だんのこまち@wiki
理定者
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dannocomachi
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新しい隣の席
マカロンがミッドレッドへ通うようになってから、何度目かの夜。
ティーが赤い扉を開けると、いつものカウンター席にはすでに先客がいた。
淡い赤茶色の髪。
白いブラウスと深緑色の服。
こちらへ気づいた瞬間、マカロンの表情がぱっと明るくなる。
「ティー! 今日は私の方が先だったよ!」
店内の静かな空気を思い出したのか、最後だけ少し声が小さくなった。
ティーは隣へ座る。
「待ち合わせではなかったから、勝ち負けはないと思う」
「でも先にいたのは本当でしょう?」
「それは本当」
「じゃあ今日は私の勝ち!」
何に勝ったのかはわからない。
けれど、マカロンが嬉しそうなので、否定し続ける必要もない気がした。
「……おめでとう」
「ありがとう!」
カウンターの向こうで、メーアが笑う。
「ティーちゃんも、いつものでいい?」
「うん。お願い」
「マカロンちゃんは?」
「今日は少しだけ酸っぱいものも入れてみたいです!」
「甘くなくても大丈夫?」
マカロンは少し考えた。
「甘い方がいいです。でも酸っぱいのも試したいです」
「じゃあ、甘いところへ少し酸味を足そうか」
「お願いします!」
好みを聞きながら、メーアが二つのグラスを用意していく。
ティーの淡い紫色。
マカロンの淡い桃色。
それぞれ違う香りが、カウンターの上へ広がった。
「おいしい!」
一口飲んだマカロンが、すぐに笑う。
「酸っぱい?」
「少し。でも、そのあと甘い!」
「気に入ったんだね」
ティーが言うと、マカロンは何度も頷いた。
ティーも、自分のグラスへ口をつける。
いつもの味。
今では注文しなくても、メーアが確認してくれるもの。
店の中には、すでに顔を覚えた客もいる。
深夜の交通を担当する人。
施設整備を終えて立ち寄る人。
仕事の内容を詳しく話さず、静かに飲み物だけを楽しんで帰る人。
ティーが最初にこの店へ来た夜。
何を話せばよいのかもわからず、扉の前で挨拶を練習していた。
今は、隣にマカロンがいる。
店へ入ればメーアとシエルが名前を呼ぶ。
わからないことは、わからないまま尋ねられる。
それでも。
夜の仕事についてだけは、まだ誰にも話していなかった。
ステルス任務で出会った二人が、同じような境遇にあること。
黄色く変わる瞳。
専用端末。
指示者。
帰りたい時に現実へ戻れないこと。
二人だけが共有している秘密だった。
店の扉が開いた。
小さなベルの音。
入ってきたのは、短い髪と赤い瞳を持つ女性だった。
落ち着いた服装で、店内を見回したあと、メーアへ片手を上げる。
「こんばんは」
「いらっしゃい、ショコラ」
メーアの返事から、何度も来ている客だとわかった。
「今日は少し遅かったね」
「現実側の仕事が長引いてね」
女性は空いているカウンター席へ近づいた。
ティーの反対側。
「ここ、座ってもいい?」
「うん」
ティーが答えると、女性は軽く笑って腰を下ろした。
「ありがとう」
メーアが、ティーたちへ顔を向ける。
「ティーちゃんとマカロンちゃん。最近よく来てくれてるの」
「ティーです」
「コルメリーマカロンです。マカロンで大丈夫です!」
「私はガトーショコラ。ショコラでいいよ」
ティーは少し迷った。
まだ初対面だ。
「ショコラさん」
「うん。それでもいい」
ショコラは呼び方を無理に変えさせようとはしなかった。
マカロンも元気に頭を下げる。
「よろしくお願いします、ショコラさん!」
「よろしく」
ショコラがメーアへ飲み物を注文する。
作っている手元を、自然に目で追っていた。
「気になる?」
メーアが尋ねる。
「現実でも似た仕事をしてるから、つい見ちゃうんだよね」
「ショコラもバーで働いてるんだよ」
「そうなんですね!」
マカロンが身を乗り出す。
「じゃあ、飲み物を作るのも得意ですか?」
「仕事ではね。ここでは客だから、メーアへ任せるよ」
「作る側の人が、ほかの人の飲み物を飲むのって面白いですね」
「自分では選ばない味も知れるからね」
ショコラの話し方は落ち着いている。
けれど、距離を置いている感じはしなかった。
ティーとマカロンの会話にも、無理なく加わってくる。
少しして、メーアが深い赤色のグラスをショコラへ差し出した。
ショコラは一口だけ飲み、香りを確かめるように間を置く。
「いいね」
「よかった」
そのまま穏やかな時間が続くはずだった。
ところが。
近くにいた常連客の一人が、夜間の管理区画について話し始めた。
「この前、北部の認証が一斉に止まったでしょう?」
「夜中のやつ?」
別の客が答える。
「公式には点検って出てたけど、止まり方がおかしかったんだよ。違反者だけがまとめて消えたって」
「管理部隊が入ったんじゃないの?」
「通常の管理記録が残ってないらしい」
ティーとマカロンは、反応しないよう気をつけながら耳を傾けた。
どの任務を指しているのかはわからない。
自分たちではない誰かが動いた可能性もある。
客は冗談めかして続ける。
「夜の掃除屋でもいるんじゃない?」
「都市伝説だろ」
「いた方が面白いじゃん」
周囲から、小さな笑いが起こった。
ティーはグラスへ視線を落とす。
自分たちは、外からそのように見られているのかもしれない。
誰にも知られずに入り。
違反者を消し。
痕跡だけを残して去る。
隣のマカロンも、いつもより静かだった。
客たちの話が別の話題へ移ったあと。
ショコラが小さな声で言った。
「二人とも、ああいう話が気になる?」
ティーとマカロンの視線が、同時にショコラへ向いた。
「どうして?」
ティーが尋ねる。
「さっきから、耳がそっちへ向いてるから」
ティーは反射的に猫耳へ手を伸ばした。
また表示されていたらしい。
「ティーの耳、すごく正直だよね」
マカロンが言う。
「今は、マカロンも見てた」
「私は普通に顔を向けてたから!」
「それもわかりやすいと思う」
ショコラは二人のやり取りを見て、小さく笑った。
からかっているのではなく。
緊張を少し和らげようとしているようだった。
「聞きたいことがあるなら、答えられる範囲では答えるよ」
ティーは、マカロンと短く目を合わせた。
全部は話せない。
けれど。
ここへ来た理由の一つは、夜の仕事に関する情報を集めることだった。
「普通の管理者ではないのに」
ティーは言葉を選ぶ。
「バーチャル世界の問題へ対処している人について、聞いたことはありますか?」
ショコラの表情が、わずかに変わった。
警戒ではない。
記憶の中から、関係しそうな話を探しているようだった。
「管理者ではない人、か」
「夜に違反者が急にいなくなったり。通常の処理では止められないものが、誰にも気づかれないうちに処理されたりするような」
マカロンが続ける。
少し具体的すぎる気もした。
ティーが隣を見ると、マカロンも気づいたらしい。
「あくまで、噂で聞いて気になってて!」
慌てて付け足す。
ショコラは追及しなかった。
グラスをカウンターへ置き、少しだけ声を落とす。
「理定者って言葉なら、聞いたことがあるよ」
ティーの猫耳が、ぴたりと動きを止めた。
マカロンも、返事を忘れたようにショコラを見ている。
「りていしゃ……?」
ティーが、その言葉をゆっくり繰り返す。
初めて聞く。
けれど。
なぜか、今まで名前のなかったものへ、急に輪郭が与えられたように感じた。
「正式な職業名なんですか?」
マカロンが尋ねる。
「そこまでは知らない」
ショコラは、はっきりと首を横へ振った。
「一般に公開されている制度でもないし、実在するのかも断言できない。私も現実の仕事で、そういう業界に詳しいお客さんから聞いたことがあるだけ」
「どんな人たちなんですか?」
「何かの事情で、長い期間バーチャル世界へ留まることになった人へ、役割を与える仕組みがあるらしい」
長い期間。
バーチャル世界へ留まる。
ティーの指が、グラスを持つ位置で止まった。
「役割って?」
「人によって違うって話だったよ。施設の確認。利用者の案内。記録の整理。空間の調整。そういう、世界を安定させるための仕事」
ショコラは少し間を置く。
「治安維持を担当する人もいるらしい」
マカロンが息を呑む音を、ティーの猫耳が拾った。
専用端末。
夜ごとに送られる仕事。
強制的に維持されている接続。
自分たちが与えられた力。
一つずつが、ショコラの話へ重なっていく。
「その人たちは、自分で仕事を選んだんですか?」
ティーは尋ねた。
「わからない」
「理定者になった理由も?」
「それも」
ショコラは軽々しく推測を足さなかった。
「事情がある、というところまでしか聞いてない。だから外から面白半分に探したり、本人へ問い詰めたりするものではないと思う」
「秘密だから?」
マカロンが聞く。
「それもあるだろうけど」
ショコラは二人を見る。
「役割を持っているからって、その人の全部が仕事になるわけじゃないからね」
その言葉が。
ティーの中へ静かに残った。
日中は市場へ行く。
川辺で猫を撫でる。
ミッドレッドで紫色の飲み物を飲む。
夜には黄色い目で銃を持つ。
もし自分が理定者だとしても。
夜の姿だけが、ティーのすべてではない。
マカロンも同じだ。
任務中は迷いなく銃を扱い。
終われば花畑へ行きたいと笑う。
「理定者だと知られたら、危険なんですか?」
ティーが尋ねる。
「特殊な権限を持っているなら、狙う人は出るかもしれない」
ショコラは穏やかに答えた。
「だから身分を伏せて、普通の利用者として過ごす時間もある。そんな話だったよ」
普通の利用者。
ティーは、自分の青い瞳を意識した。
今は夜間権限も動いていない。
白い服の、銀髪の猫耳少女。
ショコラから見れば、ただミッドレッドへ通う客だ。
「ずいぶん気になるんだね」
ショコラが言った。
マカロンの背筋が少し伸びる。
「私たちも、夜に少し仕事をしてるので!」
言ってから、自分で目を大きくした。
「あ」
ティーが小さく呼ぶ。
「マカロン。説明を増やすと、もっと増える」
「わかってる。でももう言っちゃった!」
ショコラは、慌てる二人を見ても表情を変えなかった。
「詳しく言いたくないなら、言わなくて大丈夫だよ」
「聞かないんですか?」
マカロンが尋ねる。
「聞いたからって、全部教えてもらえる権利が生まれるわけじゃないからね」
ショコラの答えは自然だった。
特別に気を遣っているというより。
誰に対しても、そうしているのだと思える。
「ありがとう、ございます」
ティーが言う。
丁寧な言葉へ戻っていた。
けれど、無理に崩す必要はないと、もう知っている。
ショコラは頷いた。
「ただ、帰れる場所は作っておいた方がいい」
「帰れる場所?」
「仕事が終わったあとに、仕事をしていた自分のままじゃなくてもいい場所」
ショコラはメーアとシエルへ目を向けた。
「この店も、そういう場所になってるみたいだけど」
「ティーちゃんには、いつもの席があるよ」
メーアが言う。
シエルも静かに続けた。
「マカロンの席も、その隣」
マカロンが、自分の座っている椅子を見た。
「あります」
ティーも頷く。
「うん」
ショコラは、少し安心したようにグラスへ口をつけた。
ティーが赤い扉を開けると、いつものカウンター席にはすでに先客がいた。
淡い赤茶色の髪。
白いブラウスと深緑色の服。
こちらへ気づいた瞬間、マカロンの表情がぱっと明るくなる。
「ティー! 今日は私の方が先だったよ!」
店内の静かな空気を思い出したのか、最後だけ少し声が小さくなった。
ティーは隣へ座る。
「待ち合わせではなかったから、勝ち負けはないと思う」
「でも先にいたのは本当でしょう?」
「それは本当」
「じゃあ今日は私の勝ち!」
何に勝ったのかはわからない。
けれど、マカロンが嬉しそうなので、否定し続ける必要もない気がした。
「……おめでとう」
「ありがとう!」
カウンターの向こうで、メーアが笑う。
「ティーちゃんも、いつものでいい?」
「うん。お願い」
「マカロンちゃんは?」
「今日は少しだけ酸っぱいものも入れてみたいです!」
「甘くなくても大丈夫?」
マカロンは少し考えた。
「甘い方がいいです。でも酸っぱいのも試したいです」
「じゃあ、甘いところへ少し酸味を足そうか」
「お願いします!」
好みを聞きながら、メーアが二つのグラスを用意していく。
ティーの淡い紫色。
マカロンの淡い桃色。
それぞれ違う香りが、カウンターの上へ広がった。
「おいしい!」
一口飲んだマカロンが、すぐに笑う。
「酸っぱい?」
「少し。でも、そのあと甘い!」
「気に入ったんだね」
ティーが言うと、マカロンは何度も頷いた。
ティーも、自分のグラスへ口をつける。
いつもの味。
今では注文しなくても、メーアが確認してくれるもの。
店の中には、すでに顔を覚えた客もいる。
深夜の交通を担当する人。
施設整備を終えて立ち寄る人。
仕事の内容を詳しく話さず、静かに飲み物だけを楽しんで帰る人。
ティーが最初にこの店へ来た夜。
何を話せばよいのかもわからず、扉の前で挨拶を練習していた。
今は、隣にマカロンがいる。
店へ入ればメーアとシエルが名前を呼ぶ。
わからないことは、わからないまま尋ねられる。
それでも。
夜の仕事についてだけは、まだ誰にも話していなかった。
ステルス任務で出会った二人が、同じような境遇にあること。
黄色く変わる瞳。
専用端末。
指示者。
帰りたい時に現実へ戻れないこと。
二人だけが共有している秘密だった。
店の扉が開いた。
小さなベルの音。
入ってきたのは、短い髪と赤い瞳を持つ女性だった。
落ち着いた服装で、店内を見回したあと、メーアへ片手を上げる。
「こんばんは」
「いらっしゃい、ショコラ」
メーアの返事から、何度も来ている客だとわかった。
「今日は少し遅かったね」
「現実側の仕事が長引いてね」
女性は空いているカウンター席へ近づいた。
ティーの反対側。
「ここ、座ってもいい?」
「うん」
ティーが答えると、女性は軽く笑って腰を下ろした。
「ありがとう」
メーアが、ティーたちへ顔を向ける。
「ティーちゃんとマカロンちゃん。最近よく来てくれてるの」
「ティーです」
「コルメリーマカロンです。マカロンで大丈夫です!」
「私はガトーショコラ。ショコラでいいよ」
ティーは少し迷った。
まだ初対面だ。
「ショコラさん」
「うん。それでもいい」
ショコラは呼び方を無理に変えさせようとはしなかった。
マカロンも元気に頭を下げる。
「よろしくお願いします、ショコラさん!」
「よろしく」
ショコラがメーアへ飲み物を注文する。
作っている手元を、自然に目で追っていた。
「気になる?」
メーアが尋ねる。
「現実でも似た仕事をしてるから、つい見ちゃうんだよね」
「ショコラもバーで働いてるんだよ」
「そうなんですね!」
マカロンが身を乗り出す。
「じゃあ、飲み物を作るのも得意ですか?」
「仕事ではね。ここでは客だから、メーアへ任せるよ」
「作る側の人が、ほかの人の飲み物を飲むのって面白いですね」
「自分では選ばない味も知れるからね」
ショコラの話し方は落ち着いている。
けれど、距離を置いている感じはしなかった。
ティーとマカロンの会話にも、無理なく加わってくる。
少しして、メーアが深い赤色のグラスをショコラへ差し出した。
ショコラは一口だけ飲み、香りを確かめるように間を置く。
「いいね」
「よかった」
そのまま穏やかな時間が続くはずだった。
ところが。
近くにいた常連客の一人が、夜間の管理区画について話し始めた。
「この前、北部の認証が一斉に止まったでしょう?」
「夜中のやつ?」
別の客が答える。
「公式には点検って出てたけど、止まり方がおかしかったんだよ。違反者だけがまとめて消えたって」
「管理部隊が入ったんじゃないの?」
「通常の管理記録が残ってないらしい」
ティーとマカロンは、反応しないよう気をつけながら耳を傾けた。
どの任務を指しているのかはわからない。
自分たちではない誰かが動いた可能性もある。
客は冗談めかして続ける。
「夜の掃除屋でもいるんじゃない?」
「都市伝説だろ」
「いた方が面白いじゃん」
周囲から、小さな笑いが起こった。
ティーはグラスへ視線を落とす。
自分たちは、外からそのように見られているのかもしれない。
誰にも知られずに入り。
違反者を消し。
痕跡だけを残して去る。
隣のマカロンも、いつもより静かだった。
客たちの話が別の話題へ移ったあと。
ショコラが小さな声で言った。
「二人とも、ああいう話が気になる?」
ティーとマカロンの視線が、同時にショコラへ向いた。
「どうして?」
ティーが尋ねる。
「さっきから、耳がそっちへ向いてるから」
ティーは反射的に猫耳へ手を伸ばした。
また表示されていたらしい。
「ティーの耳、すごく正直だよね」
マカロンが言う。
「今は、マカロンも見てた」
「私は普通に顔を向けてたから!」
「それもわかりやすいと思う」
ショコラは二人のやり取りを見て、小さく笑った。
からかっているのではなく。
緊張を少し和らげようとしているようだった。
「聞きたいことがあるなら、答えられる範囲では答えるよ」
ティーは、マカロンと短く目を合わせた。
全部は話せない。
けれど。
ここへ来た理由の一つは、夜の仕事に関する情報を集めることだった。
「普通の管理者ではないのに」
ティーは言葉を選ぶ。
「バーチャル世界の問題へ対処している人について、聞いたことはありますか?」
ショコラの表情が、わずかに変わった。
警戒ではない。
記憶の中から、関係しそうな話を探しているようだった。
「管理者ではない人、か」
「夜に違反者が急にいなくなったり。通常の処理では止められないものが、誰にも気づかれないうちに処理されたりするような」
マカロンが続ける。
少し具体的すぎる気もした。
ティーが隣を見ると、マカロンも気づいたらしい。
「あくまで、噂で聞いて気になってて!」
慌てて付け足す。
ショコラは追及しなかった。
グラスをカウンターへ置き、少しだけ声を落とす。
「理定者って言葉なら、聞いたことがあるよ」
ティーの猫耳が、ぴたりと動きを止めた。
マカロンも、返事を忘れたようにショコラを見ている。
「りていしゃ……?」
ティーが、その言葉をゆっくり繰り返す。
初めて聞く。
けれど。
なぜか、今まで名前のなかったものへ、急に輪郭が与えられたように感じた。
「正式な職業名なんですか?」
マカロンが尋ねる。
「そこまでは知らない」
ショコラは、はっきりと首を横へ振った。
「一般に公開されている制度でもないし、実在するのかも断言できない。私も現実の仕事で、そういう業界に詳しいお客さんから聞いたことがあるだけ」
「どんな人たちなんですか?」
「何かの事情で、長い期間バーチャル世界へ留まることになった人へ、役割を与える仕組みがあるらしい」
長い期間。
バーチャル世界へ留まる。
ティーの指が、グラスを持つ位置で止まった。
「役割って?」
「人によって違うって話だったよ。施設の確認。利用者の案内。記録の整理。空間の調整。そういう、世界を安定させるための仕事」
ショコラは少し間を置く。
「治安維持を担当する人もいるらしい」
マカロンが息を呑む音を、ティーの猫耳が拾った。
専用端末。
夜ごとに送られる仕事。
強制的に維持されている接続。
自分たちが与えられた力。
一つずつが、ショコラの話へ重なっていく。
「その人たちは、自分で仕事を選んだんですか?」
ティーは尋ねた。
「わからない」
「理定者になった理由も?」
「それも」
ショコラは軽々しく推測を足さなかった。
「事情がある、というところまでしか聞いてない。だから外から面白半分に探したり、本人へ問い詰めたりするものではないと思う」
「秘密だから?」
マカロンが聞く。
「それもあるだろうけど」
ショコラは二人を見る。
「役割を持っているからって、その人の全部が仕事になるわけじゃないからね」
その言葉が。
ティーの中へ静かに残った。
日中は市場へ行く。
川辺で猫を撫でる。
ミッドレッドで紫色の飲み物を飲む。
夜には黄色い目で銃を持つ。
もし自分が理定者だとしても。
夜の姿だけが、ティーのすべてではない。
マカロンも同じだ。
任務中は迷いなく銃を扱い。
終われば花畑へ行きたいと笑う。
「理定者だと知られたら、危険なんですか?」
ティーが尋ねる。
「特殊な権限を持っているなら、狙う人は出るかもしれない」
ショコラは穏やかに答えた。
「だから身分を伏せて、普通の利用者として過ごす時間もある。そんな話だったよ」
普通の利用者。
ティーは、自分の青い瞳を意識した。
今は夜間権限も動いていない。
白い服の、銀髪の猫耳少女。
ショコラから見れば、ただミッドレッドへ通う客だ。
「ずいぶん気になるんだね」
ショコラが言った。
マカロンの背筋が少し伸びる。
「私たちも、夜に少し仕事をしてるので!」
言ってから、自分で目を大きくした。
「あ」
ティーが小さく呼ぶ。
「マカロン。説明を増やすと、もっと増える」
「わかってる。でももう言っちゃった!」
ショコラは、慌てる二人を見ても表情を変えなかった。
「詳しく言いたくないなら、言わなくて大丈夫だよ」
「聞かないんですか?」
マカロンが尋ねる。
「聞いたからって、全部教えてもらえる権利が生まれるわけじゃないからね」
ショコラの答えは自然だった。
特別に気を遣っているというより。
誰に対しても、そうしているのだと思える。
「ありがとう、ございます」
ティーが言う。
丁寧な言葉へ戻っていた。
けれど、無理に崩す必要はないと、もう知っている。
ショコラは頷いた。
「ただ、帰れる場所は作っておいた方がいい」
「帰れる場所?」
「仕事が終わったあとに、仕事をしていた自分のままじゃなくてもいい場所」
ショコラはメーアとシエルへ目を向けた。
「この店も、そういう場所になってるみたいだけど」
「ティーちゃんには、いつもの席があるよ」
メーアが言う。
シエルも静かに続けた。
「マカロンの席も、その隣」
マカロンが、自分の座っている椅子を見た。
「あります」
ティーも頷く。
「うん」
ショコラは、少し安心したようにグラスへ口をつけた。
退屈しない学生
理定者の話は、そこで終わった。
ショコラも、知っている以上のことを無理に語ろうとはしない。
話題は、いつの間にか昼間の過ごし方へ変わっていた。
「二人は、昼は何してるの?」
「私は川辺へ行ったり、資料館で調べものをしたり」
ティーが答える。
「私はいろんなフィールドへ行ってます! 昨日は青い花がいっぱい咲いているところへ行きました!」
マカロンが、先ほどの画像をショコラにも見せる。
「きれいだね」
「今度ティーも一緒に行くんです!」
「まだ日程は決めてない」
「一緒に行くことは決まってるでしょう?」
「それは決まってる」
「なら大丈夫!」
マカロンは満足そうに画像を閉じた。
ショコラがティーへ尋ねる。
「退屈することはある?」
「ある」
ティーは正直に答えた。
「何をしてもいい時間は、まだ少し難しい。仕事なら、することが表示されるから」
「昼間にも、誰かに予定を決めてもらいたい?」
「それは違うと思う」
自由にできる時間を、また誰かの指示で埋めたくはない。
けれど。
何を選べばよいのかわからず、同じ場所だけを歩く日もあった。
「じゃあ、会うと退屈しなさそうな子を一人知ってる」
ショコラが、自分の連絡先を開いた。
表示された名前は、
<みたらしっぽ>
「高校生?」
ティーが尋ねる。
「うん。だんのこまち第一高校の学生」
「何をする人ですか?」
マカロンが、すぐに興味を示す。
「FoFを遊んでる。ギルドのマスターもしてるよ」
「ゲームの人?」
「それだけじゃないかな」
ショコラは少し考えた。
「暇を見つけると、何かを始める子。街を歩いたり、誰かの手伝いをしたり、急に別のゲームを見つけたり。本人も最初から予定してなかったのに、気づいたら周りに人が増えてる」
「楽しそう!」
マカロンの返事は早い。
ティーはもう少し慎重だった。
「知らない人でも、話してくれますか?」
「相手が嫌がってるのに無理やり連れ回すような子じゃないよ」
ショコラは笑う。
「ただ、何かを始めるきっかけはくれると思う」
「どこに行けば会えますか?」
「カフェのんびりひっそり。よく通ってる」
ショコラが店の位置を共有した。
「オーナーのチロルも知り合いだから、私から聞いたって言えば大丈夫」
「猫カフェ!」
マカロンの表情が、さらに明るくなる。
ティーは地図に表示された、丸くなった猫の印を見る。
「猫がいるんだ」
「名前どおり、かなり静かな店だよ」
「ティー、明日行こう!」
「まだショコラさんの話が終わってない」
「あっ。ごめんなさい!」
ショコラは気にした様子もなく笑った。
「明日でもいいと思うよ。みたらしっぽがいる保証はないけど、チロルと猫には会える」
「行きます!」
マカロンが即答する。
ティーも少し遅れて頷いた。
「私も行ってみたい」
「じゃあ、チロルへ二人のことを軽く伝えておくよ」
「ありがとうございます、ショコラさん」
「どういたしまして」
ティーの連絡先には、まだ多くの名前はない。
それでも。
名前のない指示者以外のつながりが、少しずつ増えている。
今度は。
まだ会ったことのない高校生の名前が、明日の予定へ加わった。
ショコラも、知っている以上のことを無理に語ろうとはしない。
話題は、いつの間にか昼間の過ごし方へ変わっていた。
「二人は、昼は何してるの?」
「私は川辺へ行ったり、資料館で調べものをしたり」
ティーが答える。
「私はいろんなフィールドへ行ってます! 昨日は青い花がいっぱい咲いているところへ行きました!」
マカロンが、先ほどの画像をショコラにも見せる。
「きれいだね」
「今度ティーも一緒に行くんです!」
「まだ日程は決めてない」
「一緒に行くことは決まってるでしょう?」
「それは決まってる」
「なら大丈夫!」
マカロンは満足そうに画像を閉じた。
ショコラがティーへ尋ねる。
「退屈することはある?」
「ある」
ティーは正直に答えた。
「何をしてもいい時間は、まだ少し難しい。仕事なら、することが表示されるから」
「昼間にも、誰かに予定を決めてもらいたい?」
「それは違うと思う」
自由にできる時間を、また誰かの指示で埋めたくはない。
けれど。
何を選べばよいのかわからず、同じ場所だけを歩く日もあった。
「じゃあ、会うと退屈しなさそうな子を一人知ってる」
ショコラが、自分の連絡先を開いた。
表示された名前は、
<みたらしっぽ>
「高校生?」
ティーが尋ねる。
「うん。だんのこまち第一高校の学生」
「何をする人ですか?」
マカロンが、すぐに興味を示す。
「FoFを遊んでる。ギルドのマスターもしてるよ」
「ゲームの人?」
「それだけじゃないかな」
ショコラは少し考えた。
「暇を見つけると、何かを始める子。街を歩いたり、誰かの手伝いをしたり、急に別のゲームを見つけたり。本人も最初から予定してなかったのに、気づいたら周りに人が増えてる」
「楽しそう!」
マカロンの返事は早い。
ティーはもう少し慎重だった。
「知らない人でも、話してくれますか?」
「相手が嫌がってるのに無理やり連れ回すような子じゃないよ」
ショコラは笑う。
「ただ、何かを始めるきっかけはくれると思う」
「どこに行けば会えますか?」
「カフェのんびりひっそり。よく通ってる」
ショコラが店の位置を共有した。
「オーナーのチロルも知り合いだから、私から聞いたって言えば大丈夫」
「猫カフェ!」
マカロンの表情が、さらに明るくなる。
ティーは地図に表示された、丸くなった猫の印を見る。
「猫がいるんだ」
「名前どおり、かなり静かな店だよ」
「ティー、明日行こう!」
「まだショコラさんの話が終わってない」
「あっ。ごめんなさい!」
ショコラは気にした様子もなく笑った。
「明日でもいいと思うよ。みたらしっぽがいる保証はないけど、チロルと猫には会える」
「行きます!」
マカロンが即答する。
ティーも少し遅れて頷いた。
「私も行ってみたい」
「じゃあ、チロルへ二人のことを軽く伝えておくよ」
「ありがとうございます、ショコラさん」
「どういたしまして」
ティーの連絡先には、まだ多くの名前はない。
それでも。
名前のない指示者以外のつながりが、少しずつ増えている。
今度は。
まだ会ったことのない高校生の名前が、明日の予定へ加わった。
答えてくれない質問
ミッドレッドを出たあと。
ティーとマカロンは、人通りの少ない小さな公園へ移動した。
夜間権限は稼働していない。
瞳は、ティーが青。
マカロンは赤みを帯びた柔らかな色。
二人でベンチへ座る。
しばらく。
どちらも口を開かなかった。
先に言ったのは、マカロンだった。
「私たち、理定者なのかな」
「可能性は高いと思う」
ティーも、同じことを考えていた。
長期接続。
自由にログアウトできない。
与えられた役割。
専用の権限と端末。
治安維持。
重なる条件が多すぎる。
「指示する人へ聞いてみる?」
「たぶん答えない」
「でも聞くだけ聞こう」
マカロンが、自分の専用端末を展開した。
ティーも左手を前へ出す。
青白い光。
透き通った基部。
その上へ、白い立体キーが一つずつ形成される。
クライアントユニットの通信要求へ、短い文章を入力した。
<理定者とは何ですか>
<私は理定者ですか>
送信。
マカロンも、ほとんど同じ質問を送る。
少し待つ。
返ってきた表示は、二人とも同じだった。
<当該情報へのアクセス権限がありません>
「知らない、ではないね」
マカロンが言う。
「うん」
「情報が存在して、その情報を私たちには見せないってことだよね」
「そう見える」
理定者ではない。
そんな制度は存在しない。
そう否定することもできたはずだ。
けれど。
返ってきたのは、権限がないという拒絶だった。
マカロンは端末を収納したあと、膝の上へ両手を置いた。
「メーアさんたちへ、話す?」
「今は話さない方がいいと思う」
ティーは答える。
「ショコラさんにも?」
「うん」
「悪い人じゃないのに」
「だから」
ティーは、ミッドレッドのある方向を見る。
「巻き込みたくない」
理定者という身分が知られれば。
違反者に狙われるのは、自分たちだけではないかもしれない。
いつもの席。
飲み物。
メーアとシエル。
何も知らずに送り出し、戻ってくることを待ってくれる人たち。
その場所へ、夜の仕事を持ち込みたくなかった。
マカロンは、少し寂しそうな顔をした。
「全部隠すのは、嫌だな」
「全部を隠さなくてもいいと思う」
「どういうこと?」
「夜に仕事があることは、もう知ってる。危険な時があることも、たぶん気づいてる」
ティーは言葉を選ぶ。
「でも、役割や権限は話さない。言えないことを、別の嘘へ置き換える必要もない」
「聞かれたら?」
「今は話せないって言う」
マカロンは少し考えた。
「それならできそう」
「うん」
「二人だけの秘密だね」
声へ、少しだけ明るさが戻る。
「嬉しそうに言うものではないと思う」
「一人で抱える秘密よりはいいでしょう?」
ティーの猫耳が、わずかに前へ向いた。
「それは、そう」
マカロンはティーの耳を見て、にこりと笑った。
「ティーも嬉しいって」
「耳へ聞かないで」
「わかりやすいから、つい」
「本人へ聞いて」
「じゃあ、嬉しい?」
ティーは一瞬だけ迷った。
「……少し」
「私も!」
今度は二人で笑った。
理定者。
それが、本当に自分たちを示す名前なのかはまだわからない。
けれど。
名前のない仕事へ、初めて一つの候補が生まれた。
ティーとマカロンは、人通りの少ない小さな公園へ移動した。
夜間権限は稼働していない。
瞳は、ティーが青。
マカロンは赤みを帯びた柔らかな色。
二人でベンチへ座る。
しばらく。
どちらも口を開かなかった。
先に言ったのは、マカロンだった。
「私たち、理定者なのかな」
「可能性は高いと思う」
ティーも、同じことを考えていた。
長期接続。
自由にログアウトできない。
与えられた役割。
専用の権限と端末。
治安維持。
重なる条件が多すぎる。
「指示する人へ聞いてみる?」
「たぶん答えない」
「でも聞くだけ聞こう」
マカロンが、自分の専用端末を展開した。
ティーも左手を前へ出す。
青白い光。
透き通った基部。
その上へ、白い立体キーが一つずつ形成される。
クライアントユニットの通信要求へ、短い文章を入力した。
<理定者とは何ですか>
<私は理定者ですか>
送信。
マカロンも、ほとんど同じ質問を送る。
少し待つ。
返ってきた表示は、二人とも同じだった。
<当該情報へのアクセス権限がありません>
「知らない、ではないね」
マカロンが言う。
「うん」
「情報が存在して、その情報を私たちには見せないってことだよね」
「そう見える」
理定者ではない。
そんな制度は存在しない。
そう否定することもできたはずだ。
けれど。
返ってきたのは、権限がないという拒絶だった。
マカロンは端末を収納したあと、膝の上へ両手を置いた。
「メーアさんたちへ、話す?」
「今は話さない方がいいと思う」
ティーは答える。
「ショコラさんにも?」
「うん」
「悪い人じゃないのに」
「だから」
ティーは、ミッドレッドのある方向を見る。
「巻き込みたくない」
理定者という身分が知られれば。
違反者に狙われるのは、自分たちだけではないかもしれない。
いつもの席。
飲み物。
メーアとシエル。
何も知らずに送り出し、戻ってくることを待ってくれる人たち。
その場所へ、夜の仕事を持ち込みたくなかった。
マカロンは、少し寂しそうな顔をした。
「全部隠すのは、嫌だな」
「全部を隠さなくてもいいと思う」
「どういうこと?」
「夜に仕事があることは、もう知ってる。危険な時があることも、たぶん気づいてる」
ティーは言葉を選ぶ。
「でも、役割や権限は話さない。言えないことを、別の嘘へ置き換える必要もない」
「聞かれたら?」
「今は話せないって言う」
マカロンは少し考えた。
「それならできそう」
「うん」
「二人だけの秘密だね」
声へ、少しだけ明るさが戻る。
「嬉しそうに言うものではないと思う」
「一人で抱える秘密よりはいいでしょう?」
ティーの猫耳が、わずかに前へ向いた。
「それは、そう」
マカロンはティーの耳を見て、にこりと笑った。
「ティーも嬉しいって」
「耳へ聞かないで」
「わかりやすいから、つい」
「本人へ聞いて」
「じゃあ、嬉しい?」
ティーは一瞬だけ迷った。
「……少し」
「私も!」
今度は二人で笑った。
理定者。
それが、本当に自分たちを示す名前なのかはまだわからない。
けれど。
名前のない仕事へ、初めて一つの候補が生まれた。
昼の猫カフェ
翌日の昼。
ティーとマカロンは、商業区の横道を歩いていた。
大通りから一本外れただけで、人の流れは急に細くなる。
立体広告から流れる音も遠ざかり、低い建物と石畳の道が続いていた。
「本当に、この先にお店があるの?」
マカロンが地図と道を交互に見る。
「位置は合ってる」
「名前どおり、ひっそりしてるね」
「まだ着いてないけど」
「ここまで来る道も含めて、ひっそりしてる!」
マカロンは楽しそうに周囲を見回した。
道の奥に、小さな木製の看板が見える。
<カフェのんびりひっそり>
扉の横には、丸くなって眠る猫の印が取りつけられていた。
「かわいい!」
マカロンが思わず声を上げる。
すぐに両手で口元を覆った。
「店の中まで聞こえたかな」
「たぶん」
「入る前から、にぎやかな人だと思われちゃう」
「一度話せば、どちらにしても伝わると思う」
「それは褒めてる?」
「明るい人だとは思ってる」
「じゃあ褒めてる!」
マカロンは満足そうに頷いた。
ティーが扉を開く。
小さなベルの音が鳴り、背後にあった街のにぎわいが遠ざかった。
木目調の床。
低いテーブルと、ゆったり座れるソファー。
壁から天井近くへ伸びる猫用の通り道。
窓際の椅子では、白い猫が身体を丸くして眠っている。
店内の奥から、柔らかな声が聞こえた。
「いらっしゃいませー」
現れた男性の名前表示は、チロル。
その後ろのカウンターでは、コハクがカップを棚へ並べていた。
「初めてのお客様ですね。空いている席へどうぞ」
チロルは窓際の白い猫へ目を向けた。
「ただし、猫が先に座っている場合は交渉が必要です」
「交渉?」
マカロンも白い猫を見る。
「猫用のおやつか、撫でることで応じてもらえる場合があります」
「必ず成立するわけではありません」
コハクが淡々と付け加えた。
「猫の方が強いんですね」
ティーが言う。
「はい。当店では」
真面目な返事だった。
マカロンが窓際へ近づこうとした時、ソファーの陰で何かが動いた。
最初に見えたのは、床へ垂れる長い金色の髪だった。
柔らかな髪は腰よりも長く、その上には白い毛の房を持つ大きな獣耳がある。
黒を基調とした、ゆったりとしたフード付きの服。
袖は手の甲まで隠れるほど長く、所々に深い青色の線が入っている。
黒いタイツと、青黒い靴。
鮮やかな青い瞳を持つ少女が、床へ膝をついて灰色の猫へブラシをかけていた。
猫はすっかり安心しているらしく、少女の脚へ身体を預け、目を細めている。
その反対側にも一匹。
金色の長い髪の上を通るように、茶色の猫が背後のソファーへ上っていた。
少女は二人の来店へ気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「……いらっしゃいませ」
小さく、静かな声だった。
必要な言葉だけを丁寧に置くような話し方。
マカロンが、少女と猫たちを交互に見る。
「店員さん?」
少女が小さく頷いた。
チロルが二人の近くへ来る。
「最近、新しくアルバイトへ入ってくれたスフィアノワールさんです」
紹介された少女はブラシを置き、静かに立ち上がった。
「……ノワールです。よろしくお願いします」
「私はコルメリーマカロン! マカロンで大丈夫です!」
声を抑えたつもりらしいが、勢いは十分に残っていた。
「ティーです。よろしく、ノワールさん」
ティーが続けると、スフィアノワールは少しだけ首を横へ振った。
「……ノワールで、いいです」
「じゃあ、ノワール」
呼ぶと、スフィアノワールはもう一度小さく頷いた。
「……はい」
言葉は少ない。
けれど、話しかけられることを嫌がっている様子ではなかった。
その時、帰り支度をしていた常連らしい女性がスフィアノワールへ近づいた。
「ノワールちゃん、今日はもう少し働くの?」
「……夕方までです」
「そっか。じゃあ、またね」
女性は手を上げかけ、途中で一度止めた。
「今日もいい?」
スフィアノワールは何を尋ねられているのかすぐに理解したらしく、わずかに頭を下げた。
女性の手が、獣耳の間にある金色の髪を優しく撫でる。
スフィアノワールは目を少し細めたまま、動かなかった。
撫で終わると、小さく頭を下げる。
「……また、どうぞ」
「うん。また来るね」
女性は猫たちにも手を振り、店を出ていった。
マカロンは驚いたようにスフィアノワールを見る。
「ノワールも、猫たちみたいに撫でられてる!」
「本人が嫌ではない時だけですよ」
チロルが説明した。
「常連のお客様には、猫たちと一緒にずいぶんかわいがられています」
「猫も、ノワールさんの近くへよく集まります」
コハクも付け加えた。
言葉どおり。
ブラシをかけられていた灰色の猫が立ち上がり、スフィアノワールの足へ身体を擦りつけている。
ソファーにいた茶色の猫も、スフィアノワールの長い髪へ前足を乗せていた。
スフィアノワールは猫を一匹抱き上げると、慣れた手つきで腕の中へ収めた。
「……猫よりは、少しだけ仕事もします」
「猫たちも接客していますよ」
コハクが答える。
「寝ているだけに見えます」
「それを見に来るお客様がいます」
スフィアノワールは少し考えた。
「……なら、仕事してる」
「納得したんですね」
ティーが言うと、スフィアノワールの口元がほんの少し緩んだ。
マカロンは撫でられていた場所を見てから、遠慮がちに尋ねる。
「私も……撫でてみてもいい?」
すぐに続けた。
「嫌なら全然大丈夫! 会ったばかりだし!」
スフィアノワールはマカロンの顔を見た。
猫を抱いたまま数秒考え、少しだけ頭を低くする。
「……一回なら」
「本当?」
マカロンは手を伸ばしたものの、勢いよく触れることはしなかった。
獣耳には触れず、その間の髪をそっと一度だけ撫でる。
「柔らかい……!」
「マカロン、声」
「あっ」
声を小さくしながらも、表情は明るいままだった。
「ありがとう、ノワール!」
「……どういたしまして」
スフィアノワールが頭を上げる。
嫌そうな顔はしていない。
むしろ、猫を抱く腕が少しだけ緩み、落ち着いているように見えた。
マカロンはティーの方を見る。
「ティーは撫でないの?」
「私はいい」
「どうして?」
「自分にも耳があるから、初対面の人に触られる感覚を想像できる」
スフィアノワールの青い瞳が、ティーの銀色の猫耳へ向いた。
ティーの耳も、視線を感じてわずかに動く。
「……ティーも、撫でられる?」
「ときどき聞かれる。でも、ほとんど断ってる」
「……同じ」
それだけで、少し通じ合ったような気がした。
「二人とも、こちらの席でよろしいですか?」
コハクが、猫のいないテーブルを示した。
マカロンは窓際の白い猫を見る。
「交渉してみたい気持ちもあるけど……眠ってるから起こしたくないなぁ」
「では、空いている方へ行きましょう」
二人が席へ向かうと、スフィアノワールがメニューを持ってついてきた。
歩くたび、長い金色の髪が静かに揺れる。
テーブルへ二冊のメニューを置く。
「……決まったら、呼んでください」
「おすすめはありますか?」
マカロンが尋ねる。
スフィアノワールは少しだけ考えた。
「……甘いなら、果物の焼き菓子」
「それにします!」
「まだほかを見ていないでしょう」
「おすすめしてもらったから!」
ティーはメニューを開く。
「私は、本日の紅茶とチーズケーキにする」
「……ひっそり甘いです」
スフィアノワールが小さく言った。
メニューにも同じ説明が書かれている。
「食べたことがある?」
「……休憩の時に」
「好き?」
スフィアノワールは、ほんの少しだけ頷いた。
「……好きです」
獣耳はティーのように大きく動かない。
それでも、表情が先ほどより柔らかくなったことで十分に伝わった。
「では、それにする」
「……はい」
スフィアノワールは注文を覚え、静かにカウンターへ戻っていった。
その途中でも、床を歩いていた猫が一匹ついていく。
「本当に猫たちに好かれてるね」
マカロンが言う。
「スフィアノワールも、猫へ合わせて静かに動いてるからかもしれない」
「ティーも好かれてたよ」
「私は、耳で仲間だと思われただけかも」
「それでも好かれたことには変わらないよ」
二人が話していると、先ほどとは別の灰色の猫がテーブルの下へ入ってきた。
迷わずティーの足元へ座る。
「ほら」
マカロンが嬉しそうに言った。
「ティーも、ちゃんと猫側だよ」
「利用者側です」
そう答えながらも。
ティーはしゃがみ、猫の背中をゆっくり撫でた。
猫は逃げず、手のひらへ頭を寄せる。
ティーの猫耳も、自然と前を向いた。
「かわいい」
「ティーも、猫を見ると話し方が柔らかくなるね」
マカロンも隣へしゃがんだ。
「私も撫でていい?」
灰色の猫はマカロンを見たあと、その場から動かなかった。
「これは許可?」
「拒否ではありません」
コハクの声が、カウンターから届いた。
「やった!」
二人で猫を撫でていると、スフィアノワールが飲み物と菓子を載せたトレイを運んできた。
テーブルの上へ、一つずつ静かに置く。
「……紅茶と、チーズケーキ」
ティーの前へ。
「……ミルクティーと、果物の焼き菓子」
マカロンの前へ。
「ありがとう、ノワール」
「ありがとうございます!」
スフィアノワールは軽く頭を下げた。
去ろうとしたところで、マカロンが声をかける。
「ノワールは、いつからここで働いてるの?」
「……少し前から」
「どうして猫カフェに?」
質問が続きすぎたと思ったのか、マカロンは少し姿勢を小さくした。
「答えたくなかったら、大丈夫だよ」
スフィアノワールは腕へ抱いていたトレイへ視線を落とした。
「……静かな場所が、よかったから」
店内を見渡す。
眠る猫。
控えめな音量の音楽。
チロルとコハク。
「……ここなら、話さない時間も、怒られないので」
「それは、いいね」
ティーが答えた。
ティーもミッドレッドで、何も話さず座っていることがある。
言葉を出せない時間にも、その場所にいてよいこと。
それが安心につながる感覚は、少しわかった。
「でも、また話してもいい?」
マカロンが尋ねる。
スフィアノワールは小さく頷く。
「……ゆっくりなら」
「わかった。ゆっくり話す!」
宣言する声だけは、少し元気だった。
スフィアノワールの口元に、また小さな笑みが浮かんだ。
ティーとマカロンは、商業区の横道を歩いていた。
大通りから一本外れただけで、人の流れは急に細くなる。
立体広告から流れる音も遠ざかり、低い建物と石畳の道が続いていた。
「本当に、この先にお店があるの?」
マカロンが地図と道を交互に見る。
「位置は合ってる」
「名前どおり、ひっそりしてるね」
「まだ着いてないけど」
「ここまで来る道も含めて、ひっそりしてる!」
マカロンは楽しそうに周囲を見回した。
道の奥に、小さな木製の看板が見える。
<カフェのんびりひっそり>
扉の横には、丸くなって眠る猫の印が取りつけられていた。
「かわいい!」
マカロンが思わず声を上げる。
すぐに両手で口元を覆った。
「店の中まで聞こえたかな」
「たぶん」
「入る前から、にぎやかな人だと思われちゃう」
「一度話せば、どちらにしても伝わると思う」
「それは褒めてる?」
「明るい人だとは思ってる」
「じゃあ褒めてる!」
マカロンは満足そうに頷いた。
ティーが扉を開く。
小さなベルの音が鳴り、背後にあった街のにぎわいが遠ざかった。
木目調の床。
低いテーブルと、ゆったり座れるソファー。
壁から天井近くへ伸びる猫用の通り道。
窓際の椅子では、白い猫が身体を丸くして眠っている。
店内の奥から、柔らかな声が聞こえた。
「いらっしゃいませー」
現れた男性の名前表示は、チロル。
その後ろのカウンターでは、コハクがカップを棚へ並べていた。
「初めてのお客様ですね。空いている席へどうぞ」
チロルは窓際の白い猫へ目を向けた。
「ただし、猫が先に座っている場合は交渉が必要です」
「交渉?」
マカロンも白い猫を見る。
「猫用のおやつか、撫でることで応じてもらえる場合があります」
「必ず成立するわけではありません」
コハクが淡々と付け加えた。
「猫の方が強いんですね」
ティーが言う。
「はい。当店では」
真面目な返事だった。
マカロンが窓際へ近づこうとした時、ソファーの陰で何かが動いた。
最初に見えたのは、床へ垂れる長い金色の髪だった。
柔らかな髪は腰よりも長く、その上には白い毛の房を持つ大きな獣耳がある。
黒を基調とした、ゆったりとしたフード付きの服。
袖は手の甲まで隠れるほど長く、所々に深い青色の線が入っている。
黒いタイツと、青黒い靴。
鮮やかな青い瞳を持つ少女が、床へ膝をついて灰色の猫へブラシをかけていた。
猫はすっかり安心しているらしく、少女の脚へ身体を預け、目を細めている。
その反対側にも一匹。
金色の長い髪の上を通るように、茶色の猫が背後のソファーへ上っていた。
少女は二人の来店へ気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「……いらっしゃいませ」
小さく、静かな声だった。
必要な言葉だけを丁寧に置くような話し方。
マカロンが、少女と猫たちを交互に見る。
「店員さん?」
少女が小さく頷いた。
チロルが二人の近くへ来る。
「最近、新しくアルバイトへ入ってくれたスフィアノワールさんです」
紹介された少女はブラシを置き、静かに立ち上がった。
「……ノワールです。よろしくお願いします」
「私はコルメリーマカロン! マカロンで大丈夫です!」
声を抑えたつもりらしいが、勢いは十分に残っていた。
「ティーです。よろしく、ノワールさん」
ティーが続けると、スフィアノワールは少しだけ首を横へ振った。
「……ノワールで、いいです」
「じゃあ、ノワール」
呼ぶと、スフィアノワールはもう一度小さく頷いた。
「……はい」
言葉は少ない。
けれど、話しかけられることを嫌がっている様子ではなかった。
その時、帰り支度をしていた常連らしい女性がスフィアノワールへ近づいた。
「ノワールちゃん、今日はもう少し働くの?」
「……夕方までです」
「そっか。じゃあ、またね」
女性は手を上げかけ、途中で一度止めた。
「今日もいい?」
スフィアノワールは何を尋ねられているのかすぐに理解したらしく、わずかに頭を下げた。
女性の手が、獣耳の間にある金色の髪を優しく撫でる。
スフィアノワールは目を少し細めたまま、動かなかった。
撫で終わると、小さく頭を下げる。
「……また、どうぞ」
「うん。また来るね」
女性は猫たちにも手を振り、店を出ていった。
マカロンは驚いたようにスフィアノワールを見る。
「ノワールも、猫たちみたいに撫でられてる!」
「本人が嫌ではない時だけですよ」
チロルが説明した。
「常連のお客様には、猫たちと一緒にずいぶんかわいがられています」
「猫も、ノワールさんの近くへよく集まります」
コハクも付け加えた。
言葉どおり。
ブラシをかけられていた灰色の猫が立ち上がり、スフィアノワールの足へ身体を擦りつけている。
ソファーにいた茶色の猫も、スフィアノワールの長い髪へ前足を乗せていた。
スフィアノワールは猫を一匹抱き上げると、慣れた手つきで腕の中へ収めた。
「……猫よりは、少しだけ仕事もします」
「猫たちも接客していますよ」
コハクが答える。
「寝ているだけに見えます」
「それを見に来るお客様がいます」
スフィアノワールは少し考えた。
「……なら、仕事してる」
「納得したんですね」
ティーが言うと、スフィアノワールの口元がほんの少し緩んだ。
マカロンは撫でられていた場所を見てから、遠慮がちに尋ねる。
「私も……撫でてみてもいい?」
すぐに続けた。
「嫌なら全然大丈夫! 会ったばかりだし!」
スフィアノワールはマカロンの顔を見た。
猫を抱いたまま数秒考え、少しだけ頭を低くする。
「……一回なら」
「本当?」
マカロンは手を伸ばしたものの、勢いよく触れることはしなかった。
獣耳には触れず、その間の髪をそっと一度だけ撫でる。
「柔らかい……!」
「マカロン、声」
「あっ」
声を小さくしながらも、表情は明るいままだった。
「ありがとう、ノワール!」
「……どういたしまして」
スフィアノワールが頭を上げる。
嫌そうな顔はしていない。
むしろ、猫を抱く腕が少しだけ緩み、落ち着いているように見えた。
マカロンはティーの方を見る。
「ティーは撫でないの?」
「私はいい」
「どうして?」
「自分にも耳があるから、初対面の人に触られる感覚を想像できる」
スフィアノワールの青い瞳が、ティーの銀色の猫耳へ向いた。
ティーの耳も、視線を感じてわずかに動く。
「……ティーも、撫でられる?」
「ときどき聞かれる。でも、ほとんど断ってる」
「……同じ」
それだけで、少し通じ合ったような気がした。
「二人とも、こちらの席でよろしいですか?」
コハクが、猫のいないテーブルを示した。
マカロンは窓際の白い猫を見る。
「交渉してみたい気持ちもあるけど……眠ってるから起こしたくないなぁ」
「では、空いている方へ行きましょう」
二人が席へ向かうと、スフィアノワールがメニューを持ってついてきた。
歩くたび、長い金色の髪が静かに揺れる。
テーブルへ二冊のメニューを置く。
「……決まったら、呼んでください」
「おすすめはありますか?」
マカロンが尋ねる。
スフィアノワールは少しだけ考えた。
「……甘いなら、果物の焼き菓子」
「それにします!」
「まだほかを見ていないでしょう」
「おすすめしてもらったから!」
ティーはメニューを開く。
「私は、本日の紅茶とチーズケーキにする」
「……ひっそり甘いです」
スフィアノワールが小さく言った。
メニューにも同じ説明が書かれている。
「食べたことがある?」
「……休憩の時に」
「好き?」
スフィアノワールは、ほんの少しだけ頷いた。
「……好きです」
獣耳はティーのように大きく動かない。
それでも、表情が先ほどより柔らかくなったことで十分に伝わった。
「では、それにする」
「……はい」
スフィアノワールは注文を覚え、静かにカウンターへ戻っていった。
その途中でも、床を歩いていた猫が一匹ついていく。
「本当に猫たちに好かれてるね」
マカロンが言う。
「スフィアノワールも、猫へ合わせて静かに動いてるからかもしれない」
「ティーも好かれてたよ」
「私は、耳で仲間だと思われただけかも」
「それでも好かれたことには変わらないよ」
二人が話していると、先ほどとは別の灰色の猫がテーブルの下へ入ってきた。
迷わずティーの足元へ座る。
「ほら」
マカロンが嬉しそうに言った。
「ティーも、ちゃんと猫側だよ」
「利用者側です」
そう答えながらも。
ティーはしゃがみ、猫の背中をゆっくり撫でた。
猫は逃げず、手のひらへ頭を寄せる。
ティーの猫耳も、自然と前を向いた。
「かわいい」
「ティーも、猫を見ると話し方が柔らかくなるね」
マカロンも隣へしゃがんだ。
「私も撫でていい?」
灰色の猫はマカロンを見たあと、その場から動かなかった。
「これは許可?」
「拒否ではありません」
コハクの声が、カウンターから届いた。
「やった!」
二人で猫を撫でていると、スフィアノワールが飲み物と菓子を載せたトレイを運んできた。
テーブルの上へ、一つずつ静かに置く。
「……紅茶と、チーズケーキ」
ティーの前へ。
「……ミルクティーと、果物の焼き菓子」
マカロンの前へ。
「ありがとう、ノワール」
「ありがとうございます!」
スフィアノワールは軽く頭を下げた。
去ろうとしたところで、マカロンが声をかける。
「ノワールは、いつからここで働いてるの?」
「……少し前から」
「どうして猫カフェに?」
質問が続きすぎたと思ったのか、マカロンは少し姿勢を小さくした。
「答えたくなかったら、大丈夫だよ」
スフィアノワールは腕へ抱いていたトレイへ視線を落とした。
「……静かな場所が、よかったから」
店内を見渡す。
眠る猫。
控えめな音量の音楽。
チロルとコハク。
「……ここなら、話さない時間も、怒られないので」
「それは、いいね」
ティーが答えた。
ティーもミッドレッドで、何も話さず座っていることがある。
言葉を出せない時間にも、その場所にいてよいこと。
それが安心につながる感覚は、少しわかった。
「でも、また話してもいい?」
マカロンが尋ねる。
スフィアノワールは小さく頷く。
「……ゆっくりなら」
「わかった。ゆっくり話す!」
宣言する声だけは、少し元気だった。
スフィアノワールの口元に、また小さな笑みが浮かんだ。
ショコラから聞いた二人
食事を始めてしばらくすると、チロルが二人のテーブルへ来た。
「ショコラさんから、この店を教えてもらったそうですね」
「はい」
ティーが答える。
「みたらしっぽさんという人へ会えば、昼間に退屈しないかもしれないって」
マカロンも続けた。
「かなり、そのままの紹介ですね」
チロルは少し笑う。
「みたらしっぽさんは、この店の常連です。今日はまだ来ていませんけど」
「いつ来ますか?」
「学校やFoFもありますから、決まった時間ではないですね」
「会ってみたいです!」
マカロンの返事は早かった。
ティーも頷く。
「私も」
「では、次に来る予定を聞いておきましょうか?」
「お願いします」
「連絡先を登録しても大丈夫ですか?」
二人がチロルと連絡先を交換する。
最初に目覚めた日。
ティーの連絡先には、誰の名前もなかった。
今はメーア。
シエル。
マカロン。
そして、チロル。
少しずつ。
画面を開く意味のある名前が増えている。
近くでは、スフィアノワールが猫用の小さなクッションを整えていた。
灰色の猫が、整え終わるより先に中央へ座る。
スフィアノワールは少しだけ困った顔をしたあと、猫を退かすことなく、周囲だけを直した。
「ノワールさんは、みたらしっぽさんと会ったことがありますか?」
ティーが尋ねた。
スフィアノワールは猫の隣へしゃがんだまま頷いた。
「……何度か」
「どんな人?」
マカロンが聞く。
「……よく、猫に席を取られてます」
チロルが笑う。
「かなり正確な説明ですね」
「それだけ?」
「……猫へ譲って、別の席へ座ります」
「優しい人なんだね!」
マカロンの中では、すでに好印象になったようだった。
「会うのが楽しみ」
「本人へ伝えておきますね」
ティーはチーズケーキを一口食べた。
甘い。
けれど、味が強く残りすぎない。
スフィアノワールの言ったとおり。
「ひっそり甘い」
思わず口にすると、スフィアノワールがこちらを見る。
「……でしょう?」
ほんの少しだけ得意そうだった。
「ショコラさんから、この店を教えてもらったそうですね」
「はい」
ティーが答える。
「みたらしっぽさんという人へ会えば、昼間に退屈しないかもしれないって」
マカロンも続けた。
「かなり、そのままの紹介ですね」
チロルは少し笑う。
「みたらしっぽさんは、この店の常連です。今日はまだ来ていませんけど」
「いつ来ますか?」
「学校やFoFもありますから、決まった時間ではないですね」
「会ってみたいです!」
マカロンの返事は早かった。
ティーも頷く。
「私も」
「では、次に来る予定を聞いておきましょうか?」
「お願いします」
「連絡先を登録しても大丈夫ですか?」
二人がチロルと連絡先を交換する。
最初に目覚めた日。
ティーの連絡先には、誰の名前もなかった。
今はメーア。
シエル。
マカロン。
そして、チロル。
少しずつ。
画面を開く意味のある名前が増えている。
近くでは、スフィアノワールが猫用の小さなクッションを整えていた。
灰色の猫が、整え終わるより先に中央へ座る。
スフィアノワールは少しだけ困った顔をしたあと、猫を退かすことなく、周囲だけを直した。
「ノワールさんは、みたらしっぽさんと会ったことがありますか?」
ティーが尋ねた。
スフィアノワールは猫の隣へしゃがんだまま頷いた。
「……何度か」
「どんな人?」
マカロンが聞く。
「……よく、猫に席を取られてます」
チロルが笑う。
「かなり正確な説明ですね」
「それだけ?」
「……猫へ譲って、別の席へ座ります」
「優しい人なんだね!」
マカロンの中では、すでに好印象になったようだった。
「会うのが楽しみ」
「本人へ伝えておきますね」
ティーはチーズケーキを一口食べた。
甘い。
けれど、味が強く残りすぎない。
スフィアノワールの言ったとおり。
「ひっそり甘い」
思わず口にすると、スフィアノワールがこちらを見る。
「……でしょう?」
ほんの少しだけ得意そうだった。
チロルが聞いた噂
食事を終えたあとも。
二人はすぐに店を出なかった。
ティーは紅茶を飲み。
マカロンは猫用の玩具を床で動かしている。
灰色の猫が布の先端を追い。
それを少し離れた場所から、スフィアノワールが静かに見守っていた。
マカロンが玩具を高く上げすぎると、スフィアノワールが小さく言う。
「……もう少し、低く」
「このくらい?」
「……うん」
猫が飛びかかる。
マカロンも楽しそうに笑った。
ティーは、その様子を見ながらチロルへ声をかけた。
「チロルさん」
「はい?」
「理定者という言葉を、知っていますか?」
チロルの手が、一瞬だけ止まった。
コハクもカウンターからこちらへ視線を向ける。
スフィアノワールは問いかけへ顔を上げたものの、何も尋ねず、猫用の玩具を片づけ始めた。
チロルは店内を確認した。
近くの席にほかの客はいない。
スフィアノワールも空になった食器を持ち、カウンターの奥へ移動する。
チロルは少しだけ声を落とした。
「どこで聞きましたか?」
「知り合いから、噂として」
嘘ではない。
「私も詳しくはありません。ただ、言葉自体は聞いたことがあります」
「どんな人たちなんですか?」
マカロンがティーの隣へ戻った。
「長い期間、バーチャル世界で過ごす人へ、何かの役割を与える仕組みがある。そういう話を聞いたことがあります」
ショコラから聞いた内容と似ている。
けれど。
チロルの説明は、仕事そのものよりも、その人が過ごす時間へ向いているように聞こえた。
「どうして、役割を与えるんですか?」
ティーが尋ねる。
「ずっと何もせずにいることは、思っているよりも大変だからではないでしょうか」
チロルは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「朝が来て。することがあって。終われば休む。誰かに必要とされる。そうした区切りがある方が、長い時間を過ごしやすいこともあります」
ティーの脳裏へ。
夜ごとに届く任務表示が浮かんだ。
それは自由を奪う枷だと思っている。
今も、その考えが消えたわけではない。
けれど。
仕事を与えられていることには、ティーが知らない別の理由もあるのかもしれない。
「本人たちは、自分が理定者だと知っているんですか?」
マカロンが尋ねる。
チロルは、少し困ったように眉を下げた。
「そこまではわかりません。理定者という言葉自体、本人ではない外側の人が使う呼び名かもしれませんから」
「外側の人?」
「私たちのような、理定者ではない人です」
ティーとマカロンは、短く目を合わせた。
自分たちは。
その外側にいるのか。
それとも。
すでに内側にいるのか。
確かめるための情報はない。
「理定者を見つけようとは、しない方がいいと思います」
チロルは静かに続けた。
「危険だから、というだけではありません」
「では、どうして?」
「その人が普通に過ごしている時間まで、役割として見てしまうからです」
ティーの猫耳が小さく動いた。
ショコラから聞いた言葉と重なる。
仕事は、その人のすべてではない。
ティーが夜に何をしていても。
今ここでチーズケーキを食べ。
猫を撫でている時間まで、治安維持の担当者として見られる必要はない。
マカロンも同じだ。
銃を扱うマカロンだけが、彼女のすべてではない。
花畑の話をし。
猫と遊び。
スフィアノワールへ遠慮しながら手を伸ばす少女も、同じ彼女だ。
「昼間は、普通の利用者でいてもいい?」
ティーは、自分のことだと気づかれないように尋ねた。
チロルは迷わず頷く。
「もちろんです」
「夜に、誰かを傷つける役割だったとしても?」
言ってから。
少し直接的すぎたかもしれないと思った。
けれどチロルは、すぐに善悪を決めつけなかった。
「何のために、どのような判断で行っているのかを知らずに、私には答えられません」
その上で、穏やかに続ける。
「ただ、役割が重い人ほど、その役割から離れる時間は必要だと思います」
足元では。
灰色の猫が、ティーの靴へ頭を預けていた。
カウンターの近くでは、スフィアノワールが猫を一匹抱いたまま、静かに椅子へ座っている。
常連客が通りかかり、スフィアノワールへ小さく手を振った。
スフィアノワールも、猫を起こさないよう静かに手を振り返す。
「猫を撫でている時まで、仕事について考えなくてもいいんです」
チロルが言った。
ティーは、足元の猫をゆっくり撫でた。
「……うん」
口調を崩そうと意識したわけではない。
自然に返事が出た。
「今日は、猫を撫でる」
「いいと思います」
「私は焼き菓子も、もう一つ食べます!」
マカロンが言った。
「マカロン、昼食のあと」
「小さいものなら大丈夫!」
「……半分ずつなら」
カウンターの近くから、スフィアノワールの小さな声が聞こえた。
マカロンがそちらを向く。
「ノワールも一緒に食べる?」
「……休憩になったら」
「じゃあ待つ!」
「待っている間に、またお腹が空きそうですね」
チロルが笑った。
難しい話は、そこで終わった。
ティーとマカロンは、答えを得るためだけではなく。
猫と。
菓子と。
静かな新しいアルバイトがいる時間を過ごすために、しばらく店へ残った。
二人はすぐに店を出なかった。
ティーは紅茶を飲み。
マカロンは猫用の玩具を床で動かしている。
灰色の猫が布の先端を追い。
それを少し離れた場所から、スフィアノワールが静かに見守っていた。
マカロンが玩具を高く上げすぎると、スフィアノワールが小さく言う。
「……もう少し、低く」
「このくらい?」
「……うん」
猫が飛びかかる。
マカロンも楽しそうに笑った。
ティーは、その様子を見ながらチロルへ声をかけた。
「チロルさん」
「はい?」
「理定者という言葉を、知っていますか?」
チロルの手が、一瞬だけ止まった。
コハクもカウンターからこちらへ視線を向ける。
スフィアノワールは問いかけへ顔を上げたものの、何も尋ねず、猫用の玩具を片づけ始めた。
チロルは店内を確認した。
近くの席にほかの客はいない。
スフィアノワールも空になった食器を持ち、カウンターの奥へ移動する。
チロルは少しだけ声を落とした。
「どこで聞きましたか?」
「知り合いから、噂として」
嘘ではない。
「私も詳しくはありません。ただ、言葉自体は聞いたことがあります」
「どんな人たちなんですか?」
マカロンがティーの隣へ戻った。
「長い期間、バーチャル世界で過ごす人へ、何かの役割を与える仕組みがある。そういう話を聞いたことがあります」
ショコラから聞いた内容と似ている。
けれど。
チロルの説明は、仕事そのものよりも、その人が過ごす時間へ向いているように聞こえた。
「どうして、役割を与えるんですか?」
ティーが尋ねる。
「ずっと何もせずにいることは、思っているよりも大変だからではないでしょうか」
チロルは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「朝が来て。することがあって。終われば休む。誰かに必要とされる。そうした区切りがある方が、長い時間を過ごしやすいこともあります」
ティーの脳裏へ。
夜ごとに届く任務表示が浮かんだ。
それは自由を奪う枷だと思っている。
今も、その考えが消えたわけではない。
けれど。
仕事を与えられていることには、ティーが知らない別の理由もあるのかもしれない。
「本人たちは、自分が理定者だと知っているんですか?」
マカロンが尋ねる。
チロルは、少し困ったように眉を下げた。
「そこまではわかりません。理定者という言葉自体、本人ではない外側の人が使う呼び名かもしれませんから」
「外側の人?」
「私たちのような、理定者ではない人です」
ティーとマカロンは、短く目を合わせた。
自分たちは。
その外側にいるのか。
それとも。
すでに内側にいるのか。
確かめるための情報はない。
「理定者を見つけようとは、しない方がいいと思います」
チロルは静かに続けた。
「危険だから、というだけではありません」
「では、どうして?」
「その人が普通に過ごしている時間まで、役割として見てしまうからです」
ティーの猫耳が小さく動いた。
ショコラから聞いた言葉と重なる。
仕事は、その人のすべてではない。
ティーが夜に何をしていても。
今ここでチーズケーキを食べ。
猫を撫でている時間まで、治安維持の担当者として見られる必要はない。
マカロンも同じだ。
銃を扱うマカロンだけが、彼女のすべてではない。
花畑の話をし。
猫と遊び。
スフィアノワールへ遠慮しながら手を伸ばす少女も、同じ彼女だ。
「昼間は、普通の利用者でいてもいい?」
ティーは、自分のことだと気づかれないように尋ねた。
チロルは迷わず頷く。
「もちろんです」
「夜に、誰かを傷つける役割だったとしても?」
言ってから。
少し直接的すぎたかもしれないと思った。
けれどチロルは、すぐに善悪を決めつけなかった。
「何のために、どのような判断で行っているのかを知らずに、私には答えられません」
その上で、穏やかに続ける。
「ただ、役割が重い人ほど、その役割から離れる時間は必要だと思います」
足元では。
灰色の猫が、ティーの靴へ頭を預けていた。
カウンターの近くでは、スフィアノワールが猫を一匹抱いたまま、静かに椅子へ座っている。
常連客が通りかかり、スフィアノワールへ小さく手を振った。
スフィアノワールも、猫を起こさないよう静かに手を振り返す。
「猫を撫でている時まで、仕事について考えなくてもいいんです」
チロルが言った。
ティーは、足元の猫をゆっくり撫でた。
「……うん」
口調を崩そうと意識したわけではない。
自然に返事が出た。
「今日は、猫を撫でる」
「いいと思います」
「私は焼き菓子も、もう一つ食べます!」
マカロンが言った。
「マカロン、昼食のあと」
「小さいものなら大丈夫!」
「……半分ずつなら」
カウンターの近くから、スフィアノワールの小さな声が聞こえた。
マカロンがそちらを向く。
「ノワールも一緒に食べる?」
「……休憩になったら」
「じゃあ待つ!」
「待っている間に、またお腹が空きそうですね」
チロルが笑った。
難しい話は、そこで終わった。
ティーとマカロンは、答えを得るためだけではなく。
猫と。
菓子と。
静かな新しいアルバイトがいる時間を過ごすために、しばらく店へ残った。
名前がついても
カフェを出たあと。
ティーとマカロンは、近くの小さな公園へ向かった。
昼の明るい空。
遊んでいる子どもの声。
ベンチの前を、小さな動物型アバターが走り過ぎていく。
夜の仕事について話すには、あまりにも穏やかな場所だった。
だからこそ。
理定者という名前だけに、飲み込まれずに済む気がした。
二人でベンチへ座る。
マカロンが先に口を開いた。
「やっぱり、私たちのことだと思う?」
「たぶん」
ティーは答える。
「でも、まだ決めつけない方がいい」
「指示者は答えてくれなかったもんね」
「うん」
「それでも」
マカロンは空を見上げる。
「今まで何も名前がなかったよりは、少しだけ探しやすくなった気がする」
「資料館で検索しても、出ないかもしれない」
「でも、聞く言葉はできたでしょう?」
確かに。
今までは。
何を調べればよいのかすら、わからなかった。
夜間任務。
専用端末。
黄色い瞳。
どれも、断片でしかない。
理定者という一つの言葉が。
それらを完全ではなくても、まとめている。
ティーは灰色のノートを取り出した。
新しいページを開く。
青いペンで、最初に書く。
<理定者>
その下へ。
<長期接続者へ役割を与える仕組みらしい>
<担当は人によって異なる>
<専用権限を持つ場合がある>
<一般には、ほとんど知られていない>
<本人が理定者だと知っているかは不明>
<私たちである可能性は高い。確定ではない>
マカロンが横から覗き込む。
「身分は隠す、も書こう」
ティーは頷き、続けた。
<当面、身分と任務内容は話さない>
「当面?」
マカロンが尋ねる。
「ずっととは決めない」
「いつか、話せる日が来るかもしれない?」
「うん」
「その時は、一緒に話そうね」
「うん」
さらに一行。
<ショコラさん、メーア、シエル、チロルさんを巻き込まない>
書き終える。
マカロンは少し考えたあと、ペンを借りた。
ページの端へ、小さな文字を追加する。
<チーズケーキは、ひっそり甘い>
ティーは、その文字を見る。
「これは理定者の記録に必要?」
「今日わかった大事なこと」
「同じページに?」
「忘れたくないから」
「別のページでもいいと思う」
「もう書いちゃった」
ティーは少しだけ困り。
それから、ノートを閉じずに笑った。
「なら、そのままでいい」
「でしょう?」
本当の名前はわからない。
現実の自分も。
なぜこの世界へ留められているのかも知らない。
理定者という言葉を得ても。
何一つ、確定したわけではなかった。
それでも。
夜の役割だけではない記録が、同じページに残っている。
紫色の飲み物。
桃色の飲み物。
猫。
チーズケーキ。
これから会うかもしれない、みたらしっぽという学生。
ティーはノートへ、最後に一つだけ書き加えた。
<次の予定――みたらしっぽさんに会う>
マカロンが、すぐに反応する。
「いつ?」
「チロルさんから連絡が来たら」
「今日来るかもしれないよ」
「学校があるって言ってた」
「放課後なら?」
「まだ昼」
「じゃあ、待つ?」
「今日は待たない」
「そっか」
マカロンは一瞬だけ残念そうにしたが、すぐに立ち上がった。
「じゃあ今から、花のフィールドへ行こう!」
「急に?」
「次の予定を作ろうって、ショコラさんとチロルさんも言ってたでしょう?」
「二人とも、そこまで急げとは言ってなかった」
「でも行きたい?」
ティーの猫耳が、わずかに前へ向いた。
マカロンが笑う。
「行きたいって」
「本人に聞いて」
「行きたい?」
ティーは少しだけ空を見た。
今日は任務の通知もない。
資料館へ行く予定もない。
自分たちが理定者なのか。
今すぐ答えが出ることでもない。
「うん。行きたい」
「じゃあ決まり!」
二人は公園を出る。
夜の仕事には。
理定者という名前があるのかもしれない。
その身分は、まだ誰にも明かさない。
けれど昼の時間まで。
名前のない何かを探すためだけに使う必要はなかった。
ティーとマカロンは。
次の任務ではなく。
自分たちで決めた場所へ向かって歩き始めた。
ティーとマカロンは、近くの小さな公園へ向かった。
昼の明るい空。
遊んでいる子どもの声。
ベンチの前を、小さな動物型アバターが走り過ぎていく。
夜の仕事について話すには、あまりにも穏やかな場所だった。
だからこそ。
理定者という名前だけに、飲み込まれずに済む気がした。
二人でベンチへ座る。
マカロンが先に口を開いた。
「やっぱり、私たちのことだと思う?」
「たぶん」
ティーは答える。
「でも、まだ決めつけない方がいい」
「指示者は答えてくれなかったもんね」
「うん」
「それでも」
マカロンは空を見上げる。
「今まで何も名前がなかったよりは、少しだけ探しやすくなった気がする」
「資料館で検索しても、出ないかもしれない」
「でも、聞く言葉はできたでしょう?」
確かに。
今までは。
何を調べればよいのかすら、わからなかった。
夜間任務。
専用端末。
黄色い瞳。
どれも、断片でしかない。
理定者という一つの言葉が。
それらを完全ではなくても、まとめている。
ティーは灰色のノートを取り出した。
新しいページを開く。
青いペンで、最初に書く。
<理定者>
その下へ。
<長期接続者へ役割を与える仕組みらしい>
<担当は人によって異なる>
<専用権限を持つ場合がある>
<一般には、ほとんど知られていない>
<本人が理定者だと知っているかは不明>
<私たちである可能性は高い。確定ではない>
マカロンが横から覗き込む。
「身分は隠す、も書こう」
ティーは頷き、続けた。
<当面、身分と任務内容は話さない>
「当面?」
マカロンが尋ねる。
「ずっととは決めない」
「いつか、話せる日が来るかもしれない?」
「うん」
「その時は、一緒に話そうね」
「うん」
さらに一行。
<ショコラさん、メーア、シエル、チロルさんを巻き込まない>
書き終える。
マカロンは少し考えたあと、ペンを借りた。
ページの端へ、小さな文字を追加する。
<チーズケーキは、ひっそり甘い>
ティーは、その文字を見る。
「これは理定者の記録に必要?」
「今日わかった大事なこと」
「同じページに?」
「忘れたくないから」
「別のページでもいいと思う」
「もう書いちゃった」
ティーは少しだけ困り。
それから、ノートを閉じずに笑った。
「なら、そのままでいい」
「でしょう?」
本当の名前はわからない。
現実の自分も。
なぜこの世界へ留められているのかも知らない。
理定者という言葉を得ても。
何一つ、確定したわけではなかった。
それでも。
夜の役割だけではない記録が、同じページに残っている。
紫色の飲み物。
桃色の飲み物。
猫。
チーズケーキ。
これから会うかもしれない、みたらしっぽという学生。
ティーはノートへ、最後に一つだけ書き加えた。
<次の予定――みたらしっぽさんに会う>
マカロンが、すぐに反応する。
「いつ?」
「チロルさんから連絡が来たら」
「今日来るかもしれないよ」
「学校があるって言ってた」
「放課後なら?」
「まだ昼」
「じゃあ、待つ?」
「今日は待たない」
「そっか」
マカロンは一瞬だけ残念そうにしたが、すぐに立ち上がった。
「じゃあ今から、花のフィールドへ行こう!」
「急に?」
「次の予定を作ろうって、ショコラさんとチロルさんも言ってたでしょう?」
「二人とも、そこまで急げとは言ってなかった」
「でも行きたい?」
ティーの猫耳が、わずかに前へ向いた。
マカロンが笑う。
「行きたいって」
「本人に聞いて」
「行きたい?」
ティーは少しだけ空を見た。
今日は任務の通知もない。
資料館へ行く予定もない。
自分たちが理定者なのか。
今すぐ答えが出ることでもない。
「うん。行きたい」
「じゃあ決まり!」
二人は公園を出る。
夜の仕事には。
理定者という名前があるのかもしれない。
その身分は、まだ誰にも明かさない。
けれど昼の時間まで。
名前のない何かを探すためだけに使う必要はなかった。
ティーとマカロンは。
次の任務ではなく。
自分たちで決めた場所へ向かって歩き始めた。