マクラーレンMP4/4

登録日:2012/02/27(月) 02:02:36
更新日:2024/01/06 Sat 18:54:30
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McLaren-MP4/4は1988年F1選手権に出場したマシンであり、16戦15勝を挙げたマシン。
アイルトン・セナが初めてドライバーズタイトルを獲得したマシンでもある。


マシン諸元

  • デザイナー
ゴードン・マーレー
スティーブ・ニコルス

  • ドライバー

  • エンジン
ホンダ・RA168E(V型6気筒DOHC 1494cc)

  • 燃料
シェル (トルエン84%+ノルマルヘプタン16%)


マシン誕生まで

1986年。F1のエンジンメーカーとFISA*1が会合を開き、このあと数年で、F1のエンジン規則に大きな変更が行われることが決定した。

それは、当時主流だったターボエンジンの出力を下げる規制を1988年までに強化し続け、1989年には、ターボエンジンそのものを禁止にするというものだったった。これはタイミング的に同年5月のエリオ・デ・アンジェリスのテスト中における死亡事故が影響したと思われる。

しかし、一方でこの規則に不満を抱く者がいた。それが当時チャンピオン争いを繰り広げているウィリアムズにターボエンジンを供給していたホンダだった。

この頃ホンダはターボエンジンの技術開発で急速に力をつけてきており、前年にチャンピオンを獲得したマクラーレンとTAGポルシェのコンビを凌駕しつつあった。

FISAはホンダと無関係のチームやエンジンメーカーへの根回しを済ませた上で、会合ではホンダの意見を聞かずにこの規則変更を決定しており、あまりの一方的な決定に、当時のホンダでF1プロジェクトの責任者を務めていた桜井淑敏は当然激怒し、FISAの会長であるジャン=マリー・バレストルに反発。

それに対してバレストルは「F1ならヨーロッパのチームやエンジンメーカーだけでもできる」というニュアンスの言葉をホンダ陣営に投げかけたらしく、「F1にイエローは要らない」と桜井に暴言を吐き捨てたという話まであるくらいだった。

そのため、ターボエンジンへの規制や将来的な禁止は、FISAはヨーロッパの文化に日本が勝つ状況は(ヨーロッパ圏において)面白くないという、半ば理不尽な理由*2によるものだと報道している日本のメディアも少なからずあったほど。

桜井はターボエンジンの規制に関する不満を本田宗一郎に直訴し、F1からホンダを撤退させることも報告しようとした。しかし、本田は桜井がターボ禁止の話を持ち出すなり「ホンダだけがターボ禁止なのか?」と質問。ホンダだけでなく、全チームへターボの使用を禁止されるとわかるなりこう口にしたという。

「違うのか、馬鹿な奴等だ。 ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」

この言葉に、桜井は直訴するのをやめてしまったという。ターボエンジンの規制が厳しくなるのはホンダだけではない。だったら自分たちも同じ条件下で技術勝負をしてやろうと、決断したのかもしれない。

しかし桜井は、このまま指をくわえて、一方的にFISAのレギュレーション変更を受け入れるつもりもなかった。すでに決定された規則変更を覆す手段は流石に持ち合わせていなかったが、それでもできることは残っていた。

桜井は、ターボエンジン最終年の1988年に「ある規則」を導入するよう、バーニー·エクレストン*3に掛け合い、それを実現させることに成功した。

そして1988年。ホンダはウイリアムズへのエンジン供給から手を引いた。代わりにTAGポルシェを失い、新しいエンジンを求めていたかつてのライバル、マクラーレンへのエンジン供給を決定。その中で誕生したマシンが、MP4/4であった。

マシン解説

マクラーレンがホンダと組んだ最初のマシン。デザイナーは前年までブラバムに在籍していたゴードン・マーレイ。
彼の開発コンセプトは「徹底した低重心化」と「ロードラッグ(空気抵抗を少なくすること)」だった。

重心が低ければ高いスピードでも安定した走行ができることから、コーナーでの限界性能が上がることはよく知られており、またマシン全体を低く作ることができれば、空気抵抗が少なくなるため、直線のスピードでもアドバンテージを得ることができる。この2つを徹底的に突き詰めたマシンを作ろうと考えていたのだ。

マーレイは、以前そのコンセプトを具現化したマシンを開発している。1986年に設計したブラバムBT55である。
このマシンは「低さ」にこだわるがゆえに、BMWのターボエンジンを斜めに72°傾けて搭載するなど、良く言えば革新的、悪く言えば無謀とも言える設計が随所に見られた。しかし、前例のない技術をものにするには、それ相応の時間をかけることが必要とされる中で、あまりにも開発期間が短すぎた。それが災いし、単純な速さでトップチームに及ばないばかりか、信頼性不足から完走できたレースも半分以下。おまけに先述したエリオ・デ・アンジェリスは当時ブラバムのドライバーであり、何を隠そう彼が命を落としたときに乗っていたマシンこそ、このBT55だった*4
これらのことから、BT55は挑戦的すぎたがゆえに様々な意味で「いわく付き」のマシンと呼ばれることが多く、成績だけ見れば失敗作だったことも否定できない代物だった。

しかし、マーレイはBT55の失敗原因は、開発にかけた時間が不足していたことと、マシンコンセプトを実現するための手法を間違えたことであり、コンセプト自体が間違っていたわけではないと考えていた。そこで、BT55経験を元に、マクラーレンの当時最新鋭の設備を用いて多くの時間をかけつつ、同じコンセプトのマシンを開発することを決意した。

まず、マーレイはホンダに可能な限りクランク軸の低いエンジンをリクエスト。幸いにも、BMWが幅は狭くできるが高さの面で不利な直列エンジンを採用していた一方で、ホンダは幅が広くなる代わりに高さを抑えることができるV型エンジンを採用していため、オーソドックスな搭載方法でもマーレイの要求に十分応えられるエンジンを設計することができた。しかし、ホンダがあまりにもエンジンを低く作りすぎてしまったため、トランスミッションやディファレンシャルの搭載位置も車軸に対してかなり低くなってしまい、今までの部品ではタイヤに動力を伝えることが困難になってしまった。
そこで、マーレイは、BT55のトランスミッションを設計したピート・ワイズマンに新たなギアボックスの設計を依頼。通常のギアボックスは、エンジンからの動力を受け取る入力軸と、ディファレンシャルに動力を送る出力軸の2軸で構成されているが、その2軸の間に更に1本の軸を追加した3軸トランスミッションを開発した。これによりトランスミッションの出力軸の高さを稼ぎ、問題を解決した。

また、初代MP4から使われていたカーボンモノコックの形状も大幅に見直された。新型のモノコックは、以前ののものと比べて明らかに細くスリムなノーズを採用。これは、この年から採用された「ペダルボックスを前輪車軸より後ろに設ける」という安全規則のおかげで、ノーズやその周辺部品をドライバーの両足を考慮した上で設計する必要がなくなったということが大きい。また、後述の燃料規制のおかげでモノコックの燃料タンクを小型化できたため、コクピットを後退させてもモノコックが大型化せずに済んだという意味でも、この設計手法は理に適っていた。
モノコックの改良に合わせて、フロントサスペンションもプッシュロッド式から低重心化の面で有利で、BT55でも採用されたプルロッド式に改められた。
また、コクピットはドライバーの肩が露出するほど低く作られ、BT55とよく似たドライビングポジションが取られた。
これによりエアロダイナミクス面の効率も大幅に改善されることとなる。

これらのように、様々な部分でBT55の反省とノウハウの両方を活かした開発が行われた。

一方で、ホンダが開発し、このマシンに搭載されたRA168Eも傑作と言われるエンジンである。
ポップオフバルブ(ターボの吸気を抑える目的の部品)の義務付けにより最大出力は抑えられながらも尚680馬力*5を誇った。

しかし、RA168Eの最も優れていた点は、それだけの出力を誇りながら、限られた燃料をレースで使い切る事無く完走出来る燃費の良さである。

当時のF1は、ターボエンジンに限り1レースで使用できる燃料量が決まっており、1986年は220リットル、1987年には195リットル、そして、1988年に至ってはたった150リットルの燃料しか使用できなかった。

実は、この「1レースを走り切るために使える燃料を195リットルから150リットルまで厳しくする」という規則変更こそ、桜井がエクレストンに掛け合って実現させたものだった。

表向きの提案理由は、パワーダウンによる安全の確保とレースで使用される燃料を減らすことによる環境問題への配慮とされていたが、実際は少ないガソリンでより多くのパワーを引き出せるホンダのターボエンジンの長所を見越してのものであり、これが後述する驚異的な成績に結びついたのは言うまでもない。

これでホンダは、他チームやFISAとの政治的な駆け引きで一矢報いる形になったのである。

しかしながら、マシンの完成時期は大幅に遅くなり、プレシーズン最終テストの最終日にようやく走らせることになった。

それでも、ここで全体を通じて誰よりも速いタイムを出し、テストの段階でマシンの熟成が既にかなり進んでいることを、ライバルチームに知らしめた。

88年の成績


開幕戦のブラジルGPでは、セナが早速予選でポールポジションを獲得し、速さを見せた。決勝では、スタート直前にセナがマシントラブルで動けなくなり、スタートそのものが仕切り直しに。
結局セナはスペアカーに乗り換えてピットスタートとなり、それを知り目に、プロストはスタートでトップに立つと、そのままレースを無難に走りきり優勝。一方のセナはレース折返しあたりで失格の裁定が下った。スタート直前にスペアカーに乗り換えた行為が違反とみなされたためだった。しかし、セナは事実上の最下位からスタートしたにもかかわらず、たった13周で3位まで順位を回復しており、その後のピットストップで30秒以上のタイムロスがあったのに、失格となった時点でも6位を走っていた。
プロストがトップに立ってから、どのライバルチームも手も足も出なかったこと。更にセナが様々なトラブルに見舞われながらも驚異的な追い上げを見せ、まともに走っていれば唯一プロストに対抗できる力を持っていただろうことから、開幕戦の時点でマクラーレンホンダとその他のチームの間ですでに大きな実力差が存在していることが明らかとなった。

そして、それを証明するかのように第11戦のベルギーGPまで、MP4/4は11連勝を記録。しかも、その間マシントラブルやアクシデントでリタイアしたのはたった3回であり、2台揃って完走した8レースはすべてワンツーフィニッシュというおまけ付きである。

第12戦のイタリアGPではプロストがマシントラブルでリタイアし、セナもトップを走りながらファイナルラップで周回遅れと接触しストップしてしまったため*6、マクラーレンの連勝記録は途絶えてしまったが、その後の4レースは全勝を記録。

最終成績は、16戦中セナが8勝、プロストが7勝で合計15勝。そのうちワンツーフィニッシュは10回。ポールポジションはセナは13回、プロストが2回で、計15回。ファステストラップセナが3回、プロストが7回で計10回。どれをとっても驚異的と言う他ない。

特に年間16戦15勝の記録は、2010年代以降に年間16勝以上を上げるチームが複数現れているにもかかわらず、マクラーレンホンダがそれらのチーム以上に強かったという評価をする者が、その根拠として取り上げることも未だに多い。
というのも、16勝をあげた近代F1チームが戦った年は、いずれもレースの開催数が19戦も存在し、現在の年間最多勝の19勝という記録は年間21戦のシーズンで記録されたもの。
つまり、1988年のマクラーレンが1レースしか敗戦がなかった一方で、年間16勝以上したチームは同じ年に2回以上の黒星を重ねていたということもまた事実だからである。

実際、21世紀に入ってから年間のレース数が激増したため、勝利数では他のチームに上回られたものの、MP4/4の快進撃は、2023年にレッドブルが22戦21勝を記録するまでは35年間にわたり、F1チームの年間最高勝率という金字塔として記録されていた。

エピソード


ホンダはマクラーレンのジョイント前からウィリアムズやロータス等にエンジンを供給し連戦連勝と言ってもおかしくない状況を作り上げた。

そこに立ち上がったのがFISA(現FIA)である。から、ターボ付きエンジンの開発禁止を決定。

噂ではこの決定に反対したのはあのエンツォ・フェラーリ唯一人だったと言われている。
その反対の理由は「ターボエンジンを禁止しても、ホンダはそれに負けないエンジンを作り上げるに違いないから。」というものだった。

そして、ターボエンジンが禁止された1989年もアラン・プロストとマクラーレン・ホンダがドライバーとコンストラクターとそれぞれでチャンピオンを獲得。90〜91年もアイルトン•セナがマクラーレンがホンダのエンジンを武器にダブルタイトルを獲得した。

エンツォの予測は見事に的中し、本田宗一郎の言葉も現実のものとなったのだった。

…というエピソードが有名であるが、ターボ禁止は88年に唐突に決められたわけではなく、実際にはFISAは1986年の段階で89年までにターボエンジンを廃止する決定を下しており、(ターボエンジン廃止に(FISAに対して強い拒否権を持っている)エンツォが反対していたのは事実だが、同郷のイタリア人ドライバーが亡くなったことで考えを変えた可能性が高い)。

86年当時のホンダはタイトル争いをしていたとはいえポルシェエンジンの牙城を完璧に崩すまでは至らず、ホンダ無双とまではいかない状況だったため、上記の「ホンダ潰しのためのターボ禁止」はあくまで当時の雑誌等で伝えられた伝説的なものにすぎず、その実態は「1000馬力級エンジンを積むドライバビリティを無視した危険なマシンをこれ以上発展させないためのターボ禁止」ではないかと考えられる。



追記・修正は鈴鹿で神を見てからお願いします。

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最終更新:2024年01月06日 18:54

*1 国際自動車スポーツ連盟。当時自動車レースの規則を決めていた団体であり、現在はFIAに吸収されている

*2 ましてや当時の日本はバブル景気だった為、多数の企業が進出していた背景

*3 当時F1の商業面を仕切っていたFOCAの会長

*4 事故の原因もBT55のリアウィングが脱落したためというマシントラブル説が濃厚。ただし、アンジェリスの直接の死因は事故による負傷ではなく、事故で炎上したマシンに取り残された上に救助が遅れたため、コクピットで窒息してしまったことであり、適切な救助をおこなっていれば助かった可能性が高かったことも付け加えておく。

*5 対して倍以上の排気量の自然吸気エンジンでもせいぜい600馬力前後

*6 ちなみにこのレースでは地元フェラーリのゲルハルト・ベルガーとミケーレ・アルボレートがワンツーフィニッシュを果たしている