ミハエル・シューマッハ

登録日:2011/08/08(月) 20:29:46
更新日:2024/12/24 Tue 13:09:21
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ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher)はメルセデスGP所属のレーシングドライバー。過去7度ワールドチャンピオンに輝き「皇帝」の異名を持つ。

生年月日/1969年1月3日
血液型/O型
出身地/ドイツ・ケルペン


【チーム遍歴】
1991年R11 ジョーダン
1991年R12〜1995年 ベネトン
1996年〜2006年 フェラーリ
2010年〜2012年 メルセデスGP


経歴


F1デビューまで

1969年1月3日に、暖炉職人のロルフとその妻エリザベスとの間に産まれる。4歳の誕生日に、ロルフから4輪自転車を改造してエンジンを積んだクルマを与えられ、それを路上で乗り回していたところ街頭の柱に激突してしまった(恐らく、これがミハエルにとって初めてのクラッシュ)。
これを機に、ロルフは近所のカート場にミハエルを連れていくようになった。ミハエルはそこで腕を磨くようになり、父は本業と並行してカートコースの運営を行うようなっていった。
その後、ミハエルは本格的なレースに出場するようになるが、裕福とは言えないシューマッハ一家に莫大な資金が必要なカートレースを続けるのは苦しいことだったらしく、当時は他のドライバーが使い古してゴミ箱に捨てていたタイヤを拾ってレースを走っていたこともあったという。

それでも、ミハエルは1987年に18歳でヨーロッパとドイツのカート選手権でチャンピオンを獲得。

1988年にはカートを卒業し、この年からドイツで始まった入門フォーミュラカテゴリーのフォーミュラ・ケーニッヒに参戦しチャンピオンを獲得。

1989年にはWTS Racingのチームオーナーであるウィリー・ウェーバーがシューマッハのマネージャーとなり、同チームからドイツF3に参戦しランキング3位。

1990年には、ドイツF3チャンピオンとなり、マカオF3でも後のライバルとなるミカ・ハッキネンと死闘を演じ優勝。

この頃にはメルセデスのスポーツカーのジュニアチームの一員に選ばれ、そこで更なる英才教育を施され、若手ドライバーとしての評価もどんどん上がっていった。

1991年はメルセデスのスポーツカーレースに専念。ル・マン24時間にもメルセデスの31号車で参戦。マシントラブルに泣き5位に終わったが、一時は2位を走行した。*1全日本F3000にも1レースのみスポット参戦し、レイナードやローラより戦闘力が劣ると言われているラルトのマシンで2位に入る。

シューマッハの評価は上昇を続けていたが、当時メルセデスはF1に参戦しておらず、また、シューマッハ自身も国際F3000(現在のF2)のレギュラーシートを保持していなかった。

そのため、彼がF1のシートを見つけるための「王道ルート」からは外れつつあったことも、また否定できない状態であった。

F1デビューとベネトン時代

転機が訪れたのは1991年のベルギーGP前。当時、ジョーダン・グランプリ*2の正ドライバーだったベルトラン・ガショーが傷害事件を起こしチームを離脱。代役のドライバーを探す必要に迫られていた。

このとき、ジョーダンがシルバーストーンでシューマッハのテスト走行を実施して結果が良好だったこと、メルセデスがシューマッハの起用を条件に多額の持参金を持ち込んだこと

そしてシューマッハのマネージャーを続けていたウィリー・ウェーバーは、チームオーナーのエディ・ジョーダンに対して

「彼は昔あのコースの近所に住んでいた。だから、スパ(ベルギーGP開催地であるスパ・フランコルシャン)はミハエルにとって庭みたいなものだ」

と売り込みをかけたことで、シューマッハが代役としてベルギーGPに参戦することが決まった。

しかし、シューマッハはスパの近くで生まれ育ったのは本当だが、そこを走った経験は一度もなく、子どもの頃に観客として訪れた事があっただけに過ぎなかった。そのため、シューマッハはスパへの行き方すら知らず、向かう途中で通りかかった人に道を訪ねていたという有り様だったらしい。

サーキットに着いた後、エディ・ジョーダンはシューマッハにスパをどの程度走っていたか確認を取ったのだが、このときシューマッハは「一度も走ったことはない」と、本当のことを話しており、マネージャーに騙されたことにやっと気がついたジョーダンは真っ青になっていたという。

そんな状態ながらも、シューマッハは初日のセッションから速さを見せ、予選では7位を獲得。11位だったチームメートのベテラン、チェザリスを上回った。決勝はスタートから数百m走った所でクラッチが壊れてあっという間にリタイアしてしまったが、関係者からは将来チャンピオンになれる器の若手が登場したと注目されるように。

デビュー戦でのインパクトは大きく、次戦イタリアGPからはトップチームの一角であるベネトンに移籍。シューマッハをキープしたがっていたジョーダンとベネトンの間で様々な契約問題があったものの、交渉が成立して正ドライバーになると、このレースで早速5位に入り、2レース目でF1初ポイントを獲得。チームメートの元ワールドチャンピオンであるネルソン・ピケの6位を上回り、その後の3レースでも2度の入賞を記録した。

翌年はピケが引退したことから若きエースとしてチームを引っ張り、前年チャンピオンのアイルトン・セナやこの年圧倒的な速さを誇っていたウィリアムズ勢を追い回すほどの速さを見せた。
デビューからちょうど一年後に第12戦のベルギーGP。シューマッハは不安定な天候を上手く読み取った上で完璧なタイミングでタイヤ交換を行ったことが功を奏し、F1初優勝を決めた。


93年にはハイテク満載のマシンにも順応し、アラン・プロスト、セナを追いかけるレースを幾度と見せる。9レースで表彰台に上がり、この年のポルトガルGPで自身2勝目を挙げた。


翌94年。プロストの引退によって空いたウイリアムズのシートに収まったセナがチャンピオン最有力と言われていた中、シューマッハは開幕から2連勝を飾る。第3戦サンマリノGPでは、決勝でセナがアクシデントにより還らぬ人となったのをはじめ、多くの死傷者が出る悲劇的なレースとなったが、ここでも気丈に優勝。
次戦モナコGPも初制覇し、開幕4連勝。
破竹の勢いでシーズンを染め上げかけた。

ところが、ベネトンのマシンにレギュレーション違反疑惑が持ち上がる(最終的には嫌疑不十分で無罪)と、FIAに揚げ足取りされる形になり、シーズン中盤は失格やそれに伴う出場停止で、かなりのポイントを取り損ねてしまう。この間にチャンピオン争いに加わったのはデーモン・ヒル。元はウイリアムズのセカンドドライバーだったが、セナ亡き後エースに昇格し、シューマッハに失格・出停止の処分が下ったレースを全て制してポイント差を急激に詰めてきていた。

王座決定は最終戦まで縺れ込み、ランキングトップのシューマッハと2位ヒルの差は僅か1ポイント。
レースは先頭を走るシューマッハを2位ヒルが追う展開。そして36周目。シューマッハがコースアウトして壁に接触。何とかシューマッハはコースに戻ってきたが、その隙にヒルがシューマッハを追い抜こうと並びかける。そして次のコーナーに2台が並んで飛び込んだ瞬間に2人のマシンが接触してしまう。シューマッハのマシンは一度宙に飛び上がって着地した後、タイヤバリアへ突っ込みストップし、そのままリタイアとなった。しかし、トップに立ったヒルも接触した左フロントのホイールが割れてタイヤがパンクした上にサスペンションのアームが曲がってしまい、スローダウン。何とかピットに戻ってくるが、短時間でマシンを修復するのは不可能であり、そのままリタイアを決めた。これで結局2人揃ってノーポイントに終わったためシューマッハのチャンピオンが決定した。

しかし、
「シューマッハは両者リタイアでもチャンピオンになれたため、同士討ちを狙ってヒルにぶつけたのではないか?」
「そうでないにしても、追い抜こうとしたヒルに対するシューマッハの牽制が厳し過ぎたことが接触の原因だったのではないか?」
「シューマッハはコースアウトした際にマシンにダメージを負っており、後で追い抜くチャンスはいくらでもあったのに、慌てて追い抜きをかけたヒルのミスではないのか?」

など、このアクシデントは物議を醸した。


翌1995年。ベネトンがウイリアムズと同じルノーのエンジンを手に入れ、エンジンパワーにおけるライバルチームに対する劣勢の埋め合わせることができるように。
これにより、チャンピオン争いはシューマッハ優位と思われていたが、いざシーズンが始まるとなかなか流れに乗れなかった。開幕戦では1位でチェッカーを受けるが、使用燃料の違反で失格。*3第2戦のアルゼンチンは3位、第3戦のサンマリノではポールポジションからトップを走るもクラッシュでリタイア。開幕3レースで未勝利という苦しいシーズンスタートとなった。アルゼンチンとサンマリノの苦戦に関しては、新型マシンのバランスの悪さが原因であることが、シューマッハ自身から語られている。
しかし、マシンの開発で進んでバランスの悪さが改善されると、持ち前の勝負強さとチームの優れたレース戦略に助けられて連戦連勝を重ねるようになっていった。ベネトンの抗議で開幕戦の失格が取り消されてシューマッハの優勝が復活した*4ことも手伝い、終わってみれば年間最多の9勝をあげることに成功。年間16戦のうち、実に過半数のレースを制するに至った。物議を醸した前年と異なり、文句のつけようがない強さを見せつけ、シューマッハは2年連続のチャンピオンをもぎ取った。

フェラーリ再建

1996年、シューマッハはこれまで栄光を共にしたベネトンに別れを告げ、フェラーリに移籍。フェラーリと言えば、F1が始まった1950年から参戦を続け、チャンピオン獲得数や優勝回数でも1位を誇る名門中の名門だが、当時は1勝以下のシーズンが5年も続いており、その間チャンピオン争いに絡むことすら出来ないという超暗黒期。そんな不振にあえぐ名門チームを復活させるという使命に挑んでいたのが、当時フェラーリのチームマネージャーだったジャン・トッドであり、シューマッハはトッドのオファーを受け入れて、共に名門復活を目指すこととなった。
しかし、この年シューマッハがドライブしたフェラーリ310は「想像以上に酷いマシン(本人談)」であり、結局シューマッハをもってしても、3勝をあげてランキング3位に入るのがやっと。
それでも、フェラーリのマシンが「スピードがない上に、1/3以上のレースをマシントラブルで落としてしまうほど信頼性も低かった」という、シューマッハが酷評するのも納得できるような代物だったことや、フェラーリがシューマッハ移籍前の4年間で2勝しかしていなかったことを考えると、大健闘と言ってよかった。
このシューマッハ効果は翌年から更にききはじめた。


翌1997年、シューマッハはトッドと協力して、ベネトン時代からの付き合いであるテクニカルディレクターのロス・ブラウン、マシンデザイナーのロリー・バーンを招聘。
マシンの徹底的な信頼性向上と戦闘力アップが施され、フェラーリはマシンの速さとチームの強さの両方に大きな磨きがかけられた。それもあってか、シューマッハはこの年の本命だったジャック・ビルヌーブと一進一退の攻防を続け、王座決定は最終戦のヨーロッパGPまでもつれ込んだ。
この時点でポイントリーダーはシューマッハ、それに次ぐのがビルヌーブ。予選ではビルヌーブとシューマッハ、そしてビルヌーブのチームメイトであるフレンツェンがポールポジションを争い、最終的には3人が全く同じタイムを叩き出し、最初にタイムを出したビルヌーブが辛うじてポールポジションを得るという熾烈なタイムアタック合戦が繰り広げられた。
決勝はスタートでビルヌーヴの前に出たシューマッハがレースをリードするが、ビルヌーブも離れずにそれを追いかけるという息詰まる展開。その中、48周目にビルヌーヴがシューマッハの前に出ようと追い抜きをかけるものの、シューマッハは並んだビルヌーブに向けてステアリングを切り、結果2台は接触。
シューマッハはマシンにダメージを負いリタイア、ビルヌーヴは傷を負ったマシンを労わりながらも走り続けて3位でフィニッシュし、チャンピオンとなる。シューマッハは敗れはしたものの、ビルヌーブと僅差のランキング2位を獲得した...はずだった。
F1を統括しているFIAは、最終戦における2台の接触は、双方リタイアとなればチャンピオンが決まっていたシューマッハが意図的に引き起こしたものであったと判断し、シューマッハは97年のドライバーズランキングから除外されてしまった。しかし、同年の優勝や獲得ポイントは記録に残ることになったため、シューマッハのドライビングだけでなく、それに対する制裁の妥当性に関しても、やはり物議を醸す結果となった。


98年はウイリアムズがルノーエンジンを失ったことで低迷。それと入れ替わるように台頭した、マクラーレンのミカ・ハッキネンとチャンピオンシップを争う。シューマッハとハッキネンはあのマカオF3時代からのライバルであり、F1でも双方の意地がぶつかり合う熾烈な優勝争いが繰り広げられた。
シーズン序盤こそハッキネンが優勢だったが、フェラーリはマシンの性能向上によりシューマッハは中盤以降の猛チャージ。またしても王座決定は最終戦となった。
予選の結果、ポールポジションはシューマッハ、ハッキネンは2位。ところが、決勝ではスタート直前にシューマッハのマシンがオーバーヒートしてクラッチが誤作動を起こし、その反動でエンジンがストールしてしまった。これでスタートは延期になり、その原因を作ったシューマッハは最下位からスタートすることになってしまった。シューマッハは諦めることなく3位まで鬼神の如き追い上げを見せたが、32周目にクラッシュしたマシンの破片を踏んでしまいタイヤがバースト。ピットに戻れずリタイアとなる。
これで、ハッキネンがチャンピオンを獲得。シューマッハは敗れたものの、後味の悪かった前年と異なり、ランキング2位をしっかり手中に収めた。


1999年もフェラーリに残留。昨年の続きとばかりに、ハッキネンとチャンピオン争いを繰り広げた。
ところが、第8戦イギリスGPでシューマッハはキャリア史上最悪の事故に遇ってしまう。
レースがスタートすると、シューマッハは順調に4位を走行していたが、半周あたりでいきなりブレーキが効かなくなり、高速コーナーでコースアウト。そのまま殆どスピードが落ちないまま、タイヤバリアへ正面から突っ込んでしまう。右足の腓骨と脛骨を折り、その治療のために7レースを欠場。この年のF1は16戦のレースが予定されていたが、半数近いレースにエントリーすらできないとなると、チャンピオンは絶望的という他ない。
後に事故原因は、メカニックがブレーキの配管に付けられているボルトをしっかり締めていなかったことだったと発覚している。
しかし、ただでは終わらないのがシューマッハ。復帰戦のマレーシアGPでは、予選でいきなりポールポジションを獲得し、決勝でもトップを快走。最後はチャンピオンの可能性が残っていたチームメートのアーバインにトップを譲るが、ケガ明けのレースを2位で終えてみせた。
この年の最終戦である日本GPでもポールポジションから2位に入り、その甲斐あってフェラーリはコンストラクターズチャンピオンを獲得。ドライバーズチャンピオンはハッキネンに奪われたが、シューマッハは先述の欠場がありながらランキング5位を獲得し、面目を保った。


2000年、フェラーリは背水の陣でシーズンに挑んだ。
序盤に3連勝、中盤こそクラッシュなどでポイントをハッキネンに逆転させられたものの、第14戦イタリアGPはポールポジションから逃げ切り優勝。
様々なプレッシャーから開放されたシューマッハは、レース後の会見で涙を流した(この優勝でセナと同じ優勝回数に並び、その事で感極まったと言われているが諸説あり)。
第16戦日本GP、シューマッハはスタートでハッキネンに交わされるが、ピットストップで逆転、見事に3度目のタイトルをものにした。

フェラーリ黄金時代〜一度目の引退

2001年もシューマッハは速く無敵と言ってよかった。
なんと17戦で9勝をあげて、シーズン13戦目でタイトルを決定。最終的には、123ポイントを稼ぎ出し、65ポイントを獲得してランキング2位となったクルサードに2倍近いポイント差をつけた。
翌2002年は更に圧倒的な強さを見せた。17戦全てのレースで表彰台に登り、うち11戦で優勝。年間史上最速の11戦目でタイトル獲得。この年のマシン、F2002によって、チームの完全制覇を成し遂げた。


03年は一転し苦戦、マシンバランスや新レギュレーションに苦しめられ、キミ・ライコネンとタイトルを最終戦まで争い、2ポイントの差で競り勝つ。


翌年は02年の再来と言えたシーズンだった。
他チームが苦戦する中、F2004に乗るシューマッハは18戦中13勝という圧勝ぶりでシーズン5連覇を達成。


05年は、この年マシンに関するレギュレーションが大幅に変更されたこと、フェラーリがそれに上手く対処できなかったことから、シューマッハのマシンは速さを失い、19戦中たった1勝(しかもタイヤメーカーの不祥事で、参戦している20台中6台しか出走できなかった異例のレース)という散々な結果に終わる。
チャンピオンを獲得したのは、ルノーのフェルナンド・アロンソ。この年の活躍で最年少チャンピオン記録を塗り替えた若手であり、いよいよ世代交代かという声も聞かれるようになった。


06年は、フェラーリが前年の反省を元にマシンを改良したことから戦闘力を取り戻し、前年チャンピオンとアロンソと一騎打ちのシーズン。序盤はアロンソに離されるも徐々に差を詰め、第15戦イタリアGPで勝利を挙げた後、引退を発表。
次戦の中国GPも優勝し、最大25ポイント差があったアロンソに並ぶ。
しかし、第17戦日本GPではトップ独走中の37周目にエンジントラブルでリタイア。このレースで優勝したアロンソが、最終戦で1ポイントでも獲得すればチャンピオンが決まるという、シューマッハにとっては絶望的な状況に。
迎えた最終戦、チャンピオン獲得には圧倒的不利な条件の中、シューマッハは予選で好タイムを連発しながらもマシントラブルに足下をすくわれて10位。決勝でも、他者との接触でタイヤがパンクし、ピットインしたことで、最下位にまで落ちてしまう。しかし、シューマッハはそこから前のマシンを一台、また一台と交わしながら、最後まで優勝とチャンピオンを目指し疾走した。結局、このレースで2位に入ったアロンソがチャンピオンを決めたが、一方のシューマッハは絶望的な状況から4位まで追い上げて引退レースを終えた。「まだやれるのではないか」と関係者やファンは思ったが、シューマッハは潔くF1のシートを降りていった。


07年からはフェラーリのアドバイザーとして度々サーキットに姿を見せていた(何故かそのレースではライコネンは勝てないばかりかリタイアを重ねていた)。


だが、09年にレギュラードライバーのフェリペ・マッサが重傷を負った際に復帰を噂され、自身も練習走行まで行ったが、直前になって過去にバイクレースの際に転倒した首の痛みによって出走を取り消すと発表…。
その後はルカ・バドエルとジャンカルロ・フィジケラが走行したが、結果は両者共に0ポイントで終わった(この年、テスト禁止や新しく導入されたKERSを搭載していた為、ドライブが難しいと言われた)。

F1復帰と2度目の引退

2010年シーズン前にメルセデス・ベンツがF1チームに復帰をアナウンス。そのエースとしてなんとシューマッハが起用された。
心配された首のダメージはほぼ完治したと言われ、シーズンが開幕。しかし4年のブランクと年齢からか、中段争いが精一杯で表彰台すらも上がる事も無くシーズンが終わる。


翌11年、前年と変わらずのポジションとアクシデントの多さから現時点では復帰は失敗だと言われていたが、第13戦イタリアGPでルイス・ハミルトンと約20周近く熾烈なドッグファイトを演じた。

2012年もメルセデスに残留。モナコGPでのポールポジションや、ヨーロッパGPでの3位表彰台など、速さを見せる場面もあったが、この年限りで2度目の引退を発表。最後のレースとなったブラジルGPを7位で完走すると、再びヘルメットを置いた。

伝説の終焉

2013年末にスキー場のコース外、いわゆるバックカントリーを滑走していたシューマッハ。そんな彼が、突如として命を脅かす大事故に見舞われた。
転倒して岩に頭を打ち、ヘルメットをしていたにもかかわらず外傷性脳損傷を負ったのだ。それもヘルメットが無ければ即死だったというほどの。

懸命な治療の末に一命は取り留めたものの、シューマッハが負った傷はそんな軽口すら言えなくなるほどに大きかった。
2019年までに明らかになっている情報によれば、意識こそあるものの歩くことも喋ることもできず記憶障害が残っており、意思疎通が難しいという。
これでも負傷の重さに比べれば回復している方らしいが、これほどの重傷を負ってもなお意識があって、生きていることすら奇跡と言えるだろう。

今の彼を知る人々は、口を揃えて「ご家族の意志を尊重し、彼について語ることはできない。ご家族と共に静かに過ごさせてあげて欲しい」という。
最早「皇帝」の面影どころか、姿さえ見ることもできないかもしれない……


余談


容姿と異名

容姿で特徴的だったのは長くしゃくれたで、それが目立つのを気にしてか、横顔の写真を撮られるのが好きではなかったらしい。
この特徴的な顔ゆえ古舘伊知郎から「顔面ロマンチック街道」「顔面三浦半島」「顔面バナナノーズ」とニックネームをつけられていた。

また現役時代のタフさから、「機動戦士シューマッハ」「人間リポビタンD」なんて古舘が呼んでいたことも。

ヨーロッパではSF映画の悪役と本人の名前を掛け合わせた「シューミネーター」というニックネームで呼ばれていたこともあった。

服のセンスが壊滅的に悪く、よくネタにされたりする。

家族


実弟のラルフも元レーシングドライバー。1997年から2007年にF1に参戦し、6度の優勝を経験。兄と優勝争いを演じ、兄弟でワンツーフィニッシュしたレースも何度かあった。F1引退後はDTMでも活躍。

妻はコリーナ氏。二人の間には、娘のジーナマリアと息子のミックを設けている。そのコリーナ氏は、同じドイツ人の元F1ドライバーであるハインツ=ハラルド・フレンツェンの元恋人。その為、シューマッハがコリーナ氏を寝取ったのではないかと噂になったことも。*5


ミックもレーシングドライバーの道を選択し、2018年にヨーロッパF3で、2020年にはF2でチャンピオンを獲得。その実績が認められ、2021年にF1デビューを果たしている。


その他

慈善活動にも積極的で、04年のスマトラ島沖地震の際には1000万ドル(当時約10億円)も寄付をした。

大のサッカー好きとしても知られ、サッカーの腕前は趣味の域を超え、もはやプロ級。
実際に自宅近くのスイス3部リーグのチームに選手として所属していた。

イギリスの人気番組Top Gearに出演し、覆面ドライバー「スティグ」の中の人として紹介された。
が、彼の計測ラップの映像になるとコースを飛び出す、逆走する、カメラを破壊、挙げ句の果てに迷子になってしまうという終わり方(これは演出でシューマッハはゲスト出演だったと言われている)。

新世紀GPXサイバーフォーミュラ』に登場するナイト・シューマッハのモデル。
まだ本人が頭角を現す前の話だったが、速さだけでなく、予選の妨害をしたり、スタートでフェイントを入れるなど、勝つ為には手段を選ばない所までなぜかその後のシューマッハそっくり。


追記・修正はDEAD ENDの「Good Morning Satellite」を流しながらお願いします。


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最終更新:2024年12月24日 13:09

*1 余談だが、このレースの1位はマツダ787Bの55号車。日本メーカ初のル・マン総合優勝であり、ローターリーエンジン唯一のル・マン総合優勝としても有名

*2 この年から参戦を開始した新しいF1チーム。2005年までF1に参戦して通算3勝を挙げた。2006年以降は様々な企業やオーナーの元へ売却され、現在はアストンマーティンとしてF1に参戦を続けている

*3 ルノーエンジンに使用していたエルフの燃料が、成分自体は合法のものだったが、事前にFIAに提出したサンプルと異なるものだったことが問題となった。

*4 燃料がサンプルと異なるものでも規則違反の成分を使用していなかったことが考慮されたため。ただし、ベネトン側には管理ミスの落ち度があったとして、同レースで獲得したコンストラクターズポイントを剥奪されている。なお、エルフは第2戦以降も原因となった燃料を使用し続けていたが、失格騒動の後に正式なサンプルとしてFIAにその燃料を提出していたため、問題にはならなかった。

*5 実際にはシューマッハと交際するより先にフレンツェンと破局していた。