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タイガー・ジェット・シン

登録日:2026/05/04 Mon 20:47:25
更新日:2026/08/01 Sat 10:11:20
所要時間:約 18 分で読めます




タイガー・ジェット・シン(Tiger Jeet Singh)は、インド出身でカナダ国籍を持つ元プロレスラー。実業家。(1944年4月3日〜)

全盛期の公称サイズは190cm/120kg。
意外な程に大柄で手足が長く均整の取れた筋肉美の持ち主でもあった。

日本ではアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークと並ぶ“世界三大悪役レスラー”と呼ばれ、現役時代には本気のヘイトを、活動が落ち着いた後には多くのリスペクトを獲得したプロフェッショナルであった。

インド人を象徴するターバン姿のエキゾチックな扮装に身を包み冷静に考えるとおかしいフェンシングのサーベルを手に入場時から周囲を巻き込んで暴れ周り、試合においても対戦相手を好き勝手にボコボコにした末にノーコンテスト(無効試合)にするという定番パターンを完成させて長期に渡り活動すると共に自らの姿を日本の風景の一つとして溶け込ませてしまった。
スタート時から暫くは苦難を強いられた新日本プロレスが軌道に乗れたのも実はシンの存在と活躍が大きかったと分析されるなど、その功績は枚挙に暇がない。

……インド人のイメージがある意味で歪められたり、サーベルがインド由来の武器と勘違いさせたのはシンの影響もあっただろうが、その程度は可愛いものである。後でダルシムとか出たし。

……因みに、リングネームは日本では“タイガー・ジェット・シン”とされてしまっていたものの、本来の発音と表記では“タイガー・ジート・シン”とされるのが正しい。(※サンスクリット語(古代インド語=梵語)に由来するインド系の人名に広く含まれる言葉で、翻訳すると「勝利」や「征服」を意味する。)
本名はジャクジート・シン・ハン(Jagjit Singh Hans)

つまり、リングネームは英語とサンスクリット語と本名が合成されたものであったものであったようだ。
タイガー(虎)の通称から、日本でも“インドの猛虎(狂虎)”や“狂える虎”などのニックネームで呼ばれた。
90年代末期にWWF(現:WWE)に上がったこともあるタイガー・アリ・シンは息子。


【概要】

インドのパンジャーブ州ルディヤーナー生まれ。
後にカナダ・トロントに移住すると共に定住した。

……過去の経歴については不明な部分も多く、事実ではないともされるが軍隊を退役後にインド・パキスタンの英雄的レスリング選手であるグレート・ガマに弟子入りして“”ガマ流レスリング”を習い覚えた後にカナダに移住してプロレスラーになったとされる。

カナダに於いても北米遠征中のジャイアント馬場にシュート技術を仕込んだことでも知られるフレッド・アトキンスから正統派レスリングを学んだともされている。

……経歴については上記の通りで眉唾な部分もあるものの、本物のレスリングの心得があったのは確かであり、日本では反則主体のスタイルを貫いていたものの、実際にはレスリングの強豪であることを窺わせる場面も確かに見られていた。

因みに、日本では先に挙げたブッチャーに勝るとも劣らないレベルの極悪レスラー、ヒール(悪玉)専門のプロ……として知られているが、実はシンが悪役として認識されていたのは日本のみであり、地元のトロントと日本以外のテリトリーでは正統派の実力者として認識されていたようで、地元カナダに至ってはベビーフェイス(善玉)として地域を代表して活動していた。

遠征の時には流石にヒールの立場の場合もあった訳だが、その時も後の日本での狂乱ファイトの“猛虎”とは大違いの正統派レスリングで戦うテクニシャンであった。
このカナダでの活動時のリングネームは“ヒンズーハリケーン”だったともされている。

また、プロレスから離れた部分では極めて高名で優れた実業家としての顔を持ち、北米地域のインド人社会では相当な大人物であったりする。

【来歴】

■デビュー〜地元カナダでの活躍

プロレスラーとしてのデビューは1965年9月で、トロントを中心とするNWA傘下のメープルリーフ・レスリングにて活動。
師匠のフレッド・アトキンスと組んで、カナダの英雄的レスラーであるホイッパー・ビリー・ワトソンとブルドッグ・フラワーからタッグ王座を奪取するなど、本当に正統派レスリングを使う有望株として活躍していたのが窺える記録が残っている。

67年には日本でも有名なジョニー・バレンタインを破ってUS世界ヘビー級王座を獲得。
……本当に来日するまで日本で名前が知られていなかったのが信じられないような活躍ぶりである。

同タイトルの獲得によりカナダ地域のトップ選手としての地位も確立したらしく、同年には遠征してきた時のNWA世界王者ジン・キニスキーやWWWF(後のWWF→WWE)王者ブルーノ・サンマルチノに挑戦している。
また、獲得したUS世界ヘビー級王座についても防衛戦にてドン・レオ・ジョナサンやエドワード・カーペンティアといった日本でも名前を知られていた強豪を相手に防衛を成功させている。

……一応は、人種的な都合もあったのかデビュー時のポジション的にはヒールであったらしいのだが、そもそもが正統派のスタイルであったためかベビーフェイスに転向。
元々、カナダではインド系移民が多かったことも手伝い、地域によっては爆発的な人気を獲得。
71年に遠征してきた大物悪役にしてデトロイト地区のボスとして知られていたザ・シークを迎え撃った試合では、当時にして18.000人もの観衆を集めたという。

この勢いのまま北米地域を代表する選手の1人として南半球への遠征にも参加。
オーストラリア(豪州地区)にて、同地の顔であったスパイロス・アリオンと対戦した他、ミスター・フジと組んで日本でも知られるマーク・ルーイン&キング・イヤウケアから豪州版IWAタッグ王座を奪取する活躍を見せる。
また、香港などにも遠征していたとする報告がされており、日本に行くことになったのはその香港遠征が切欠だったらしい。

……このように、実はデビューから瞬く間にスター街道を歩んでいた正統派の実力選手であり、対戦相手もビッグネームばかりである。
実際、その収入は当時にして8万ドルにも達していたのだとか。 
シンは遠く海を渡ったカナダに豪邸を建て、タクシーに乗って「タイガー・ジェット・シンの家」と言えば運転手に通じるという話を自らの成功体験として繰り返して語っており、それを聞かされる度に天龍は苦笑していたとのこと。

その、プロレスビジネスに於ける成功者であるシンが前述の通りで日本では全くの無名に近かったのは、地元であるカナダでの活動にこだわり、米国へは進出していなかったことが理由であったのかもしれない。

後には、日本マット界でもカナダを遠征・修行場所とするようになるが、ほんの数年単位とはいえシンがカナダを主戦場としていた時代をリアルタイムで知る機会には恵まれなかったということである。

■新日本プロレス登場と最凶ヒール爆誕

そして、73年5月からシンは新日本プロレスに登場することとなる。
シンを日本に導いたのは、この当時にインドとネットワークを持っていた吉田なる貿易商であったとされる。

日本プロレスから“クーデター”を理由に追放された猪木が新日本プロレスを設立したのは72年のことだが、同じく日本プロレスを離脱した馬場が設立した全日本プロレスに比べるとスタート時の境遇には雲泥の差があった。
まず、日本プロレスを追い出される形となった猪木には慕ってついてきてくれた仲間しか居なかったのに対して、
馬場は時間をかけて離脱の準備を進めた上で日本プロレスの中枢の一部や、特に外国人招聘ルートをも引き継ぐ形で全日本プロレスを設立させている。

つまり、僅か数カ月の差とはいえ、準備期間を設ける暇のなかった猪木には自前の外国人招聘ルートが存在しておらず、最初期には旗揚げに協力してくれたカール・ゴッチが独自の伝手で日本では無名の選手をまわしてくれたことで何とか体裁を保っていた程であった。

しかし、いつまでもゴッチに頼る訳にもいかない中で新日も独自の交渉窓口を設けようとしたものの、上記の経緯から、日プロからの付き合いがあったNWA/WWWF/AWAの所謂三大タイトル傘下のテリトリーは日プロからスライドする形で全日との交渉窓口を開いており、オマケに馬場は選手としても三大テリトリーの首脳陣からの覚えがよかった。

そんな訳で、新日では三大テリトリーから独立した小規模な地域のテリトリーから新たなルートを確立する必要を迫られることとなり、そんな中で関係を深めると共に後には新日が実質的なフラッグシップタイトルとして扱い権威を高めることになったのが五大湖エリアに属する独立団体の一つであるNWFであり、その地方王座に過ぎないものを猪木自身の活躍によりファンにフラッグシップタイトルとして認めさせようと尽力に務めたNWAに名前が似ているので出自を捏造して喧伝までしていたNWF世界ヘビー級王座であった。
当時のNWF世界王者であったジョニー・パワーズを初期のライバルとして自らが王者になると共に三大タイトルとは別にベルトの権威を高めようとしていた猪木が次なるライバルとしたのがつまりはタイガー・ジェット・シンであった。

尚、何故にシンがホームとは大違いの極悪ヒールになったかと言えば、どうやらシン自身の希望であったらしい。えぇ…

前述の香港興行での宣材であったかもしれないのだが、どうやら自分の顔の知られていないアジアではヒールをやってみたかったらしいシンは口にナイフを咥えた宣材を売り込みに使っていたらしく、それを目に留めた猪木は「どうせならサーベルを咥えさせた方がいい」と発言したとされ、それを耳にしたシンは本当にサーベルを口に咥えて日本にやって来たのであった。

前述の通り、日本ではシンは無名の存在であった訳だが、シンとしてもそれをいいことに本来のスタイルを捨て去った狂乱ファイトで暴れ回った。
後には、入場時に観客席を薙ぎ倒しながら現れて会場中をパニックに陥らせるという御家芸をも確立した。

……何よりも、当のターゲットとなった猪木との相性は最高で、何年も抗争を繰り広げられる程のドル箱カードとなった。
一説には、前述の通りでスタート時には逆風に曝されていた新日が元々の日本プロレス中継での猪木番とはいえ、テレビ朝日での中継や勢いに於いては保守的な全日本プロレスを上回る人気を獲得する切欠となったのはシンの功績とまで語られている程である。
猪木とシンは覚悟の面である種の共通したハングリーさを持ち合わせ者同士だったとも分析されており、それが相手をプロレスの範疇を越えるレベルまでに痛めつけ合う凄惨な戦いを生み出したのだ、とまで語られている。

そのシンのパートナーを務めたのが日プロ出身で、キャラ的には分かりやすい悪役に徹していたものの実は道場の極めっこ(ガチンコのレスリング勝負)では指折りの実力者という共通点のあった上田馬之助であり、通称“極悪コンビ”として、当時の団体最高峰のタッグ王座である北米タッグ戦線でも活躍した。
シンと上田が如何に支持されていたのかを物語るエピソードとしては、途中で仲間割れした両者の決着戦が新日の大阪興行では初の満員御礼札止めになったという事実からも窺える。(試合の方は途中で結託した2人が特別レフェリーの猪木に襲いかかって無効試合。)

……尚、シンのヒール像は上記までの経緯からも伺える通り完全な演技でありプロ意識の為せる賜物であったと関係者は証言している。
初参戦時にボコボコにされた当時の外国人番でレフェリーもこなしていた山本小鉄もプライベートでのシンの紳士ぶりを語っており、リング上でも決して暴走するような人物ではなかったと語っている。寧ろ、本気でヤバかったのは猪木だったとか。

初登場は73年5月だが、それから半年後の11月には有名な猪木と倍賞美津子夫人(当時)のプライベートを外国人レスラーを引き連れて襲撃する騒動(新宿伊勢丹前襲撃事件)を起こし、74年6月の対戦では火炎攻撃を含む余りの反則にブチ切れた猪木にアームブリーカーで脱臼にまで追い込まれる(腕折り事件)など、シンに纏わるエピソードの内でも特に有名なものは実は登場初期に発生しているのだが、それでも尚も飽きられることもなく最凶悪役レスラーとして君臨できたのは単にシンのプロとしての矜持が故だろう。
猪木の襲撃事件に関しては新日(猪木)も了解済みの“やらせ”だろうと言われることもあるものの、参加した外国人レスラーは「打ち合わせなしで本当にやった」「シンが怖く逆らえなかった」とも証言したりしている。

因みに、ヒール像のお手本としたのは地元ではベビーフェイスの立場で戦ったザ・シークであったのだとか。
……何となくキャラ被りしている印象だったのも当然だったのかもしれない。よくよく考えればアラビアとインドでモチーフも違うのに。

という訳で、自らも「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」「世の中には二通りの人間しかいない。殴る人間と殴られる人間だ。だから俺はプロレスを選び殴る人間になった。」……とまで語り、極悪ヒールに徹していたシンだが、猪木からNWF世界王者を奪い、上田とのコンビで北米タッグ王座を奪うなど記録上でも十分な活躍を残している。

因みに、相変わらず日本から一歩でも出れば正統派スタイルに戻っていたらしく、若き日のリック・フレアーに勝利したり、ニック・ボックウィンクルのAWA世界王座に挑戦する機会を得たりしている。
80年1月にはメキシコにて実力者カネックからUWA世界王座を奪取。
この王座を巡り猪木と新たな抗争も行なわれているが、新日ではハンセンやアンドレといった提携が叶ったWWF経由で新たな魅力的な外国人レスラーが台頭してきていた時期であり、シンも本来の正統派もこなせる実力者としての顔を隠さなくなってきてはいたものの、それでも存在感は薄れてきていた。

そんな中で大きな事件となったのが81年に発覚した、ライバル団体である全日本プロレスのトップ悪役であったアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレスへの移籍騒動であった。
この直前までのシンは「第4回MSGシリーズ」にて、当時のWWFの有望若手株であったボビー・ダンカンやサージェント・スローターにも勝利するなど活躍していたにも関わらず、その話を聞くなり離脱を宣告したとも言われる。
ブッチャーとは79年8月の「プロレス夢のオールスター戦」にて越境タッグを結成して復活したBI砲の対戦相手に抜擢された関係であったが裏では仲が悪く、それが原因とも言われるが詳細は不明である。

■全日本プロレス登場〜シン時代の終焉

そして、ブッチャーが新日マットに登場するのと入れ替わるように81年7月から全日本プロレスに参戦。

新日から離脱後より馬場自らがトロントに赴くなど直接交渉しての参戦であり、これは、全日の新日によるブッチャーの引き抜き工作に腹を立てての報復の始まりであった。

何れにしても新天地へとやって来たシンであったが、奇しくも入れ替わりとなったブッチャーもそうであったように、全日でも一応はトップレスラーとして迎え入れられながらも以前のようには活躍できずに精彩を欠くことになる。
全日でも上田とのコンビで馬場&鶴田からインターナショナル・タッグ王座を奪取するなどしたものの、この80年代からは奇しくも引き抜き合戦の末に殆ど間を置かずに新日から移籍してきたスタン・ハンセンやロード・ウォリアーズといった新しい世代の外国人レスラーが台頭してきていた頃であり、如何に別団体とはいえ70年代の長きに渡り親しまれていたことが寧ろ仇となり、新鮮味の無くなっていたシンは居場所を作れなかった上に、その境遇から見る間に肥満体型になってしまうなど精彩を欠いていった。

……一説には、既に自身も選手としては落ち目にあった馬場もリアルタイムでシンとの伝説を作り続けた猪木と比較されることを恐れてシンと絡むのを恐れていたという分析もある。
……何れにせよ、シンは期間で言えば新日より長い80年代全般を全日で過ごし、80年代後半には出戻ってきたブッチャーとのコンビすら復活させたのだが、結局は新日時代のような輝きは残せずにフェードアウトしていってしまうことになった。

……全日参戦時のシンのエピソードとして忘れられないものとしては87年のハル薗田の飛行機事故による逝去がある。
この件は、元々は南アフリカのインド人コミュニティの為の興行にシンがブッカーとして全日本プロレスにオファーを出し、馬場が新婚旅行も兼ねてハルを派遣したものであったのだが、よりにもよって日本への帰路にて南アフリカ航空295便墜落事故に巻き込まれて夫妻が共に犠牲となってしまった傷ましい出来事であった。
この訃報に際し、全く落ち度は無かったにも関わらず、プロ意識の高いシンが普段の自身のキャラクターに反する真摯な態度でのコメントを残した。(ブッチャーとのコンビはこの件への償いであったとも言われる。)

■新日本プロレス復帰

日本から暫く離れていたシンであったが、1990年9月30日にアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントに招かれると、何と猪木と初タッグを結成。
アニマル浜口&ビッグバン・ベイダーと対戦して勝利したのを機に新日本プロレスへと復帰を果たした。
ライバル猪木と同様に既に一線を退いたと認識されつつも、やはり新日マットの方が水が合ったのか、昔の調子を取り戻し、事実上のエース格となっていた長州力に襲いかかった他、台頭してきていた闘魂三銃士や馳浩とも対戦。
長州とは猪木のデビュー30周年を記念して設立されたグレーテスト18クラブ王座を巡ってトラブルを起こしており、狂虎の魂が尽きていないことを感じさせた。

特に馳とは因縁を丁寧に積み重ねた上で猪木への挑戦権をかけての巌流島決戦を行い敗れ、最後の大仕事を果たしたとばかりに離脱。
最後は1年半程の参戦であったが、十二分に濃ゆい活躍を見せた。

■インディー団体参戦〜現在

新日から離脱してから暫く後に大仁田厚が設立して過激さと何でもありの方向性で注目を集めていたFMWに参戦。
デスマッチスタイル全開で戦えるためか、何と新日復帰時より更に調子を取り戻し大仁田との抗争を繰り広げたばかりか、息子のタイガー・ジェット・シン・ジュニア(後のアリ・シン)を日本デビューさせてタッグを結成するなど活躍。

因みに、シンをFMWに招いたのはザ・シークであったらしいのだが、そのシークとも今回は悪玉vs悪玉の立場で激突したり、前述の通りで実はホームグラウンドであるチームカナダと共闘して正規軍やシーク軍団と抗争を繰り広げた。

その後もインディー団体にて引っ張りだことなり、相棒であった上田馬之助が参戦していたNOWではコンビ復活→抗争の流れをキッチリとこなし、IWA JAPANでは一転してベビーフェイスの立場でミスター・ポーゴと戦うなど幅広い活躍を見せた。

04年9月にはハッスル!に参戦して小川直也と対戦。
遂に還暦に達していたものの狂乱ファイトを展開して流血に追い込み、敗れこそしたものの存在感を見せつけて継続参戦を勝ち取り、HG、クロマティ、曙、ボブ・サップといった別業界のスター相手にもプロレスを成立させて彼らの額を割りまくった。
09年には参戦してきたブッチャーとのタッグを復活させるも誤爆からシンがフォール負けを喫したのを理由に因縁が勃発。
決着戦が組まれたものの全編が場外戦というハチャメチャさでノーコンテストに終わる。

11年8月27日には、東日本大震災復興イベントとして行われた『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』にサプライズ登場。
恒例となっていた猪木劇場にて、ブッチャーと共に現れて猪木を襲撃した。
同年12月27日の『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、奇しくも同月21日に逝去したばかりであった盟友・上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり故人を称えた。

尚、この東日本大震災に際してはシンは自身の財団を通じて被災児童への支援を行っていたようで、後の2021年2月25日には、日本とカナダの友好促進に貢献したとして佐々山拓也・在トロント総領事より表彰されている。

2024年4月29日 旭日双光章受章。

【得意技】


  • コブラクロー/タイガークロー
日本でのシンの代名詞的な必殺技で、フォール勝ちをする場合には殆どがこの技だった。
技の説明としては右の人差し指と中指を独特の形で曲げた上で正面から相手の喉元を掴み頸動脈を締め上げていく合法的な技……とはされていたものの、現在ではぶっちゃけチョーク(反則)攻撃であり、シンの極悪さを際立たせる為にギリギリ合法な技ということにして反則を取らせない措置にしたものであったと説明されている。
基本的には“コブラクロー”と呼ばれていたが、全日時代に一部の実況から“タイガークロー”と呼ばれることがあった。

  • サーベル攻撃
非常に多彩な凶器攻撃を得意としたが、矢張り代名詞でもあるサーベルを利用した攻撃は定番であった。……尤も、プロレスという都合上からサーベルの切先ではなく基本的に柄の部分で額を割っていたのは定番のツッコミ所であったが。
……が、本当にサーベルの切先で相手を突いたことはあり、大仁田がやられたりシン自身も猪木にサーベルを取り上げられた時にやられている。

  • 各種凶器攻撃

  • 急所攻撃
非常に巧みな急所攻撃の使い手であり、レフェリーの隙を突いた一瞬の急所攻撃で展開をひっくり返してしまうことがあった。
その巧みさは後のフレアーや悪役転向後の蝶野正洋ばり。

  • ブレーンバスター
オーソドックスな後ろに倒れ込むタイプのブレーンバスター(バーティカル・スープレックス)だが、幾度かフィニッシュとして使用したことがある。
しかし、正統派レスリングの使い手=プロレス的な投げ技と受け身は余り上手くなかったのか仕掛けた時に自分の頭も打ってしまうことが多く、後年には使用しなくなった。
余談だが、全日マットでバーティカル・スープレックスを「自分の技」と自負していたハーリー・レイスと戦った際に、シンの余りの反則攻撃にキレたレイスは自身のこだわりを捨ててバーティカル・スープレックスではなく脳天から落とす本来のブレイン・バスターをシンに見舞っている。

  • アルゼンチン・バックブリーカー
殆ど使用したことはないのだが、猪木からNWF王座を奪った時にフィニッシュとなってファンに強い印象を残した。

【余談】


  • ストイックな性格で、稼ぎの良さを自身でも誇っていた資産家であった一方で非常な倹約家で、来日中には日に五千円も使わなかったと言われる。

  • 元々がネイティブスピーカーでは無いためか、ちょうど現役バリバリの頃は英語に不慣れで、ゆっくりと丁寧に発声する形になっていたためか却って日本の記者には「聞き取りやすい」として、日本での極悪キャラに反してシンへの取材は好評だった。

  • 現役バリバリの時代には本当に“恐怖の象徴”として君臨しており、中継を見た視聴者から警察に「シンのサーベルを取り締まれないのか」との通報がされて、本当に警視庁に新間寿と共に出向いて説明する羽目になったことがある。
    この他にも日本ではプライベートでも悪役に徹していたことから各地でファンとトラブルになったり問題を起こして警官とトラブルを起こしたことも数多くあり、テレビ朝日には毎週のように抗議の電話が寄せられていたという。

  • 現役バリバリの頃はプライベートでも悪漢を貫いていたシンだったが、ハル薗田の訃報を受けての反応などで本来の人柄がいい加減にファンにも知られるようになったからか、90年代以降は日本でもファンサービスに応えるなど親しまれるキャラクターになっていった。

  • 東日本大震災に際して、前述のように敬愛する日本の為に支援も行っているシンだが、プライベートで真っ先に安否確認をした相手は上田馬之助であった。

  • カナダにはシンの支援を受けて設立された、シンの名を冠した公立高校が存在する。



追記修正はサーベルを片手にお願い致します。

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最終更新:2026年08月01日 10:11