だんのこまち@wiki
目覚めた空
最終更新:
dannocomachi
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白の向こう
白く光るキーを押した。
乾いた入力音が、一度だけ響く。
<RETURN SEQUENCE>
<START>
クライアントユニットの青く透き通った基部へ、白い光が満ちていった。
並んでいた立体キーが、一つずつ輪郭を失う。
机。
青いカップ。
灰色のノート。
新しく買った服。
窓の外に広がっていた、だんのこまちの朝。
すべてが白い光の中へ溶けていく。
ティーは目を閉じた。
足元の感覚が消える。
身体が浮かび上がるようでもあり、深い場所へ沈んでいくようでもあった。
最後まで残っていたのは、左手の指先へ伝わるキーの感触だった。
それも、やがて消えた。
何もない。
音も。
光も。
自分の身体さえ、どこにあるのかわからない。
その中で。
規則正しい音が聞こえ始めた。
短く。
間を置き。
また短く。
初めてだんのこまちで目覚める前にも、聞いた音だった。
今度は。
以前より、ずっと近い。
誰かが話している。
「――反応、確認できます」
知らない声。
その奥から。
聞き慣れた低い男性の声が届いた。
「シルバーさん」
名前を呼ばれた。
ティーではない。
Tでもない。
それなのに。
胸の奥が、強く反応した。
「シルバーさん。聞こえますか」
シルバー。
その音を知っている。
誰かに教えられたからではない。
検索結果の中で見たわけでもない。
ずっと深い場所にあったものが、呼びかけられたことで輪郭を取り戻していく。
「……シルバー」
声を出したつもりだった。
けれど。
喉から漏れたのは、かすかな息だけだった。
「大丈夫です。急がなくて構いません」
低い声が、すぐ近くから聞こえる。
指示者。
先生。
現実で、ティーの身体を治療していた医師。
「今、意識を現実側へ戻しています」
瞼が重い。
持ち上げようとしても、思うように動かない。
バーチャル世界では、目を開けようと思うだけで開いた。
現実の身体は違う。
一つの動作へ。
思っていたよりも長い時間が必要だった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
瞼の隙間へ、白い光が入ってくる。
眩しい。
その中に。
ぼんやりとした直線が見えた。
白い天井。
照明。
吊り下げられた器具。
視界の端では、薄い布が揺れている。
見知らぬ病院の天井だった。
「おかえりなさい、シルバーさん」
医師の声がした。
ティー――シルバーは。
もう一度、ゆっくり目を閉じた。
戻ってきた。
現実へ。
乾いた入力音が、一度だけ響く。
<RETURN SEQUENCE>
<START>
クライアントユニットの青く透き通った基部へ、白い光が満ちていった。
並んでいた立体キーが、一つずつ輪郭を失う。
机。
青いカップ。
灰色のノート。
新しく買った服。
窓の外に広がっていた、だんのこまちの朝。
すべてが白い光の中へ溶けていく。
ティーは目を閉じた。
足元の感覚が消える。
身体が浮かび上がるようでもあり、深い場所へ沈んでいくようでもあった。
最後まで残っていたのは、左手の指先へ伝わるキーの感触だった。
それも、やがて消えた。
何もない。
音も。
光も。
自分の身体さえ、どこにあるのかわからない。
その中で。
規則正しい音が聞こえ始めた。
短く。
間を置き。
また短く。
初めてだんのこまちで目覚める前にも、聞いた音だった。
今度は。
以前より、ずっと近い。
誰かが話している。
「――反応、確認できます」
知らない声。
その奥から。
聞き慣れた低い男性の声が届いた。
「シルバーさん」
名前を呼ばれた。
ティーではない。
Tでもない。
それなのに。
胸の奥が、強く反応した。
「シルバーさん。聞こえますか」
シルバー。
その音を知っている。
誰かに教えられたからではない。
検索結果の中で見たわけでもない。
ずっと深い場所にあったものが、呼びかけられたことで輪郭を取り戻していく。
「……シルバー」
声を出したつもりだった。
けれど。
喉から漏れたのは、かすかな息だけだった。
「大丈夫です。急がなくて構いません」
低い声が、すぐ近くから聞こえる。
指示者。
先生。
現実で、ティーの身体を治療していた医師。
「今、意識を現実側へ戻しています」
瞼が重い。
持ち上げようとしても、思うように動かない。
バーチャル世界では、目を開けようと思うだけで開いた。
現実の身体は違う。
一つの動作へ。
思っていたよりも長い時間が必要だった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
瞼の隙間へ、白い光が入ってくる。
眩しい。
その中に。
ぼんやりとした直線が見えた。
白い天井。
照明。
吊り下げられた器具。
視界の端では、薄い布が揺れている。
見知らぬ病院の天井だった。
「おかえりなさい、シルバーさん」
医師の声がした。
ティー――シルバーは。
もう一度、ゆっくり目を閉じた。
戻ってきた。
現実へ。
目覚めた空
次に目を開けた時。
部屋の中は、先ほどよりも明るくなっていた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。
視界は、まだ完全には定まらない。
それでも。
白い天井の端。
窓。
その向こうにある空を、見ることができた。
青かった。
だんのこまちの空よりも。
少し白く霞んでいる。
遠くには雲があり、ゆっくりと形を変えていた。
決められた時刻へ合わせて表示される空ではない。
同じ景色を、もう一度呼び出すこともできない。
現実の空。
シルバーは、その色を見つめた。
身体は重かった。
両腕も。
脚も。
ベッドの上へ沈み込んでいるように感じる。
胸を動かすたび。
鈍い痛みと、わずかな息苦しさがあった。
けれど。
先生から聞かされていたような、とてつもない痛みではない。
治療が進み。
意識を戻せる程度まで、身体が回復している。
その意味を。
今、ようやく実感できた。
口の中が乾いている。
声を出そうとすると、喉が引っかかった。
近くにいた看護師が気づき、唇へ少しだけ水を含ませてくれる。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
シルバーは、ほんの少し頷いた。
頭を動かしただけでも。
思っていた以上に疲れる。
その時。
無意識に、頭の上へ手を伸ばそうとした。
猫耳。
音へ反応し。
気持ちが動くたび、勝手に向きを変えていた耳。
けれど。
腕は途中までしか上がらなかった。
頭の上にも。
触れられる耳はない。
「……ない」
かすれた声が出た。
先生が、何を探しているのか気づいたらしい。
「アバターの耳ですか」
シルバーは小さく頷いた。
「現実側にはありません」
知っていた。
それでも。
本当にないことが、少し不思議だった。
先生がベッドの近くへ椅子を寄せる。
バーチャル世界では、声しか知らなかった。
今は。
白衣を着た一人の男性として、目の前にいる。
落ち着いた表情。
何度も聞いた声。
「気分はどうですか」
シルバーは、少し考えた。
「重い……です」
「身体が?」
「全部」
先生は頷いた。
「長い間、現実側の身体を十分に動かせていません。感覚が馴染むまでには時間がかかります」
「痛い」
「現在感じている範囲は、想定内です。ただ、強くなった場合はすぐに伝えてください」
シルバーは窓の向こうへ、もう一度目を向けた。
「本当に……帰ってきたんですね」
「はい」
先生は、はっきりと答えた。
「シルバーさんの現実です」
その名前を聞くたび。
遠くにあった記憶が、少しずつ近づいてくる。
自分の名前を書いた感覚。
誰かが、少し離れた場所から呼んだ声。
事故の直前。
強い光。
大きな音。
それ以上は、まだ形にならない。
けれど。
一つだけはわかった。
「シルバー」
自分で名前を口にする。
「それが……私の名前」
「そうです」
ティーは与えられた識別名だった。
シルバーは、現実の名前。
それでも。
どちらか一つだけが自分だとは思えなかった。
「マカロンは」
声を出すだけで、喉が痛む。
それでも。
最初に聞きたかった。
「マカロンは、戻れましたか」
先生は、すぐには答えなかった。
個人の医療情報を、勝手に伝えられない。
以前から同じだった。
「彼女にも、帰還処理が行われています」
言える範囲で。
慎重に答える。
「状態が安定したあと、ご本人の同意があれば連絡を取れるよう調整します」
「無事?」
「その質問には、彼女自身から答えてもらうのがよいでしょう」
完全な返事ではない。
それでも。
帰還処理が行われた。
マカロンも。
現実へ戻ろうとしている。
シルバーは、わずかに息を吐いた。
「会う約束をしてるんです」
「聞いています」
「先生、知ってたんですか」
「帰還前の会話記録ではなく、あなたが連絡調整を希望したことを確認しています」
以前なら。
また見られていたのだと思ったかもしれない。
今は。
現実で二人が会えるようにするための確認だとわかった。
「会わせてください」
「まずは、シルバーさん自身の回復が優先です」
「治ったら」
「はい」
先生は、少しだけ笑った。
「その時には」
部屋の中は、先ほどよりも明るくなっていた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。
視界は、まだ完全には定まらない。
それでも。
白い天井の端。
窓。
その向こうにある空を、見ることができた。
青かった。
だんのこまちの空よりも。
少し白く霞んでいる。
遠くには雲があり、ゆっくりと形を変えていた。
決められた時刻へ合わせて表示される空ではない。
同じ景色を、もう一度呼び出すこともできない。
現実の空。
シルバーは、その色を見つめた。
身体は重かった。
両腕も。
脚も。
ベッドの上へ沈み込んでいるように感じる。
胸を動かすたび。
鈍い痛みと、わずかな息苦しさがあった。
けれど。
先生から聞かされていたような、とてつもない痛みではない。
治療が進み。
意識を戻せる程度まで、身体が回復している。
その意味を。
今、ようやく実感できた。
口の中が乾いている。
声を出そうとすると、喉が引っかかった。
近くにいた看護師が気づき、唇へ少しだけ水を含ませてくれる。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
シルバーは、ほんの少し頷いた。
頭を動かしただけでも。
思っていた以上に疲れる。
その時。
無意識に、頭の上へ手を伸ばそうとした。
猫耳。
音へ反応し。
気持ちが動くたび、勝手に向きを変えていた耳。
けれど。
腕は途中までしか上がらなかった。
頭の上にも。
触れられる耳はない。
「……ない」
かすれた声が出た。
先生が、何を探しているのか気づいたらしい。
「アバターの耳ですか」
シルバーは小さく頷いた。
「現実側にはありません」
知っていた。
それでも。
本当にないことが、少し不思議だった。
先生がベッドの近くへ椅子を寄せる。
バーチャル世界では、声しか知らなかった。
今は。
白衣を着た一人の男性として、目の前にいる。
落ち着いた表情。
何度も聞いた声。
「気分はどうですか」
シルバーは、少し考えた。
「重い……です」
「身体が?」
「全部」
先生は頷いた。
「長い間、現実側の身体を十分に動かせていません。感覚が馴染むまでには時間がかかります」
「痛い」
「現在感じている範囲は、想定内です。ただ、強くなった場合はすぐに伝えてください」
シルバーは窓の向こうへ、もう一度目を向けた。
「本当に……帰ってきたんですね」
「はい」
先生は、はっきりと答えた。
「シルバーさんの現実です」
その名前を聞くたび。
遠くにあった記憶が、少しずつ近づいてくる。
自分の名前を書いた感覚。
誰かが、少し離れた場所から呼んだ声。
事故の直前。
強い光。
大きな音。
それ以上は、まだ形にならない。
けれど。
一つだけはわかった。
「シルバー」
自分で名前を口にする。
「それが……私の名前」
「そうです」
ティーは与えられた識別名だった。
シルバーは、現実の名前。
それでも。
どちらか一つだけが自分だとは思えなかった。
「マカロンは」
声を出すだけで、喉が痛む。
それでも。
最初に聞きたかった。
「マカロンは、戻れましたか」
先生は、すぐには答えなかった。
個人の医療情報を、勝手に伝えられない。
以前から同じだった。
「彼女にも、帰還処理が行われています」
言える範囲で。
慎重に答える。
「状態が安定したあと、ご本人の同意があれば連絡を取れるよう調整します」
「無事?」
「その質問には、彼女自身から答えてもらうのがよいでしょう」
完全な返事ではない。
それでも。
帰還処理が行われた。
マカロンも。
現実へ戻ろうとしている。
シルバーは、わずかに息を吐いた。
「会う約束をしてるんです」
「聞いています」
「先生、知ってたんですか」
「帰還前の会話記録ではなく、あなたが連絡調整を希望したことを確認しています」
以前なら。
また見られていたのだと思ったかもしれない。
今は。
現実で二人が会えるようにするための確認だとわかった。
「会わせてください」
「まずは、シルバーさん自身の回復が優先です」
「治ったら」
「はい」
先生は、少しだけ笑った。
「その時には」
身体を取り戻す日々
現実へ戻ったからといって。
すぐに以前の生活へ戻れるわけではなかった。
最初の数日は。
身体を起こしているだけで疲れた。
ベッドの背を上げ。
座った姿勢を保つ。
指を曲げる。
腕を持ち上げる。
足首へ、少しだけ力を入れる。
バーチャル世界では、考えるより早くできた動作が。
現実では一つずつの練習になった。
理学療法士が脚を支え。
関節をゆっくり動かす。
シルバーは、自分の脚がそこにあることを確かめるように見つめていた。
動かないわけではない。
けれど。
命令が届くまでに、長い距離がある。
初めてティーとして目覚めた日。
アバターの身体を、自分のものではないように感じた。
今は逆だった。
本来の身体であるはずなのに。
動かし方を、もう一度覚え直している。
「急がなくて大丈夫です」
何度も言われた。
シルバー自身も、わかっていた。
それでも。
思うように足が動かない時。
青い花の中を走った感覚を思い出した。
ボルビーノの攻撃を避け。
床を蹴り。
マカロンの隣へ駆けた身体。
あれも、確かに自分だった。
だから。
現実の身体だけを、不自由な別人のものだとは思いたくなかった。
一週間ほど経つと。
ベッドから車椅子へ移れるようになった。
最初は看護師に支えられ。
次第に、自分の腕でも身体を動かせるようになる。
病棟の廊下。
小さな談話室。
窓の近く。
行ける場所が、少しずつ増えた。
長い距離は、まだ車椅子だった。
短い時間だけなら、歩行器を使って立つ練習も始まった。
足の裏へ床の硬さが返ってくる。
数秒。
それだけでも。
初めて走った時とは違う嬉しさがあった。
部屋へ戻ると。
医療用の端末から、だんのこまちのアカウントへ届いた連絡を確認した。
通常接続は、まだ許可されていない。
それでも。
メッセージ機能だけは利用できた。
みたらしっぽ。
<目が覚めたってチロルさんから聞いたよ。返事は急がなくて大丈夫>
チョコチップ。
<お身体の回復をお祈りしています。また一緒にお出かけできる日を待っています>
ショコラ。
<焦らずに。戻れる場所はなくならないから>
チロル。
<猫たちも元気です。いつでもお待ちしています>
メーア。
<いつもの席、ちゃんとあるよ>
シエル。
<紫色の飲み物も覚えてる>
ノワール。
<……猫も、待ってます>
短い言葉。
それぞれ違う声が、文字の向こうから聞こえるようだった。
シルバーは一件ずつ返した。
<ありがとう>
<また行きます>
その中で。
ずっと待っていた名前からは、まだ連絡がなかった。
コルメリーマカロン。
帰還処理中。
あるいは、現実側で休んでいる。
シルバーは急かさなかった。
以前。
不安になったマカロンへ。
何も言わずにはいなくならないと約束した。
マカロンも。
きっと同じだと思った。
そして。
現実へ戻ってから十一日目。
朝のリハビリを終えたあと。
端末へ一件の通知が届いた。
<起きた!>
文字の最後に。
大きな感嘆符。
シルバーは、しばらく画面を見つめた。
それから。
自然に笑った。
<おかえり、マカロン>
送信。
返事はすぐに届いた。
<ただいま、ティー!>
すぐに以前の生活へ戻れるわけではなかった。
最初の数日は。
身体を起こしているだけで疲れた。
ベッドの背を上げ。
座った姿勢を保つ。
指を曲げる。
腕を持ち上げる。
足首へ、少しだけ力を入れる。
バーチャル世界では、考えるより早くできた動作が。
現実では一つずつの練習になった。
理学療法士が脚を支え。
関節をゆっくり動かす。
シルバーは、自分の脚がそこにあることを確かめるように見つめていた。
動かないわけではない。
けれど。
命令が届くまでに、長い距離がある。
初めてティーとして目覚めた日。
アバターの身体を、自分のものではないように感じた。
今は逆だった。
本来の身体であるはずなのに。
動かし方を、もう一度覚え直している。
「急がなくて大丈夫です」
何度も言われた。
シルバー自身も、わかっていた。
それでも。
思うように足が動かない時。
青い花の中を走った感覚を思い出した。
ボルビーノの攻撃を避け。
床を蹴り。
マカロンの隣へ駆けた身体。
あれも、確かに自分だった。
だから。
現実の身体だけを、不自由な別人のものだとは思いたくなかった。
一週間ほど経つと。
ベッドから車椅子へ移れるようになった。
最初は看護師に支えられ。
次第に、自分の腕でも身体を動かせるようになる。
病棟の廊下。
小さな談話室。
窓の近く。
行ける場所が、少しずつ増えた。
長い距離は、まだ車椅子だった。
短い時間だけなら、歩行器を使って立つ練習も始まった。
足の裏へ床の硬さが返ってくる。
数秒。
それだけでも。
初めて走った時とは違う嬉しさがあった。
部屋へ戻ると。
医療用の端末から、だんのこまちのアカウントへ届いた連絡を確認した。
通常接続は、まだ許可されていない。
それでも。
メッセージ機能だけは利用できた。
みたらしっぽ。
<目が覚めたってチロルさんから聞いたよ。返事は急がなくて大丈夫>
チョコチップ。
<お身体の回復をお祈りしています。また一緒にお出かけできる日を待っています>
ショコラ。
<焦らずに。戻れる場所はなくならないから>
チロル。
<猫たちも元気です。いつでもお待ちしています>
メーア。
<いつもの席、ちゃんとあるよ>
シエル。
<紫色の飲み物も覚えてる>
ノワール。
<……猫も、待ってます>
短い言葉。
それぞれ違う声が、文字の向こうから聞こえるようだった。
シルバーは一件ずつ返した。
<ありがとう>
<また行きます>
その中で。
ずっと待っていた名前からは、まだ連絡がなかった。
コルメリーマカロン。
帰還処理中。
あるいは、現実側で休んでいる。
シルバーは急かさなかった。
以前。
不安になったマカロンへ。
何も言わずにはいなくならないと約束した。
マカロンも。
きっと同じだと思った。
そして。
現実へ戻ってから十一日目。
朝のリハビリを終えたあと。
端末へ一件の通知が届いた。
<起きた!>
文字の最後に。
大きな感嘆符。
シルバーは、しばらく画面を見つめた。
それから。
自然に笑った。
<おかえり、マカロン>
送信。
返事はすぐに届いた。
<ただいま、ティー!>
シルバーとティー
マカロンと声を交わしたのは。
その日の午後だった。
医療用の通話回線。
画面には、まだ互いの顔を映さない設定が選ばれている。
最初に聞こえたのは。
小さく息を吸う音だった。
『ティー?』
現実の声。
けれど。
間違えるはずがなかった。
「うん」
シルバーは答えた。
「マカロン」
『本当にティーだ』
声の向こうで。
マカロンが笑った。
少しだけ弱い。
それでも。
だんのこまちで聞いていた、いつもの笑い方だった。
「身体は?」
『車椅子へ移れるようになったよ』
「私も」
『ティーも車椅子?』
「長い距離は」
二人の声へ。
少しだけ明るさが戻る。
マカロンは、帰還直後から呼吸と身体の確認が続いていた。
現実の脚は。
やはり自由には動かない。
けれど。
手術後の状態は安定している。
車椅子へ座り。
自分の腕で短い距離を動けるようになった。
これから。
長いリハビリが始まる。
『現実へ戻ったら、怖くなると思ってた』
マカロンが言った。
『でも、起きた時に最初に思ったの。ティーも、この空を見たのかなって』
「見た」
シルバーは窓の向こうを見る。
今日の空は、少し曇っている。
だんのこまちなら。
設定を変えれば青空にできる。
現実では、できない。
それでも。
同じ空の下に、マカロンがいる。
『ティーの本当の名前、思い出した?』
「うん」
シルバーは少しだけ間を置いた。
「シルバー」
『シルバー……』
マカロンが、確かめるように呼ぶ。
現実の名前。
長く失われていたもの。
呼ばれると、懐かしい感覚があった。
けれど。
少しだけ距離もあった。
「マカロンには」
シルバーは言う。
「ティーって呼んでほしい」
『いいの?』
「シルバーも私。でも、マカロンが知ってる私はティーだから」
通話の向こうで。
小さく笑う声がした。
『じゃあ、ティー』
「うん」
『私も、本当の名前は思い出したよ』
「聞いてもいい?」
少しの沈黙。
『いつか話す。でも、ティーにはマカロンって呼ばれたい』
「わかった」
どちらも。
本当の名前を捨てるわけではない。
バーチャル世界の名前が、偽物だったわけでもない。
現実で生きてきた自分。
バーチャル世界で選んできた自分。
どちらも残していい。
『会えるって』
マカロンが言った。
『先生同士が、調整してくれるって』
「いつ?」
『ティーが退院してから。私の病院のリハビリ庭園なら、外へ出てもいいって』
「行く」
返事は、すぐに出た。
『本当に?』
「約束したから」
『うん』
マカロンの声が、少し震えた。
『待ってる』
その日の午後だった。
医療用の通話回線。
画面には、まだ互いの顔を映さない設定が選ばれている。
最初に聞こえたのは。
小さく息を吸う音だった。
『ティー?』
現実の声。
けれど。
間違えるはずがなかった。
「うん」
シルバーは答えた。
「マカロン」
『本当にティーだ』
声の向こうで。
マカロンが笑った。
少しだけ弱い。
それでも。
だんのこまちで聞いていた、いつもの笑い方だった。
「身体は?」
『車椅子へ移れるようになったよ』
「私も」
『ティーも車椅子?』
「長い距離は」
二人の声へ。
少しだけ明るさが戻る。
マカロンは、帰還直後から呼吸と身体の確認が続いていた。
現実の脚は。
やはり自由には動かない。
けれど。
手術後の状態は安定している。
車椅子へ座り。
自分の腕で短い距離を動けるようになった。
これから。
長いリハビリが始まる。
『現実へ戻ったら、怖くなると思ってた』
マカロンが言った。
『でも、起きた時に最初に思ったの。ティーも、この空を見たのかなって』
「見た」
シルバーは窓の向こうを見る。
今日の空は、少し曇っている。
だんのこまちなら。
設定を変えれば青空にできる。
現実では、できない。
それでも。
同じ空の下に、マカロンがいる。
『ティーの本当の名前、思い出した?』
「うん」
シルバーは少しだけ間を置いた。
「シルバー」
『シルバー……』
マカロンが、確かめるように呼ぶ。
現実の名前。
長く失われていたもの。
呼ばれると、懐かしい感覚があった。
けれど。
少しだけ距離もあった。
「マカロンには」
シルバーは言う。
「ティーって呼んでほしい」
『いいの?』
「シルバーも私。でも、マカロンが知ってる私はティーだから」
通話の向こうで。
小さく笑う声がした。
『じゃあ、ティー』
「うん」
『私も、本当の名前は思い出したよ』
「聞いてもいい?」
少しの沈黙。
『いつか話す。でも、ティーにはマカロンって呼ばれたい』
「わかった」
どちらも。
本当の名前を捨てるわけではない。
バーチャル世界の名前が、偽物だったわけでもない。
現実で生きてきた自分。
バーチャル世界で選んできた自分。
どちらも残していい。
『会えるって』
マカロンが言った。
『先生同士が、調整してくれるって』
「いつ?」
『ティーが退院してから。私の病院のリハビリ庭園なら、外へ出てもいいって』
「行く」
返事は、すぐに出た。
『本当に?』
「約束したから」
『うん』
マカロンの声が、少し震えた。
『待ってる』
現実で
シルバーが退院したのは。
現実へ戻ってから、さらに三週間ほど経った頃だった。
治療がすべて終わったわけではない。
定期的な診察。
身体の確認。
リハビリも続く。
長く歩けば疲れるため。
外出時には、まだ車椅子を使うことが多かった。
それでも。
病院の外へ出ることを許された。
自分の意思で。
次の場所へ向かえるようになった。
退院から一週間後。
シルバーは、マカロンが入院している回復期病棟を訪れた。
広いリハビリ庭園。
空へ向かって伸びる木々。
舗装された小道。
中央には、小さな噴水がある。
シルバーは車椅子の車輪へ手を置き。
ゆっくりと庭園へ進んだ。
事故のあと。
腕にもまだ十分な力が戻っていない。
少し進むだけで疲れる。
それでも。
誰かに押してもらわず。
最後の数メートルは、自分で動きたかった。
連絡画面を開く。
<着いた>
送信。
すぐに既読がつく。
<私もいるよ!>
同時に。
少し離れた場所から、声が聞こえた。
「ティー?」
画面越しではない。
空気を通して届く声。
シルバーは顔を上げた。
木陰。
もう一台の車椅子。
そこに、一人の少女が座っている。
アバターとは違う髪。
獣耳もない。
深緑色の服でもない。
膝の上には、薄い布が掛けられていた。
けれど。
シルバーを見つけた瞬間に明るくなる表情は。
何度も見てきたものだった。
「マカロン」
名前を呼ぶ。
少女の目が、大きく開く。
そのあと。
すぐに笑った。
「ティー!」
互いの車椅子が。
ゆっくりと近づいていく。
バーチャル世界なら。
数秒で走れる距離。
今は。
車輪を一度回し。
手を戻し。
もう一度回す。
その時間さえ。
二人には大切だった。
正面へ着く。
どちらも、しばらく言葉が出なかった。
現実の姿。
何度も想像した。
まったく違う人かもしれないと思った。
それでも。
声を聞けばわかる。
目の前の少女が。
青い花の中を走っていたマカロンだった。
マカロンが、シルバーの頭上を見る。
「耳、ないね」
「マカロンも」
シルバーも、マカロンの髪の上を見る。
二人で。
静かに笑った。
マカロンが手を伸ばす。
シルバーも、自分の手を重ねる。
アバターよりも。
少し冷たい。
力も弱い。
けれど。
現実の手だった。
「会えた」
マカロンが言う。
「うん」
「本当に会えた」
目元へ涙が浮かぶ。
今度は。
バーチャル世界の表現ではない。
シルバーの目にも。
同じように涙が滲んだ。
車椅子があるため。
以前のように勢いよく抱きつくことはできない。
二人は少しずつ身体を寄せ。
手を握ったまま、肩を触れ合わせた。
「おかえり、ティー」
マカロンの声が近くで聞こえる。
「ただいま」
シルバーは答えた。
「おかえり、マカロン」
「ただいま」
二人は、そのまましばらく動かなかった。
庭園の上には。
現実の空が広がっていた。
青一色ではない。
薄い雲が流れ。
太陽の光が、時々隠れる。
風が吹けば、木の葉が揺れる。
完成された景色ではない。
それでも。
二人が同じ場所で見上げている空だった。
「次は」
マカロンが言った。
「現実のお店で、色違いのものを買おうね」
「うん」
「私、まだ一人では遠くまで行けないけど」
「私も」
「じゃあ、二人で少しずつ行こう」
「うん」
走ることはできない。
今は。
それでも。
進むことはできる。
二人は並んで。
庭園の小道を、ゆっくりと動き始めた。
現実へ戻ってから、さらに三週間ほど経った頃だった。
治療がすべて終わったわけではない。
定期的な診察。
身体の確認。
リハビリも続く。
長く歩けば疲れるため。
外出時には、まだ車椅子を使うことが多かった。
それでも。
病院の外へ出ることを許された。
自分の意思で。
次の場所へ向かえるようになった。
退院から一週間後。
シルバーは、マカロンが入院している回復期病棟を訪れた。
広いリハビリ庭園。
空へ向かって伸びる木々。
舗装された小道。
中央には、小さな噴水がある。
シルバーは車椅子の車輪へ手を置き。
ゆっくりと庭園へ進んだ。
事故のあと。
腕にもまだ十分な力が戻っていない。
少し進むだけで疲れる。
それでも。
誰かに押してもらわず。
最後の数メートルは、自分で動きたかった。
連絡画面を開く。
<着いた>
送信。
すぐに既読がつく。
<私もいるよ!>
同時に。
少し離れた場所から、声が聞こえた。
「ティー?」
画面越しではない。
空気を通して届く声。
シルバーは顔を上げた。
木陰。
もう一台の車椅子。
そこに、一人の少女が座っている。
アバターとは違う髪。
獣耳もない。
深緑色の服でもない。
膝の上には、薄い布が掛けられていた。
けれど。
シルバーを見つけた瞬間に明るくなる表情は。
何度も見てきたものだった。
「マカロン」
名前を呼ぶ。
少女の目が、大きく開く。
そのあと。
すぐに笑った。
「ティー!」
互いの車椅子が。
ゆっくりと近づいていく。
バーチャル世界なら。
数秒で走れる距離。
今は。
車輪を一度回し。
手を戻し。
もう一度回す。
その時間さえ。
二人には大切だった。
正面へ着く。
どちらも、しばらく言葉が出なかった。
現実の姿。
何度も想像した。
まったく違う人かもしれないと思った。
それでも。
声を聞けばわかる。
目の前の少女が。
青い花の中を走っていたマカロンだった。
マカロンが、シルバーの頭上を見る。
「耳、ないね」
「マカロンも」
シルバーも、マカロンの髪の上を見る。
二人で。
静かに笑った。
マカロンが手を伸ばす。
シルバーも、自分の手を重ねる。
アバターよりも。
少し冷たい。
力も弱い。
けれど。
現実の手だった。
「会えた」
マカロンが言う。
「うん」
「本当に会えた」
目元へ涙が浮かぶ。
今度は。
バーチャル世界の表現ではない。
シルバーの目にも。
同じように涙が滲んだ。
車椅子があるため。
以前のように勢いよく抱きつくことはできない。
二人は少しずつ身体を寄せ。
手を握ったまま、肩を触れ合わせた。
「おかえり、ティー」
マカロンの声が近くで聞こえる。
「ただいま」
シルバーは答えた。
「おかえり、マカロン」
「ただいま」
二人は、そのまましばらく動かなかった。
庭園の上には。
現実の空が広がっていた。
青一色ではない。
薄い雲が流れ。
太陽の光が、時々隠れる。
風が吹けば、木の葉が揺れる。
完成された景色ではない。
それでも。
二人が同じ場所で見上げている空だった。
「次は」
マカロンが言った。
「現実のお店で、色違いのものを買おうね」
「うん」
「私、まだ一人では遠くまで行けないけど」
「私も」
「じゃあ、二人で少しずつ行こう」
「うん」
走ることはできない。
今は。
それでも。
進むことはできる。
二人は並んで。
庭園の小道を、ゆっくりと動き始めた。
シルバー・T・ティー
通常接続の許可が出たのは。
現実で会ってから、さらに少し後だった。
最初は短時間。
身体の状態を確認しながら。
問題がなければ、少しずつ接続時間を延ばしていく。
シルバーは、医療用のコネクションシートへ身体を預けた。
以前とは違う。
現実へ戻れないまま、接続を維持されるのではない。
終了したい時には。
自分で帰還できる。
その確認だけで。
呼吸が少し楽になった。
「準備はできましたか」
先生が尋ねる。
「はい」
「体調へ変化があれば、すぐに終了してください」
「わかりました」
目を閉じる。
接続。
白い光。
次に目を開いた時。
目の前には、見慣れた部屋があった。
住宅区N-07。
机。
青いカップ。
灰色のノート。
写真。
自分で選んだ服。
何一つ、失われていない。
シルバーは、ゆっくり立ち上がった。
身体が軽い。
脚へ力を入れる。
立てる。
一歩。
二歩。
現実で、何度も練習している動作。
ここでは。
思った瞬間に身体が応えてくれる。
シルバーは頭へ手を伸ばした。
銀色の猫耳。
指が触れると、ぴくりと動いた。
「戻った」
窓ガラスへ、自分の姿が映る。
銀色の髪。
青い瞳。
猫耳。
青灰色のジャケット。
青いチャーム。
表示名だけが。
以前のTから、更新待ちになっていた。
<REAL NAME LINK:SILVER>
<DISPLAY NAME:T>
<UPDATE?>
シルバーは少し考えた。
現実の名前は、シルバー。
病院で与えられた識別名は、T。
その一文字を。
ティーと読んだのは、自分だった。
どれか一つを消す必要はない。
入力欄を開く。
<シルバー・T・ティー>
確定。
<DISPLAY NAME UPDATED>
鏡の中の自分の上へ。
新しい名前が表示された。
シルバー・T・ティー。
現実の名前。
与えられた名前。
自分で選んだ呼び名。
そのすべてを残した名前だった。
連絡が届く。
マカロン。
<着いたよ!>
ティーは部屋を飛び出した。
廊下。
階段。
住宅区の道。
足が前へ出る。
風が銀色の髪を揺らす。
猫耳へ。
街の音が一斉に届いた。
現実では。
まだ走れない。
けれど。
ここでは走れる。
だからといって。
現実の身体が嫌になったわけではない。
どちらも自分だと知っている。
その上で。
今は、この身体で走る。
道の向こうから。
マカロンが走ってきた。
いつものアバター。
新しく買った服。
桃色のチャーム。
「ティー!」
「マカロン」
二人は道の中央で止まった。
止まる必要はなかった。
そのまま通り過ぎても、すぐに追いつける。
それでも。
一度。
互いの姿を確かめたかった。
「表示名、変わってる」
マカロンが、ティーの名前を見る。
「シルバー・T・ティー」
「長くなった」
「全部、残したかったから」
マカロンは、嬉しそうに笑った。
「私は、ティーって呼ぶね」
「うん」
「走れる?」
ティーは答える代わりに。
一歩、前へ出た。
マカロンも並ぶ。
二人で。
カフェのんびりひっそりへ向かって走り始めた。
現実で会ってから、さらに少し後だった。
最初は短時間。
身体の状態を確認しながら。
問題がなければ、少しずつ接続時間を延ばしていく。
シルバーは、医療用のコネクションシートへ身体を預けた。
以前とは違う。
現実へ戻れないまま、接続を維持されるのではない。
終了したい時には。
自分で帰還できる。
その確認だけで。
呼吸が少し楽になった。
「準備はできましたか」
先生が尋ねる。
「はい」
「体調へ変化があれば、すぐに終了してください」
「わかりました」
目を閉じる。
接続。
白い光。
次に目を開いた時。
目の前には、見慣れた部屋があった。
住宅区N-07。
机。
青いカップ。
灰色のノート。
写真。
自分で選んだ服。
何一つ、失われていない。
シルバーは、ゆっくり立ち上がった。
身体が軽い。
脚へ力を入れる。
立てる。
一歩。
二歩。
現実で、何度も練習している動作。
ここでは。
思った瞬間に身体が応えてくれる。
シルバーは頭へ手を伸ばした。
銀色の猫耳。
指が触れると、ぴくりと動いた。
「戻った」
窓ガラスへ、自分の姿が映る。
銀色の髪。
青い瞳。
猫耳。
青灰色のジャケット。
青いチャーム。
表示名だけが。
以前のTから、更新待ちになっていた。
<REAL NAME LINK:SILVER>
<DISPLAY NAME:T>
<UPDATE?>
シルバーは少し考えた。
現実の名前は、シルバー。
病院で与えられた識別名は、T。
その一文字を。
ティーと読んだのは、自分だった。
どれか一つを消す必要はない。
入力欄を開く。
<シルバー・T・ティー>
確定。
<DISPLAY NAME UPDATED>
鏡の中の自分の上へ。
新しい名前が表示された。
シルバー・T・ティー。
現実の名前。
与えられた名前。
自分で選んだ呼び名。
そのすべてを残した名前だった。
連絡が届く。
マカロン。
<着いたよ!>
ティーは部屋を飛び出した。
廊下。
階段。
住宅区の道。
足が前へ出る。
風が銀色の髪を揺らす。
猫耳へ。
街の音が一斉に届いた。
現実では。
まだ走れない。
けれど。
ここでは走れる。
だからといって。
現実の身体が嫌になったわけではない。
どちらも自分だと知っている。
その上で。
今は、この身体で走る。
道の向こうから。
マカロンが走ってきた。
いつものアバター。
新しく買った服。
桃色のチャーム。
「ティー!」
「マカロン」
二人は道の中央で止まった。
止まる必要はなかった。
そのまま通り過ぎても、すぐに追いつける。
それでも。
一度。
互いの姿を確かめたかった。
「表示名、変わってる」
マカロンが、ティーの名前を見る。
「シルバー・T・ティー」
「長くなった」
「全部、残したかったから」
マカロンは、嬉しそうに笑った。
「私は、ティーって呼ぶね」
「うん」
「走れる?」
ティーは答える代わりに。
一歩、前へ出た。
マカロンも並ぶ。
二人で。
カフェのんびりひっそりへ向かって走り始めた。
おかえり
カフェの前へ着く頃には。
二人とも笑っていた。
疲れてはいない。
息も切れていない。
それでも。
現実で車椅子を動かした時とは違う速さが。
ただ嬉しかった。
店の前では、マカロンが先に止まった。
「静かに入らないと」
「うん」
走ってきた勢いを抑え。
二人で扉を開く。
小さなベルの音。
「いらっしゃいませー」
チロルの声。
続いて。
二人の姿を見つけた瞬間。
その表情が柔らかく変わった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ティーが答える。
「ただいま!」
マカロンも続いた。
カウンターでは、コハクが軽く頭を下げている。
ノワールは、膝へ猫を乗せたまま二人を見た。
「……おかえり」
「うん。ただいま、ノワール」
灰色の猫が。
ティーの声へ反応した。
床を歩き。
迷わず足元へ来る。
新しい表示名も。
現実へ戻っていた時間も関係ない。
猫は一度、青灰色の靴へ身体を擦りつけ。
そのまま座った。
ティーはしゃがみ、背中を撫でる。
「覚えてた」
「猫は、名前表示だけで見ていませんから」
チロルが言った。
店の奥から。
椅子を引く音が聞こえた。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
ショコラ。
三人が、同じテーブルから立ち上がる。
待っていてくれたらしい。
チョコチップは。
二人の姿を見たまま、一瞬動かなかった。
それから。
ぱっと表情を明るくした。
「ティーさん。マカロンさん」
いつもの丁寧な声。
けれど。
喜びは隠れていなかった。
「本当に、戻ってきたんですね」
「うん」
ティーが頷く。
「戻ってきた」
チョコチップは二人の前へ来た。
少しだけ迷い。
ティーとマカロンの手を、順番に握った。
「よかったです」
余計な言葉はなかった。
それだけで。
待っていてくれたことが伝わった。
みたらしっぽも近づく。
「おかえり、二人とも」
「ただいま、みたらしっぽさん」
「ただいまです!」
ショコラは、少し離れた場所から二人の全身を見た。
「顔を見れば、問題なさそうだね」
「現実でも会えました」
マカロンが答える。
「二人とも車椅子だったけど、会えたんです」
「それはよかった」
ショコラは、静かに笑った。
「次は現実で買い物をする約束もしました」
「いいね。焦らずに行けばいいよ」
チロルが、四人分の席を整える。
ノワールは猫を少し横へ移し。
ティーとマカロンのために、ソファーを空けた。
「今日は」
マカロンが、楽しそうに店内を見る。
「何をしよう?」
みたらしっぽが答える。
「まずは、のんびりしたら?」
ショコラも頷く。
「戻った直後から予定を詰めなくていい」
ティーは、いつもの猫。
友人たち。
柔らかな店内の明かりを見る。
「うん」
今日は。
ここで過ごしたいと思った。
チョコチップが、二人の前へメニューを置く。
「新しいお菓子が増えていました。マカロンさんが好きそうなものもありますよ」
マカロンはすぐにメニューを開いた。
「これにします!」
「まだ一ページ目です」
「最初からおいしそうだったので」
チョコチップも笑った。
ティーは本日の紅茶と、ひっそり甘いチーズケーキを選ぶ。
誰かを追わない。
答えを探さない。
ただ。
猫を撫で。
飲み物を飲み。
友人の話を聞く。
そんな時間が。
以前よりも大切に感じられた。
二人とも笑っていた。
疲れてはいない。
息も切れていない。
それでも。
現実で車椅子を動かした時とは違う速さが。
ただ嬉しかった。
店の前では、マカロンが先に止まった。
「静かに入らないと」
「うん」
走ってきた勢いを抑え。
二人で扉を開く。
小さなベルの音。
「いらっしゃいませー」
チロルの声。
続いて。
二人の姿を見つけた瞬間。
その表情が柔らかく変わった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ティーが答える。
「ただいま!」
マカロンも続いた。
カウンターでは、コハクが軽く頭を下げている。
ノワールは、膝へ猫を乗せたまま二人を見た。
「……おかえり」
「うん。ただいま、ノワール」
灰色の猫が。
ティーの声へ反応した。
床を歩き。
迷わず足元へ来る。
新しい表示名も。
現実へ戻っていた時間も関係ない。
猫は一度、青灰色の靴へ身体を擦りつけ。
そのまま座った。
ティーはしゃがみ、背中を撫でる。
「覚えてた」
「猫は、名前表示だけで見ていませんから」
チロルが言った。
店の奥から。
椅子を引く音が聞こえた。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
ショコラ。
三人が、同じテーブルから立ち上がる。
待っていてくれたらしい。
チョコチップは。
二人の姿を見たまま、一瞬動かなかった。
それから。
ぱっと表情を明るくした。
「ティーさん。マカロンさん」
いつもの丁寧な声。
けれど。
喜びは隠れていなかった。
「本当に、戻ってきたんですね」
「うん」
ティーが頷く。
「戻ってきた」
チョコチップは二人の前へ来た。
少しだけ迷い。
ティーとマカロンの手を、順番に握った。
「よかったです」
余計な言葉はなかった。
それだけで。
待っていてくれたことが伝わった。
みたらしっぽも近づく。
「おかえり、二人とも」
「ただいま、みたらしっぽさん」
「ただいまです!」
ショコラは、少し離れた場所から二人の全身を見た。
「顔を見れば、問題なさそうだね」
「現実でも会えました」
マカロンが答える。
「二人とも車椅子だったけど、会えたんです」
「それはよかった」
ショコラは、静かに笑った。
「次は現実で買い物をする約束もしました」
「いいね。焦らずに行けばいいよ」
チロルが、四人分の席を整える。
ノワールは猫を少し横へ移し。
ティーとマカロンのために、ソファーを空けた。
「今日は」
マカロンが、楽しそうに店内を見る。
「何をしよう?」
みたらしっぽが答える。
「まずは、のんびりしたら?」
ショコラも頷く。
「戻った直後から予定を詰めなくていい」
ティーは、いつもの猫。
友人たち。
柔らかな店内の明かりを見る。
「うん」
今日は。
ここで過ごしたいと思った。
チョコチップが、二人の前へメニューを置く。
「新しいお菓子が増えていました。マカロンさんが好きそうなものもありますよ」
マカロンはすぐにメニューを開いた。
「これにします!」
「まだ一ページ目です」
「最初からおいしそうだったので」
チョコチップも笑った。
ティーは本日の紅茶と、ひっそり甘いチーズケーキを選ぶ。
誰かを追わない。
答えを探さない。
ただ。
猫を撫で。
飲み物を飲み。
友人の話を聞く。
そんな時間が。
以前よりも大切に感じられた。
走って、のんびりして
日が暮れるまで。
二人はカフェで過ごした。
みたらしっぽとチョコチップから、学校の話を聞く。
次に青い花のフィールドへ行く日を決める。
マカロンは、現実で見つけた菓子の話をする。
ティーは。
本当の名前がシルバーだったことを伝えた。
「では、シルバーさんとお呼びした方がよいですか?」
チョコチップが尋ねる。
「ティーでいい」
「わかりました」
チョコチップは、すぐに受け入れた。
「では、これからもティーさんですね」
みたらしっぽも頷く。
「名前が増えても、ティーはティーだね」
その言葉を聞き。
ティーの猫耳が、少しだけ前を向いた。
夕方。
四人でカフェを出た。
マカロンが、道の先を見る。
「ミッドレッドまで、走る?」
「途中から歩こう」
「最初は走っていい?」
「うん」
二人は、みたらしっぽとチョコチップより少し先へ出た。
道を走る。
曲がり角。
小さな橋。
商業区へ続く通り。
身体が思ったとおりに動く。
そのあと。
約束どおり速度を落とした。
後ろから歩いてきた二人と合流し。
四人で街を歩く。
走ることもできる。
ゆっくり歩くこともできる。
どちらも選べる。
夜。
ミッドレッドの赤い扉を開く。
メーアとシエルが、カウンターの向こうから顔を上げた。
二人の姿を見つける。
「おかえり」
メーアの声。
シエルも。
穏やかに続ける。
「待ってたよ」
「ただいま」
ティーが言う。
マカロンも、隣で笑った。
「ただいま!」
いつもの席。
淡い紫色の飲み物。
甘い桃色の飲み物。
少し遅れて。
ショコラとチロルも店へ来た。
みたらしっぽとチョコチップは、アルコールの入っていない飲み物を選ぶ。
メーア。
シエル。
ショコラ。
チロル。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
マカロン。
ティー。
全員が同じ店に集まった。
特別な催しはない。
大きな乾杯も。
長い挨拶もなかった。
ただ。
いなくなっていた二人が戻り。
いつもの席へ座っている。
それだけでよかった。
ティーは、飲み物を手に店内を見回した。
現実へ戻ったあと。
バーチャル世界へ来る意味がなくなるのではないかと思ったこともある。
けれど。
現実とは違う身体で走れることだけが、ここへ来る理由ではなかった。
この店がある。
カフェがある。
友人がいる。
のんびりと話せる時間がある。
楽しいと思える場所がある。
バーチャル世界は。
現実から逃げるための場所ではない。
現実へ戻った自分が。
また遊びに来られる場所だった。
二人はカフェで過ごした。
みたらしっぽとチョコチップから、学校の話を聞く。
次に青い花のフィールドへ行く日を決める。
マカロンは、現実で見つけた菓子の話をする。
ティーは。
本当の名前がシルバーだったことを伝えた。
「では、シルバーさんとお呼びした方がよいですか?」
チョコチップが尋ねる。
「ティーでいい」
「わかりました」
チョコチップは、すぐに受け入れた。
「では、これからもティーさんですね」
みたらしっぽも頷く。
「名前が増えても、ティーはティーだね」
その言葉を聞き。
ティーの猫耳が、少しだけ前を向いた。
夕方。
四人でカフェを出た。
マカロンが、道の先を見る。
「ミッドレッドまで、走る?」
「途中から歩こう」
「最初は走っていい?」
「うん」
二人は、みたらしっぽとチョコチップより少し先へ出た。
道を走る。
曲がり角。
小さな橋。
商業区へ続く通り。
身体が思ったとおりに動く。
そのあと。
約束どおり速度を落とした。
後ろから歩いてきた二人と合流し。
四人で街を歩く。
走ることもできる。
ゆっくり歩くこともできる。
どちらも選べる。
夜。
ミッドレッドの赤い扉を開く。
メーアとシエルが、カウンターの向こうから顔を上げた。
二人の姿を見つける。
「おかえり」
メーアの声。
シエルも。
穏やかに続ける。
「待ってたよ」
「ただいま」
ティーが言う。
マカロンも、隣で笑った。
「ただいま!」
いつもの席。
淡い紫色の飲み物。
甘い桃色の飲み物。
少し遅れて。
ショコラとチロルも店へ来た。
みたらしっぽとチョコチップは、アルコールの入っていない飲み物を選ぶ。
メーア。
シエル。
ショコラ。
チロル。
みたらしっぽ。
チョコチップ。
マカロン。
ティー。
全員が同じ店に集まった。
特別な催しはない。
大きな乾杯も。
長い挨拶もなかった。
ただ。
いなくなっていた二人が戻り。
いつもの席へ座っている。
それだけでよかった。
ティーは、飲み物を手に店内を見回した。
現実へ戻ったあと。
バーチャル世界へ来る意味がなくなるのではないかと思ったこともある。
けれど。
現実とは違う身体で走れることだけが、ここへ来る理由ではなかった。
この店がある。
カフェがある。
友人がいる。
のんびりと話せる時間がある。
楽しいと思える場所がある。
バーチャル世界は。
現実から逃げるための場所ではない。
現実へ戻った自分が。
また遊びに来られる場所だった。
仕事のない左手
通常接続を始めてから。
何日かが過ぎた。
シルバーは現実でリハビリを続けながら。
体調のよい日に、だんのこまちへ入った。
マカロンも同じだった。
昼間は。
青い花のフィールドへ弁当を持っていった。
みたらしっぽとチョコチップも加わり。
風車の近くで写真を撮った。
カフェでは。
猫を撫でた。
ノワールと静かに話し。
チロルが作った菓子を食べた。
夜には。
ミッドレッドへ行った。
何も話さず、ただ飲み物を飲んで帰った日もある。
それでも。
ティーは時々。
左手を前へ出しそうになった。
クライアントユニット。
青い基部。
白い立体キー。
けれど。
理定者としての権限は停止されている。
どれだけ指を動かしても。
端末は現れなかった。
最初は。
閉じ込められていることを示す枷だった。
任務を伝え。
拒否する選択肢もなく。
ティーを夜へ向かわせたもの。
今は。
なくなったはずなのに。
左手には、何かが足りないような感覚が残っていた。
ある夜。
ミッドレッドからの帰り道。
ティーとマカロンは、ゆっくり住宅区へ向かっていた。
「ティー」
マカロンが呼ぶ。
「何?」
「仕事、気になる?」
ティーは、すぐには答えなかった。
マカロンも。
自分の手元を見ている。
専用端末は、もう出ない。
「気になる」
ティーは正直に言った。
「私も」
「戻りたいから?」
「現実へ?」
「理定者へ」
マカロンは少し考えた。
「前と同じ形なら、嫌」
「うん」
「何も教えられないで。断れなくて。次の仕事を待つだけなのは嫌」
ティーも頷いた。
あの頃へ戻りたいわけではない。
「でも」
マカロンは続ける。
「帰れなくなった人がいたら、助けたい」
BlackMETROに閉じ込められた六十三人。
座標ループの中を歩き続けていた七人。
初めての夜に。
ティーへ、ありがとうと言った女性。
「私も」
ティーは言った。
「ボルビーノも、まだいる」
「MOORISも」
BlackMETROの線は。
一つ切っただけだった。
世界の裏側には。
まだ見えていない場所がある。
「仕事がないから暇、っていうだけじゃない」
マカロンが言う。
「うん」
「でも、何もしないで次の日を待ってるだけだった頃にも戻りたくない」
「それも、わかる」
ティーは空を見る。
バーチャル世界の夜空。
きれいに整えられた星。
「のんびりするのは、好き」
「私も」
「何もしない時間も、必要」
「うん」
「でも」
ティーはマカロンを見る。
「自分で動けるのに。助けられる人がいるのに。ずっと何もしないままではいたくない」
マカロンの表情が明るくなる。
「じゃあ」
「理定者の仕事を、続けたい」
今度は。
先生が決めたからではない。
治療のためでもない。
ティー自身が選んだ答えだった。
マカロンが、すぐに頷く。
「私も」
二人は住宅区の分かれ道で立ち止まった。
以前。
ここで現実へ帰る約束をした。
今は。
もう一つの約束が生まれようとしている。
「先生に話そう」
ティーが言う。
「二人で?」
「うん」
「一人だと止められそうだから?」
「二人でも止められるかもしれない」
「でも、二人の方がちゃんと話せる」
「うん」
二人は。
翌日の診察後に、担当医へ相談することを決めた。
何日かが過ぎた。
シルバーは現実でリハビリを続けながら。
体調のよい日に、だんのこまちへ入った。
マカロンも同じだった。
昼間は。
青い花のフィールドへ弁当を持っていった。
みたらしっぽとチョコチップも加わり。
風車の近くで写真を撮った。
カフェでは。
猫を撫でた。
ノワールと静かに話し。
チロルが作った菓子を食べた。
夜には。
ミッドレッドへ行った。
何も話さず、ただ飲み物を飲んで帰った日もある。
それでも。
ティーは時々。
左手を前へ出しそうになった。
クライアントユニット。
青い基部。
白い立体キー。
けれど。
理定者としての権限は停止されている。
どれだけ指を動かしても。
端末は現れなかった。
最初は。
閉じ込められていることを示す枷だった。
任務を伝え。
拒否する選択肢もなく。
ティーを夜へ向かわせたもの。
今は。
なくなったはずなのに。
左手には、何かが足りないような感覚が残っていた。
ある夜。
ミッドレッドからの帰り道。
ティーとマカロンは、ゆっくり住宅区へ向かっていた。
「ティー」
マカロンが呼ぶ。
「何?」
「仕事、気になる?」
ティーは、すぐには答えなかった。
マカロンも。
自分の手元を見ている。
専用端末は、もう出ない。
「気になる」
ティーは正直に言った。
「私も」
「戻りたいから?」
「現実へ?」
「理定者へ」
マカロンは少し考えた。
「前と同じ形なら、嫌」
「うん」
「何も教えられないで。断れなくて。次の仕事を待つだけなのは嫌」
ティーも頷いた。
あの頃へ戻りたいわけではない。
「でも」
マカロンは続ける。
「帰れなくなった人がいたら、助けたい」
BlackMETROに閉じ込められた六十三人。
座標ループの中を歩き続けていた七人。
初めての夜に。
ティーへ、ありがとうと言った女性。
「私も」
ティーは言った。
「ボルビーノも、まだいる」
「MOORISも」
BlackMETROの線は。
一つ切っただけだった。
世界の裏側には。
まだ見えていない場所がある。
「仕事がないから暇、っていうだけじゃない」
マカロンが言う。
「うん」
「でも、何もしないで次の日を待ってるだけだった頃にも戻りたくない」
「それも、わかる」
ティーは空を見る。
バーチャル世界の夜空。
きれいに整えられた星。
「のんびりするのは、好き」
「私も」
「何もしない時間も、必要」
「うん」
「でも」
ティーはマカロンを見る。
「自分で動けるのに。助けられる人がいるのに。ずっと何もしないままではいたくない」
マカロンの表情が明るくなる。
「じゃあ」
「理定者の仕事を、続けたい」
今度は。
先生が決めたからではない。
治療のためでもない。
ティー自身が選んだ答えだった。
マカロンが、すぐに頷く。
「私も」
二人は住宅区の分かれ道で立ち止まった。
以前。
ここで現実へ帰る約束をした。
今は。
もう一つの約束が生まれようとしている。
「先生に話そう」
ティーが言う。
「二人で?」
「うん」
「一人だと止められそうだから?」
「二人でも止められるかもしれない」
「でも、二人の方がちゃんと話せる」
「うん」
二人は。
翌日の診察後に、担当医へ相談することを決めた。
今度は自分で
現実側の診察室。
シルバーは車椅子へ座っていた。
向かいには。
治療を担当してきた先生。
壁面の画面には。
別の病院から参加しているマカロンと、その担当医が映っている。
マカロンも車椅子だった。
画面越しに目が合うと。
小さく手を上げる。
先生は、二人から届いた希望内容を確認していた。
「理定者としての業務を、継続したい」
低い声で、もう一度読み上げる。
「はい」
シルバーは答えた。
画面の向こうで。
マカロンも頷く。
「私もです」
先生は、すぐには承認しなかった。
「理定者として与えていた役割は、治療の一環でした」
「わかっています」
「現在、その治療期間は終了しています。仕事をする必要はありません」
「必要だからではなく」
シルバーは、ゆっくり言葉を選んだ。
「続けたいんです」
先生がシルバーを見る。
「理由を聞いても?」
「帰れない人を、帰せるから」
シルバーは答えた。
「最初は、何も知らないまま働かされました。クライアントユニットも、私をここへ縛るものだと思っていました」
左手を見る。
今は。
何も現れない。
「でも、使い方を覚えました。助けられた人もいます」
「危険な任務もありました」
「はい」
「現実側の治療へ影響がなくても、精神的な負担は残ります」
「それも、わかっています」
簡単な仕事ではない。
撃つこと。
撃たれること。
判断を間違える可能性。
ティーは、すべてを知ったわけではない。
それでも。
何も知らなかった最初の夜とは違う。
「断れるようにしてください」
シルバーは言った。
「体調が悪い時。怖くて動けない時。自分には判断できない時。そういう時には断りたいです」
先生は、少しだけ目を細めた。
「以前とは違う条件で、ということですね」
「はい」
画面の向こうで。
マカロンも口を開いた。
「リハビリをやめるつもりはありません」
いつもの明るさはある。
けれど。
声は真剣だった。
「現実でも、できることを増やしたいです。ティーにも会いたいし、買い物にも行きたいです」
少し息を整える。
「その上で、バーチャル世界でも動きたいです」
「何もせずに過ごすことが悪いわけではありません」
マカロンの担当医が言った。
「はい」
「休息も必要です」
「わかっています」
マカロンは、まっすぐ画面を見る。
「でも私は、何も選ばずに次の指示だけを待っていた頃へ戻りたくないです」
花畑へ行く。
友人へ会う。
リハビリをする。
仕事をする。
休む。
そのすべてを。
今度は自分で選びたい。
二人の医師は。
しばらく資料を確認していた。
やがて。
シルバーの先生が言う。
「治療終了後も、本人の希望と適性審査によって、理定者としての登録を継続する制度はあります」
マカロンの顔が、少し明るくなる。
「ただし、条件があります」
現実側の治療とリハビリを最優先すること。
医師が設定した接続時間を超えないこと。
高危険度の任務は、状態を確認しながら段階的に許可すること。
任務は、すべて受諾前に内容を確認できる。
拒否しても、接続やアカウントへ制限は加えられない。
いつでも継続登録を終了できる。
「仕事を断っても」
シルバーは確認した。
「現実へ戻れなくなることはない?」
「ありません」
「アカウントも?」
「維持されます」
以前とは違う。
仕事は。
出口を閉ざす条件ではない。
自分で選ぶものになる。
「それなら」
シルバーは答えた。
「お願いします」
マカロンも笑った。
「私も!」
先生は、最後の登録項目を開いた。
「継続登録に使用する名前を確認します」
シルバーの前へ、入力画面が表示される。
<LEGAL NAME:SILVER>
<FORMER CLIENT ID:T>
<CURRENT DISPLAY NAME:シルバー・T・ティー>
「この名前でよいですか」
「はい」
シルバーは迷わなかった。
「全部、私の名前です」
先生は頷いた。
<CONTINUED ROLE REGISTRATION>
<SILVER・T・TEA>
<KORMELIE MACARON>
<STATUS:APPROVED>
二人の登録が。
同時に承認された。
シルバーは車椅子へ座っていた。
向かいには。
治療を担当してきた先生。
壁面の画面には。
別の病院から参加しているマカロンと、その担当医が映っている。
マカロンも車椅子だった。
画面越しに目が合うと。
小さく手を上げる。
先生は、二人から届いた希望内容を確認していた。
「理定者としての業務を、継続したい」
低い声で、もう一度読み上げる。
「はい」
シルバーは答えた。
画面の向こうで。
マカロンも頷く。
「私もです」
先生は、すぐには承認しなかった。
「理定者として与えていた役割は、治療の一環でした」
「わかっています」
「現在、その治療期間は終了しています。仕事をする必要はありません」
「必要だからではなく」
シルバーは、ゆっくり言葉を選んだ。
「続けたいんです」
先生がシルバーを見る。
「理由を聞いても?」
「帰れない人を、帰せるから」
シルバーは答えた。
「最初は、何も知らないまま働かされました。クライアントユニットも、私をここへ縛るものだと思っていました」
左手を見る。
今は。
何も現れない。
「でも、使い方を覚えました。助けられた人もいます」
「危険な任務もありました」
「はい」
「現実側の治療へ影響がなくても、精神的な負担は残ります」
「それも、わかっています」
簡単な仕事ではない。
撃つこと。
撃たれること。
判断を間違える可能性。
ティーは、すべてを知ったわけではない。
それでも。
何も知らなかった最初の夜とは違う。
「断れるようにしてください」
シルバーは言った。
「体調が悪い時。怖くて動けない時。自分には判断できない時。そういう時には断りたいです」
先生は、少しだけ目を細めた。
「以前とは違う条件で、ということですね」
「はい」
画面の向こうで。
マカロンも口を開いた。
「リハビリをやめるつもりはありません」
いつもの明るさはある。
けれど。
声は真剣だった。
「現実でも、できることを増やしたいです。ティーにも会いたいし、買い物にも行きたいです」
少し息を整える。
「その上で、バーチャル世界でも動きたいです」
「何もせずに過ごすことが悪いわけではありません」
マカロンの担当医が言った。
「はい」
「休息も必要です」
「わかっています」
マカロンは、まっすぐ画面を見る。
「でも私は、何も選ばずに次の指示だけを待っていた頃へ戻りたくないです」
花畑へ行く。
友人へ会う。
リハビリをする。
仕事をする。
休む。
そのすべてを。
今度は自分で選びたい。
二人の医師は。
しばらく資料を確認していた。
やがて。
シルバーの先生が言う。
「治療終了後も、本人の希望と適性審査によって、理定者としての登録を継続する制度はあります」
マカロンの顔が、少し明るくなる。
「ただし、条件があります」
現実側の治療とリハビリを最優先すること。
医師が設定した接続時間を超えないこと。
高危険度の任務は、状態を確認しながら段階的に許可すること。
任務は、すべて受諾前に内容を確認できる。
拒否しても、接続やアカウントへ制限は加えられない。
いつでも継続登録を終了できる。
「仕事を断っても」
シルバーは確認した。
「現実へ戻れなくなることはない?」
「ありません」
「アカウントも?」
「維持されます」
以前とは違う。
仕事は。
出口を閉ざす条件ではない。
自分で選ぶものになる。
「それなら」
シルバーは答えた。
「お願いします」
マカロンも笑った。
「私も!」
先生は、最後の登録項目を開いた。
「継続登録に使用する名前を確認します」
シルバーの前へ、入力画面が表示される。
<LEGAL NAME:SILVER>
<FORMER CLIENT ID:T>
<CURRENT DISPLAY NAME:シルバー・T・ティー>
「この名前でよいですか」
「はい」
シルバーは迷わなかった。
「全部、私の名前です」
先生は頷いた。
<CONTINUED ROLE REGISTRATION>
<SILVER・T・TEA>
<KORMELIE MACARON>
<STATUS:APPROVED>
二人の登録が。
同時に承認された。
選べる夜
数日後。
ミッドレッド。
ティーとマカロンは、いつもの席へ並んで座っていた。
淡い紫色。
甘い桃色。
メーアとシエルは。
二人が理定者の仕事を続けることを、詳しくは知らない。
ただ。
夜の仕事へ戻ることだけは伝えていた。
「無理はしないでね」
メーアが言った。
「うん」
「今度は、休みたい時には休めるから」
ティーが答える。
シエルも、二人のグラスへ水を添えた。
「帰ってこられる時に、帰ってきて」
「はい」
マカロンが笑う。
店内には。
いつもの静かな音楽。
何人かの常連客。
暖かな明かり。
ティーは紫色の飲み物を一口飲んだ。
のんびりと過ごす時間。
それも。
自分で選んだ大切な時間だった。
その時。
左手へ、短い振動が届いた。
懐かしい。
けれど。
以前とは少し違う通知。
ティーとマカロンは、同時に手元を見る。
<VOLUNTARY ASSIGNMENT>
<AREA:ブロックNo.1・北部住宅区>
<CATEGORY:ILLEGAL SESSION RESTRAINT>
<CIVILIAN USERS:3>
<RISK LEVEL:LOW>
その下に。
二つの選択肢が表示されている。
<ACCEPT>
<DECLINE>
ティーは、その二つを見つめた。
以前には。
なかった選択肢。
マカロンも。
同じ表示を見ている。
「行く?」
マカロンが尋ねる。
ティーは任務内容を確認した。
三人の利用者が。
不正な個人空間へ閉じ込められている。
武装反応はない。
座標拘束の解除が主な任務。
「うん」
ティーは答えた。
「行こう」
二人が同時に受諾する。
<ASSIGNMENT ACCEPTED>
ティーは左手を前へ出した。
青白い光。
透き通った基部。
白い立体キー。
クライアントユニットが。
再び目の前へ形成された。
今度は。
彼女を縛る枷ではない。
自分で呼び戻した仕事の道具だった。
<USER:SILVER・T・TEA>
マカロンの専用端末も光る。
二人の瞳が。
青と赤みを帯びた色から。
ゆっくりと黄色へ変わっていく。
ティーは席から立った。
「行ってきます」
マカロンも続く。
「行ってきます!」
メーアが笑顔で手を上げる。
「いってらっしゃい」
シエルも。
静かに二人を見送った。
「気をつけて」
赤い扉を開く。
夜のだんのこまち。
無数の明かり。
笑い声。
その裏側に。
助けを待っている人がいる。
ティーとマカロンは。
並んで夜の街へ踏み出した。
少し先で。
マカロンが走り始める。
ティーも、その隣へ並ぶ。
二人の足音が。
夜の道を駆けていった。
誰かから与えられた人生ではなく。
自分たちで選んだ次の時間へ。
ミッドレッド。
ティーとマカロンは、いつもの席へ並んで座っていた。
淡い紫色。
甘い桃色。
メーアとシエルは。
二人が理定者の仕事を続けることを、詳しくは知らない。
ただ。
夜の仕事へ戻ることだけは伝えていた。
「無理はしないでね」
メーアが言った。
「うん」
「今度は、休みたい時には休めるから」
ティーが答える。
シエルも、二人のグラスへ水を添えた。
「帰ってこられる時に、帰ってきて」
「はい」
マカロンが笑う。
店内には。
いつもの静かな音楽。
何人かの常連客。
暖かな明かり。
ティーは紫色の飲み物を一口飲んだ。
のんびりと過ごす時間。
それも。
自分で選んだ大切な時間だった。
その時。
左手へ、短い振動が届いた。
懐かしい。
けれど。
以前とは少し違う通知。
ティーとマカロンは、同時に手元を見る。
<VOLUNTARY ASSIGNMENT>
<AREA:ブロックNo.1・北部住宅区>
<CATEGORY:ILLEGAL SESSION RESTRAINT>
<CIVILIAN USERS:3>
<RISK LEVEL:LOW>
その下に。
二つの選択肢が表示されている。
<ACCEPT>
<DECLINE>
ティーは、その二つを見つめた。
以前には。
なかった選択肢。
マカロンも。
同じ表示を見ている。
「行く?」
マカロンが尋ねる。
ティーは任務内容を確認した。
三人の利用者が。
不正な個人空間へ閉じ込められている。
武装反応はない。
座標拘束の解除が主な任務。
「うん」
ティーは答えた。
「行こう」
二人が同時に受諾する。
<ASSIGNMENT ACCEPTED>
ティーは左手を前へ出した。
青白い光。
透き通った基部。
白い立体キー。
クライアントユニットが。
再び目の前へ形成された。
今度は。
彼女を縛る枷ではない。
自分で呼び戻した仕事の道具だった。
<USER:SILVER・T・TEA>
マカロンの専用端末も光る。
二人の瞳が。
青と赤みを帯びた色から。
ゆっくりと黄色へ変わっていく。
ティーは席から立った。
「行ってきます」
マカロンも続く。
「行ってきます!」
メーアが笑顔で手を上げる。
「いってらっしゃい」
シエルも。
静かに二人を見送った。
「気をつけて」
赤い扉を開く。
夜のだんのこまち。
無数の明かり。
笑い声。
その裏側に。
助けを待っている人がいる。
ティーとマカロンは。
並んで夜の街へ踏み出した。
少し先で。
マカロンが走り始める。
ティーも、その隣へ並ぶ。
二人の足音が。
夜の道を駆けていった。
誰かから与えられた人生ではなく。
自分たちで選んだ次の時間へ。
その後――海の向こう
同じ頃。
Frontier of Fortune。
王都に建つ、ギルド団ノ子のギルドハウス。
大きなテーブルの上へ。
一枚の地図が広げられていた。
これまで。
海だけが描かれていた端。
開拓情報の更新によって。
新しい陸地の輪郭が、薄く浮かび上がっている。
まだ。
地名はない。
内部の地形も。
生息する魔物も。
どのような町があるのかも、表示されていない。
ただ。
王都から伸びる一本の航路だけが。
海の向こうへ続いていた。
<新規開拓航路が確認されました>
<未踏領域への渡航条件が、一部開示されます>
みたらしっぽは。
テーブルへ両手をつき。
地図の向こう側を見ていた。
その隣には、チョコチップ。
少し離れたところへ。
シュガーシロップ。
マリーシュトレン。
フィリスフィナンシェ。
フェタシェール。
ガトーショコラ。
スフレ。
エクレアマルテール。
フォンダンアイリス。
そのほかのギルドメンバーも、次々に集まっている。
「かなり広そうだな」
誰かが言った。
「普通のフィールドだけではなさそうです」
別の声。
地図の奥。
新しい大地の中央には。
まだ名前の表示されていない、大きな印が一つあった。
ダンジョンとも。
町とも違う。
複数のパーティーによる攻略を示す、巨大な紋章。
マルチパーティーレイド。
その可能性を示す印だった。
チョコチップは。
地図を見つめたまま、先輩へ尋ねる。
「先輩。行くんですよね」
みたらしっぽは頷いた。
「うん」
迷いはなかった。
海の向こう。
まだ誰も知らない場所。
ほかの大規模ギルドも。
すでに同じ地図を見ているはずだった。
開拓が進めば。
新たな敵。
新たな装備。
そして。
これまで以上の戦果を得る機会が現れる。
みたらしっぽは。
未踏の大地へ、指を置いた。
「次は」
ギルドメンバーを見回す。
「団ノ子で、ここへ行こう」
地図の上で。
白紙だった大地へ。
最初の航路が引かれた。
そして。
誰も名前を知らない巨大な紋章が。
一度だけ、赤く光った。
Frontier of Fortune。
王都に建つ、ギルド団ノ子のギルドハウス。
大きなテーブルの上へ。
一枚の地図が広げられていた。
これまで。
海だけが描かれていた端。
開拓情報の更新によって。
新しい陸地の輪郭が、薄く浮かび上がっている。
まだ。
地名はない。
内部の地形も。
生息する魔物も。
どのような町があるのかも、表示されていない。
ただ。
王都から伸びる一本の航路だけが。
海の向こうへ続いていた。
<新規開拓航路が確認されました>
<未踏領域への渡航条件が、一部開示されます>
みたらしっぽは。
テーブルへ両手をつき。
地図の向こう側を見ていた。
その隣には、チョコチップ。
少し離れたところへ。
シュガーシロップ。
マリーシュトレン。
フィリスフィナンシェ。
フェタシェール。
ガトーショコラ。
スフレ。
エクレアマルテール。
フォンダンアイリス。
そのほかのギルドメンバーも、次々に集まっている。
「かなり広そうだな」
誰かが言った。
「普通のフィールドだけではなさそうです」
別の声。
地図の奥。
新しい大地の中央には。
まだ名前の表示されていない、大きな印が一つあった。
ダンジョンとも。
町とも違う。
複数のパーティーによる攻略を示す、巨大な紋章。
マルチパーティーレイド。
その可能性を示す印だった。
チョコチップは。
地図を見つめたまま、先輩へ尋ねる。
「先輩。行くんですよね」
みたらしっぽは頷いた。
「うん」
迷いはなかった。
海の向こう。
まだ誰も知らない場所。
ほかの大規模ギルドも。
すでに同じ地図を見ているはずだった。
開拓が進めば。
新たな敵。
新たな装備。
そして。
これまで以上の戦果を得る機会が現れる。
みたらしっぽは。
未踏の大地へ、指を置いた。
「次は」
ギルドメンバーを見回す。
「団ノ子で、ここへ行こう」
地図の上で。
白紙だった大地へ。
最初の航路が引かれた。
そして。
誰も名前を知らない巨大な紋章が。
一度だけ、赤く光った。