初のマシン。デザイナーは前年までブラバムに在籍していたゴードン・マーレイ。
彼の開発コンセプトは「徹底した低重心化」と「ロードラッグ」だった。
86年のブラバムのマシン「BT55」で彼はそのコンセプトを具現化したが、非常にピーキーな上にトラブルばかりの駄作マシンとなってしまった。
その時とは違い、マーレイはマクラーレンの当時最新鋭の設備と時間を多く使い、マシンの開発を進めた。
結果、ドライバビリティが向上しセッティングの幅も広がった等、後の結果でこのコンセプトが失敗では無い事を知らしめた。
しかしマシンの完成は大幅に遅れ、プレシーズン最終テストの最終日にようやく走らせることになったが、全体を通じて誰よりも速いタイムを出したのである。

シーズン中も絶え間無くアップデートを施し、レースでこのマシンの前を走るのは奇跡に近いとも言われた。

搭載された、ホンダのRA168Eも傑作と言われるエンジンである。
ポップオフバルブ(ターボの吸気を抑える目的の部品)の義務付けにより最大出力は抑えられながらも尚680馬力*2を誇った。

しかし、ホンダの最も優れていた点は、それだけの出力を誇りながら、限られた燃料をレースで使い切る事無く完走出来る燃費の良さである。

当時のF1は、ターボエンジンに限り1レースで使用できる燃料量が決まっており、1986年は220リットル、1987年には195リットル、そして、1988年に至ってはたった150リットルの燃料しか使用できなかった。

実は、この「1レースを走り切るために使える燃料を195リットルから150リットルまで厳しくする」という規則変更こそ、桜井がエクレストンに掛け合って実現させたものだった。

表向きはパワーダウンによる安全の確保と環境問題への配慮を提案理由としていたが、実際は少ないガソリンでより多くのパワーを引き出せるホンダのターボエンジンの長所を見越してのものであり、これで他チームやFISAとの政治的な駆け引きで一矢報いる形になったのである。

  • 88年の成績
16戦中15勝。ポールポジション15回。ファステストラップ10回。ちなみに二人合わせてである。

開幕から破竹の11連勝、前述したセナの初戴冠マシンである。しかしこの強さは後に物議を醸す程だった。


  • エピソード

ホンダはマクラーレンのジョイント前からウィリアムズやロータス等にエンジンを供給し連戦連勝と言ってもおかしくない状況を作り上げた。

そこに立ち上がったのがFISA(現FIA)である。から、ターボ付きエンジンの開発禁止を決定。

噂ではこの決定に反対したのはあのエンツォ・フェラーリ唯一人だったと言われている。
その反対の理由は「ターボエンジンを禁止しても、ホンダはそれに負けないエンジンを作り上げるに違いないから。」というものだった。

そして、ターボエンジンが禁止された1989年もアラン・プロストとマクラーレン・ホンダがドライバーとコンストラクターとそれぞれでチャンピオンを獲得。90〜91年もアイルトン•セナがマクラーレンがホンダのエンジンを武器にダブルタイトルを獲得した。

エンツォの予測は見事に的中し、本田宗一郎の言葉も現実のものとなったのだった。

…というエピソードが有名であるが、ターボ禁止は88年に唐突に決められたわけではなく、実際にはFISAは1986年の段階で89年までにターボエンジンを廃止する決定を下しており、(ターボエンジン廃止に(FISAに対して強い拒否権を持っている)エンツォが反対していたのは事実だが、同郷のイタリア人ドライバーが亡くなったことで考えを変えた可能性が高い)。

86年当時のホンダはタイトル争いをしていたとはいえポルシェエンジンの牙城を完璧に崩すまでは至らず、ホンダ無双とまではいかない状況だったため、上記の「ホンダ潰しのためのターボ禁止」はあくまで当時の雑誌等で伝えられた伝説的なものにすぎず、その実態は「1000馬力級エンジンを積むドライバビリティを無視した危険なマシンをこれ以上発展させないためのターボ禁止」ではないかと考えられる。



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