特攻(戦術)

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特攻(戦術) - (2015/11/17 (火) 22:36:56) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2012/06/23(土) 17:33:26
更新日:2024/03/04 Mon 12:40:45
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特攻とは、戦死を前提に爆弾等を積んだ航空機や艦船、戦車や単身で敵に自爆攻撃する戦法である。
狭義では太平洋戦争末期における大日本帝国軍に頻繁に見られた戦術を指す。
陸軍による「バンザイ突撃」等の玉砕と同一視することも。

諸外国から「kamikaze」や「kamikaze-attack」と呼称されることが多い。

零式艦上戦闘機の代名詞ともなっている。



◆経緯
元々、日本軍は「決死隊」や「挺身隊」等の生還が難しい任務をこなす隊を組織する事はあったが、「特攻」という考えは元よりあったものではなかった。
それが戦術として考案され始めたのは、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等の度重なる敗北に稼働空母がほぼ沈み、保有航空機の数も減少し、
米軍側の反撃により生活物資等にさえ悩み始めた為とされる。(本土の物資事情が悪化したのは、マリアナ沖海戦後からである)

日本軍は、1944年度に急速に進んだ米軍側のレーダーや対空兵装の強化により、お家芸のはずであった航空機による攻撃が全く通用しないことに苦しんでいた。
この時には開戦時に在籍していたエースパイロットたちも過半数を失っており、新人の攻撃の命中率を上げる事も難しい。
なにより、飛ばすのがやっとのパイロットばかりで、マリアナ沖海戦を境に「出撃=戦死」という状態になりつつあった。

高い費用や犠牲を出して鍛えに鍛えたパイロットであれば、戦死前提の作戦に突っ込むなど、戦力の無駄遣い以外の何者でもない。
しかし、もはや練度もなくただ飛ばすだけしかできないパイロットに対して命中率と威力を伴う攻撃方法として、特攻が考えられるようになったのである。



◆実戦
初めて特攻機が出撃したのはレイテ沖海戦。
神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい)による敵艦艇への体当たりが始まりであった。

約40分間に渡る猛攻の末、零戦が護衛空母セント・ローに突入し撃沈した瞬間。
この際にデストロイヤーこと、菅野直大尉の同期であった艦爆エースの関行男大尉が戦死している。彼はこのような言葉を残した。

「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
 僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある!!
 僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍隠語で妻を意味する)のために行くんだ!」

これが言い伝えられている彼の辞世の句である。

後世では、「特攻は命じた側もそれを実行した奴も馬鹿だ」という意見もよく見られるが勘違いしてはいけない。
特攻をする側も私達同様、今を生きようとする人間なのである。
彼らは「俺達の犠牲で愛する家族が守れるなら……!」という気持ちで突っ込んでいったのだ。
上記の関行男大尉もただ、愛する妻と母を守るために、空母に突っ込んで行ったのである。
特攻隊員には将来、国や軍を担うと期待された官僚や軍人の子息も含まれる。
彼らは当時の空気故に、志願せざるを得なかった。……そして、大空に散った。
例としては、特攻指導者の一人であった冨永恭次中将、松阪広政大臣の子息が有名である。
皮肉なことだが、特攻隊の常態化は日本人に総力戦の空気を実感させる効果を上げた。

だが、もうここまで行くと、誰も勝てるとは思っていなかった。あの東条英機でさえも1945年には近いうちの敗戦を悟っていたのだ。
せめて家族と故郷を守るためにと、続けざるを得ない空気が日本中を覆っていたのだ。
上記の通り、彼らは愛する人々が住む故郷を守る為にと断腸の思いで特攻することを決断したのである。

国が滅ぶか滅ばないかという異常な状況での決断を現在の価値観で安易に批判することはナンセンスでしかない。

特攻隊員の中には自分が将来を誓い合った恋人、あるいは許嫁、妻を同乗させ、共に敵艦に突っ込んだ例も存在する。

当初は妻子がいることを理由に特攻を思いとどまらされたが、後に妻が「足を引っ張らないように」と一家心中したために特攻出願ということさえあった。

他にも「自ら進んで志願した」「嫌と言える空気ではなかった」「命令で逆らえなかった」等、様々な証言がある。

そうして特攻隊に配属されても、出撃前夜に眠れずただ蹲る者や、直前に怖気づいて立てなくなる者もいたとされる。


一方、米軍側はその狂気の戦法に戦慄、発狂者続出という状況が起き、電子装備などを加速度的に発展させていくことになる。
彼らの信仰するキリスト教では自殺は罪悪とされたが、当然ながら「自ら命を捨てる」という行為は自己犠牲という美徳であり、英雄的行為として認識されていた。
しかしそれはあくまで「戦法」ではなかった。

欧米人の常識で考えれば苦肉の策、悪足掻き、蜂の一刺であり、まさか継続的かつ組織的に、国策として行われるなどとは狂気の沙汰以外の何物でもなかった。
彼等が精神に異常を来すほどに戦慄するのも無理からぬ事であった。(ある艦は健常者が30~40%しかいなくなったとか)



レイテ沖海戦後、特攻は全軍化。
ある将校の発案で特攻専用の兵器である「桜花」が開発され、そのついでに「回天」が製造され、更に伏龍、梅花などが考案された。
特攻兵器で極めつけなのが「ウイングカッターが武装である特攻機」で、本当に計画が進められた。なんてもん計画した!

この頃各島を護る陸軍隊の玉砕特攻や大和等による水上特攻も行われた。

米軍側は1945年に入る頃には対特攻用の兵器や戦術を万全にしており、突入すらできずに撃墜されてゆく特攻機が殆ど。

本土決戦をも見越して多数の特攻兵器が作られていたが、最終的に昭和天皇の聖断、そして玉音放送により戦争が終結、更なる犠牲は回避された。
出撃機数約1900機の内、敵艦艇に命中した機数は295機だという。
ただしアメリカ軍の評価では戦場に到達した機体の6割弱が有効弾となり、なんらかのダメージを艦艇に与えたとされる。
より正確には沖縄戦が始まる前の集計で、迎撃を突破してアメリカ艦隊の視界にまで入ってきた機体が356機あり、
そのうち140機が命中、59機が至近弾となった(つまり199/356=55.9%)。
言うまでもなくこの成功率は終戦間際の航空攻撃としては異常なまでの高率である。

さて特攻の戦果だが、戦艦や巡洋艦それに正規空母といった重装甲の目標は一隻も撃沈できなかった。
これは特攻機自体にそれほど大きな爆弾を搭載できない事に加えて、体当たりでは通常の爆弾投下より速度が遅い分威力にも乏しかったこと、
そもそも先述した特攻隊員自身の練度不足もあって撃ち落とされたり急所には当たらなかったことが大きい。
それでも空母については最優先目標とされていたことと、状況によっては艦載機や弾薬への引火が深刻な事態を引き起こした事例などから、
少なくとも4隻が終戦まで復帰できないほどの大ダメージを負い、他にも複数が数か月の修理を要する深刻な被害を受けた。
その時の損傷が終生付きまとい、ジェット機対応空母へなれなかった空母も存在する。
太平洋戦争でアメリカ劣勢時から奮闘してきた武勲艦の空母・エンタープライズも特攻で被害を受けた艦の一つである。
この時特攻をかけた富安俊助中尉の亡骸を、エンタープライズの乗組員は自艦の戦死者たちと同様に丁重に水葬としている。

また、比較的装甲の薄い駆逐艦以下の小艦艇や、大量に運用された護衛空母に対しては十分な威力を発揮しており、
フィリピン戦では護衛空母が甚大な被害を受け、
(2隻沈没の他10隻以上が撃破されるなどした結果、護衛空母艦隊がまるまる1個消滅してしまい、海軍作戦に大きな支障をきたしている)
また沖縄戦ではアメリカ軍が特攻対策としてピケット艦(駆逐艦に長距離レーダーを積んだもの)を早期警戒網として配置した都合上、
駆逐艦以下が次々と撃沈・損傷し、一時期は艦隊駆逐艦の3分の1が戦列を離れるほど深刻な事態になっている。

他方、抵抗力の高くない輸送船などを狙うべきだったのに、正規空母など防御力の高い船を狙った分、成果が十分ではなかったという批判も存在している。
とはいえ、死ねというも同然の出撃をさせるのに狙いが輸送船では特攻隊員も複雑だったであろう。


国の為といえ命を捨てることを前提に行われる戦法である為批判されることも多く、近年の自爆テロに影響を与えたとさえ言われる。
(ただし、戦争時の特攻を「自爆テロ」呼ばわりされた元特攻隊員は「一緒にするな。(特攻では)非戦闘員は狙わない。」と憤慨したという)
少なくとも、欧米人は同じように捉えられている。
彼らからしたら非戦闘員には行かないとしても国家の強制で無為に命を散らしに来ることも、カルト宗教にずぶずぶにハマり込んで自我をなくして自爆する連中も大差ない、ということだろう。
だが、「追い詰められた人間は通常では考えられない行動に出る」事を分かりやすく示したのも事実である。
特攻は後世に良くも悪くも影響を残したのである。




◆余談
実は、特攻に反対する指揮官もいた。

特攻を指示する上層部を論破し、最後まで特攻を行わずに戦い続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として特筆すべきであろう。
(ただし美濃部は特攻自体は肯定しており、
 あくまで「おれの部隊は特攻などに頼らずとも戦果を挙げられる」という自信が特攻反対を貫かせたことに留意されたし。
 その美濃部も終戦間際には自隊からの特攻出撃を真剣に検討せざるを得ないところまで追いつめられている)

防空部隊である第343海軍航空隊にさえ、特攻に行けという話が出た。
だが、海軍で制空権確保に貢献できる航空隊が彼らしかいなくなっていたために立ち消えとなった。
彼らの有する紫電改を決戦兵器として認定したのも影響したとされる。
また当時の飛行長である志賀淑雄少佐が
「私が先頭で行きます。兵学校出は全て出しましょう。予備士官は出してはいけません。源田司令は最後に行ってください。
ただし条件として、命令してきた上級司令部参謀が最初に私と来るというなら343空はやります」と上申し、航空隊指令の源田実大佐もこれに同意。
軍令部にそれを伝えたとされている。

更に、第203海軍航空隊戦闘第303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も特攻には断固反対した。
彼は自分が非国民呼ばわりされても自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。

また、特攻と言えば敵に対する攻撃だけかと思われがちだが、
友軍の艦船に迫る魚雷に機銃掃射の後魚雷に特攻した例(マリアナ沖海戦で空母・大鳳に向けて放たれた魚雷2発のうち1発が味方の特攻で阻止された)や、
攻撃態勢に入った敵航空機の爆撃を阻止する為の最終手段として特攻した例もある。味方を守る為の「特攻」も確かに存在した。
(しかし、これらの例は海外でもあったし、またこれは明確な命令をともなった手段(戦術)ではないため特攻というにはやや語弊がある)

その中には、飛燕や鍾馗、隼などの旧式戦闘機でB-29に特攻し、機体が爆発する前にパラシュートで離脱するのを何度も成功させた恐るべき猛者もいた。
(しかも部隊単位で戦果を上げた)

また冒頭に述べた通り陸軍も各地の陸戦において戦車特攻などを行っており、
満州で戦っていた部隊がソ連軍相手に歩兵特攻(所謂「肉弾攻撃」)を行った記録も残っている。
爆薬を抱えて(主に戦車に)突撃し自爆するというもので、捕虜になったソ連兵は「我々には真似できない」と語ったという。
こちらも砲兵・航空機の支援を失い、補給もままならない状況下で敵の進軍を食い止めるために実行された苦肉の策であった。

なお、カミカゼと言われるのは単なる読み間違いが広まったと言われることがあるが、
軍歌に『かみかぜとっこうたい』という歌があるので、それが一般化したとも考えられる。つまり、どっちでも正しいとも言える。

ちなみに本来の神風(シンプウ)とは元が攻めて来た時の神がかったタイミングで襲来したと言われる二度の台風である。
尚、最近の研究ではこれは奇跡でも何でもなく、ただただ純粋に鎌倉武士たちが知恵を絞った結果としての、
夏季には必ず台風が来る。元軍は海戦に不慣れだから、この時期まで粘れば確実に勝てるという戦略だったと判明している。

結局、特攻の是非はさておき奇跡に拠る神がかり的な勝利はありえない。
何らかの奇跡的な要素が戦局を左右することはあるにせよ、それに頼って戦うようでは勝利はできないということであろう。



ちなみに、戦時中には「神風」という駆逐艦も存在した。
いわゆる艦隊随伴型の特型の二世代前の、旧式も旧式であった駆逐艦である。
開戦から哨戒・護衛に従事し、太平洋戦争最後の海戦であるペナン沖海戦をくぐり抜け、終戦まで無傷で生き残り、復員作業にも従事。
終戦後座礁・解体されたが、戦没することなく生き残った数少ない駆逐艦の一隻となっている。
士魂の護りがあったのだろうか・・・


追記・修正は靖国でと約束する方がお願いします。

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