登録日:2024/03/15 Fri 22:02:54
更新日:2024/11/30 Sat 08:50:46
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前田 日明は、日本の元プロレスラー。タレント。格闘技イベントプロデューサー。
1959年1月24日生まれ。大阪府大阪市出身。
本名(通名)、及び旧リングネームは前田 明。
現役引退後に在日韓国人三世であることを明かしており、公表より遥か前に帰化は果たしていたが半島名は高 日明である。
出自の反動もあったのか、政治的な発言をすることも少なくないのだが、思想的には保守というよりも右派的であり、帝国主義と揶揄されることもある戦時中の日本軍を支持していると公言している。
過去には民主党から出馬の打診を受けたこともあったのだが「政治的な方向性が違う」として決裂している。
1980年代を代表する格闘技、
プロレスのカリスマとして知られる一方で、強くなろうとしたのが『
ウルトラマン』の最終回で
ウルトラマンが
ゼットンに敗れたのを見てショックを受けたからだと堂々と話す程の
オタク的志向の持ち主でもある。
尚、
ゼットンには後に招かれた
ウルトラマンの公式イベント(2014年1月のニコニコ動画に於ける『
ウルトラマン Blu-ray BOXⅢ』発売イベント)にて勝利している。
また、格闘技界に於いては随一の、芸能界で見ても有数の
おっぱい星人として知られている。
【プロデビュー前まで】
とにかく伝説的な逸話が多い人物であり、その伝説はデビュー以前より既に始まっていた。
学生時代は大阪の伝説的不良であり、素行が悪いよりも何よりも喧嘩の強さで知られていた。
これについては、自身のルーツの一つである空手修行に於いて、通っていた無想館拳心道の道場が“実戦修行”を推めるような無茶苦茶な流派であった影響も大きい。
余りにも強すぎて相手が居なくなり、遂には力士に挑んでみようかと本気で考えた程だったものの、適当な幕下力士でも相手にしようと思っていた所でそこに居合わせた輪島大士を見て、余りのゴツさに流石に力士に挑むのは止めたとのこと。
余談であるが、この時の記憶があったことから後に
プロレスに転向した輪島が新人の立場でボコボコにされているのを見て(自分が若いながらもメインイベンターになっていたこともあり)複雑な気持ちになったという。
更なる余談としては、当時の大阪では赤井英和も同じく伝説の不良として暴れ回っていたのだが、学生時代には遂に出会うことはなかった。
……それというのも、取り巻き達が“ふたりが会ったらそれこそ洒落にならん”と思って接触しないようなしていたから……とのこと。
少年時代の前田の生き方に大きな影響を与えたのは他ならぬ父親であり、小学生位までは普通の家庭であったが、後に父親が別宅を作った影響からか離婚。
前田は父親に引き取られはしたものの放置子のような状態となった。
新しい家は工場の2階で、四六時中機械の作業音が聞こえるストレスの貯まる環境の中で読書に救いを求めて戦記物を好んで読むようになったことが後の政治信条を育てた。
父親は戦時中に片腕を失っていたが鍛えており、前田も
小学校から
少林寺拳法を高校からは前述の通り空手を習っていたがそれでも怖かったとのこと。
別宅に入り浸っていた父親とは一緒に住むことはなかったが、高校の頃に一人での食のたづきにすると理由を付けて無理を言って
バイクを買ってもらっている。
伝説の不良でありつつも受験には挑戦したが失敗。
米国で空手道場を開く夢を保ちアルバイト生活をしていた所で
佐山聡のスカウトを受けて新日本プロレスに誘われることになる。
【新日本プロレス時代】
77年に入門し、78年8月25日にデビュー。
当時のプロレスラーとしては珍しく、プロレスに憧れていた訳でもなければ、新日本プロレス入りに関しても
アントニオ猪木に憧れていた訳でもなかったという珍しい動機の持ち主。
新日本プロレス入りしたのは当時のフロントの新間寿に「モハメド・アリのジムと提携していて米国でボクシングのチャンプも目指せる」と
大嘘をこかれていたからだが、入門後は余りの練習の厳しさと環境の過酷さにそんなことは吹き飛んだという。
同期にはジョージ高野と
平田淳二がおり、才能に溢れていた3人は“三羽烏”として期待をかけられていたが後述の新日本プロレス自体の混乱という理由もあってか前田以外は大成したとは呼べなかった。(前田も真っ当な意味でのプロレスラーとはならなかった。)
練習量もそうだが、背は高くても少食で線の細かった前田はレスラーの食事量に慣れるのにも苦労したとのこと。……後には大食漢として認識されるまでになった兄やんとしては信じられない話だが。
高身長でハンサムな前田は瞬く間に女性人気を獲得。
出世コースに乗せられた前田は82年2月から欧米修行に出され、サミー・リー(佐山聡)と入れ替わる形で英国マットに登場して、サミーの弟のクイック・キック・リーとして売り出されて、同じく人気を獲得した。
タイトルまで獲得した後に、修行の総仕上げとして
カール・ゴッチの下に送られた前田はここで
ジャンボ鶴田を越える12種類のスープレックスを身に着けたと喧伝されて83年に4月に帰国。
新日本の若きエース候補として活躍していくことになる。
当時の新日本プロレスは初代タイガーマスクブームの末期の頃であり、前田はタイガーとはまた別のキックとスープレックスの使い手として注目を集める。
一方で、凱旋帰国の相手となったポール・オーンドーフが前田の繰り出したニールキックを受けて「あんな危険な技が許されるのか!?」と抗議する等、そのファイトスタイルと姿勢については批判と議論を呼び続けることになる。
【第1次UWF】
人気者として期待をかけられていた前田だが、84年2月の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱。
WWF(現:
WWE)にて新設されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座(名前だけ聞くと紛らわしいが“インターコンチネンタル王座”とは別物。)を獲得。
これは、当時は提携していたWWFの役員でもあった新間寿の働きかけで作られたタイトル。
この当時、新日本の資金を私的流用した件にて詰められ、新日本に猪木が留まれなくなる可能性も考えた新間が猪木の新たなる受け入れ先として設立した新団体UWF(Universal Wrestling Federation)の宣伝と箔付けの為に先んじて引き抜いていた前田の為に新設した王座であり、ベルトには堂々と“UWF”と掲げられていた。
実際、前田も猪木本人から「俺も後から行くから」と伝えられていたというが結局は『ワールドプロレスリング』の放送局である
テレビ朝日の介入により猪木の合流の件は有耶無耶となり、前田とそれに追随した選手達が新日本に不満を持って離脱した……という感じに扱われてしまった。
猪木から「お前だけで戻ってこい」とも言われたという前田だったが、他にも移ってきた選手が居る以上は自分だけ戻るわけにはいかない、としてUWFとしての活動を開始。
新日本を離れた
カール・ゴッチの指導もあってか徐々に従来の
プロレスよりもリアリティのある闘いをする団体としての個性を打ち出し、やがてはマニアより熱狂的な支持を受ける団体となり後の総合格闘技ブームの礎を作った。
しかし、後に合流したスーパータイガー(佐山聡)の独善的な振る舞いについて行けない選手達も出始め、ルールの複雑化や対立の表面化が目立っていくことに。
そして、85年の9月に佐山の預かり知らぬ所での新日本プロレスとの業務提携が話し合われる中で前田が佐山に不穏試合を仕掛ける事態へ。
この一戦が最後の止めとなったかのように85年9月をもってUWFは活動を停止。
前田と高田伸彦のみに商品価値を見出していた
ジャイアント馬場の全日本プロレスもその後の享受について接触を試みていたともいうが、結局は前田等はUWFとして新日本プロレスへと出戻ることになった。
【新日本プロレス復帰〜永久追放まで】
85年12月に業務提携が発表されて復帰した前田達は86年Ⅰ月に猪木への挑戦権をかけたUWF内でのリーグ戦の決勝にて前田と藤原喜明が対戦して薄氷ながら藤原が勝利。
前田以下が見守る中で猪木に挑むが、猪木の反則も織り交ぜた戦い方の末に藤原は敗北。
怒りの前田が試合後の猪木に報復のハイキックを見舞い「猪木なら何をやってもいいのか」と批判したことで新日本vsUWFの対抗戦が勃発。
かつては同じ釜の飯を食っていた同胞ながら道を違えた者達によるイデオロギー対決(というよりは従来の
プロレスをUWFがリアリティのある闘いで破る構図)に観客は熱狂し、
長州力の離脱とジャパンプロレスの全日本プロレスへの電撃参戦などにより屋台骨が揺らいだと言われていた新日本の久々の起爆剤となった。
一方で、UWF勢の中でも特に前田の戦い方についてはレスラー間から不満が噴出。
アンドレ・ザ・ジャイアントとの伝説的な不穏試合や、ディック・マードックにバックヤードで「お前がしたいのは試合か?喧嘩か?」と詰められたとされるのはこの頃の話である。
しかし、86年6月には
藤波辰巳と伝説的な流血戦を展開。
危険と言われていた前田の蹴りを受け切っての藤波の相打ち決着に前田は悔しさではなく「
無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です。」……と賛辞とも感謝とも取れる言葉を述べた。
そして、86年10月にはキックボクシング王者のドン・中矢・ニールセンに挑んだ試合にて同じく異種格闘技戦に挑むも不完全燃焼に終わった猪木とは違い、名勝負としたことでファンの圧倒的な支持を受けることに成功。
これにより、前田は“新格闘王”の称号を獲得して時代の寵児となった。
その後、87年2月から全日本プロレスに参戦してトップ級の活躍をしていた長州が不穏な動きを見せ始め、古巣である新日本に5月に復帰。
UWF勢との絡みも期待されていたが長州は「俺達の時代」を叫んで前田にも共闘を呼びかけた。
こうして始まった長州・藤波・前田を中心とした若い世代と猪木らベテラン世代
と、言いつつ凱旋帰国後の誰よりも若い武藤敬司が入れられていたが。の対決アングルが組まれたもののカード編成的に限界が生じたからか本隊vs長州軍の構図に……一方で、存在感が薄まることを危惧した前田が長州を批判する等していた中で、87年11月にタッグで長州がサソリ固めを仕掛けた所を前田が最後の死角からの強烈な顔面ハイキックでカット……する所か顔面骨折の重症を負わせた
顔面蹴撃事件が発生。
これを重く見た新日本は前田を解雇。
処分される前田に追随する形で藤原や高田らも退団し、UWF勢は事実上の追放となった。
そして、前田達は再び自分達の居場所を自分達で作るための準備に取り掛かり、88年4月に第2次UWFが結成されることになる。
【第2次(新生)UWF】
88年5月に第2次UWFの旗揚げ戦が行われた。
過去の失敗を経て、第1次よりも更に脱
プロレスを図った試合形式となりラウンド制で3カウントルールが廃止、決着はギブアップかKOのみとなった。
通常の
プロレスとは違い月一回のビッグマッチ形式に絞る、等の後にU系団体の基本となるルールやシステムが採用され、入場にレーザー光線やスモークが焚かれるといった格闘技系イベントにも引き継がれた演出が採用されて熱狂的な信者を生むことになったが前田と不透明な経理を続けていたフロントとの軋轢が大きくなる中でフロントを公の場で批判した前田が90年10月に出場停止処分に。
これを受けて90年12月には船木誠勝の呼びかけで試合後に前田を含む所属選手全員がリングに上がり団結をアピールするも、これを受けて社長の神新二は所属選手全員を解雇。
91年Ⅰ月に自宅マンションに選手達を集めた前田は今後の享受を問うが、これに宮戸優光や安生洋二が反発。
前田は選手としても解散を宣言し、第2次UWFは前田のリングス、高田、山崎、宮戸、安生のUWFインターナショナル、藤原に船木と
鈴木みのるが帯同した新UWF藤原組に分裂することになった。(後に船木と鈴木が中心となって独立してPANCRASEが設立。)
【リングス時代】
前田は世界の未知なる強豪を呼び寄せる場としてリングス構想を打ち出し、WOWOWがスポンサーについて91年3月に設立。5月より興行スタート。
ヒントとなったのは、新日本プロレスがペレストロイカ後のソ連よりレッドブル軍団と称してアマレス選手達を招聘してプロレスデビューさせたことで、前田もそれに倣いソ連やオランダをメインに日本では無名だった選手達を招聘してプロとしてデビューさせて試合を行った。
WOWOWは元々は第2次UWFを目玉コンテンツとして取り込もうとしていた中での解散騒動だったが、最もネームバリューのある前田のスポンサーになることで失意の前田を救うと共にリングス構想を救ったのだった。
しかし、スタート時の正式な所属選手は前田のみで、前田が居なければ興行を開く意味がないという中で旗揚げ2戦前の練習時に前十字靭帯断裂。側副靭帯損傷の重症を負ってしまうことに。
上述の理由から膝にニーブレスを付けて強行出場を続けたが、これが現役生活を縮めて現役生活の末期にかけてウェイトコントロールを困難とする理由にもなっていった。
後に軌道になったリングスが前田に頼らずとも興行の目玉が揃えられるようになると共に手術に臨み長期欠場している。
リングスが生んだスター選手としては、ディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久、長井満也、成瀬正由らの名前が挙げられる。
【現役引退】
1999年2月21日に40歳を迎えたタイミングで現役引退。
現在の視点からすると早すぎる気もするが、それだけ膝の重症を長期に渡り放置したことが肉体の負担になっていたのであろうと分析される。 バーリ・トゥードが話題となり、かつての弟分の高田がヒクソン・グレイシーに敗れた時には自らも対戦表明を出していたこともあった前田だったが、最後の対戦相手は、当時“霊長類最強”とも謳われていたロシアのアマチュアレスリング無差別級チャンピオン・アレクサンダー・カレリンであった。
当時のカレリンはまだ現役であり、前田のキックをカレリン陣営は警戒したがカレリン自身が打撃ありのルールを了承した。
カレリンは普段通りのアマレススタイルであったが前田は圧倒されて判定負け。
カレリンにとっても唯一の興行としての試合となった。
その後、02年にWOWOWが次年度の放送打ち切りを決定したのに伴いリングスは活動停止。
しかし、リトアニア、オランダ、ロシアではリングスの火は消えずに存続していくこととなった。
その後の前田はタレント業を行う一方で格闘技界にも携わり続け、ビッグマウス(ビッグマウス・ラウド)、HERO'S等のイベントにスーパーバイザーとして関わるもトラブルにより関係を絶っている。
08年からは素人の腕自慢を集めて競い合わせるというコンセプトとするTHE OUTSIDERをプロデュース。
ここから朝倉未来らが輩出されている。
【主な得意技】
■キック
格闘技人生のルーツとなる
少林寺拳法と空手の蹴りを原点としているとされる。
長身の前田の蹴りは膝から下が伸びてリーチが長く軌道が読み難かったという。
■スープレックス
カール・ゴッチの下で修行した後に以下の12種類のスープレックスを持ち帰ったと喧伝し、道場での公開では全種を、実戦では“ダブルアームロックサルト”を除く11種類を公開している。
また、公開練習では披露していないので数えられていないが、実戦でタイガースープレックスを繰り出したこともある。
- ジャーマンスープレックス(相手の背後から胴を抱えて真後ろに投げる。前田はフィニッシュではなく試合の途中で無造作に出すことが多かった。)
- フルネルソンスープレックス(ドラゴンスープレックス。後方から相手を羽交い締めにした状態から後方に投げ固める。元祖の藤波との一戦では掟破りで放った。)
- リバースアームサルト(ダブルアームスープレックス・ホールド。正面から相手の両腕をリバースフルネルソンで捉えてから後方に投げ固める。通常、ダブルアームスープレックスは捻りながら後方に投げつける欧州式か、大きく弧を描きながら投げ捨てる米国式かの違いがあるだけだったので投げ固めていく前田の技は珍しかった。技の形の都合上、固めても相手の両肩はマットに着かないので本来はフォール扱いにならないはずなのだが……。)
- ダブルリストアームサルト(正面から相手の手首を取り、脇の下に頭を差し入れて後方に反り投げる。)
- ウンターグルフ(通常型のフロントスープレックス=オーバーヘッド・ベリートゥベリー。正面から相手の胴を抱えて後方に投げていく。前田自身“お気に入り”と語ったこともある技。)
- リバースサルト(正面から相手の脇の下に両腕を潜り込ませた状態で後方に投げる。)
- スロイダー(相手の片腕を巻き込んでの捻り式ベリートゥベリー。現在でも非常に使い手が多い。)
- ハーフハッチ(正面から自分の左脇に相手の首をとらえ、右腕で相手の左腕を抱えるようにして後方に投げる。魔神風車固めに似ているが左腕はハンマーロックでは固めない。)
- サルト(閂スープレックス。相手の両腕を自分の脇の下に捉え、閂で絞りつつ後方へ投げる。)
- ダブルアームロックサルト(正面から相手の両腕を交差させて捉えた状態から後方に投げ捨てる。唯一、実戦投入されなかった幻の技だったが、漫画とはいえWeb連載後の新『キン肉マン』にてキン肉アタルが“グレネードスープレックス”と称して再現使用。)
- クォーターネルソンサルト(立ち状態でアマレスのクォーターネルソンロックに捉えた相手を後方に投げていく。)
- デアポートスロイダー(通常とは違い、正面から相手の首を抱えるようにして固めてからのオーバーヘッド・ベリートゥベリー)
現役時代(特にプロレス時代)の前田の身体の柔らかさは有名で、後輩のこちらは身体が硬かったことで有名な蝶野正洋とお互いのYouTubeチャンネルで交換しあった際の対談では、全盛期に本気で曲げたら後頭部が踵に付いたとのこと。
■キャプチュード(アキラスペシャル)
和訳を“捕獲投げ”といい、前田自身が考案して開発。
“捕獲投げ”の名称通り、相手のキックをキャッチした後に繰り出すカウンターを目的とした投げであり、山崎一夫とのスパーリング中に偶然に開発されたとか。
相手の足を巻き込むようにして相手の股下と対角線上の肩口から相手の首を捉えて鋭い角度で後方に叩きつけていく。
前田自身は真っ直ぐに後方に叩きつけるものと斜め後ろ方向に反り投げるものを区別なく使用していたが、現在の海外マットではそれぞれに“キャプチャー・スープレックス”と“ブリッジド・キャプチャー・スープレックス”として区別される。
角度によっては脳天から叩きつけることも可能なのだが、危険すぎる為か前田は相手の首を抱える形でダメージコントロールしたり、反りをキツくすることで背中から落とすことが殆どで基本的にはフィニッシュとしても用いていない。
ちなみに“キャプチュード”とは前田自身の代表的な入場テーマ曲の曲名でもあり、原曲は英国の
プログレッシブ・ロックバンド“CAMEL”が1981年に発表した、終戦を知らないままに着任先のフィリピンのルバング島で約30年を過ごした後に身柄を発見されて帰国した小野田寛郎元少尉の物語に着想を得たアルバム……『NUDE』の中の一曲(小野田が確保される場面を描いた曲なので“キャプチュード(捕獲)”と命名。)である。技名も元々は“アキラスペシャル”と呼ばれていたのが曲名に由来(そして、意味が偶然にも一致)する“キャプチュード”としたという経緯がある。
……更なる余談であるが“キャプチュード”は
日本語特有のローマ字読みであり、本来の発音は“キャプチャー(ド)”が正しい。
■フライングニールキック(ニールキック)
■大車輪キック(フライングニールキック)
一説には空手の胴回し回転蹴りを元に生み出したとも言われる、全身をぶつけるように放つ豪快な蹴り技。
前田の使うニールキックとは後ろ回し蹴りとレッグラリアットを組み合わせたような技のことであり、大車輪キックは自身の体を横方向に後方回転させながら大きく広げた両足をぶつけていくような技となっている。
尚、現在のプロレス界では大車輪キックがフライングニールキックの名前で定着しており、元祖である前田の蹴り技に用いられていた名称とは差異がある。
何方も基本的には足全体をぶつけていくような当て方となるのだが、体重の乗った踵部分がピンポイントで当たってしまうこともあった。
また、単に大の男の体重が2倍〜3倍もの勢いになってぶつかって来るこの技は
プロレスとしても許容出来ないダメージとなるので、特に基本的な動きしか出来ない外国人選手には嫌がられたのだとか。
伝説の藤波戦にて藤波辰爾を大流血させたのも額の端を切ってしまった大車輪キックの踵だった。
この大車輪キック=フライングニールキックは現在のプロレス界では流行技となっている。
ちなみに、上述のように元祖の前田の場合は現在で言うフライングニールキックが“大車輪キック”と呼ばれていた訳だが、海外では同技にはフライングニールキックの名称が用いられておらず、大車輪キックを直訳したような“フライングホイールキック”の名前で定着している……と、少しややこしいことになっている。
海外ではニールキックだと意味が通じないらしいし。
■首相撲からの膝蹴り
自身の体格を活かして、正面から相手の首を捉えてボディに膝蹴りを叩き込む。
迂闊に顔面で受けてしまった田村潔司が眼底骨折の重傷を負い長期欠場に追い込まれたことがある。
■逆片エビ固め
ドン・中矢・ニールセン戦での決め技となり、
プロレスらしいこの技で異種格闘技戦に勝利したということもあってか、一躍脚光を浴びた。
【余談】
- 前田の若手時代はスタン・ハンセンが新日本で大暴れしていた時代であった。
当時のハンセンは反則負けした後などに腹いせに大暴れしては止めに入った選手や若手にウェスタンラリアットを見舞うことがあったのだが、背の高さが災いしてか目の悪いハンセンに毎回のように捕まったのが前田であり、強烈な一撃を見舞われていた。
後に“新格闘王”として、プロレスの枠を越えた活躍をしたと認識されていく前田だが、現役時代で最も痛かった技は?という質問に対して試合後にハンセンに食らったラリアットと答えている。
- 1999年に元同門の後輩、安生洋二から後方から奇襲的に殴られて失神するという事件が発生している。(前田日明失神事件)
この件については非常に膨大な前後関係や関係者間の細かな軋轢斗紆余曲折があり、検証が非常に難しい事件として有名。とりあえず、事件は前田が安生を訴え略式起訴で20万の支払いを命じる形で決着している。
また、これ以外にも暴行やトラブル関係の逸話が多い人物である。
追記修正は巨乳を熱く語りながらお願い致します。
- 赤井英和とは一度鉢合わせてしまい一触即発のところをたまたま居合わせた岡田彰布が仲裁したので事なきを得たなんて話もある。 -- 名無しさん (2024-03-16 17:20:59)
- 亀田三兄弟の父親の亀田史郎も三兄弟で兄弟で前田に喧嘩売りに行ったらしばかれて帰ってきたって史郎本人が言ってた -- 名無しさん (2024-03-16 19:08:35)
- ネットで「ガチ童貞」と呼ばれてるのを見て本当の意味で童貞だと思ってました(小声) -- 名無しさん (2024-03-17 01:46:27)
- LIVEALIVE現代編主人公の高原日勝の「日」の人「まえだあきら」と同じで日を発音せず「たかはらまさる」となる -- 名無しさん (2024-08-14 16:51:19)
最終更新:2024年11月30日 08:50