PlayStation

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PlayStation - (2020/11/29 (日) 22:08:04) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2018/09/27 Thu 23:14:04
更新日:2024/04/18 Thu 23:20:41
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\ジョン!/

いくぜ、100万台。


プレイステーション(PlayStation(PS))は、1994年12月3日にSCEから発売された家庭用ゲーム機。名称は仕事に使うコンピューターを“ワークステーション”と呼んでいたことから、「遊びに使うコンピューター」という意味を込めて名付けられた。
90年代中頃からの、32bit以上のCPUを搭載し、3DCGを使用したゲームが登場した、所謂次世代ゲーム機戦争の勝者として知られている。

最終的な売上は、国内だけの実績でもライバルだったセガサターンNINTENDO64に対して、3倍超の差を付けている。

最終的な出荷台数は全世界で一億を越えており(国内に限れば1,900万台)、これは家庭用ゲーム機としては世界初の記録であった。
当初は失敗すると見られていた家電メーカーのゲーム業界参戦*1は見事に果たされ、後継機PlayStation2の時代まで絶対的な覇権を握ることになった。

メーカーの推奨する略称は『PS(ピーエス)』だが、ユーザーからは広く『プレステ』と呼ばれている。
ステは捨てに通じるから縁起が悪いとメーカーからは思われ『プレステ』と呼ばないで、との広告まで出されたことがある。
また、名称を引き継いだ後継機が順に出ていることから『初代PS(しょだいピーエス)』や『PS1(ピーエスいち)』と呼ばれることもある。

本体とコントローラーのデザインは、反対の声が大きい中で開発スタッフを支持して、独断でプロジェクトを了承させた、当時のSONY社長の大賀典雄の指示により、当時の基本だった任天堂タイプからの脱却を図る目的があった。
これを受けて任天堂でもグリップ型を採用したり、現在ではゲームと文字入力した時に出るアイコンがグリップ型コントローラーである位に世間に普及した。


【開発までの経緯】

『PlayStation』とは、元々はプロジェクトの中核である久夛良木健が付き合いのあった任天堂と共同開発していた、スーパーファミコン用のCD-ROM拡張機の名称だった。
しかし、任天堂側の諸事情や任天堂・ソニー間にて互換機やソフトの供給に関して意見の食い違いが起こったことによりこのプロジェクトは中止してしまう(詳しくは外部サイト等を参照)。

これも、ただでさえノウハウの無いSONYがゲーム業界に挑戦することについて、社内からも逆風が吹いている中での挑戦だったために開発スタッフからも「縁起が悪い」との声があったが、既に商標登録している関係等から押し通され、結果的にはリベンジを果たすこととなった。
時に問題視されることもある久夛良木氏の挑発的な発言はこの辺の事情があるからかも。


【発売後の戦略】

この第5世代に属するゲーム機より、現在にも通ずる光ディスク(当時はCD-ROM)によるソフトや、3Dポリゴンを利用した三次元的な見せ方やゲーム性等が主流となった。

また、家電メーカーであったSONYの本格的なゲーム業界の参入に伴い、ソニーレコード仕込みの、独自の販売ルートを築いて流通の流れを握り、店舗毎に好き勝手にしていた流通価格を一本化しようとしたり、将来的に本体の開発価格が抑えられることを見越して(・・・・)販売を開始し、実際に段階的に本体の値段を下げていき、興味を持った新規の購買層のニーズに合致させる等、上手く時流を読めた戦略も功を奏して、順調に販売台数を伸ばしていったという経緯がある。*2
ただし、中古ソフトの流通に関しては流石に反発の声が上がり、SCEが法的に忠告を受ける等して、これのみは以前のままで残っている。

当初は39,800円だった販売価格は、最終的に15,000円になっている。
ソフトも、高騰化して一万円を越えることもあったROMカセット時代に比べ、CD化に伴い5,800円から*3に抑えられた。再生産も容易になっており、最長でも6日で不足分が出荷されたと言われる。
在庫が余ることを危惧してか、サードパーティーに対しても初期出荷数を管理することを迫っていたが、当時の業界の顔の1人である飯野賢治と『Dの食卓』のPS版の初期出荷本数について揉め、実際にSCE側の目算が外れたことで、飯野が発表予定の新作である『エネミー・ゼロ』をPSからSSに変えて発売することをわざわざPSのイベントで行う、等の事件を経て廃止されている。
コストカットの為に裏面が黒かったのも特徴。*4

所謂ベスト版・廉価版と呼ばれる半額での新品ソフトの販売形態を始めたのもSCEであり、こうした動きは現在までのゲーム業界のスタンダードとなっている。

当初は、僅かに発売が早く、PlayStationが苦手な2D表示が得意だったことを活かしてアーケードからの高レベルな移植を実現してゲーマーに好まれていたSEGA SATURN(SS)に後れを取っていたと言われるが、安価なCD-ROMの特徴を活かし、新作ゲームの体験版やPV等をゲームや雑誌付録、店舗での無料配布させた宣伝や、現在でも話題に上がるユニークな自社制作CM等々で注目を集めていき、96年~99年には1人勝ちを収めることになったとされている。
特に96年はPS躍進の年であり、スクウェアの参入決定やら本体価格の値下げにより年末までに1000万台を売上げることになり、この時点で勝負を決めていた。

この、初代PSの頃の名作&迷作CMは幾つものまとめ動画が作られている位に人気がある。
劇団の人間だったのか、役柄にピッタリで非常に演技が達者な出演者達が魅力。
普通に知られている有名人もチラホラ居り、本格的に売れる前の仲間由紀恵なんかも出てたり。

また、PS立ち上げの中心人物にソニーミュージックの丸山茂雄氏がおり、彼は音楽番組に出演しているミュージシャンに300台程のPSを無料配布するという手法を取った*5。こうすることでミュージシャンがPSにハマり、彼らが番組内で「今、PSやってるんだ!」と話すことで格安宣伝へと繋げたりもしていた*6
その他クリエイターをアーティストと呼んで、インタビューを掲載させる等して注目を集めさせたりしたのも丸山氏発案によるもの。


ライバル機に比べて読み込みが長かったり*7、2Dが苦手だったりしたものの、真の意味でファミコンの立ち位置に就いたのがPSだったので、圧倒的に間口が広かったのが勝因と言えるだろう。

それまでは大人になるとゲームは卒業していたものだが、PSは幅広い年齢やゲーマーからライト層までと、幅広い層に受け入れられるゲームを登場させていたことや、90年代後半は正にゲーム機が娯楽の頂点の地位にあったためか、文字通りに子供から大人までがPSを購入したのである。

また、ファミコン(FC)~スーパーファミコン(SFC)までのキラータイトルであったスクウェアの『FFシリーズ』とエニックスの『DQシリーズ』はどちらもPSで発売された。
PS移籍に慎重的で登場が遅れたドラクエはともかく*8、発表が遅れていた任天堂の次世代機NINTENDO64を待たずに、スクウェアのPlayStation参入が決定したことは、ライバルであったセガと任天堂に大きな打撃を与えることになったとされる。

この他、ただ参入を待つのではなく、「全てのゲームは、ここに集まる」を謳い文句に、自ら安価で開発機材を提供して広くサードパーティーも集めた。
SCEが開発プログラムの提供までしたことについては一部で不満の声も上がったが、後には現場から非常に有難いものであると認識されたとのこと。
この典型が後に世界的ゲームディベロッパーとなるフロムソフトウェアで当時の業務用ソフト開発会社から「キングスフィールドシリーズ」の開発とヒットによって見事にゲーム開発会社への転身を遂げた。
当時は出来の悪い実写ゲームなんかが出たりしてCD-ROM機のゲームの評判が悪かったことや、3D表示による新しいゲーム開発に尻込みするメーカーも多かったものの、皮肉にもライバルとなるSEGAが『Virtua Fighter』等のポリゴンゲームを成功させたことで、挑戦の声を挙げるメーカーも増えたのだという。
また、アーケードでSEGAのライバル関係にあり、更には任天堂との仲が悪くなっていたnamcoは、PSと独占契約を結び、ローンチタイトルともなった『RIDGE RACER』や、色物転じて王道となった『鉄拳』はPS初期の牽引役となった。

世界的なヒットを記録したCAPCOMの『バイオハザード』シリーズが最初に発売されたのもPSで、こうした映画的な演出を含むゲームが多く登場していくようにもなった。

全世界で最高の売上を記録したのは『グランツーリスモ』で、当時の各車メーカーの社員が出演したCMも大いに話題を集めた。

マスコット的なキャラクターとしては、パラッパ(『パラッパラッパー』)やクラッシュ・バンディクー、ピポサル(『サルゲッチュ』)、トロ(『どこでもいっしょ』)等がおり、積極的にCMにも登場していた。


【主な仕様と形式番号】

PSの特徴としては、当時の常識だった2D描画が苦手で、3D描画が得意なことが挙げられる。
当時は表現が難しく高価だった3Dポリゴンを独自の構造で簡単に表現することが出来た為に、アーケード等からの移植には(ポリゴンゲー除く)向いていないかわりに、数々の魅力的なオリジナルゲームが多く発売された。

セーブデータが本体やゲームソフト由来で無くなり、フラッシュメモリー使用によるメモリーカードでの管理となった。
小型の差し込みメモリ形式となった事で持ち運びや小売りや末端ユーザー側のストックもし易くなった。
このメモリーカードは非常に堅牢な構造になっており、メーカーの公式発表によると余程無茶な使い方をしない限りは「200万回以上ものデータの書き換え、50年以上ものデータの保存に耐えられる」との事。
これによりデータが誤って消えることはほぼ無くなった一方、当時は容量が少なく何枚も何枚も購入することになったのはいい思い出。ゲームによっては1回のセーブ領域生成時に限界の15ブロック全てを使う様なゲームも。そして記録媒体であるメモリーカードを大量生産する事でも利益を出す様になっている

後に任天堂の後追いのコントローラー振動機能「デュアルショック」、アナログスティック追加型コントローラーも登場している。ただし、此方は電池の類が必要無いためコストに優れる等、より高性能と言える。

前述の様に将来的な技術の向上と安価な代替部品の登場を見越して本体が作られており、この久夛良木の目算通りに、PSは型番が進む毎に本体性能の最適化と余計なパーツの簡略化が進められ、販売価格も抑えられていった。*9

最後期の小型PSであるPlayStation One(SCPH-100)は、最後の型番となったSCPH-9000と中身は一緒であり、最初期のSCPH-1000から半分程度の大きさにまで基盤が小型化している。

この他、SCPH-5000では磨耗による劣化が問題視されていたCD読み取り部分が改善され、SCPH-7000では同じく読み取り部分の改善の他、画像処理プロセッサを変更したことによりポリゴン描画性能が向上しているが、以前の型番との違いがあっては不味いためか、公称では変化していないとされている。
当時のゲーム雑誌の読者投稿ハガキなどで多く見られた「PSを縦に置くと上手く読み込んでくれる」とか「うちのは裏返さないと読み込まない」等の話は語り草である。

その他、型番事にセット内容や、出力端子の仕様等が違っており、幾らで何のセットの時に買ったのか?は、ユーザーの話題の一つでもあった。




……2018年12月3日、誕生から24年を経て縮小復刻版『プレイステーション クラシック』の発売が決定している。
けど蓋を開けてみたらエミュレーターがオープンソースを流用、そのせいか機能面で他社の復刻機への見劣りやなにより操作遅延がががががという評判。
PSアーカイブスは内製エミュを使っていると噂され、こちらの不満は少ないのだがこの差は……


1 2 3!



追記修正お願いしますねPlayStationでした。


カッカッカッカッカッ
/プレイステーション\

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