アイルトン・セナ

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アイルトン・セナ - (2021/02/02 (火) 23:39:57) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2009/09/14(月) 01:11:42
更新日:2024/03/16 Sat 10:53:29
所要時間:約 7 分で読めます




本名アイルトン・セナ・ダ・シルバ
Ayrton Senna da Silva

1960年3月21日生
1994年5月1日没

ブラジル・サンパウロ生まれ。裕福な家庭で育ち、4歳からカートを始め、8歳でジープを運転できたという逸話もある。
後にフォーミュラ・フォード1600、2000、英国F3を経て、F1のレーシングドライバーになった。
F1では3度のワールドチャンピオンに輝いた(1988年、1990年、1991年)

イギリス「F1 Racing」誌において、史上最速のF1ドライバー、史上最高のF1ドライバーに共に1位で選出された。
日本では通称「音速の貴公子」として知られている。

若い頃には「ハリー」の愛称で呼ばれていた。

所属レーシングチーム(F1)
①トールマン(1984)
②ロータス(1985?1987)
③マクラーレン(1988?1993)
④ウィリアムズ(1994)



  • 経歴

弱小チーム、トールマンからF1デビュー。豪雨の第6戦モナコGPで快進撃を見せ、2位まで上がるがレース中断。前年までポイント獲得がやっとだったトールマンで、モナコを含め、3回表彰台に立ち、デビューイヤーで鮮烈な活躍を見せた。

翌年は名門ロータスに移籍、第2戦ポルトガルGPで初めてポールポジションを獲得。豪雨となった決勝では圧倒的な速さを見せ、終始トップを快走。最後は2位に1分以上の大差をつけて初優勝を決めた。第13戦のベルギーGPで2勝目を上げ、最終的にはランキング4位を獲得する活躍を見せた。

86年も2勝を上げ、ポイントランキング4位。しかし、ルノーのパワー不足を嘆き、当時最強のホンダを搭載するよう働きかけた。結果翌87年年念願のホンダエンジンを獲得したが、それでも2勝しか挙げることができず、ロータスのチーム力がもはや往年の力が無い事を悟る。

1988年、セナはトップチームの一角であるマクラーレンにホンダと共に移籍。チームメートは既にマクラーレンで2度チャンピオンを獲得していたアラン・プロスト。この二人は生涯ライバルとなっていく。

マクラーレンはMP4/4という他を圧倒する速さを持ったマシンの開発に成功し、チームチャンピオンは早々に決めた。一方で、ドライバーズタイトルはセナとプロストがシーズン終盤まで一騎打ちを演じていた。

そんな中迎えた第15戦の日本GP。ここで勝てはチャンピオンが決まるセナはポールポジションからスタートするも、痛恨のエンジンストール。ホームストレートが下り坂だったおかげでエンジンが息を吹き返し最悪の事態は免れたが、14位まで順位を落としてしまった。しかし、そこから1台、また1台と前のマシンを交わし、51周レースの27周目にプロストに追い付き、次の週の1コーナーでプロスト抜きトップに出た。そのまま最後まで走り切り、初めてのワールドチャンピオンを獲得した。

1989年はプロストと共にマクラーレン残留するも、波乱含みのシーズンとなった。
マクラーレンの二人は「スタートで直後に前にいた方がレースの主導権を握る」という紳士協定を結んでいた。これが二人の確執を生む火種となってしまったのだ。
第2戦サンマリノGP。スタートからセナが先頭でレースを進めるも、2周目に他車が起こした事故がきっかけでレースは中断。スタートをやり直すことに。ところが、再スタート直後に前に出ていたプロストを、第2コーナーでセナがオーバーテイクをてしまい、そのまま優勝。前述の紳士協定をセナが破る形で優勝してしまったため、プロストの怒りを買う格好となってしまった。*1
この事件により二人の間に大きな溝が出来てしまい、シーズン中のマクラーレンのガレージはまるで別チームの様な雰囲気が流れる程だった。

そして第15戦日本GP(鈴鹿サーキット)で事件は起こった。
予選はセナがポールを獲得したものの、スタートでプロストに抜かれる。
47周プロストに追いつき、セナはシケインで追い抜きを試みた。しかし、プロストはセナが並んだ瞬間にそのスペース塞ぎ、結果2台は接触。両者のマシンはそのままストップ。
プロストはマシンを降りてリタイア。しかし、ここで勝たなければチャンピオンの目がなくなってしまうセナはレースに復帰。マシンに傷を生い、修理のためにピットに入ったことから順位をいったん落とすが、最後は首位に返り咲きゴール。
しかし「接触後の復帰の際にシケインをショートカットし、正しいコースを通らなかった」という理由で優勝は取り消され失格に。チャンピオンもプロストの手に渡った。*2

1990年のシーズン前はFISA*3から日本GPの接触事故を引き合いに出され「危険なドライバーである」という理由からスーパーライセンスを剥奪されかけるが、セナはホンダの説得されてFISAに謝罪をし、この話は取り消しに。プロストはフェラーリに移籍し、ナンバー2ドライバーとして代わりにベルガーが加入したことで、マクラーレンの完全なエースドライバーとなる。

しかし、それでもセナにとって最も厄介なドライバーがプロストであることは変わらなかった。
この年の前半8戦でセナが3勝、プロストが4勝を分け合い、ポイントは僅かにプロストがリード。フェラーリはマシンバランスに優れていた一方、マクラーレンはホンダのエンジンパワー以外に頼れるものがない状況。しかし神懸かり的な走りで後半に入ってからの5レースで3勝と2位2回を記録し、ポイントでプロストを逆転。その後の第14戦スペインGPではプロストが優勝しセナがリタイアとなってポイント差が縮まったが、セナがポイント首位のまま再び第15戦の日本GPをむかえた。今回は、プロストが優勝しなければセナのチャンピオンが決定的になる状況だった。

予選の結果は、セナがポールポジション、プロストは2位。

決勝レースのスタート直後、プロストはセナの前に出た。しかし、1コーナーでセナがプロストのインに飛び込み、両者は再び交錯。セナのマクラーレンとプロストのフェラーリはコースアウトして砂煙の中へ消えていき、たった9秒で二人のレースがチャンピオン争いごと終わってしまった(この件についてセナは後に故意でぶつけたと発言した)。

結局セナは前年の復讐という後味の悪い形で、2度目のチャンピオンを獲得することとなった。

1991年もセナはマクラーレンに残留。ホンダはV12のエンジンを開発し、マクラーレンのマシンに搭載した。

迎えた開幕戦アメリカGP。セナは好調そのもので、ポールポジションからトップでレースを進めると、そのまま逃げ切って優勝。チャンピオンシップの出だしを最高の形で決めた。

そして、次のレースは、1991年のF1を語る上でも、セナを語る上でも欠かせないものとなる。

第2戦ブラジルGP。セナの生まれ故郷で開催されるレースであり、母国のファンが多く駆けつけるレース。だが、実はセナはデビューから7回このレースに挑戦したにもかかわらず一度も優勝をあげていなかった。それゆえに、セナが母国で勝てないのはF1ジンクスとして定着していた程である。

この年8回目の挑戦となった母国凱旋レース。今年こそと意気込んでいたセナは、予選でポールポジションを獲得し、決勝も序盤はトップを快走。

しかし、楽な展開ではなかった。2位にはウイリアムズのマンセルがつけ、セナはマンセルから猛追を受けていた。それでも、中盤にマンセルはタイヤのパンクや、この年ウイリアムズが導入したセミオートマチックギアボックスのトラブルが重なりリタイア。

これで2位に上がったのは、同じくウイリアムズのパトレーゼ。しかし、彼のマシンにもマンセルと同様にセミオートマチックのトラブルが起きて、無理な走行はできなくなっていた。これではトップに追いつくのは厳しく、セナは無難に走り切れば勝てる条件下にいた。

だが、セナの本当の戦いはここからだった。

セナの身体はシートベルトの不具合によってマシンに強く締め付けられ、思うような運転ができない。特に腕の疲労は酷く、ステアリングをいつも通り切ることも厳しくなっていた。

さらに、マクラーレンのギアボックスに不具合が出始める。まず4速のギアが使えなくなった。その後、3速と5速のギアも故障し、6つある内の、実に3つのギアが使えなくなってしまう。

シフトチェンジを続けていてはギアボックスが完全に故障してしまうと考えたセナは、残り7周で信じられない決断をする。なんと、ここからゴールまで6速のみで走り切ろうと考えたのだ。

低速コーナーではエンジンが止まりそうな低い回転数でエンジンを回し、直線の上り坂ではクラッチを蹴って無理矢理エンジンの回転数を上げる。そんな走りを毎周、毎周繰り返すセナ。マシンはすでに手負いになっているのに、その上で全く想定されない形で酷使されている。いつ止まってしまってもおかしくない。

ラップタイムはトラブルを抱えているはずのパトレーゼすらも大幅に下回り、トップのマクラーレンと2位のウイリアムズの差はどんどん縮まっていった。さらに、突然降り出した雨が路面を滑りやすいものにし、ドライビングをさらに難しくする。

そして、ファイナルラップ。一時は20秒以上あった差は3秒を切るまで縮まっていたが、それでもパトレーゼがセナの前に出るまでには至らなかった。6速のギアだけでマシンを走らせ、トップを守り切る。それを実現したのは、セナの技術と執念という他なかった。

全てを超えて念願の母国初優勝を果たしたセナは無線から絶叫の嗚咽を漏らした。疲労困憊になったセナはウイニングランすらできず、観客席前のバックストレートでマシンを止めた。そこで待っていたのは、熱狂する観客からのセナコールだった。

コースマーシャルの助けを借りでマシンを降りたセナは、マーシャルカーに乗せられて表彰台に到着。

表彰式でも憔悴しきった表情をしていたが、ブラジル国歌が流れると笑顔を見せ、受け取ったトロフィーを天高く突き上げると、今度はホームストレートの観客席から、大きな歓声を受けることになった。

悲願の母国優勝の後、セナは第3戦サンマリノGPと第4戦モナコGPを制し、開幕からの連勝記録を4に伸ばすことに成功。シーズン序盤のセナはまさに絶好調と言ってよかった。

しかし、中盤からウィリアムズのナイジェル・マンセルがセナのチャンピオンに待ったをかけた。

マクラーレンは相変わらずエンジンパワーこそ最強だったが、それ以外にライバルに比べ優位に立てる部分がなく、一方でウィリアムズはマシン全体バランスに優れいた。ウィリアムズに搭載されているルノーのエンジンは、単純な出力でホンダには及ばないが、それでもトップクラスにパワフルであり、一方で明らかにホンダのエンジンより軽くコンパクトだった。そして、シャーシ性能は明らかにマクラーレンを凌駕していたのだ。
序盤、ウィリアムズは信頼性不足からリタイア続きだったが、マシンの改良を重ねてその欠点を克服し、中盤にはウィリアムズが4連勝。セナとマクラーレンは、ライバルの優位を許してしまった。

その後、ホンダのエンジンとマクラーレンのマシンも改良が進み、セナとマンセルは互角の戦いを繰り広げた。しかし、マンセルがマシントラブルに加えて自身やチームのミスによって勝てなかったレースでリタイアを重ねてしまった一方で、リタイアを1回に抑えて、勝てなかったレースでもポイントを確実に稼いでいたセナが、チャンピオンシップでは優位に立っていく。

タイトル決定の地は、第15戦日本GP。またしても鈴鹿だった。ここでポールポジションを取ったのは、セナのチームメートであるベルガー。セナは予選2位。マンセルはその後ろ3位。決勝では、優勝しないとチャンピオンの権利が消えてしまうマンセルに対して、「2位のセナがマンセルを抑え込み、その間にチームメートのベルガーを逃がす」というチームプレーをマクラーレンが仕掛ける。セナの後ろで焦ったマンセルは、自らのミスでコースアウトしリタイア。これでセナの3度目のタイトル獲得が決定した。

1992年、セナはマクラーレンに残留し、チームメートもベルガーのまま。3年連続のチャンピオンを狙っていた。

ところが、シーズン序盤、前年のマシンをアクティブサスペンションという強力なデバイスで改良したウィリアムズとマンセルの独走を止められないでいた。
マンセルは、前年のセナを超える開幕5連勝。一方でセナは、信頼性のある昨年マシンの改良型で開幕の3レースを挑むも、まるでウイリアムズに歯が立たない。4レース目のブラジルGPで、急遽マクラーレンは完全な新型マシンを導入するが、セナもベルガーもマシントラブルでリタイア。熟成の進んでいないマシンは信頼性に欠けており、新車導入は完全に裏目に出てしまった。

そんな中迎えた第6戦モナコGPは語り草になるレースとなった。
セナは予選3位。その前にはウィリアムズの2台。ここでも大勢は以前の5レースと変わっていない。
しかし、決勝のスタートで、セナは予選2位のパトレーゼを抜き去ることに成功した。それでもマンセルのスピードにはついていけず、そのままの順位を走行。しかし64周にタイヤのトラブルでマンセルがピットに入り、セナはマンセル前に立つことに成功する。しかし、マンセルも諦めていない。新品のタイヤでスパートをかけ、あっという間にセナに追いついてみせた。

その後は、マシンもタイヤも優位な状態にあるマンセルが、前を伺い、狭い道幅と自らの技術でマンセルを押さえ込むセナが熾烈な戦いを繰り広げた。

殆どの全てのコーナーでセナに並びかけようとするマンセル、スタートから使い古し、ボロボロのタイヤで、いつスピンしてもおかしくないマシンを滑らせながら逃げるセナ、誰もその光景に目を背けることはできなかった。

結局、最後までマンセルはマクラーレンのマシンを抜くことができず、セナがこの年初めての優勝をあげる。ゴール直後にホンダのエンジンは息絶えるように白煙を上げ、マンセルは体力の消耗からか、表彰式のシャンパンファイトで地面に座り込んでしまった。

マシンもドライバーも限界まで力を出し切った死闘劇に、関係者、ファンが度肝を抜かれた。

しかし、この年は最後までウィリアムズの圧倒的優位は揺るがず、年間タイトルはマンセルの手に。更にホンダがこの年いっぱいでF1活動一時休止を表明。

1993年。前年休養をとっていたプロストが、マンセルの引退によって空席ができていたウィリアムズから復帰することが決まった。

一方で、セナもウィリアムズのシートを得ようとしたが失敗し、マクラーレンに残留することに。マクラーレンは撤退したホンダに代わり非力な中古のフォード・コスワース(V8)を搭載することになった。これにより、マクラーレンの唯一の武器とも言えたエンジンパワーを失うこととなった。

誰もがプロストの絶対的優位を、言い換えるとセナの大きな不利を疑わなかったが、セナはバランスが高じたマシンで予想外の好調ぶりを見せた。フォードのエンジンは出力こそ非力だったが、ホンダは無論、ルノーに比べてコンパクトで軽く、これまで大柄で重いエンジンを積んできたことで問題になっていたマクラーレンのシャシー性能の低さを改善することに成功していたのだ。
セナは開幕3レースで2勝を挙げる活躍。特に第3戦ヨーロッパGPでは、雨の中スタートで出遅れながらも、最初の1周目だけで5位からトップ立つという鬼神の如き追い抜きを見せ、そのまま3位以下を周回遅れにして優勝するという圧倒的なパフォーマンスを見せた。

一方、プロストはウィリアムズのマシンに不慣れで、スタートのミスやピットストップ時のエンジンストール、更にチーム側のミスに振り回され、思うようにレースができないことも珍しくなかった。

特に、第6戦のモナコGPではプロストはポールポジションからスタートするものの、その際フライングというミスを犯してしまい、それによるペナルティストップを受ける際にエンストで大きく遅れてしまうなど、失態を重ねてしまった。

そんな中セナは、プロストのミスと、トップを走っていたシューマッハのマシントラブルなどもあり同レースを優勝。モナコでは、通算最多の6勝目を達成した。

しかし、プロストがウィリアムズのマシンに適応しはじめてから優勝を重ね、更にはセナが中盤から暫く表彰台から遠退いたこともあって、最後はプロストがチャンピオンを獲得。

チャンピオン決定後の第15戦日本GPでは、予選2位からスタートしたセナが決勝では雨を味方に付けて優勝。久しぶりの表彰台に乗った。
最終戦のオーストラリアGPでは、セナは久々にポールポジションからスタート。そのまま逃げ切り2連勝を決めた。

レース後に、この年限りで引退を決めていたプロストと和解の握手。冷戦が終わった。セナにとって、生涯最期の優勝がこのGPであった。

運命の1994年、セナはマクラーレンからウィリアムズに移籍。引退したプロストの後任に収まった格好だ。マンセルもプロストも引退したことで、現役のチャンピオン経験者はセナだけ。そして、マシンはここ2年圧倒的なパフォーマンスを見せたウィリアムズ。セナの優位は誰の目から見ても明らかだった。

ところが、いざシーズンが始まってみると、セナの歯車は全くかみ合わなかった。

開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でミハエル・シューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。
第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にミカ・ハッキネンに追突されてリタイヤ。
開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。

実は、前年までアクティブサスペンションをはじめ、高度な電子制御技術でドライバーの運転を支援しつつ、マシンの性能をより多く引き出す「ハイテクデバイス」を使用したF1マシンが流行していた。

この年は、それらハイテクデバイスの多くが禁止され*4、それを最も上手く活用していたウイリアムズのマシンは、性能面における優位は以前より小さくなっていた。また、これまで高性能なハイテクデバイス搭載を前提として開発されていたウイリアムズのマシンは、それらの排除を命じられたことで、ドライバーにとって、非常に走らせにくいものになっていたのだ。

そんな中むかえた第3戦サンマリノGPは予選から重大事故が多発することになる。
まず予選1日目には、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こす。
結果的には鼻骨骨折というものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であり、セナは涙を浮かべならバリチェロを見舞っていたという。
翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュ。マシンの損傷はコクピットに穴が空くほど激しく、セナは心配のあまり、マーシャルカーで現場に駆けつけた。そこでセナはラッツェンバーガーの状態があまりに深刻であることを知ってしまった。
ラッツェンバーガーは、その後病院に搬送されたが、懸命の治療も虚しくこの世を去った。グランプリ中の死亡事故の発生は、F1では12年ぶりのことだった。

これら一連のアクシデントの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、
電話で当時の恋人、アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。それでも夜には落ち着きを取り戻し、レースに出場する決意を固めていたという。

そして迎えた5月1日決勝。
セナは開幕から3戦連続のポールポジションからスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。
そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速312km/hで走行中に突如マシンコントロールを失い、
そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突。セナが駆るマシン・FW16は大破した。

蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のセント・マジョーレ病院に緊急搬送されたセナであったが、
現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に死亡した。享年34だった。

イタリアの検察当局や司法当局がセナの事故における原因を調査。走行データから事故直前にセナのマシンに何らかの不具合があったことと、それに気がついたセナがブレーキを踏んで、激突直前には200km/h程度までマシンを減速させるなど、事故を回避するための行動を取っていたことが明らかになった。
調査前はセナのドライビングミスが原因とする説や、精神的に不安定だったセナが自殺を試みたとする説まであったが、まとめて否定される形となった。
しかし、既に大破したマシンを調査しても、事故前にどの部品にどのような不具合があったかまで具体的に分析することは困難を極め、最終的にはステアリングシャフトの故障が濃厚であるとしたが、明確な結論は出ることはなかった。



雨のセナと呼ばれるくらい雨のレースに強かった。
ただもともと得意だった訳ではなく、カートを始めた頃濡れたコースを走った時にボロ負けしたのが悔しかったため、
そのレース後路面に水をまいて走り滑り具合を研究したと言う。

天才と言われてるがかなりの努力家で負けず嫌いである。



  • 余談

趣味がラジコンの飛行機。日本の友人(ホンダ関係者)が毎年セナの為に作ってくれていた。

血液型はB型。左利き。

後述のように、「とんねるずの生でダラダラいかせて」や「笑っていいとも」など、日本のバラエティ番組に出演したことがある。

1992年の日本GPウィークのある日にフジテレビ系列の番組をジャック。宣伝や子供にカートの素晴らしさを伝えた。

また生ダラでアイルトン・タカこと石橋貴明とカート対決をし、(恐らくわざと)負けたために石橋にヘルメットをくれるよう要求され、セナも了承する。
が、それから程なくしてセナは事故で他界。ヘルメットはセナの死後に設立されたセナ財団を通し、石橋の手に渡った。

この番組に出演した際、セナはチョンマゲのカツラを被ったり、(石橋から半ば強引なフリによるものだが)ギャグをやったりと、
なかなか茶目っ気のある姿を披露してくれた。

食事がおいしいといわれたミナルディのモーターホームの常連客であり、その恩返しに現役最後の年は無給でミナルディから出走する計画をしていた。

なお、事故を起こした当該のウィリアムズ・ルノー・FW16は、イタリアの司法当局から2002年(事故から8年後)に返還された。すぐに車体は部品が第三者の手に渡ることを恐れ、ウィリアムズ家の敷地内で焼却され、土の中に埋められた。このため、再び事故の検証をしようにも車体の検証は不可能になってしまった。

なお、エンジンだけはルノーに返還され、ルノーのエンジニアがエンジンを徹底的に調査したが、特段エンジンには異常が認められなかった。また、ルノーの資本提携先である日産自動車もこのエンジンを調べ上げたが、やはり異常は認められなかったという。

甥であるブルーノ・セナが2010年にF1からデビューを果たし、2012年までの3年間を戦った。F1では叔父ほどの活躍はできなかったが、その後WECやフォーミュラEなど、様々なレースに参戦している。





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