アイルトン・セナ

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アイルトン・セナ - (2016/06/19 (日) 16:53:38) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2009/09/14(月) 01:11:42
更新日:2024/03/16 Sat 10:53:29
所要時間:約 7 分で読めます




本名アイルトン・セナ・ダ・シルバ
Ayrton Senna da Silva

1960年3月21日生
1994年5月1日没

ブラジル・サンパウロ生まれ。裕福な家庭で育ち、4歳からカートを始め、8歳でジープを運転できたという逸話もある。
後にフォーミュラ・フォード1600、2000、英国F3を経て、F1のレーシングドライバーになった。
F1では3度のワールドチャンピオンに輝いた(1988年、1990年、1991年)

イギリス「F1 Racing」誌において、史上最速のF1ドライバー、史上最高のF1ドライバーに共に1位で選出された。
日本では通称「音速の貴公子」として知られている。

若い頃には「ハリー」の愛称で呼ばれていた。

所属レーシングチーム(F1)
①トールマン(1984)
②ロータス(1985?1987)
③マクラーレン(1988?1993)
④ウィリアムズ(1994)



  • 経歴

弱小チーム、トールマンからF1デビュー。豪雨の第6戦モナコGPで快進撃を見せ、2位まで上がるがレース中断。鮮烈なデビューイヤーを見せた。
翌年は名門ロータスに移籍、豪雨の中、第2戦ポルトガルGPで初優勝。

86年はルノーのパワー不足を嘆き、当時最強のホンダを搭載するよう働きかけ翌年念願のホンダエンジンを獲得したが、
ロータスのチーム力がもはや往年の力が無い事を悟り88年にマクラーレンにホンダと共に移籍。

MP4/4というチートレベルの速さのマシンでチームチャンピオンは早々に決めたが、
この年チームメイトでありながら生涯ライバルとなるアラン・プロストと激しいドライバーズタイトル争いを演じた。

1989年は波乱含みのシーズンを過ごす。
プロストと共にチーム残留するも、第2戦サンマリノGPの再スタートでセナがオーバーテイクをしてしまいそのまま優勝。
スタート前に紳士協定を結んだがセナが破る形で優勝してしまった為怒りを買う格好となる。
この事件により二人の間に大きな溝が出来てしまい、シーズン中のマクラーレンのガレージはまるで別チームの様な雰囲気が流れる程だった。

そして第15戦日本GP(鈴鹿サーキット)で事件は起こった。
予選はポールを獲得したものの、スタートでプロストに抜かれる。
47周プロストに追いつき、シケインで追い抜きを試みようとしたが、両者交錯。
そのままプロストはリタイア、セナはマシンに傷を生いながらも首位に返り咲きゴール。
しかし優勝は取り消され失格に。タイトルもプロストの手に渡った。

1990年のシーズン前はFISA(FIA)からライセンスを剥奪されかけるが、セナが謝罪をする格好で出走。
プロストはフェラーリに移籍、再びタイトル争いを見せた。
この年のフェラーリはマシン、エンジン共にマクラーレンとホンダを凌駕しておりセナは苦戦。しかし神懸かり的な走りでポイント首位になったまま再び日本GPに。
ここでもセナはPP、プロストは2位を取り有利に着く。
スタートしたが、1コーナーで両者再び交錯。9秒で二人のレースが終わる(この件についてセナは後に故意でぶつけたと発言した)。
復讐という形でタイトルを獲得。

1991年、ホンダはV12のエンジンを開発。パワーこそ最強だったが、マシンバランスに優れるウィリアムズのナイジェル・マンセルとタイトルを争う。
第2戦ブラジルGPは本当に神懸かり的レースだった。マンセル、パトレーゼの猛追、シートベルトの不具合、雨、更にはギアの故障。
全てを超えて念願の母国初優勝を果たしたセナは無線から絶叫の嗚咽を漏らした。
タイトル決定戦がまたしても鈴鹿で争われた。マンセルがコースアウトしセナがタイトル獲得。

1992年、車体のトータルバランスが凄まじいウィリアムズとマンセルの独走を止められないでいた。
第6戦モナコGPは伝説となる。
セナは予選2位、そのままの順位を走行、しかし64周にマンセルがピットに入り首位に。
終始、筆するに足りないぐらいの凄まじいデッドヒートを見せつけセナが優勝。関係者、ファンが度肝を抜かれた。
しかし年間タイトルはマンセルに。更にホンダがこの年いっぱいでF1活動一時休止を表明。

1993年マクラーレンはホンダに代わり非力な中古のフォード・コスワース(V8)を搭載。更に1年のブランクからプロストが最強のウィリアムズから復帰。
誰もがプロストの独走を疑わなかったが、セナはバランスが高じたマシンで予想外の好調ぶりを見せた。
特に第三戦ヨーロッパGPでは、雨の中1週目で鬼神の如き追い抜きを見せたほか、
モナコGPではプロストのエンスト、シューマッハのトラブルなどもあり通算最多の6勝目を達成した。
しかし最新型のエンジンを搭載した中盤から暫く表彰台が遠退きプロストがタイトル。
日本GPでは予選2位、決勝で優勝し久しぶりの表彰台に乗る。
最終戦のオーストラリアGPで優勝。レース後プロストと和解の握手。冷戦が終わった。生涯最期の優勝がこのGPであった。

運命の1994年、マクラーレンからウィリアムズに移籍し、開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でミハエル・シューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。
第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にミカ・ハッキネンに追突されてリタイヤ。
開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

第3戦サンマリノGPは予選から重大事故が多発。
まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こす。
結果的には鼻骨骨折というものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。
そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。
グランプリ中の死亡事故の発生は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、
電話で当時の恋人、アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。夜には落ち着きを取り戻していたという。

そして迎えた5月1日決勝。
セナは開幕から3戦連続のポールポジションからスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。
そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312kmで走行中に突如マシンコントロールを失い、
そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km~220kmまで急減速していた)、
セナが駆るマシン・FW16は大破した。

蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のセント・マジョーレ病院に緊急搬送されたセナであったが、
現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。享年34歳だった。

事故の原因についてはパワーステアリングの故障とステアリングシャフトの故障が濃厚である。



雨のセナと呼ばれるくらい雨のレースに強かった。
ただもともと得意だった訳ではなく、カートを始めた頃濡れたコースを走った時にボロ負けしたのが悔しかったため、
そのレース後路面に水をまいて走り滑り具合を研究したと言う。

天才と言われてるがかなりの努力家で負けず嫌いである。



  • 余談

趣味がラジコンの飛行機。日本の友人(ホンダ関係者)が毎年セナの為に作ってくれていた。

血液型はB型。左利き。

日本のバラエティ番組に出演したことがある

1992年の日本GPウィークのある日にフジテレビ系列の番組をジャック。宣伝や子供にカートの素晴らしさを伝えた。

また生ダラでアイルトン・タカこと石橋貴明とカート対決をし、(恐らくわざと)負けたために石橋にヘルメットをくれるよう要求され、セナも了承する。
が、それから程なくしてセナは事故で他界。ヘルメットはセナの死後に設立されたセナ財団を通し、石橋の手に渡った。

この番組に出演した際、セナはチョンマゲのカツラを被ったり、(石橋から半ば強引なフリによるものだが)ギャグをやったりと、
なかなか茶目っ気のある姿を披露してくれた。

なお、事故を起こした当該のウィリアムズ・ルノー・FW16は、事故から8年後の2002年にチーム・ウィリアムズに事故の捜査をしていたイタリアの司法当局から返還された。すぐに車体は部品が第三者の手に渡ることを恐れ、ウィリアムズ家の敷地内で焼却され、土の中に埋められた。このため、再び事故の検証をしようにも車体の検証は不可能になってしまった。

なお、エンジンだけはルノーに返還され、ルノーのエンジニアがエンジンを徹底的に調査したが、特段エンジンには異常が認められなかった。また、ルノーの資本提携先である日産自動車もこのエンジンを調べ上げたが、やはり異常は認められなかったという。








そして歳月は過ぎセナの名前が2010年にグランプリに戻った。


ブルーノ・セナである。





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