アントニオ猪木

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アントニオ猪木 - (2019/07/15 (月) 13:36:06) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2019/07/14 Sun 23:48:03
更新日:2023/07/11 Tue 13:21:28
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2、

3、

ダーッ!




アントニオ猪木

“燃える闘魂”『アントニオ猪木』は、1943年2月20日生まれの日本の元プロレスラー、元政治家、タレント、実業家、詩人である。
本名は猪木寛至
日本最大のプロレス団体新日本プロレスの創始者としても知られる。
師匠の力道山、ライバルのジャイアント馬場と並ぶ日本プロレス界の始祖である。

アゴが長いことで知られ、全体的には不細工ではないのにアゴが長いという、一度見ると忘れられないビジュアルをしている稀代のカリスマである。
日本に於けるプロレス、格闘技ブームの頂点に居た存在とも言われ、現役時代の猪木が行った異種格闘技戦や大胆な仕掛けを用いた興行は、そのまま以降のプロレス、格闘技イベントの礎となったと言われる。
また、現役を退いた後もフィクサー的存在として干渉し、00年前後から中盤までの新日本プロレスの迷走については間違いなく猪木の仕業であった。

かつての勇姿や格闘技界、政治家としての活動を知らない世代からも「1、2、3、ダーッ!」の人や、ビンタの人、またはアゴの長いおじさんと記憶されているだろうが、その名声は外国が遠い時代から、遥か海外にまで轟いていた程であった。

猪木ビンタについては大学の講義に呼ばれた際に学生に殴らせた所、予想外にいいパンチを食らったことから、瞬間的に反撃してしまったのが闘魂注入としてネタ的な意味で定着したとされる。*1
しかし、近年のダウンタウンとの絡みの中で、その地位も弟子の蝶野正洋が引き継いだようである。*2

2013年からは再び政治活動に入っていたが、2019年6月に予てから噂されていた体調不良を理由に政界からの引退を発表した。

尚、2017年に自身の生前葬を行っている。


【生誕から力道山との出会いまで】

神奈川県横浜市鶴見区出身。
因みに、1991年からイスラム教シーア派に改宗しており、モハメッド・フセインの洗礼名を持つ。
四度の結婚歴があり、特に有名なのは二度目に結婚した女優の倍賞美津子との結婚生活(71 - 87)である。
倍賞との間に娘が、三度目の妻との間に息子が一人いる。

13歳の時に貧困から脱する為にブラジルに一家で移住。
再起を賭けたコーヒー豆農園等で寛至少年も重労働に勤しんだという。
幼少時代は自ら運動音痴だったと回想している程だったが、ブラジルで砲丸投げを始めとする陸上競技と出会い才能を開化。
“運痴の寛ちゃん”は遠いブラジルにて、長身と逞しい肉体を手に入れることになった。
そして、17歳の時にたまたまブラジルを訪れていた日本マット界の祖力道山に見出され、プロレスラーとなるべく日本に戻ることになるのだった。


【日本プロレス時代】

プロレスラーとしてデビューした日本プロレスでは、力道山の意向もあってブラジル出身の日系ブラジル人として紹介されていたが上記の様に生粋の日本人であり、力道山の逝去後に横浜出身と改めている。
日本プロレスでは力道山の付き人として付くも、烈しい性格の力道山からは日常的にしごき以上の暴力を受けていたという。
日本人離れした肉体と才能を持つ猪木の素質に注目した人間は少なくなかったものの、一番の師である力道山は猪木に辛く当たったとも言われる。
リングネームのアントニオは、鳥人アントニオ・ロッカに肖り、先輩の豊登が発案したと言われる一方で、力道山が出演していたTVドラマ『チャンピオン太』にて、猪木が演じた“死神酋長アントニオ”の響きを気に入り、それをリングネームにすると言うところを何とか頼み込んでアントニオだけにしてもらった……とする話なんかも伝わる。
力道山存命時は馬場を最初に売り出していたこともあり若い才能を燻らせていた猪木だったが、63年に力道山が急逝。
これを機に日プロは猪木を豊登、馬場に続く第三の男とするべく64年から海外修行に出す。
北米マットにて二年間の修行を積んだ後に帰国となったのだが、日プロに合流するべく向かったハワイで猪木を待っていたのは、先だって日プロを離脱していた豊登であった。
力道山の死後の日プロのエースは自分だと自負していた豊登だったが、めきめきと実力を付けていた馬場の勢いは止められず人気で水を空けられ、更には自らの会社の金の横領を理由に前年にクビになっていた。
そして、豊登は年上とは云え同期の馬場に対して複雑な感情を持っていた猪木に対しても馬場への対抗心を焚き付け、自分の陣営に引き込んだのである。

こうして、若き猪木は新団体東京プロレスのエースとなり、北米遠征でも鎬を削ったジョニー・バレンタインを招聘しての激闘でも注目を集めた。
……しかし、日プロの妨害により満足に外国人レスラーを招聘出来ない、TVのスポンサーが付かずにTV放映が叶わなかったこと等によって客離れが置き、豊登の横領や観客の少なさから興行を中止しようとしたことに怒った観客が会場に放火する事件等を経て僅か3ヶ月で解散することになった。

もちろん日プロは豊登の古巣に対するテロ的行為と、それに乗った猪木に対する怒りがあったが、団体のコミッショナーでもあった、当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあって日プロへと戻ることになった。

上記の様なトラブルを経ての帰還であったが、日プロは抜群のスター性を持つ猪木を冷遇することもなく、力道山の後を継ぐエースとなっていたジャイアント馬場に続く地位で迎え入れられた。

猪木はデビュー間も無くの時期に敗北を喫していた馬場との対決を望んだが日プロは許さず、替わりに馬場と猪木による日本プロレス最強のタッグチーム“BI砲”を結成させた。
この当時のニックネームは“若獅子”であり、これが後の新日本プロレスの練習生、若手レスラーの呼び名の元となっている。

当時、日プロのTV中継は日本テレビが放映権を握っていたのだが、後からNETテレビ(現:テレビ朝日)が参入し、日本テレビは馬場(及び坂口征二)の中継を、NETテレビは猪木(及び大木金太郎)の中継をそれぞれに独占することになった。

しかし、これ程の待遇を受け、東京プロレスの崩壊後も見捨てずに拾ってくれた恩義があるとはいえ、猪木は馬場との対戦を認めてくれず、更にはレスラーを働かせるだけ働かせておいて自分達は不透明で放埒な経営を続ける上層部との軋轢もあり、猪木はまたもや日プロから出ていくことになる。
この件については、猪木や馬場を初めとした全所属選手が一部の幹部の退陣を要求する嘆願書を作成していたのに上田馬之助*3に密告されて猪木に全ての責任が押し付けられた形となったと云う説や、猪木に近しい人物と一派が、猪木を立てて自分達が経営権を握ろうとしたのをクーデターだと感じた上田が馬場にチクり、これが元で猪木のみが責任を負わされた、とする説もあってハッキリしていない。
馬場にしても上り調子の猪木の活躍を面白いとは思っておらず、それが猪木の必殺技であったコブラツイストを“盗んだ”ことに繋がったとも言われる。


【新日本プロレス時代】

何れにせよ、こうして放り出された猪木は新たに藤波や山本小鉄らを引き連れて新日本プロレスを設立。
尚、直前に失職するようなもんなのに倍賞美津子と一億円挙式を挙げている。
最初はテレビ中継もなく、日プロの嫌がらせで有力な外国人招聘ルートも閉ざされる等、逆風の中のスタートだったが、猪木は実力の高さから日本では人気が高いが選手としては決して地位が高くなく、はみ出し者のカール・ゴッチを指導者兼選手として招き、旗揚げ戦にて猪木との高度な技術戦を披露して称賛を浴びた。
これによって、三銃士世代までの新日レスラーはゴッチの指導を受けることになったが昼飯時を過ぎても語ることもあったので若手には迷惑がられていたらしい。

そして、当の日プロでは馬場以上の商品価値を持っていたとも言われる猪木が消えた影響は大きく、NETテレビが猪木の放映権が消えた替わりに、馬場の放映権を要求してスポンサーを失いたくなかった日プロは了承するが、これに日本テレビと提供の三菱電機が激怒。
日本テレビは日プロ中継を打ち切りにしたばかりか、馬場に接触して新団体の設立を働きかけて猪木が出ていってから半年後には馬場も独立して全日本プロレスを設立した。
逆風の中でスタートした新日に対し、力道山の血族である百田家も協力した全日は、事実上の日プロの後継団体となり、日プロの有力外国人の招聘も可能としたばかりか修行時代に得た馬場の人脈によってNWA、WWF(現:WWE)、AWAの当時の三大タイトルの実力者が旗揚げ戦に集い、早速、日本テレビの中継もスタートするという豪華なものとなったが、これは逆を言えば日プロのテレビ中継の継続、新鮮味のない展開と映り、これに対して耳目を集めるために新しい展開を打ち出していったカリスマ猪木の一挙手一投足をファンも見逃せなくなっていった。

更に、日プロでは猪木も馬場も去って坂口征二がエースとなっていたが坂口は現在の八方塞がりを解消するべく猪木と接触して日プロと新日の合流を画策しており、結局は叶わず坂口が有力選手を引き連れて移籍する形となり、日プロは反対に壊滅した。
この動きに合わせて、かつて猪木の試合を放映していたNETテレビが中継に付いた。
年月が流れる中で深夜に回ったり規模を縮小したりしているものの、この中継(『ワールドプロレスリング』)は、唯一現在でも地上波で生き残っているプロレス中継番組である。

こうして、80年代以降は国内最大のプロレス団体にまで成長した新日本プロレスなのだが、未だに猪木イズムやストロングスタイルが団体のカラーとして語られることもあるが、90年代以降の新日ファンからは後述の行動から複雑な思いも抱かれている。


【格闘王者としての猪木】

特に、70年代を代表するスポーツヒーローであり、数々のアイディアにより注目を集め、国民的な人気を獲得した。
また、プロレスラーとして様々なジャンルの格闘家とリングで死闘を繰り広げる異種格闘技戦を最初にメジャーにしたのは猪木であり、現実を舞台としたドラマと生きざまは、後の創作世界にも影響を与えた。
特に、時のボクシング世界ヘビー級チャンピオンモハメド・アリとの世紀の一戦は当時は話題性の大きさに反して世紀の大凡戦と揶揄されるも、徐々に内情が明らかになるにつれて描写する声が挙がる等、数々の伝説を残している。
また、このビッグマッチの為に無理したことが後々まで新日を借金漬けとする切欠となり、その後にも続けられた異種格闘技戦は借金を返す為に行われたという側面もあった。(通常の放送のみならず特番枠でも放送されるため。)
実際、異種格闘技戦と言いつつもプロレスラーを相手に戦った試合もある程である。
一方、柔道金メダリストのウィレム・ルスカや、経歴は不明なれど見た目にも凄まじい飛び技(サンドバッグを軽々とはね上げたという)を使いこなすキックボクサーのモンスターマンとの名勝負や、極真空手の看板を背負ったウィリー・ウィリアムズとのセコンド同士も一触即発となった緊張感漂う状況の中での試合等は内容も含めて大きな話題を呼ぶと共に評価も受けた。

そうした意味でも猪木こそは日本の格闘技界の開祖でもあるのだが、この“猪木の異種格闘技戦”も、ここから派生したものはあくまでも“格闘技風のプロレス”だったとする評価が定説となっている。
実際、猪木は己に関わる凡てをプロレスにしてしまえる天才であり、それ故に真偽が確かめ難くなっている事柄も少なくない。
80年代以降は体力の衰えが見える中で次期エース候補の藤波辰爾を初めとした弟子世代の台頭を受け止める一方で長州力率いるジャパンプロレスの全日本プロレスの参戦や、前田日明のUWF設立と新日離脱の影には猪木が居たと囁かれる等、事件を提供した。

89年からは政治活動を開始し、落選する95年まではプロレスから離れていた。
政治活動については後述。

落選後は単発出場ながら再びリングに戻ると共に、97年からはUFOを立ち上げ、初代タイガーマスクこと佐山聡*4と組み、自らが黒船となって柔道王者の小川直也*5を送り込み、時のIWGPヘビー級王者橋本真也を一度は引退に追い込む等、エンタメ溢れる純プロレス路線で成功していた坂口体制の新日に楔を打ち込んだ。
その後も総合格闘技出身の有力な選手を送り込む一方で、98年に引退。

その後も総合格闘技系のプロレス団体やイベントをプロデュースしつつ、自らの息のかかった藤波と長州に指示して坂口体制に対してクーデターを仕掛け、これを切欠として新日はエース格の闘魂三銃士の中で橋本ばかりか武藤敬司も失い、本来は反体制のポジションで人気を得た蝶野正洋のみが残り、当時の現役トップに立った世代は三銃士に比べると未だ格落ち感が残るという寂しい状況に。

興行についても、純粋にプロレスと呼べる試合が行われなくなる等、00年代半ば頃まで迷走と呼ばれる状態を経験することになる。
結果的にはこの状況に奮起した棚橋弘至中邑真輔が台頭するまで業界の盟主の座が揺らぐ事態を引き起こしたのは、他ならぬ創設者の猪木だったのである。


【ジャイアント馬場との関係】

同期ではあるが、年齢は馬場の方が5歳上のため若い頃は馬場を兄貴分として慕っていた。
一方で、猪木は新日本プロレスを設立した後も全日本プロレスを設立して完全に袂を分かっていたジャイアント馬場を、尚も最大のライバルとして捉えて挑発を繰り返した。
それぞれにテレビ局やスポンサーを背負った状態では、如何に勝敗を決めることが出来るプロレスでも両団体の対抗戦は不可能であったが、猪木は本気かフェイクか、馬場との対戦を訴え続けた。

馬場も表向きは猪木を無視する発言をしていたが、当時のプロレス界で最高の権威を持っていたNWAが新日本プロレスの加入を暫く認めず、猪木にNWA王座への挑戦権が回らなかったことはNWAの体制のみならず、馬場の意見や馬場への配慮もあったのではないかと真しやかに囁かれてもいる。*6

更には、両団体共にビッグネームや、互いの団体で力を付けた有力な外国人選手の引き抜きを仕掛けていた。

この、引き抜き合戦が終わりを告げたのは最強外国人と言われるまでに育てていたスタン・ハンセンを引き抜かれたことに参ってしまった新日側が手打ちを申し出たからとも言われる。
そして、90年代に入ると両団体共に日本人選手を中心に据えるようになっていった。

何れにせよ、大きくカラーの違う両団体は猪木の発言もあり、後々までファンも巻き込んでの冷戦状態にあったのである。

猪木がこうした発言を続けたのも、矢張り同期でありながら年長で、若手時代には勝たせてもらえなかった馬場への劣等感があったからとも言われる。

如何に日本でも最高のプロレスラーと言われるようになっても、猪木は馬場への雪辱を果たせなかった。

前述のように長州を送り込んだのは猪木とも言われ、孫世代の蝶野と三沢光晴が対談から意気投合して交流が実現する等したものの、馬場の逝去に端を発する全日本プロレスの崩壊や反体に新日本プロレスが求心力を失っていた時期の対戦だったりと、かつてのファンが思い描いていたような馬場と猪木の対決を含む全面対抗戦は夢想に終わった。

……尚、馬場元子夫人の証言によればインタビューでは挑発的な発言をしていた猪木だが、プライベートで会った時などは馬場に親しく話しかけて飯を奢ってくれるように言ってくる等、敵意も無い調子のいい態度だったという。

2019年の『ジャイアント馬場没後20年追善興行』にて挨拶。
馬場関連のイベントに参加するのは初、共に出場した興行も含めれば1979年の『プロレス夢のオールスター戦』での最後のBI砲結成にて勝利を収めた後に対戦アピールして以来となった。



【プロレスラーとしての猪木】


公称身長190cm、体重は102kg*7と、レスラーとしても長身ではあるが体格は細身であった。

しかし、身体能力に優れスーパーヘビー級のレスラーとも渡り合い、高い受け身の技術や柔らかい関節からダメージを逃がし易い、関節技が極り難かったとの証言がされている。*8

抜群のプロレスセンスを持ち、権威があった時代の最後のNWA世界王者で、北朝鮮初のプロレス興行でメインイベントを戦ったリック・フレアーと同じく“箒と試合が出来る”名人と呼ばれる。

年齢を重ねてからは衰えたと言われる身体能力に対して“風車の理論”を提唱し、自分より力の勝る若い相手の攻撃でも自分を無にして受けきり、最後の一瞬で勝負を奪う戦い方により名勝負を生むと共にファンを驚かせた。
現在、“風が強ければ強いほど風車もよく回る。 転じて、相手の力を限界以上に引き出した上で、自分がさらにその上の力を出して相手を倒すことで、自分だけでなく相手も輝かせるという”意味合いで引用され、他ジャンルでも標榜されることがある。
この時期は一瞬で相手を落としてしまう“魔性のスリーパー”や腕ひしぎ逆十字固めによる大逆転がフィニッシュとなることがあった。

また、前田日明が語っているように“自分に関わるもの全て”をプロレスにしてしまえる名人でもあり、それが数々の検証不能の猪木伝説を生んだ。

一時期は“当たっていない”延髄斬りが代表的なフィニッシャーだったことや、タイガー“ジェット”シンに妻との買い物中を襲われたり、ハルク・ホーガンにIWGPトーナメント決勝でアックスボンバーを食らってエプロンから場外に吹っ飛ばされて人間の構造上そうならないのでは?との疑惑も議論され舌出し失神事件等、もう人生その物がプロレスだった人だった。

前述のアリとの対戦を聞きつけたパキスタンの英雄アラム・ペールワンから挑戦状を叩きつけられて受け入れ、ノールールマッチを謳われた戦いの中で英雄の腕をへし折って勝利(実際には脱臼)、まだ国際的に知名度が低かったパラオに足繁く通い、パラオ政府から島(イノキアイランド)を貰った等、漫画の様なというかそういう描写の元ネタとなったのが猪木であった。


【主な得意技】


プロレス史上で見ても三本の指には入る使い手であり、北米遠征中にこの技を隠し技としていたジョニー・バレンタインとの戦いを経て会得したとされる。
細身で手足が長いためかバランスよく極り、カウンターからの仕掛けの速さは他者の追随を許さなかった。
晩年はグラウンド式に移行する形での使用が多く、通常グラウンド・コブラは丸め込み技として使われることが多いのに対して、猪木は関節技として使用していた。

  • 卍固め
異名をオクトパスホールド(巨蛸固め)といい、ヨーロッパでは古くから存在していた技をゴッチが伝授したとも、ゴッチがメキシコ流のジャベ(ルチャ流の関節技)に触発されて生み出したとも言われる。
必殺のコブラツイストが前述の様に馬場に真似されたことから、完全なオリジナルホールドとするべく考案された。
名称は一般公募により“卍”の形に似ているということで名付けられた。
猪木最大の必殺技としてアントニオスペシャルとも呼ばれるが、テーズは「コブラツイストの方が効く」と証言してたり、猪木以外の選手が使ってもフィニッシュにならない、崩れた方が効く、グラウンド式の方が効く…といった風に、実際の威力については疑問符が付く技である。
『グラップラー刃牙』でも猪木をモデルとした猪狩最大の必殺技だが刃牙にdisられている。
晩年は上記の様に猪木もコブラツイストに回帰している。

  • 延髄斬り
ジャンピング式のハイキックで、大きく飛び上がりつつ足の甲を相手の首筋に思い切り叩きつける技。
日プロ時代は下手くそだったが、新日時代にはフォームの改良によって名手となっていたドロップキックを参考に生み出された。
元々はモハメド・アリとの対戦の為に生み出した技だったが、その威力に驚いたアリ陣営の抗議で使用が控えられ(替わりに飛びかかる様に相手の膝裏を蹴るアリキックが生み出された)、後のプロレスや異種格闘技戦にて必殺技として使用された。
食らったルスカ曰く「鉄の棒で殴られたような衝撃」があるとされるが、猪木自身のその技は傍目から見ても命中率が低いことで有名で、現役時代には延髄かすりと揶揄される程だった。
猪木が当たっていない延髄斬りで試合を決めるのは、動きが落ちた馬場のゆっくりな16文キックてわ試合が決まるのと同じプロレスの不思議と呼ばれていた程だったが、何故か晩年には改善して見事に当たるようになった。
現在のプロレス界では多くの名手がいることでも知られ、海外マットでもエンズイギリやラウンドハウスキック*9と呼ばれて定着している。

  • バックドロップ
テーズ直伝の急角度バックドロップ。

  • ジャーマンスープレックス
ゴッチ直伝のジャーマンで、ストロング小林(現:金剛)戦では勢いが付きすぎて足が浮いたことで知られる。

  • アームブリーカー
猪木は相手の腕を捻ってから肩越しに据えた腕を自分の肩に叩きつける形で使用。
シンやペールワン戦での相手の腕を折ったとまでアピールした鬼気迫る姿は伝説となっている。

  • 魔性のスリーパー
猪木のスリーパーは一瞬で相手を落として(気絶させて)しまう強烈なもので、レフェリーもチョーク*10か否かを判断する前に試合が決まってしまう、果てしなくグレーゾーンの技である。

  • ナックルアロー
相手の髪を掴み、弓を引き絞るようなモーションで叩きつける拳骨。
勿論、反則だが本人はポイントはずらしていると主張していた。
不甲斐ない試合をした者に対する制裁としても使われたが……殴っとるやんけ!

  • 張り手
前述の様に闘魂注入にも使われたビンタ。
試合では使わないのに定着した蝶野とは違い、猪木は普段の試合でも一瞬で相手をよろめかせる技とさて高速ビンタを使用していた。

  • リバース・インディアンデスロック~ボー・アンド・アロー
うつ伏せの相手の足を畳むように交差させ、真ん中に自分の足を差し込んで固定、後ろに倒れ込みながらダメージを与える派手な関節技。
猪木は拍手をしながら煽る等、見せ場としており、ここから相手の背中に両膝を当てた状態で引っくり返す弓矢固め(ボーアンドアローバックブリーカー)や、足のロックはそのままでブリッジしながら引っくり返った状態で相手の顔面を絞める鎌固めに移行するのが流れだった。


【主な獲得タイトル】


  • NWF王座
元は米国の地方タイトルであったが、前述の様にNWA王座への加盟を認められなかった新日本プロレスでは、それに替わる王座として初代王者のジョニー・パワーズを招聘して猪木と戦わせて実戦を通しての権威付けを行った。
後にNWFが崩壊したことから、事実上の新日本プロレスの管理するタイトルとなっていた。
結局、猪木にはNWA王座獲得のチャンスが回ってこなかったことや、WWF(現:WWE)王座も正式に移動が認められなかったことから、これが猪木を象徴する王座である。

  • IWGP王座
1981年にNWF王座を封印して猪木の構想に基づいて新日本プロレスオリジナルの王座として生み出されたのがIWGP。
しかし、当初は単なる王座ではなくリーグ戦を勝ち抜いた者に与えられる称号であった。
しかし、当初はNWA以上の構想とすべく規模をなるべく大きなものにしようという意識があったせいで、プロレスがある全ての地域を巻き込もうとして各地のプロモーターとの軋轢を生んだこと等により、結局は83年に日本国内のみの開催となった。
初代王者はハルク・ホーガン、二代目が漸く猪木であったが、この構想では開催も大変ということで普通の団体王座となったのがIWGP各種王座であった。
折しも、猪木と新日が煮え湯を飲まされたNWAといったテリトリーに根付いた権威的な団体は形骸化していた頃で、日米共にプロレスの在り方も興行よりもTVの方が大事になっていた頃であった。*11
猪木自身はIWGPヘビー級王座の初代王者に輝いているが、返上後は後の世代によって争われていくことになった。

  • WWF王者
1979年に提携していたWWF王者ボブ・バックランドを倒して獲得。
バックランド曰くビンス・マクマホンSr.に「かなり怒られた」とのことで、非公式記録として歴代王者にも記載されていなかったりされてりしていた。しかし、2010年に日本人初のWWE殿堂に迎え入れられている。


【政治活動】

1989年に政党名『スポーツ平和党』の代表として第15回参議院選挙に比例区から出馬して当選。
レスラー初の国会議員となる。
功績としては、90年に湾岸戦争勃発の危険性が迫る中でフセイン大統領が国内の在留外国人を事実上の人質として国外退出不可能とした事件に於いて、スポーツと平和の祭典を行うという名目で被害者家族と共に外務省の妨害を潜り抜けてイラクに向かおうとしたことが挙げられる。
外務省からの圧力もあって国内便は封じられていたが、駐日トルコ大使の助けも借りて41家族46人と共に出国。
イベントを成功させた上に、出国ギリギリのタイミングにてフセイン大統領より在留邦人ばかりか人質としていた外国人全員の解放が決定された。

中東では、前述の様に嘗て猪木がパキスタンの英雄アクラム・ペールワンを倒した事件が広く知れ渡っていたことも影響しているとも言われる。

91年には東京都知事選へと立候補したが、親交のある自民党の大物である福田赳夫や森喜朗からの説得により辞退しており、これについて不正な金銭の流れがあったとのスクープ記事を書いた記者と裁判を争った結果、勝訴している。

イラクの件で政治の世界でも英雄となり、疑惑もはね除けた猪木は1992年にも再選。
この時の選挙ではプロ野球から江本孟紀も出馬して当然していたのだが、この後に新日本プロレス以来の腹心であり、スポーツ平和党の幹事長となっていた新間寿による告発を受けてワイドショーのいい素材になる等、泥沼化した末に江本とも喧嘩別れした後の1995年の選挙では落選している。

この時に新間や元公設秘書によりぶちまけられた“猪木スキャンダル”については完全な捏造もあったとされるが、少女買春といった話題も含む内容は政治家としての猪木の名を地に落とすには充分であった。

そして、落選から約20年を経た2013年に共同代表の石原慎太郎の立ち会いの元で『日本維新の会』より出馬してトップ当選。

今回の参議院では議員氏名として“アントニオ猪木”を使うことを許されている。
15年に『日本を元気にする会』の結党に参加。
後述の様に個人的に関係の深い北朝鮮問題について独自の意見を述べる等していたものの、前述の様に体調不良を理由に2019年6月に政界引退を発表している。

尚、前田の自伝によれば父親が県会議員か何かだったと猪木から聞いたとのことで、本当ならば政治活動も血であったのかもしれない。


【北朝鮮との関係】

猪木曰く、元々は師匠である力道山の死ぬまで子供にも隠していたルーツである北朝鮮に力道山が捨ててきた娘が居るという記事を読み、会いに行ってみたいと思ったことが切欠で北朝鮮と関わるようになったという。

力道山の娘の夫はスポーツ大臣という立場の北朝鮮国家体育委員長で、この出会いを機に母国にも活躍を伝えられていた力道山の弟子で、自身も日本のスターである猪木は多くの政府要人と出会う機会を得たという。

これを機に、猪木は1995年に『平和の為に生み出した平壌国際体育・文化祝典』を新日本プロレスと全日本女子プロレスの協力により開催しており、この大会の二日目に動員(・・)された19万人という数はプロレス興行に於ける最大観客数であるという。
この大会では当時の新日本プロレスに参戦していスコット・ノートンやワイルドペガサス(クリス・ベノワ)の他、提携していたWCWからスタイナーブラザーズや、アメリカンプロレスの象徴たるリック・フレアーが呼ばれて北朝鮮で試合している。

佐々木健介が北斗晶をゲットしたりと政治的な意義もある大会だったがやっぱり無理した新日は8,000万もの負債を抱えることになったという。
この負債は、同年10月のUWFインターとの対抗戦にて完済されたとのこと。

……と、このように北朝鮮と猪木には深い繋がりがあるが、小泉政権下での拉致問題の表面化以降、悪化する北朝鮮への国民感情や近年の半島情勢の中で多くの批判を受けていた。
尤も、猪木は猪木として拉致問題等の解決についても考えは述べていた。


【実業家として】

リング上で英雄となった一方で、旺盛な事業への意欲を見せて『アントン・トレーディング』や『アントン・フーズ』『アントン・ハイセル』を立ち上げていた。
特に、ブラジル政府との協力により進めていたサトウキビの搾りカス(バガス)から精製したアルコールをバイオ燃料とするアントン・ハイセルには相当に入れ込んでいたものの、バガス自体には飼料としての価値が無く、しかも廃棄すると土壌を汚染する問題まであった。

猪木はこれを解決するためにバガスを加工して作った再生飼料を作って、それを家畜に食べさせて糞によってサトウキビを育てるサイクルを作ろうとするがブラジルと日本の気候の違いによりアルコールの発酵処理が上手くいかず、ブラジル国内で崩壊したインフレによる影響もあって最終的には数十億の負債を出したという。

これによって猪木はテレビ朝日に放映権を担保に12億円を肩代わりしてもらい*12、それでも足りずに新日本プロレスの売上を注ぎ込んだことが初代タイガーマスク(佐山)や長州の離脱を生んだとも言われる。

また、この失敗によって猪木は上手くいっていた商売の権利も手放さざるを得なくなった。(タバスコを日本に定着させたのは猪木。勘違いされがちだか“最初に持ち込んだ”訳ではない。)


倍賞美津子夫人との離婚の理由の一つとも言われ、散々な結果に終わったことに猪木は「ブラジルの偉い人達に騙されていた」とコメントしているが、21世紀を迎えた現在、バイオ燃料研究は積極的に行われておりブラジル政府も全力で取り組んでいる。

この他の事業としては、またもや永久機関の研究やら普通の所では居酒屋経営等。
『アントニオ猪木酒場』は現在も営業中である。

また、自身の活動によって負債は完済していると弟子の小川直也が証言している。

商売への意欲については、祖父や力道山からの影響を挙げている。


【主に真似した人物】

余りに特徴的であることから、お笑い芸人の物真似のネタの定番になっていたりしたが、特に持ちネタとしていた人物。
また、プロレス界にも猪木のスタイルをコピーした選手もいる。


【芸人】


  • 春一番
猪木自身からも公認された、猪木物真似専門芸人。
ビートたけしからも目をかけられていたが、若い頃から酒好きで05年には腎不全で死にかけていた所を猪木が見舞い、この時のビンタによって奇跡的な回復を見せて露出を増やした。
しかし、2014年に肝硬変により死亡。
猪木は春が掴みとしていた自分の物真似の様に「元気ですかー!」とコメントを寄せて死を悼んだ。

この他、芸人ではアントキの猪木、アントニオ小猪木、有田哲平、石橋貴明、有吉弘行、井出らっきょ、安田顕、大泉洋……etc.


【プロレスラー】


  • 石川雄規
藤原組長の弟子で、田中稔やモハメド・ヨネを排出した格闘探偵団バトラーツの代表で、尊敬する猪木のスタイルやムーブを使用していた。

  • アントーニオ本多
DDTプロレスで活躍していた猪木&イタリア人ギミックの曲者レスラー。
猪木ばかりでなく、往年の名レスラーのムーブを勝手に拝借している。
昔や痩せていたのにいつからか激太りした。
父親は俳優の渡辺哲であり、一緒に試合したこともある。



【猪木をモチーフとしたキャラクター】

前述の様に日本に於けるプロレス、格闘技ブームの祖ということもあってか、本人が創作に登場しているのとは別に、モデルとしたキャラクターが真面目な意味でもネタ的な意味でも数多く存在している。
勿論、アゴも(大体は)長いぞ。



  • 国会議員(浦安鉄筋家族)
プロレスラーで国会議員な大量のウンコを垂れる男。本名は不明。

  • グレート巽(餓狼伝)
夢枕獏原作で板垣惠介により漫画化もされた格闘小説。
作中最強候補の一人。

此方では微妙な扱いの往年のプロレス王者。
とはいえ初登場時は名勝負も見せていたのだが……。

  • アイアン木場(タフシリーズ)
「なめるなっ メスブタァッ」
猪木ばかりか馬場も入ってるプロレス王者。
強者オーラを放ってたが死んじまったしなぁ。

  • ファイターハヤブサ(プロレス/任天堂)
1986年に発売されたファミリーコンピュータ、ディスクシステムのキャラクター。
必殺技の延髄切りは失敗すると自分にダメージが返ってくる為使い辛いが、
その代わり決まった時の威力が高い。

【余談】


  • 余りにも有名なテーマ曲『INOKI BOM-BA-YE』は、世紀の対決を経てアリから贈られた曲。
    “ボンバイエ”とは、アリのルーツであるリンガラ語で“やっちまえ”の意味。
    尚、当時の倍賞美津子夫人のボーカルによる歌詞入りバージョンも存在する。

  • 上にもある通り歴史的な異種格闘技戦となったアリとの対決だが、アリキックを何度も喰らったアリのボクサー生命を変え、ひいてはボクシングの歴史も変えることとなった。
    この興行にはWWWFのビンス・マクマホン・シニアが噛んでおり、結果的にブルーノ・サンマルチノのレスラー生命もアメリカンプロレスの歴史も変えることとなった。

  • 「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」の出典は一休宗純ではなく、僧侶・哲学者の清沢哲夫の詩である(異同あり)。

  • 「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」(「戦う前」じゃないよ)、「時は来た! それだけだ」(by橋本真也)、「1・2・3・ダーッ!」は同じ日。
    猪木やプロレスに詳しくない人は案外気づかないことだが、歴史は浅い。特に上述の詩は引退の時のものである。




追記、修正、ダーッ!

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