だんのこまち@wiki
明かされる境遇
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任務の翌日
目を覚ました時、部屋の外はすでに暗くなっていた。
大規模任務を終えて住宅区へ戻ったのは、朝日が昇ってからだった。
装備を解除し。
傷が修復されていることを確認し。
部屋へ入ったところまでは覚えている。
それからベッドへ座ったはずなのに、横になった記憶はなかった。
ティーは枕元へ手を伸ばし、時刻を確認した。
<21:18>
「こんなに眠ってたんだ」
身体を起こす。
バーチャル世界の身体に強い疲労が残っているわけではない。
肩も。
背中も。
ボルビーノの一撃を受けた場所に傷はなかった。
それでも、眠る前より頭の中が少し静かになっている。
休息には意味があったらしい。
窓の外には、住宅区の夜景が広がっていた。
同じ形の建物。
規則正しく並ぶ街灯。
遠くに見える中央区画の立体広告。
いつもの景色だった。
机の上には灰色のノートが開いたまま残されている。
<BlackMETRO>
<MOORIS>
<ボルビーノ>
最後の名前の下には、マカロンが残すよう提案した一行分の空白。
そのさらに下。
<六十三人は全員帰れた>
ティーは、その一文を指でなぞった。
帰れた。
あの人たちは、自分の意思で現実へ戻ることができた。
ティーには、まだできない。
だが。
昨夜までとは少しだけ違う。
今では、この部屋を出れば行ける場所がある。
ミッドレッド。
カフェのんびりひっそり。
青い花のフィールド。
隣には、マカロンがいる。
明日の放課後には、みたらしっぽという学生と会う予定もできた。
ティーは連絡画面を開いた。
チロルから届いたメッセージと、その下にある自分たちの返事。
<二人で伺います>
「明日……」
声に出して確認する。
マカロンとは、起きたら連絡すると話していた。
焼き菓子の残りも食べる予定だった。
今から連絡しよう。
そう思って個人メニューへ手を伸ばした時。
左手へ、短い振動が走った。
ティーの猫耳が、反射的に後ろへ動く。
けれど。
いつもの任務通知とは違った。
赤い警告ではない。
対象。
場所。
任務番号も表示されていない。
<DIRECT CALL>
<MEDICAL STATUS DISCLOSURE>
「医療……?」
初めて見る表示だった。
クライアントユニットが、ティーの操作を待たずに展開される。
青く透き通った基部。
その上へ並ぶ、白い立体キー。
けれど今夜は、武器の解放も。
夜間権限の起動もない。
瞳は青いままだった。
<応答>
ティーは数秒迷い。
キーを押した。
静かな接続音。
そのあと。
何度も聞いてきた、低い男の声が届いた。
『こんばんは、ティー』
「こんばんは」
任務の説明が始まる様子はない。
「今日は、仕事ではないんですか」
『はい。今夜、夜間任務は発行されません』
「では、この表示は?」
短い沈黙。
男は、これまでよりも少しゆっくりと言った。
『あなたの現実側の状態について、説明します』
ティーの指が。
白いキーの上で止まった。
大規模任務を終えて住宅区へ戻ったのは、朝日が昇ってからだった。
装備を解除し。
傷が修復されていることを確認し。
部屋へ入ったところまでは覚えている。
それからベッドへ座ったはずなのに、横になった記憶はなかった。
ティーは枕元へ手を伸ばし、時刻を確認した。
<21:18>
「こんなに眠ってたんだ」
身体を起こす。
バーチャル世界の身体に強い疲労が残っているわけではない。
肩も。
背中も。
ボルビーノの一撃を受けた場所に傷はなかった。
それでも、眠る前より頭の中が少し静かになっている。
休息には意味があったらしい。
窓の外には、住宅区の夜景が広がっていた。
同じ形の建物。
規則正しく並ぶ街灯。
遠くに見える中央区画の立体広告。
いつもの景色だった。
机の上には灰色のノートが開いたまま残されている。
<BlackMETRO>
<MOORIS>
<ボルビーノ>
最後の名前の下には、マカロンが残すよう提案した一行分の空白。
そのさらに下。
<六十三人は全員帰れた>
ティーは、その一文を指でなぞった。
帰れた。
あの人たちは、自分の意思で現実へ戻ることができた。
ティーには、まだできない。
だが。
昨夜までとは少しだけ違う。
今では、この部屋を出れば行ける場所がある。
ミッドレッド。
カフェのんびりひっそり。
青い花のフィールド。
隣には、マカロンがいる。
明日の放課後には、みたらしっぽという学生と会う予定もできた。
ティーは連絡画面を開いた。
チロルから届いたメッセージと、その下にある自分たちの返事。
<二人で伺います>
「明日……」
声に出して確認する。
マカロンとは、起きたら連絡すると話していた。
焼き菓子の残りも食べる予定だった。
今から連絡しよう。
そう思って個人メニューへ手を伸ばした時。
左手へ、短い振動が走った。
ティーの猫耳が、反射的に後ろへ動く。
けれど。
いつもの任務通知とは違った。
赤い警告ではない。
対象。
場所。
任務番号も表示されていない。
<DIRECT CALL>
<MEDICAL STATUS DISCLOSURE>
「医療……?」
初めて見る表示だった。
クライアントユニットが、ティーの操作を待たずに展開される。
青く透き通った基部。
その上へ並ぶ、白い立体キー。
けれど今夜は、武器の解放も。
夜間権限の起動もない。
瞳は青いままだった。
<応答>
ティーは数秒迷い。
キーを押した。
静かな接続音。
そのあと。
何度も聞いてきた、低い男の声が届いた。
『こんばんは、ティー』
「こんばんは」
任務の説明が始まる様子はない。
「今日は、仕事ではないんですか」
『はい。今夜、夜間任務は発行されません』
「では、この表示は?」
短い沈黙。
男は、これまでよりも少しゆっくりと言った。
『あなたの現実側の状態について、説明します』
ティーの指が。
白いキーの上で止まった。
現実に残された身体
「現実側の……私?」
『はい』
その答えだけで。
部屋の空気が、少し変わったように感じた。
ティーはずっと。
現実の自分について尋ねてきた。
名前。
接続場所。
なぜログアウトできないのか。
そのたびに答えは伏せられた。
<現時点では回答できません>
何度も見た言葉。
それが今。
向こうから説明すると言っている。
「どうして、急に?」
『あなたの身体の回復が、情報を伝えても問題のない段階へ進んだからです』
身体。
回復。
どちらも。
今の自分には直接触れられない言葉だった。
ティーは椅子へ座った。
立ったまま聞くべきではない気がした。
「私の現実の身体は、どこにあるんですか」
『病院です』
即答だった。
「病院……」
『あなたは現実世界で事故に遭いました』
その瞬間。
頭の奥へ、白い光が走った。
ほんの一瞬。
天井。
何かが規則正しく鳴る音。
自分の周りで交わされる複数の声。
痛みではない。
痛みを思い出す直前で、記憶が閉じたような感覚。
ティーは額へ手を当てた。
「事故……」
『事故の直後、あなたは意識を失った状態で搬送されました。一時は生命に関わる状態でした』
「今は?」
声が思っていたより小さくなった。
『現在、生命状態は安定しています。複数回の処置と手術を行い、身体の回復も順調です』
「手術……」
自分の身体が。
見えない場所で。
自分の知らない間に切られ。
治療されていた。
ティーは自分の腕を見た。
白い肌。
傷一つない手。
細い指。
これは現実の身体ではない。
現実では。
別の腕が、どこかの病室にある。
「私は今も、眠っているんですか」
『現実側から見れば、深い鎮静状態に近いです。ただし、意識そのものはこのバーチャル世界で活動しています』
「あなたは……」
ティーは、耳元の声へ集中した。
初めて目覚める前に聞いた。
遠い声。
白い光の中で、何かを説明していた声。
「前にも、現実で私へ話しかけていましたか」
通話の向こうで、わずかな間が空く。
『はい』
「聞き覚えがあると思ってた」
『接続処理へ入る直前まで、私はあなたへ声をかけていました』
「では、あなたは誰なんですか」
今まで何度尋ねても、答えられなかった質問だった。
男は静かに答えた。
『私は、あなたの現実側の治療を担当している医師です』
ティーの猫耳が、わずかに伏せた。
『この世界では、あなたへの指示者を担当しています』
「医師が……指示者」
『はい』
何度も銃を持たせ。
違反者を追わせ。
任務を完了したか確認してきた人物。
その正体は。
現実で、自分の身体を治療している医師だった。
『はい』
その答えだけで。
部屋の空気が、少し変わったように感じた。
ティーはずっと。
現実の自分について尋ねてきた。
名前。
接続場所。
なぜログアウトできないのか。
そのたびに答えは伏せられた。
<現時点では回答できません>
何度も見た言葉。
それが今。
向こうから説明すると言っている。
「どうして、急に?」
『あなたの身体の回復が、情報を伝えても問題のない段階へ進んだからです』
身体。
回復。
どちらも。
今の自分には直接触れられない言葉だった。
ティーは椅子へ座った。
立ったまま聞くべきではない気がした。
「私の現実の身体は、どこにあるんですか」
『病院です』
即答だった。
「病院……」
『あなたは現実世界で事故に遭いました』
その瞬間。
頭の奥へ、白い光が走った。
ほんの一瞬。
天井。
何かが規則正しく鳴る音。
自分の周りで交わされる複数の声。
痛みではない。
痛みを思い出す直前で、記憶が閉じたような感覚。
ティーは額へ手を当てた。
「事故……」
『事故の直後、あなたは意識を失った状態で搬送されました。一時は生命に関わる状態でした』
「今は?」
声が思っていたより小さくなった。
『現在、生命状態は安定しています。複数回の処置と手術を行い、身体の回復も順調です』
「手術……」
自分の身体が。
見えない場所で。
自分の知らない間に切られ。
治療されていた。
ティーは自分の腕を見た。
白い肌。
傷一つない手。
細い指。
これは現実の身体ではない。
現実では。
別の腕が、どこかの病室にある。
「私は今も、眠っているんですか」
『現実側から見れば、深い鎮静状態に近いです。ただし、意識そのものはこのバーチャル世界で活動しています』
「あなたは……」
ティーは、耳元の声へ集中した。
初めて目覚める前に聞いた。
遠い声。
白い光の中で、何かを説明していた声。
「前にも、現実で私へ話しかけていましたか」
通話の向こうで、わずかな間が空く。
『はい』
「聞き覚えがあると思ってた」
『接続処理へ入る直前まで、私はあなたへ声をかけていました』
「では、あなたは誰なんですか」
今まで何度尋ねても、答えられなかった質問だった。
男は静かに答えた。
『私は、あなたの現実側の治療を担当している医師です』
ティーの猫耳が、わずかに伏せた。
『この世界では、あなたへの指示者を担当しています』
「医師が……指示者」
『はい』
何度も銃を持たせ。
違反者を追わせ。
任務を完了したか確認してきた人物。
その正体は。
現実で、自分の身体を治療している医師だった。
戻さなかった理由
「私を治療しているなら」
ティーは静かに言った。
「どうして、ログアウトさせなかったんですか」
『現実へ意識を戻せる状態ではなかったからです』
「意識だけでも戻せたんでしょう?」
『技術的には可能でした』
「だったら――」
『ですが、その時点で戻せば、あなたは現実の身体が受けている感覚を一度に認識していました』
男の声は落ち着いている。
けれど。
今までのように、短い情報だけを読み上げている声ではなかった。
『事故直後の身体は、強い損傷を受けていました。手術中の刺激。治療による負担。抑えきれない痛覚。完全に意識を戻せば、とてつもない痛みを伴う可能性が高かった』
ティーは、無意識に自分の腕を抱いた。
ここでは痛くない。
一度撃たれても。
壁へ叩きつけられても。
任務が終われば傷は消えた。
現実の身体では。
そうではない。
『強い痛みと混乱は、手術の継続だけでなく、あなたの精神状態にも悪影響を及ぼす可能性がありました』
「だから、ここに置いた?」
『はい』
「何も教えずに」
『はい』
「ログアウトもできなくして」
男は否定しなかった。
『はい』
ティーの手へ、少しずつ力が入る。
「それを、治療と言うんですか」
『あなたから見れば、拘束だったと思います』
「思います、じゃない」
声が強くなった。
「私は、閉じ込められてた」
『そのとおりです』
あまりに真っすぐ認められ。
次にぶつけようとした言葉が、途中で止まった。
『あなたの意思を確認できない状態で、現実側の身体と意識を守ることを優先しました』
「私が、何度ログアウトしようとしても?」
『初期のログアウト操作は記録しています』
「そのたびに、あなたたちは止めた」
『はい』
「私が怖がっていても?」
男は、少しだけ間を置いた。
『知っています』
「知っていて、何も言わなかった」
『申し訳ありません』
初めて。
指示者から謝罪の言葉が聞こえた。
言われたからといって。
あの日の不安が消えるわけではない。
自分の名前すらわからず。
噴水の前で。
帰る方法を何度も探した。
誰かへ連絡しようとして。
空の連絡先を見つめた。
「もっと早く、教えてほしかった」
『そう思うのは当然です』
「せめて、身体があることだけでも」
『それを知れば、あなたは現実へ戻る方法をさらに強く求めていた可能性があります』
「今までよりも?」
『はい』
ティーは否定できなかった。
本当に。
病院で待っている身体があると知っていたら。
任務も。
昼の散歩も。
バーも。
すべてを後回しにして、帰る方法だけを探したかもしれない。
『現実への帰還を強く望み続けること自体が、接続の安定を崩す可能性もありました』
「だから、現実を考えさせないようにした」
『はい』
「仕事まで与えて」
『それも、そのための一つです』
ティーは静かに言った。
「どうして、ログアウトさせなかったんですか」
『現実へ意識を戻せる状態ではなかったからです』
「意識だけでも戻せたんでしょう?」
『技術的には可能でした』
「だったら――」
『ですが、その時点で戻せば、あなたは現実の身体が受けている感覚を一度に認識していました』
男の声は落ち着いている。
けれど。
今までのように、短い情報だけを読み上げている声ではなかった。
『事故直後の身体は、強い損傷を受けていました。手術中の刺激。治療による負担。抑えきれない痛覚。完全に意識を戻せば、とてつもない痛みを伴う可能性が高かった』
ティーは、無意識に自分の腕を抱いた。
ここでは痛くない。
一度撃たれても。
壁へ叩きつけられても。
任務が終われば傷は消えた。
現実の身体では。
そうではない。
『強い痛みと混乱は、手術の継続だけでなく、あなたの精神状態にも悪影響を及ぼす可能性がありました』
「だから、ここに置いた?」
『はい』
「何も教えずに」
『はい』
「ログアウトもできなくして」
男は否定しなかった。
『はい』
ティーの手へ、少しずつ力が入る。
「それを、治療と言うんですか」
『あなたから見れば、拘束だったと思います』
「思います、じゃない」
声が強くなった。
「私は、閉じ込められてた」
『そのとおりです』
あまりに真っすぐ認められ。
次にぶつけようとした言葉が、途中で止まった。
『あなたの意思を確認できない状態で、現実側の身体と意識を守ることを優先しました』
「私が、何度ログアウトしようとしても?」
『初期のログアウト操作は記録しています』
「そのたびに、あなたたちは止めた」
『はい』
「私が怖がっていても?」
男は、少しだけ間を置いた。
『知っています』
「知っていて、何も言わなかった」
『申し訳ありません』
初めて。
指示者から謝罪の言葉が聞こえた。
言われたからといって。
あの日の不安が消えるわけではない。
自分の名前すらわからず。
噴水の前で。
帰る方法を何度も探した。
誰かへ連絡しようとして。
空の連絡先を見つめた。
「もっと早く、教えてほしかった」
『そう思うのは当然です』
「せめて、身体があることだけでも」
『それを知れば、あなたは現実へ戻る方法をさらに強く求めていた可能性があります』
「今までよりも?」
『はい』
ティーは否定できなかった。
本当に。
病院で待っている身体があると知っていたら。
任務も。
昼の散歩も。
バーも。
すべてを後回しにして、帰る方法だけを探したかもしれない。
『現実への帰還を強く望み続けること自体が、接続の安定を崩す可能性もありました』
「だから、現実を考えさせないようにした」
『はい』
「仕事まで与えて」
『それも、そのための一つです』
理定者
クライアントユニットの上空へ。
新しい資料が展開された。
<LONG-TERM VIRTUAL TREATMENT>
<ROLE:理定者>
ティーは、その文字を見た。
ショコラから聞いた言葉。
チロルから聞いた噂。
指示者へ尋ねても、アクセスを拒まれた名前。
「やっぱり」
小さく呟く。
「私は、理定者なんですね」
『はい』
今度は隠されなかった。
『治療や保護などの理由で、長期間バーチャル世界に意識を置く必要がある者へ、一定の役割と生活環境を与える仕組みです』
「何もしないで、休ませるだけでは駄目だったんですか」
『長い時間を、目的も区切りもなく過ごすことは、精神の安定を損なう場合があります』
男は説明を続ける。
『現実へ帰れない理由を知らない状態で、何もすることがなければ、あなたはより強く出口だけを探していたでしょう』
「それは……そうかもしれない」
『朝と夜の区切り。役割。達成する対象。自分が誰かに必要とされている感覚。それらを持つことで、意識を安定した状態に保つ』
「暇にさせないため?」
『それだけではありません』
「でも、含まれてはいる」
『はい』
また、否定はしなかった。
『私たちの病院では、長期接続治療を行う場合、本人の残存技能や精神状態に合わせて役割を与えています』
ティーは、自分の右手を見た。
銃を握る位置。
ナイフの扱い。
クライアントユニットを操作する指。
初めてのはずなのに。
身体はすべて知っていた。
「私には、治安維持が選ばれた」
『あなたの判断能力と、バーチャル空間内で保持されていた身体操作技能を評価した結果です』
「銃を使う仕事が、治療に向いていると思ったんですか」
『危険性は監視しています。バーチャル世界内で受けた損傷が、現実の身体の治療を直接妨げることはありません』
「怖さは残ります」
『はい』
「撃ったことも」
『それも承知しています』
「ボルビーノに逃げられたことも」
『記録しています』
ティーは少しだけ眉を寄せた。
「何でも記録してるんですね」
『治療状態を把握する必要があります』
「ミッドレッドへ行ったことも?」
一瞬。
通話が静かになった。
『日常行動を常時監視しているわけではありません』
「マカロンと会ったことは?」
『任務上の接触は確認しています』
「青い花のフィールドへ行ったことは?」
『知りませんでした』
その答えに。
ティーの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「では、全部が用意されたわけではない?」
『住居。識別名。クライアントユニット。任務。それらは私たちが用意しました』
男は、はっきりと続けた。
『ですが、あなたが誰と出会い、どこへ行き、何を好きになったかは、あなた自身が選んだものです』
淡い紫色の飲み物。
灰色のノート。
マロウ姉妹。
チロル。
ノワール。
マカロン。
花畑で撮った写真。
明日、会う予定の学生。
それらまで。
自分をこの世界へ留めるために用意されたのではない。
「マカロンも?」
『彼女との関係を、こちらが作ったものではありません』
ティーは、ゆっくり息を吐いた。
すべてを信じたわけではない。
けれど。
少なくとも。
マカロンが笑いながら隣へ座ったことまで、治療の一部だったとは思いたくなかった。
「理定者の仕事を与えたのは」
ティーは言う。
「私に、帰りたいと思わせないため」
『より正確には、帰れない時間を、帰ることだけを考えて苦しむ時間にしないためです』
似ている。
それでも。
少しだけ違う言葉だった。
「私が楽しく過ごすことも、治療だったんですか」
『治療のために楽しまされたのではありません』
男の声は穏やかだった。
『あなたが自分で楽しめる場所を見つけたことが、結果として回復を助けています』
新しい資料が展開された。
<LONG-TERM VIRTUAL TREATMENT>
<ROLE:理定者>
ティーは、その文字を見た。
ショコラから聞いた言葉。
チロルから聞いた噂。
指示者へ尋ねても、アクセスを拒まれた名前。
「やっぱり」
小さく呟く。
「私は、理定者なんですね」
『はい』
今度は隠されなかった。
『治療や保護などの理由で、長期間バーチャル世界に意識を置く必要がある者へ、一定の役割と生活環境を与える仕組みです』
「何もしないで、休ませるだけでは駄目だったんですか」
『長い時間を、目的も区切りもなく過ごすことは、精神の安定を損なう場合があります』
男は説明を続ける。
『現実へ帰れない理由を知らない状態で、何もすることがなければ、あなたはより強く出口だけを探していたでしょう』
「それは……そうかもしれない」
『朝と夜の区切り。役割。達成する対象。自分が誰かに必要とされている感覚。それらを持つことで、意識を安定した状態に保つ』
「暇にさせないため?」
『それだけではありません』
「でも、含まれてはいる」
『はい』
また、否定はしなかった。
『私たちの病院では、長期接続治療を行う場合、本人の残存技能や精神状態に合わせて役割を与えています』
ティーは、自分の右手を見た。
銃を握る位置。
ナイフの扱い。
クライアントユニットを操作する指。
初めてのはずなのに。
身体はすべて知っていた。
「私には、治安維持が選ばれた」
『あなたの判断能力と、バーチャル空間内で保持されていた身体操作技能を評価した結果です』
「銃を使う仕事が、治療に向いていると思ったんですか」
『危険性は監視しています。バーチャル世界内で受けた損傷が、現実の身体の治療を直接妨げることはありません』
「怖さは残ります」
『はい』
「撃ったことも」
『それも承知しています』
「ボルビーノに逃げられたことも」
『記録しています』
ティーは少しだけ眉を寄せた。
「何でも記録してるんですね」
『治療状態を把握する必要があります』
「ミッドレッドへ行ったことも?」
一瞬。
通話が静かになった。
『日常行動を常時監視しているわけではありません』
「マカロンと会ったことは?」
『任務上の接触は確認しています』
「青い花のフィールドへ行ったことは?」
『知りませんでした』
その答えに。
ティーの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「では、全部が用意されたわけではない?」
『住居。識別名。クライアントユニット。任務。それらは私たちが用意しました』
男は、はっきりと続けた。
『ですが、あなたが誰と出会い、どこへ行き、何を好きになったかは、あなた自身が選んだものです』
淡い紫色の飲み物。
灰色のノート。
マロウ姉妹。
チロル。
ノワール。
マカロン。
花畑で撮った写真。
明日、会う予定の学生。
それらまで。
自分をこの世界へ留めるために用意されたのではない。
「マカロンも?」
『彼女との関係を、こちらが作ったものではありません』
ティーは、ゆっくり息を吐いた。
すべてを信じたわけではない。
けれど。
少なくとも。
マカロンが笑いながら隣へ座ったことまで、治療の一部だったとは思いたくなかった。
「理定者の仕事を与えたのは」
ティーは言う。
「私に、帰りたいと思わせないため」
『より正確には、帰れない時間を、帰ることだけを考えて苦しむ時間にしないためです』
似ている。
それでも。
少しだけ違う言葉だった。
「私が楽しく過ごすことも、治療だったんですか」
『治療のために楽しまされたのではありません』
男の声は穏やかだった。
『あなたが自分で楽しめる場所を見つけたことが、結果として回復を助けています』
もうすぐ
ティーは、上空の資料を閉じた。
聞きたいことは、まだいくつもある。
だが。
一つだけ。
最初からずっと知りたかったことがある。
「私は、いつ戻れるんですか」
男は、すぐに答えた。
『遠くありません』
ティーの猫耳が、わずかに立つ。
「本当に?」
『はい。現実の身体は順調に回復しています』
「もう、痛くない?」
『痛みが完全になくなったわけではありません。ただし、意識を段階的に戻しても、治療や精神状態へ大きな悪影響を及ぼさない段階へ近づいています』
「段階的に?」
『最初は、短い時間だけ現実側の感覚へ接続します。その後、身体状態と精神状態を確認しながら、完全な覚醒へ進みます』
「今夜、戻るわけではない」
『今夜ではありません』
安堵と。
わずかな失望が、同時に胸へ入ってきた。
「あと何日?」
『正確な日付は、最終検査の結果によります』
「また、まだ教えられない」
『今回は隠しているのではありません。本当に確定していません』
声の違いを。
ティーは少しずつ聞き分けられるようになっていた。
これまでのように、決まった答えを伏せている声ではない。
「でも、戻れるんですね」
『はい』
「現実の身体へ」
『はい』
初めて目覚めた日。
何度押しても動かなかったログアウト。
あれほど戻りたいと思っていた。
それなのに。
今。
戻れると聞いて浮かんだのは、病院の天井だけではなかった。
ミッドレッドの赤い扉。
いつもの席。
マカロンの隣の椅子。
灰色の猫。
青い花畑。
「戻ったら」
ティーは慎重に尋ねた。
「もう、だんのこまちには来られないんですか」
『現実側の状態が安定したあと、通常の接続が可能か確認します』
「わからない?」
『現時点では、確約できません』
胸の中が。
少しだけ冷たくなる。
帰りたかった。
今も、現実の自分を知りたい。
けれど。
ここで出会った人たちへ。
何も言わずに会えなくなるのは嫌だった。
「私が戻る時は、先に教えてください」
『当然です』
「急にいなくならない?」
『そのような処理は行いません』
「マカロンへも、話していいですか」
『あなた自身の状態については、構いません』
「マカロンの現実側について、あなたは知っていますか」
予想していたように。
返事まで少し間があった。
『個別の理定者に関する情報は、本人以外へ開示できません』
「彼女も、病院にいるんですか」
『回答できません』
「事故?」
『回答できません』
「身体は無事?」
『回答できません』
ティーの指が、また強く握られる。
「何も教えてくれない」
『彼女の指示者へ、本人から問い合わせることはできます』
「答えてもらえるとは限らない」
『はい』
それでも。
一つはわかった。
「マカロンも理定者なら」
ティーは、ゆっくりと言った。
「何かの理由で、今は現実へ戻らない方がいい状態なんですね」
男は、しばらく黙っていた。
やがて。
直接の肯定を避けながら答える。
『理定者へ役割を与えるのは、現実側への即時帰還が適切ではない期間に限られます』
それで十分だった。
マカロンにも。
現実側の身体か。
あるいは、帰れない別の理由がある。
ティーと同じ事故とは限らない。
同じ病院とも限らない。
けれど。
何もないから閉じ込められているわけではない。
「最後に」
ティーは尋ねた。
「私の本当の名前は?」
通話の向こうが、また静かになる。
『Tではありません』
「それは知っています」
『現実側の個人情報と記憶は、覚醒の過程で段階的に返します』
「今、教えてはくれない?」
『名前だけを外から与えるより、あなた自身が記憶と結びつけて取り戻す方が安全だと判断しています』
納得はできなかった。
それでも。
近いうちに帰れるという話を聞いたあとでは。
初めての頃ほど、名前を急いで掴もうとは思わなかった。
「いつか、思い出せる?」
『その可能性は十分にあります』
「わかりました」
完全に許したわけではない。
すべてを信頼したわけでもない。
ティーは、そのことも隠さなかった。
「まだ、あなたたちのやり方が正しかったとは思えません」
『はい』
「閉じ込められて怖かったことも、消えません」
『はい』
「でも」
窓に映る、自分の青い瞳を見る。
「現実で、私の身体を治してくれていたことは……ありがとう」
男の声が。
ほんの少しだけ柔らかくなった。
『どういたしまして』
<NIGHT SHIFT:SUSPENDED>
<MEDICAL OBSERVATION:ACTIVE>
今夜は、任務が発行されない。
『今夜は休んでください』
「はい」
『明日以降も、日常行動へ制限はありません』
「みたらしっぽさんに会う予定があります」
『そうですか』
「知っていなかった?」
『知りませんでした』
それを聞き。
ティーは少しだけ笑った。
「では、私が決めた予定です」
『はい』
通話が終了する前。
ティーはもう一度尋ねた。
「先生」
初めて。
指示者ではなく。
現実側の役割で呼んだ。
『はい』
「次は、もう少し早く教えてください」
短い沈黙。
『約束します』
接続音。
<DIRECT CALL/END>
部屋へ。
夜の静けさが戻った。
聞きたいことは、まだいくつもある。
だが。
一つだけ。
最初からずっと知りたかったことがある。
「私は、いつ戻れるんですか」
男は、すぐに答えた。
『遠くありません』
ティーの猫耳が、わずかに立つ。
「本当に?」
『はい。現実の身体は順調に回復しています』
「もう、痛くない?」
『痛みが完全になくなったわけではありません。ただし、意識を段階的に戻しても、治療や精神状態へ大きな悪影響を及ぼさない段階へ近づいています』
「段階的に?」
『最初は、短い時間だけ現実側の感覚へ接続します。その後、身体状態と精神状態を確認しながら、完全な覚醒へ進みます』
「今夜、戻るわけではない」
『今夜ではありません』
安堵と。
わずかな失望が、同時に胸へ入ってきた。
「あと何日?」
『正確な日付は、最終検査の結果によります』
「また、まだ教えられない」
『今回は隠しているのではありません。本当に確定していません』
声の違いを。
ティーは少しずつ聞き分けられるようになっていた。
これまでのように、決まった答えを伏せている声ではない。
「でも、戻れるんですね」
『はい』
「現実の身体へ」
『はい』
初めて目覚めた日。
何度押しても動かなかったログアウト。
あれほど戻りたいと思っていた。
それなのに。
今。
戻れると聞いて浮かんだのは、病院の天井だけではなかった。
ミッドレッドの赤い扉。
いつもの席。
マカロンの隣の椅子。
灰色の猫。
青い花畑。
「戻ったら」
ティーは慎重に尋ねた。
「もう、だんのこまちには来られないんですか」
『現実側の状態が安定したあと、通常の接続が可能か確認します』
「わからない?」
『現時点では、確約できません』
胸の中が。
少しだけ冷たくなる。
帰りたかった。
今も、現実の自分を知りたい。
けれど。
ここで出会った人たちへ。
何も言わずに会えなくなるのは嫌だった。
「私が戻る時は、先に教えてください」
『当然です』
「急にいなくならない?」
『そのような処理は行いません』
「マカロンへも、話していいですか」
『あなた自身の状態については、構いません』
「マカロンの現実側について、あなたは知っていますか」
予想していたように。
返事まで少し間があった。
『個別の理定者に関する情報は、本人以外へ開示できません』
「彼女も、病院にいるんですか」
『回答できません』
「事故?」
『回答できません』
「身体は無事?」
『回答できません』
ティーの指が、また強く握られる。
「何も教えてくれない」
『彼女の指示者へ、本人から問い合わせることはできます』
「答えてもらえるとは限らない」
『はい』
それでも。
一つはわかった。
「マカロンも理定者なら」
ティーは、ゆっくりと言った。
「何かの理由で、今は現実へ戻らない方がいい状態なんですね」
男は、しばらく黙っていた。
やがて。
直接の肯定を避けながら答える。
『理定者へ役割を与えるのは、現実側への即時帰還が適切ではない期間に限られます』
それで十分だった。
マカロンにも。
現実側の身体か。
あるいは、帰れない別の理由がある。
ティーと同じ事故とは限らない。
同じ病院とも限らない。
けれど。
何もないから閉じ込められているわけではない。
「最後に」
ティーは尋ねた。
「私の本当の名前は?」
通話の向こうが、また静かになる。
『Tではありません』
「それは知っています」
『現実側の個人情報と記憶は、覚醒の過程で段階的に返します』
「今、教えてはくれない?」
『名前だけを外から与えるより、あなた自身が記憶と結びつけて取り戻す方が安全だと判断しています』
納得はできなかった。
それでも。
近いうちに帰れるという話を聞いたあとでは。
初めての頃ほど、名前を急いで掴もうとは思わなかった。
「いつか、思い出せる?」
『その可能性は十分にあります』
「わかりました」
完全に許したわけではない。
すべてを信頼したわけでもない。
ティーは、そのことも隠さなかった。
「まだ、あなたたちのやり方が正しかったとは思えません」
『はい』
「閉じ込められて怖かったことも、消えません」
『はい』
「でも」
窓に映る、自分の青い瞳を見る。
「現実で、私の身体を治してくれていたことは……ありがとう」
男の声が。
ほんの少しだけ柔らかくなった。
『どういたしまして』
<NIGHT SHIFT:SUSPENDED>
<MEDICAL OBSERVATION:ACTIVE>
今夜は、任務が発行されない。
『今夜は休んでください』
「はい」
『明日以降も、日常行動へ制限はありません』
「みたらしっぽさんに会う予定があります」
『そうですか』
「知っていなかった?」
『知りませんでした』
それを聞き。
ティーは少しだけ笑った。
「では、私が決めた予定です」
『はい』
通話が終了する前。
ティーはもう一度尋ねた。
「先生」
初めて。
指示者ではなく。
現実側の役割で呼んだ。
『はい』
「次は、もう少し早く教えてください」
短い沈黙。
『約束します』
接続音。
<DIRECT CALL/END>
部屋へ。
夜の静けさが戻った。
書けること
ティーは、しばらく椅子から動けなかった。
現実に。
自分の身体がある。
病院。
事故。
手術。
強い痛み。
そして。
回復している。
近いうちに戻れる。
一つずつ。
頭の中へ置こうとしても、すぐに形が崩れる。
灰色のノートを開いた。
青いペンを持つ。
最初に書いた。
<現実の身体がある>
文字を見つめる。
続ける。
<事故に遭った>
<病院で治療を受けている>
<指示者は担当医>
<私は理定者>
<身体は回復している>
最後の一行を書く時。
手が少し震えた。
<もうすぐ戻れる>
そこまで書き。
ペンを置いた。
嬉しいはずだった。
ずっと求めていた答えだ。
けれど。
胸にあるものは、嬉しさだけではない。
現実へ戻った時。
何が待っているのか。
身体はどれほど変わっているのか。
家族はいるのか。
自分は何歳なのか。
名前は何なのか。
そして。
戻ったあと。
ここへ帰ってこられるのか。
ティーは連絡画面を開いた。
マカロンの名前。
数秒、指が止まる。
何から伝えればよいかわからない。
それでも。
一人では抱えたくなかった。
<今、会える?>
送信。
返事は、ほとんど待たずに届いた。
<会えるよ!>
続けて。
<何かあった?>
ティーは少し考え。
<私の部屋で話したい>
と送った。
一瞬だけ間が空いた。
<すぐ行く>
現実に。
自分の身体がある。
病院。
事故。
手術。
強い痛み。
そして。
回復している。
近いうちに戻れる。
一つずつ。
頭の中へ置こうとしても、すぐに形が崩れる。
灰色のノートを開いた。
青いペンを持つ。
最初に書いた。
<現実の身体がある>
文字を見つめる。
続ける。
<事故に遭った>
<病院で治療を受けている>
<指示者は担当医>
<私は理定者>
<身体は回復している>
最後の一行を書く時。
手が少し震えた。
<もうすぐ戻れる>
そこまで書き。
ペンを置いた。
嬉しいはずだった。
ずっと求めていた答えだ。
けれど。
胸にあるものは、嬉しさだけではない。
現実へ戻った時。
何が待っているのか。
身体はどれほど変わっているのか。
家族はいるのか。
自分は何歳なのか。
名前は何なのか。
そして。
戻ったあと。
ここへ帰ってこられるのか。
ティーは連絡画面を開いた。
マカロンの名前。
数秒、指が止まる。
何から伝えればよいかわからない。
それでも。
一人では抱えたくなかった。
<今、会える?>
送信。
返事は、ほとんど待たずに届いた。
<会えるよ!>
続けて。
<何かあった?>
ティーは少し考え。
<私の部屋で話したい>
と送った。
一瞬だけ間が空いた。
<すぐ行く>
マカロンへ
呼び鈴が鳴ったのは、それから十分も経たない頃だった。
扉を開く。
マカロンが立っている。
いつもの白いブラウスと、深緑色の服。
片手には、朝に食べる予定だった焼き菓子の包みを持っていた。
「急いで来た!」
「走った?」
「途中から!」
「全部走ったわけではないんだ」
「住宅区で走ると目立つから」
いつもの明るい声。
けれど。
ティーの顔を見た瞬間、その表情が少し変わった。
「……大丈夫?」
「中へ入って」
「うん」
マカロンが部屋へ入る。
与えられたばかりの頃より、物は少し増えていた。
青いカップ。
灰色のノート。
資料館で見つけた小さな飾り。
花畑で撮った二人の写真が、机の端へ表示されている。
「ティーの部屋、初めて」
「何もないでしょう?」
「何もなくはないよ」
マカロンは写真を指した。
「私もいる」
「それは、今日置いた」
「じゃあ今日から、もっと部屋になったね」
いつもなら。
その言葉にティーも笑えた。
今は、うまく表情が動かなかった。
マカロンは焼き菓子を机へ置き。
ティーの向かいへ座った。
「何があったの?」
ティーは灰色のノートを開いた。
先ほど書いたページを、マカロンの前へ向ける。
マカロンは一行ずつ読んだ。
<現実の身体がある>
<事故に遭った>
<病院で治療を受けている>
最後まで読んだところで。
顔を上げる。
「これ……本当?」
「指示者から聞いた」
「指示者が?」
「私の担当医だった」
マカロンの赤みを帯びた瞳が、大きくなる。
「お医者さん?」
「うん」
ティーは、聞いたことを一つずつ話した。
事故。
病院。
現実の身体が重い傷を負っていたこと。
痛みや手術の刺激から意識を守るため、バーチャル世界へ接続されていたこと。
早く戻せば。
強い痛みと混乱によって、治療にも精神にも悪い影響が出る可能性があったこと。
理定者として仕事を与えられた理由。
帰れない時間を。
帰ることだけを考える時間にしないためだったこと。
マカロンは。
途中で口を挟まなかった。
普段なら。
わからないことがあれば、すぐに尋ねる。
思いついたことがあれば、言葉にする。
今は。
両手を膝の上へ置き、最後まで聞いていた。
「身体は」
話し終わったところで、ようやく尋ねる。
「ティーの身体は、もう大丈夫なの?」
「回復は順調だって」
「戻れる?」
「もうすぐ」
「本当に?」
「うん」
次の瞬間。
マカロンの表情が、一気に明るくなった。
「よかった!」
立ち上がり。
ティーへ近づく。
両腕を広げかけたところで、一度止まった。
「抱きついてもいい?」
ティーは少しだけ驚いた。
それから頷く。
「うん」
マカロンが、そっとティーを抱きしめる。
勢いはあったが。
腕へ力を入れすぎないよう、途中から気をつけているのがわかった。
「よかった……」
先ほどより小さな声。
「本当に、よかった」
ティーも。
少し迷いながら、マカロンの背中へ腕を回した。
「ありがとう」
「ティーが、ずっと帰りたがってたの知ってるから」
マカロンは少しだけ身体を離した。
嬉しそうに笑う。
けれど。
その笑顔は長く続かなかった。
何かへ気づいたように。
視線が、机のノートへ落ちる。
「理定者だから」
小さく言った。
「現実へ戻らない方がいい間、仕事を与えられてるんだよね」
「そう聞いた」
「じゃあ」
マカロンは、自分の手を見る。
「私も……?」
部屋が静かになった。
「私も、何かあるってこと?」
ティーは、すぐには答えられなかった。
医師から聞いた言葉を、そのまま伝える。
「理定者へ仕事を与えるのは、現実へすぐ戻すのが適切ではない期間だけだって」
「適切ではないって」
マカロンの声から。
少しずつ元気が消えていく。
「怪我してるのかな」
「同じ理由とは限らない」
「事故?」
「わからない」
「病院にいる?」
「それも教えてもらえなかった」
「じゃあ、私の身体は……」
マカロンは言葉を止めた。
専用端末を展開する。
普段よりも慌てた手つき。
通信要求を開き。
短い質問を何度も入力する。
<私の現実側の状態を教えてください>
<私は治療中ですか>
<身体は回復していますか>
送信。
数秒。
返ってきたのは。
<現在、開示可能な情報はありません>
「また……」
もう一度送る。
<私は理定者ですか>
<なぜログアウトできませんか>
返事は変わらない。
<現在、開示可能な情報はありません>
「何も教えてくれない」
いつものマカロンなら。
少し不満そうにしながらも、次の方法をすぐに考えただろう。
今は。
端末を見たまま動かない。
「ティーは戻れるのに」
その言葉には。
ティーを責める響きはなかった。
「私は、戻れるのかな」
扉を開く。
マカロンが立っている。
いつもの白いブラウスと、深緑色の服。
片手には、朝に食べる予定だった焼き菓子の包みを持っていた。
「急いで来た!」
「走った?」
「途中から!」
「全部走ったわけではないんだ」
「住宅区で走ると目立つから」
いつもの明るい声。
けれど。
ティーの顔を見た瞬間、その表情が少し変わった。
「……大丈夫?」
「中へ入って」
「うん」
マカロンが部屋へ入る。
与えられたばかりの頃より、物は少し増えていた。
青いカップ。
灰色のノート。
資料館で見つけた小さな飾り。
花畑で撮った二人の写真が、机の端へ表示されている。
「ティーの部屋、初めて」
「何もないでしょう?」
「何もなくはないよ」
マカロンは写真を指した。
「私もいる」
「それは、今日置いた」
「じゃあ今日から、もっと部屋になったね」
いつもなら。
その言葉にティーも笑えた。
今は、うまく表情が動かなかった。
マカロンは焼き菓子を机へ置き。
ティーの向かいへ座った。
「何があったの?」
ティーは灰色のノートを開いた。
先ほど書いたページを、マカロンの前へ向ける。
マカロンは一行ずつ読んだ。
<現実の身体がある>
<事故に遭った>
<病院で治療を受けている>
最後まで読んだところで。
顔を上げる。
「これ……本当?」
「指示者から聞いた」
「指示者が?」
「私の担当医だった」
マカロンの赤みを帯びた瞳が、大きくなる。
「お医者さん?」
「うん」
ティーは、聞いたことを一つずつ話した。
事故。
病院。
現実の身体が重い傷を負っていたこと。
痛みや手術の刺激から意識を守るため、バーチャル世界へ接続されていたこと。
早く戻せば。
強い痛みと混乱によって、治療にも精神にも悪い影響が出る可能性があったこと。
理定者として仕事を与えられた理由。
帰れない時間を。
帰ることだけを考える時間にしないためだったこと。
マカロンは。
途中で口を挟まなかった。
普段なら。
わからないことがあれば、すぐに尋ねる。
思いついたことがあれば、言葉にする。
今は。
両手を膝の上へ置き、最後まで聞いていた。
「身体は」
話し終わったところで、ようやく尋ねる。
「ティーの身体は、もう大丈夫なの?」
「回復は順調だって」
「戻れる?」
「もうすぐ」
「本当に?」
「うん」
次の瞬間。
マカロンの表情が、一気に明るくなった。
「よかった!」
立ち上がり。
ティーへ近づく。
両腕を広げかけたところで、一度止まった。
「抱きついてもいい?」
ティーは少しだけ驚いた。
それから頷く。
「うん」
マカロンが、そっとティーを抱きしめる。
勢いはあったが。
腕へ力を入れすぎないよう、途中から気をつけているのがわかった。
「よかった……」
先ほどより小さな声。
「本当に、よかった」
ティーも。
少し迷いながら、マカロンの背中へ腕を回した。
「ありがとう」
「ティーが、ずっと帰りたがってたの知ってるから」
マカロンは少しだけ身体を離した。
嬉しそうに笑う。
けれど。
その笑顔は長く続かなかった。
何かへ気づいたように。
視線が、机のノートへ落ちる。
「理定者だから」
小さく言った。
「現実へ戻らない方がいい間、仕事を与えられてるんだよね」
「そう聞いた」
「じゃあ」
マカロンは、自分の手を見る。
「私も……?」
部屋が静かになった。
「私も、何かあるってこと?」
ティーは、すぐには答えられなかった。
医師から聞いた言葉を、そのまま伝える。
「理定者へ仕事を与えるのは、現実へすぐ戻すのが適切ではない期間だけだって」
「適切ではないって」
マカロンの声から。
少しずつ元気が消えていく。
「怪我してるのかな」
「同じ理由とは限らない」
「事故?」
「わからない」
「病院にいる?」
「それも教えてもらえなかった」
「じゃあ、私の身体は……」
マカロンは言葉を止めた。
専用端末を展開する。
普段よりも慌てた手つき。
通信要求を開き。
短い質問を何度も入力する。
<私の現実側の状態を教えてください>
<私は治療中ですか>
<身体は回復していますか>
送信。
数秒。
返ってきたのは。
<現在、開示可能な情報はありません>
「また……」
もう一度送る。
<私は理定者ですか>
<なぜログアウトできませんか>
返事は変わらない。
<現在、開示可能な情報はありません>
「何も教えてくれない」
いつものマカロンなら。
少し不満そうにしながらも、次の方法をすぐに考えただろう。
今は。
端末を見たまま動かない。
「ティーは戻れるのに」
その言葉には。
ティーを責める響きはなかった。
「私は、戻れるのかな」
わからないから
ティーは立ち上がり。
マカロンの隣へ座った。
専用端末の表示は、まだ空中へ残っている。
<現在、開示可能な情報はありません>
何度見ても、同じ文字だった。
「マカロン」
「うん」
「大丈夫って、私は言えない」
マカロンが顔を上げる。
ティーは、できない約束をしなかった。
「マカロンの現実がどうなってるのか、私も知らないから」
「うん……」
「でも」
ティーは、マカロンの手へ自分の手を重ねた。
「何の理由もなく、ここへ置かれてるわけではないと思う」
「どうして?」
「端末はマカロンの状態を見てる。任務中も、傷も、権限も。指示者もいる」
「答えてくれないけど」
「うん。そこは、すごく困る」
少しだけ。
マカロンの口元が動いた。
笑うほどではない。
けれど。
ティーらしい言い方だと思ったのかもしれない。
「私の先生も、今日まで何も教えてくれなかった」
「回復するまで?」
「うん」
「じゃあ、私も」
マカロンは言いかけ。
自分で止めた。
「同じとは限らないんだった」
「同じではないかもしれない」
ティーは、その手を離さなかった。
「でも、マカロンが無事に戻れるように、私は祈る」
「祈る?」
「今は、それしかできないから」
「ティーって、祈ったことある?」
「覚えてない」
「そっか」
「だから、初めてかもしれない」
マカロンの瞳へ。
少しだけ涙に似た光が浮かんだ。
バーチャル世界の表現なのか。
本当に泣きそうなのか。
ティーには区別できない。
「私も」
マカロンは、ティーの手を握り返した。
「ティーが、ちゃんと現実へ戻れるように祈る」
「ありがとう」
「戻ったら……」
声が小さくなる。
「ティー、いなくなる?」
その質問が。
一番怖かったのだと、ティーは気づいた。
自分の身体のこと。
現実へ戻れない理由。
それと同じくらい。
先にティーだけが帰ってしまうこと。
「何も言わずには、いなくならない」
ティーは答えた。
「戻る日が決まったら、必ずマカロンへ話す」
「うん」
「戻ったあと、また接続できるかは、まだわからない」
嘘はつかない。
「でも、できるようになったら来る」
「ミッドレッドへ?」
「うん」
「青い花のフィールドも?」
「お弁当を持っていく約束が残ってる」
マカロンが、ようやく少し笑った。
「そうだった」
「ノートにも書いてある」
「書いたから、絶対だね」
「絶対とは書いてない」
「今から書こう」
マカロンが灰色のノートを引き寄せる。
青いペンを持ち。
青い花のページを開いた。
<次はお弁当を持ってくる>
その横へ。
小さく書き加える。
<二人で>
「これで大丈夫」
「何が?」
「ティーが戻っても、約束は消えない」
紙ではない。
バーチャル世界の中に作られたノート。
それでも。
二人が自分で書いた文字だった。
ティーは、その一行を見つめる。
「うん」
今度は。
迷わず頷いた。
マカロンの隣へ座った。
専用端末の表示は、まだ空中へ残っている。
<現在、開示可能な情報はありません>
何度見ても、同じ文字だった。
「マカロン」
「うん」
「大丈夫って、私は言えない」
マカロンが顔を上げる。
ティーは、できない約束をしなかった。
「マカロンの現実がどうなってるのか、私も知らないから」
「うん……」
「でも」
ティーは、マカロンの手へ自分の手を重ねた。
「何の理由もなく、ここへ置かれてるわけではないと思う」
「どうして?」
「端末はマカロンの状態を見てる。任務中も、傷も、権限も。指示者もいる」
「答えてくれないけど」
「うん。そこは、すごく困る」
少しだけ。
マカロンの口元が動いた。
笑うほどではない。
けれど。
ティーらしい言い方だと思ったのかもしれない。
「私の先生も、今日まで何も教えてくれなかった」
「回復するまで?」
「うん」
「じゃあ、私も」
マカロンは言いかけ。
自分で止めた。
「同じとは限らないんだった」
「同じではないかもしれない」
ティーは、その手を離さなかった。
「でも、マカロンが無事に戻れるように、私は祈る」
「祈る?」
「今は、それしかできないから」
「ティーって、祈ったことある?」
「覚えてない」
「そっか」
「だから、初めてかもしれない」
マカロンの瞳へ。
少しだけ涙に似た光が浮かんだ。
バーチャル世界の表現なのか。
本当に泣きそうなのか。
ティーには区別できない。
「私も」
マカロンは、ティーの手を握り返した。
「ティーが、ちゃんと現実へ戻れるように祈る」
「ありがとう」
「戻ったら……」
声が小さくなる。
「ティー、いなくなる?」
その質問が。
一番怖かったのだと、ティーは気づいた。
自分の身体のこと。
現実へ戻れない理由。
それと同じくらい。
先にティーだけが帰ってしまうこと。
「何も言わずには、いなくならない」
ティーは答えた。
「戻る日が決まったら、必ずマカロンへ話す」
「うん」
「戻ったあと、また接続できるかは、まだわからない」
嘘はつかない。
「でも、できるようになったら来る」
「ミッドレッドへ?」
「うん」
「青い花のフィールドも?」
「お弁当を持っていく約束が残ってる」
マカロンが、ようやく少し笑った。
「そうだった」
「ノートにも書いてある」
「書いたから、絶対だね」
「絶対とは書いてない」
「今から書こう」
マカロンが灰色のノートを引き寄せる。
青いペンを持ち。
青い花のページを開いた。
<次はお弁当を持ってくる>
その横へ。
小さく書き加える。
<二人で>
「これで大丈夫」
「何が?」
「ティーが戻っても、約束は消えない」
紙ではない。
バーチャル世界の中に作られたノート。
それでも。
二人が自分で書いた文字だった。
ティーは、その一行を見つめる。
「うん」
今度は。
迷わず頷いた。
一夜
二人は、そのまま長い時間を部屋で過ごした。
すぐに眠る気にはなれなかった。
マカロンが持ってきた焼き菓子を開く。
朝に食べるはずだったもの。
花畑で残した半分。
「少し固くなってる?」
マカロンが触れて確かめる。
「個人ストレージに入れてたから、変わってないと思う」
「気持ちの上で」
「気持ちなら、わからない」
「食べればわかる!」
二人で半分ずつ食べた。
味は、花畑で食べた時と同じだった。
「おいしい」
「でしょう?」
その返事も同じ。
それだけで。
少し安心できた。
話は、何度も現実へ戻った。
ティーの身体。
病院。
事故。
マカロンの状態。
答えの出ないことも多い。
けれど。
同じ質問を繰り返しても、どちらも止めなかった。
不安は。
一度話しただけで消えるものではない。
「現実のティーは、猫耳ないんだよね」
マカロンが言った。
「たぶん」
「銀髪?」
「わからない」
「青い目?」
「それも」
「全然違う人だったら、どうしよう」
「私が?」
「うん。現実で会っても、わからないかも」
ティーは少し考えた。
「声は?」
「同じかもしれない」
「じゃあ、紫色の飲み物を持って待ってる」
「現実にもあるのかな」
「似たものを探す!」
マカロンは、もう現実で会う方法を考え始めていた。
実現できるかわからない。
それでも。
先の話をする声には、先ほどより明るさが戻っている。
「マカロンは、現実ではもっと元気かもしれない」
ティーが言う。
「今より?」
「今より」
「それはかなり元気だね!」
「周りが大変そう」
「ティーも一緒なら大丈夫」
「私が止めるの?」
「一緒に元気になる!」
「それは少し難しい」
「じゃあ半分ずつ」
二人で笑った。
夜が深くなり。
住宅区の灯りが少しずつ減っていく。
クライアントユニットには、
<NIGHT SHIFT:SUSPENDED>
と表示されたまま。
今夜。
任務はない。
誰かを追わなくていい。
銃を持たなくていい。
現実の身体について。
互いの不安について。
何度でも話してよい夜だった。
すぐに眠る気にはなれなかった。
マカロンが持ってきた焼き菓子を開く。
朝に食べるはずだったもの。
花畑で残した半分。
「少し固くなってる?」
マカロンが触れて確かめる。
「個人ストレージに入れてたから、変わってないと思う」
「気持ちの上で」
「気持ちなら、わからない」
「食べればわかる!」
二人で半分ずつ食べた。
味は、花畑で食べた時と同じだった。
「おいしい」
「でしょう?」
その返事も同じ。
それだけで。
少し安心できた。
話は、何度も現実へ戻った。
ティーの身体。
病院。
事故。
マカロンの状態。
答えの出ないことも多い。
けれど。
同じ質問を繰り返しても、どちらも止めなかった。
不安は。
一度話しただけで消えるものではない。
「現実のティーは、猫耳ないんだよね」
マカロンが言った。
「たぶん」
「銀髪?」
「わからない」
「青い目?」
「それも」
「全然違う人だったら、どうしよう」
「私が?」
「うん。現実で会っても、わからないかも」
ティーは少し考えた。
「声は?」
「同じかもしれない」
「じゃあ、紫色の飲み物を持って待ってる」
「現実にもあるのかな」
「似たものを探す!」
マカロンは、もう現実で会う方法を考え始めていた。
実現できるかわからない。
それでも。
先の話をする声には、先ほどより明るさが戻っている。
「マカロンは、現実ではもっと元気かもしれない」
ティーが言う。
「今より?」
「今より」
「それはかなり元気だね!」
「周りが大変そう」
「ティーも一緒なら大丈夫」
「私が止めるの?」
「一緒に元気になる!」
「それは少し難しい」
「じゃあ半分ずつ」
二人で笑った。
夜が深くなり。
住宅区の灯りが少しずつ減っていく。
クライアントユニットには、
<NIGHT SHIFT:SUSPENDED>
と表示されたまま。
今夜。
任務はない。
誰かを追わなくていい。
銃を持たなくていい。
現実の身体について。
互いの不安について。
何度でも話してよい夜だった。
朝まで
窓の外が。
少しずつ明るくなり始めた。
空の端が、深い青から薄い色へ変わっていく。
マカロンはベッドの端へ座り。
ティーは椅子へ座っていた。
いつの間にか。
会話の間に長い沈黙が増えている。
気まずいのではない。
二人とも、少し眠くなっていた。
「朝だね」
マカロンが言う。
「うん」
「結局、ずっと起きてた」
「マカロンは途中で少し寝てた」
「目を閉じてただけ!」
「返事がなかった」
「考えてたの」
「何を?」
「寝ながら考えてた」
「それは寝てると思う」
マカロンが小さく笑う。
その時。
二人の連絡画面へ、同じ通知が届いた。
送り主はチロル。
<おはようございます>
<本日の放課後、みたらしっぽさんが来店予定です>
<ご友人も一緒になるかもしれません>
<お二人とも、無理のない時間にお越しください>
マカロンの表情が。
少しだけ明るくなる。
「今日だ」
「うん」
「友達も来るって」
「どんな人だろう」
「買い物とか、連れていってくれるかな」
「まだ会ってもいない」
「でも、ショコラさんが退屈しないって言ってたでしょう?」
マカロンは、自分とティーの服を見比べた。
「ティーって、普段はその白い服しかないよね」
「夜の装備はある」
「それは買い物に着ていく服じゃないよ」
「マカロンも、いつも同じ」
「私も新しいの欲しい!」
ティーは、少し考えた。
戻れる日が近い。
この世界で服を買っても。
長く着られない可能性がある。
以前なら。
そう考えて、必要ないと判断したかもしれない。
けれど。
戻る日までの時間が。
なくなったわけではない。
「会ってから、聞いてみる?」
「うん!」
「迷惑ではなければ」
「きっと大丈夫!」
根拠はない。
それでも、マカロンの声を聞いていると。
少しくらい期待してもよい気がした。
ティーは灰色のノートを開いた。
現実の身体について書いたページ。
最後に。
新しい一行を加える。
<今日、みたらしっぽさんに会う>
少し迷い。
その下へ続けた。
<現実へ戻れるまでの日も、私の時間>
マカロンが横から見る。
「それ、いいね」
「うん」
「私の時間も?」
「もちろん」
マカロンが青いペンを借り。
さらに一行書いた。
<今日は二人で、新しい人に会う>
書き終えると。
いつもの明るい笑顔を向けた。
「少し寝てから行こう」
「今度は、本当に寝る?」
「寝る!」
「返事が早い」
「遅刻したくないから!」
ティーはチロルへ返信した。
<二人で伺います>
送信。
昨夜。
自分の現実について、初めて知った。
事故。
病院。
治療。
もうすぐ戻れること。
同時に。
マカロンの現実には、まだ答えがないことも知った。
不安は残っている。
消えたわけではない。
それでも。
次にすることは決まっていた。
少し眠り。
目を覚まし。
カフェのんびりひっそりへ向かう。
そこで。
まだ知らない学生たちと出会う。
ティーは窓の向こうへ広がる朝を見た。
現実へ戻る日を待つだけではなく。
今日を過ごす。
そのことも。
今の自分が選べる、大切な時間だった。
少しずつ明るくなり始めた。
空の端が、深い青から薄い色へ変わっていく。
マカロンはベッドの端へ座り。
ティーは椅子へ座っていた。
いつの間にか。
会話の間に長い沈黙が増えている。
気まずいのではない。
二人とも、少し眠くなっていた。
「朝だね」
マカロンが言う。
「うん」
「結局、ずっと起きてた」
「マカロンは途中で少し寝てた」
「目を閉じてただけ!」
「返事がなかった」
「考えてたの」
「何を?」
「寝ながら考えてた」
「それは寝てると思う」
マカロンが小さく笑う。
その時。
二人の連絡画面へ、同じ通知が届いた。
送り主はチロル。
<おはようございます>
<本日の放課後、みたらしっぽさんが来店予定です>
<ご友人も一緒になるかもしれません>
<お二人とも、無理のない時間にお越しください>
マカロンの表情が。
少しだけ明るくなる。
「今日だ」
「うん」
「友達も来るって」
「どんな人だろう」
「買い物とか、連れていってくれるかな」
「まだ会ってもいない」
「でも、ショコラさんが退屈しないって言ってたでしょう?」
マカロンは、自分とティーの服を見比べた。
「ティーって、普段はその白い服しかないよね」
「夜の装備はある」
「それは買い物に着ていく服じゃないよ」
「マカロンも、いつも同じ」
「私も新しいの欲しい!」
ティーは、少し考えた。
戻れる日が近い。
この世界で服を買っても。
長く着られない可能性がある。
以前なら。
そう考えて、必要ないと判断したかもしれない。
けれど。
戻る日までの時間が。
なくなったわけではない。
「会ってから、聞いてみる?」
「うん!」
「迷惑ではなければ」
「きっと大丈夫!」
根拠はない。
それでも、マカロンの声を聞いていると。
少しくらい期待してもよい気がした。
ティーは灰色のノートを開いた。
現実の身体について書いたページ。
最後に。
新しい一行を加える。
<今日、みたらしっぽさんに会う>
少し迷い。
その下へ続けた。
<現実へ戻れるまでの日も、私の時間>
マカロンが横から見る。
「それ、いいね」
「うん」
「私の時間も?」
「もちろん」
マカロンが青いペンを借り。
さらに一行書いた。
<今日は二人で、新しい人に会う>
書き終えると。
いつもの明るい笑顔を向けた。
「少し寝てから行こう」
「今度は、本当に寝る?」
「寝る!」
「返事が早い」
「遅刻したくないから!」
ティーはチロルへ返信した。
<二人で伺います>
送信。
昨夜。
自分の現実について、初めて知った。
事故。
病院。
治療。
もうすぐ戻れること。
同時に。
マカロンの現実には、まだ答えがないことも知った。
不安は残っている。
消えたわけではない。
それでも。
次にすることは決まっていた。
少し眠り。
目を覚まし。
カフェのんびりひっそりへ向かう。
そこで。
まだ知らない学生たちと出会う。
ティーは窓の向こうへ広がる朝を見た。
現実へ戻る日を待つだけではなく。
今日を過ごす。
そのことも。
今の自分が選べる、大切な時間だった。